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2012年5月31日 (木)

アンケート企画:「関ヶ原の戦い」に、持って行くとしたら?

さて、アンケート企画といきましょう!

・・・と考えているうちに、また、アホな事を妄想してしまいました(;´▽`A``

(難しい事は考えないで)
もし、慶長五年(1600年)9月15日タイムスリップするとして・・・

関ヶ原の戦いに持って行くとしたら・・・
いったい、
どんな物が1番、便利で役立つのだろう??
どれがオモシロイ事できるかな?

って事で、今回のテーマは完全なるお遊び企画・・・
「関ヶ原の戦いに、持って行くとしたら???」という事で、アンケート募集したいと思います。

ただし、無条件だとトンデモない事になりそうなので、勝手ながら、いくつか条件をつけさせていただきますね。

  • まず、持って行く物は1つだけ。
    …アレもコレはキリが無いので
  • 近所の店屋で簡単に手に入る物
    …ピストルやバズーカー砲は禁止、もちろん戦車やヘリも×
  • 誰でもたやすく扱える物。
    …免許がいるので、一応、車&バイクは無しで、選択肢にあるチャリが限度にしましょう
  • 当然ですが、電化製品は電気が無いので使えません
    …ソーラー充電は可
  • 刃物類は禁止。
    …包丁やナイフは近所の店屋で簡単に手に入りますが、どっちみち本物の日本刀を持った武士に勝てそうにないし、血を見るのは怖いので
  • 空想の産物は無しで。
    …「どこでもドア」とか「タケコプター」とか、あったら便利ですが、やはりアカンでしょう
  • 基本、戦いには参加せず、あくまで後方支援にとどめましょう
    …「どうしても出陣したい!」という方は、要相談

と、今の時点で思いつく条件をあげてみましたが、おそらくアンケートすれば、私が思いもよらぬ品々が出て来そうなので、そのあたりは臨機応変に対応したいと思います。

ではでは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢をいくつか用意させていただきましたので「これを持っていくと役立つんじゃないの?」「これを持って行くとオモシロそう」思う物に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 自転車
    クロスカントリー走行が可能なマンテンバイク
  2. 携帯電話
    ソーラー充電できる物…当然ですが通話やメール、GPSも使えませんが、写真やメモ機能、電卓機能など、その1台のみでできる事には使える事としましょう
  3. 天体望遠鏡
    星を見るためじゃなく、笹尾山からタヌキの爺ちゃんの表情が見てとれる感じ?
  4. 「関ヶ原」(司馬 遼太郎:著)上下巻
    なんかに、役立ちそうだ
  5. 懐中電灯
    手回しで充電できるヤツにしましょ
  6. 防犯ブザー
    威嚇くらいはできるかも…電池がなくなるまでは使える事に
  7. チャッカマン
    オイルがなくなるまでの間はとりあえず驚かせてみよう!
  8. 三つ葉葵の印籠
    映画村または日光のお土産屋さんで買った物…果たして効果はあるのか?
  9. 軍手
    何かに役立つと思う…きっと
  10. 手持ち花火セット
    打ち上げは狼煙と間違えるので、ドラゴンくらいまでにしときましょう
  11. バンドエイド
    まさに後方支援
  12. 地図
    やはり滋賀県&岐阜県中心の現在の物を…
  13. その他
    「やっぱ、これでしょう」「これ忘れてるヨ!」っていう物があったらお知らせください
      

とりあえずは、これくらい思いつきましたが・・・
たぶん、アッと驚くような物が出て来るんだろうなぁ

申し訳ありませんが、この投票は、6月14日に締め切りとさせていただきました。

━━☆・‥

★このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>
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2012年5月30日 (水)

東郷平八郎…最期の時

 

昭和九年(1934年)5月30日、日露戦争時の連合艦隊司令長官として知られる軍人・東郷平八郎が88歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・・

元薩摩藩士で、後に海軍軍人となる東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の初陣は16歳の時・・・文久三年(1863年)に起こった、あの薩英戦争(7月2日参照>>)でした。

その後の函館戦争では、軍鑑:春日に乗船して各地で転戦し(3月25日参照>>)維新後は海軍に出仕しました。

その後、明治四年(1871年)に留学生に選ばれ、明治十一年(1878年)までイギリス留学しますが、これが、彼の運命の転機でもありました。

そうです。
あの西南戦争(9月24日参照>>)が明治十年(1877年)に起こっています。

もし、この時、東郷が鹿児島にいたら、ともに戦っていたかも、そして、戦いに散っていたかも知れませんが、留学中だったおかげで、そうはなりませんでした。

Tougouheihatirou400 帰国後は海軍での職務経験を積んでいく事になりますが、日清戦争において、それほどの恩賞を与えられていないところを見れば、その頃は、けっこう地味な存在だったのかも知れません。

 .

その後、明治三十六年(1903年)、日露戦争の危機が叫ばれる中で、連合艦隊司令長官に平八郎が任命された時、明治天皇
「なぜ、彼を?」
という質問に、海軍大臣の山本権兵衛が、
「彼は、運の良い男ですから…」
と答えた話は有名ですね。

さらに、日露戦争での活躍は、もはや言うまでもなく、皆さまご存じ・・・最も有名なのは、やはり日本海海戦の東郷ターンでしょうか?(5月27日参照>>)

戦後は、明治三十八年(1905年)から海軍軍令部長東宮御学問所総裁を歴任する中で、明治三十九年(1906年)には日露戦争の功績により大勲位菊花大綬章功一級金鵄勲章を授与され・・・さらに、明治四十年(1907年)には伯爵となり、大正二年(1913年)には元帥、大正十五年(1926年)には大勲位菊花章頸飾を受章・・・と、華やかな表舞台を歩きます。

しかし、そんな平八郎さんにも老いは訪れます。

それこそ、その死に際して、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載されて、大きな反響を呼んだように、もはや神格化されつつあった平八郎にも、平等に、その最期の時はやってきます。

平八郎の片腕でもあり、その広報係でもあった小笠原長生(おがさわらながなり)の日記には、昭和八年(1933年)の大晦日に、平八郎の息子=(ひょう)が、突然、彼のもとを訪れた事が書かれているそうです。

大晦日のクソ忙しい時の訪問に、「ただ事ではない」と思って面会したところ、案の定、(平八郎に)喉頭がんの診断が下され、余命は時間の問題であるという事を聞かされます。

病名は、長生を含め、ごくわずかな人にしか知らされませんでしたが、翌年には88歳になる平八郎のために用意されつつあった米寿の祝いもキャンセルされ、それからは治療に専念する事となります。

かつて平八郎が総裁を務めた東宮御学問所の唯一の卒業生である昭和天皇も随分と心配され、
「何かあったら、深夜でも報告をするように」
とおっしゃった事から、

その治療には、天下の名医チームによる最新かつ最高の治療が、惜しみない治療費を以って行われる事となりましたが、だからといって、絶対に快復するものでもないのは、皆が承知するところ・・・

そんな中、平八郎の最後の望みは、6年前に神経痛を患って以来、病床についている奥さんをお見舞いする事でした。

間もなく、周囲のお膳立てにより、その舞台が用意されます。

平八郎の病室の襖が開けられ、その向こうにあるもう一枚の襖も開けられると、そこには、同じように横たわった妻=テツさん・・・

そう、二人は、一間を隔てて、面会を果たしたのです。

もはや、言葉も発する事も叶わない病状だったものの、二人はしっかりと見つめ合っていたと言います。

それから間もなくの昭和九年(1934年)5月29日、平八郎は軍人最高の栄誉である侯爵となり、午後には、その事を伝える天皇の使者が訪れたその夜・・・医師団によって、親族が病室に呼ばれました。

すでに、かすかな意識となっていた平八郎は、息子さん&娘さんらに手をかざし、しきりに何かを話そうとしますが、それを聞きとる事はできず・・・やがて昏睡状態となり、翌朝=昭和九年(1934年)5月30日午前7時一門親族など、多くの人に見守られながら、あの世へと旅立ったのでした。

軍人でありながら、多くの人に見守られて畳の上で死ねる事は、おそらく、平八郎にとっても幸せだった事でしょう。

この日、来たる6月5日に、日比谷公園にて国葬とする事が決定されました。
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2012年5月29日 (火)

江戸時代の帯結び…「呉服の日」に因んで

 

5月29日は、ご)(ふ)(く)の語呂合わせで、「呉服の日」という記念日なのだそうで、今日は、ちょいと着物のお話をしましょう。

歴史好き&武将好きの男性陣には、少し、退屈なお話かも知れませんが、時代劇の衣装にも通じるお話なので、少々のおつき合いを・・・

・‥…━━━☆

Kimonootaiko400 ・・・と、右の写真は、お友達のお写真を拝借させていただきましたが、ごくごく一般的に見る着物姿ですよね?

ご存じだと思いますが、この帯の結び方をお太鼓結びと言います。
 .

「あぁ、やっぱり、着物は伝統的でいいなぁ」
と、思われる方も多いかと思いますが、

実は実は・・・
このお太鼓結びは、意外に歴史が浅いのです。

もちろん、今や、お店屋さんなんかでも、50年店舗を構えていれば「老舗」と称されますから、そういう意味では、これも伝統のある着物姿には間違いないのですが、思ってる以上に近年の・・・という事です。

Harunobuutiwauri600 たとえば・・・
←コチラは、鈴木晴信の描いた『笠森おせんと団扇売り』(東京国立博物館蔵)ですが、現在、巷で一般的に見る着物姿と比べると、ちょっと違和感ありますね~

そうです。
帯揚げと帯締めが無いのです。
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Obizimeobiagw 着物に関心の無い方のために、一応、写真をup→しときますと、帯の真ん中で結んであるのが帯締め、帯の上部にチョコッと見えるのが帯揚げ・・・

そう、この帯揚げと帯締めは、お太鼓結びをするために考案された物で、そのお太鼓結びをする以前には無かった物なのです。
もちろん、お太鼓に膨らみをもたすために中に入れる「枕」もありません。

あ、スンマセン・・・
厳密に言うと、帯揚げ&枕は無かったですが、帯締めは飛鳥時代頃からあって、それこそ、着物を前合わせで整えるためにベルトのように使っていたわけですが、現在のように、お太鼓の形を整えるために帯の真ん中に締めるという使い方をしなかったという事です。

・・・で、このお太鼓結びが生まれるのは江戸時代も末期・・・それも、深川の芸者さんが、ちょっと違った結び方という事で考案された物で、その後、一般の女性の間に広まったのは明治四十年(1907年)頃からだそうで・・・つまり、それまでは一般女性はお太鼓結びなる結び方はしていなかったわけですね。

なので、もし、幕末や明治の始め、あるいは江戸時代のドラマで、お太鼓を結んでいたら、これは間違い・・・って事になるわけですが、

これが、どうしてどうして・・・ちゃんと守られてます。

さすがは、テレビ局の衣装さん・・・感服ですm(_ _)m

まれに、バラエティ番組の再現ドラマ的な物では見かけたりもしますが、某公共放送さんは、それもありません・・・見事です!

では、それまでは帯揚げ帯締め無しで、どうやって結んでいたのか?

これが、現在の浴衣の結び方を思い浮かべていただくとわかりやすいです。

現在の浴衣の帯は、「半幅帯」(現在の一般的な帯の半分ほどの幅なので)と呼ばれる物ですが、このサイズの帯は江戸時代にもありました。

Kainokuti これを、現在の浴衣のように、リボン結びにしたり蝶々の羽根みたいに結んだり、他にも、いわゆる「貝の口」→という、男性の角帯にも結ぶ結び方、あるいはそれをアレンジした「矢の字」「吉弥結び」など・・・
これなら、帯揚げも帯締めもいりません。

ちなみに、「吉弥結び」の「吉弥」というのは、元禄時代に大人気だった歌舞伎役者さんの名前・・・

それこそ、平安時代などは、帯は紐のような物でベルトのように使っていたのを、戦国時代に少し太くなって、ドラマでお馴染の、お腹のあたりで結ぶアレになって、江戸時代に入ってから、現在のように15~16cmほどの幅の帯を胸の下あたりに結ぶようになった時、吉弥なる人気役者さんが、貝の口をアレンジしたような結び方をして大流行した・・・ってわけです。

もちろん、その倍の幅の現在の帯くらいの帯も、江戸時代の途中から登場します。

現在の帯は、ちょっとよそいきの「袋帯」と、普段着使いの「名古屋帯」ですが(違いを話してると長くなので省きます)、これも、お太鼓結びのために考案された帯で、江戸時代から明治のそれは、よそいきが「丸帯」で、普段着が「昼夜帯」というのが主流だったようです。

Bunko_3 結び方は、丸帯の場合は、主に「文庫」→という、時代劇で武家のお嬢様が結んでいる結び方(「仁-JIN-」のさきさんが、いつも結んでました)、あるいは、「立て矢」という大奥のお女中が結んでいる蝶々の羽根が斜めになった感じの結び方など・・・

一方、町人の普段使いの昼夜帯は、「角出し」「引っかけ」といった、結びめを最後まで引き抜かないで帯の端をおしりのあたりで止めておいて、輪になってる部分を上からダラリと垂らす感じ?の結び方・・・

Tunodasichacha ←は、私が自分で結んだ「角出し」ですが、これは、現在の「京袋帯」を使用しているので長さが足らないため、帯揚げと帯締めを使用していますが、4mくらいの長さのある袋帯か昼夜帯でなら、帯揚げ&帯締め無しで結べます。

 .

「昼夜帯」というのは、表と裏が別の柄になっている帯で、基本は、表が白博多帯地で裏面が黒の繻子(しゅす)だった事で、その色目から鯨帯(くじらおび)とも呼ばれていましたが、徐々にその柄行も素材も豊富になり、表裏が別柄=両方使えるという、今で言うリバーシブルという意味で昼夜帯と呼ばれるようになりました。

Dscf1450a800_2 →は、私の私物の昼夜帯ですが、今は作られてなくて、アンティーク以外では、なかなか手に入らないようです。

結んだ時は、前の胸に来る部分の半分~3分の1くらいを裏返して、裏の模様を見せるのがカッコイイ着方・・・私のは、たまたま裏が茶色ですが、時代劇などでは、やはり黒の繻子の物を、よく見かけます。

ちなみに、私、某公共放送の「タイムスクープハンター」という番組が大好きなのですが、これに出て来るお嬢様方は、この昼夜帯を、そのようなカッコイイ結び方で着こなしておられます。

って、事で、本日は、呉服というより、帯の結び方に終始してしまいましたが、このような目線で、時代劇を見てみるのもオモシロイですよ。

それこそ、武家のお嬢様と豪商のお嬢様、水商売のおカミさんに茶店の女の子・・・と、ドラマのスタッフさんは、力を入れて、それぞれに見合った変化のある帯結びを披露して下さってますヨ。
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2012年5月28日 (月)

動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太

 

慶応元年(1865年)閏5月28日、津和野で捕えられた椋梨藤太が萩の野山獄で処刑されました。

・・・・・・・・・・

椋梨藤太(むくなしとうた)・・・幕末の長州藩士です。

(いみな)景治と言いますが、藤太さんのお名前が有名なので、本日は藤太さんで統一させていただきます。

とは言え、藤太さんに関しては、あまり良い印象を持っておられない方が多いでしょう。

なんせ、幕末で大人気の高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)らと敵対した人ですから・・・

彼が、長州藩の要職である政務役右筆という重臣に抜擢されたのは、もはや50歳に手が届こうかという嘉永三年(1851年)・・・

しかし、嘉永六年(1853年)に例のペリー来航(6月3日参照>>)があり、わずか2年で職を罷免され、代わりに周布政之助(すふまさのすけ)(9月26日参照>>)が政務の筆頭となります。

この政之助は、いわゆる革新派(尊攘)の人・・・保守派(佐幕)の藤太とは、終生のライバルと言える人です。

ところが、その後、あの吉田松陰(しょういん)が密航に失敗して捕まると、その翌年の安政二年(1855年)には政之助が罷免され、藤太が右筆に返り咲き・・・

しかし、安政五年(1858年)には、また政之助が政務役に復活し・・・と、藤太は、失脚⇔復権のくりかえし・・・

これ、ひとえに、長州藩の方針が革新と保守の間で、「いかに揺れ動いていたか」の証拠・・・当然ですが、藤太&政之助が揺れ動いていたわけではありません。

それでも、ここらあたりまでは、藩内は揺れ動くものの、それは、あくまで藩内での主導権交代劇・・・実際に誰かが犠牲になって命を落とすという事はありませんでした。

そんな中で、文久元年(1861年)に、長州藩内で知弁第一の秀才とうたわれた長井雅楽(うた)『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を発表します。

これは
「このまま、尊王攘夷論(そんのうじょういろん=天皇を敬い外国を排除する考え)の朝廷と、開国論の幕府が対立していては欧米列強につけ込まれるかも知れない・・・すでに、アメリカとの条約を結んでしまった今となっては、幕府が調印した条約に朝廷が同意して勅許(ちょっきょ=天皇の許し)を与え、国論を統一して万全な体制を作り、海外にも進んで乗り出しつつ外国との交渉にも当たるべきである」
みたいな考えです(実際には、もっと細かいですが…)

はじめ、この意見は、長州藩でも大いに歓迎され、長州の藩論という事で発表され、それこそ、幕府をも動かします。

そう、第14代将軍=徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹=和宮(かずのみや)の結婚に代表される(8月26日参照>>)あの公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)です。

しかし、長州藩内の革新派は、この公武合体を、混乱する政局に、幕府がいち時をしのぐためだけのゴマカシとして大きく反対し、尊攘派の志士の中には、雅楽暗殺を計画する者まで・・・

やがて、その運動が活発化し、またまた藩の方針が揺れる中、雅楽の考えは、尊攘派の公卿たちと組んで政界を牛耳る立場にある長州藩の方針にそぐわない物として、文久三年(1863年)に雅楽は切腹に追い込まれ(2月6日参照>>) 、同じ年の5月に起こった下関戦争(5月10日参照>>)でもお解りのように、長州藩は攘夷一色になります。

そうなると、もちろん藤太も失脚・・・

ところが、その3ヶ月後に、これまたご存じの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、尊攘派の公卿とともに長州藩は中央政界から追い出され、その不満をぶちまけるべく発進した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となってしまいます。

朝敵・長州を討つべく、幕府によって開始される第1次長州征伐・・・

この長州征伐を回避するための手段が、藤太ら保守派による、三家老の切腹でした。

福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)
国司信濃(くにししなの)(2011年11月12日参照>>)
益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)という禁門の変を先導した3人の家老の首を幕府に差し出す事で、戦争を回避したわけです。

当然の事ながら、藩の上層部は保守派で固められ、藤太も、見事復権するわけですが、その、わずか1ヶ月後に、高杉晋作による功山寺の挙兵(12月16日参照>>)です。

この高杉によるクーデターの成功で、一気に反乱軍が勢いづき、続く大田絵堂の戦いという長州藩最大の内戦に高杉らが勝利した結果、長州藩の藩論は革新派一色となって、やがて討幕・維新の原動力となったわけです。

こうして政治生命を失った藤太は、領内を敗走して津和野に潜伏していたところを捕えられ、慶応元年(1865年)閏5月28日萩の野山獄で処刑されたのです。

椋梨藤太、享年・61歳・・・保守派で斬首となった、ただ一人の人でした。

そう、実は、幕末に、この長州と同じく、攘夷か開国かと藩論が揺れ動いた水戸藩では、維新の嵐の中で、とんでもない血の雨が降ります(10月16日参照>>)

しかし、長州藩では、この藤太1人の斬首を以って終止符が打たれます。

そこには、もちろん、勝利した側の桂小五郎らの先見の明もあったのでしょうが、何より、藤太の潔い姿にあったのかも知れません。

捕えられて、革新派の取り調べを受けた藤太は、
「すべては、私1人の罪・・・どうか、私だけを罰するようお願いします」
と、くり返し懇願していたと言います。

一般的に、この一連の長州藩の経緯を話す時、革新派を正義派保守派を俗論派と言い現します。
(俗論=つまらない意見や議論)

聞くところによれば、この派閥の名前を命名したのは、かの高杉晋作だとか・・・そう、彼らにとっては、自らが正義で、敵対する者は悪・・・

確かに、維新があったからこそ、今の日本がある事は認めます。

今こうして、ブログを楽しんでいるのも、ここで正義派が勝利したおかげでしょう。

しかし、現在進行形で紆余曲折の藩内にて奮闘していた彼らは、革新派・保守派に関係なく、ともに、より良い未来に向かって、信念を以って行動していたはずです。

高杉さん&ファンの皆さまには申し訳ないですが、私は、どうしても、すべての責任をかぶって死んでいった藤太さんを俗論派とは呼びたくない・・・

負け組となった彼らにも、この国への篤い思いがあり、彼らがいたからこそ切磋琢磨でき、今の日本があると思いたいのです。
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2012年5月27日 (日)

信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫

 

永禄十年(1567年)5月27日、徳川家康の長男=竹千代と織田信長の娘=徳姫が結婚しました。

・・・・・・・・・・・

ともに9歳の新郎新婦は、お察しの通り、織田信長徳川家康関係を、より強化するために設定された政略結婚です。

この竹千代という人は、家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫)との間に生まれた長男=信康(のぶやす)の事・・・(以下、信康さんと呼ばせていただきます)

徳姫は、五徳(ごとく)とも呼ばれ、母は生駒の方(吉乃)(9月13日参照>>)と言われますが、記録の矛盾点も多く、はっきりはしてません。

とは言え、ともに嫡男&長女のこの縁組は、両家の大きな期待を以って仕組まれた縁組である事は確か・・・

その後、二人ともが18歳になる頃に長女が誕生し、翌年には次女も誕生しますが、男子が生まれる事がなく、しかも、夫婦仲があまりおよろしくなかった・・・

そう、このあたりから夫婦不仲説とともに、嫁姑バトル説など、後々の事件を臭わせる黒い噂が浮上して来ます。

一説には、徳姫との間に男子が生まれない事を心配した築山殿が、息子=信康に側室を迎えさせた事が、嫁姑バトルの発端・・・なんて言われますが、ご存じのように、側室を迎えるのが当たり前の時代に、そんな事でいちいちヤキモチを焼く姫様はおられません。

てか、ヤキモチを焼くなら、むしろ夫婦仲はある程度良好なわけで、おそらくは、嫁姑の関係より、夫婦の不仲の方が深刻だったんじゃないかな?と思います(想像ですが…)

そんな中で、徳姫から父へ発せられたのが、あの『十二か条の弾劾文(だんがいぶん=チクリ状)・・・

以前、築山殿のページ(8月26日参照>>)にも書かせていただきましたが、もう一度・・・

  • 築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする
  • 築山殿は、女の子しか生んでない私の事を「役立たず」と言って殴る
  • 築山殿は、岡崎城内の豪華な邸宅で贅沢三昧やってる
  • 築山殿は、甲州の唐人医師・減敬(げんきょう)と浮気してる
  • 築山殿は、武田勝頼に織田と徳川の両家を滅ぼして欲しいと言った
  • 築山殿は、両家が滅んだ後は、私を武田の家臣の妻にして~と頼んだ
  • 武田から、小山田という家臣が妻とする証文が送られてきた
  • 近頃、岡崎城下で踊りが流行ってるのは信康が悪いからだ
  • 信康は、踊りが好きなので踊りの下手な者を弓矢で射殺する
  • 信康は、鷹狩で獲物がなかったため不機嫌になり、通りがかった僧侶をなぶり殺した
  • 信康は、私の侍女を「おしゃべり女」と言って口を裂いて殺した
  • あと一つがわかりません…ここに書き込みますので誰か、教えてくらはい

再び・・・「なんじゃ、こりゃ~」の書状です。

っで、この徳姫から送られて来た書状を見た信長が、家康の家臣=酒井忠次(さかいただつぐ)に、
「これ、ホンマなん?」
と聞いて、忠次が
「ホンマです」
と言ったので、

信長から家康に、
「嫁=築山殿と息子=信康を殺せ」
という命令が出た・・・

そして、家康は、信長に言われた通り、築山殿を殺害して信康を自刃に追い込む(9月15日参照>>)・・・というわけですが、その信康さんのページ&築山殿のページに書かせていただいてるように、どうにもこうにも腑に落ちません。

『常山紀談(じょうざんきだん)には、実は、この時の忠次が、信康のもとに侍女として仕えていた美女を、自分の愛妾にした事で、なにやら、信康との関係が悪化していて、信長の問いに対して「ホンマです」と答えた・・・なんて話も出ていますが、

そもそも、この忠次の肯定うんぬんよりも、もともと、この徳姫の手紙自体が、江戸時代になってからの記録にしか出て来ない話のようですし、その内容も書きかえられた形跡もあるとかで、本当に徳姫がこんな手紙を書いて信長に贈ったのかどうか疑問視されています。

なんとなく、徳川家内のゴタゴタ処理を、信長さんとその娘のせいにしている気がしてなりませんね。

とにかく、こうして、夫=信康が自刃してしまった事で、徳姫は、二人の娘を徳川家に残したまま、美濃(岐阜県)へと戻り、信長の嫡男=徳姫にとっては兄にあたる信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)のもとに身を寄せます。

ところが、ここで起こるのがあの本能寺の変・・・(6月2日参照>>)

ここで、父=信長とともに兄=信忠が亡くなってしまった事で、その後の徳姫は、信長の次男である信雄(のぶお・のぶかつ)のもとで暮らしますが、次に起こった小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)で、信雄が羽柴(豊臣)秀吉との講和を成立(11月16日参照>>)させた事により、人質として京都にて暮らす事になります。

と、波乱の人生ですが、思えば、この小牧長久手の時点で、徳姫は、未だ20歳代半ば・・・今だと、まだまだ若く、人生これからって感じですが、彼女が、その後、誰かと結婚する事はありませんでした。

秀吉の生存中は、その保護下に置かれたものの、世が徳川の時代となってからは、京都にて隠居生活を送り、二人の姫・・・長女=登久姫小笠原秀政(おがさわらひでまさ)に嫁ぎ、次女=熊姫(2月6日:千姫のページ参照>>)本多忠政(ほんだただまさ)に嫁いだ事もあって、独身ながらも良きお祖母ちゃんとして過ごしたのではないか?と思います。

ただ、個人的に気になるのは、徳姫が亡くなったのが寛永十三年(1636年)で、問題の『十二か条の弾劾文』の事が書かれている『三河物語』が成立したのが元和八年(1622年)・・・彼女は、その内容を知ってたのか否か、知っていたら何と思ったのか?

京都にて隠居生活なら、おおむねゆっくりとのんびりと生活していたのかも知れませんが、その心の内はいかに??

ここにも1人・・・戦国の世の運命に翻弄された女性がいたという事でしょう。
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2012年5月25日 (金)

新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞・楠木正成連合軍足利尊氏と戦った湊川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(たかうじ)(12月11日参照>>)、一旦は、天皇方の新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)都を追われるも(1月27日参照>>)九州に落ち延びて態勢を立て直し(3月2日参照>>)、海と陸に分かれて、いよいよ畿内に迫ります(4月26日参照>>)

延元元年・建武三年(1336年)5月25日の朝、兵庫の海に尊氏の軍船が、陸には足利直義(ただよし=尊氏の弟)の50万の大軍が軍旗をたなびかせながら集結します。

迎え撃つは、かねてより兵庫にいた義貞と、息子と別れてここに合流した正成(5月16日参照>>)・・・

正成は700騎の手勢を率いて、湊川(みなとがわ=神戸市兵庫区)の西にて、直義の陸上軍に相対します。

総大将である義貞は2万5000騎を率いて和田岬(神戸市兵庫区)に本陣を張り、海からの尊氏軍に備えます。

Minatogawakassennnozu800 湊川合戦図(神戸市博物館蔵)

まずは、鏑矢(かぶらや=射ると音が鳴るので戦場の合図となる矢)射合って、お互いの出方を探りあう両軍でしたが、そんな中から新田軍のある武将が、沖に向かって飛んでいく鳥を射ぬきます。

それも、すぐには落ちないよう羽を射ぬき、その鳥が、敵方落ちるように射るという神技を披露・・・それを見た尊氏が
「あんたはんの名前を知りたいなぁ」
と言うと、
「ほんなら、この矢で、我が名をご覧あれ!」
と、メッチャ遠い所から、佐々木顕信(あきのぶ)なる武将の船に乗っていた兵士の鎧を射ぬきます。

その矢には『相模国住人本間孫四郎重氏(ほんままごしろうしげうじ)という名が小刀にて刻まれていました。

しかも、その後、扇を手に取って手招きしながら・・・
「いやぁ、すんません・・・今のは事故ですわ、事故・・・
合戦となったら、1本でも矢を失くすのはもったいないですさかいに、その矢、こっちへ射返してもらえまっか?」

と・・・

そら、君の弓の腕は大したもんやけど、いかにも、「どや!見てみぃ」って感じの自慢丸出しの雰囲気が、なんか、腹立つやないの!
と、思ったのは、尊氏も同じ・・・

早速、顕信に
「お前、やれや!」
と・・・

しかし、距離が距離です。
それこそ、アチラは弓の名手ですから、見事、コチラへ突き立てましたが、コチラも、相当な弓の名手でないと、同じような芸当はできませんから、少々、ちゅうちょする顕信・・・

「行かんかい!」
と、お怒り気味の尊氏さん・・・

そこへ何を思ったか、どこの誰ともわからぬ者の鏑矢が1本・・・その本間の軍へと放たれます。

しかし、そんなヘナチョコ矢が向こうまで届くはずもなく・・・空しく海中に落っこち、本間軍からは失笑・・・

矢を放った者の乗る船には200人ほどの兵士が乗っていましたが、恥ずかしさのあまり、いきなり猛スピードで漕ぎ出し、経島(和田岬の東)に強硬上陸しますが、そこに待ち構えていたのが脇屋義助(わきやよしすけ=新田義貞の弟)軍・・・哀れ、その軍は、あれよあれよという間に義助軍に全滅させられてしましました。

これがキッカケとなって尊氏軍の軍船団が一気に移動開始・・・新田軍の防御態勢をかく乱しながら、怒涛のごとく和田岬に上陸します。

こうなると、数のうえでは断然有利な尊氏軍・・・

戦況に応じて移動し始めた新田軍と、別働隊として奮戦する楠木軍との連携が乱れ始め、やがて正成らは孤立状態になって、迫りくる直義軍に包囲され、決死の突撃を繰り返すも、とうとう最後は70騎ほどの軍勢となり、正成らは自決します。

この正成最期の名場面は『七生報国(しちしょうほうこく)と呼ばれます(2007年5月25日の後半部分参照>>)

一方、こうして正成が自刃した事で、当然の事ながら、尊氏軍と直義軍は一つとなって新田軍に迫ります。

これでは、さすがに数の差が違いすぎ・・・やむなく自軍を3隊に分けて、入れ替わりながら相対し、なかなかの踏ん張りを見せる新田軍・・・

タイミングを見計らって、義貞自ら決死の攻めをくり返しますが、とうとう、残るは、わずか5000騎となったところで、やむなく、生田(いくた)の森を後にして、丹波路へと退却を開始しました。

そんな時、義貞は馬を射ぬかれてしまいます。

しかたなく馬を下りて、代えの馬を待ちますが、味方は誰も、それに気づかず・・・逆に敵が気づいて、義貞を討つべく囲みます。

しかし、その気迫に負け、誰も近づけません。
敵は遠巻きに矢を射かけるばかり・・・

義貞は、その矢を切り落としながら抵抗を続けますが、それも時間の問題・・・大ピンチです。

・・・と、その光景を山の上から見つけた1人の武者・・・大急ぎで坂を駆け下り、一路、義貞のもとへ・・・

それは、小山田高家(おやまだたかいえ)という武将でした。

実は、彼は、前年、義貞が播磨(はりま=兵庫県)にて出陣の準備をしていた時、軍令に違反した事があったのです。

軍令違反は、即、処刑・・・となっていた所を、義貞が
「違反するには、それなりの理由があるはず・・・」
と、ちゃんと調べてくれたおかげで、それが、疲れによる判断の見誤りであった事がわかります。

その時、
「兵卒の疲れによる判断ミスは、大将たる者(自分)の恥・・・」
つまり、「むしろ自分の罪である」との温情ある判断で、彼を罪に問わなかった・・・という事があったのです。

義貞の温情によって助かったこの命・・・今、使わずにいつ使う!

鬼の形相で坂を駆け下って義貞のもとに馳せ参じた高家は、すぐさま、自分の馬に義貞を乗せ、自らは敵の真っただ中に・・・義貞の身代わりとなって、その命を散らしました。

一方、そうこうしている間に、味方の軍勢が義貞に気づき、何とか自軍の軍勢の中に紛れ込む事ができ、そのまま退却の途に・・・こうして義貞は九死に一生を得たのでした。

ところで、この時の後醍醐天皇・・・敗戦を知って、再び比叡山へ逃げ込みますが、それは、公家と武家合同による数万騎の大行列だったとか・・・

そして、次は、その比叡山より、尊氏に制圧された京都を奪回する戦いが始まるのですが、そのお話は6月30日【足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦】でどうぞ>>
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2012年5月24日 (木)

齢70…晩年の伊達政宗

 

寛永十三年(1636年)5月24日、あの伊達政宗が、70歳の生涯を終えました。

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戦国屈指の人気者伊達政宗(だてまさむね)さんですので、すでにこのブログでも何度もご登場いただいてますが、そう言えば、晩年の事は書いてないなぁ~と・・・

本日はご命日でもありますので、ゲームのイメージとはちと違う、その晩年を中心に、そに生涯を追ってみたいと思います。

・‥…━━━☆

Datemasamune650 幼い頃に患った天然痘で右目を失ってしまい、いち時は、引き籠りの卑屈な少年となっていた政宗でしたが、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)超一流の教育と、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)(10月14日参照>>)というナイスな傅役(もりやく)のおかげで、何事にも積極的に取り組む・・・いや破天荒すぎるほどの積極性を持つ、有能な戦国武将に成長します。

やがて天正十二年(1584年)、父=輝宗の隠居に伴って家督を譲られた政宗でしたが、その翌年、二本松城(福島県二本松市)畠山義継(よしつぐ)の謀略によって拉致された父を、その義継もろとも撃ち殺すという悲運な出来事が起こってしまいます(10月8日参照>>)

その弔い合戦となった人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)では、少々ピンチに立たされるも、その経験を活かして、続く摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)では見事勝利・・・わずか23歳で奥州の半分を手に入れ、まさに奥州の覇王に手が届くかに見えた時、かの豊臣秀吉からの小田原征伐(11月24日参照>>)への参戦要請・・・

ウダウダと返事を引き延ばしていて小田原への参陣が遅れた(4月5日参照>>)のを、決死の死に装束で何とか切り抜け(6月5日参照>>)、続く奥州征伐でも(11月24日参照>>)、見事ピンチを脱します(2月4日参照>>)

やがて訪れた秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康から「百万石のお墨付き」をもらい、東国にて転戦してドサクサまぎれに領土拡大を謀るも、家康に怒られ断念・・・(8月12日参照>>)

戦後は、家康の許可を得て仙台城(青葉城=仙台市)の構築に着手し、しばらくの間は城下町の整備や北上川の水運の発展など、内政に力を注ぎます。

次に訪れた大戦・・・結果的に、政宗最後の戦場となったのは、かの大坂夏の陣・・・この時、道明寺誉田(どうみょうじ・こんだ)に出遅れた真田幸村(信繁)とぶつかり、引き分けています(5月6日参照>>)

・・・と、こうして見ると、奥州を統一すべく駆け抜けた破天荒な若き時代に比べて、秀吉に屈した感のある小田原征伐以降、さらに家康の傘下となった感のある関ヶ原以降、政宗は戦国武将が夢見る天下という物に対して、何やら諦めた感が漂う感じ・・・

いや、しかし、実は、まだまだ諦めてませんでした。

ご存じ、慶長十八年(1613年)に派遣されたと言われる支倉常長(はせくらつねなが)らの遣欧使節です(8月26日参照>>)

そのページにも書きましたが、この派遣使節の事は、明治になるまでまったく隠されていた出来事・・・つまり、徳川幕府にわからないように政宗が行っていた事であるわけで、その内容が本当だとすると、まさに「幕府転覆計画」です。

一説には、この計画の背後にいたのは大久保長安(ながやす)で、その屋敷の床下からは松平忠輝(ただてる)盟主とする新しい幕府の設計計画なる文書が出て来た・・・なんてウワサもあります。

松平忠輝は、そう、家康の6男で、政宗の娘=五郎八(いろは)の旦那さんです。

つまり、忠輝を新しい幕府の将軍にして、政宗が関白となって手腕を奮う政治体制にするという事・・・(7月3日参照>>)

しかし、ご存じのように、慶長十八年(1613年)4月に長安が亡くなった直後、大久保家は「長安の葬儀の中止」「莫大な遺産の没収」「遺子7名の切腹親類縁者の改易」という処分をくだされています(4月25日参照>>)

その理由は、今以って不明ですが、それこそ、この「幕府転覆計画」の発覚があったのかも・・・バレてたとしたら政宗はセーフだったのか?

また、忠輝も、大坂夏の陣で不手際があったとされ、元和二年(1616年)7月に改易され、伊勢に流罪となってしまっています。

さすがに、長安の大久保家が没落し、忠輝も流罪になった事で、ここらへんから、やっと政宗はおとなしくなったと言われています。

寛永五年(1628年)、自らの江戸藩邸に、大御所(前将軍)徳川秀忠を招いた政宗は、
「本当のご馳走っちゅーもんは、旬の品をさりげなく、主人自ら調理するもんや」
との言葉通り、自分で作った料理を秀忠の前に出したのだとか・・・

当然、そばにいた侍が
「お毒味を…」
と前に出た時、

「アホか!将軍を殺ったろなんて思とったんは、もう10年も前のこっちゃ。
せやし、その頃でも毒で殺すなんて姑息なマネはせんゾ!
どうせ殺るなら、合戦でいてもたらな!」

と言ったとか・・・

その言葉通り、晩年は花鳥風月を愛でる穏やかなオッチャンとなっていた政宗・・・

寛永十三年(1636年)4月に、後に瑞鳳殿(ずいほうでん=政宗の墓所)が建つ事になる経ヶ峰を散策していた時、ふと漢詩を詠んだと言います。

馬上少年過(馬上に少年の時は過ぎたり)
 世平白髪多(世平かにして白髪多し)
 残躯天所赦(残躯=ざんく天のゆるすところ)
 不楽是如何(楽しまずんば、これ、いかにせん)
「馬で駆けまわった少年の頃は過ぎて、
 天下泰平となって、しらがも多なったわ。
 まだ、天からもろた余生はある・・・
 この余生を楽しまんでどないするっちゅーねん」

その後、少しばかり歩いてから足を止め
「俺が死んだら、ここに埋めてくれるか」
と、地面に杖を立てて指示したと言います。

果たして、その約2ヶ月後の寛永十三年(1636年)5月24日政宗は江戸の桜田屋敷にて、その生涯を終えました。

その後、お墓を作ろうと、政宗が「ここに埋めて」と言った場所を掘り起こしてみると、そこには、何やら塚のような物が・・・

地元の者に尋ねると、なんとそこは、「政宗は、この人の生まれ変わりだ」と称されていた万海上人の塚だったのだとか・・・

やってくれますね~政宗さん、最後の最後まで・・・

なら、最後に『甲子夜話』にある政宗さんらしい逸話をご紹介・・・

ある時、上洛した政宗の行列を見た民衆の中の1人が、彼らが、東北の田舎者であるとバカにして、一枝の桜を差し出し、
「ちょっと、1句詠んでよ」
と・・・

そう、あの前九年の役で滅んだ阿部一族の安倍宗任(むねとう)が京に護送された時に、やはり都の人がイケズした(9月17日の後半部分参照>>)アレと同じ事をやった人がいたのです。

すると政宗は
♪大宮人 梅にも懲りずに 桜かな ♪
と、即座に答え、その人は、大恥をかいたのだとか・・・

直訳ではなく、その意味を解すると
「お前ら、まだ、そんな事やっとんのかい!」って・・・

政宗らしい・・・教養とセンスのある返しですね。
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2012年5月23日 (水)

「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に…

 

元弘三年(1333年)5月23日、後醍醐天皇が京へ向け船上山を出立しました。

・・・・・・・・・・・

すでに5月12日の段階で、足利高氏(あしかがたかう=後の尊氏)による六波羅探題・陥落(5月9日参照>>)の知らせを受けていた後醍醐(ごだいご)天皇・・・

Godaigotennoucc この時、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に身を置いていた(2月24日参照>>)後醍醐天皇が、ただちに、京へ向かうかどうかの評定を行うと、周囲は「未だ時期早し」と猛反対・・・

しかし、その後の占いにて吉兆が出た事で行幸を決定したと言います。

かくして元弘三年(1333年)5月23日、京へ向け船上山を出立した後醍醐天皇の行列は、通常の行幸行列とは違い、衣冠(いかん=貴族・官人の宮中での勤務服)でのお供はたった二人・・・高級文官たちも皆が甲冑姿に身を包み、騎乗にて従い、兵士も全員弓矢を装備しての完全武装で行われました。

ちなみに、余談ですが・・・
この時、行列の先陣を務めたのが、後に、高師直(こうのもろなお)横恋慕悲劇に見舞われる塩冶高貞(えんやたかさだ)(4月3日参照>>)だったそうです。

行列は、5月27日には播磨(はりま=兵庫県南西部)書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)に到着し、翌・28日には法華山(ほっけざん=兵庫県加西市)へ・・・

ここで、天皇方として奮戦していた赤松則村(あかまつのりむら)父子が後醍醐天皇に拝謁すると、
「これも、君らの頑張りのおかげや・・・褒美は望み通りにとらせるよってに・・・」
と、天皇は上機嫌で、即座に禁門の警固という栄職に任じました。

昼ごろには、新田義貞(にったよしさだ)からの北条一族の撲滅と関東平定(5月22日参照>>)の知らせも舞い込み、一同は歓喜に包まれました。

続く6月2日には、兵庫を東に向かう行列を、あの楠木正成(くすのきまさしげ)7000騎の兵を連れてお出迎え・・・
「こうなったんも、君らの忠義あふれる戦いのおかげやで」
と、天皇が、千早城での武功(2月5日参照>>)について、正成に親しく話すと、
「いえいえ、これも、御君の徳によるもの・・・俺らみたいなモンの計略では、あの囲みを脱する事なんてできませんでしたわ~」
と、正成さんもご謙遜・・・

こうして6月6日に、京都の東寺から二条の宮殿に入った後醍醐天皇・・・

いよいよ、ここから天皇による親政=一連の建武の新政が開始される(6月6日参照>>)わけですが、そのお話は、また後日の「その日」にお話させていただくとして、昨日の鎌倉炎上でのページ(先ほどの5月22日>>のページです)でお話しきれなかった、北条氏と運命を供にした人々の人数に関するお話を・・・

その昨日のページでは、運命を供にした人々の人数を『太平記』の記載通りに書かせていただきました。

『太平記』によれば・・・
「…総(そう)じて其(そ)の門葉(もんえふ)たる人二百八十三人」
「此(こ)の一所(いっしょ)にて死する者、すべて八百七十余人なり」
「鎌倉中(かまくらぢゅう)を考(かんが)ふるに、すべて六千余人なり」

と、北条高時そばで亡くなった人が283人
同じ東勝寺(とうしょうじ)境内で亡くなった人が870余人、
鎌倉全体では6000余人というスゴイ人数になっています。

しかし、その舞台となった東勝寺の旧跡では、「腹切りやぐら」と呼ばれる、それらしい場所は現存するものの、これまでに遺骨が発掘された事はなく、調査をしても出土するのは瓦など、寺院があった事を示す物ばかりでした。

それ故に、おそらくは、「戦いの後に、新田軍や僧らによって遺体は別の場所に集められて埋葬されたのであろう」とされ、『太平記』のその数も、「軍記物独特の文学的誇張による物で、実際には、それほど多くは無いだろう」と推測されて来ました。

なんせ、以前の稲村ケ崎のページ(5月21日参照>>)にも書かせていただいたように、新田軍の兵の数も、最初は、たった150騎だったのが、いつの間にか2万7000余騎になり、最終的に鎌倉に突入する時は本隊だけで50万7000余騎(全体で60万7000余騎)という考えられないような数字になってますからね。

ただ、確かに『太平記』での人数には盛りつけがあるのでしょうが、一方では、「一概に、そうも言いきれない」という意見も、これまで数多くありました。

というのは、鎌倉にある九品寺・・・ここは、かの新田義貞が陣を敷いたとされる場所で、戦いの後に戦死者を供養するためにお寺が建立されたとの事ですが、この九品寺の境内には「新田、北条両軍戦死者の遺骨を由比ガ浜よりこの地に改葬す・・・昭和四十年(1965年)と刻まれた石碑が存在するのだそうです。

そう、実は、東勝寺旧跡とは別の場所で、大量の遺骨が発掘されているのです。

それが、材木座海岸・・・

「鎌倉の海岸に近いところから、よく人骨が出る」という話は、江戸時代の頃からウワサになっていたようですが、それとともに、「昭和十年(1935年)に海岸から多数の人骨が発見されたので、無縁仏として九品寺に埋葬した」という記録があった事から、

その後、昭和二十八年(1953年)から3年かけ、3回に渡って、東京大学人類学教室鈴木尚(ひさし)教授らによって、本格的な、材木座・鎌倉簡易裁判所予定地の発掘調査が行われたのです。

これに関しては、近年、『材木座町屋発掘調査報告書』なる書簡も出版されているようですが、まだ読んでいないので、あくまで孫引きですが・・・なんと、そこにあった大小32個の穴から910体ぶんの遺骨が発見されたというのです。

しかも、ある穴では全身の骨格が揃っているものの、別の穴では頭骨だけが200体だったり、手足がバラバラの遺骨があったり、刀傷があったり・・・その多くは、犬に噛まれた形跡もある・・・

また、年齢層や性別については、壮年または青年の男子が多く、女性や老人や子供は少ない事もわかっています。

また、同時に鎌倉時代の陶器や宋銭も出土しているし、極楽寺でも同様の遺骨が発見されている・・・

という、これらの結果を得て、
「おそらくは鎌倉時代に大規模合戦があって、多くの犠牲者が放置されたままになっていたと推測され、それに該当する合戦は、この鎌倉幕府滅亡の合戦しかない」
との結果がはじき出されました。

先ほどの石碑の碑文も、この結果を得た「新田、北条両軍戦死者の遺骨を…」という、昭和四十年の段階での書き方なのですね。

だが、しかし・・・

そうです。
まさに、歴史は日々進歩している・・・

その後も、日々、発掘調査が行われ、書きかえられた歴史が、また、書きかえられるのです。

確かに、海岸からは鎌倉時代の出土品とともに、合戦で亡くなった人が多く含まれていたわけですが、その後の調査では、自然死や病死の別の時代の遺骨も発見され、ここが、その合戦の死者だけではなく、長期に渡って埋葬の地とされていた場所であろう事がわかって来たのです。

また、鎌倉全体の発掘調査から、東勝寺周辺を中心に、いくつか焦土と化した地層が発見されているものの、それが全体に及ぶ物では無い事も明らかになって来ました。

という事で、ごく最近の解釈としては、
新田義貞の鎌倉攻めは、「一般市民を巻き込むような大規模な物ではなく、統率のとれた軍隊によるピンポイント攻撃であった」というのが定説となっているようです。

いやぁ、この二転三転こそ、答の無い推理サスペンス・・・歴史の醍醐味です!

もちろん、歴史好きとしては、今、この時も、更なる発見に期待するばかりなのですが・・・

追記:鎌倉陥落後、最後に降伏した金剛山の幕府軍については7月9日のページでどうぞ>>
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2012年5月22日 (火)

鎌倉炎上…北条高時・自刃

 

元弘三年(1333年)5月22日、新田軍の攻撃により鎌倉が炎上・・・北条高時以下北条一門が自決しました。

・・・・・・・・・・

とにもかくにも、事実上北条氏が実権を握る鎌倉幕府に対して、討幕ののろしを挙げた後醍醐(ごだいご)天皇・・・

つき従うは、
吉野山に籠ってゲリラ戦を展開する護良親王(もりなが・もりよししんのう=後醍醐天皇の皇子)(2月1日参照>>)
千早城にて奮戦する楠木正成(くすのきまさしげ)(2月5日参照>>)
京にて六波羅探題を破った足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)(5月9日参照>>)・・・

そして肝心要の鎌倉を含む関東で挙兵したのが新田義貞(にったよしさだ)でした
(5月11日参照>>)

途中参加の諸将を含め、大軍に膨れ上がった新田軍は、3手に分かれて、怒涛のごとく鎌倉に攻め寄せます。

・・・と、ご覧の通り、丸々、昨日のお話の続きです。
これまでの経緯については、昨日の【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】>>をご覧いただくか、【鎌倉時代の年表】>>の最後の方の1324年の『正中の変』あたりからピックアップしてご覧くださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

こうして市中に突入する新田軍・・・もはや幕府の指揮命令系統は乱れに乱れ、早くも降伏する者、激戦の末に討死する者、「もはやこれまで」と自刃する者が入り乱れる中、館近くに火の手が迫った事を知った第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、北条家菩提寺である葛西ケ谷・東勝寺へと退いたので、命ある者は続々とこの東勝寺へと集まり、境内は幕府側の将兵で溢れんばかりになっていたとか・・・

そんな中で、様々な逸話も生まれます。

幕府軍の猛将=大仏貞直(さだなお)は、自刃した家臣の弔い合戦とばかりに、義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)大軍に向かって突入し、壮絶な最期を遂げました。

金沢貞将(さだまさ)は、負傷した体で高時を見舞い、もはや何の権威も無い六波羅探題職に任ぜられた後、その辞令を懐に抱えて戦場へと踊り出て討死しました。

六波羅探題北方を務めていた息子=仲時の自刃(再び5月9日参照>>)を、すでに聞いていた父=北条基時(もととき)は、息子を思いながら辞世の1句を、寺の柱に自らの血で書き残します・・・
♪まてしばし 死出の山辺の 旅の道
 おなじく越えて うき世語らむ ♪

また、義貞と縁戚関係にあった安東容秀(あんどうようしゅう)は、敵にくみする縁者から送られて来た鎌倉脱出を手引きする手紙「武士の恥である!」と、その手紙を刀に巻きつけて自刃します。

美談だけではありません。

忠臣だと思われていた武将が、主君父子が自刃した途端、その甲冑をはぎ取ったうえに宝物も奪ってそそくさと逃げる・・・なんて場面もありました。

さらに・・・と、まだまだ、これらの人間ドラマも、一つ一つご紹介したいところなのですが、ページにも書く時間にも限りがあり、本日のところは、お話を先に進めさせていただきます。

Houzyoutakatoki600 そして、いよいよ北条高時、最期の時・・・となるのですが、この高時が自刃するキッカケとなったのは、猛将=長崎高重(たかしげ)の帰還でした。

彼は、ここまで高時の右腕となって活躍してくれた人物・・・今回の新田軍との合戦においても、その最初の最初から、何十回となく出撃し、常に先陣となって激戦をかいくぐって来た人です。

そんな彼が、今生の別れにと高時に会いに来ます。
「今から、一騎打ちで義貞の首を盗って戻って参ります!」

しかし、その猛攻で新田軍に多大なダメージを与えながらも、義貞との一騎打ちの夢叶わず・・・

しばらくして東勝寺に舞い戻って来た高重は、
「いやいや、何とか義貞のアホンダラを一騎打ちで殺ったろ思て探しましたんやけど、いっこうに見つかりませんでしたわ。
ほな、このままザコどもの200や300・・・とも思いましてんけど、大将との約束の時間も迫ってるこっちゃし、諦めて戻って参りましたわ」

そして、
「いかにも高重らしい」
と、この戦況報告を微笑みながら聞く高時に向かって・・・
「ほな、この高重が、先に手本を見せますよってに、あとに続いて来てください」
そう言って、かたわらにあった盃に酒を所望し、3度傾けた後、摂津道準(せっつどうじゅん)の前に盃を置き、腹を掻き切って、
「肴にせよ!」
と、はらわたを手繰りだして壮絶な最期を遂げました。

受け取った道準は
「この肴やったら、どんな下戸(げこ)でも飲まんヤツはおらんやろ」
と、その盃を手に、半分を飲み残し、今度は諏訪直性(すわじきしょう)の前に盃を置いて、彼も切腹しました。

それを受け取った直性は、心静かに3度飲み干し、その盃を高時に前に置き、
「なんや、若い者が、かっこええ芸当をやってくれるやないかい!
こら、この年寄りも続かなアカンなぁ・・・
後に続く者は、酒の肴にせぇよ!」

と、腹を十文字に掻き切り、その刀を高時の前に差し置きました。

とは言え、皆が皆、そういう芸当ができるわけでもなく、ともにいた長崎円喜(えんき=高重の祖父)は、少しためらっている様子・・・

というか、この状況を見れば、順番は高時ですから、円喜としては、その動向を見ていた感もなきにしもあらずですが・・・

とにかく、そこに、円喜の孫=長崎新右衛門(しんえもん)が進み出て
「先祖の名を高める事こそが子孫の孝行・・・神様もわかってくれはるやろ!」
と、言いながら、祖父=円喜の腹を2度ほど刺し、自らも、その刀で自害しました。

この新右衛門という人が、わずか15歳の少年・・・この若き武者の見事な自刃を見た高時は、すぐに、その後に続き、自害して果てたのです。

そして、この光景を目の当たりにした居並ぶ諸将は次々と切腹・・・その数は、そばにいた者だけで283人。

やがて、皆々が我先にと腹を切り、館に火を放ったので、その猛火は炎々と燃え盛り、煙は天を覆ったと言います。

結局、死者の数は東勝寺全体では870人・・・鎌倉では6000余人に及んだのだとか・・・

元弘三年(1333年)5月22日、ここに、鎌倉幕府は滅亡します。

と言いたいところですが、ご存じのように、高時は幕府最後の執権ではありませんし、高時の息子をめぐるなんやかんやのお話もしなければならないし・・・と、イロイロと書きたいところなのですが、さすがに、ここまま次のお話にいくわけには行かず・・・

今日のところは、このくらいにしといたろか~by池野めだか師匠
って事でよろしくお願いします。

追記:いつもその数を大幅に盛る『太平記』の上記の死者の数については、このページの続きのお話も含めて、翌日=5月23日のページでどうぞ>>

追記2:鎌倉陥落後、最後に降伏した金剛山の幕府軍については7月9日のページでどうぞ>>
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2012年5月21日 (月)

新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説

 

元弘三年(1333年)5月21日、新田義貞軍が稲村ケ崎の干潟から、鎌倉に奇襲をかけました。

・・・・・・・・・・

源頼朝の開幕以来、約150年に渡った鎌倉幕府に対して、元弘三年(1333年)、討幕ののろしが挙がります。

まずは2月に、護良親王(もりよし・もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)吉野に立て籠り(2月1日参照>>)
続いて、楠木正成(くすのきまさしげ)千早城で奮戦(2月5日参照>>)
さらに、隠岐から脱出した後醍醐(ごだいご)天皇船上山(せんじょうざん)に籠り(2月24日参照>>)
5月に入れば、京にて足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)六波羅探題を破る(5月9日参照>>)・・・

そんな中の5月8日、いよいよ新田義貞(にったよしさだ)が挙兵します。

わずか150騎だった軍勢は、途中で高氏の息子=千寿王(せんじゅおう=後の義詮)も合流して2万7000の大軍に膨れ上がった新田軍は、5月11日早朝、武蔵の小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)にて幕府軍との直接対決となりました(5月11日参照>>)

その後、鎌倉街道沿いに一進一退を繰り返しながら徐々に鎌倉へ近づいていきますが(5月15日参照>>)、難攻不落の要塞都市である鎌倉に入るのは、そう簡単な事ではありません。

ここで、義貞は手勢を三手に分けます。

大館宗氏(おおだちむねうじ)江田行義(いくよし)率いる1軍は極楽寺の切通しへ・・
堀口貞満(さだみつ)大島守之(もりゆき)率いる1軍は巨福呂(こぶくろ)坂へ・・・

そして自らは、弟の脇屋義助(わきやよしすけ)とともに50万7000余(太平記の言い分です)の本隊を率いて化粧坂(けわいざか)へと向かいました。

もちろん、幕府側も極楽寺坂に大仏貞直(さだなお)、巨福呂坂に赤橋守時(もりとき)、化粧坂には金沢越後左近太夫将監(かなざわえちごのさこんのだいふしょうげん)など、北条一族の勇将を揃えて迎えます。

合戦が開始されたのは5月18日早朝・・・大軍を擁して攻め寄せる新田軍と、地の利を活かした少数精鋭で迎撃する幕府軍・・・

終日続いた合戦により、巨福呂坂方面では幕府の敗色が濃くなって守時が自刃するも、極楽寺では一進一退の激戦・・・また、化粧坂の本隊はどうにもこうにも先へ進めません。

かくして元弘三年(1333年)5月21日夜・・・義貞は、2万の精鋭だけを連れて、片瀬(かたせ)・腰越を回って鎌倉に突入する迂回作戦を決行するのです。

*注:ここからは『太平記』にある伝説が含まれています。
小高い場所に立って、月明かりに照らされる敵陣を見渡す義貞・・・

北は極楽寺の切通しから南は稲村ケ崎(いなむらがさき)の海岸線まで、防備の垣がビッシリと並び、数万の兵が隊列を組んで防御に当たっています。

海岸線は、それこそ波打ち際まで防御の逆茂木(さかもぎ)が立ち並び、続く海上には四~五町(1町=数百メートル)先まで櫓を装備した大船が浮かび、側面から弓を射る態勢も万全・・・「確かに、ここを攻め落とすんは大変やな」と、義貞・・・

そこで、馬を降りて兜を脱ぎ、遥か海上を拝みながら龍神に向かって祈ります。

Inamuragasakinozu900 新田義貞鎌倉合戦 稲村ケ崎の図(館山市立博物館蔵)

「聞くところによれば、日本を創造した伊勢の天照大神(あまてらすおおみかみ)のおおもとは大日如来であり、民衆を救うために龍神の姿となって大海原に出現したとの事・・・

わが君=後醍醐天皇は、その天照大神の末裔でありながらも、臣下の者の裏切りによって西海を流浪しておいでです。

今、この義貞は、天皇の臣下の道を貫かんがため、武器を持って敵陣の前に立ってます。

目指すは、天皇を助け、国民が心安らかな世にする事・・・
どうか、全世界の龍神よ!この義貞の忠義の心をご理解いただいて、潮の流れを遠くに退け、道を開いてくださりたまえ~~」

こう言って、自らが持っていた黄金造りの太刀を抜いて、海中に投げ入れたのです。

すると、どうでしょう・・・それまでは、行き来するのも困難だった2階の物干し場が・・・もとい、海に阻まれて行き来できなかった海岸線から、一斉に潮が引きはじめ、そこに、20町余りに渡る砂浜が現われたのです。

しかも、側面から弓を射ようと準備していた、あの大船も、潮の流れに乗って沖へと流されてしまいました。

この光景を見た義貞・・・
「古代の中国では、後漢(ごかん)弐師(じし)将軍が、水の尽きた城内で、石に刀を刺して水を湧き出させたと言う・・・

日本では、神功(じんぐう)皇后三韓征伐(9月5日参照>>)の時に、引き潮の珠(たま)を海中に投げて海の水を引かせて、戦いに勝利した。

今、目の前に広がる光景は、これと同じ吉兆の奇跡にそっくりやんけ!」
と、兵士たちの士気をあおります。

『進めや!兵(つわもの)ども!』

おそらくは、引き潮の時間に合わせたグッドタイミングの演出(*ちなみに、現代の計算技術と古記録との照合ではじき出された結果では、実際の干潮は5月18日の午後だったとされています)・・・

ではありますが、兵士たちに勢いをつけるには、これほどの効果的演出はありません。

士気の盛り上がりそのままに稲村ケ崎を通り、一丸となって鎌倉へ突入する新田軍・・・

と、この先のお話は翌日・・・【鎌倉炎上…北条高時・自刃】でどうぞ>>
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2012年5月20日 (日)

悪女?有能政治家?将軍の嫁・日野富子

 

明応五年(1496年)5月20日、第8代室町幕府将軍・足利義政の正室で、巨万の富を築いた悪女と噂される日野富子が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

おやおや・・・奇しくも、あの応仁の乱が勃発した(2008年5月20日参照>>)と同じ日ではございませぬか!

これまでも、その応仁の乱関連で度々ご登場いただいている日野富子(ひのとみこ)さんなので、本日の内容は、それらのページとかぶる部分もございますが、なにぶん今日は、ご命日という事で、その富子さんの生涯についてご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

室町幕府の第3代将軍であった足利義満(あしかがよしみつ)が、宮廷の儀式についてのモロモロや、宮廷内の現状を知るために重用していたのが、北朝4代・後光厳(ごこうごん)天皇に仕えていた日野宣子(のぶこ)という女官・・・

その縁から、宣子は、姪っ子の業子(なりこ)義満の正室とする事に成功・・・さらに、その業子が亡くなった後には、その業子の姪っ子である康子(やすこ)継室(2度目の正室)に・・・

さらに、その康子の妹=栄子が第4代将軍の足利義持(よしもち)の正室となって5代将軍=義量(よしかず)を産み、その後も、6代将軍の足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)には正室と側室を送り込むという具合に、将軍家と深い絆で結ばれていった日野家・・・

Hinotomiko540 そして、当時21歳だった第8代将軍の足利義政の正室として白羽の矢が立ったのが、日野重政(しげまさ)の娘で、16歳の富子だったわけです。

しかし、16歳に新妻にはちとショックな・・・実は、すでに義政には今参局(いままいりのつぼね)というゾッコンの側室がいたのです。

この方は、義政に恋の手ほどきをした年上の女性・・・さすがに、側室が当たり前の時代であっても、筆をおろしてもらったその女性に今もなお夢中で、新妻をかえりみない状況は、ちょっとコク・・・しかも今参局は、政治にも口出すほどの権力を謳歌してる・・・

・・・で、その状況を見るに見かねた大叔母の日野重子が、富子が死産したのをキッカケに、実際には女の子だったその子を「男の子であった」と報告したうえに、この死産は今参局の呪詛(じゅそ=呪いをかける)による物だとして、容疑者となる修験者まで逮捕します。

あくまで冤罪の臭いがプンプンする一件ですが、この事を信じた義政は、大した取調べもしないまま、今参局を琵琶湖の沖島へと流罪に・・・失意の今参局は、まもなく島で死亡してしまいます(富子が刺客を放ったとも、無実を訴える彼女が自ら命を絶ったとも)

こうしてライバルを1人消した富子・・・しかし、かと言って、義政と富子の間に男子が生まれる事もありませんでした。

ところが、寛正六年(1465年)、逆に義政の側室の1人・宮内卿局(くないきょうのつぼね)男子を出産!・・・このままだと、この子が次期将軍になってしまいます。

富子は急いで、「その子は義政の子ではなく、宮内卿局が近臣と密通してできた子供である」との噂を流し、結局、その子は、将軍の子として認知される事はありませんでした

なんせ、この時代・・・将軍の息子を産んで、その子を次期将軍にするというのが、正室として送り込まれた女性の最大の任務ですからね。

しかし、ライバルを消したとて、やっぱり二人の間に子供はできない・・・20代も後半になれば高齢出産となるこの時代・・・

さっさと、富子との子供を諦めて時期将軍を決定し、大好きな趣味に没頭したい義政は、仏門に入っていた弟=義視(よしみ)還俗(げんぞく・出家した人が一般の世間に戻る事)させて養嗣子にし、後継者に決定してしまいます。

ところが、その途端、26歳の富子が男児を出産!!・・・後の義尚(よしひさ)です。

とは言え、上記の通り、次期将軍が義視というのは、すでに決定した事・・・いくら、子供ができたからと言っても、すぐにくつがえす事はできません。

しかし、ちょうどウマイ事に、後継者でモメていたのは将軍家だけではなく管領家の畠山氏や斯波(しば)氏もモメにモメてる真っ最中・・・

・・・で、応仁元年(1467年)1月・・・その畠山氏の後継者争い=御霊合戦(1月17日参照>>)をキッカケに、あの応仁の乱が勃発するのです。

この畠山氏の後継者争いで畠山義就(よしなり)を支持していたのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)、一方の畠山政長(まさなが)を支持していたのが細川勝元(かつもと)・・・で、その勝元は義視を支持している・・・

当然、富子は宗全と義就に近づいた・・・というわけです。

しかし、この応仁の乱・・・以前、その終結に関するページで書かせていただいたように(11月11日参照>>)
最初こそ、
●5月26日の五月合戦(5月28日参照>>)から、
●10月3日の相国寺の戦い(10月3日参照>>)
●翌年3月の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)
と、大きな戦いがあったものの、その後は小競り合いのような物ばかりで、全国の大名を巻き込んで、京都の町を焦土と化した大乱のワリには、名のある武将が命を落とす事もなく、しかも、途中で総大将=義視がトンズラしたり、復帰しちゃぁ寝返ったりして(11月13日参照>>)、最後には、その勝敗さえウヤムヤになったミョーな乱・・・

10年の長きに渡る、このダルダル感に、義政は自暴自棄になって、ますます趣味に走り、宗全&勝元の両大将も命を縮めてお亡くなりになり(3月18日参照>>)、男連中が総崩れにダウンする中、富子は裕福な金貸しへと変貌し、そこに活路を見い出すのです。

・・・と、こう書くと、ケチで強欲な金貸しバァサン的イメージで、良く思われないかも知れません。

現に、政治にも積極的に口を出し、地位や権力など、使える物はフルに使ってお金儲けに走る姿に、昔も今も、「富子=悪女」のイメージが着いて回る事も確かです。

しかし、同時代を生きた大乗院尋尊(じんそん)の日記には・・・
『天下公事(くじ)修まり女中の御計(おんはからい)、公方は大御酒、緒大名は犬笠懸(いぬかさがけ)、天下泰平の如くなり』
「戦いに疲れた男たちが酒を喰らって遊興に走ってる間に、政治の事は女中(富子の事)が仕切っとるやんけ!」
と書き残しています。

これって、一見、富子の悪口のようですが、考えようによっちゃぁ、「男連中が何もしないから富子が頑張ってる」っていう風にも聞こえます。

そうです。
女は、金貸しをしてお金を儲けたとは言え、それを私利私欲に使う事はありませんでした。

御所の造営や朝廷の行事や幕府の運営など・・・先に参照した、乱終結のページ(再び11月11日参照>>)でお解りのように、最終的に不満ムンムンの戦国大名を満足させて帰らせ、応仁の乱を終わらせたのも富子のお金なのです。

「お金で、解決するなんて汚い!」
「愛があれば、お金なんていらない!」

なんてのは、ある程度余裕のある、年齢も若い人の思う事・・・

「世の中、金でっせ!」
と言えば聞こえは悪いですが、お金によって、すべてが丸く納まり、恨みっこなしで解決できる事も大人の世界では多々あるのです。

そういう意味で、富子は、見事、その富を有効利用したと言えるのでは?

ところで、そんな富子さん・・・

応仁の乱の時に、義視がフラフラしてくれたおかげで、次期将軍には、我が子=義尚をつける事ができましたが、残念ながら、義尚は、25歳という若さで亡くなってしまいます(3月26日参照>>)

さすがの彼女も、その時は、武将たちの行列にともなわれた義尚の棺にすがって人目もはばからず泣き崩れたと言います。

しかし、富子強し・・・

その後は、自分の妹と義視との間に生まれた義材(よしき=後に義稙)を第10代将軍に擁立しますが、延徳二年(1490年)に、夫の義政が亡くなった(1月7日参照>>)後、義材の後見人として義視の発言権が強くなると、亡き勝元の息子=細川政元(まさもと)と組んで、第11代将軍・足利義高(後の義澄)を擁立・・・

そう、あの明応の政変(6月23日の前半部分参照>>)ウラにも、富子は暗躍していたとか・・・

まさに不屈の精神ですが、残念ながら、そのクーデターから3年後の明応五年(1496年)5月20日富子は57歳の生涯を閉じたのです。

近年では、悪女というイメージから、有能な女政治家へと変貌しつつある富子への評価・・・その汚名が払拭される日も近いのかも知れません。
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2012年5月18日 (金)

奈良時代にやって来たインド僧…菩提僊那

 

天平八年(736年)5月18日、東大寺の大仏建立に尽力したインド僧菩提僊那が大宰府に上陸しました。

・・・・・・・・・

菩提僊那(ぼだいせんな)・・・

天平時代の僧ですが、上記の通り、日本人ではありません。

古代インドの四姓制度の最上位である婆羅門(バラモン)の出身で、そのお名前も、サンスクリット語だとボーディセーナと発音します。

平成の今でも、画家を志す人は「パリに行きたい」、ミュージシャンを志す人は「ロンドンに行きたい…」と思うように、この時代に仏教を志した人の常として、日本人僧なら、まず、「仏教の本場=中国で、その教えを学びたい」と思い、その後は、さらに「発祥の地であるインドに行きたい!」と思う物です。

時代は少し後になりますが、国内ではこれ以上ない出世をしていながら老いた母を置いてまで海を渡った成尋(じょうじん)(2月2日参照>>)や、数奇な人生を歩んだ高丘(たかおか)親王(1月27日参照>>)なんて、まさにそうですね。

・・・と、これは日本人から見た発想ですが、それが仏教発祥の地であるインドから見たら・・・

そう、たとえば・・・
日本でそのワザを極めた柔道家は、「海外で真の柔道を教えたい」、あるいは、「遠い外国に、どのように伝わっているのかを、この目で見たい!」と思うかも知れません。

菩提僊那の最初の旅は、そんな発想からなのかも知れません。

一説には、「彼は、中国の仏教聖地=五台山(ごだいさん)にあった文殊菩薩に会いたかったのだ」とも言われていますが、とにもかくにも、あのシルクロードを旅し、ヒマラヤ山脈を越えて、遠く中国までやって来たのです。

そして、当時、都であった長安(ちょうあん=現在の西安)崇福寺(そうふくじ・すうふくじ)というお寺に滞在し、そこを拠点に僧としての活動を続けていたと言われますが・・・

そんな彼の運命が変わるのは、733年(天平五年)・・・

この時、遣唐使として中国に渡って来ていた日本人たちと出会うのです。

この時の彼らは、中臣名代(なかとみのなしろ)副使として派遣された回の人たちだったと言いますので、まさに天平五年(733年)に派遣された第10回遣唐使ですね(4月2日参照>>)

・・・で、親しくなった彼らから、「ぜひとも日本で正しい仏教を広めてほしい」と懇願された菩提僊那・・・

もちろん、彼は悩んだでしょう。

この時代の日本なんて、おそらく中国でもあまり知られていないだろうし、インド育ちの菩提僊那にとっては、まさに、初耳の見知らぬ国であった可能性大です。

しかし、この時の彼は、まだ30歳を過ぎたばかり・・・そんな不安より、新たなる地での経験のほうに賭けたのかも知れません。

唐の僧やベトナムの僧らとともに、海を渡った菩提僊那は、天平八年(736年)5月18日九州は大宰府に到着したのです。

当然ですが、教発祥の地出身の僧が日本に上陸するのは初めてですから、ものすンごい歓迎を受けるわけで、平城京では、あの行基(ぎょうき・ぎょうぎ)(2月2日参照>>)に迎え入れられ、新築されたばかりの大安寺にて僧坊を与えられます。

残念ながら、この大安寺が、その後に幾度も火災に遭ってしまった事から、この大安寺での菩提僊那の暮らしぶりの記録という物が皆無なので、その様子をうかがい知る事はできませんが、

おそらくは、日本の皆が「天竺(てんじく)」として憧れたかの地の話を、若い僧たちに言って聞かせていた事でしょうね。

やがて、天平勝宝三年(751年)には、僧としての最高位である僧正(そうじょう)を贈られる菩提僊那・・・おそらくは、時の聖武天皇信頼も厚かったのでしょう、

Naranodaibutucc 翌・天平勝宝四年(752年)のあの大仏開眼では導師(どうし=法要の中心となる僧)を務め、開眼の・・・まさに、その目を入れるという大役をこなしています。

ちなみに、この時の開眼に使われた筆は、現在も、あの正倉院(6月21日参照>>)に大切に保管されているのですが、

ちなみのちなみ、更なる余談としては、あの源平の戦いで炎上(12月28日参照>>)した後、文治元年(1185年)に大仏は再建され、この最初の開眼に使われた正倉院の筆が、この時の2度目の開眼にも使用されているのですが、この時、この筆を使って目を入れた人が、今が旬のはみだし皇子こと後白河法皇(3月5日参照>>)・・・って事で、ちょっとした豆知識でした。

スンマセン、ちょっと話がソレました(;´▽`A``

こういった経緯から菩提僊那は、聖武天皇、行基、そして良弁(ろうべん)(3月14日参照>>)とともに、大仏建立に尽力した人物として東大寺四聖の1人と称される存在となります。

天平勝宝五年(753年)には、お馴染の中国の高僧=鑑真和上(がんじんわじょう)が来日(12月20日参照>>)していますが、おそらくは、その後も、唯一の婆羅門僧正として、民衆から、そして多くの僧から崇拝されていた事でしょう。

こうして、24年という歳月を日本で過ごした菩提僊那・・・

天平宝字四年(760年)2月25日、大安寺にて、彼は、西方を向いて合掌したまま、57歳の生涯を閉じたと言います。

最後には、その西方遠くにある故郷の景色が、その瞼に浮かんだやも知れません。

不安に満ちた見知らぬ国にやって来て、仏教の発展に尽くした彼のような存在なくしては、現在の日本の仏教も無かったのかも・・・感謝です。
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2012年5月17日 (木)

前田利家の妻・まつの江戸下向の謎

 

慶長五年(1600年)5月17日、亡き前田利家の妻=芳春院が江戸に出発しました。

・・・・・・・・・・・

亡き前田利家の妻芳春院(ほうしゅんいん)・・・ご存じ、まつさんの事です。

「利家とまつ」は、かつては主役を飾った事もあり、戦国が舞台のドラマには、ほとんど登場する事で、もはやあらためてご紹介するまでもない有名ご夫婦・・・私としても書きたい事柄が複数ある方なのですが、今回は、やはり、この江戸行きを中心に・・・

ただ、今回の江戸への出立は、本日の17日以外に、5月20日説もあるのですが、とりあえずは今日の日づけでお話を進めさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

そんな利家とまつとは切っても切れない関係にあるのが、あの豊臣秀吉おね(ね・ねね)夫婦・・・

そもそも、織田信長の配下として、ダンナ同志が同僚で嫁同志が親友となれば、家族ぐるみどころか、親戚よりも深いつき合いをしていた事は察しがつくわけですが、未だ下っ端だった秀吉とおねが結婚する際に、利家とまつが、その仲人をやった話は有名ですよね(8月3日参照>>)

こうして、親しい関係を続けていた両者が、さらに親しくなるのは、あの豪姫(ごうひめ)・・・

豪姫は、利家×まつ夫婦の四女として生まれながらも、未だ実子のいない秀吉×おね夫婦の養女となった姫ですが、秀吉は、この豪姫の事を「男なら関白にしたいくらいだ!」と、大いに気に入り、溺愛していたと言い、彼女の結婚相手となった宇喜多秀家(うきたひでいえ)も、それまで以上に大事にしましたからね(5月23日参照>>)

秀吉が関白に就任して豊臣の姓を賜ってからは、利家は、秀吉の前官職と姓の二つを継承して羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)となって、まさに、2人三脚の政治運営を行う一方で、まつは、おねとともに、奥向きの事を一手に引き受けてこなしていました。

豊臣政権にとって、まつが特別な存在である事がわかるのが、有名な、あの醍醐(だいご)の花見です(4月7日参照>>)

この時、女性の行列の順番=輿次第では・・・
1番:北政所=おね
2番:西の丸殿=淀殿
(茶々)
3番:松の丸殿=京極龍子
4番:三の丸殿=信長の六女で蒲生氏郷の養女
5番:加賀殿=利家の三女・摩阿姫
(まあひめ)
そして、この後の6番目に来るのが「大納言殿御内」=まつです。

ご覧の通り、妻でも側室でも無い女性は、彼女1人です。

これには、「5番目の摩阿姫の後見人という立場での出席では?」とも考えられますが、それならそれで、摩阿姫以外の姫たちにも、それぞれ、後見となる立場の身内か乳母がつき従うはずですが、そんな人たちはいません。

なので、やはり、これは、まつが「豊臣家の一員として6番目にいる」と考えるか、あるいは、「豊臣配下の全大名夫人の代表として」しか考えられないわけで、いずれにしても特別なのです。

この時、盃を回す順番を争って、淀殿と龍子がモメた有名な一件でも、まつが、おねとともに仲裁に入って、見事治めているあたりも、その重要度がわかるという物です。

それが一転するのが、慶長三年(1598年)8月秀吉の死(8月9日参照>>)と、翌年の3月の夫=利家の死(3月3日参照>>)・・・

この時、秀吉の遺言に従って、すでに利家の跡目を継ぎ、大坂城にて、秀吉の遺児=豊臣秀頼傅役(もりやく)を務めていた利家×まつの嫡男=前田利長(としなが)ですが、父=利家の亡くなったその日の夜に起こった石田三成襲撃事件(3月4日参照>>)などのゴタゴタで、父の葬儀にさえ出席できないほどに大坂城を離れられない状況だったと言います。

ところが、その後、徳川家康が大坂城西の丸に入って政務の監督的役割をするようになると、利長は、突然、秀頼の傅役という立場を放棄して、加賀金沢に戻ってしまうのです・・・これが、慶長四年(1599年)の8月28日の事でした。

家康の行動そのものは、秀吉の遺言通りで、この時点では、決して「豊臣をないがしろにして自分が天下を取るための行動」では無かったわけですので、このタイミングでの突然の帰国理由としては、その采配の振るい方の細かな部分に、利長にとって腑に落ちないところがあったのでは?とも言われますが、

一方では、利長に帰国を勧めたのは家康自身であって、表向きは、あまりに忙しい利長の労をねぎらうという形にして、この後の展開を待っていたのでは?とも言われますね。

なんせ、この先、事態は急展開します。

利長が大坂城を去った、わずか10日後の9月9日・・・豊臣政権・五奉行の1人の増田長盛(ましたながもり)が、家康のもとを訪れ、
「同じく五奉行の一人である浅野長政や、大野治長(はるなが)土方雄久(ひじかたかつひさ)らが、大坂城にて家康を襲撃する計画を立てている」
と、密告したというのです。

土方雄久とは、まつの甥っ子とされる人物・・・しかも、『譜牒餘録』によれば、
「これは、すべて肥前守(ひぜんのかみ=利長)の企てである」
とまで伝えられたのだとか・・・

これを受けた家康は、早速、利長と縁戚関係にある細川忠興(ただおき)けん制をかけると同時に誓詞を取り、一方で、加賀周辺の大名たちに、その時に向かって備えるようにうながしたのです。

この事を、妹=豪姫の婿=秀家から聞いて、びっくり仰天の利長・・・しかも、その頃には、先鋒として加賀小松城主の丹羽長重(にわながしげ)を向かわせるとの具体的な噂となっていました。

慌てて弁明に奔走する利長・・・その結果、利長の母=つまり、まつを江戸へ下向させる事を約束し、何とか家康の了解を得る事ができ、難を逃れたのでした。

こうして、慶長五年(1600年)5月17日人質、あるいは証人とも言える形で、まつは江戸に向かう事になるのです。

Matu600 おかげで、前田家は潰される事なく、江戸時代を通じての加賀百万石へとつながり、まつは、この先、江戸幕府が実施する藩主の妻子を江戸に置く江戸居住制の第1号なんて事も言われていますが・・・

しかし、ちょっと待ったぁ~~
ここに、興味深い書状が現存します。

それは、浜松城主の堀尾忠氏宛てに前田玄以(げんい)長束正家(なつかまさいえ)そして、先ほどの増田長盛の豊臣三奉行の連名で書かれた慶長五年(1600年)5月13日付けの書状・・・

「羽柴肥前守殿御袋、江戸へ御下りについて、浜松に一夜御泊りの賄(まかな)い用に、米五石、大豆畳石の分、奥村伊予守・村井豊後守両人に相渡されるべく候。恐々謹言」

この文面自体は、何のことは無い、ただの業務連絡・・・「これから江戸に向かうまつが浜松で一泊するので、コレコレの品々を同行してる二人に渡してね」という内容なわけですが・・・

そう、なぜに豊臣家三奉行の連名・・・
前田家の奥様が前田家を救うために江戸に行くのに、なぜに??

この事から、まつは、前田家の人質or証人としてではなく、豊臣政権の人質or証人として江戸に下ったとの見方もあるのです。

先の醍醐の花見のごとく、豊臣の一員とみなされていたのなら、この時のまつが、豊臣政権の大老(傅役)の生母として、豊臣政権を代表して江戸に入った事も充分考えられるわけです。

おそらく、彼女の宿泊準備も浜松城に限った事ではなく、沿線の諸大名すべてに課せられていたはずですしね。

まつは、加賀を出る時・・・
「侍っちゅーもんは家を守るのが一番・・・
私は、年いってるし、覚悟もできてる!
私を思うあまりに、家を潰すような事はあってはならん事や!
いざという時は、この母を捨てなさい!

と、利長に言い放ったとか・・・

果たして、まつの江戸行きが、前田家の代表であったのか?豊臣政権の代表であったのか?・・・その見方には、まだまだ諸説ありますが、少なくとも、彼女の決意だけは、戦国武将のそれに勝るとも劣らない、見事な決意だった事は確かですね。

そして、まさに、このまつの江戸下向直後に、家康は会津征伐(4月1日参照>>)を開始し、すべてが、天下分け目の関ヶ原に向かって走り始めます。

母から前田家の将来を任された利長は、北陸の関ヶ原浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)に挑む事になります。

※まつについては、そのご命日に書かせていただいた【利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ】もどうぞ>>
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2012年5月16日 (水)

楠木正成&正行…桜井の別れ

 

延元元年・建武三年(1336年)5月16日、後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が、兵庫に向かって出陣しました。

・・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)に不満を持ち、反旗をひるがえして京に攻め上った足利尊氏(あしかがたかうじ)(12月11日参照>>)を蹴散らした新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)北畠顕家(きたばたけあきいえ)(1月27日参照>>)・・・

しかし、一旦、九州に落ち延びて(3月2日参照>>)体勢を立て直した尊氏は、再び、今度は西から、とてつもない大軍となって京へと迫ります(4月26日参照>>)

この時、正成は、
「後醍醐天皇が、一旦、比叡山へと退いてから、兵庫にいる義貞を京へ呼び戻した後、敵軍を京都市中におびき入れ、新田&楠木連合軍で、四方から猛攻をしかけて討つ」
という作戦を提案しますが、
「天皇たる者が、敵が来る前に敗走するなどもってのほか!」
と反対され、
「とにかく、兵庫にいる義貞と協力して、海路でやって来る尊氏を迎え討て」
と指示されます。

「これなら勝てる!」
と思った作戦を却下された正成は、次の戦いでの死を覚悟し、建武三年(延元元年・1336年)5月16日義貞のいる兵庫に向かって、500騎の手勢とともに出陣したのでした。

京を出て、西国街道を西と向かう正成・・・

Sakuraiato330 JR島本駅前にある「櫻井驛址」の碑(島本町桜井1丁目)

やがて、河内との分かれ道となる桜井の宿(大阪府三島郡島本町)に差し掛かった頃、ともに来ていた嫡男=正行(まさつら)を呼び寄せます。

「あんな、よう聞けよ。
獅子は、生まれて3日目の子供を、数千丈
(1丈=約3m)の断崖から、投げ捨てるそうや。

もし、その子に、すでに獅子としての素質が備わっているんやったら、子供は教えんでも宙返りして立ちあがり、死ぬ事は無いと言われてる。

お前は、もう11歳や・・・この話の意味、わかるよな?

意味がわかるんやったら、これから俺が大事な事を言うさかい、よう聞いて、その通りにするんやぞ。

今度の合戦は、天下を賭けた合戦やから、おそらく、この世でお前の顔を見るのも、これで最後やと思う。

ほんで、もし、ホンマに俺が死ぬような事があったら、おそらく、この世は尊氏の思うがままになってしまうやろ。

けど、そないなっても、その場限りの命惜しさに、長年の忠節を忘れて降伏なんかしたら、絶対、許さんからな。

一族のうち、誰か1人でも生き残ってる間は、金剛山(千早城)あたりに立て籠って、養由(ようゆう=中国春秋時代の武人)のような弓の名人が攻めて来ても、命がけで立ち向うて、忠臣の紀信(きしん=漢の高祖の身代わりとなった家臣)みたいに忠義を尽くすんやぞ!

これが、お前のできる一番の親孝行やと思え」

・・・泣く泣く申し含めて、各各(おのおの)東西へ別れにけり・・・

正成は兵庫へ・・・
正行は河内へと・・・
これが父子の、今生の別れとなりました。

この名場面は、「桜井の別れ」と呼ばれ、それこそ、戦前は、国語・修身・歴史の教科書にも載る有名なお話でした。

現在では、
「名場面っぽくするために、息子を未だ幼い設定にしたものの、実際には、この時の正行は、もう、すでに成人していた」
とか、
「この桜井の別れ、そのものが創作だ」
なんて意見もありますが、

やっぱり、ここまでの感動の名場面は、歴史ファンとしては捨て難いです~

このお話は、
「青葉茂れる桜井の」
あるいは
「大楠公の歌」
「桜井の訣別」

などという題名で、唱歌になってますが、これが、また、泣けて来るイイ歌なんですよね~

♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
 木
(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
 世の行く末をつくづくと
 忍ぶ 鎧
(よろい)の袖(そで)の上(え)
 散るは涙かはた露か ♪
(落合直文:作詞 奥山朝恭:作曲)

この歌を聞けば、見事に情景は浮かんで来て、このページを読むより、はるかにス~~ッと、頭の中に入ってきますヨ

歌詞はまだまだ、4番か5番くらいまで続きますので、興味がおありでしたら、上記の歌の題名でググッてみてください。

こうして、兵庫で待つ義貞のもとに参陣した正成・・・

義貞に天皇の言葉を伝えた後、二人は酒杯を傾けながら、夜を徹しての軍議に入ります。

そうです・・・死を覚悟したとは言え、そこは武勇誉れ高き二人・・・最後まで決してあきらめません。

こうして、湊川(みなとがわ)の戦いへと向かっていくのですが、そのお話は・・・
●楠木正成サイドの
2007年5月25日【七生報国・湊川の戦い】>>の後半部分
●新田義貞サイドの2012年5月25日【新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義】>>
でどうぞ

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2012年5月14日 (月)

毛利VS尼子…上月城の大砲争奪戦

 

天正六年(1578年)5月14日、毛利方の杉原盛重の陣から上月城に大砲が撃ち込まれました。

・・・・・・・・・・

山陰地方に、その勢力を誇った尼子氏が、安芸(あき=広島県)毛利元就(もとなり)の前に倒された月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)攻防戦・・・(11月28日参照>>)

当主の尼子義久以下、3兄弟が幽閉され、事実上、尼子氏は滅亡したわけですが、それに納得できない家臣の山中鹿介(鹿之介)幸盛が、京都にてすでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦する中、

当時、破竹の勢いで中国地方に勢力をのばして来ていた織田信長に謁見し、信長の毛利攻めの一員となったのは、天正元年(1573年)の事でした。

この頃、信長の中国攻めを任されていたのが、羽柴(後の豊臣)秀吉・・・勝久&鹿介以下、尼子氏の残党たちは、この秀吉の付属軍となって働きます。

やがて、天正五年(1577年)12月・・・秀吉が、宇喜多直家(うきたなおいえ)配下の上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)を攻略した事から、勝久ら尼子氏は、この上月城の守りを命じられました。

Koutukizyoukankeizucc この上月城は、秀吉の進軍によってすでに信長配下となっている播磨(兵庫県)と、備前美作(みまさか=岡山県)との国境に位置する城で、言わば、対・毛利の最前線・・・

ここに、毛利によって月山富田城を落とされた彼ら尼子氏を配置して、尼子氏残党の復讐心をあおる一方で、尼子氏を滅ぼしたつもりの毛利へは嫌なけん制球となるという見事な采配でした。

しかし、もちろん、配下の城を奪われた直家も黙ってはいません。

翌・天正六年(1578年)2月、直家は、すぐさま上月城を攻撃・・・わずかな尼子の残党だけしかいなかった上月城は、あっという間に奪回され、勝久らは、一旦、秀吉のいる姫路城へと避難します。

もちろん、今度は、秀吉が黙っていません。

すぐさま援軍を引き連れて、翌月には、再び、上月城を奪回します。

これを知った毛利輝元(元就の孫)が、信長との対決には、まず、尼子の残党を倒してから・・・とばかりに、上月城を包囲したのは4月の事でした。

で、今度は、それを知った秀吉が、上月城に籠る尼子勢を援助すべく、上月城近くの高倉山に本陣を構えたのが、天正六年(1578年)5月4日の事(5月4日参照>>)

とは言え、上記の5月4日のページに書かせていただいたように、この時の秀吉は、離反した別所長治(べっしょながはる)三木城(兵庫県三木市)攻防戦の真っ最中(3月29日参照>>)・・・救援のために、ここ上月城まで出張って来ましたが、その三木城への攻撃も緩めるわけにはいきません。

かと言って、信長本人も石山本願寺との合戦の正念場に差し掛かった頃(9月30日参照>>)、コチラも畿内を離れるわけにも行かず・・・

って、事で、結局、この上月城は見捨てられ、翌月には秀吉も三木城攻防戦へ戻ってしまうのですが、そのお話は、先ほどの5月4日のページ>>で見ていただくとして、本日、ご紹介するのは『陰徳太平記(いんとくたいへいき)に登場する、この上月城攻防戦での、ちょっとおもしろいエピソード・・・

冒頭に書かせていただいた通り、
天正六年(1578年)5月14日、毛利方の杉原盛重(もりしげ)の陣から上月城に大砲が撃ち込まれ、尼子側にも死傷者がでました。

この時代・・・命中率が低く、どちらかと言えば、脅かす程度の効果しかない大砲ではありましたが、撃ってるうちには1発くらいは当たる物で、この日、まぐれでピンポイントに命中した事から、尼子勢は大いに驚き、怯え、城内の士気は下がるばかりでした。

そこで鹿介・・・
「誰か、あの高台に設置されてる大砲を、谷底に落として来いや!
ほんで、谷底で10人くらいが待ち構えといて、その大砲を奪うねん!
奪った大砲で砲撃して、このワシが毛利を撤退さしたるさかいに・・・」

と・・・

・・・で、この日の夜・・・
「我こそは!」と名乗り出た数十人が、重盛の陣へ夜襲をかけます

たまたま、なぜか、「この日は夜襲は無いだろう」と油断していた重盛の陣営は、急襲に驚き、ほとんど戦わずしてその場から撤退してしまいました。

もちろん、そのスキに尼子勢は、かの大砲を谷へと引きずり降ろしますが、そこへ毛利の援軍が到着・・・夜襲をかけた数十名は、大砲をほっぽらかして、慌てて退散します。

返って来た彼らを迎えた鹿介は、
「大砲をそのまま、そこにほってくるやなんて・・・なんやカッコ悪いやんけ!」
と、少々お怒り気味・・・

「何とかして、こっちへ持って来んかい!」
と、彼らにゲキを飛ばします。

急いで、谷に落ちた大砲を探しに向かう尼子勢・・・

まもなく、見つけて、
「よっこらしょ、よっこらしょ」
と、上月城内に運び込もうとするのですが、間もなく城内・・・というところで、またしても毛利勢に見つかってしまいます。

なんせ、相手は多勢ですから、見つかってしまったら勝ち目は無い・・・で、結局、尼子勢は、またしても大砲をほっぽり出して、城内で退散・・・

結局、毛利勢の手で、大砲は再びもとの位置にもどされて、チャンチャン・・・てな話なのですが・・・

そもそも、
大砲を首尾よく奪ったとして・・・
尼子側に、その大砲を扱える兵士はいたのか?
この大砲に使える弾薬は確保してあったのか?

・・・と、突っ込みどころ満載のお話で、血で血を洗う攻防戦のさ中に、力が抜けるようなエピソードですが、逆に、ひとりひとりの表情が生き生きと伝わって来る気がして、個人的には、こういうお話は大好きなのです。

上月城攻防戦の一場面として、ご紹介しました。
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2012年5月12日 (土)

可愛い子には旅を…鎌足の息子=定恵の留学

 

白雉四年(653年)5月12日、中臣定恵が、遣唐使として唐に旅立ちました。

・・・・・・・・・・・・

定恵(じょうえ)・・・飛鳥時代の僧です。

出家して、このお名前になるのですが、もとのお名前が中臣真人(なかとみのまひと)と言い、あの乙巳(いっし)の変大化の改新(6月12日参照>>)の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)=後の藤原鎌足の長男です。

日本の歴史上に君臨する藤原氏の基礎を作る、あの藤原不比等(ふひと)に、お兄さんがいたなんて!
私も、長い事知りませなんだ・・・

Zyoue600 それにしても、「真人」って名前・・・真=マコトの人、完全無欠の人、ってスゴイ名前です。

弟の不比等だって「他に比べられないほど(スゴイ)って意味ですから、鎌足父ちゃんは、スゴイ名前をつけるのが好きだった父ちゃんなのかも・・・

とにかく、この真人兄ちゃんと弟・不比等は、かなり年齢が離れていますので、この長男が生まれてからしばらくの間は、鎌足父ちゃんとしては、そんなスゴイ名前をつけたくなるくらい、ものすごく可愛がっていたわけで・・・

とは言え、この定恵さん(ややこしいので、ここからは定恵の名で呼ばせていただきます)・・・多くの謎に包まれた人です。

なんせ、史料が少ないうえに、残ってる史料によって言ってる事が違ってたりするので・・・だからこそ、教科書にドド~ンと載ったり、大々的に扱われる事が無く、あまり知られていないのかも知れませんね。

まずは、母親がはっきりしません。

一般的には、複数の史料にある車持国子君(くるまもちくにこぎみ)の娘とされますが、『日本書紀』では阿部氏の娘となってます。

しかも、そこに共通するのは、この車持の娘であっても阿部氏の娘であっても、どっちにしても、その奥さんは、第36代孝徳天皇の寵妃であった女性を賜ったと・・・

昔々のこういうケースの場合、女性はすでに妊娠している事が多々あって、つまりは、お腹の子供ごと賜る・・・現在の常識では、ちょっと理解し難いですが、当時の常識としては「高貴な人の子供を自分の子供にできる名誉な事」なわけで・・・

と、なると、この定恵さんの父親は鎌足ではなく、孝徳天皇の可能性も否定できないわけです。

ちなみに、弟・不比等のお母さんも、第38代天智天皇(一緒に大化の改新した中大兄皇子)から賜った寵妃なので、こっちも、ご落胤説が濃厚です。

・・・で、そんな長男を、鎌足は出家させ、しかも「遣唐使として唐(中国)に留学させよう」ってんですから、なかなかの決意っぷりです。

なんせ、枝分かれしているとは言え、鎌足の中臣氏は、古代より神事や祭祀を司る神官の家系なわけで、仏教ドップリの渡来系かも知れない蘇我(そが)とはワケが違います。

そんな蘇我氏でさえ、たった一人の長男を出家させて遣唐使にしようとは思わなかったのに、むしろ、仏教の導入に反対していた側の中臣のあととりを・・・

これには、「天皇の子供だから・・・」=つまりは、自らの実子じゃないので、愛情が薄かったから・・・なんて事も言われたりしますが、私としては、それこそ、現代の常識を持ち込み過ぎだと思います。

生まれた赤ちゃんが、皆、無事に成人するとは限らないこの時代・・・自分の子供なら、本人が頑張れば、それだけたくさん子供を授かる事ができ、無事に成人する人数も多くなるわけですが、高貴な人の子供を賜る機会はそうそう無いわけで、

もし、定恵さんが、本当に孝徳天皇の子供ならば、むしろ、その名誉に報いるべく、かえって大切に育てねばならないと思うのです。

なので、実子であろうが無かろうが、おそらくは、大切に育てたであろう長男を、遠き大陸に留学させるにあたっては・・・これには、やはり、父として相当な決意がいった事と思います。

なんせ、あの小さな遣唐使船で海を渡るのは危険極まりない行為・・・確かに、朝鮮半島との関係が悪化してルート変更(4月2日参照>>)してからの後半の遣唐使の危険度よりは、未だ、安全なルートだったですから、ちょっとはマシだったかも知れませんが、やっぱり、それでも命がけです。

しかも、この時、定恵は、わずか11歳・・・次男の不比等は、まだ生まれてません。

しかし、鎌足父ちゃんは、その名前に勝るとも劣らない聡明で優秀な完全無欠の長男に、藤原氏(まだ中臣ですが…)の未来を全面的に託すべく、一大決心をして留学させたのだと思います。

なんせ、この定恵を出家させた時の師匠というのが、慧隠(えおん)という僧で、23年間もの長い留学経験があり、現在の政権で国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として活躍する(みん)(10月11日参照>>)などと並び称される、当時の最高頭脳だった人ですから・・・

息子に、最高の教育者をつけた鎌足なら、きっと、その留学先にも最高の場所を想定し、最高かつ最新の文化を学んでくるよう準備させたはず・・・

おそらくは、次世代を担う最高の政治家になって戻って来る事を期待して、心を鬼にして(出家=縁を切る意味も含まれてますので…)息子を送りだしたに違いありません。

こうして定恵は、白雉四年(653年)5月12日第2回遣唐使(8月5日の第1回参照>>)として旅立ったのです。

現地に着いた彼は、父の期待通りに勉学に励みます。

なんせ、彼が、長安(ちょうあん=唐の首都)で弟子入りしたのは神泰(じんたい)法師という、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記の三蔵法師)が西域から持ち帰った経典の数々を中国語に訳す係を、唐の玄宗(げんそう)皇帝から託されていた人・・・つまり、コチラも当時の最高頭脳の僧だったワケで・・・

そんな人から教えてもらい、おそらくは、その経典の翻訳作業もその目で見たでしょうし・・・そりゃ、ついて回るだけでも、かなりの勉強になりますよ。

こうして12年に渡る留学生活を有意義に過ごした定恵・・・

天智天皇四年(665年)の9月、立派な23歳の青年に成長して無事、帰国します。

彼が、父の期待通りの優秀な人物に成長していた事がうかがえるのは、その帰国の途中に朝鮮半島を経由して帰って来るところ・・・

そう、あの白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)があったのが、その帰国の2年前の天智天皇二年(663年)ですから・・・

個人的な思い込みかも知れませんが、この2年前の戦いを意識して朝鮮半島に寄って来たんじゃないかな?なんて考えたりします。

とにかく、無事の帰国・・・良かった良かった・・・

しかし、世の中、うまく行かないものです。

なんと、定恵は、帰国から、わずか3ヶ月後に病死してしまうのです。

一説には、そのあまりの優秀さを危険視した大陸or半島の住人が毒殺したなんて噂もあるようですが、冒頭に書いた通り、定恵の史料は少なく、この亡くなった時期でさえ諸説あるので、そこのところは、想像の域を出ない物です。

この時、彼が留学中に生まれていた弟=不比等は、わずか7歳・・・

この先、父=鎌足も死に、政争で後ろ盾を失った不比等が、一から身を起こして、再び政治のトップに躍り出る(8月3日参照>>)事を知ってる身としては、

この時、優秀な兄ちゃんが生きていたら、不比等の人生はどんな物だったんだろう?
なんて、想像を膨らませてしまいますね。
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2012年5月11日 (金)

鎌倉討幕…新田義貞の挙兵

元弘三年(1333年)5月11日、鎌倉幕府軍から後醍醐天皇方へ転身した新田義貞が小手指原合戦に撃って出ました。

・・・・・・・・・

ブログ開設以来、これまでの6年間、ここらあたりの事を、あまり書いていなかったせいで、このところ鎌倉幕府の終盤&南北朝の時代のネタが多くなってしまっていますが、もう少々、おつきあいを・・・

なんせ、まるでドラマの場面展開のように刻々と状況が変わり、西に目を向けていれば、その間に東で・・・と、めまぐるしく変化していくもので・・・

まずは、ここまでを時系列で整理すると・・・

これまで、何度も討幕計画を立てては潰されていた後醍醐(ごだいご)天皇が、悪党(主君・領地を持たない武士)楠木正成(くすのきまさしげ)の助力を得て笠置山にて挙兵・・・元弘の変を勃発させるも失敗に終わり(9月28日参照>>)赤坂城で奮戦していた正成が、城を脱出したのが元弘元年(1331年)10月21日・・・(10月21日参照>>)

捕えられた後醍醐天皇が隠岐へ流されたのが翌・元弘二年(1332年)3月7日・・・(3月7日参照>>)

その8ヶ月後の11月・・・先の元弘の変の時に笠置山から脱出していた後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王再起を図って吉野山に立て籠り、全国に向けて討幕の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)を発すると、まもなく、行方をくらませていた正成が赤坂城を奪回して、翌・元弘三年(1333年)の1月には、天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)

そして、これを受けた幕府が派遣した大軍が、正成の籠る千早城に攻めよせるのが閏2月5日の事・・・(2月5日参照>>)

その閏2月の下旬には、あの後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事から、幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを派遣・・・

しかし、4月16日に京に入った高氏は、ここで後醍醐天皇方に転身し、逆に六波羅探題を攻撃(5月7日参照>>)・・・続く5月9日には、六波羅探題の北方を務めていた北条仲時(なかとき)らが自刃し、探題は消滅します(5月9日参照>>)

・・・で、先の閏2月5日に千早城に攻めよせた幕府軍が、結局、城を落とせず、包囲を解いて撤退するのが5月10日という事になります。

と、長い前フリになりましたが、本日、書かせていただくのは、この間の新田義貞(にったよしさだ)の動き・・・

以前書かせていただいたように、この時の義貞は、はじめ、正成の籠る千早城の後方支援として派遣されていた幕府軍の一員でした。

とは言え、あの源頼朝の直系の将軍が、わずか3代で絶え(1月27日参照>>)、今やお飾りの公家将軍のもとで鎌倉幕府の実権を握る執権=北条家は平家の血筋・・・

かたや義貞は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の嫡流=源氏の棟梁としてのプライドもあり、こうして、北条家の配下にいる事に、モンモンとした日々を送っていたわけで・・・

Nittayosisada600b そこで、義貞は、千早城を囲む一員として動く中、執事の船田義昌(ふなだよしまさ)を呼び寄せて、密かに、その心の内をうち明けます。

「この状況を見る限り、幕府崩壊も、そう遠い事やない。
俺は上野
(こうずけ=群馬県)へ帰って、討幕の旗を挙げようと思うんやけど、それには天皇家の人の命令が必要や。
なんとか、官軍の看板を取得できんもんやろか」

すると義昌・・・
「幸いな事に大塔宮が、この山中に潜んでおられるようなんで、この義昌がなんとかして、令旨をいただいて参りましょう」
と、心強い返事・・・

大塔宮(おおとうのみや・だいとうのみや)とは、かの護良親王の事で、この時、先の呼びかけに応じて集まった野武士集団を率いて、正成を支援すべく、千早城周辺の山や谷に潜んで、道路を破壊したりのゲリラ戦を展開していたのです。

しばらくたって・・・義貞のもとに現われた義昌・・・なんと、彼が手にしていたのは、大塔宮の令旨ではなく、後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)だったのです。

これが、千早城攻防戦、真っただ中の3月11日の出来事でした。

思いがけず、最高の物を手に入れた義貞・・・すぐさま仮病を使って戦線を離脱し、領国に帰って準備に取り掛かります。

と、こうして密かに準備していたはずだったんですが・・・
そうとは知らない執権=高時が、このタイミングで、義貞の領地である新田庄の世良田郷に、六万貫という高額の軍資金を要求・・・

怒った義貞が、この高時からの使者を斬っちゃった事から、逆に幕府が激怒・・・義貞と、その弟の脇屋義助(わきやよしすけ)討伐命令を発します。

これを受けて、一族内で協議した結果、義貞らは、「朝敵(国家の敵)征伐」の大義名分のもと、幕府に、堂々と反旗をひるがえす決定をしたのでした。

かくして、西の京都では、あの高氏が六波羅探題を攻撃中の5月8日、義貞は生品明神(いくしなみょうじん=群馬県太田市)にて、討幕の旗揚げをし、鎌倉に向かって出発・・

この時、わずか150騎だった軍勢・・・そこに、あの高氏の息子=千寿王(せんじゅおう=後の義詮)が加わります。

そう、高氏が京都に進発した時は、未だ、北条の配下として後醍醐天皇を討伐するための軍だったわけで、そのために、高氏は妻子を鎌倉に残したまま、京に向かった(4月16日参照>>)・・・そこを、千寿王は、うまく鎌倉脱出に成功して、新田軍に合流したというワケ・・・

ただし、この時、山伏姿に身をやつして京方面に向かっていた高氏の嫡男=竹若(たけわか)が、高氏謀反のニュースを鎌倉に知らせるために東に向かっていた幕府側の使者に発見されて斬り殺されていますから、後の2代将軍の運命も、危機一髪だったってわけですね。

とは言え、新田&足利・・・源氏の両巨頭の合流は、多くの味方の参戦を産み、翌・9日には、総勢2万7千騎もの大軍に膨れ上がっていました。

こうして元弘三年(1333年)5月11日早朝・・・新田軍は武蔵の小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)に進軍し、幕府軍との壮絶な騎馬戦を展開しました。

・・・が丸1日かかっても決着がつかず・・・夜明けを待って再開された再びの激戦では見事、新田軍が勝利し、幕府軍は分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで撤退します。

しかし、そこは幕府・・・
即座に新たな援軍を派遣して、5月15日には形勢逆転・・・新田軍は大きく撤退する事となりました。

実は、「ここで幕府が更なる追撃を行えば、義貞本人を討ち取る事ができたはずだ」『太平記』は言います。

「是ぞ平家の運命の尽きぬる処ところ)のしるし也(なり)
ここで、追撃しなかった事が、北条の滅亡という運命を決定づけたのだと・・・

そう、一旦は、この15日の敗北に落ち込んでいた義貞が、再び奮起して、鎌倉への猛進撃を再開するわけですが、そのお話は、5月15日の【起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い】でどうぞ>>
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2012年5月10日 (木)

後醍醐天皇を支えた南朝の総参謀:北畠親房

正平九年・文和三年(1354年)5月10日、南朝方の参謀として活躍した北畠親房が62歳で亡くなりました。

・・・・・・・・

これまでもチョコチョコ、そしてこれからも、何度も登場するであろう北畠親房(きたばたけちかふさ)さんですが、本日は、そのご命日という事で、その生涯についてご紹介させていただきます。

村上源氏の流れを汲む8代め=雅家(まさいえ)が、京都の洛北・北畠に居を構えた事から北畠氏と名乗るようになった北畠氏・・・今回の親房は、雅家の曾孫にあたります。

若くして、その才能を発揮していた親房は、第96代後醍醐(ごだいご)天皇の信頼も篤く、その皇子=世良(よよし・ときなが)親王養育係となります。

Kitabataketikafusa400 その聡明さゆえ、父=後醍醐天皇の期待も大きかった世良親王でしたが、残念ながら、若くしてこの世を去ってしまい、親房は、この親王の死をキッカケに出家してしまいます。

なので、その後、後醍醐天皇が行った鎌倉幕府に対する倒幕行動には、タッチせず・・・

彼が再び出仕するのは、建武元年(1334年)の建武の新政(6月6日参照>>)が樹立されてからですが、すでに親房は出家していますので、事実上の力関係はともかく、一応、現時点での北畠のトップは長男の北畠顕家(あきいえ)・・・

って事で、前年に陸奥守(むつのかみ)に就任した息子とともに、後醍醐天皇の皇子である義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)奉じて陸奥へと向かい、東国での地盤固めに徹しておりました。

しかし、まもなく・・・ご存じのように、ともに鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇仲間から、あの足利尊氏離反します(12月11日参照>>)

この危機に、息子とともに畿内へとって返し、一旦は尊氏軍から京を奪回したものの(1月27日参照>>)、その後九州にて態勢をを整えた尊氏軍によって(4月26日参照>>)楠木正成(5月25日参照>>)新田義貞(7月2日参照>>)らが討死・・・後醍醐天皇も幽閉されてしまいます。

この間、吉野や伊勢にて後醍醐天皇勢力の結集に奔走していた親房は、やがて、後醍醐天皇が幽閉先から脱出して(12月21日参照>>)吉野で開いた南朝に従い、尊氏と対抗する事になります。

この頃、東北の軍勢を率いて南朝側の中心的軍事力となっていた息子=顕家でしたが、残念ながら、延元三年(建武五年=1338年)の戦いで戦死してしまいます(5月22日参照>>)

長男の死を受けて、親房は、次男=顕信(あきのぶ)結城宗広(ゆうきむねひろ)らとともに、再び、東国での勢力拡大を図るべく、義良親王&宗良(むねよし・むねなが)親王を奉じて、海路、東北へ向かいました。

が、しかし、船団は途中で暴風雨に遭い、船が散り散りに・・・親王らとはぐれて、単独で目的地のの陸奥に着いた親房は、常陸小田城(茨城県つくば市)を拠点に、以後、約5年間に渡って関東・東北での勢力結集に奔走します。

このつくば在住の時に執筆したとされるのが『神皇正統記(じんのうしょうとうき)です。

Zinnousyoutouki600 これは、神代の頃からの天皇に関する事柄をピックアップし、南朝の正統性を明らかにしようと言う物で、後に後村上天皇に献上されますが、もちろん、後村上天皇だけではなく、南朝そのものに捧げる物で、南朝にとって理論的に強い味方になる物でした。

とは言え、親房が頑張ってその正統性を叫んだとしても、今や、その天皇家が周囲の勢力によって翻弄される時代・・・しかも、ご存じのように、南北朝の動乱は、日に々々北朝有利に傾いていきます。

やがて、反勢力との抗戦に敗れて、小田城を開城し、興国四年(康永二年=1343年)に吉野へと戻った時には、すでに後醍醐天皇は亡くなっており(8月16日参照>>)、かの義良親王が第97代後村上天皇となって、南朝の主となっていましたが、すでに、生前の後醍醐天皇から、「後の事は頼んだで!」と託されていた事もあって、その後は、後村上天皇の右腕となって、南朝の政治や軍事面の中心となった親房・・・

おそらくは、一進一退を続ける南北朝の動向に、気の休まる時も無かった事でしょうが、そんな中での親房の心の支えは、この南朝が唯一正統な皇統として君臨する事・・・

そんな事を夢見ながらの正平九年(文和三年=1354年)5月10日、親房は、一時避難していた賀名生(あのう=奈良県五條市)の地にて、その波乱に満ちた62年の生涯を終えました。

彼の死後、指導的立場の人物を失った南朝は、北朝と抗戦というよりは、和睦の方へと向かっていくのですが、その道のりは、まだまだ長いです。

一方、この親房の三男であった顕能(あきよし)が、伊勢国司として伊勢一帯に勢力を誇り、後に、あの織田信長と相対する戦国の北畠氏(11月25日参照>>)の祖となります。
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2012年5月 9日 (水)

432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃

 

元弘三年(1333年)5月9日、六波羅探題北方・北条仲時が、一行432名とともに自殺しました。

・・・・・・・・

第14代執権=北条高時(たかとき)が事実上の実権を握る鎌倉幕府に対し、楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに倒幕ののろしを挙げた第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

その高時の命を受けて、天皇派討伐軍として京に派遣された足利高氏(後の尊氏)でしたが、実は、その心はすでに後醍醐天皇方にあり、京に入るなり一転して六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)を攻撃します。

元弘三年(1333年)5月7日、高氏らの猛攻に敗色が濃くなった六波羅探題は、北方を務める北条仲時(なかとき)南方北条時益(ときます)ら、ともに、一旦、六波羅を捨てて関東へと退く事としました。

これまでの経緯のくわしくは5月7日のページ>>でご覧くださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

こうして、六波羅を後にした仲時ご一行・・・

しかしながら、間もなく、先陣を務めていた南方の時益が、敵の放った矢に射抜かれて討死・・・同行していた光厳(こうごん)天皇にも流れ矢が当たって、左足を負傷するという事態に・・・

何とかその場を切りぬけた仲時らは、すでに700騎にまで減っていた自軍を三手に分け先陣を家臣の糟谷宗秋(かすやむねあき)に、後陣を、途中で合流した佐々木時信(ときのぶ=六角時信)に託しました。

しかし、その後、彼らが行きついた番馬(番場=ばんば・滋賀県米原市)の宿では、すでに峠が敵陣によって封鎖されていたのです。

仲時らが関東に落ちて行くという噂が流れた5月6日に、後醍醐天皇の五宮(ごのみや=亀山天皇の皇子・守良親王の事とされる)が放った令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)に応答した近在の悪党(主君を持たない武士)野伏(のぶし=落武者狩りをする民衆)たちの集団が、番馬に集結していたのです。

その数、およそ5000人・・・

何とか、果敢に討って出る宗秋らは、1度は敵を蹴散らしますが、後陣の姿がまだ見えない事もあって、仲時らの陣とともに、近くの辻堂(蓮華寺)に身を隠して後方からの援軍到着を待つ事にしました。

ところが、そんな彼らが見た物は・・・

後方から、錦の御旗を掲げてやって来る5000余りの集団・・・もちろん時信の後陣ではありません。

あ然とする仲時ら六波羅勢一行・・・

実は、この時、探題(=仲時)討死の誤報が流れた事によって、「もはや、決着がついた」と判断した時信は、高氏側に降伏を申し出た後、京都方面に戻ってしまっていたのです。

Houzyounakatoki600 そうとは知らない仲時は、不安に思いながらも時信の来援に一縷の望みを託して待ちますが、時間の経過とともに、その状況は否応なく解って来るもの・・・

しかも、例えこの場を切りぬけたとしても、この先には、美濃(岐阜県)土岐(とき)一族三河(愛知県東部)吉良(きら)一族など・・・
敵方にくみした者がウジャウジャいます。

やがて仲時は、言います。

「もはや、北条も終わったな・・・と、わかっていながら、ここまでついて来てくれた皆、ありがとうな。
なんとか、その気持ちに応えようと思うけど、もはや命運尽きたしな・・・
こうなったら、君らに、この仲時の首を捧げよう。
この首持って、敵方に降伏すれば、恩賞も貰えるよってに・・・」

この言葉を残し、仲時は、その場で腹掻き切って切腹・・・元弘三年(1333年)5月9日享年28歳の若さでした。

それを見た宗秋は・・・
「殿を見捨てるなどできません・・・死出の山道、お供します!」
と言って、仲時の体を貫いた刀で以って、彼も自害します。

そして、なんと、その場にいた432名が、二人の後を追って自刃したのです。

辻堂の庭は血の海と化し、死体の山で埋め尽くされ・・・そこには、ぼう然とたたずむ光厳天皇の姿・・・

やがて光厳天皇は野伏集団に捕えられ、持っていた三種の神器は五宮の手に渡ります。

ここに六波羅探題は、完全に消滅したのです。

一説によれば、仲時自刃の時、光厳天皇も「私も自刃しよう」と申し出たと言います。

しかし、それを止めたのは仲時自身・・・

「僕が、まだ、生きてる時に、天皇を敵方に奪われたんなら、僕の恥って事にもなりますけど、僕らが死んでしもてからなら、どーっちゅー事もありません」

つまり、あなたは生きていてください」と・・・

そこには、天皇家を上、武家を下に見る王家の犬などではなく、「この命賭けて天皇家をお守りする事こそ武士の誇り」とする平氏の血筋(北条も平氏です)が、幕府最期の時となってもなお、脈々と受け継がれていたように感じます。
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2012年5月 8日 (火)

燃える大坂城から唯一の脱出成功者・明石全登

 

慶長二十年(1615年)5月8日・・・

ご存じ、大坂夏の陣大坂城が落城したした日・・・って事で、このブログでも、複数の関連記事を書かせていただいておりますが・・・

よろしければ、この機会に…↓
秀頼生存説>>
淀殿・生存説>>
秀頼の二人の息子>>
脱出した秀頼の娘>>
千姫・救出劇>>

合戦の経緯については、上記のページを見ていただくとして、本日は、そんな大坂城を守っていた明石全登について・・・

この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、その7人とは・・・
真田幸村(信繁)
毛利勝永(かつなが)
木村重成(しげなり)
大野治房(はるふさ)
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)
・・・そして明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)の7人です。

その中で、ご存じのように・・・
真田幸村は前日の合戦で徳川家康本陣に迫りながらも討死・・・(5月7日参照>>)

毛利勝永は、最後まで豊臣秀頼のそば近くにいて、最期は、その介錯をしたと言われる武将で、秀頼とともに自刃しています(2015年5月7日参照>>)

木村重成は、この2日前の5月6日の若江での野戦で討死・・・(5月5日参照>>)

大野治房は、淀殿の乳母=大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子でこの大坂の陣での大坂方の中心人物であった大野治長(はるなが)の弟で、一説には落城時に秀頼の息子=国松を連れて脱出した人とされますが、上記のリンク(秀頼の二人の息子>>)にもある通り、彼も、その国松も捕えられてしまい、斬首されています。

長宗我部盛親も、落城時に大坂城を脱出しますが、3日後に確保され、5月15日に処刑されました(5月15日参照>>)

後藤又兵衛は、去る5月6日の道明寺誉田の戦い(2016年4月30日参照>>)で、薄田隼人(すすきだはやと)(2009年5月6日参照>>)ともに亡くなっています。

そうなんです・・・七人衆どころか、その他の主だった武将を入れても、生き残りがほぼ皆無な大坂方で、ただ一人、燃え盛る大坂城からの脱出に成功したのが、この明石全登なのです。
(*秀頼や又兵衛の生存説などは、あくまで噂の域を出ない伝説ですので…)

・‥…━━━☆

掃部頭(かもんのかみ)なので、明石掃部とも呼ばれる全登は、かの豊臣秀吉に我が子のように可愛がられ、五大老の1人となっていた宇喜多秀家(うきたひでいえ)家老・・・片腕と言われるくらいの重要な役どころをこなしていた人です。

秀家の従兄弟の宇喜多詮家(あきいえ=後の坂崎出羽守直盛)に勧められて入信したキリスト教にドップリとハマッて、以後、熱心なキリスト教徒になります。

慶長元年(1596年)に、かの二十六聖人(2月5日参照>>)が長崎まで護送された時に、その警固を担当したのが全登で、結局は悲しい結果となってしまった二十六聖人の殉教ではありましたが、その中で、彼らをできるだけ良き待遇で扱う事に努力した全登の警固ぶりは、宣教師を通じてヨーロッパにまで伝えられたと言います。

また、慶長四年(1599年)に起こった宇喜多家のお家騒動でも、その手腕を発揮しています。

まぁ、この宇喜多騒動・・・奥さんの豪姫(5月23日参照>>)大好きの秀家が、豪姫が入信しているキリスト教への思いが強すぎて、家臣団に「改宗しろ!」と迫りまくった事がキッカケで、日蓮宗信者の家臣が反発して・・・と言われますが、

そのワリには、反発の中心人物が、かの詮家=坂崎直盛という事になっていて、「お前もキリシタンちゃうんかい!」ってツッコミたくなる、よくわからないお家騒動となってます。

とは言え、その原因はともかく、何らかのお家騒動があった事は確かで、その一触即発の状況を、家老の全登が見事に納めてまとめた事も確か・・・

ただ、その家臣団のゴタゴタの立て直しが、未だ完成形を見ていない段階で、あの関ヶ原の合戦を迎える事になってしまいました。

この時、西軍の主力の1人として参戦していた秀家は、小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返り(10月18日参照>>)を目の当たりにして、
「あのクソガキ!刺し違えたる!」
と、単身で敵方に突っ込もうとしたのを、全登が何とかなだめ抑えて、合戦の状況を冷静に判断した後、主君=秀家を、伊吹山の山中に逃れるように手配したのだとか・・・

おかげで、秀家は、その後に捕縛されるものの、八丈島の流人第1号となって、とりあえずは天寿を全うする人生を送っています(8月6日参照>>)

一方、この時は全登自身も関ヶ原から姿を消します。

一説には、姻戚関係のある黒田長政に保護されて、しばらくは筑前(福岡県)にいたという話もありますが定かでは無く、おそらくは、浪々の身として、各地を転々とする生活を送っていたものと思われます。

なぜなら、全登は、まだ、この時点でもキリスト教を捨ててはいませんので、キリスト教を禁止にした黒田家のそばには、おそらく、いられなかったでしょうからね。

Rikugunnfunatukiba2a1000 旧陸軍の船着き場と現在の大阪城・天守閣

やがて、慶長十九年(1614年)10月・・・

突如として全登は、約4000のキリシタン兵を引き連れて、冬の陣開戦間近の大坂城に現われるのです。
(なんか、カッコイイぞ!)

こうして、幸村や又兵衛と同じく、大坂城内の七人衆と呼ばれる重要人物の1人となった全登・・・

もちろん、今回の夏の陣でも大活躍で、「真田日本一」の誉れ高いあの家康本陣突っ込み隊には、この全登も参加していて、彼もまた戦場を迂回して背後に回り、あわやという寸前まで、家康に迫った1人なのです。

しかし、ご存じのように、この作戦は失敗に終わり、冒頭に書いたように幸村は討死・・・

で、全登は・・・
実は、また、ここで忽然と姿を消すのです。

合戦のさ中に討ち取られたという話も、あるにはありますが、彼ほどの武将ですから、もし討ち取られていたなら、絶対に、はっきりした記録に残るはず・・・それが、曖昧な物しか無いという事は、やはり、討死はしていない・・・

かと言って、彼は、敬謙なキリシタンなので、どこかでそっと自刃する事もない・・・あの小西行長だって、キリシタンだったために自刃せずに出頭した(9月19日参照>>)わけですから・・・

って事は、やっぱり、どこかで生きている・・・となって、果ては、外国に高跳びしたなんて話もあります。

はたして、いずこに・・・
何らかの記録が出て来るとウレシイんですがねぇ~
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2012年5月 7日 (月)

足利高氏の六波羅探題攻撃…守る北条仲時

 

元弘三年(1333年)5月7日、篠村に布陣していた足利高氏が、京をめざして出立しました。

・・・・・・・・・・

源頼朝が開いた鎌倉幕府ですが、頼朝直系の将軍はわずか3代で絶え、その後は、公家から迎えたお飾りの将軍のもと、執権として北条氏が事実上の実権を握っていました。

やがて、第14代執権=北条高時(たかとき)の時、政権を朝廷に取り戻すべく挙兵した第96代後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、元弘の変に破れ(9月28日参照>>)隠岐へと流されます(3月7日参照>>)

しかし、その1年後の元弘三年(1333年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が各地の反幕府勢力をまとめて吉野山に立て籠り、再び倒幕ののろしを挙げると、先の戦いで行方不明になっていた楠木正成も千早城にて挙兵・・・(2月5日参照>>)

このタイミングで隠岐から脱出し、伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った後醍醐天皇が(2月24日参照>>)、京に攻め上るとの噂を耳にした高時は、討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の足利尊氏)京都に派遣・・・しかし、すでに、その心の内が倒幕に傾いている高氏は、戦場となっている京都南部(4月8日参照>>)八幡(やわた)山崎には向かわず、北部の篠村(京都府亀岡市)に陣取り、その心の内を後醍醐天皇に告げたのでした。

・・・と、4月16日のページでは、ここまでこ紹介させていただきましたくわしくは2012年4月16日のページで>>)

・‥…━━━☆

この時、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)北方を務めていたのは、第13代執=北条基時(もととき)の息子=北条仲時(なかとき)南方を務めていたのが一門の北条時益(ときます・北条政村の流れ)でした。

大軍を率いて京に入った高氏の参戦に、一旦は士気挙がる六波羅勢でしたが、その高氏が戦場をスルーして篠村に陣取り、宴会ばかり開いている事に、その空気を察し、またたく間に、士気が下がってしまいます。

しかも、高氏とともに上洛して、山崎にて奮戦していた幕府方総司令官名越高家(なごえたかいえ=北条一門なので北条高家とも)討死したというニュースも、そこに舞い込んで来て、ますます、空気は悪くなるばかり・・・

一方の高氏のもとには、近隣諸国から次々と応援の武士団がやって来て、コチラは士気も最高潮に・・・

かくして元弘三年(1333年)5月7日高氏は京を目指して篠村を出立します。

Sinomurahatimanguu600 篠村八幡宮に祈願書を納め、新たに戦勝を誓う高氏・・・ここ篠村は、高氏の母=上杉清子の故郷でもありました。

途中、大江山を越えたあたりで、一対の山鳩が源氏の白旗の上を舞います

「おぉ、これこそ八幡大菩薩の使い!」
とばかりに、ますます士気が高まる高氏軍は、出立の時に2万だった兵も、京に到着する頃には5万にも増えていたとか・・・(んなアホな!相変わらず『太平記』は盛っとるなぁ)

こうして、京に入る足利軍・・・そこに、赤松則村(あかまつのりむら)千種忠顕(ちぐさただあき)の軍勢も加わり、四方から一気に攻め込みます。

一方の六波羅勢は、手勢を三手に分けて各地で応戦・・・よく戦いますが、なんせ、もともと多勢に無勢・・・しかも、敗色が濃くなるに従って、戦線を離脱する逃亡者の数が増えて行き、状況悪化に拍車がかかります。

最終的に六波羅の城塞に籠る形となった彼ら・・・夜になると、ますます脱落者が後をたたなくなり・・・結局、周囲に残る兵は、わずか1000騎にまで落ち込んだとか・・・

夜も更けて、明日からの作戦を練る六波羅では、仲時の家臣=糟谷宗秋(かすやむねあき)が提案します。

「もはや、わずか1千騎では太刀打ちできません。
かと言って、名もなき野郎に討たれるのもくやしい・・・
ここは一つ、光厳天皇と上皇をお連れして、一旦関東へと退き、時を見て再起を図る事にしましょうや。
瀬田まで行って、佐々木時信と合流したなら、その先の見通しも明るいですよって…」

と・・・

この意見を受け入れて、関東へと下る決意をした北条仲時&時益・・・

この時、仲時は、ともにいた妻に言います。

「ともに地の果てまで・・・と思とったけれど、すでに敵軍は東西の道を塞いでるらしく、わずか1千騎で、それを突破して、関東まで落ち延びる事ができるかどうか・・・
こうなったら、キミは、息子を連れて落ちてくれ!
キミは女で、息子は幼い・・・そんな二人やったら、たとえ敵に見つかっても、見逃してもらえるに違いないさかい」

と、別々に落ち延びる事を提案しました。

しかし、奥さんの返答は「NO!」・・・「私は、ここに残ります」

おそらく、彼女の思いは、
夫とともに東に向かえば足手まといとなる・・・
かと、言って、夫の言うように落ち延びて、敵方の憐みを受けるのもイヤ・・・
ならば、ここ六波羅で、華々しく散ろう・・・

彼女の決意は固く、逆に仲時が言い負かされ、自分の提案を撤回せざるを得ないほどでした。

その名も、出自も記録には残っていない彼女ですが、六波羅探題を任された男の妻としての誇りとプライドは、悲しいほどに感じていたのでしょう。

やむなく、涙ながらに妻子を残して出立する事となった仲時・・・

出立してまもなく、ふと振り返った仲時・・・そこには、すでに火の海に包まれた六波羅館があったと言います。

こうして、数も少なくなった六波羅勢は、一路、近江(滋賀県)へと向かって駒をすすめて行く事になりますが・・・

この続きのお話は、5月9日のページでどうぞ>>
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2012年5月 5日 (土)

露と消え…木村重成の夏の陣・前夜

 

元和元年(慶長20年・1615年)5月5日、大坂方の将・木村重成が入浴の際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、大坂の陣・・・
(大阪の陣までの経緯や、前後の戦いについては【大坂の陣の年表】からどうぞ>>)

豊臣秀頼の配下として、この時、大坂城にて戦いに挑む木村重成(しげなり)は、まるで、、この大阪の陣のために花咲いたような武将・・・

それまでの経歴がほぼ皆無なところから、おそらくは、この大阪の陣が初陣ではないか?と言われ、年齢も、未だ23歳の若者でした。

とは言え、秀頼の乳母=宮内卿局(くないきょうのつぼね)の息子だったと言われる重成は、雇われ浪人が多くを占める大坂城内では、秀頼にとって、数少ない身内のような存在・・・その信頼も厚く、実戦経験が乏しいワリには、重要な役どころを任される事もしばしばありました。

そんな重成さん・・・出て来る文献では、とにかくベタ褒めの嵐です。

戦国武将らしく体格はガッチリしていて強そうなのに、お顔は色白で、キリリとしたかなりのイケメン・・・

物腰はやわらかで、やさしい言葉づかい・・・何があっても、声を荒げて怒鳴るなんて姿を見た事が無い事から、周囲からは
「長州(長門守重成なので…)は手ぬるい!役立たずや!」
なんて事を言われるほどでした。

しかし、「物静かな人=おとなしくて弱腰」なんてのは、勝手な思い込み・・・彼は、その表に見せるやさしさとは裏腹な、熱き心を持っていたのです。

それは、大坂の陣の足音がひしひしと感じられるようになったある日、大坂城にいた茶坊主が、日頃からおとなしい重成をバカにしてからかった事があったのですが、当然、血気盛んな若き戦国武将が茶坊主ごときに恥をかかされたとあっては黙って引き下がれるはずもないと、周囲にいた者たちは「すわっ!」と身構えます。

ところが、肝心の重成は、まったく動揺を見せる事無く、その茶坊主にゆっくり近づき・・・

「武士としては、本来なら、ここで、キミを切り捨てるところなんやろけど、城内で刀振り回したとあっては、ケンカ両成敗で、僕かて切腹せなアカン事になるかも知れんやん。
主君の一大事に役に立てようと思うこの命・・・残念ながら、キミごときの為に捨てるような安い命なんか、僕は持ちあわせてませんねん!」

静かに笑みを浮かべながらのこのセリフに、茶坊主は、逆に震えあがったと言います。

また、重成は、大坂冬の陣で縦横無尽の大活躍を見せますが、これに感激した秀頼が、その武功を褒め、感状(かんじょう)とともに、正宗の脇差を彼に与えようとしたのですが、重成は、受け取りを拒否・・・

感状とは、合戦の功績を評価・賞賛するために主君が発給する文書の事で、つまりは成績表みたいな物・・・今で言えば、大学の卒業証明書や検定&資格取得の証明書みたいな物。

それを踏まえて・・・
「感状って、他家に仕官する時には有利になる物なんでしょうけど、他の主君に仕える気の無い僕にとっては無用のもんですから・・・」
と・・・

う~~んカッコイイ!!
内に秘めたる熱き武将魂がカッコ良すぎるゾ!
木村君ヽ(´▽`)/

そんな重成さんですが、一旦の和睦の後、いよいよ大坂夏の陣も近い5月頃になると、なぜだか急に食が細くなります。

世間では、堀を埋められて裸城になってしまった大坂城で、しっかり戦えるのか?との声もありましたから、「その事で不安になって、体調を崩してしまってるのではないか?」と心配した奥さん・・・

そっと、「大丈夫なの?」
と尋ねてみると、

「いや、そうやないねん。
昔、後三年の役(11月14日参照>>)
っちゅー戦いがあった時に、臆病者の末割四郎是広(すえわりしろうこれひろ)っちゅー武将が、怖くて朝の食事も喉に通らんかったくせに、いざ戦いとなってその首取られた時、その傷口から食物が出て来て恥をさらしたって言う話があるんや。

今度の戦いでは、僕も首を切られる事になるかも知れんけど、その時にカッコわるい事になんのはいややさかい、ちょっと、食べもんセーブしとこかな・・・って思て」
と答えたのだとか・・・

そう、もはや、今度の戦いが最期かも・・・と覚悟を決めていた重成・・・

元和元年(慶長20年・1615年)5月5日・・・出陣を明日にひかえた夜、

先端を切って短くした刀(摺り上げ)の、差し表(差した時に表側にくる部分)の(なかご=鞘に収まる部分)に、
金の装飾で『道芝の露 木村長門守』との文字をほどこした物を入念に準備した重成・・・

その後、お風呂に入って世話係の女性に丹念に髪を洗わせ、毛髪と兜に香を焚き込めさせた後、「紅花の春のあした」という謡曲を小鼓を打ちながら、静かに歌ったと言います。

果たして翌日の5月6日・・・重成は、河内若江の戦いにて井伊直孝と相対する事となり、その若き命を散らします
(戦いについては5月6日の後半部分参照>>)

『道芝の露』とは、「主君のためには道端の芝につく露のごとくはかなく消える覚悟である」という事・・・

その思い通り、若江の露となった重成・・・

合戦後、その首を検分した徳川家康は、その兜の緒の結び目が短く切られていた事に、「2度と緒をほどく事が無い」という重成の決意のほどを垣間見たと言います。

おそらくは、それと同時に、その兜と首から漂う、何とも言えぬほのかな香りを感じた事でしょう。

後に、徳川の世となってから、江戸に住む木原意運なる外科医の伯母という人が、よく、近所の子供たちを集めて、昔語りをしていたと言います。

「ウチが丁寧におぐしを整えてさしあげた時の覚悟を決めなさったその勇姿・・・言葉にできひんほどカッコよかったわぁ」
と・・・

そう、彼女が重成の最後のお風呂の世話をした女性・・・彼女は、老いて亡くなるその日まで、何度も何度も、その話を語って聞かせていたのだそうです。
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2012年5月 4日 (金)

善政で蝦夷を制圧した藤原保則

 

元慶二年(878年)5月4日、藤原保則が陸奥の蝦夷制圧に出発しました。

・・・・・・・・・・

藤原保則(やすのり)・・・

平安時代初期の貴族・官人で、備中(岡山県西部)備前(岡山県東部)播磨(兵庫県西部)讃岐(香川県)などの国司を歴任した人なのですが、とにかく、善政をしいた事で有名なお方・・・

Fuziwaranoyasunori600 備中・備前時代には、貧しい者には税を軽くするなどの優遇措置を行う一方で、将来の自立に向けての田畑の開墾の支援を行うし、それでいて、事件があった場合などは、徹底してその罪を暴き、片寄る事無く、見事に裁いたと言います。
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あまりの評判の良さに、備後で盗みを働いた者が、反省し、自ら保則のもとに自首して来た事があるのですが、その時は、いきなり裁いて罰するのではなく、まずは、その者の心の内を聞き取り、しっかりと反省している事を確認した後、本人に、盗んだ物を持たせて、備後に謝罪に向かわせる・・・なんていう粋なお裁きだったのだとか・・・

さらに、役目を終えて京の都に戻る事になった時は、名残りを惜しむ領民たちが次々とやって来ては泣き悲しむので、困った保則は、こっそりと、小船で出立した・・・なんて逸話も残ります。

そんな保則が、元慶二年(878年)、出羽権守(ごんのかみ=長官)に就任します。

そう、実は、去る延暦二十一年(802年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって、一応の落ち着きを見せていた蝦夷平定(11月5日参照>>)ではありましたが、東北は広いですから、それは、まだまだくすぶり続けており、各地で反乱の勃発が絶えませんでした。

しかも、元慶の年に入ってからのここ2~3年は、東北は干ばつによる飢饉に襲われていて、その各地の反乱も活発化して来ていたのです。

当然の事ながら、それに対して、朝廷側も鎮圧軍を派遣したりするのですが、駐屯していた秋田城を蝦夷軍に襲われて、ほうほうのていで逃げ帰って来る・・・なんて事も、

もちろん、城を奪った蝦夷軍の勢いは増し、その勢力をどんどん拡大していくばかり・・・

そこで、白羽の矢がたったのが、「領民に慕われる」と評判の保則だったわけです。

とは言え、彼は政治の経験はありますが、軍を指揮した経験はありません。

しかし、それこそ、与えられた任務には、責任を以って全精力で挑む人・・・かくして、元慶二年(878年)5月4日保則は蝦夷制圧のために、陸奥に向けて出発したのです。

自ら集めた兵士の他にも、各地の兵の動員を呼び掛け、万全の軍備を整える保則・・・

そうやって準備を整えておいてから、お得意の温和政策に入ります。

朝廷がイザという時のために備蓄していた穀物類を一斉放出し、平和的に解決する事を、相手側にうながしたのです。

すると・・・8月に入って、次々と降伏する者が現われはじめました。

もちろん、保則は、その降伏をすんなり受け入れ・・・

しかし、朝廷は、それを許しません。

これまで、何度も討伐軍を派遣したプライドがあるのか?・・・「軍事的に抑え込み、徹底して討伐してこそ平定したと言えるのだ」との姿勢を崩さないのです。

しかし、保則も譲りません。

「これまで、厳しい政策を行って来たから、アイツらは反発してるだけ・・・善政をしけば、必ず彼らは戻ってくるはずで、それこそが一番ええ方法なんです」
と・・・

結局、朝廷が、保則の意見に折れ、翌年の3月には、討伐軍の解散を決定しました。

ここに、奈良時代から続いた蝦夷の反乱が終結したのです。

とは言え、歴史の観点からの異論もあります。

やはり、上記の朝廷と同じように、武力で以って徹底して抑えてこそ「制圧した」と言えるが、保則のように、ある意味朝廷が折れた形では制圧した事にならず、逆に、東北を武力で制圧できなくなってしまった朝廷の弱体化を露呈した物であるとも・・・

また、蝦夷軍の降伏に関する正式な書面が残っていない事から、この周辺地域が、ある程度平和になった事は確かだが、だからと言って、中央政府に服従したわけではなく、その後も、独立国のような形を維持していた・・・との見方もあります。

なんせ、有名な前九年の役(9月11日参照>>)後三年の役(11月14日参照>>)が勃発するのは、これから100年200年後ですからね・・・

東北と中央の関係は、まだまだ奥が深いです。
 
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2012年5月 2日 (水)

夏も近づく八十八夜♪雑節のお話

 

今日、5月2日八十八夜・・・

という事で、本日は、八十八夜と雑節について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

八十八夜とは、立春から数えて88日目の夜という意味なんですね・・・なので、閏年の場合は、一日早くなるワケです。

また、立春自体が変動する物なので、たまに5月3日になる事もあります。

一般的に、この頃になると霜が降りて作物を枯らす事もなくなり、屋外で植物を育てても心配なく育てる事が出来るようになるので、種まきをするのに最適な季節とされ、「八十八夜の別れ霜」なんて事も言われます。

また、この日に摘んだ茶葉が極上とされるところから5月2日は「緑茶の日」という日本茶業中央会の記念日でもあります。

Dscn1845a600 ♪夏も近づく八十八夜
 野にも山にも若葉が茂る ♪

という文部省唱歌「茶摘み」の歌でもお馴染ですね。
(写真→は、京都の茶どころ=宇治にある興聖寺の「茶筅塚」…八十八夜に摘まれたお茶の封が切られる秋に「献茶祭」や「供養祭」が行われます)

お茶だけでなく、養蚕でも蚕を育て始める時期であり、一般農業でも植物の苗を植えかえる時期でもあり、八十八夜は、農家にとって、とても忙しい時期なんですね~

そう実は、八十八夜は、雑節(ざっせつ)という特別な暦日の一つなのですが、この雑節というのが、昔の人が農業をやりやすくするために考え出した、目安の日という事なのです。

暦という物は、かなり昔から綿密に計算されていて、日本では月の運行により、すでに飛鳥時代には、何年何月何日どころか、時間まで計測する術も持っていた(4月25日参照>>) わけですが、それらの正確なカレンダーの計算という物は、あくまで陰陽師のような専門知識を持っている人のみが理解しているだけで、多くの一般人は「なんとなくわかる」程度の物・・・

しかし、実際に農業をやってるのは多くの一般市民なわけで、1年の農業の計画をたてて、それに従って作業するには、その季節を知らせてくれる何かしらの目安が欲しいわけで・・・

そこで、古代の中国で生まれたのが、干支(えと)であり、二十四節季であったのです。

干支は、現在の日本では、一般には年を現す事に使用されますが、もともとは、1年を12個に分けて植物の成長ぶりを観察し、その姿形からイメージする動物をあてはめた物です(11月9日参照>>)

二十四節季は、それを倍の24個に分けた物(10月8日参照>>)

・・・で、それでもカバーできない農業の節目の日として作られたのが雑節という目安の日というわけです。

ただ、雑節というのは、ちょっと曖昧なところがあって、八十八夜のように、全国的に知られた物もあれば、マイナーな物もあります。

以前、雑節の一つとしてご紹介した「庚申(こうしん)待ち」(3月6日参照>>) なんていうのは、もはや知ってる人のほうが少ない雑節ですが、おそらくは、正確なカレンダーが一般の人々にも普及するようになった江戸時代頃から、一部を除いて、徐々に忘れられていったのではないかな?と思います。

そんな中で、今回の八十八夜以外で一般的によく知られているのは・・・

  • 節分これは、もう皆さんご存じ・・・立春の次の日です。 (2月3日参照>>)
  • 初午(はつうま)2月で初めての午の日に稲荷神社にお参りしたり小豆粥を食べたりします。
        (2月8日参照>>)
  • 彼岸:春分・秋分の日を中日とし、その前後7日間の事・・・仏教的行事が始まるのは平安時代ですが、お彼岸という暦日はもっと昔から…
        (9月23日参照>>)
  • 社日:産土神(うぶすながみ)という生まれた土地の神様(地神)をお祭りする日で、春分または秋分に1番近い戊(つちのえ)の日に行われます。
  • 入梅:これは「梅雨入り宣言」ではなくて、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日頃)から5日目の日の事・・・これより約30日が梅雨期とされます。
  • 半夏生(はんげしょう):二十四節季をさらに分けた七十二侯のうちの一つで夏至から数えて11日目=7月2日頃・・・半夏(はんげ)という中国産の毒草がよく生える日という意味で、昔は、この日は天から毒が降って来ると考えられていて、すべての野菜を食べないとか、井戸の蓋をしっかり閉める習慣があったそうです。
  • 土用:これは、立春・立夏・立秋・立冬の前18日間の事で1年に4回ありますが、例の「ウナギを食べようキャンペーン」で夏が一番有名ですね。
        (7月30日参照>>)
  • 三元(さんげん)今は、「夏の元気な贈り物」だけが有名ですが、もともとは1月15日の「上元」と7月15日の「中元」と10月15日の「下元」の年3回あった節目の日・・(7月11日参照>>)
  • 盂蘭盆(うらぼん)お盆です・・・東は7月15日、西は8月15日が一般的ですね。
        (8月13日参照>>)
  • 二百十日二百二十日:それぞれ、立春から数えて210日目&220日目=9月2日と9月12日頃という事ですが、江戸中期の暦学者・渋川春海(はるみ)が、漁師から「立春後の210日と220日めは暴風雨になる事が多い」と聞き、その後の実体験を踏まえて、幕府に「厄日」として進言した事から一般的に広まったとされます。
    稲作では、ちょうど稲の開花時期となるので、この日を無事に過ごせたら豊作になるとの目安の日とされました。
  • 己巳(つちのとみ):庚申と同じく十干十二支の組み合わせの一つで、福神である弁財天を祭る日・・・「巳待ち」とも言い、弁財天の使いが蛇(巳)である事から、幸運を祈願したり厄除けのお参りをしたりします。
  • 大祓(おおはらえ)半年に1度の厄払いの日・・・夏と冬があります。
        (7月31日参照>>)

と、本日は八十八夜にちなんで、雑節のイロイロをご紹介しましたが、中には、その成り立ちやなんやかやが曖昧な物もあり、地方によっても違っていたりしますので、あくまでご参考の一つとお考えいただければありがたいです。
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