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2012年7月18日 (水)

槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重

元亀四年(天正元年=1573年)7月18日、室町幕府・第十五代将軍・足利義昭が篭もる宇治・槇島(まきしま)城を、織田信長が攻撃しました。

・・・・・・・・・

5年前の今日の日づけでのページには、義昭さん自身の事を書かせていただきました(2007年7月18日参照>>)ので、本日は、この槇島城(まきしまじょう)の戦いを中心に書かせていただきますね。

とりあえず、ここまでの経緯は・・・

ご存じ、あの足利尊氏(たかうじ)が初代将軍となって開いた室町幕府ですが、やがて訪れた戦国時代・・・下剋上の嵐の中で、畿内にて頭角を現して来た三好長慶(みよしながよし)と対立した第13代将軍・足利義輝(よしてる)は、その戦いに敗れ、度々、京を追われる事になります(11月27日参照>>)

とは言え、その間も、この長慶が、上下関係を重んじる古風な性格だったおかげで、何とかの将軍の座を保てていたわけですが(5月9日参照>>)、長慶が亡くなると、その家臣の松永久秀三好三人衆に襲撃され、義輝は命を落とします(5月19日参照>>)

Asikagayosiaki600 この時、三好勢によって奈良興福寺に監禁されていた義輝の弟は、その2ヵ月後に、細川藤孝(後の幽斎)らの手によって救い出される(7月28日参照>>)・・・この弟が足利義昭(よしあき・義秋)です。
 .

その後、越前(福井県)朝倉義景のもとに身を寄せながら、何とか、兄の思いを継いで将軍に復帰したいと願っていたところ、明智光秀を通じて織田信長を知る・・・

武力はあるけどブランドの無い信長と、ブランドはあるけど武力の無い義昭の利害関係が見事に一致・・・途中、行く手を阻む近江(滋賀県)六角氏を倒しながら(9月13日参照>>) 、永禄十一年(1568年)9月26日、信長は義昭を奉じて上洛を果たしたのです(9月26日参照>>)

第15代将軍となった義昭は、年下の信長の事を「御父殿」と呼び、しばらくの間は蜜月の日々を過ごしますが、やがて、その将軍の座が飾り物で、実質的に政治的差配を奮っているのが信長である事に不満を持ち始める義昭・・・

しかも、元亀元年(1570年)1月23日、信長が義昭に『五ヵ条の掟書』(1月23日参照>>) という義昭の行動を制限する書状を突き付けた事で、その亀裂は決定的となります。

そこで義昭は、信長に敵対する諸大名に手紙など書き、浅井・朝倉(6月28日参照>>)石山本願寺(11月24日参照>>)などを扇動して信長を攻撃させます。

やがて元亀三年(1572年)、そこに甲斐(山梨県)の大物=武田信玄も加わって、信長包囲網ができあがるのです。

この状況に「行ける!!」と踏んだのか、義昭は、翌年の正月頃から、自身の二条城の掘りを新しくしたり、武器弾薬を運び込んだり、戦闘の準備に入ります。

この様子を察した信長は、再三に渡って義昭に和睦を打診しますが、義昭は聞く耳を持たず(2月20日参照>>)・・・

これに対して信長は、和睦交渉を進めつつ、一方で、あの上京焼き討ち(4月4日参照>>) を決行します。

これに驚いた正親町(おおぎまち)天皇から「和睦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出た事で、一旦、両者は和睦しますが、義昭の心にはモヤモヤが残ったまんま・・・

結局、7月5日、義昭は勅命を破棄して挙兵・・・二条城を三淵藤英(みつぶちふじひで=幕臣・細川藤孝の異母兄)に守らせ、自らは槇島城(京都府宇治市)に立て籠ったのです。

これに対し、建造したばかりの大船(7月3日参照>>)で琵琶湖を渡り、7月7日に京都に入った信長が、妙覚寺に布陣して二条城を包囲すると、その軍勢のスゴさに参り、二条城は、またたく間に開城されました。

翌7月8日・・・信長は5万の軍勢を率いて宇治五ヶ庄に本陣を構えます。

一方の義昭は、仁木(にっき)吉良などの臣下とともに甲賀の武をかき集め、宇治川に架かる大橋を切り落とします。

川を挟んだ両岸に、思い思いの旗馬印をたなびかせ、しばしにらみ合う両軍・・・

かくして元亀四年(天正元年=1573年)7月18日・・・信長勢が川を渡るところから槇島城の戦いの火蓋が切られました。

信長軍の先陣を行く稲葉一鉄(11月19日参照>>) が川の際まで繰り出したところ、1人の雑兵が、ササァ~と、稲葉勢に加わって来たかと思うと、あれよあれよと言う間に先頭に立って、ただ一騎、川の中へと馬を滑らせて、
「梶川弥三郎宗重(かじかわやさぶろうむねしげ)なり~」
と、声高らかに名乗りを挙げながら、北東に向かって一直線に川を渡ります。

これを見た一鉄が
「続け~~」
と号令をかけるが早いか、皆が一斉に、ドヮッと川に駆け入ります。

ほぼ同時に、柴田勝家丹羽長秀(にわながひで)明智光秀木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)などが、我も我もと続き・・・『絵本太閤記』によれば、この時、あまりの軍勢の勢いに、流れの早い宇治川に淀みが出来るほどだったとか・・・

もちろん、義昭の軍勢も黙ってはおらず、川中の敵を討たんと川岸まで出て来ますが、あまりの勢いに尻ごみ・・・結局、信長軍は、ほぼ無傷のまま川を渡りきりました。

この状況を見るに見かねた松井康之なる武将が、わずか500手勢を率いて槇島城を出て、先陣の稲葉軍と戦いますが、もはや、その武勇も空しく、あまたの軍勢が討ち取られ、康之自身も命を落とします。

さらに、隙間なく攻め寄せる信長軍は、大手搦め手を打ち破り、怒涛のごとく攻め寄せます・・・それは、まるで、大石を以って鶏の卵を割るがごとく・・・

さすがに槇島城内では「もはや、これまで」の声があがり、武将ともども、将軍の前で割腹して果てようとなり、義昭も自刃を心に決めます。

そして、今まさに、切腹しようとしたその時・・・その場所に、1人の雑兵が駆けこんで来ます。

「ちょっと待ってください!
将軍様が、こんなとこで命を落とすやなんて、もったいないです。」

そう言いながら義昭に近づき・・・
「信長さんが、ここまでの大軍を要しておきながら、この合戦で1本の矢も放たんかった事、お解りになりませんか?
それは、将軍様の命を重く感じておられるからです。
どうか、このまま、開城して退去なさってください」

と義昭を説得します。

この雑兵は、なんと、あの宇治川を1番に渡った梶川宗重でした。

彼は、木下藤吉郎の配下の者・・・藤吉郎の命を受けて、1番に川を渡り、先に、あの松井勢に紛れ込んで城中に忍び込み、将軍の説得に当たったのでした。

この説得に応じた義昭は、翌7月19日、嫡男の足利義尋(ぎじん)人質に出す条件で降伏し、槇島城を出たのです。

ここで京都追放となった義昭は、7月20日に三好義継(よしつぐ)河内若江城(大阪府東大阪市)へと送られ、教科書などでは、ここで、室町幕府の滅亡となるわけですが、冒頭でも紹介した以前のページ(再び2007年7月18日参照>>)に書かせていただいたように、私個人的には、ここでの幕府滅亡は、すこぶる納得がいきません。

そもそも将軍というのは、天皇が任命する物であって、その天皇が「お前クビ!」と言ってクビにするか、将軍が自ら「辞めます」と言って、それを承認してもらうかしない限り、将軍は将軍のままなわけで・・・下剋上でのし上がった一戦国大名のように、力が衰えたから滅亡、都から追放されたから滅亡という定義は当てはまらないと思うのですが・・・

まぁ、その話をし出すと長くなりますので、またいずれ・・・と言っても、テストでは「室町幕府の滅亡=1573年」と答えてくださいね。

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コメント

たしかに、厳密に言えば滅亡したとは言えませんね。
追放された将軍は、ほかにもいたような気がします。
しかし、国王の追放・監禁・亡命などでも王国は滅亡と見做されることを考えると、結果論的に再興できるかどうかで決めているかも。

それはともかく、梶川宗重。
>藤吉郎の命を受けて、~
意外な名前が!( ̄□ ̄;)マジ!?
Why? どーして? なぜそこまで?
何か裏でもあるんですかぁ~??(錯乱)

投稿: ことかね | 2012年7月24日 (火) 15時44分

ことかねさん、こんばんは~

そりゃ、私もツッコミたいですよ。
本文に書いた通り、この話は『絵本太閤記』にある話で、そのまま紹介させていただきましたが、そのウラに関しては書かれていませんのでなんとも…

太閤さんヨイショの可能性も…

投稿: 茶々 | 2012年7月24日 (火) 21時04分

確かに在京がかなわなかった足利将軍は他にもいるのに、この時点をもって滅亡とは納得できません。

やはり1588年の義昭出家が当時の常識に照らしても、現在の考証からいっても滅亡(というか辞退)の時期といえるはずです。

でなければ毛利や武田、本願寺があれ程の危険を顧みず信長と戦い続けた理由や、秀吉が将軍ではなく関白を選んだこともわかりません。

あるいは別の候補を挙げるとすれば、本能寺の変の直前にあった「三職推任」(1582年)や、足利家の形式に則ったとされる右近衛大将就任(1575年)ですかね

いずれにせよ何の根拠で1573年が出てくるのか。教科書はくだらない…

投稿: | 2013年8月14日 (水) 00時35分

>いずれにせよ何の根拠で1573年が出てくるのか…

そうです。
ここで滅亡しているのなら、秀吉が、関白になる前に、義昭の養子になりたがってた事にも、何の意味もなくなりますからね。

投稿: 茶々 | 2013年8月14日 (水) 01時18分

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