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2012年6月11日 (月)

「真田日本一の兵」by島津忠恒の心の内は…

 

慶長二十年(1615年)6月11日・・・『旧記雑録』のこの日の条に、島津忠恒が国許に送った手紙の内容として「真田日本一の兵」の記述があります。

・・・・・・・・・・・・

かつては『立川(たつかわ)文庫』で・・・
現在は『戦国ゲーム』で・・・

戦国武将屈指の人気を誇る真田幸村(信繁)・・・

その武勇伝は、様々な書籍で、そしてネット上でも展開され、もはや、今更、言うまでもない戦国ヒーローなわけですが、その時に、幸村の強さを語る冠として、よく出て来るフレーズが「真田日本一の兵(つわもの)という言葉・・・

このフレーズの出どころ・・・というのが、今回ご紹介する『旧記雑録』(別名:薩藩日記=東京大学史料編纂所蔵)という島津家相伝の文章を収録した物慶長二十年(1615年)6月11日の条に書かれている文章・・・

薩摩藩主・島津忠恒(後の家久)が、国許(くにもと)に送った手紙の内容として出て来ます。

手紙自身はもっと長いのですが、その部分だけを抜粋させていただきますと・・・(画像の青で囲った部分です)

Sappannikki320 『一、五月七日に 御所様の御陣へ真田左衛門佐(さえもんのすけ=幸村)かかり候(そうろう)て 御陣衆追ひちらし討捕り申し候
御陣衆三里ほどづつにげ候衆は 皆々いきのこられ候
三度めにさなだもうち死にて候
真田日本一の兵
いにしへよりの物語にもこれなき由
(よし)
惣別(そうべつ)これのみ申す事に候』
 .

「5月7日の合戦で、家康はんの陣に真田幸村が攻めかかって、本陣を守る徳川勢を追い散らして討ち取ったという・・・
本陣の人らは、その後3里くらいずつ逃げて無事やったそうやけど、真田は3度目の攻撃で討死してしもた。
真田は日本一の武将やで
昔からの言い伝えや物語にも、これほどの武勇は無いやろ。
まぁ、だいたい言いたい事はそれだけやねんけど…」

てな感じでしょうか・・・

まぁ、『旧記雑録』に収録するくらいですから、島津として、この幸村の話を後世に伝えていこうという事なのでしょうし、幸村の大坂の陣の武勇を語っているのは、この島津だけじゃありませんので、確かに、幸村の大坂の陣での働きは、伝説に残るほどの素晴らしい物であった事でしょう。

ただし、この「真田日本一の兵」by島津・・・
この文面のまま、「敵将までもが絶賛する…」という風に、丸々受け取ってもいいほど、単純では無いような気がします。

まず、この島津忠恒・・・大阪の陣には行ってません。

先立つ冬の陣の時には、豊臣秀頼からの出陣要請を受けるものの、それを拒否し、徳川につく事を表明・・・

しかし、実際には、その時に発生していた島津国内での問題ゴタゴタのピークで薩摩を離れる事が出来ず、結局、大坂攻めには参戦せずじまいでした。

そのために、徳川家から「大坂方に与しているのではないか?」と、謀反の疑いをかけられ、夏の陣の時には、その疑いを晴らすべく出陣し、必死のパッチで、何とか北上していたのですが、結局、平戸(長崎県)あたりまで来たところで、「大坂城落城」の一報を聞いた・・・という事で、幸村の戦いぶりを、その目で見たというわけでは無いのですね。

つまりは、この「日本一の兵」というのは「人づてに聞いた」、あるいは、「そんな噂になってる」という事なのです。

だからと言って、私は、「真田日本一の兵じゃない」と言ってるわけじゃぁ無いですよ。

いつも見ていただいてる皆様はご存じの通り、私は、大阪城を朝な夕なに仰ぎみて育ち、羽柴茶々というハンドルネームを名乗らせていただくほどの「心は大坂方」なので、むしろ「真田バンザイ!よくやった」派なのですが、

言いたいのは、この手紙を書いた島津忠恒の気持ち・・・です。

もちろん、実際には、書いてある事がすべて・・・心の内なんてわかるわけがありませんから、あくまで、イケズで腹黒の私=茶々(決して淀殿ではありません)が思うところでは・・・って事なのですが・・・

この大坂の陣の時、忠恒さんは41歳・・・幸村よりは、少し年下で、働き盛りのバリバリと言えば、バリバリなのですが、かと言って、また、1から武将人生をやりなおすほど若くは無い年齢です。

そう、彼にとって、この大戦は、最後の武勇をほこれるチャンスだったかも知れなかったわけです。

しかも、冷静に見渡す限り、豊臣と徳川という2大勢力がぶつかって、そこで徳川が勝ち、かつ秀頼も淀殿も亡くなった・・・となれば、この後、今回に匹敵するような大戦があるかどうかも微妙なわけです。

また、「心は大坂方」の私としては、この大坂の陣は、世間で言われているほどの差(大坂方には浪人者しか集まらなかったみたいな事)は無かったと思っています。

結果的に、徳川が勝ったから、豊臣方に与した側の記録が末梢されているだけで、たとえば、毛利の佐野道可事件(5月21日参照>>)のように、各武将も、けっこう二股かけてたんじゃないか?と思っています。

現に、「左衛門佐、合戦場において討ち死に。古今これなき大手柄」なんて発言を残している細川忠興(ただおき)だって、実は、二股かけて(次男が大坂方)ました。

伊達政宗(だてまさむね)だって結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)だって、自らの家臣を大坂城に送り込んでいます。

つまり、この大坂の陣の頃までは、まさに戦国で、その武勇如何によっては一発逆転のチャンスもあったかも知れない・・・(あくまで個人の感想です)

しかし、自らが参戦する前に決着がついてしまった・・・

何やら、この事に対する言いようの無い空しさというか、残念さというか、悔しさというか・・・

最後に
「惣別これのみ申す事に候」
という、何となく、投げやりな感じで締めくくるあたりにも、少しばかり、時代が変わる事を感じた戦国武将の心の奥底が見えるような気がしてならないのです。
 .

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

徳川家康→真田昌幸に、「表裏比興者」というほめことばが。卑怯者でなく、老獪な曲者という意味。家の存続については、いい子孫や家臣に恵まれたようですね。島津氏も。

投稿: やぶひび | 2012年6月12日 (火) 07時27分


茶々さんの楽しいアンケート企画で
『誰の顔写真が見てみたい?』ってのがあったら
まよわず『真田幸村』と書きまする^^

どんな容姿の人だったのかな。
わからんまんまでいいか。
永遠に、草刈正雄のまんまでいいか(笑

投稿: 真田丸 | 2012年6月12日 (火) 17時40分

やぶひびさん、こんばんは~

真田昌幸はイイ意味で曲者ですからね~

そういう意味でも、それまでは父の七光で、実績の無かった幸村にとって、大坂の陣は最初で最後の武勇の見せどころだったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 00時27分

真田丸さん、こんばんは~

私も、顔写真が見れるなら見てみたいですが、是非とも、若い頃のヤツをお願いしたいです。

大坂の陣の頃の手紙には
「最近は歯も抜けて来て、体力も無くなって、すっかり年老いたわ」
て、ご本人が書いてはるので…

そんな姿は、見たくない気が…(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 00時31分

幸村さんはハーフ?「天地人」では、城田優でした。上杉家に人質時代の幸村さん。偏屈な性格に描かれていたけど。上杉家の養子になっていたら、どんなでしょうか?

投稿: やぶひび | 2012年6月13日 (水) 06時34分

やぶひびさん、こんにちは~

「天地人」の幸村は、「天地人」お得意の「ツンデレ」キャラでしたね。

幸村がそのまま上杉にいたら??
どうなってたんでしょうねぇ??
考えてみます(*^-^)

投稿: 茶々 | 2012年6月13日 (水) 15時09分

島津忠恒と細川忠興に代表される真田幸村賞賛は、徳川絶対時代におけるささやかな徳川家康への批判だったと思っています。
つまり、豊臣氏を滅ぼすことはなかったと書きたかったのですが、そんなこととてもじゃないが書けない。
そこで、真田幸村を必要以上に賞賛することにより、間接的に徳川家康を批判している。
私はこのように考えています。

投稿: 南海ホークス | 2014年8月31日 (日) 15時33分

南海ホークスさん、こんにちは~

>徳川家康への批判…

それもあるかも知れませんね。

私としては、幸村と同じように、家康本陣まで攻め込んだ毛利勝永への絶賛があまり聞こえられず、真田だけが注目されるのは、「勝永が生還した後に自刃」、「幸村が討死」の違いにあるのでは?と考えていて、「そんな強い幸村に勝った」と言いたいのかな?と…
(島津忠恒場合は参戦してないので、また少し意味が違うかも知れませんが…)

でも、確かに、皆が皆「豊臣を倒したい」とは思っていなかったでしょうから、批判の意味も込められていたかもしれません。

投稿: 茶々 | 2014年8月31日 (日) 16時15分

茶々様
こんばんは、
ご返信ありがとうございます。

大阪夏の陣での豊臣方第一の活躍は私も毛利勝永だったと思っています。
自軍が敗色濃厚になった時は、指揮命令系統が機能しなくなるのが当たり前の中、最後まで戦線を維持して大阪城に帰還した事はとても凄いことだと思います。

毛利勝永がもっと日の目を見るといいなと思っています。

投稿: 南海ホークス | 2014年9月 1日 (月) 23時47分

南海ホークスさん、こんばんは~

先日行った、このブログのアンケートでは勝永さんは人気上昇中みたいで、幸村と肩を並べるようになるのも、そう遠くないかも知れませんよ!
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2014年9月 2日 (火) 01時08分

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