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2012年6月15日 (金)

天皇家と徳川家の架け橋に…東福門院徳川和子

 

延宝六年(1678年)6月15日、徳川秀忠の娘で、公武の架け橋になるべく入内した東福門院徳川和子が72歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」では、見事にスルーされた第2代将軍・徳川秀忠(ごう・江与)五女ですね。

ドラマの主人公の娘を、
しかも、時の天皇に嫁いで次期天皇を産むというビッグな出来事を成した人をスルーするという勇気に感服したのも記憶に新しいところですが、

そのお名前は東福門院(とうふくもんいん)徳川和子(まさこ・かずこ)と言い、幼い頃の名前は、松姫もしくは和姫との事ですが、本日は和子さんと呼ばせていただきます。

・‥…━━━☆

慶長十六年(1611年)4月、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇即位します。

先代の後陽成(ごようぜい)天皇が、なぜか弟に皇位を譲ろうとしていたところを、あの徳川家康強い推しによって決定した即位でした。

家康が推した・・・という事は、それほど両者の関係がうまくいっていたわけで、同時に家康が希望した和子の入内は、慶長十九年(1614年)春に、正式決定の運びとなります。

しかし、そもそもは朝廷の丸抱えを図りたい家康・・・この間に、『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)など発布したりなんぞして、何となく、両者の空気は重い・・・

しかも、間もなく起こった大坂の陣のゴタゴタに、家康の死や後陽成天皇の崩御が重なって、結局、入内が延期に・・・

ようやく落ち着いた元和四年(1618年)から、再び婚礼準備が開始されますが、ここに来て、後水尾天皇が寵愛する四辻与津子(よつつじよつこ)なる女性が皇子を出産した事が発覚・・・

およつ御寮人事件と呼ばれるこの事件に秀忠と江が激怒し、徳川家内でも入内に反対する声が出ますが、そもそもは公武の融和を図るための政略結婚・・・ここで取りやめにするわけにもいかず、

結局、関係者を処分する事で事件を手打ちとし、1年後の元和六年(1620年)、和子は輿入れしたのです。

Tokugawamasako500 時に和子14歳・・・以来、彼女は1度も江戸に帰る事無く、58年という月日を京の都で過ごす事になります。

とは言え、ドタバタ続きで私欲丸出しの政略結婚のワリには、後水尾天皇と和子の夫婦関係は良く、なかなかに仲睦まじいカップルだったようです。

二人水入らず、和子のお酌でお酒を酌み交わした夜があったり、
「その着物、なかなか似会ってるじゃん」
と、後水尾天皇が和子の容姿に惚れ々々した・・・なんて記録もチラホラ・・・

そこには、和子の人柄もあったようです。

和子は、後水尾天皇との間に2男5女の7人の子供をもうけます(男子は早世)が、自らの子供たちだけではなく、側室の子供たちも、たいそう可愛がっていたそうで、なんと、和子の最期を看取ったのは、かのおよつ御寮人事件の時に、その与津子さんが産んだ娘だったとか・・・

しかし、彼女の思いとはうらはらに、朝廷と徳川家の関係は、あまりうまくは行かず、寛永四年(1627年)には、秀忠による朝廷の封じこみ=紫衣(しえ)事件が起こり、その2年後には、もはやブチ切れた後水尾天皇が、娘の女一宮に、幕府に無断で譲位を決行してしまいます(11月8日参照>>)

ここで即位した第109代・明正(めいしょう)天皇は、和子さんの娘ですから、かつて藤原氏が行ったと同様(藤原不比等を参照>>)外戚(がいせき=天皇の母方の実家)を獲得したくて天皇家に娘を送り込んだ徳川家としては、一応は外戚をゲットした事になりますが、男系男子で継承される天皇家で、女性天皇の外戚となったところで、それは1代限りの事ですからね。

さらに、これまでの女性天皇を見る限りでは、その子供を期待する事はできませんから、むしろ、天皇家における徳川家の血脈は、ここでストップする事になります。

一方、そこにあてつけるかのように、後水尾天皇は、和子を含む奥さま連中との間に33人もの子供たちをもうけました。

おそらく、性格よさげな和子さんとしては、婚家と実家の板挟みとなって気苦労が耐えなかった事と思います。

そんな彼女が、危篤状態となったのは、延宝六年(1678年)6月15日の事でした。

『女院瀉血(しゃけつ)の御悩(ごのう)のあるゆえ…』
との『徳川実記』の記録から、高血圧か脚気ではなかったか?と言われます。

とにかく、急を聞いて、後水尾法皇や明正天皇が、彼女の御所に駆けつけますが、二人の顔を見たからか、一旦もちなおしたので、ひとまず、二人はそれぞれの御所へと引き上げますが、それから、わずか2時間後、再び危篤状態となり、そのまま、帰らぬ人となりました。

故に、和子の最期を看取ったのは、そばにいた尼さん1人・・・この尼さんが、先ほどお話した与津子の娘=文智女王(ぶんちじょおう)でした。

彼女が唱える観音経を唱和しながらの、穏やかな最期だったと言います。

♪武蔵野の 草葉の末に やどりしか
 みやこの空に かへる月かげ ♪
 和子:辞世

最後の最後に思い描いたのは、遠き故郷・・・

一方、彼女の死を受けた後水尾法皇は

♪かかる時 ぬれぬ袖やは ありそ海
 浜のまさごの 天の下人 ♪
 後水尾法皇

時に法皇82歳・・・天皇家と徳川家がどうあろうと、二人の心はしっかりと結びついていたという事なのでしょう。
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コメント

大河ドラマの「春日局」では、秀忠、家光父子が対面するシーンがありました。秀忠が(娘に)女御さまと呼びかけていました。「江」より「春日局」の方が名作だと思いますが…

投稿: やぶひび | 2012年6月16日 (土) 11時33分

やぶひびさん、こんにちは~

>「江」より「春日局」の方が名作だと思いますが…

残念ながら、私は「春日局」を見てないんですが、たぶん、そうだと思います。

投稿: 茶々 | 2012年6月16日 (土) 15時32分

NHKのオンデマンドで見られます。ひと月見放題で、大河ドラマを見まくりも。

投稿: やぶひび | 2012年6月17日 (日) 11時22分

やぶひびさん、こんにちは~

情報ありがとうございます。
時間と相談してみます(笑)

投稿: 茶々 | 2012年6月17日 (日) 12時03分

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