« 運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期 | トップページ | 茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種 »

2012年7月 3日 (火)

舅・伊達政宗と幕府転覆??松平忠輝の長い勘当

 

天和三年(1683年)7月3日、徳川家康の六男で、越後高田藩の初代藩主となった松平忠輝が92歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

上記の通り・・・松平忠輝(まつだいらただてる)は、あの徳川家康の息子・・・母は茶阿局(ちゃあのつぼね)という人で、もともとは遠江(とおとうみ=静岡県西部)鋳物屋の嫁だったのが、彼女の美貌に目がくらんだ代官が、自分の物にしようと夫を騙し討ちした事を、彼女自身が家康に訴えたところ、なんと、家康が彼女に惚れ込み、代官を処分した後、奪うように浜松城に迎え入れた・・・なんて噂のあるお人・・・

この噂の真偽のほどは定かではありませんが、家康の寵愛を受けていた事は確かで、浜松城の奥向きの事は、彼女が一手に引き受けていたと言われます。

そんな最愛の彼女との間に生まれた息子なら、さぞかし、家康も可愛がり・・・と思いきや、これが、あまりに顔がブサイク過ぎて、家康に嫌われたのだとか・・・

「何人もの男が一目で惚れてしまうくらい美人の彼女のとの間に生まれた子がブサイクなら、それは、お前(家康)のDNAやろ!」
と、思いますが、

とにかく、ブサイクベィビー忠輝を嫌った家康は、赤ん坊を1度捨てさせて、側近の本多正信に拾わせ、その後、配下の皆川広照(みながわひろてる)に育てさせたと言います。

まぁ、この「家康のブサイクベィビー嫌い」の話は、あの次男の結城秀康(ゆうきひでやす)の誕生のくだり(11月21日参照>>)ともソックリなので、ブサイクだから・・・というよりは、何らかの理由があって遠ざけねばならなかったという事なのかも知れませんが・・・

その理由としては、やはり、母の茶阿局の身分が低かったから・・・という物の他に、実は、忠輝は双子だったというのがあります。

これも、結城秀康と同じですが、当時は双子は「畜生腹」として忌み嫌われていたという歴史があり、実際に、忠輝の弟である七男の松千代が早世したために、その後を継いで長沢松平家の当主となり、その後、武蔵深谷1万石を与えられて、初めて大名になる・・・

つまり、弟の方が先に藩主になっていたわけですが、それも、双子でほぼ同時に生まれていたのなら、なんとなくわかる気もします。

捨て子も、当時は「捨て子の方が丈夫に育つ」として、一旦捨ててから家臣が拾うという儀式的な物がありましたしね。

まぁ、それもこれもあれもどれも・・・家康が、自らの後継者と決めた三男=秀忠に権力を集中させんがために行った、他の息子たちへのパフォーマンスとも言えなくないですが・・・

Matudairatadateru300 とにもかくにも、こうして7歳にして1万石の大名となった忠輝・・・慶長八年(1603年)には、信濃松代(長野県)14万石に転じ、やがて慶長十一年(1606年)には、あの伊達政宗の娘=五郎八姫(いろはひめ)結婚しました。

もちろん、徳川家と伊達家の関係を強めるための政略結婚ではありましたが、夫婦仲はなかなかに良かったと言います。

その後、慶長十五年(1610年)には越後福島城主となって所領も45万石(60万とも)と大幅アップ!!

さらに、慶長十九年(1614年)には、佐渡金山から江戸への金銀の輸送路の確保と、加賀前田家へのけん制の意味を込めて、幕府の力で以って壮大城を越後高田を建設しますが、忠輝は、この高田城の城主となり、70万石の領地を持つ大大名となります。

まぁ、この高田城の建設途中で、かの大坂冬の陣が始まってしまいますので、城の工事そのものは第1期で終わってしまいますが、場所的にかなり重要な所を任せられた事には変わりなく、その信頼度がうかがえるという物です。

ところが、この大坂の陣あたりから、なにやら忠輝の人生の歯車が狂いはじめ、徳川将軍家との大きな溝ができて来るのです。

一般的に言われるのは、忠輝は粗暴な殿様で、数々の乱行を繰り返していたという物・・・

大酒飲みを城に連れ込んで腹を裂いたりしたとか・・・
また、その乱行を諫める重臣を追放したり、他家の重臣を殺害したり・・・

しかし、このテの話が、あまり信用できないのは皆さまもご存じの通り・・・公式記録では粗暴でも、言いかえれば、それは武勇に長けた戦国武将にも似た生き様だったわけで、現に、忠輝の剣の腕前は相当な物だったという話もチラホラ・・・

ひょっとしたら、この先、将軍=秀忠を中心に政治をこなす、官僚的な武士を欲する徳川家から、そんな強さが脅威に見えたのかも・・・

とにかく、大坂冬の陣では江戸城の留守役を命じられ、続く夏の陣では、出陣はするものの、出陣途中で秀忠の家臣に追い越されたとして家臣二人を無礼討ちにしたほか、肝心の大和口の合戦には遅刻して武功を挙げる事ができず、家康の怒りをかったとされます。

しかも、その夏の陣の朝廷への戦勝報告には参加の命令を無視して京都の嵐山で舟遊びをしていたとか・・・

結局、家康の死の際にも面会が許されず、その死後には、家康の遺言を理由に、秀忠によって所領を没収されたうえ、伊勢朝熊(あさま)山へ流罪となってしまいます。

元和四年(1618年)には飛騨高山に流され、最後は信濃諏訪に預けられ、天和三年(1683年)7月3日その配流先で92歳の生涯を終えました。

公式には、その配流先でも幕府を無視して我まま勝手な行動を振る舞い、酒におぼれていたと記録される一方で、公式では無い記録には、庶民たちと親しく交わるやさしいオジイチャンで時々は湖水に舟を浮かべて住民たちと遊ぶ光景が見られたとか、文化人としても1流だった忠輝のおかげで、諏訪地方の文化水準がグンとアップしたなんて話も残ります。

そう、実は、この改易には、忠輝の乱行では無い、別の理由が見え隠れするのです。

奥さんだった五郎八姫とは、この改易の際に強制的に離婚させられ、五郎八姫は実家に戻されますが、この五郎八姫が敬謙なキリシタンだったのは有名な話・・・しかも、彼女は、その後に出た結婚話をすべて断り続け、生涯、独身を貫きます。

これには、離婚を許さないキリシタンの教えに従った彼女にとって、生涯、ただ一人の夫が忠輝だったのでは?と言われます。

それに応えるかのように忠輝も敬謙なキリシタンであったとも言われ、遠くヨーロッパとの交流も望んでいたと・・・

そうです。
あの伊達政宗のページで書かせていただきましたね(5月24日参照>>)

忠輝を新しい幕府の将軍にして、政宗が関白となって手腕を奮う政治体制・・・それが、明治の時代まで、ひた隠しにされていた支倉常長(はせくらつねなが)を代表とする遣欧使節の派遣(8月26日参照>>)である・・・と

もちろん、この話は、それこそ極秘事項で、徳川300年間闇の中に葬られていた事なので、もはや、その証拠となる物など残っていないのでしょうけど・・・

ところで・・・
忠輝の死から300年経った昭和五十九年(1984年)7月3日、忠輝のお墓のある貞松院(長野県諏訪市)と、徳川宗家18代めの子孫の方との話し合いで、ようやく彼の罪が赦免されました

父の死に面会を許されず、家を継いだ兄貴に勘当を言い渡された形の忠輝さん・・・この時、300年という長い長い勘当が解かれた事に、ホッと胸をなでおろしたのかも・・・

いやいや、ひょっとしたら、戦国武将を彷彿させる忠輝さんの事ですから、もしも、本当の改易の理由が幕府転覆計画の発覚にあるのなら、むしろ、勘当を受けて立つ!」てなサムライだったのかも知れませんね。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


« 運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期 | トップページ | 茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種 »

江戸時代」カテゴリの記事

コメント

高田の領地はちょうど私の母親の故郷です。
忠輝の件が影響したのか高田は江戸時代の一時期は「左遷地」でしたね。21世紀の今日ではあと数年で、北陸新幹線の新駅ができます。駅名を巡って少し問題になっています。
故・隆慶一郎さんは文中の「死後300年目の勘当撤回」を機に、「捨て童子 松平忠輝」の執筆を始めたんでしょうか?
世間では「小説のヒットが放免のきっかけ」と思っている人もいます。

ところで左上にあった「巴御前のイラスト」が「大夫の写真」に変わりましたね。変更したきっかけはなんですか?

投稿: えびすこ | 2012年7月26日 (木) 16時31分

えびすこさん、こんにちは~

小説が汚名返上のキッカケになる事は多いですよね。
歴史上の人物ならみんな好きな私としてはウレシイです。

プロフィール写真を変更したキッカケは、このあいだ京都に行って写真を撮って来たからです。

投稿: 茶々 | 2012年7月26日 (木) 16時55分

こんにちは、ブログ大変楽しく読ませていただきました。僕の田舎は高田城のほとりです。来年が開府400年に当たるので、高田は盛り上がっています。僕は実はマンガ家をやっていまして。開府400年のTシャツを作るから絵を描いて欲しいと頼まれ描いたのです。その時に昔の肖像を参考にして、描いたのですが、売店に並んでいるTシャツを見て、殿様は烏帽子など被っていない、公家みたいな格好はおかしいと、ものいいが着いてしまいました。でも、肖像画を見るとやはり被っているし、このブログを読ませていただいて、文化に長けていたり、キリスト教やヨーロッパとの公益を行なったなどの多面性がある事を知り、殿様らしからぬ格好をしていたとしてもおかしくないのではないかと思い、調べて見たのですが、衣装についての文献が見当たりません。忠輝の衣装について、おわかりでしたら、お教えいただけないでしょうか?なぜ公家のような格好をしていたのか、とても興味のあるところでもあります。よろしくお願いします。

投稿: 市川リンタロウ | 2013年8月16日 (金) 10時53分

市川リンタロウさん、こんにちは~

私としては、文化とかその方の趣味というよりは、礼装の時は武家の殿様でも公家みたいな格好するのが普通だと思いますが…
忠輝の冠位は従四位下、左近衛権少将ですから、むしろ、正式な場所には、礼装で参上しないといけなかったと思いますよ。

それと、肖像画は礼装で描かれている事が多々あります。
今で言うところの「結婚式の記念写真に紋付き袴で写ってるような物」ではないかと…でも、今の私たちも普段から紋付き袴は着てませんよね?
そんな感じだと思います。

ものいいをつけた方は、単に武士らしいカッコイイ姿(=普段着っぽい姿とか馬に乗ってるとことか)がお好みだったという事ではないでしょうか?

衣装については、「風俗博物館」さんの日本服飾史・資料>>や、「歴史館」さんの江戸時代の武士の装束>>が参考になるかも知れません。
もし、すでにご存じのサイトだったら申し訳ないですm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2013年8月16日 (金) 16時37分

記事中に触れられてはいないようですが、
大阪夏の陣の最中のゴタゴタで忠輝は秀忠の旗本とトラブルになって斬るよう命じたことが原因、と幕府側がちゃんと記録していたと思います。
遺族から秀忠からクレームが行き、兄弟同士で処分とか出来ないということで家康へ話が上がり、そこから軍規違反としての処分が行われたということでしょう。

投稿: | 2013年8月16日 (金) 18時52分

>記事中に触れられてはいないようですが

あの…
大阪夏の陣の時に秀忠の家臣とトラブルがあった事は、記事中で触れさせていただいてますが…

このページでは、その公式記録にある理由とは、別の理由があるのではないか?というお話を進めさせていただいたのですが、言いたい事が伝わり難い文章で申し訳なかったです。

投稿: 茶々 | 2013年8月17日 (土) 00時13分

徳川家康の六男として生まれた松平忠輝は、四番目の兄の松平忠吉や、御三家の祖で弟である徳川義直・徳川頼宣・徳川頼房と比較すると、冷遇され続けた人生だったような気がします。親子の確執というのは、いつの時代でも起こることでしょうが、心のどこかで忠輝は、家康に 愛されたかったはずでしょう。しかし、家康は、忠輝が何らかの災いをもたらすかもしれないと感じたのかもしれません。もし、忠輝に救いがあるとすれば、長寿であったことではないでしょうか。あと、余談で申し訳ありませんが、家康には、五男として生まれた武田信吉という息子がいたそうです。その方は、生没年が、1583年~1603年でして、武田家の名跡を継いだそうですが、後継ぎに恵まれなかった上に、若くして病死したそうです。なお、信吉のことについては、Wikipediaに記載されていたことをお伝え申し上げます。

投稿: トト | 2016年8月24日 (水) 18時23分

トトさん、こんばんは~

Wikipediaはあまり見ないので、その内容は確認してませんが、水戸藩主だった武田信吉さんは、いつだったかの大河ドラマにも出て来てましたね。

投稿: 茶々 | 2016年8月25日 (木) 04時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 舅・伊達政宗と幕府転覆??松平忠輝の長い勘当:

« 運命を変えた遭遇戦…新田義貞の最期 | トップページ | 茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種 »