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2012年7月11日 (水)

関ヶ原への決意~大谷吉継と石田三成

 

慶長五年(1600年)7月11日、佐和山城にて石田三成と大谷吉継が会見・・・挙兵を決意した三成に吉継が賛同しました。

・・・・・・・・・

豊臣秀吉に仕官するまでの大谷吉継(おおたによしつぐ)については、謎に包まれています。

一般的には、大友家の家臣であった大谷盛治(もりはる)の息子として豊後ぶんご=大分県)に生まれ、16歳の時に、播磨(はりま=兵庫県)平定中で姫路城にいた秀吉のもとへ、石田三成を通じで仕官を申し出たと言われていますが、それだと年齢が合わない矛盾もあり、最近の研究では滋賀県の余呉町出身という話も出て来ています。

とにもかくにも、秀吉のもとへ仕官した頃の吉継は、文治派の三成が紹介したワリには、合戦での武功に憧れる武勇の人であったようです。

ただ、武勇以外にも、事務的な才能もあった事から、三成との仲の良さも相まって、何かと、事務の方面へ回される事が多く、あの賤ヶ岳の合戦(4月20日参照>>)の時も、松明(たいまつ)や兵糧の手配を命じられたために、本チャンの賤ヶ岳には遅れて到着し、これと言った武功を挙げられなかったのだとか・・・

とは言え、もともとマジメに地道に事を行う吉継の才能は、検地や財政など領国経営にいかんなく発揮され、戦時下でも武器・兵糧の調達や輸送の手配などの任務を見事にこなす縁の下の力持ちとして活躍し、しかも、誠実で片寄りの無い差配は、大きな武功が無くとも、周囲の信頼を得ていく事になります。

しかし、そんな吉継を病魔が襲います。

現在で言うハンセン病だったとも言われていますが、それはしだいに重くなり、やがて、その視力を奪い始め、もはや、事務的な仕事にも支障をきたす事態となり、吉継は隠居を決意していたとか・・・

ところが、ここで、主君=秀吉の死(8月9日参照>>)という一大事が・・・

翌年の3月には重鎮の前田利家(3月3日参照>>)が亡くなり、その日の夜には、武闘派の加藤清正らが、三成を襲撃する(3月4日参照>>)という事態に・・・

このモメ事によって、居城の佐和山城に蟄居(きっきょ=謹慎処分)されられた三成から見れば、この豊臣家内の亀裂に乗じて徳川家康が豊臣家に取って代わろうとしているのが明白・・・

その家康は、亡き利家の妻=芳春院(ほうしゅんいん=まつ)を人質に取って前田家を押さえた(5月17日参照>>)後、この春から家康の上洛要請を拒否し続けている会津の上杉景勝(4月1日参照>>)を征伐すべく、6月17日、伏見城を後にしました。

その家康が江戸へと到着したのが慶長五年(1600年)7月2日その同じ7月2日・・・三成は、自らの佐和山城に吉継を迎えて、初めて、自らの心の内をうち明けます。

この時、吉継は、家康の会津征伐に従軍すべく、東山道(中山道)を東に向かっている最中で、この日は垂井(たるい=岐阜県不破郡)に軍を休ませていた、その合い間に三成の要請を受けて会いに来たのでした。

その告白の内容は・・・
もちろん、「家康の留守を見計らって挙兵する」事・・・そして、「友人である吉継に、ともに戦ってもらいたい」という事でした。

「あの狸爺は、大軍で上杉を討つ事によって、豊臣政権まで奪おうとしてるんや!」
と、息巻く三成に
「家康はんは、秀頼公を大事にする…って言うてはるで」
と冷静に答える吉継・・・

「そんなもん、ウソに決まっとるがな!
豊臣恩顧のみんなも、信じとるけど…お前、あのタヌキがそんな甘いジジイやと思うか?」

「けど、今、家康はんに戦いを挑んで勝てるやろか?」
「お前が、味方になってくれたら勝てる」
「俺??」
「お前は、俺と違て、人望も篤いし信用もある…お前がこっちについてくれたら、西国の毛利や長宗我部(ちょうそかべ)も味方になってくれるに違いない」
「そんなウマイ事いかんやろ…とにかく、俺は、今、戦いを起こすべきやないと思う。
なんぼ、お前の頼みでも、それは聞く事はできん!」

(注:セリフには主観が入っております)

この日の話し合いは、そこで終わり、吉継は陣を敷いている垂井へと帰っていきました。

しかし、ご存じのように、吉継は会津に向かっていた隊を離れ、戻って来るのです。

先の話し合いから9日経った慶長五年(1600年)7月11日再び佐和山城を訪れた吉継は、親友=三成に賛同する事を表明します。

この9日間の間に、どのような心の変化があったのか??
よく言われるのは、秀吉主催の茶会でのエピソードです。

大坂城の茶室で行われた茶会にて、吉継のところに茶碗が回って来て、それを飲もうとした時、不覚にも、病気の膿みが1滴・・・ポタリと茶碗の中に落ちてしまいます。

太閤秀吉が点てたお茶です・・・そのお茶は茶碗ごと、次の誰かに回して、その誰かが飲まねばなりません。

周囲には、何人かの武将がいましたが、皆が固まってしまい、最悪の空気に・・・

すると、横にいた三成が、サッとその茶碗を取り、一気に茶を飲み干し、秀吉に向かって、「ノドが乾いていたので、つい、残りを一気に飲んじゃいました~」
と・・・

このおかげで、吉継は、恥をかく事も無く、秀吉を怒らせる事も無く、無事、茶会を終えた・・・と、

この時の三成への感謝の気持ちが、彼を動かしたと言われますね。

それと、もう一つ・・・

冒頭に書いたように、もし、吉継が、本来は武勇の誉れ高き武将に憧れていたのだとしたら・・・

もはや、病も重くなり、馬に乗る事さえ不可能な自分にとって、これは、若き日の夢を叶える最後の大舞台と思った可能性もあるかも知れません。

もちろん、だからと言って、勝ち目の無い戦いに死にに行くわけではありません。

この翌日には、増田長盛(ましたながもり)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)も味方につきますし、7月15日には、毛利輝元西軍の総大将に担ぎあげる事にも成功しています(7月15日参照>>)

裏切り・寝返り・二股が入り乱れて、結果的に東軍勝利となるので、その結果を知っている私たちから見れば、何やら死を覚悟した参戦のようにも見えますが、あくまで、この時点では、三成ら西軍にも勝算はあったのです。

かくして吉継は、西軍として関ヶ原に挑みます。

Sekigaharaemakiyositugu900 奮戦する大谷吉継隊~関ヶ原合戦図絵巻より(岐阜市歴史博物館蔵)

その日の彼のいでたちは、病気で崩れた顔を隠すため、浅葱色(あさぎいろ=この文字の色ですの絹の布を綿帽子のようにスッポリかぶり(白じゃなかったのねん…カッコイイ(*゚ー゚*))練り絹の上に群れ飛ぶ蝶を漆黒で描いた直垂(ひれたれ=鎧の下に着る着物)を着用・・・籠に乗って、自らの軍を指揮したと言います。

その最期の姿は、もう4年前の記事となりますが、未だに拍手の多い2008年9月15日の【関ヶ原・秘話~ともに命を賭けた戦場の約束】でどうぞ>>
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さま
おはようございます。
大谷吉継に関しては、その謎の多い前半生と忠義の人というイメージで、とても好印象です。
ところで、お茶会のエピソードですが、てっきり太閤秀吉が吉継のピンチを救うべく「ご自服」した、という話はきいたことがありました。
が、三成が救ったのですね。
とにかく彼のピンチを救ったのは、そのどちらか一人で、彼の参戦の動機になったのは間違いないのでしょう。

投稿: やんたん | 2012年7月13日 (金) 07時38分

やんたんさん、おはようございます。

そうなんですよね。
このエピソード…有名なお話なので紹介させていただきましたが、「実は飲み干したのは秀吉」って話もありますね。

私も、エピソードの出どころを知って、ホントのところを確認したいんですが、未だにわからずです。
wikiには、この話の出典が「宗湛日記」とあるんですが、残念ながら「宗湛日記」には無いんですね。

聞くところによると、秀吉説の場合は、吉継が秀吉の隠し子という噂があって、それで、「茶会で吉継をかばおうと秀吉が飲んだ」って事になってるらしいのですが、個人的には、吉継が秀吉の子供の可能性は低いように思いますので、やっぱ三成なのかな?と思ったりします。

どちらにしてもいい話ですが…

投稿: 茶々 | 2012年7月13日 (金) 07時57分

関ヶ原の戦いと言えば、他の誰よりも強烈な印象を残すのが、大谷刑部(義継)さんです。

三成さんにもそういう所がありますが、元々が文治派と言われ、能吏ゆえ軟弱と見られていた事への強い反発心があったと思います。

いざ合戦となったら、イジメっ子グループに目にものを見せてくれる、と日頃から準備し、名のある侍大将をスカウトして、士卒の訓練を怠らなかった成果が出ています。

全般の戦いは小早かわった?金吾と、その便乗組のお陰で滅茶苦茶になってしまいますが、大谷隊の勇戦力闘ぶりは日本人の歴史がある限り、いつまでも語り継がれてるでありましょう。以て、瞑すべしです。

投稿: レッドバロン | 2012年7月13日 (金) 19時17分

レッドバロンさん、こんばんは~

大谷さんは、ホント人気がありますね。
それも、キョーレツなファンの方が多いです。

やはり、この関ヶ原での勇猛ぶりが、それだけスゴイという事なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年7月14日 (土) 02時20分

昨日放送された、NHK大河ドラマ「真田丸」において、歌舞伎俳優の片岡愛之助さんが、大谷吉継役で登場しましたね。愛之助さんの演技や外見を見た限りでは、吉継は、ハンセン病には、まだかかってなかったようですね。吉継が、いつ頃ハンセン病にかかってしまったのかは分かりませんが、相当なハンデを抱えながら、乱世を生きたのかもしれません。だとすれば、石田三成は、吉継がハンセン病にかかってしまったからといって、絶交をしなかったのは、吉継に対して、三成は、放っておくわけにはいかないという気持ちが、沸き上がったのだと思います。

投稿: トト | 2016年4月18日 (月) 10時11分

トトさん、こんにちは~

二人の間の篤い友情は「友情以上の物が感じられる」として『ボーイズラブ』との見方をされている方も多いようです。

病気に関しては、一般的にはハンセン病ですが、江戸時代以前の記録にはハッキリと記述した物がなく、「何かしらの病気にかかっていて視力が落ちていた」程度なので、ひょっとしたら、今回の大河では、今までとは違った表現になるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年4月18日 (月) 17時42分

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