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2012年5月 8日 (火)

燃える大坂城から唯一の脱出成功者・明石全登

 

慶長二十年(1615年)5月8日・・・

ご存じ、大坂夏の陣大坂城が落城したした日・・・って事で、このブログでも、複数の関連記事を書かせていただいておりますが・・・

よろしければ、この機会に…↓
秀頼生存説>>
淀殿・生存説>>
秀頼の二人の息子>>
脱出した秀頼の娘>>
千姫・救出劇>>

合戦の経緯については、上記のページを見ていただくとして、本日は、そんな大坂城を守っていた明石全登について・・・

この時の大坂城には、七人衆と呼ばれた名将がいたわけですが、その7人とは・・・
真田幸村(信繁)
毛利勝永(かつなが)
木村重成(しげなり)
大野治房(はるふさ)
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)
・・・そして明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)の7人です。

その中で、ご存じのように・・・
真田幸村は前日の合戦で徳川家康本陣に迫りながらも討死・・・(5月7日参照>>)

毛利勝永は、最後まで豊臣秀頼のそば近くにいて、最期は、その介錯をしたと言われる武将で、秀頼とともに自刃しています(2015年5月7日参照>>)

木村重成は、この2日前の5月6日の若江での野戦で討死・・・(5月5日参照>>)

大野治房は、淀殿の乳母=大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子でこの大坂の陣での大坂方の中心人物であった大野治長(はるなが)の弟で、一説には落城時に秀頼の息子=国松を連れて脱出した人とされますが、上記のリンク(秀頼の二人の息子>>)にもある通り、彼も、その国松も捕えられてしまい、斬首されています。

長宗我部盛親も、落城時に大坂城を脱出しますが、3日後に確保され、5月15日に処刑されました(5月15日参照>>)

後藤又兵衛は、去る5月6日の道明寺誉田の戦い(2016年4月30日参照>>)で、薄田隼人(すすきだはやと)(2009年5月6日参照>>)ともに亡くなっています。

そうなんです・・・七人衆どころか、その他の主だった武将を入れても、生き残りがほぼ皆無な大坂方で、ただ一人、燃え盛る大坂城からの脱出に成功したのが、この明石全登なのです。
(*秀頼や又兵衛の生存説などは、あくまで噂の域を出ない伝説ですので…)

・‥…━━━☆

掃部頭(かもんのかみ)なので、明石掃部とも呼ばれる全登は、かの豊臣秀吉に我が子のように可愛がられ、五大老の1人となっていた宇喜多秀家(うきたひでいえ)家老・・・片腕と言われるくらいの重要な役どころをこなしていた人です。

秀家の従兄弟の宇喜多詮家(あきいえ=後の坂崎出羽守直盛)に勧められて入信したキリスト教にドップリとハマッて、以後、熱心なキリスト教徒になります。

慶長元年(1596年)に、かの二十六聖人(2月5日参照>>)が長崎まで護送された時に、その警固を担当したのが全登で、結局は悲しい結果となってしまった二十六聖人の殉教ではありましたが、その中で、彼らをできるだけ良き待遇で扱う事に努力した全登の警固ぶりは、宣教師を通じてヨーロッパにまで伝えられたと言います。

また、慶長四年(1599年)に起こった宇喜多家のお家騒動でも、その手腕を発揮しています。

まぁ、この宇喜多騒動・・・奥さんの豪姫(5月23日参照>>)大好きの秀家が、豪姫が入信しているキリスト教への思いが強すぎて、家臣団に「改宗しろ!」と迫りまくった事がキッカケで、日蓮宗信者の家臣が反発して・・・と言われますが、

そのワリには、反発の中心人物が、かの詮家=坂崎直盛という事になっていて、「お前もキリシタンちゃうんかい!」ってツッコミたくなる、よくわからないお家騒動となってます。

とは言え、その原因はともかく、何らかのお家騒動があった事は確かで、その一触即発の状況を、家老の全登が見事に納めてまとめた事も確か・・・

ただ、その家臣団のゴタゴタの立て直しが、未だ完成形を見ていない段階で、あの関ヶ原の合戦を迎える事になってしまいました。

この時、西軍の主力の1人として参戦していた秀家は、小早川秀秋(こばやかわひであき)の寝返り(10月18日参照>>)を目の当たりにして、
「あのクソガキ!刺し違えたる!」
と、単身で敵方に突っ込もうとしたのを、全登が何とかなだめ抑えて、合戦の状況を冷静に判断した後、主君=秀家を、伊吹山の山中に逃れるように手配したのだとか・・・

おかげで、秀家は、その後に捕縛されるものの、八丈島の流人第1号となって、とりあえずは天寿を全うする人生を送っています(8月6日参照>>)

一方、この時は全登自身も関ヶ原から姿を消します。

一説には、姻戚関係のある黒田長政に保護されて、しばらくは筑前(福岡県)にいたという話もありますが定かでは無く、おそらくは、浪々の身として、各地を転々とする生活を送っていたものと思われます。

なぜなら、全登は、まだ、この時点でもキリスト教を捨ててはいませんので、キリスト教を禁止にした黒田家のそばには、おそらく、いられなかったでしょうからね。

Rikugunnfunatukiba2a1000 旧陸軍の船着き場と現在の大阪城・天守閣

やがて、慶長十九年(1614年)10月・・・

突如として全登は、約4000のキリシタン兵を引き連れて、冬の陣開戦間近の大坂城に現われるのです。
(なんか、カッコイイぞ!)

こうして、幸村や又兵衛と同じく、大坂城内の七人衆と呼ばれる重要人物の1人となった全登・・・

もちろん、今回の夏の陣でも大活躍で、「真田日本一」の誉れ高いあの家康本陣突っ込み隊には、この全登も参加していて、彼もまた戦場を迂回して背後に回り、あわやという寸前まで、家康に迫った1人なのです。

しかし、ご存じのように、この作戦は失敗に終わり、冒頭に書いたように幸村は討死・・・

で、全登は・・・
実は、また、ここで忽然と姿を消すのです。

合戦のさ中に討ち取られたという話も、あるにはありますが、彼ほどの武将ですから、もし討ち取られていたなら、絶対に、はっきりした記録に残るはず・・・それが、曖昧な物しか無いという事は、やはり、討死はしていない・・・

かと言って、彼は、敬謙なキリシタンなので、どこかでそっと自刃する事もない・・・あの小西行長だって、キリシタンだったために自刃せずに出頭した(9月19日参照>>)わけですから・・・

って事は、やっぱり、どこかで生きている・・・となって、果ては、外国に高跳びしたなんて話もあります。

はたして、いずこに・・・
何らかの記録が出て来るとウレシイんですがねぇ~
 .

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

明石全登 最後の聖戦、何より信仰のためという戦争目的があって、異彩を放ってます。

太閤さん亡き後の豊家がキリシタンに寛容であり、大坂城下が解放区になっていたことも大きいかと。

それにしても よくあの重囲から脱出できたものです。やはり伴天連の魔術?いやいや、最後まで颯爽たるイメージの全登さんです。

投稿: レッドバロン | 2012年5月 9日 (水) 08時03分

レッドバロンさん、こんにちは~

私も「最後まで颯爽たるイメージ」です。
ドラマで、もっと活躍してほしいなぁ(*゚ー゚*)

投稿: 茶々 | 2012年5月 9日 (水) 15時18分

突然の書き込み失礼いたします。ひょっとするとなんかの感違いかも知れませんが、岡山県真庭市のわが家の実家(祖父宅)の裏庭に「明石掃部頭全登」とか書かれた古いお墓があり、その傍らにはその妻の墓とか、一族の墓とかいったものもあったような気がします。代々わが家がお彼岸の時期などに花を供えるなどして管理してきました。私はいま44歳(高知市在住)ですが、子どもの頃からわが一族の墓ではないらしいその墓をなぜわが家が管理しているのか意味不明でした。父(健在です)に聞くと「なんでも戦国時代の偉い人のお墓らしいが詳しくは知らん。ただ昔からうちが管理してきた。笹向城の関係者のお墓らしい」という程度の認識しかもっていません。わが家は戦国時代・宇喜多家に属した山城・笹向城のあった笹向山の麓にあります。ひょっとすると大坂夏の陣で敗れた後、明石氏は当時の大庭郡三崎まで落ちのび、そこでしばらく生活した後、果てたのかもしれません。古い記憶の中に残る「明石掃部頭」の名前をふと思い出し、何気なしに検索してみたところあなた様の記事にたどり着き、情報も曖昧なまま書き込みさせていただきました。今度実家に帰った時、もう一度お墓を調べてみたいと思います。ちなみにそのお墓のそばにはなんの案内板もなく、わが一族以外その存在も知らないのではないかと思われます。

投稿: イノシシアタマ | 2014年2月26日 (水) 11時17分

連投失礼します。書き込んだ後なお気になって父に確認したところ、墓碑銘は明石掃部頭ではなく、「明石三左衛門しげとようんぬんかんぬん」だとか…。ひょっとすると私の猛烈な感違いかも知れません。なお今度実家に帰って調べてみます。

投稿: イノシシアタマ | 2014年2月26日 (水) 11時41分

イノシシアタマさん、こんにちは~

場所からしても…
例え全登本人でなくとも、おっしゃる通りの「戦国時代の偉い人のお墓」である事は確かっぽいですね。
ひょっとして大発見になるかも???

案内板も無いとなると、この先、忘れられてしまうのが怖いですね~
是非、大事に受け継いで行っていただきたいです。

投稿: 茶々 | 2014年2月26日 (水) 13時15分

明石全登は広島まで落ちのびた2人の息子が先にやられていますから、全登が逃亡中にこれ以上の西国落ちは不可能とみて、その辺りの旧領付近に留まった可能性はありそうですね

投稿: | 2014年2月26日 (水) 18時58分

>その辺りの旧領付近に留まった可能性はありそうですね

イロイロ妄想が膨らみますね。

投稿: 茶々 | 2014年2月27日 (木) 14時25分

今年の真田丸では脱出となるか討死となるか?いまのところ三谷さんのみぞ知るですが。
今日で撮影は全部おしまいかな?

もし脱出に成功出来ていても残党狩りにあった可能性もありますが、それさえも逃れたのとなると国外逃亡もありえますね。同じバテレンの高山右近(確か大坂の陣の頃に死去)を頼ったか?

投稿: えびすこ | 2016年10月28日 (金) 09時52分

えびすこさん、こんにちは~

大坂の陣の時は、大坂城からの使者がギリで間に合わず、右近は船出してしまいましたね~

家康は、ナイスなタイミングで、国内キリシタンの広告塔とも言える右近を国外追放できて、ホッとした事でしょう。

大坂の陣当時は天正遣欧少年使節の原マルチノがマカオにて健在なので、頼るならソッチかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年10月28日 (金) 17時40分

明石全登さんは岡山の真庭郡の山の中にお墓があるそうですね、一度訪れてみたいものです、戦国最後の戦で、大坂落城しここまで逃げてきたんですね、すごく苦労されたことでしょう。

投稿: たかさん123 | 2016年12月 7日 (水) 11時16分

たかさん123さん、こんばんは~

おっしゃる通りの岡山にも、そして高知にも東北にも、明石さんの伝説があるようですね。

後藤又兵衛の又兵衛桜もそうですが、生存説的な伝説が各地に残るのは英雄の証だと思います。

投稿: 茶々 | 2016年12月 8日 (木) 04時12分

明石全登さん、よく生き延びましたね、キリスト教は自決できないんですねはじめて知りました。日本史で好きなのはは戦国時代だけです、
この時代にたくましく生き抜いた人はすごい人だとおもいます。僕もこの時代にいきていたらはたして生き残れたのかなあ、、、と今ふと思いました。ロマンがあり大好きです。

投稿: たかさん123 | 2017年2月21日 (火) 10時51分

たかさん123さん、こんにちは~

>キリスト教は自決できないんですね…

ですね。
あの細川ガラシャさんも家臣に命じて斬ってもらってますね。

明石さんには「マニラに逃亡した説」もあるので生きててほしいですね。

投稿: 茶々 | 2017年2月21日 (火) 17時26分

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