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2012年5月28日 (月)

動乱に散った長州の保守派・椋梨藤太

 

慶応元年(1865年)閏5月28日、津和野で捕えられた椋梨藤太が萩の野山獄で処刑されました。

・・・・・・・・・・

椋梨藤太(むくなしとうた)・・・幕末の長州藩士です。

(いみな)景治と言いますが、藤太さんのお名前が有名なので、本日は藤太さんで統一させていただきます。

とは言え、藤太さんに関しては、あまり良い印象を持っておられない方が多いでしょう。

なんせ、幕末で大人気の高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)らと敵対した人ですから・・・

彼が、長州藩の要職である政務役右筆という重臣に抜擢されたのは、もはや50歳に手が届こうかという嘉永三年(1851年)・・・

しかし、嘉永六年(1853年)に例のペリー来航(6月3日参照>>)があり、わずか2年で職を罷免され、代わりに周布政之助(すふまさのすけ)(9月26日参照>>)が政務の筆頭となります。

この政之助は、いわゆる革新派(尊攘)の人・・・保守派(佐幕)の藤太とは、終生のライバルと言える人です。

ところが、その後、あの吉田松陰(しょういん)が密航に失敗して捕まると、その翌年の安政二年(1855年)には政之助が罷免され、藤太が右筆に返り咲き・・・

しかし、安政五年(1858年)には、また政之助が政務役に復活し・・・と、藤太は、失脚⇔復権のくりかえし・・・

これ、ひとえに、長州藩の方針が革新と保守の間で、「いかに揺れ動いていたか」の証拠・・・当然ですが、藤太&政之助が揺れ動いていたわけではありません。

それでも、ここらあたりまでは、藩内は揺れ動くものの、それは、あくまで藩内での主導権交代劇・・・実際に誰かが犠牲になって命を落とすという事はありませんでした。

そんな中で、文久元年(1861年)に、長州藩内で知弁第一の秀才とうたわれた長井雅楽(うた)『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を発表します。

これは
「このまま、尊王攘夷論(そんのうじょういろん=天皇を敬い外国を排除する考え)の朝廷と、開国論の幕府が対立していては欧米列強につけ込まれるかも知れない・・・すでに、アメリカとの条約を結んでしまった今となっては、幕府が調印した条約に朝廷が同意して勅許(ちょっきょ=天皇の許し)を与え、国論を統一して万全な体制を作り、海外にも進んで乗り出しつつ外国との交渉にも当たるべきである」
みたいな考えです(実際には、もっと細かいですが…)

はじめ、この意見は、長州藩でも大いに歓迎され、長州の藩論という事で発表され、それこそ、幕府をも動かします。

そう、第14代将軍=徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹=和宮(かずのみや)の結婚に代表される(8月26日参照>>)あの公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)です。

しかし、長州藩内の革新派は、この公武合体を、混乱する政局に、幕府がいち時をしのぐためだけのゴマカシとして大きく反対し、尊攘派の志士の中には、雅楽暗殺を計画する者まで・・・

やがて、その運動が活発化し、またまた藩の方針が揺れる中、雅楽の考えは、尊攘派の公卿たちと組んで政界を牛耳る立場にある長州藩の方針にそぐわない物として、文久三年(1863年)に雅楽は切腹に追い込まれ(2月6日参照>>) 、同じ年の5月に起こった下関戦争(5月10日参照>>)でもお解りのように、長州藩は攘夷一色になります。

そうなると、もちろん藤太も失脚・・・

ところが、その3ヶ月後に、これまたご存じの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、尊攘派の公卿とともに長州藩は中央政界から追い出され、その不満をぶちまけるべく発進した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となってしまいます。

朝敵・長州を討つべく、幕府によって開始される第1次長州征伐・・・

この長州征伐を回避するための手段が、藤太ら保守派による、三家老の切腹でした。

福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)
国司信濃(くにししなの)(2011年11月12日参照>>)
益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)という禁門の変を先導した3人の家老の首を幕府に差し出す事で、戦争を回避したわけです。

当然の事ながら、藩の上層部は保守派で固められ、藤太も、見事復権するわけですが、その、わずか1ヶ月後に、高杉晋作による功山寺の挙兵(12月16日参照>>)です。

この高杉によるクーデターの成功で、一気に反乱軍が勢いづき、続く大田絵堂の戦いという長州藩最大の内戦に高杉らが勝利した結果、長州藩の藩論は革新派一色となって、やがて討幕・維新の原動力となったわけです。

こうして政治生命を失った藤太は、領内を敗走して津和野に潜伏していたところを捕えられ、慶応元年(1865年)閏5月28日萩の野山獄で処刑されたのです。

椋梨藤太、享年・61歳・・・保守派で斬首となった、ただ一人の人でした。

そう、実は、幕末に、この長州と同じく、攘夷か開国かと藩論が揺れ動いた水戸藩では、維新の嵐の中で、とんでもない血の雨が降ります(10月16日参照>>)

しかし、長州藩では、この藤太1人の斬首を以って終止符が打たれます。

そこには、もちろん、勝利した側の桂小五郎らの先見の明もあったのでしょうが、何より、藤太の潔い姿にあったのかも知れません。

捕えられて、革新派の取り調べを受けた藤太は、
「すべては、私1人の罪・・・どうか、私だけを罰するようお願いします」
と、くり返し懇願していたと言います。

一般的に、この一連の長州藩の経緯を話す時、革新派を正義派保守派を俗論派と言い現します。
(俗論=つまらない意見や議論)

聞くところによれば、この派閥の名前を命名したのは、かの高杉晋作だとか・・・そう、彼らにとっては、自らが正義で、敵対する者は悪・・・

確かに、維新があったからこそ、今の日本がある事は認めます。

今こうして、ブログを楽しんでいるのも、ここで正義派が勝利したおかげでしょう。

しかし、現在進行形で紆余曲折の藩内にて奮闘していた彼らは、革新派・保守派に関係なく、ともに、より良い未来に向かって、信念を以って行動していたはずです。

高杉さん&ファンの皆さまには申し訳ないですが、私は、どうしても、すべての責任をかぶって死んでいった藤太さんを俗論派とは呼びたくない・・・

負け組となった彼らにも、この国への篤い思いがあり、彼らがいたからこそ切磋琢磨でき、今の日本があると思いたいのです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

維新後。うちの藩でも嘗て反薩長だったと目される少なからぬ者が新政府の意向を受けその地位を追われ、逼塞し隠者のごとき余生を送る事となりました。 一方、(誰とは云わないが佐幕だった筈なのに)城使留守居役とそれに連なるコネを有効に利用した者は新しい世で出世しているし、未だにその地位を保っていたりする。 その繁栄を上目遣いに仰ぎ見ると、なんとも口惜しいそんな感慨がこみ上げてくる・・・ そんな訳で、他藩の事とは言え、今回椋梨藤太や長井雅楽を立てていただいた事には大変感謝しております。

投稿: 野良猫 | 2012年5月29日 (火) 01時34分

晋作さんは維新を見ずに病死しちゃいますが、勝ち組の奇兵隊だって、結局は新政府に粛清されちゃうのですから。

奇兵隊内閣とか言ってた愚か者がおりましたが、そんなモン、ありませんて。

ひたすらガラが悪く、世知辛くなってゆく日本。多少堅苦しくても、雅楽さんや藤太さんが仕切っていた方が品が良く、安心であったような気もします。

投稿: レッドバロン | 2012年5月29日 (火) 02時50分

両派とも主君の毛利候には、忠義を尽くしたと思います。☆高杉さんの曾孫の勝さんは遺品を萩に寄贈したとか。それまで、お墓のそばの記念館所蔵。遺品の転出で裁判にも。

投稿: やぶひび | 2012年5月29日 (火) 06時41分

野良猫さん、こんにちは~

八方美人だ、二股膏薬だ、と言われるかも知れませんが、良くも悪くも一所懸命生きた歴史人物を、どうしても嫌いになれないのです。

結局、うまく立ち回った人が得をする…
今も、そうなのかな?と思うと、ちょっとテンションが下がります。

投稿: 茶々 | 2012年5月29日 (火) 14時32分

レッドバロンさん、こんにちは~

奇兵隊の末路も悲惨ですね。
雅楽さんや藤太さんが仕切る未来って、どんな感じなのでしょうねぇ

投稿: 茶々 | 2012年5月29日 (火) 14時35分

やぶひびさん、こんにちは~

>両派とも主君の毛利候には、忠義を尽くしたと思います。

おっしゃる通りですね。
幕末は、ホント、先が見えなかったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年5月29日 (火) 14時37分

花燃ゆの3年前の時点で既に椋梨藤太を取り上げていたとは。先見の明がありますね。
ところで第3部に入った花燃ゆですが、話がかなりスローペースで進んでいると思います。意外と劇中の時間の経過を感じない感覚です。と言っても開始から10年は経っていますが(10年しか進んでいない?)。
実は「3月末まで」で比べると八重の桜の時よりも時間進行がかなり遅いです。八重の桜は中盤で時間の進行が遅くなりましたが、花燃ゆは前半終了時点でかなり遅く見えます。
放送前の時点では「(最低限)主人公が40代の時期までは取り扱う」と聞いていますが、終盤の展開とキャストはどうなるか?
「途中からストーリー構想が変わった」とも言われます。

投稿: | 2015年7月13日 (月) 10時17分

こんにちは~
コメント、ありがとうございます。

ストーリーの進み具合を見る限り、結局は、明治以降は、あまりやらないのかも知れませんね。

きっと、幕末維新を描きたいけど、途中で亡くなる人が多いので主人公を杉文さんにしただけなんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年7月13日 (月) 16時03分

茶々さん、こんにちは。

長州の家老は何をしていたのでしょうか?保守派と急進派の争いを止められなかったのでしょうか?
それにしても毛利ですがまとまりが無いですね。関ヶ原でも安国寺恵瓊と吉川広家が対立しましたし、今度もそうでしょう。何がしたいのでしょうか?
私は個人的には山口は嫌いです。旅行した時も態度が悪かったので、今でも印象が悪いです。
特に過激派の教祖である吉田松陰は大嫌いです。
だから保守派の方が好きです。
こんな事を公言したら安倍とは大喧嘩になるでしょうけど・・・
それくらいに徳島の人間からすると山口は嫌いです。

投稿: non | 2015年7月16日 (木) 14時01分

nonさん、こんにちは~

長州に限らず、この頃は政情不安のために藩の方針も立場もコロコロ変わります。
家老は何を?ではなく、藩主を守るために、むしろ犠牲になったのでは無いでしょうか?

関ヶ原での対立も「どっちか生き残り作戦」でしょう。
政情が不安な時は、どっちかを犠牲にしてどっちかで生き残りを計らねばならない時があると思います。
現代と違って、この頃の「政治生命を失う」は、本当に命失う事ですからね。
明日、どう転ぶかわからない時代は、ホント、大変だったと思います。

私は歴史が好きなので、歴史上の人物はみんな好きです。
旅先で態度の悪い人は、どこの観光地にもいますね~
私は大阪生まれの大阪育ちなので大阪が大好きですが、大阪にも態度の悪い人はいます(笑)
もちろん、イイ人もたくさんいます(*^-^)

このブログも、1日で150人以上の山口県民の方が閲覧してくださっています。
徳島県民も、毎日100人前後、来て下さってますヨψ(`∇´)ψ
ありがたいです。

投稿: 茶々 | 2015年7月16日 (木) 16時15分

茶々さん、こんばんは。
すみません、個人的な感情で言いまして、でも山口で良い印象が無いですし、押し売りをさせられました。
あのツアーの人達は私同様に良い印象が無かったと思います。
それはそうと私は基本的に保守的なのと阿波藩と言いますか長州藩以外は家老の意見が強かったと思います。藤沢周平の本を読みましても家老を犠牲にする話を聞いたことが無いし、過激派はあまり見かけません。特に会津は確か家老の方が圧倒的に強かったと思います。
ところが司馬遼太郎の中での容堂でないですが、長州は下剋上です。本来ならば家老を唆した桂とかが腹を切るべきなのに家老が生贄とは何となく下剋上を感じます。そう言うのが嫌だなと思いました。
それにしても毛利は生贄が多いですね。関ヶ原と恵瓊、幕末は多くの武士達です。
ここまでに生贄になるのは何かなと思います。あまり好きでないところですが気になります。
私は長州うんぬんよりも何と言いますか幕府側を悪く言う風潮を明治維新後出来てしまった感じがします。それが無くならないと会津などの幕府側はそう思うでしょう。
徳島は一時徳島県が無くなりました。四国は高知以外は負け組と言えます。

投稿: non | 2015年7月16日 (木) 18時32分

まあ私の個人的な意見ですので、どうでも良いのですが、でも何となく下剋上を見ますと後醍醐天皇、応仁の乱、フランス革命と混乱を呼び起こしています。特に私は信行の子孫なので強く感じるのかもしれませんが・・・
山口でしいて良い思い出と言いますと錦帯橋を渡ったことです。秋なので鵜飼を見ませんでしたが、見てみたいと思いました。すみません、でも椋梨さんが気の毒で気の毒で涙が出そうです。それ位に真面目な人の死は悲しくてなりません。

投稿: non | 2015年7月16日 (木) 18時42分

nonさん、こんばんは~

私個人的には、やはり今回の大河ですね。
主人公が文さんなので仕方ないのでしょうが、椋梨さんが、ズル賢くて、ひどく冷たい人のように描かれています。

先々週でしたっけ?
文さんが「久坂家をお救いください」とか?頼みに行ったのに冷たくあしらわれるシーンがありましたが、毛利家がお取り潰しか、藩主が切腹かって瀬戸際なのだから、かまってられないのは仕方ないと思うのですが、椋梨さんが悪人のような描き方でしたね。

なんか、最近の大河は、例のトンデモ戦国恋愛劇あたりから、主人公がわがまま的な無理難題をゴリ押しするような感じがしてなりませんね。
大河は好きなんですけどね~

投稿: 茶々 | 2015年7月17日 (金) 03時25分

椋梨藤太と言えば、「家なき子」・水戸黄門シリーズの風車の弥七役でお馴染みの、内藤剛志さんが、「花燃ゆ」で演じていますが、見方によっては、藤太なりの正義があったのではないかと思います。反対派を処刑するといった、強引な行動をしたとはいえ、そうしなければ、幕府や徳川将軍家を敵に回してしまうことになることを知っているから、非情に徹したような気がします。もし、藤太が実権を握り続けていたら、戊辰戦争において、会津藩の面々が悲劇に巻き込まれたり、新選組の運命が狂ったりすることがなかったのではないかと思うのです。

投稿: トト | 2015年8月 3日 (月) 13時13分

トトさん、こんばんは~

結果的には、第2次長州征伐の途中で将軍=家茂が亡くなり、「長州という一藩が幕府相手に勝っちゃう」という事になりますが、それこそ、この時点では「勝てる」なんて思っても無かったでしょうから、本来なら藤太さんの行動が当然だったと思います。

>もし、藤太が実権を握り続けていたら…

封建的ではあったかも知れませんが、ガサツでは無かったと思います。

投稿: 茶々 | 2015年8月 4日 (火) 01時25分

>もし、藤太が実権を握り続けていたら…

日本は後進国であったろう。

長井ウタの航海エンリャクなんか、合理的な政策に
見えるんだけど、なんで成功しなかったんだろ

椋梨は、たしかに、封建時代の価値観でいえば、
ただしいんだけど、革命の時代には反動なんだよなあ。

こういうこと、善悪正邪じゃないね。

投稿: かいん | 2015年8月10日 (月) 06時45分

かいんさん、こんにちは~

歴史のifには、それぞれの歴史好きの思い込められ度がハンパ無いですから、それこそ、どれが正しいなんて答えが無い物ですね。
もちろん、そこを、あーだこーだ言い合うのが楽しいんですが…

なので、あくまで個人的意見ですが…

>善悪正邪じゃない…

には異論なしですが、

>日本は後進国であったろう。

というのは、どうでしょうね?

革新と保守というという名前のイメージや、革新派が起こした革命が明治維新で、その後の明治維新が成った後のイメージから、どうしても高杉らの革新派が先進であったように思ってしまいますが、この時点での高杉らは、未だ三条実美らを保護している尊王攘夷派なので、考え方としては、こっちの方が鎖国時代に戻そうとする古い考え方のように思います。
あくまで、この時点では…ですけどね。

結局は、第2次長州征伐の後に、高杉が死んで、孝明天皇も崩御され、いつも間にか倒幕一色となり、最後には攘夷はどこへやらの明治政府に生まれ変わるので、この時点の高杉ら正義派から、もう一つ二つの分岐点を越えた先に、現在へとつながる明治新政府があるように思います。

もちろん、歴史のifを語る場合は、その分岐点で、左右どちらに転んで行くかは、これまた未知数となりますが…

投稿: 茶々 | 2015年8月10日 (月) 15時32分

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