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2012年7月 9日 (月)

鎌倉幕府軍…最後の全面降伏

 

元弘三年(1333年)7月9日、阿蘇治時大仏高直ら、北条氏の名族や重臣たちが処刑されました。

・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)5月9日、後醍醐(ごだいご)天皇に味方した足利高氏(後の尊氏)によって六波羅探題(ろくはらたんだい=鎌倉幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)が消滅し(5月9日参照>>)、続く5月22日には、新田義貞らの攻撃によって鎌倉の北条高時(ほうじょうたかとき)が自刃し(5月22日参照>>)、かの源頼朝以来(7月12日参照>>)、100年以上に渡って日本を統治して来た鎌倉幕府が滅亡しました。

その後、5月28日に、拠点を構えていた伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)を出て京都に入った後醍醐天皇が、天皇中心の建武の新政を実施する(6月6日参照>>)わけですが、

上記の通り、この時点では、これまで全国展開していた鎌倉幕府のうち、都である京都と、幕府拠点の鎌倉を押さえたにすぎませんから、当然の事ながら、他の地域の制圧を行わねばならないわけで・・・

って事で、後醍醐天皇方が、九州を治めている鎮西探題(ちんぜいたんだい=鎌倉幕府が九州統轄のために設置した機関)北条英時(ひでとき)を攻める準備をしていた6月7日・・・九州に根を張る菊池氏少弐(しょうに)大友氏から、「九州の朝敵は一掃したので、ご安心を…」という、突然に報告が入ったのです。

実は、すでに後醍醐天皇から倒幕の勅旨(ちょくし=天皇の命令書)を受けていた菊池・少弐・大友の九州3氏・・・

とは言え、最初のうちは遠き京都の事や鎌倉の情報があまり入って来なかったこの地では、少弐氏と大友氏が英時につき、天皇方についた菊池を攻撃するという九州勢同士の戦いもありましたが、やがて六波羅探題陥落のニュースが九州一帯を駆け巡った事で、少弐と大友は離反・・・一転して鎮西探題攻撃へと変わったのです。

それでも、何とか抵抗していた英時でしたが、「もはや遠く離れた鎌倉の援軍も期待できない状態の九州では太刀打ちできない」と判断・・・未だ鎌倉陥落のニュースも知らぬ5月25日、一族郎党240名とともに、博多にて自害して果てたのでした。

また、長門探題(ながとたんだい=鎌倉幕府が元寇に備えて現在の山口県に設置した機関)北条時直(ときなお)も、苦戦する幕府の一員として、攻め寄せる少弐&島津の倒幕軍と戦っていましたが、京都&鎌倉に続いて、上記の九州までもが制圧された事を受けて、自ら降伏しました。

さらに北陸では・・・

越前(福井県)牛原(うしがはら)地頭を務めていた淡河時治(あいかわときはる=北条時盛の息子?)が、六波羅探題陥落の報を受けて、部下たちが一斉に離反したうえ、天皇方についた平泉寺の僧兵7000人囲まれた事で、もはや覚悟を決め、幼き子供たちを船に乗せて沖合で入水するのを確認した後、自らも自刃しました。

また、越中(富山県)守護であった名越時有(なごやときあり)と弟の有公(ありとも)と甥の貞持(さだもち)は、倒幕軍を阻止するために集めた兵士たちが、やはり六波羅探題陥落のニュースを聞いて一斉に離反・・・反対に彼らに攻撃をして来る状況を受けて、捕虜となる事を恥じた3人は、妻子を乗せた船を富山湾の沖深く沈めた後、残った家来ともども自刃して果てました。

そして、最後に残ったのが、あの楠木正成千早城を攻撃(2月5日参照>>)すべく、金剛山周辺に展開していた幕府軍の兵士たち・・・

その2月5日のページに書かせていただいた通り、もはや、本拠の鎌倉が危なくなって、千早城どころではなくなった幕府は、5月10日に千早城からの撤退を命じますが、だからと言ってすべての兵士が撤退するわけではなく、いくつかの小隊は押さえの兵として残しておくわけで・・・

で、こうして、六波羅探題も鎌倉も陥落した今となっては、逆に、この金剛山周辺に、1番多くの幕府軍が残っていたわけです。

しかも、「彼らは、奈良を拠点に都に攻め上る」なんて噂も立ち、これを重視した後醍醐天皇は、中院定平(なかのいんさだひら)を追討軍の大将に任命して5万の兵を大和(奈良)に差し向け、楠木正成に2万の兵をつけて、搦手(からめて)河内から攻め込ませました

対する幕府軍の残党も、なんだかんだ言って5万はいます。

ところが、やはり、ここでも・・・

官軍進攻の報に、またたく間に離反者が増え、ある者は敵方に寝返り、ある者は降伏し・・・と、みるみるうちに頭数が減っていきます。

これを見た軍首脳部は、「もはや抗戦は不可能」と判断し、阿蘇治時(あそはるとき=北条治時)大仏高直(おさらぎ・だいぶつたかなお=北条高直)はじめ50余人の主だった者が全員、般若寺で頭を丸めて僧衣姿となって戦う事なく投稿して来たのでした。

ここに鎌倉幕府軍は全面降伏となりました。

かくして元弘三年(1333年)7月9日阿蘇治時・大仏高直ら、北条氏の名族や重臣たちが大量に処刑されました。

『太平記』は・・・
『驕(おご)れる者は失(しつ)し、儉(けん)なる者は存す』
「高慢な人間は滅び、つつましく生きる者は永らえる」
と、勝利した天皇方絶賛しながらも、

『此(こ)の裏(うち)に向かって頭(こうべ)を回(めぐ)らす人、天道は盈(み)てるを欠く事を知らずして、なほ人の欲心(よくしん)の厭(いと)ふ事無きに溺(おぼ)る』
「例え、真実に目を向ける人であっても、天は必ず、満ちた物は欠けさせるわけで、人は限りない欲望に溺れてしまうもの」
と、この後も、波乱の展開が待っている事を予感させる終わり方で、北条の滅亡の第11巻を締めくくります。

その波乱の展開が起こるのは2年後の夏・・・壊滅状態の中から集結する北条の残が、再び動き始める中先代の乱と呼ばれるその反乱については7月23日のページでどうぞ>>
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

とにかく負けた方のトップが暗愚扱いされるのは勝者の歴史では定番でありまして。割り引いて考えないといけませんね。

最初の祖国防衛戦たる元寇での、幕府のとてつもない負担を考えれば、高時さんが田楽や闘犬の趣味に要した出費など微々たるものでしょう。

高時さん以下、鎌倉幕府の最期はまことにご立派ですが、リアリズムをもって危機に対処するまでにいささか時間を空費したかな、という感はありますね。徳川末期、京都が極めて危機的な状況になっているのに、江戸では未だ太平の夢を貪っていたのに似ています。近代以前には東西の情報格差があって、しばしば深刻な事態をもたらしたのではないかと。

今の鎌倉人士も余り外界の事に関心ありませんね。アソコは関東におけるミニ京都というのか?自足した世界でして。

投稿: レッドバロン | 2012年7月12日 (木) 02時49分


茶々さま、すみません。投稿欄ずれちゃいました。
こちらは高時さんのエントリーに行くはずでしたので、よしなに。

投稿: レッドバロン | 2012年7月12日 (木) 02時53分

レッドバロンさん、こんにちは~

私も、高時さん以下、北条勢の対処の仕方は、それほど悪くは無かったと思います。

もともと御家人の不満はあったわけですし、相手が後醍醐天皇であれど、最初のうちはゲリラ戦で、規模も小さかったでしょうし…

どこからが大規模反乱なのかの見極めが難しいですしね。

この平成の時代でも、トップのほうにいる方は、なにやら下界とはズレてるみたいですから…

投稿: 茶々 | 2012年7月12日 (木) 13時45分

全員降伏?!そんなアホナ信濃に高時の子の時行がいるよ!

投稿: 6幡太郎 | 2012年7月23日 (月) 13時08分

6幡太郎さん、時行の中先代の乱は、「その日」の日づけで書かせていただくつもりでおります。

そして、このページのお題は「全面降伏」であって、「全員降伏」ではありません。
そういう意味で韻を含む言い回しにしたつもりでしたが、ちょっと伝わり難かったですね…申し訳ないです。

歴史には、表と裏があり、鎌倉幕府の場合は、表向きには一旦ここで降伏&滅亡だと思っています。

逃亡者が水面下で画策するお話は、この時点では、まだ表面化していませんので、別の日づけでupし、その時点で「実は…」という形でお話をご紹介したいと思っていますので、ご理解いただければ幸いですm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年7月23日 (月) 14時25分

6幡太郎さんへ…

追記です。
上記のコメントをいただいた時は、7月23日付けのページの中先代の乱の事を書いている途中で、まだ公開していませんでしたので、上記のようなお返事をさせていただきましたが、その日の夕方にupさせていただきましたので、また、読んでいただけるとうれしいです。

投稿: 茶々 | 2012年7月24日 (火) 02時22分

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