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2012年4月12日 (木)

先進システム?鎌倉幕府の合議制

 

建久十年(正治元年・1199年)4月12日、源頼朝死後の鎌倉幕府が、幕政を将軍・頼家に任せず、北條時政ら13人衆の合議裁決に委ねる事としました。

・・・・・・・・

建久十年(1199年)の正月13日、鎌倉に幕府を開いた源頼朝が亡くなりました(12月27日参照>>)

一般的には、前年の暮れに落馬したのが原因・・・とされますが、様々な憶測が飛ぶ事でもお解りのように、思いもよらぬ急な死であった事は確かでしょう。

Minamotonoyoriie600 この時、そんな頼朝と妻・北条政子の間には、兄の頼家(よりいえ)と弟の千幡(せんまん=後の実朝)という二人の息子がいたわけですが、弟の千幡は未だ8歳なので、何の問題も無く、2代将軍には兄の頼家がつく事になりますが、
この頼家も、なんだかんだでまだ18歳・・・

そこに、父・頼朝のような政治を求める事が不可能なのは、誰しもが思うところ・・・

そこで建久十年(正治元年・1199年)4月12日、妻・政子とその父・北条時政は、頼家の訴訟親裁権を停止して、幕府内の有力御家人13人による合議制によって政治を取り行う事としたのです。

その13人とは・・・
足立遠元(あだちとおもと)
安達盛長(あだちもりなが)
大江広元(おおえのひろもと)
梶原景時(かじわらかげとき)
中原親能(なかはらのちかよし)
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)
八田知家(はったともいえ)
比企能員(ひきよしかず)
北条時政(ほうじょうときまさ)
北条義時(ほうじょうよしとき=政子の弟)
三浦義澄(みうらよしずみ)
三善康信(みよしのやすのぶ)
和田義盛(わだよしもり)
の13人です。

上下関係の厳しい封建的イメージの強い武家社会での合議制・・・うまく行けば、先進的かつ画期的なシステムだったわけですが、そうは問屋が卸さない・・・

そもそも、この合議制を採用したのも、上記の通り、未だ18歳だった頼家が、何とも頼りない、独断専行型の愚将であったために御家人たちからの信頼なかったから・・・なんて言われます。

頼家を愚将とみる人が、よく例に出すのが、この8月に起こった「奥さん横取り事件」・・・

頼家が、上記の13人の中の1人である安達盛長の息子の景盛(かげもり)の奥さんを好きになり、その景盛の出張中に奥さんを取っちゃったという話・・・

なんせ、父の死&将軍就任から、まだ半年ほどしか経ってない時ですからね~

しかも、その事に憤慨した景盛が猛抗議をすると、逆に景盛を処罰するよう命じたのですから・・・

寸前のところで母の政子が立ちはだかり
「景盛を処罰するなら、私を斬ってからにしなさい!」
とタンカを切った事から、頼家が諦めて事無きを得ますが・・・

部下にしてみれば、将軍の命令は絶対なわけで、誰も止められませんわな。

この事件から
「将軍の暴走をとめられるのは母だけ」
ってイメージがついちゃって、政子はどんどん尼将軍の道(7月11日参照>>)に進んで行くわけですが・・・

でも、この事件って、よく見れば、合議制が決定された後の事・・・

一説によれば、家は、政治を思うように出来ないイラ立ちから、ストレスが溜まりまくって、今で言うところの心身症か、自律神経失調症のようなものにかかってしまったと言われていますが、それは、まさに、合議制が原因って事になりますよね?

父の死を受けて、張り切って将軍職を継いだものの、何もしないうちから
「お前は若い」
「まだ、できない」のと言われて、カヤの外に置かれたんじゃ、頑張ろうと思ったって頑張れるものじゃないですからね。

この横恋慕事件だって、そのストレスのはけ口って事もあるわけで、この事件を以って愚将と決めつける事はできないような気がします。

ただ、確かに、(あんなカリスマな父と比べられてもお気の毒ですが)父と比べると劣る所があった事も確かです。

頼朝は、自分の地位を脅かしそうな大豪族をあの手この手で排除して、代わりに小豪族を取りたてる事で御家人たちのレベルを平均化させる手法をとってましたが、頼家もこれにならって、
「五百町を越える領地を持つ者からは、その越えたぶんを没収し、それを五百町に満たない小豪族に分配する」
という、平均化政策を打ち出しますが、

当然の事ながら、領地を減らされる大豪族からの猛反発を受けてあえなく撃沈・・・

実は、頼朝の場合は、得をする小豪族たちに、先に根回しして味方につけて置くという事をやっていた・・・人数的に、はるかに多い小豪族が賛成すれば、わずかの大豪族も、「仕方ない」となって、御家人の平均化となるわけですが、頼家は、その根回しをせずに、先に政策を打ち出しちゃったために、猛反発を喰らう事に・・・

・・・で、結局、それらこれらが重なって、御家人の平均化どころか、御家人同志の中で格差が生まれ、その力関係や上下関係が、よりいっそう、露わになってしまう・・・

御家人は幕府の中で、他者を蹴落として、より力を持つ事ばかりに走り、将軍はリーダシップを発揮する事無く、そんな有力御家人や外戚の動向に左右されるようになってしまうのです。

最初の犠牲者は、頼朝からの信頼が最も篤かった梶原景時・・・頼朝の死から1年も経たないうちに、それこそ、合議制の名のもとに排除され(1月20日参照>>)、次に、頼家の奥さんの実家だった比企能員も排除され(9月2日参照>>) ・・・

結局は、この比企能員の乱が頼家自身の命をも奪う事になってしまい(7月18日参照>>)、さらに、その恨みが、第3代将軍となった源実朝の暗殺へとつながる(1月27日参照>>)という事態になるのですから、いったい、この合議制とは何だったのか?

果たして、この先、頼朝の血をひく将軍がわずか3代で絶えてしまう事を、誰が予想できたでしょうか。

将軍のため、幕府のための合議制が・・・何とも皮肉な物です。
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コメント

家康さんのように隠居して、家督を二代目に譲っておけば良かったかも。

投稿: やぶひび | 2012年4月12日 (木) 19時58分

やぶひびさん、こんばんは~

じっくりと地盤を固めて、まだ元気なうちに譲る…
家康は歴史好きだったと言いますから、この合議制についても、自らの立場に置き換えて、いろいろ勉強していたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年4月12日 (木) 20時16分


司馬遼太郎さんは鎌倉武士を自立自尊・日本的な「公」の始まりだと賞賛しています。確かに歴史を前へと押し出した面はあるのですが、幕府の内奥のこのどうしようもない権力闘争の暗さは何でしょう。鎌倉時代って、けっこう滅入りますよね。

投稿: レッドバロン | 2012年4月13日 (金) 20時37分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですね…
なんだか重たい気分になります。

投稿: 茶々 | 2012年4月14日 (土) 03時47分

実は頼家も、ひいきしてるのでかわいそう...。

投稿: ゆうと | 2012年4月16日 (月) 17時39分

ゆうとさん、こんばんは~

頼家さんはお気の毒です。

投稿: 茶々 | 2012年4月16日 (月) 19時38分

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