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2012年5月 9日 (水)

432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃

 

元弘三年(1333年)5月9日、六波羅探題北方・北条仲時が、一行432名とともに自殺しました。

・・・・・・・・

第14代執権=北条高時(たかとき)が事実上の実権を握る鎌倉幕府に対し、楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに倒幕ののろしを挙げた第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

その高時の命を受けて、天皇派討伐軍として京に派遣された足利高氏(後の尊氏)でしたが、実は、その心はすでに後醍醐天皇方にあり、京に入るなり一転して六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)を攻撃します。

元弘三年(1333年)5月7日、高氏らの猛攻に敗色が濃くなった六波羅探題は、北方を務める北条仲時(なかとき)南方北条時益(ときます)ら、ともに、一旦、六波羅を捨てて関東へと退く事としました。

これまでの経緯のくわしくは5月7日のページ>>でご覧くださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

こうして、六波羅を後にした仲時ご一行・・・

しかしながら、間もなく、先陣を務めていた南方の時益が、敵の放った矢に射抜かれて討死・・・同行していた光厳(こうごん)天皇にも流れ矢が当たって、左足を負傷するという事態に・・・

何とかその場を切りぬけた仲時らは、すでに700騎にまで減っていた自軍を三手に分け先陣を家臣の糟谷宗秋(かすやむねあき)に、後陣を、途中で合流した佐々木時信(ときのぶ=六角時信)に託しました。

しかし、その後、彼らが行きついた番馬(番場=ばんば・滋賀県米原市)の宿では、すでに峠が敵陣によって封鎖されていたのです。

仲時らが関東に落ちて行くという噂が流れた5月6日に、後醍醐天皇の五宮(ごのみや=亀山天皇の皇子・守良親王の事とされる)が放った令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)に応答した近在の悪党(主君を持たない武士)野伏(のぶし=落武者狩りをする民衆)たちの集団が、番馬に集結していたのです。

その数、およそ5000人・・・

何とか、果敢に討って出る宗秋らは、1度は敵を蹴散らしますが、後陣の姿がまだ見えない事もあって、仲時らの陣とともに、近くの辻堂(蓮華寺)に身を隠して後方からの援軍到着を待つ事にしました。

ところが、そんな彼らが見た物は・・・

後方から、錦の御旗を掲げてやって来る5000余りの集団・・・もちろん時信の後陣ではありません。

あ然とする仲時ら六波羅勢一行・・・

実は、この時、探題(=仲時)討死の誤報が流れた事によって、「もはや、決着がついた」と判断した時信は、高氏側に降伏を申し出た後、京都方面に戻ってしまっていたのです。

Houzyounakatoki600 そうとは知らない仲時は、不安に思いながらも時信の来援に一縷の望みを託して待ちますが、時間の経過とともに、その状況は否応なく解って来るもの・・・

しかも、例えこの場を切りぬけたとしても、この先には、美濃(岐阜県)土岐(とき)一族三河(愛知県東部)吉良(きら)一族など・・・
敵方にくみした者がウジャウジャいます。

やがて仲時は、言います。

「もはや、北条も終わったな・・・と、わかっていながら、ここまでついて来てくれた皆、ありがとうな。
なんとか、その気持ちに応えようと思うけど、もはや命運尽きたしな・・・
こうなったら、君らに、この仲時の首を捧げよう。
この首持って、敵方に降伏すれば、恩賞も貰えるよってに・・・」

この言葉を残し、仲時は、その場で腹掻き切って切腹・・・元弘三年(1333年)5月9日享年28歳の若さでした。

それを見た宗秋は・・・
「殿を見捨てるなどできません・・・死出の山道、お供します!」
と言って、仲時の体を貫いた刀で以って、彼も自害します。

そして、なんと、その場にいた432名が、二人の後を追って自刃したのです。

辻堂の庭は血の海と化し、死体の山で埋め尽くされ・・・そこには、ぼう然とたたずむ光厳天皇の姿・・・

やがて光厳天皇は野伏集団に捕えられ、持っていた三種の神器は五宮の手に渡ります。

ここに六波羅探題は、完全に消滅したのです。

一説によれば、仲時自刃の時、光厳天皇も「私も自刃しよう」と申し出たと言います。

しかし、それを止めたのは仲時自身・・・

「僕が、まだ、生きてる時に、天皇を敵方に奪われたんなら、僕の恥って事にもなりますけど、僕らが死んでしもてからなら、どーっちゅー事もありません」

つまり、あなたは生きていてください」と・・・

そこには、天皇家を上、武家を下に見る王家の犬などではなく、「この命賭けて天皇家をお守りする事こそ武士の誇り」とする平氏の血筋(北条も平氏です)が、幕府最期の時となってもなお、脈々と受け継がれていたように感じます。
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コメント

仲時さん、すごい人望がある人ですね。裏切り者がいてもおかしくないのに。太平記を読むと、天皇を敬い奉るという視点で、書かれていますね。★昭和天皇の戦争責任を問われた時に、水面下で奔走した臣下がいましたよ。こういう話は知るぞ知るですけど。

投稿: やぶひび | 2012年5月 9日 (水) 19時20分


承久の乱があったり、鎌倉幕府を滅ぼしたのが後醍醐天皇ということもあって、天皇と幕府の中は悪いというイメージがありました。
今回の話にはビックリです。(゚0゚)

天皇と家臣、両方の命を救おうとした、仲時さん。上にたつ者としての責任と、主を守ろうとする心、二つを持ち合わせている武士の鑑の人です。

投稿: ティッキー | 2012年5月 9日 (水) 20時47分

それにしても 六波羅方の武士の潔いことよ。多勢に無勢とはいえ、これだけの人数がいれば、どこか突破口を開けたとも思えますが、死を見ること帰するがごとし。命より名を惜しんだのですね。

平清盛はドラマではアホの子になってますが、平治の乱の時には御所に戦火が及ばぬよう敵を六波羅の正面に吸収しながら戦っており、二条城の織田信忠もそうでしたね。
ぎりぎりの状況での皇室に対する態度で、日本人の教養の程は判ります。後の世まで語り継がれて。

投稿: レッドバロン | 2012年5月 9日 (水) 21時16分

やぶひびさん、おはようございます。

>太平記を読むと、天皇を敬い奉るという視点…

本当ですね。
天皇家を敬う心は、今より遥かに大きかったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年5月10日 (木) 05時05分

ティッキーさん、おはようございます。

「自分の首を手土産に降伏しろ」という言葉には泣けますね~

大将たる者の責任!
まことの武士ですね。

投稿: 茶々 | 2012年5月10日 (木) 05時09分

レッドバロンさん、おはようございます。

今年の大河は、それほど悪くは無いと思いますが、
「武士の世をつくるのじゃ~」
という所は、どーも馴染めません。
しかも、ドラマの設定では白河天皇の息子なのに…

これからの展開に期待します。

投稿: 茶々 | 2012年5月10日 (木) 05時14分

茶々さん、こんばんは!

蓮華寺には6~7年前に訪れた事があります。その際に、ガラスケースの中に陳列されていた『過去帳』を拝見しましたが、その中には名字のない名前だけの17歳の男の子の名も刻まれていました。

名のある武将だけでなく、無名で散ったいった彼らの悲しみが詰まっていた最期の地といえますね!

歴史は、教科書で憶えるような一握りの有名人たちの一生の積み重ねではなく、無名で埋もれてしまった人たちが創り上げた結晶なんだな、って痛感したのが懐かしいです。

ps.仲時に関して、ブログ記事をTBさせて下さいね!!

投稿: 御堂 | 2012年5月10日 (木) 19時12分

御堂さん、こんばんは~

蓮華寺に行かれたんですか?

>ガラスケースの中に陳列されていた『過去帳』を拝見…

そうなんですよね。
432人というはっきりした数字が残ってるのは、過去帳があるからですよね。

そうですか。
殉死したのは配下の武士ばかりでは無かったのですね。
ますます仲時さんの人望の篤さを感じます。

投稿: 茶々 | 2012年5月10日 (木) 20時45分

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幕末期の新選組に次いで女性に人気のある歴史上の人物として最後の六波羅探題北方・北条仲時が挙げられます。 北条仲時は元弘3年(1333)5月7日の六波羅探題陥落の際、北朝の光厳天皇、後伏見・花園上皇を伴い中山道を鎌倉へと東走しますが、近江国番場宿(現、滋賀…... [続きを読む]

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