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2012年5月24日 (木)

齢70…晩年の伊達政宗

 

寛永十三年(1636年)5月24日、あの伊達政宗が、70歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

戦国屈指の人気者伊達政宗(だてまさむね)さんですので、すでにこのブログでも何度もご登場いただいてますが、そう言えば、晩年の事は書いてないなぁ~と・・・

本日はご命日でもありますので、ゲームのイメージとはちと違う、その晩年を中心に、そに生涯を追ってみたいと思います。

・‥…━━━☆

Datemasamune650 幼い頃に患った天然痘で右目を失ってしまい、いち時は、引き籠りの卑屈な少年となっていた政宗でしたが、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)超一流の教育と、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)(10月14日参照>>)というナイスな傅役(もりやく)のおかげで、何事にも積極的に取り組む・・・いや破天荒すぎるほどの積極性を持つ、有能な戦国武将に成長します。

やがて天正十二年(1584年)、父=輝宗の隠居に伴って家督を譲られた政宗でしたが、その翌年、二本松城(福島県二本松市)畠山義継(よしつぐ)の謀略によって拉致された父を、その義継もろとも撃ち殺すという悲運な出来事が起こってしまいます(10月8日参照>>)

その弔い合戦となった人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)では、少々ピンチに立たされるも、その経験を活かして、続く摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)では見事勝利・・・わずか23歳で奥州の半分を手に入れ、まさに奥州の覇王に手が届くかに見えた時、かの豊臣秀吉からの小田原征伐(11月24日参照>>)への参戦要請・・・

ウダウダと返事を引き延ばしていて小田原への参陣が遅れた(4月5日参照>>)のを、決死の死に装束で何とか切り抜け(6月5日参照>>)、続く奥州征伐でも(11月24日参照>>)、見事ピンチを脱します(2月4日参照>>)

やがて訪れた秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは、東軍の徳川家康から「百万石のお墨付き」をもらい、東国にて転戦してドサクサまぎれに領土拡大を謀るも、家康に怒られ断念・・・(8月12日参照>>)

戦後は、家康の許可を得て仙台城(青葉城=仙台市)の構築に着手し、しばらくの間は城下町の整備や北上川の水運の発展など、内政に力を注ぎます。

次に訪れた大戦・・・結果的に、政宗最後の戦場となったのは、かの大坂夏の陣・・・この時、道明寺誉田(どうみょうじ・こんだ)に出遅れた真田幸村(信繁)とぶつかり、引き分けています(5月6日参照>>)

・・・と、こうして見ると、奥州を統一すべく駆け抜けた破天荒な若き時代に比べて、秀吉に屈した感のある小田原征伐以降、さらに家康の傘下となった感のある関ヶ原以降、政宗は戦国武将が夢見る天下という物に対して、何やら諦めた感が漂う感じ・・・

いや、しかし、実は、まだまだ諦めてませんでした。

ご存じ、慶長十八年(1613年)に派遣されたと言われる支倉常長(はせくらつねなが)らの遣欧使節です(8月26日参照>>)

そのページにも書きましたが、この派遣使節の事は、明治になるまでまったく隠されていた出来事・・・つまり、徳川幕府にわからないように政宗が行っていた事であるわけで、その内容が本当だとすると、まさに「幕府転覆計画」です。

一説には、この計画の背後にいたのは大久保長安(ながやす)で、その屋敷の床下からは松平忠輝(ただてる)盟主とする新しい幕府の設計計画なる文書が出て来た・・・なんてウワサもあります。

松平忠輝は、そう、家康の6男で、政宗の娘=五郎八(いろは)の旦那さんです。

つまり、忠輝を新しい幕府の将軍にして、政宗が関白となって手腕を奮う政治体制にするという事・・・(7月3日参照>>)

しかし、ご存じのように、慶長十八年(1613年)4月に長安が亡くなった直後、大久保家は「長安の葬儀の中止」「莫大な遺産の没収」「遺子7名の切腹親類縁者の改易」という処分をくだされています(4月25日参照>>)

その理由は、今以って不明ですが、それこそ、この「幕府転覆計画」の発覚があったのかも・・・バレてたとしたら政宗はセーフだったのか?

また、忠輝も、大坂夏の陣で不手際があったとされ、元和二年(1616年)7月に改易され、伊勢に流罪となってしまっています。

さすがに、長安の大久保家が没落し、忠輝も流罪になった事で、ここらへんから、やっと政宗はおとなしくなったと言われています。

寛永五年(1628年)、自らの江戸藩邸に、大御所(前将軍)徳川秀忠を招いた政宗は、
「本当のご馳走っちゅーもんは、旬の品をさりげなく、主人自ら調理するもんや」
との言葉通り、自分で作った料理を秀忠の前に出したのだとか・・・

当然、そばにいた侍が
「お毒味を…」
と前に出た時、

「アホか!将軍を殺ったろなんて思とったんは、もう10年も前のこっちゃ。
せやし、その頃でも毒で殺すなんて姑息なマネはせんゾ!
どうせ殺るなら、合戦でいてもたらな!」

と言ったとか・・・

その言葉通り、晩年は花鳥風月を愛でる穏やかなオッチャンとなっていた政宗・・・

寛永十三年(1636年)4月に、後に瑞鳳殿(ずいほうでん=政宗の墓所)が建つ事になる経ヶ峰を散策していた時、ふと漢詩を詠んだと言います。

馬上少年過(馬上に少年の時は過ぎたり)
 世平白髪多(世平かにして白髪多し)
 残躯天所赦(残躯=ざんく天のゆるすところ)
 不楽是如何(楽しまずんば、これ、いかにせん)
「馬で駆けまわった少年の頃は過ぎて、
 天下泰平となって、しらがも多なったわ。
 まだ、天からもろた余生はある・・・
 この余生を楽しまんでどないするっちゅーねん」

その後、少しばかり歩いてから足を止め
「俺が死んだら、ここに埋めてくれるか」
と、地面に杖を立てて指示したと言います。

果たして、その約2ヶ月後の寛永十三年(1636年)5月24日政宗は江戸の桜田屋敷にて、その生涯を終えました。

その後、お墓を作ろうと、政宗が「ここに埋めて」と言った場所を掘り起こしてみると、そこには、何やら塚のような物が・・・

地元の者に尋ねると、なんとそこは、「政宗は、この人の生まれ変わりだ」と称されていた万海上人の塚だったのだとか・・・

やってくれますね~政宗さん、最後の最後まで・・・

なら、最後に『甲子夜話』にある政宗さんらしい逸話をご紹介・・・

ある時、上洛した政宗の行列を見た民衆の中の1人が、彼らが、東北の田舎者であるとバカにして、一枝の桜を差し出し、
「ちょっと、1句詠んでよ」
と・・・

そう、あの前九年の役で滅んだ阿部一族の安倍宗任(むねとう)が京に護送された時に、やはり都の人がイケズした(9月17日の後半部分参照>>)アレと同じ事をやった人がいたのです。

すると政宗は
♪大宮人 梅にも懲りずに 桜かな ♪
と、即座に答え、その人は、大恥をかいたのだとか・・・

直訳ではなく、その意味を解すると
「お前ら、まだ、そんな事やっとんのかい!」って・・・

政宗らしい・・・教養とセンスのある返しですね。
 .

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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

「馬上少年過ぐ」

政宗公の詩は、誇らしく、堂々としていながら、かすかに憂愁の気配があって、いかにもダンディー。

こんな詩をさらりと書ける人ですもの。何があっても無くても、幕府の心配と警戒は大変なものであったろうと思います。

我が家は大正から終戦直後まで、宇和島市で暮らしてました。あそこは秀宗公が封じられた伊達家の支藩ですね。父と叔母は私立・伊達図書館にずいぶんお世話になったと聞いています。絵本や雑誌など、当時は珍しい子供用の書籍が何でも揃っていたそうで。これも、教養豊かな政宗公の威光かと。

投稿: レッドバロン | 2012年5月25日 (金) 00時24分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですか…宇和島に

政宗さんの教養高きDNAは、支藩にも、ずっと受け継がれていたのですね。

投稿: 茶々 | 2012年5月25日 (金) 02時15分

お久しぶりです。最近はやや多忙でした。
以前も少し触れましたが、伊達政宗は70年の生涯で前半の35年と後半の35年とでは印象が違いますね。野球に例えるとエース・4番の選手が現役引退後に、オーナーとして球団を運営したような感じ。
でも政宗は50歳ぐらいまでは「世情が荒れたならば…」と少し野心を持っていたようですね。

投稿: えびすこ | 2012年5月25日 (金) 08時52分

えびすこさん、こんにちは~

やはり、大久保家の没落と忠輝の流罪は痛かったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年5月25日 (金) 16時51分

初めまして。
まったく別の調べ物をしていて辿り着きました。
とても読みやすいのに深くて、たいへん面白く、調べ物を忘れて読み入ってしまいました。
ブックマークさせていただいて、これから時々お邪魔させていただこうと思います^^

浅学ながら1点、家督を継いだのが「1548年」と、数字が入れ替わっちゃっていますね?
せっかくの素敵な記事なので、コメントさせていただきました^^
コメントは、ご覧になったら削除なさって下さいませ。

またお邪魔します^^

投稿: Lilia | 2012年5月28日 (月) 04時42分

Liliaさん、こんにちは~

わぉ!見つけていただいてありがとうございます。

誤字脱字は日常茶飯事でありながら、なかなか自分では見つけ難く、教えていただくとありがたいです。

また、発見されましたら、お気づかいなくお知らせくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年5月28日 (月) 13時49分

こんばんは。お久しぶりです。
伊達正宗!素敵な人ですね。片倉小十郎の存在もすごく良いですよね!!
内心を語らず、しかし、小十郎だけは理解するって言うか、阿吽の呼吸と言うか、つーと言えばかーと言うか。多くを語らず、内に秘める!って感じで、大好きな上司部下の関係ですよね。
最近は女性だけではなく、男性までもお喋りな人が多くて・・・。おっと!愚痴ってしまった。

結果、徳川の世にはなったのですが、茶々さんは、『伊達の世』になっていたとしたら、どんな1600年代だったと思いますか?
たぶん、鎖国はやってないだろうなぁ~。

長々とすみません。また遊びに伺いますね。
いつも楽しい知識をありがとうございます。

投稿: 佐賀の田舎もん | 2012年5月30日 (水) 01時05分

佐賀の田舎もんさん、こんにちは~

確かに、鎖国は無いでしょうね。
って事は、もっと早くにグローバルな世の中に??

ただ、遣唐使の廃止しかり、鎖国しかり、国交を縮小した時期は、日本独特の文化が栄える時期なので、それがなくなるのは、ちょっと寂しいですね。

投稿: 茶々 | 2012年5月30日 (水) 15時59分

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