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2012年6月27日 (水)

灰になっても…大野治胤の壮絶最期

 

元和元年(慶長二十年・1615年)6月27日、大坂方の大野治胤が堺の町を引き回されたのちに処刑されました。

・・・・・・・・・

ご存じ、大坂夏の陣・・・

元和元年(慶長二十年・1615年)5月8日に、大坂城は炎に包まれて落城し、豊臣秀吉の後を継いでいた秀頼(2007年5月8日参照>>)、その母・淀殿(2009年5月8日参照>>)自害・・・ここに豊臣家は滅亡しました。
(もっとくわしくは【大坂の陣の年表】>>からそれぞれのページでどうぞ)

その後、勝者となった徳川家康による戦後処理は大変厳しい物でした。

家康は底した残党狩りを行い、しばらくの間は、一日につき50人~100人という人数の人たちが、毎日ひっ立てられて処刑されていたと言います。

以前から、度々、このブログで発言させていただいているように、私個人的には、大坂の陣に至るまでの豊臣と徳川は、一般的に言われているような「家康ボロ勝ち」の雰囲気では無かったと思っています。

一般的には、関ヶ原で西軍が負けた事によって豊臣家は徳川配下の一大名に成下がり、勝利した家康がほぼ天下を掌握して、征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた事になってますが、私としては、それは後世の徳川家の言い分で、実際には、この大坂の陣で家康が勝利するまでは、むしろ、豊臣家の方が権威を持っていたのではないか?とさえ思っています。
(くわしくは
関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係】>>
【秀吉が次世代に託した武家の家格システム】>>
【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>
【家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事】>>
など、ご覧ください)

だからこそ、大坂の陣で勝利した家康は、徹底的に残党狩りを行い、豊臣方を根絶やしにしなければならなかったのだと思います。

そんな中で、落城時に大坂城を脱出した人たち・・・

落城から4日後の5月12日には秀頼の娘が捕縛され(2008年5月8日参照>>) ・・・さすがに、女の子は尼になる事で命は取られませんでしたが・・・

5月15日には長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が斬首(5月15日参照>>)

5月21日には佐野道可(どうか)こと内藤元盛が切腹(5月21日参照>>)

5月23日には、秀頼の息子で、わずか9歳の国松が斬首されています(10月17日参照>>)

そう、つい先日書かせていただいたように、落城時に脱出した主要人物の中で、逃げ切った?のは明石全登(あかしたけのり・景盛)ただ一人とも言われています(2012年5月8日参照>>)

さらに、脱出組ではなくても・・・
5月27日には増田長盛(ましたながもり)が自害し(5月27日参照>>)6月11日には古田織部(おりべ)が切腹(6月11日参照>>)・・・もはや、例え徳川方であっても、ちょっとでも疑わしき人は、生きてはいられない状況だったのでしょうか?

そんな中、やはり、落城する大坂城から脱出を図ったのが、本日の主役・大野治胤(はるたね)・・・彼は、合戦の時に大坂城内を仕切っていた大野治長(はるなが)です。

ご存じのように治長は、淀殿の乳母だった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)の息子・・・つまり、淀殿とは乳兄弟の間柄で、その信頼を一身に受けており、大坂の陣当時、城内の主軸となっていた人で、秀吉の遺言により、秀吉亡き後には家康と結婚する事になっていた淀殿を奪った(12月16日参照>>)なんて話も・・・故に、もし秀頼の父親が秀吉で無かった場合に、真っ先に、本当の父親として名前が挙がる人(8月3日参照>>)でもあります。

そんな大野兄弟は、乳母の息子以外に、はっきりした出自のわからないところもありつつも、この大坂の陣において活躍した事は確か・・・

ご存じのように、長兄の治長は、秀頼&淀殿に最後まで従い、ともに自刃して果てますし、次男の治房(はるふさ)は、かの国松を警固するという重要な役目を任されて、ともに大坂城を脱出しています・・・結局は捕縛されて処刑されてしまいますが・・・
(ただし、四男の治純は徳川方です…(4月19日参照>>)

・・・で、そんな大野兄弟の三男の治胤さん・・・すぐ上の兄・治房とともに、秀頼の小姓として仕えていましたが、なかなかに個性的な人で、周囲とぶつかる事が多く、一時は道賢(どうけん=道犬)と号して、何やらフラフラしていた時代もあったとか・・・

なので、文献によっては大野道賢あるいは大野道犬という名で登場する場合もあります。

大坂冬の陣では、豊臣方の水軍の指揮を任されていたと言いますが、天候不順により思うような成果が出せず、野田福島の合戦(11月29日参照>>)で手痛い敗北を喰らってしまいます。

この事で、やはり同じ野田福島の合戦の時に遊郭に遊びに行っていて砦を奪われてしまった薄田隼人(すすきだはやと=兼相)(5月6日参照>>) とともに、「橙武者(すっぱい橙は食べるより正月飾りに使う事から、見かけ倒し的な意味)なんて、ありがたくないニックネームを頂戴する事となってしまいました。

Ca3e0035a800 新鴫野橋から見た大阪城天守閣

やがて訪れた大坂夏の陣・・・ここでは、塙団右衛門(ばんだんえもん)とともに、4月29日の樫井の戦い(4月29日参照>>)に出陣した治胤ですが、その途中で、通過した堺の町を焼き打ちにしてしまった事が、彼の死に様を変えてしまう事になるのです。

その樫井の戦いでは、団右衛門が討死する中、とか大坂城に逃げ帰った治胤でしたが、結局、徳川方の総攻撃によって大坂城は落城・・・

城から脱出して、京都方広寺に隠れていたものの、やがて発見されて捕縛・・・

そう、ここで、堺の町衆が、治胤の身柄を引き渡してくれと願い出るのです。

先の樫井の戦いを前にした焼き打ち・・・この焼き打ちで堺の町は焦土と化し、多くの一般市民も巻き添えを喰っていたのです。

この時の炎で家族を失った者たちの恨みは、当然の如く治胤に注がれるわけで・・・

かくして元和元年(慶長二十年・1615年)6月27日堺の町を引き回された後、処刑される治胤・・・

一説には、引き回しの後に京都三条河原で斬首されたと言いますが、一方では壮絶な最期を物語る逸話も残っています。

その伝説によれば、近くの浜辺の並松広場という場所にて、堺の町衆によって火あぶりの刑に処せられたと・・・

渦巻く炎は、治胤の体どころか磔(はりつけ)られた柱さえも黒コゲにしてしまうほどの勢いで燃え盛り、やがて一つの炭の固まりとなって火は消えます。

その時、炭と化した治胤の遺体を確認しようと1人の男が近づいたところ、いきなり治胤の体が動き、その者の脇差を引き抜いて、近くの者の腹に一突き!!!

こうして見物人を1人道連れにした直後、治胤の体は灰のようにパラパラと崩れ落ちたのだとか・・・

さすがに、そのままには信じ難い壮絶な最期ですが、この話は江戸中期に成立した『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)にも登場し、どうやら、武士たちの間ではまことしやかに語られていたようです。

あまり史料の多くない治胤さんですが、その死に様は、多くの人の心に刻まれたという事なのでしょう。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

大野道犬という名前と堺焼き討ちは知ってましたが、その最後は知りませんでした。このような話が創作されるということは、道犬の人となりがそれに見合ったものであったということなのでしょうか。すさまじい話ですね。教えていただきありがとうございます。

投稿: ナツメの10ちゃん | 2012年6月28日 (木) 19時37分

ナツメの10ちゃんさん、こんにちは~

>道犬の人となりが…

そうでしょうね。
ヒョロヒョロした人なら、例え創作でも、こんな話は生まれないでしょうし、「葉隠」では「武士の最期はこうでなくっちゃ」的な扱いになってますので、やはり、他を圧倒するような武勇を感じさせる人だったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年6月28日 (木) 21時15分


堺の衆にはご迷惑な話でありますが、どのような最期であれ、恨みを呑んでバケて出てくるような者はもののふにあらず。

たとえ灰になっても敵を道連れにするのが、この時代の武士の正道かと。それにしても、凄まじい話です。

投稿: レッドバロン | 2012年6月29日 (金) 17時17分

レッドバロンさん、こんばんは~

ホント、壮絶です。
武士たる者は、やはり、これくらいの覚悟が無いとダメなのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年6月29日 (金) 20時12分

大野治胤の最期、凄まじいインパクトですね。
真田丸に出て来て欲しかったなぁ~、と思いつつ、彼のキャラクターは次兄の治房で補完しているのかなと考え治しました。
(治長を殴って襲撃するシーンの衝撃を思い出しながら)

投稿: パイナップル | 2016年12月 7日 (水) 22時15分

パイナップルさん、こんばんは~

>彼のキャラクターは次兄の治房で補完しているのかなと…

私もそう思います。
史料が少ないのでアレですが、私の個人的なイメージでは治房さんは、どちらかと言うと大人しめで兄に従順なタイプではなかったか?と想像していて、「真田丸」の治房さんは治胤のイメージです。
おそらく、何人も弟を出すとややこしいので、全員の分を一人に凝縮してるのでは?と…

投稿: 茶々 | 2016年12月 8日 (木) 04時18分

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