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2012年8月 8日 (水)

上杉謙信と春日山城…の怪現象

 

永禄四年(1561年)8月8日、上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発ちました。

・・・・・・・・・・

いよいよ第四次川中島の合戦~八幡原の戦いへ動き始めましたね。

合計5回に渡る川中島の合戦で、最も激しい戦いとなり、一般的に「川中島の戦い」と言えば、この第四次の戦いを指すわけですが、戦いの経緯や、この合戦で命を落とす信繁や勘助に関しては、未熟な記事ながら、一応。すでに書かせていただいておりますので、今回は、本日、上杉謙信が出立した、春日山城についてのお話をさせていただきたいと思います。

川中島については、以前のページで↓
【鞭声粛々・川中島の戦い>>
【異説:川中島の合戦はなかった?>>
【補佐役に徹した武田信繁>>
【「山本勘助⇔山本菅助」その実在は?>>

・‥…━━━☆

春日山城(新潟県上越市)は、高田平野の西側にある春日山に築かれた山城で、山頂に天守台跡本丸跡があって、その西の下ったところに大きな井戸、そして、さらに西には、現在、毘沙門堂が再建されています。

謙信さんのページで、度々お話させていただいておりますように、謙信は毘沙門天を深く崇拝・・・どころか、自らが毘沙門天の化身と思っていたと言われるくらい帰依しており、戦いの際には、この毘沙門堂に籠って、1人瞑想しながら戦略を練っていたと言われていますね。

その様子は、3年前の大河ドラマ「天地人」でも度々描かれていましたが、ドラマの毘沙門堂は、なんか洞窟みたいな「毘沙門洞」になってましたが、残念ながら、実際の毘沙門堂は、その名の通りのお堂でした。

ドラマを信じて春日山城にやって来た人が
「洞窟じゃない!」
と言って、残念がった・・・なんてエピソードも、当時はあったみいですが・・・

Kasugatyamazyou600_2 元禄十五年(1702年)に写された春日山城古地図(新潟県立図書館蔵)

と言っても、この地に、このような本格的な城を築いたのは、謙信の父である長尾為景(ためかげ)さん・・・以前、書かせていただいたように、守護代であった為景が、上司である守護を倒して、事実上に実権を握るという下剋上をやってのけた武勇の人です(8月7日参照>>)

その為景の後を継いだのは、兄の晴景(はるかげ)でしたが、後に、19歳になった謙信(当時は景虎)兄との家督争いに打ち勝って、守護代の座を奪い取ったのです。

こうして、守護代として春日山城を居城とした謙信は、この城をより強固な物にするために、修築に励んだようです。

そして、その後、武田信玄と川中島で相まみえながら、皆さまご存じのように、山内上杉憲政(のりまさ)から関東管領職を受け継ぐ事となり(6月26日参照>>)、遠く関東まで出陣するようになりますが、天正五年(1577年)9月に七尾城を陥落させた(9月13日参照>>)後、その次の春を待たずに急死します(3月13日参照>>)

その後、春日山城は、後継者争いの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に打ち勝った景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)が治める事になるのですが、そこには、謙信の死にまつわる奇妙な話も残されています。

謙信には、猛将として知られた柿崎景家なる家臣がいましたが、ある時、馬の管理を任されていた景家は、差し当たって不用になった何頭かの馬を売りに、京都へと向かい、たまたま、その中の1頭を気に入った信長が、その馬を買ったのです。

よほどお気に召したのか、信長は、
「めずらしい馬をありがとう」
と、景家に礼状を送ります。

しかし、たまたま、景家は、この一連の流れを謙信に報告していなかった・・・やがて、何年か経って、その事を聞きつけた謙信は激怒します。

報告しなかった事を内通と判断した謙信は、この景家を殺害してしまうのですが、それが天正五年(1577年)11月7日とも(諸説あり)言われています。

以来、景家の亡霊が夜な夜な謙信の枕元に立ち、無実を訴えるように・・・結局、その翌年の3月に亡くなる事になる謙信の死は、この景家の怨霊による物と、春日山城では、まことしやかに囁かれていたとか・・・

さらに、その頃には、かの毘沙門堂のすぐそばにも、髪が肩にかかるほどにザンバラに伸びた異形の者が夜ごと現われ、人々を驚かすという現象もあったのだそうです。
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コメント

景勝・兼続主従の時代にも「柿崎の幽霊」の目撃があったんでしょうか?この話は地元では有名な怪談話でしょうか?
でも上杉謙信の遺体は国替えまで春日山城内に安置されていたんですよね。

投稿: えびすこ | 2012年8月 8日 (水) 15時58分

えびすこさん、こんばんは~

柿崎さんのお話は『武者物語』に登場するお話なので、地元の伝説というよりは、武将の「昔語り」として語り継がれて来た物だと思います。

残念ながら、そこには、「謙信の死にあたって…」としか、書かれていないので、景勝の時代にも目撃があったかどうかはわかりません。

投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 01時33分

柿崎さんという人は、諸国との外交交渉を担当されていたと聞きました。とするとそれなりに社交センスのある方だったと思うんですけど、どうして黙ってたんでしょうね~。
怨霊騒ぎの後にでも、ちゃんと供養してもらえたのか、気になります。

PS 茶々様の語られる納涼話は、この時期の密かな楽しみです(^w^)

投稿: 千 | 2012年8月 9日 (木) 12時40分

謙信の死も謎が多いみたいですね。大河ドラマの「天と地と」は出陣前に急死。「天地人」はしばらく昏睡状態で亡くなっています。私的には兄の晴影の愛妾の呪いかな。妖婦なので、斬罪した。

投稿: やぶひび | 2012年8月 9日 (木) 14時47分

唐突にすいません。

数日前から拝見させてもらっていますが、今日偶然春日山城跡に行ってきた事もあってコメントさせてもらいました。

柿崎景家といったら上杉家の中でもかなりメジャーな人ですよね(屋敷?跡も大きかったです)。他の方々もコメントしていらっしゃいますが、怨霊騒動のその後が気になるところです。

後、全然関係ない話なんですが、春日山城本丸跡近くにあるお花畑跡に何だか和んでしまいました。毘沙門堂のすぐ近くにあったのも何だかいろいろ想像しちゃいます。

投稿: 安芸餅 | 2012年8月 9日 (木) 17時43分

千さん、こんばんは~

そうですね。
柿崎さんは、なかなkに優秀な武将だったようですが、ちょっとした誤解が残念ですね。

納涼話…、機会があれば、また書きますので…m(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 19時41分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね。
お酒飲みだったので、その気配はあったのかも知れませんが、何となくタイミングの良い急死だったので、様々な憶測を呼ぶのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 19時43分

安芸餅さん、はじめまして、

そうですか。
春日山城に行って来られたのですね。

そう言えば、毘沙門堂の近くに、お花畑という場所もあったようですね。

>怨霊話のその後…
他の文献にも載っていないか、まだ、調べてみますね。

投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 19時46分

初めてブログします。第4回川中島合戦に関し、三池純正「真説・川中島合戦」という本が洋泉社から出ています。眼から鱗が落ちます。「甲陽軍艦」は江戸時代の軍学者・小幡勘兵衛が高坂弾正から聞いたことを書いたことになっていますが、小幡が軍学の講義に使った創作だそうです。勿論全部がそうではなく、特に第4回の川中島合戦は資料がほとんどなく、創作せざるをえなかったということです。犠牲者が双方に多く、そのために外聞をはばかり、記録を残さなかったのです。妻女山に謙信が布陣したというのも、周囲の山に武田の出城がいっぱいあった中、そんなところに布陣するのはおかしいといいます。きつつき戦法だとか、車かがりの戦法などは小幡の創作です。実際の戦闘は八幡平の西方の霧の中の偶発的な遭遇から混戦状態になり、東のほうに移っていった模様です。もともと戦国時代の武将は雌雄を決する決戦を回避することが普通でした。兵士は農民でもありますから、死者が出れば農作物の生産に支障が出ます。そのため前後5~6回にわたる川中島合戦は双方のにらみ合いで終わっています。第4回の合戦が犠牲者が多かったのは双方が望まなかった偶発的な遭遇戦だったからです。後世、この小幡の軍学の教科書として創作されたものが、あたかも実際にあったかのように流布されたのは不幸としかいえません。歴史は往々にして創作が人々の口に乗ってゆくうちに事実のように語り伝えられてしまいます。あなたの文献表に載っていないようなので、ぜひ読まれることをお勧めします。

投稿: 鈴木重昭 | 2012年8月10日 (金) 17時52分

鈴木重昭さん、こんばんは~

情報、ありがとうございます。
最近は、多くの歴史家が「無かった説」を唱えられるようになりましたね。

私も、以前の【異説:川中島の合戦はなかった?>>】のページでは、「無かった」と言いつつも遠慮して「?」をつけさせていただきましたが、個人的には、現在、一般的に言われているような戦いは「99%無かった」と思っています。

ただ、川中島は、あまり教科書では大きく扱われませんが、ものすごく大きく扱われる「家康が征夷大将軍になった時点で江戸幕府を開く」というのは、早く何とかしていただきたいと願っていますが、川中島と同様に、史料が無いぶん、なかなかに難しいですね。

まぁ、そこが歴史のオモシロイところではありますが…

投稿: 茶々 | 2012年8月10日 (金) 18時31分

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