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2012年5月25日 (金)

新田義貞と湊川の戦い…小山田高家の忠義

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞・楠木正成連合軍足利尊氏と戦った湊川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(たかうじ)(12月11日参照>>)、一旦は、天皇方の新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)都を追われるも(1月27日参照>>)九州に落ち延びて態勢を立て直し(3月2日参照>>)、海と陸に分かれて、いよいよ畿内に迫ります(4月26日参照>>)

延元元年・建武三年(1336年)5月25日の朝、兵庫の海に尊氏の軍船が、陸には足利直義(ただよし=尊氏の弟)の50万の大軍が軍旗をたなびかせながら集結します。

迎え撃つは、かねてより兵庫にいた義貞と、息子と別れてここに合流した正成(5月16日参照>>)・・・

正成は700騎の手勢を率いて、湊川(みなとがわ=神戸市兵庫区)の西にて、直義の陸上軍に相対します。

総大将である義貞は2万5000騎を率いて和田岬(神戸市兵庫区)に本陣を張り、海からの尊氏軍に備えます。

Minatogawakassennnozu800 湊川合戦図(神戸市博物館蔵)

まずは、鏑矢(かぶらや=射ると音が鳴るので戦場の合図となる矢)射合って、お互いの出方を探りあう両軍でしたが、そんな中から新田軍のある武将が、沖に向かって飛んでいく鳥を射ぬきます。

それも、すぐには落ちないよう羽を射ぬき、その鳥が、敵方落ちるように射るという神技を披露・・・それを見た尊氏が
「あんたはんの名前を知りたいなぁ」
と言うと、
「ほんなら、この矢で、我が名をご覧あれ!」
と、メッチャ遠い所から、佐々木顕信(あきのぶ)なる武将の船に乗っていた兵士の鎧を射ぬきます。

その矢には『相模国住人本間孫四郎重氏(ほんままごしろうしげうじ)という名が小刀にて刻まれていました。

しかも、その後、扇を手に取って手招きしながら・・・
「いやぁ、すんません・・・今のは事故ですわ、事故・・・
合戦となったら、1本でも矢を失くすのはもったいないですさかいに、その矢、こっちへ射返してもらえまっか?」

と・・・

そら、君の弓の腕は大したもんやけど、いかにも、「どや!見てみぃ」って感じの自慢丸出しの雰囲気が、なんか、腹立つやないの!
と、思ったのは、尊氏も同じ・・・

早速、顕信に
「お前、やれや!」
と・・・

しかし、距離が距離です。
それこそ、アチラは弓の名手ですから、見事、コチラへ突き立てましたが、コチラも、相当な弓の名手でないと、同じような芸当はできませんから、少々、ちゅうちょする顕信・・・

「行かんかい!」
と、お怒り気味の尊氏さん・・・

そこへ何を思ったか、どこの誰ともわからぬ者の鏑矢が1本・・・その本間の軍へと放たれます。

しかし、そんなヘナチョコ矢が向こうまで届くはずもなく・・・空しく海中に落っこち、本間軍からは失笑・・・

矢を放った者の乗る船には200人ほどの兵士が乗っていましたが、恥ずかしさのあまり、いきなり猛スピードで漕ぎ出し、経島(和田岬の東)に強硬上陸しますが、そこに待ち構えていたのが脇屋義助(わきやよしすけ=新田義貞の弟)軍・・・哀れ、その軍は、あれよあれよという間に義助軍に全滅させられてしましました。

これがキッカケとなって尊氏軍の軍船団が一気に移動開始・・・新田軍の防御態勢をかく乱しながら、怒涛のごとく和田岬に上陸します。

こうなると、数のうえでは断然有利な尊氏軍・・・

戦況に応じて移動し始めた新田軍と、別働隊として奮戦する楠木軍との連携が乱れ始め、やがて正成らは孤立状態になって、迫りくる直義軍に包囲され、決死の突撃を繰り返すも、とうとう最後は70騎ほどの軍勢となり、正成らは自決します。

この正成最期の名場面は『七生報国(しちしょうほうこく)と呼ばれます(2007年5月25日の後半部分参照>>)

一方、こうして正成が自刃した事で、当然の事ながら、尊氏軍と直義軍は一つとなって新田軍に迫ります。

これでは、さすがに数の差が違いすぎ・・・やむなく自軍を3隊に分けて、入れ替わりながら相対し、なかなかの踏ん張りを見せる新田軍・・・

タイミングを見計らって、義貞自ら決死の攻めをくり返しますが、とうとう、残るは、わずか5000騎となったところで、やむなく、生田(いくた)の森を後にして、丹波路へと退却を開始しました。

そんな時、義貞は馬を射ぬかれてしまいます。

しかたなく馬を下りて、代えの馬を待ちますが、味方は誰も、それに気づかず・・・逆に敵が気づいて、義貞を討つべく囲みます。

しかし、その気迫に負け、誰も近づけません。
敵は遠巻きに矢を射かけるばかり・・・

義貞は、その矢を切り落としながら抵抗を続けますが、それも時間の問題・・・大ピンチです。

・・・と、その光景を山の上から見つけた1人の武者・・・大急ぎで坂を駆け下り、一路、義貞のもとへ・・・

それは、小山田高家(おやまだたかいえ)という武将でした。

実は、彼は、前年、義貞が播磨(はりま=兵庫県)にて出陣の準備をしていた時、軍令に違反した事があったのです。

軍令違反は、即、処刑・・・となっていた所を、義貞が
「違反するには、それなりの理由があるはず・・・」
と、ちゃんと調べてくれたおかげで、それが、疲れによる判断の見誤りであった事がわかります。

その時、
「兵卒の疲れによる判断ミスは、大将たる者(自分)の恥・・・」
つまり、「むしろ自分の罪である」との温情ある判断で、彼を罪に問わなかった・・・という事があったのです。

義貞の温情によって助かったこの命・・・今、使わずにいつ使う!

鬼の形相で坂を駆け下って義貞のもとに馳せ参じた高家は、すぐさま、自分の馬に義貞を乗せ、自らは敵の真っただ中に・・・義貞の身代わりとなって、その命を散らしました。

一方、そうこうしている間に、味方の軍勢が義貞に気づき、何とか自軍の軍勢の中に紛れ込む事ができ、そのまま退却の途に・・・こうして義貞は九死に一生を得たのでした。

ところで、この時の後醍醐天皇・・・敗戦を知って、再び比叡山へ逃げ込みますが、それは、公家と武家合同による数万騎の大行列だったとか・・・

そして、次は、その比叡山より、尊氏に制圧された京都を奪回する戦いが始まるのですが、そのお話は6月30日【足利尊氏VS新田義貞・幻の一騎打ち?京都合戦】でどうぞ>>
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コメント

東京都の西部、町田市には、上小山田町、下小山田町の地名があります。高家さんは武蔵国のこの辺のご出身ですね。

市内には鎌倉古道(街道)が残っています。これは鎌倉時代の軍用道路で、古くから小山田家は軍役に赴いていたのでありましょう。武田家に仕えた甲斐の有力豪族・小山田家は高家さんちの親戚のようです。

投稿: レッドバロン | 2012年5月27日 (日) 00時59分

レッドバロンさん、こんにちは~

やはり、高家さんゆかりの地はそのあたりなのですね。
義理を重んじる武士の潔さには、敵味方に関わらず、いつも感動させられます。

投稿: 茶々 | 2012年5月27日 (日) 15時52分

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