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2012年8月30日 (木)

黒田官兵衛の福岡城…扇坂門の怨霊話

 

本日は、九州は福岡城に伝わるコワ~イお話で、少し涼んでいただきましょう。

福岡城は、ご存じ、黒田如水(じょすい=官兵衛孝高)長政父子(8月4日参照>>)が、関ヶ原の戦いの功績によって筑前(福岡県西部)一国・52万3000石という大幅アップの所領を得た事により、新たに構築した大城郭です。

約250000㎡という広い敷地に、慶長六年(1601年)から7年もの歳月をかけて建てられた城には、大小47もの櫓十数ヶ所もの城門があり、それは、九州の大大名にふさわしい巨大な物で、遠目に見ると、大小に重なる櫓が、鶴の大軍が舞い降りて来るように見えるという事から、別名:舞鶴城とも呼ばれていました。

Fukuokazyoukotizu600 福岡城を描いた古地図

ただ、これだけ巨大な城でありながら、この城には天守が無かったと言われ、それは如水の、徳川家が警戒せぬようにとの配慮から・・・とされていますが、もともと、この城は、戦うための戦国の城ではなく、領国を統治するための城であったと考えられ、そうだとすると、イザという時の立て籠り要塞の役目だった天守は、はなから不用だった可能性もあります。

以前もお話しましたように、この時期は、城の変革期でもありますから・・・(4月6日参照>>)

また、近年、隣国の細川忠興(ただおき)
「黒田長政が、幕府に配慮して天守を壊すと言っていた」
という内容の、元和六年(1620年)3月16日付けの書状が発見された事から、最初はあったものの、幕府の出した一国一城制に配慮して取り壊したのでは無いか?とも言われています。

・・・と、上記の通り、この福岡城を構築したのは、黒田如水&長政父子なわけですが、本日のお話は、その長政の息子で、次に藩主となった黒田忠之(ただゆき)さんの時代のお話・・・

実は、この忠之さん・・・あの伊達騒動(3月27日参照>>)加賀騒動(6月26日参照>>)に並んで、江戸時代の三大お家騒動の一つに数えられている黒田騒動(3月2日参照>>)を巻き越す事から、かなり暗愚なダメダメ藩主として語られます。

本当にそうだったのか?
あるいは、優秀すぎるジッチャンや父ちゃんに比べると・・・って範囲内のものだったのか?
いやいや、本当は優秀だったのに、何かの理由で、事実を歪められて伝えられているのか?

それこそ、ご本人に直接会ってみないとわかりませんが、今回の伝説でも、やはり、ダメな藩主という設定で登場・・・父の長政が亡くなった後は、自分の周囲にはイエスマンばかりを集めて可愛がり、イイ気になって藩政を怠っていたと・・・

で、今回の主人公は、その忠之さんのお気に入りだった浅野四郎左衛門という武士・・・

彼は、もともと下級も下級・・・底辺に近い身分で、ちょっと前までは食べるにも困る貧乏ぶりだったのですが、ゴマスリの達人だったおかげで、藩主・忠之のお気に入りとなり、ここのところ急激にハブリが良くなって来ていたのです。

そうなると、ついつい調子に乗っちゃうのが人の常・・・

城下に繰り出しては、飲めや歌えの宴会に女遊びの酒池肉林の毎日・・・奥さんをほったらかしては、遊び呆けてうたわけですが・・・

実は、という名前の彼の奥さん・・・四郎左衛門がまだまだ貧乏だった頃に貰った奥さんで、気だては良いものの、身分は低く、見た目もも一つ・・・

そうなると、
「今の俺やったら、もっとエエ女がふさわしいんちゃうん?」
と思い始め、やがて、単なる女遊びではなく、お妾さんを囲って、そこに入り浸るようになるのです。

まぁ、この時代、藩主や身分の高い武士には側室がいるわけですし、裕福な商人だってお妾の一人や二人いるのも当たり前でしたが、それは、あくまで、本当に身分が高いか、本当に大金持ちの一部の人のみ許されるもので、四郎左衛門のように、未だ、大した身分でもなく、ちょっとばかりのお金を持ったからってな程度では、やはり良く無い行為というのが常識でした。

なんせ、四郎左衛門程度では、家計の事務的な事をやってくれる家臣や奉公人もいないわけですから、彼に、ちゃんと家に帰って来てもらわないと生活も成り立たなくなっちゃうわけです。

しかし、待てど暮らせど、帰らぬ四郎左衛門・・・

いつしか、奥さんの綱は、毎夜、お妾の家に向かう四郎左衛門が通るであろう扇坂門に立ち、
「あなた、帰って来てちょうだい」
と、涙ながらに説得するようになります。

Fukuokazyounawabarizu600

 .
福岡城の縄張り図→
扇坂門は、東二の丸から二の丸へ向かう途中にあったそうです。

 .

そうなると、綱がうっとぉしくてたまらなくなる四郎左衛門・・・

ある日、同僚に
「鬼の面をつけて脅かして、嫁を追っ払ってくれ」
と、頼みます。

「まぁ、追っ払うだけなら、いいか!」
と、その同僚は、遊び半分の気軽な気持ちで引き受けます。

そして、その夜・・・
計画通り、鬼の面をつけて暗闇から、飛び出て、綱を驚かす同僚・・・

案の定、綱は驚いて腰を抜かして、その場に倒れてしまいます。

そこを、すかさず、物陰から飛び出てきた四郎左衛門が、倒れて気を失っている綱に向かって斬りつけたのです。

薄れゆく意識の中で、傍らに血まみれの刀を持って立つ夫を見つけた綱は・・・
「なんという卑怯な事を…このようなひどい仕打ち…末代まで怨みます」
と、言い残して息絶えます。

それから異変は起こります。

まもなく、四郎左衛門は原因不明の高熱に冒され、綱の死から1年も経たない間に亡くなってしまいました。

さらに、その後は、この扇坂門を通る・・・それも、男にだけ、不幸な事が起こるようになります。

ケガなどは序の口・・・やがて、死に至る者まで現われ、誰とはなく
「綱の怨念が扇坂門に残って、復讐しているんやろ」
てな噂が流れるようになり、藩によって、門の近くに神社が建てられたとか・・・

それ以降は、ピタリと、その現象も止まったとの事・・・

もともと、気だての良い綱さん・・・おそらくは、神社の建立によって、ふと我に帰り、夫には怨みはあれど、無関係の男性を巻き込む事を止めたのかも知れませんね。
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2012年8月28日 (火)

松平春嶽を魅了した癒し系歌人・橘曙覧

 

慶応四年(1868年)8月28日、幕末の福井で歌人として活躍した橘曙覧が、57歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

平成六年(1994年)6月に、天皇・皇后両陛下がアメリカをご訪問された時、時のアメリカ大統領・クリントンは、その歓迎の挨拶の中で、一首の歌を引用しました。

♪たのしみは 朝おきいでて 昨日まで
 無かかりし花の 咲ける見る時 ♪

「朝早く起きて庭に出て、昨日まで咲いてなかった花が咲いてるの見つけると、なんかテンション上がるわ」

クリントン大統領は、この歌を引用して
「新たな一日とともに着実に新しい花が咲くように、日米の友好も日々進化いくでしょう」
的なニュアンスの事をおっしゃったそうです。

この歌を詠んだのが、本日ご紹介する橘曙覧(たちばなのあけみ)です。

Tatibananoakemi600 橘曙覧は、文化九年(1812年)に、福井城下で紙や墨などの文具を扱う商人・正玄(しょうげん=正源とも)五郎右衛門の長男として生まれます。

本名は尚事(なおこと)と言いますが、あの橘三千代(たちばなのみちよ)橘諸兄(たちばなのもろえ)(1月11日参照>>)末裔と称して、後に改名しています。

幼い頃に両親を亡くし、叔父の後見を受けて家業を継ぐ身ではありましたが、15歳の時に南条妙泰寺の僧・明導(みょうどう)から学んだ仏教の事や、18歳の時に京都児玉旗山(きざん=頼山陽の弟子)の塾に入門した時の勉学への思いが断ちきれなかったのか、28歳の時に家督を弟に譲って隠居し、飛騨高山の国学者・田中大秀(おおひで=本居宣長の高弟)に入門します。

福井に戻ってからは、しばらくは、近くの愛宕山(現在の足羽山=あすわやま)に籠り、独学で歌と学問に打ち込む生活を送りつつ、黄金舎という私塾を結んで、その月謝で・・・

そう、実は曙覧さん、すでに7年前の21歳の時に直子という商家の娘と結婚している立派な妻子持ち・・・何とか、家族を養っていかないといけないわけですが、もともと、お金や名声より、ただ学問が好きな方なんでしょうねぇ・・・その生活は困窮を極めていたようです。

その後、妻永元年(1848)に三ツ橋(現在の照手2丁目)に転居し、藁屋(わらや)と称しました。

そんな彼の噂を聞きつけたのが、後に幕末の四賢侯(しけんこう=幕末に功績のあった4人の藩主)の1人に数えられる越前福井藩主松平春嶽(しゅんがく・慶永)でした。

安政五年(1858年)、その春嶽の命を受けて、『万葉集』の秀歌:36首を撰出し、そこに自らの歌を添えて提出・・・当時、例の大老井伊直弼(なおすけ)(10月7日参照>>)が調印したアメリカとの日米修好通商条約に抗議した事で、江戸屋敷にて蟄居(ちっきょ=謹慎)の身となっていた春嶽は、曙覧の学識の深さに、いたく感動!!

ここから二人の交流が始まります。

井伊直弼が暗殺されてからは政界に復帰し、ご存じのように大活躍する春嶽ですが、そのかたわら、愛煙家の曙覧にタバコを贈ったり、わざわざ藁屋を訪ねてみたり・・・なんせ春嶽は藩主ですから、藩主ともあろう人が、身分の低い藩士でもない人のもとに出向くなんて事は、本来無いわけで・・・

この訪問の時は、城下巡見中にたまたま休憩で立ち寄ったという偶然を装ったもの・・・そうまでして春嶽は曙覧に会いたかったんですね~

そんな春嶽は、城中で古典の講義をしてもらおうと、1度、曙覧に出仕を要請した事があったのですが、その時、曙覧は、お得意・・・いや本職の歌で返答してきます。

♪花めきて しばし見ゆるも すゞなその
 田廬
(たぶせのいほ)に 咲けばなりけり ♪
「雑草はボロ屋に咲いてるから、ええねんで」

すると春嶽も歌で答えます。

♪すゞな園 田ぶせの庵に さく花を
 しひてはをらじ さもあればあれ ♪

「せやな…ほな、摘まんとくわ」
と・・・

なんとなく、二人の良い関係が感じとれますね。

思想的には勤皇だったという曙覧ですから、おそらく春嶽も、彼から様々な意見を聞いてみたかった事でしょうけど、どうやら曙覧さん本人は、動乱の時代の舵取り役として、緊張に緊張を重ねている藩主に癒しを与える歌詠人としての役回りに徹しようとの事だったようです。

そんな曙覧さんの性格が読み取れるのが、その代表作『独楽吟(どくらくぎん)という彼の歌を集めた歌集です。

冒頭の、クリントン大統領が引用した歌も、ここに収められています。

これは、すべての歌が、「たのしみは…」で始まって、「○○時」で終わる52首の歌集なのですが、当時、歌の題材と言えば、花鳥風月が主流だった中で、曙覧の詠む題材と言えば、ごくごく普通の日常・・・

質素でありながら楽しい食事や、辛いながらも楽しい労働・・・果ては、貧乏屋敷に発生したムシにまで・・・

♪たのしみは 珍しき書(ふみ) 人にかり
 初め一ひら ひろげたる時 ♪

う~~ん、わかりますね~
最初の1ページめ、ワクワクします!

♪たのしみは まれに魚烹(いおに)て 児等皆(こらみな)
 うましうましと いひて食ふ時 ♪
貧乏父ちゃんが、たまに奮発して、家族で焼肉を食べに行くと、「お父ちゃん、メッチャうまいわ!」と、子供たちが大喜びでパクつくのを見て「ウレシイなぁ(*^-^)」と・・・

♪たのしみは 機(はた)おりたてゝ 新しき
 ころもを縫(ぬひ)て 妻が着する時 ♪
「お前…その服、よぉ 似会てるで~」
「まぁ、あなたったら…゜.+:。(*´v`*)゜.+:。」

♪たのしみは すびつのもとに うち倒れ
 ゆすり起こすも 知らで寝し時 ♪
「もう、5分寝かして~ この5分がタマランねん!」

曙覧という人は、そんな日常に、ひしひしと感じる幸せを歌にした人なのです。

まさに、癒しの極み!!

慶応四年(1868年)8月28日・・・曙覧は、明治の世を待たずにこの世を去ります。

しかし、この曙覧の歌風は、正岡子規(しき)をはじめとする明治以降の歌人たちに大きな影響を与えました。

曙覧が亡くなった時、彼と親しくしていた勤皇の女流歌人・大田垣蓮月(れんげつ)が、こんな歌を送っています。

♪こし路より 四方(よも)にひからし 玉手箱
 明見
(あけみ)のうしの なきぞかなしき ♪

越の国=福井出身の曙覧の歌が、いずれ、世界中に大きく羽ばたく事を、彼女は気づいていたのでしょうね。
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2012年8月27日 (月)

笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と楠木正成

 

元弘元年(1331年)8月27日、後醍醐天皇が宮中を脱出して笠置山に移り、笠置寺の本堂を皇居としまた。

・・・・・・・・・・

承久三年(1221年)に、第82代の天皇であった後鳥羽上皇承久の乱(5月14日参照>>)に失敗した事で天皇の力は弱まり、その後の政治は、鎌倉幕府の実権を握る北条氏の得宗(とくそう=北条氏嫡流の当主)の独擅場となりました。

一方、その天皇家の方は、第89代後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)と、その弟で第90代亀山天皇の系統である大覚寺統(だいかくじとう)が、皇位継承をめぐって綱引きする中、幕府の仲介によって、大覚寺統の第91代後宇多天皇が、持明院統の第92代の伏見天皇に皇位を譲り、その後は、持明院統と大覚寺統から交代々々で天皇につく両党迭立(りょうとうてつりつ)の約束が守られる事になりました。
(両者の関係がややこしければ9月3日のページ>>の系図を参照してください)

そんな中で、文保二年(1318年)に順番が回って来たのが、大覚寺統の第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

ただ、これは、本来なら、後醍醐天皇の兄である第94代後二条天皇の皇子・邦良(くによし・くになが)親王が皇位につくべきだったのですが、邦良親王が未だ幼かったために、成人するまでの10年間という期限つきのピンチヒッターでの即位・・・

なので、後醍醐天皇の父である後宇多法皇の強い推しで、後醍醐天皇の皇太子には、その邦良親王が立ちました。

・・・とは言え、ピンチヒッターでも天皇は天皇・・・いや、むしろ、このピンチヒッターだった後醍醐天皇は、自らが、バリバリと政治を行いたいタイプの天皇だったわけで・・・

この頃の天皇は、天皇として存在はするものの、政治の実権は天皇の父・・・という院政が敷かれていましたが、後醍醐天皇は、その院政を即位から4年目にして中止し、自ら政治を行う親政に切り替え、それこそバリバリやりはじめます。

そんなこんなの正中元年(1324年)、後醍醐天皇の父=後宇多法皇が亡くなります。

・・・と、ここで不安になったのが邦良親王・・・
「自分を推してくれたお祖父ちゃんが亡くなった中で、バリバリ天皇の叔父さんは、ホンマに、この次に僕に皇位を譲ってくれるんやろか?」

・・・で、すでに成人していた邦良親王は、幕府に践祚(せんそ=皇位を継ぐ事)を打診します。

「アカン!このままやったら甥っ子が、次期天皇になってまう~!」
と、思った後醍醐天皇・・・

ここで、起こしたのが正中の変(9月19日参照>>)です。

しかし、事が事前に発覚して失敗・・・何とか、後醍醐天皇は難を逃れましたが、仲間は処分されてしまいました。

しかも、当然の事ながら、幕府は後醍醐天皇に退位を迫り、ライバルである持明院統にも協力を要請・・・しかし、コチラも当然の事ながら、
「絶対いやや!」
と、譲位を拒み続ける後醍醐天皇・・・

そんなこんなの嘉暦元年(1326年)、なんと邦良親王が27歳の若さで亡くなってしまいます。

コレ幸いと自分の息子を皇太子にしようとする後醍醐天皇ですが、さすがの幕府は猛反対・・・やむなく、後醍醐天皇は両党迭立の約束に従い、幕府の推す持明院統の量仁(かずひと)親王(後伏見天皇の皇子=後の光厳天皇)を皇太子に立てました。

とは言え、この幕府の介入によって、ますます、討幕の意思を固める後醍醐天皇・・・しかし、悲しいかな、天皇には、幕府に刃向かうだけの武力がありません。

そこで、奈良の東大寺興福寺、京都の比叡山延暦寺などの寺社勢力を味方につけようと、度々寺院を訪れたり、息子の尊雲(そんうん)法親王(後の護良親王)を比叡山に送り込んだり・・・もちろん、比叡山に入った尊雲法親王は、僧兵たちを引き連れて軍事訓練を開始・・・

しかし、そんな天皇側の動きは、当然、幕府にも知れるわけで・・・

密かにくみした仲間が、逮捕されたり蟄居(ちっきょ=謹慎)させられたりする中、元弘元年(1331年)の8月22日・・・鎌倉から、何かを携えた使者が上洛して来ます。

噂によれば、後醍醐天皇に流罪を、尊雲法親王を死刑に処するための使者だとか・・・

その話を耳にした後醍醐天皇は、24日の深夜・・・とるものもとりあえず、三種の神器を手に、宮中を脱出したのでした。

一旦は奈良に逃亡したものの、そこで支援を得られなかった後醍醐天皇が、和泉の鷲峯山(じゅぶざん=京都府相楽郡)を経て、山城(京都府南東部)と奈良の県境となる笠置山に入ったのは、元弘元年(1331年)8月27日の事でした。

山の南麓にある笠置寺の本堂を皇居とし、周辺の土豪(どごう=地元に根付いた半士半農の武士)や野伏(のぶせり=野武士)たちに応援を呼び掛けます。

そんなある日、うたた寝していた後醍醐天皇が夢を見ます。

「大きな常磐木(ときわぎ)の下に南向きに玉座が設けられた場所に、二人の男児が現われ、涙ながらに、しばらく、ここに留まるように勧める」
という夢・・・

これは天のお告げだ!!と考えて、夢判断を行う天皇・・・

「木に南と書きたるは、楠といふ字なり。
其の陰
(かげ)に南に向かうて座せよと、二人の童子の教(そし)へつるは、朕(ちん)、再び南面(なんめん)の徳を治めて、天下の士を朝(てう)しめんずるところを、日光・月光の示されけるよ」 『太平記 巻三』

「木ヘンに南と書いて楠と読む・・・
その影に南に向いて座るっちゅー事は
(君主たるもの南面にして太陽に対すると言うので)・・・
楠という名の天下一の人材を臣下として、俺が再び君主となるっちゅー事を、日光菩薩と月光菩薩が教えてくれてるんや!」

との判断をした後醍醐天皇・・・

早速、笠置寺の僧・成就坊律師(じょうじゅぼうりっし)を呼んで、
「もしかして、このへんに楠っていう字のつく武士はおるか?」
と尋ねます。

すると
「この周辺にはいてませんが、河内の国の金剛山の西に、楠木正成(くすのきまさしげ)という武勇の誉れ高い者がおります。
母親が若い頃に信貴山の毘沙門天に百日詣をして授かった子やからと、幼名を多聞
(たもん=毘沙門天の別名)というらしいです」

「ビンゴ~~!!キタ━(゚∀゚)━!

こうして、後醍醐天皇からの招待を受けた正成は、武士の最高の栄誉を得たと喜び、密かに笠置山を訪れて、ご対面・・・

Taiheikimukoku800 太平記絵巻…正成の到着を天皇に伝える使者(吉野如意輪寺)

この先、その命賭けて後醍醐天皇に尽くす事になりますが、そのお話は、
9月28日の笠置山の戦い>>
さらに
10月21日の赤坂城の戦いでどうぞ>>

まぁ、史実としてはアレですが、「楠の夢告」の話は、物語としては非常にドラマチックです。
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2012年8月25日 (土)

近江聖人・中江藤樹の「心の学問」

 

慶安元年(1648年)8月25日、江戸初期の儒学者で、日本陽明学の祖と称される中江藤樹が41歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

中江藤樹(なかえとうじゅ)・・・上記の通り、江戸時代初めの学者さんですが、おそらく、戦前の教育を受けられた方々には、もはや説明もいらない有名人だと思います。

そう、この方も、楠木正成(5月16日参照>>)二宮金次郎(10月6日参照>>)のように、明治初期の国語の教科書や修身の教科書に必ず取り上げられていた人です。

そんな中でも、教科書に登場する、最も有名なお話は・・・

・‥…━━━☆

江戸時代初めの頃のある日、近江の国(滋賀県)に住む又左衞門という馬方(馬に人や荷物を乗せて運ぶ仕事)が、京都に向かう飛脚を乗せました。

無事、送り届けてから自宅に戻り、馬を洗おうとすると、鞍の間に何やら袋が挟まっています。

中身を確認すると・・・なんと200両もの大金!!

「きっと、さっきの飛脚に違いない…さぞかし困ってるやろ」
と感じた又左衞門は、夕暮れ迫る街道を30kmもひた走り、さっきの飛脚が泊る宿へと、その袋を届けるのです。

一方、宿では、疲れを癒しに風呂に入ろうとした飛脚が、お金が無い事に気づいて大慌て・・・あっちこっち探しても、いっこうに見つかりません。

右往左往している所にグッドタイミングで現われた又左衞門・・・受け取って中身を調べると、ソックリそのまま200両は無事・・・

「いやぁ、ありがとう…実は、このお金は藩の公金で、京屋敷まで届けるとこやったんや。
もし、失くしたとなったら、ワシの死罪どころか、親兄弟まで処罰されるところやった。
正直に届けてくれて…ホンマ、おおきにm(_ _)m」

と、涙ながらに感謝感激!!

早速、お礼を・・・と自らのポケットマネーから15両を出して、又左衞門に手渡そうとしますが、
「なんでですのん??
アンタはんのお金をアンタはんに返しただけで…お礼なんて貰う事できませんがな」

と言って受け取りません。

しかし、飛脚にとっては、物が200両もの大金ですし、わざわざ持って来てくれたわけですし、ある意味命の恩人だし・・・
「ならば…」
と、金額を10両に減らしますが、又左衞門はやっぱり拒否・・・

Syouzikinaumakata800 さらに5両、3両・・・と減らしていく中、困り果てた飛脚の顔と、あまりの押し問答のやりとりに、
「ほな、ここまで30km走った駄賃として200文だけ貰いますわ」

と又左衞門は、200文だけ頂戴しますが、すぐさま、その200文をお酒に変えて戻って来て、宿の主人やらと、何やら雑談しながら、楽しそうに酒を酌み交わし、ちょうど酒が無くなったころあいを見計らって、
「ほな」
と、帰宅の途につこうとします。

この様子を見ていた飛脚・・・あまりのデキた人物に、
「この馬方は、おそらくタダ者ではない…きっと、名のある人物に違いない」
と思い、
「あなた様は、どのようなお方で??」
と聞きます。

すると又左衞門は
「アハハ…見ての通りのただの馬方でんがな。
ただ、ウチの近所に中江藤樹という先生が住んではってな。
俺も、時々、先生の話を聞きに行くんやけど、その先生が、
“一日一善をすると、一日一悪が去る”
とか
“陰徳
(人知れず良い事を行う)のある者には必ず陽報(良いむくい)がある”
とか、イロイロ教えてくれはりますねん。

先生は、日頃から、“人を傷つけたり、人に迷惑をかけたり、人の物を盗んだりしたらアカンで”って言うてはります。
今日は、先生の教えの通りにしただけ…お金は俺の物やないさかいに、持ち主に返しただけですやん」

と言って、家に帰っていったのだとか・・・

・‥…━━━☆

藤樹は、こういった身分の低い者とも分け隔てなく接し、解りやすい言葉で人としてあるべき道を説いた人・・・その言葉は、広く、そして深く、人々の心に刻まれ、人は藤樹の事を「近江聖人」と呼びます。

と、ここまで書けば、まさに、昔の教科書のように「中江藤樹=聖人君子」みたいな感じに思えて来ますが、私としては、藤樹という人は「神」のような完璧な存在ではなく、もっと人間臭さ溢れる人物だったように思います。(←個人的感想です)

いや、その方が、個人的には好きです。

Nakaetouzyu600 慶長十三年(1608年)・・・近江で農業を営む中江吉次の長男として生まれた藤樹(諱は原=はじめ)は、9歳の時に、米子藩・加藤家に仕えていた祖父・徳左衛門の養子になって米子に住む事になります。

んん??
お父さんが農業で、お祖父ちゃんが武士で、その養子???

そう、実は、徳左衛門と吉次は、藤樹が生まれる前から、なぜかソリが合わず・・・で、その所領のほとんどを次男に与えていたので、長男の吉次は農業をやっていたわけですが、年老いて、いざ、後継者の事を考えると、長男がいるのに次男に譲るわけに行かず、息子二人を飛び越えて、孫の藤樹を養子にして譲ろうと考えたという事のようです。

その後、藩主の加藤家が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなったので、祖父とともに藤樹も愛媛へ・・・やがて元和八年(1622年)に祖父が亡くなり、藤樹は、15歳で家督を継ぎました。

若くして後を継いだ藤樹ですが、頭も良く、生真面目で仕事熱心、学問好きで完璧主義な性格は、なかなかに見事に仕事をこなしていたようですが、そのぶん、気を張り過ぎて、どうやら、彼自身には、相当な負担がかかっていたようで、この頃から、持病の喘息に悩まされるようになります。

彼が朱子学と出会うのもこの頃・・・論語の講師として招いた禅僧に触発されて、様々な書物を読むうち朱子学に出会います。

そして寛永十一年(1634年)、結局、27歳で、「母か心配」なのと「病気」を理由に藩に辞職を願い出ますが許されず・・・脱藩をして京都に隠れ住み、その後、ほとぼりが冷めてから、故郷の近江へと戻ります。

・・・と、ここで、彼が心配する母・・・

確かに、このお母さんは体が弱く、ともに暮らしていた時から病気がちでしたが、9歳で祖父の養子になった藤樹が、母に会いたい一心で学校をサボって実家に戻った時、
「母さん!」
と泣きながら駆けよる彼に、
「ストップ!paper
と、井戸で水汲みしていた手を休め、
「男っちゅーもんは、1回、目標を決めて家を出たんやったら、めったな事で帰って来るもんやない!
ウチの事なんか心配せんと、さっさと学校に戻らんかい!」

と、ピシッと言ってのけた強き母です。
(どこかで見たと思ったら天地人の加藤清史郎くんと田中美佐子さんだった)

個人的には、この時の藤樹の脱藩は、確かに母も心配で親孝行の気持ちもあっただろうけど、どちらかと言えば、生真面目であるが故に完璧にこなそうとして、緊張に次ぐ緊張の連続だった武士としての宮仕え仕事を、「もう、やっていけない」と感じていたのでは?

悪く言えば、仕事に挫折したのではないか?と思います。

ただ、その挫折を、ただの挫折で終わらせないところが藤樹の藤樹たる所以・・・
挫折したからこそ自らの進む道を見つけ、
挫折したからこそ学問の何たるかを知り、
挫折したからこそ人の心の本質に迫る事ができたという事なのではないでしょうか?

故郷に戻った藤樹は、真っ先に、(武士は辞めたので)もう、不要となった刀を売ります

この刀を売る仲介役をやってくれたのが、冒頭のお話の中で出て来た馬方の又左衞門・・・18年ぶりに戻った藤樹にとって、再出発の故郷の地で知り合いになった最初の友人でした。

まもなく、私塾を開設した藤樹・・・その屋敷に藤があった事から、門下生たちから「藤樹先生」と呼ばれるようになり、塾の名も藤樹書院としました。

やがて、朱子学から陽明学の影響を受けて、彼なりの物事の道理を追究しながら、様々な著書や名言を残し、その思想は、「心の学問」として、多くの後輩たちに影響を与える事になります。

●父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し
お父さん、お母さんは、子供のためならどんな苦労も惜しまないもの・・・ただ、それをあえて子供には言わないからわからないだけで、それは天よりも高く、海よりも深いのです。

●善をなすは耕うんのごとし
良い行いをするという事は、田畑を耕すような物・・・すぐには結果はでないけれど、必ず、秋には実りとなるでしょう。

●人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし
人は皆、“明徳”というすばらしい物を持ってこの世に生まれて来るもの・・・だから、本当の悪人なんて、この世にはいない。

●それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくするを以って本実とす
学問という物は、心の汚れを清め、行いを良くするための物…高い知識を詰め込むだけなら、それは満心を産むだけです。

●それ人心の病は、満より大なるはなし
もともと善人ばかりのはずが、それを曇らせてしまうのは満心という病・・・高満な心を持ち続けていると、やがて大事な物を失ってしまうのです。

他にも、様々な逸話や言葉が、今に伝わる藤樹さん・・・どれもこれも、現代人の心にも響くものとして共感を呼んでいます。
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2012年8月24日 (金)

織田信長の大声で信行に勝利?稲生の戦い

 

弘治二年(1556年)8月24日、尾張・小田井川にて、対立する弟の信行にくみする林美作柴田勝家らを、織田信長が破った稲生の戦いがありました。

・・・・・・・・・

ご存じのように、あの織田信長が少年の頃には、いつも、だらしないファッションをしては、ワル仲間と遊び歩いていたわけで、それとは対照的に、優秀の誉れ高かったのが、すぐ下の弟織田信行(のぶゆき=信勝とも)・・・

信長と同じ土田御前を母に持つ織田信秀(のぶひで)三男か四男です。

有名なところでは、天文二十年(1551年)の父・信秀が亡くなった葬儀の場で、いつものだらしない恰好でやって来て、仏前で焼香を投げつけるという無礼をやった兄・信長に対し、正装で参列した信行は、終始、礼儀正しく振る舞っていたと言われます。

そんな中で、
「亡き信秀の後継者には、うつけの信長より、信行のほうがふさわしいのでは?」
という声が、家臣の中で囁かれるようになるのは当然の事・・・

天文二十二年(1553年)閏1月には、信長の1番の味方であった傅役(もりやく・教育係)平手政秀(ひらてまさひで)が自刃(1月13日参照>>)・・・これも、一説には、信長に目を覚まして欲しいと願う諌死(かんし=死んで目上の人を諫める事)であったとも言われます。

やがて天文二十四年(1555年)頃からは、本来、織田家当主が代々名乗っている弾正忠の官職名を、兄を差し置いて信行が名乗りはじめていたらくし、どうやら、本人も、その気満々だったようで・・・

さらに、弘治元年(1555年)6月に、信長&信行=二人の兄弟の弟である織田秀孝(ひでたか)が、守山城主織田信次誤って殺害された時には(6月26日参照>>)、何も行動を起こさない信長に対して、一方の信行がいち早く行動し、守山城下を焼き払った後、籠城する守山城を攻撃する構えを見せた事から、「礼儀正しさだけでなく、合戦の手腕も信行の方が上ではないか?」との声も上がり、ますます、家臣たちの間で、信行=当主への期待が高まっていったのです。

そんなさ中の弘治二年(1556年)4月・・・「信長に美濃を譲る」の遺言状まで書いていた(4月19日参照>>)と言われる嫁=濃姫の父・斎藤道三(どうさん)が、嫡男=義龍(よしたつ)との長良川の戦いで命を落とします(4月20日参照>>)

なんたって道三は「美濃のマムシ」と恐れられた男・・・嫁の実家として信長についていたこの大きな後ろ盾が、ここに来て排除されたわけです。

「これは、またとない大チャ~ンス!!」
と、『信行くんを当主にする会』のメンバーが、動き出すのは当然の事でした。

その主力となったのは、織田家の1番家老・林秀貞(ひでさだ)と、その弟・林通具(みちとも=美作守)、そして、やはり織田家重臣の柴田勝家でした。

もちろん、彼ら重臣たちのこの動きに対して、信長も、清州の東南に位置する小田井川(於多井川=現在の庄内川)を越えた名塚という場所に砦を構築して備えます。

かくして弘治二年(1556年)8月24日前日の雨によって水かさを増した川を越えて、信長軍の先手の足軽が進み出たところを、東から1000ほどの兵を引き連れた勝家が、南から700ばかりの兵を従えた通具が待ち構えます。

これが稲生(いのう)の戦い・・・
『信長公記』によれば、この時の信長の兵は700に満たなかったとか・・・

まさに、多勢に無勢・・・

案の定、正午頃に始まった戦いでは、完全に信長不利・・・しかも、主力の勝家は、この上ない戦上手ですから・・・

奮戦するも、信長軍の主力部隊は次々と討たれ、柴田軍の先鋒が、信長の本陣に近づく頃には、もはや40人ばかりの側近が信長の周りを固めているに過ぎない状況でした。

もちろん、そこに林軍も登場し、万事休す・・・
となる中、織田信房(のぶふさ)森可成(よしなり)の両名が主君を守るべく進み出て奮戦し、清州衆土田の大原なる武将を突き伏せて、何とか討ち取った・・・
その時です!

なんと、信長自身が、この世の物とは思えないほどの、とてつもない大声で敵兵を怒鳴り散らしたというのです。

セリフが書いて無いので、何と言ったのか?・・・とにかく
「アホ!ボケ!カス!おんどりゃ、ワシを誰やと思てけつかるねん!
耳の穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタいわしたろか!」

なんせ、この信長の怒鳴り声に、敵兵が一斉に逃げ散ったというくらい、相手をビビらせたわけですから、なかなかの名ゼリフだったんでしょう(@Д@;

まぁ、なんだかんだで、これは織田家内の戦い・・・敵兵と言えど、元をただせば信長の配下なわけで、あまりの形相に恐れおののくという状況も、無きにしもあらず・・・

とにかく、これで勢いを取り戻した信長軍は、その勢いのまま林軍に攻めかかり、なんと、信長自らが、槍にて林通具を討ち取ったと言います。

その後、総崩れとなった敵兵を約450名余りを討ち取り、見事、信長は、この戦いに勝利したのです。

敵方が祭り上げた信行とは、兄弟の母である土田御前が間に入って和解・・・主力だった林秀貞や柴田勝家も、信長に謝罪した事で罪を許され、逆に、忠誠をを誓う事になります。

Sibatakatuiekitanosyou500 後に、弟・信行は、再び兄を倒そうと謀反を企みますが、この時に、いち早く、その事を知らせたばかりか、

結局、信長が自身の手で信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをするのは、誰あろう、この時、信長に忠誠を誓った勝家・・・
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もちろん、その後の勝家さんの織田家での活躍は、皆様、ご存じの通りです。
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2012年8月23日 (木)

山本(新島)八重の会津戦争

 

慶応四年(1868年)8月23日、会津戦争において、新政府軍が戸ノ口原から会津若松城へと迫る中、男装した山本八重が城内へ入りました。

・・・・・・・・・

鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(3月14日参照>>)を経て、さらに北へ・・・

会津が舞台となった会津戦争と呼ばれる一連の戦いの中で、最後の戦いとなる城下での戦いが開始されたのが、今日、8月23日なのですが、これまでの経緯やその様子については、2010年に書かせていただいた【会津戦争~会津若松城下の戦い】>>のページでご覧いただくとして・・・

本日は、この日に会津若松鶴ヶ城へと入城した山本八重さんを中心に籠城戦のお話を進めさせていただきますが・・・

すでにご存じの方も多かろうと思いますが、この山本八重(後の新島八重)さん・・・来年の「大河ドラマ」の主役で、このブログでも、すでに、そのご命日に、彼女の生涯をサラッと書かせていただいていておりますので、よろしければ、ソチラ=【「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重】のページ>>もあわせてご覧いただければ幸いです。

・‥…━━━☆

慶応四年(1868年)8月23日、おそらくは、平和な日々なら、女たちが「あさげ」の仕度に忙しい時間帯・・・城下に響き渡るように早鐘が打ち鳴らされます。

この何日か前に、会津藩首脳たちは
「敵が迫ったら早鐘を打ち鳴らすので、それを合図に城へ走れ」
との通達を、城下の武家屋敷に住む婦女子に出していたのです。

これまでの会津戦争関連のページで書かせていただいていますように、新政府軍がここ会津城下に至るまでには複数の戦いがあり、すでに多くの会津兵士が、その戦いに駆り出されていたわけで、もはや城内を守るほとんどが少年兵と老人兵となってしまっている状況・・・

そのうえで籠城戦となるからには、婦女子の力を借りてでも何とか踏ん張り、城外で生き残った兵士や、新たなる救援部隊による外からの攻撃と合わせて、城下に入った新政府軍を迎え撃つ・・・この作戦が、最後の頼みでした。

こうして、打ち鳴らされた早鐘とともに、城に急ぐ婦女子たちの多くは、一世一代の晴れ着に身を包み、小脇に薙刀(なぎなた)を抱えての入城・・・

しかし、以前のページでも書かせていただいたように、一方では、年老いたり、あるいは戦う体力が無いなどで、もはや、入城するのはムリと判断した多くの女性たちが、決戦の足手まといにならないよう、自ら命を絶つという事もありました。

また、入城も自害もせずに、女戦士として戦った中野竹子娘子軍(じょうしぐん)(8月25日参照>>)という面々もいた中、会津若松城の西出丸近くに住んでいた会津藩砲術師範山本権八の娘=山本八重(八重子=後の新島八重)は、黒ラシャの筒袖服にダンブクロ(ズボン風の袴)という男物のいでたちに最新鋭の7連発スペンサー銃を抱えて、西出丸から城内に駆け込んだのです。

実は、コレ・・・先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟=三郎の形見の上下・・・彼女の中には、弟の仇を討つべく闘志の炎が、すでにメラメラと燃えていたのです。

父が砲術師範で兄が軍学者という家に生まれ育った八重は、幼い頃から砲術に慣れ親しんでいたうえに、13歳で4斗(72ℓ)の米俵を両手に下げて肩まで何度も上げ下げしたという怪力の持ち主で、近所の少年たちにも、銃の撃ち方を伝授するほどの腕前は、むしろ、「嫁の貰い手が無くなる」として、年頃になってからは、父から、銃を手に取る事を禁止されていたほどでした。

そんな彼女が、燃える闘魂を背負って入城・・・西出丸から本丸を経て、一路、北出丸へと走ります。

・・・というのも、この時、午前10時頃に甲賀町口を突破した新政府軍が、甲賀町通りを南に下り、怒涛の如く北出丸へ迫り、その堀端周辺に広く散らばっていたからです。

Aiduwakamatuzyouezu800 正保三年(1646年)に会津藩が幕府に提出した陸奥之内会津城絵図

実は、この会津若松城・・・本丸や二の丸三の丸のある中心部分とは堀で隔たれた、西に突き出た西出丸と北に突き出た北出丸が、それこそ、まるで鶴が羽根を広げたかのような(鶴ヶ城という呼び方は蒲生氏郷が名づけたようでうが語源は不明です)造りになっているのですが、西と北の出丸で、より重要な場所は北出丸・・・

それは、このお城が北からの脅威(伊達家)に備えて構築された城だからで、万が一、北から侵入した敵も、この北出丸でくい止めるべき役割を担っていたわけで、複雑な通路に進軍を阻まれた敵に、北と西から銃撃を加えて撃退する・・・という造りになっていて、別名=鏖丸(みなごろしまる)などという名前で呼ばれていたのです。

この形の会津若松城が構築されて以来、江戸時代を通じて戦火に遭う事はなく、ここで初めて、その作戦が展開された・・・つまり、ここまで怒涛の如く進んできた新政府軍が、複雑な構造に突入を阻まれ、堀の周辺に散らばって展開する形となっていたわけです。

そこに、7連発の銃をかかえた八重の登場です。

両者を阻む堀の幅は、意外に狭く、物を投げただけでも向こうに届きそうな距離だったと・・・そのために、入城を阻まれてそこに展開する新政府軍は、北出丸の櫓から放たれた銃弾によって、ここで多くの犠牲者を出してしまいます。

土佐の軍監・小笠原唯八(おがさわらただはち)など、名のある武人が、ここで命を落としていました。

後に、元会津藩家老の娘・山川捨松(やまかわすてまつ)と結婚する事になる薩摩砲隊の隊長・大山巌(いわお=当時は大山弥助)(2月18日参照>>)、ここで、銃弾が太ももを貫通する重傷を負っています。

混乱の中、誰が彼らを討ち取ったか?という記録が無いので、断定はできませんが、この時、北出丸にいたのは精度の低い火縄銃などを装備した老人兵が中心だった事、また、城内には、未だ組織化された鉄砲隊が存在しなかった事から、ここで、小笠原をはじめとする多くの新政府軍兵を討ち取ったのは、ただひとり7連発のスペンサー銃を装備した銃の名手=八重だったと考えられています。

故に、八重は、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたりします。

その名にふさわしく、その後も縦横無尽に活躍する八重・・・時には、今日のように最前線で銃を撃ち、時には、ともに城に籠る城兵に銃の撃ち方を教え、また、婦女子たちに弾薬の製造を教えながら、八重の会津戦争は、約1ヶ月後の9月22日まで続く事になります。

*この後の流れ
8月29日…長命寺の戦い>>
9月8日…飯寺の戦い>>
9月14日…総攻撃開始>>
9月22日…若松城・開城>>
もどうぞo(_ _)o
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2012年8月21日 (火)

平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進

 

長承四年(1135年)8月21日、平忠盛の海賊追討の功により、忠盛の子・清盛が従四位下に叙せられました。

・・・・・・・・・

と言っても、これらの海賊討伐に関しては記録が曖昧で、なかなかに実態がつかめない物なのですが、そのお話に行く前に・・・

そもそも、今年の大河ドラマ「平清盛」や数年前の「義経」などのドラマや小説などでは、何かと平家滅亡に至る源平の合戦に重きを置く事が多いので、「源氏と平氏はライバルで対立しているものだ」というイメージがありますが、先日ご紹介させていただいた平忠常の乱に見るように、もともとは、ともに皇室から臣下として枝分かれした両氏は、地方官として地方に下って、その地元に根をはる平氏と、摂関家とともに中央にいて活躍する源氏という感じだったわけです(6月5日参照>>)

そんな中で、その平忠常の乱を鎮圧した源頼信(みなもとのよりのぶ)・・・というよりは、あくまで、今回起こした乱は国司への反発であって、中央の朝廷に刃向かう気では無かった平忠常(たいらのただつね)が、中央から派遣されて来た頼信に従った形(8月5日参照>>)で乱が終結した事によって、源氏の関東支配が強まり、平氏はその傘下になるという構図で落ち着いたわけです。

その後、頼信の息子である頼義(よりよし)が、晩年に陸奥守(むつのかみ)に任じられて、前九年の役(9月17日参照>>)を戦い、その息子である八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)後三年の役(11月14日参照>>)を戦い、また、その義家の弟・義綱(よしつな)平師妙(たいらのもろたえ)らが出羽で起こした反乱を鎮圧したり・・・と、地方の争乱の鎮圧を一手に引き受ける形となり、この頃の、彼ら河内源氏は武士の第一人者としての評価を得る事になります。

ただ、一方で、彼らは兄弟や同族同志の争いが絶えず、何かと血生臭い事件に発展する事も多くありました。

ま、これには、一旦、兄・義家を持ちあげてみては、次に弟・義綱を持ちあげて義家を冷遇したりなんぞして、源氏の中で、誰か一人が突出する事無く、むしろ、お互いがモメるように仕向けた感のある、白河法皇朝廷の思惑などがからんでもいるんですが・・・

そんな中で、白河院の殿上人にまでなった義家が亡くなると、その後を継いだ弟・義忠が何者かに殺害され、嫌疑をかけられた義綱の子が一族もろとも討伐されるなど、兄弟間・一族間のゴタゴタが、ますます大きくなる中で、義家の息子・義親(よしちか)出雲で反乱を起こします。

源義親の乱と呼ばれるこの乱の鎮圧に派遣されたのが、ここに来て白河法皇の大のお気に入りとなっていた平正盛(たいらのまさもり)・・・清盛のお祖父ちゃんですね(12月19日参照>>)

・・・で、この時に、見事、義親を追討した事で、一気に武将としての名を挙げ、白河法皇の寵愛も増す事になり、正盛の息子である忠盛(ただもり)も、同時に目をかけられる存在となります。

そんな正盛は、一方で、義親を追討した後も、西国の受領(ずりょう=地方に赴任して行政を行う長官)を務めていた関係から、瀬戸内の海賊や地元の勢力と深いつながりを持つようになり、「兵士を率いて上洛した際、そのほとんどが西海&南海の名士だった」という話が記録されていたり、「自宅に海賊をかくまっている」という噂が絶えなかったり・・・

そんな西海の勢力は、正盛亡き後は、そっくりそのまま忠盛に受け継がれる事になりますが、そんな中で浮上して来たのが長承四年(1135年)の海賊の追討問題・・・

瀬戸内海の海賊活動が活発化した問題で、追討使が派遣される事になったのです。

この時の追討使候補には、義親の息子・源為義(ためよし)の名も挙がったようですが、例の兄弟間・一族間のゴタゴタで若くして家長継いでいたために、未だ配下の者の統率が取れずにいた事から、結局、備前守(びぜんのかみ)でもあり、西海にも勢力を持っている忠盛が、その追討使に選ばれます。

Tairanotadamori500 かくして長承四年(1135年)8月・・・見事!海賊の討伐に成功した忠盛は、捕虜の海賊70名を連行して、京都に凱旋するのですが、『長秋記(ちょうしゅうき=源師時の日記)八月十九日の条には
「この中多くはこれ賊にあらず ただ忠盛の家人にあらざる者をもって 賊慮と号し進らすと云々」
とあり、なんとなく、
「西海にて、現地の有力者を自らの傘下に収めようとする際に、それに従わない者を『海賊』と称して検非違使(けびいし=京都の治安維持・司法警察)に引き渡してるんじゃないか?
てな事を、京都の人たちも、うすうす感じていたようです。

とは言え、確固たる証拠も無いわけで・・・結局、そんな噂が囁かれるくらいですじゃら、今回の海賊鎮圧の実態は、まったく以って不明なわけです。

ただ、その真偽はともかく、忠盛は、このような軍事活動と受領経験によって、着実に、西海での勢力を強固な物にしていったわけで、おかげで、息子・清盛も、長承四年(1135年)8月21日従四位下に叙せられ、後には、この父のしっかりした瀬戸内の地盤を受け継いで、祖父・正盛の時代には『最下品(さいげぼん=侍身分)』と呼ばれた伊勢平氏を、貴族をもうならせる頂点へと導いていくのは、ご存じの通りです。

一方、この時、海賊追討使を逃した為義は、未だ統率の取れない郎党に悩まされながらも、やがては、荘園の管理や僧兵対策に武力を必要としていた藤原摂関家の信頼を得て、摂関家の荘園支配に関与するようになり、自らは京都を拠点としながらも、長男の義朝(よしとも)や次男の義賢(よしかた)や三男の義広(よしひろ)を関東に、八男の為朝(ためとも)を鎮西にと、一説には50人もいたという息子たちをフル活用して各地に進出し、勢力基盤を築く事になります。

ちなみに、今年の大河の玉木さんの熱演で、ご存じかとは思いますが、この為義さんの長男の義朝さんが、源頼朝のお父さんです。
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2012年8月20日 (月)

飛騨松倉城の人柱伝説

 

天正十三年(1585年)8月20日、金森長近父子が飛騨松倉城を攻略しました。

・・・・・・・・・・

藤原北家の公家の流れを汲む姉小路家の名跡を継承する姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱)が、飛騨の国司として、現在の高山市の西南に位置する松倉山に、その本拠となる飛騨松倉城を築いたのは天正七年(1579年)の事でした。

現在、日本国内に現存する城郭(城跡含む)の中で、この松倉城は最も標高が高い位置にあり、それだけでも、天然の要害として難攻不落の城だったであろうと言われます。

戦国時代、頭角を現して来た織田信長と組んだ頼綱は、信長の死後は、羽柴(後の豊臣)秀吉と対立する柴田勝家につきました。

勝家亡き後も、越中富山の佐々成政(さっさなりまさ)とともに、秀吉に対抗していた頼綱でしたが、織田信雄のぶお・のぶかつ)徳川家康との小牧長久手の戦いを終えた秀吉が、その戦いで敵対した者への報復とばかりに北陸に進攻し、滅亡の憂き目に遭います。

この時、秀吉は、自らの本隊が成政の富山城を囲む(8月6日参照>>)一方で、信長の死後に秀吉側についた武将・金森長近(かなもりながちか)松倉城の攻略を命じたのです。

成政の富山城もそうですが、いくら堅固な城を言えど、かの小牧長久手で家康を黙らせ、その戦いで敵対した紀州を征(3月21日参照>>)して四国も手に入れて(7月25日参照>>)、さらに関白に就任しての秀吉の北陸進攻・・・しかも、すでに松倉城内には内通者もいた状況では、もはや、先は見えていました。

天正十三年(1585年)8月20日金森軍の攻撃により松倉城は落城し、頼綱は京都にて幽閉の身となり、以後、この松倉城は、この功績によって飛騨一国を賜った長近の管理下に置かれる事となりました。

Kanamorinagatika400 しかし、それから、わずか3年後の天正十六年(1588年)、長近が、以前の天神山城跡を利用して高山城を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

もちろん、以前、お話させていただいたように(4月6日参照>>)、この時期は、戦う城から治める城への転換期でもあり、長近は、高山築城と同時に、城下町の整備も手がけており、現在、小京都と呼ばれる美しい街並みの飛騨高山が誕生しはじめたのもこの頃ですから、ここで松倉城が廃城とされるのも、必然的な流れだったのかも知れませんが・・・

それにしても・・・
考えてみれば、築城から廃城まで、わずか10年に満たない松倉城・・・

実は、そこには悲しい物語も伝えられているのです。

それは、最初の城主=頼綱によって、せっせと松倉城の構築が進んでいた頃・・・

城下のある村に、母一人子一人、しかも、その母が病気を患っているという境遇の中、明るく生きる小糸(こいと)という少女がいました。

貧しい中、何とか母に栄養をつけさせようと、近くの草摘み場にセリを摘みに行くのが彼女の日課・・・その日も、いつものように、草摘みへと出かけました。

しかし、その日は夜になっても帰って来ない・・・彼女は、まだ10歳の少女ですから、心配になった母親は、ふらつく足取りで、何とか外へ出て、小糸の姿を探します。

「こいと~ こいと~」
と弱々しい声で呼びながら、何とか、いつも草摘みをしている場所までたどりつくと、そこには、家を出る時、小糸が持って出た竹籠が・・・半分ばかり、セリが入った状態で、無造作に放置されています。

人さらいか?神隠しか?
娘の身に、ただ事では無い何かが起こった事を感じる母・・・

しかし、翌日も、その翌日も・・・何日たっても小糸は戻って来ません。

母は、半狂乱になりながら、毎日、
「こいと~ こいと~」
と、フラフラの足取りで城下をい探し歩きます。

そんな母親の姿を見て、
「気の毒に…」
「可哀そうに…」

と思いながらも、どうする事もできない村人たち・・・

そう、実は、小糸が草摘みをしている最中に、数人の侍たちに囲まれて、拉致される現場を見ていた村人が何人かいたのです。

しかし、相手は城普請役の立派な家臣・・・そこで、何人かの村人が抵抗に入ったところで、何ともなるものではありません。

そう、難攻不落の山城は、その建てる場所も険しい山中なわけで、度々難所に工事を阻まれ、そこから先に進めない事があり、
「ならば、人柱を立てよ」
という城主の命令で、彼らは小糸を拉致し、連れていったのでした。

このブログでも、【彦根城の人柱伝説】>>【父は長柄の人柱】>>など・・・いくつか人柱伝説を書かせていただいてますが、人柱というのは、難工事がスムーズに進行するように、神様に捧げるいけにえの事・・・城の工事の場合は、中心柱のかたわらに純潔の娘を生きたまま埋めて神様にお供えし、永遠の神のご加護を願おうという物です。

もちろん、城主とて簡単にそうする物ではなく、あまりの難工事でいっこうに進まない、あるいは工事での犠牲者が大量に出てしまった時などに行う苦肉の策ではありましたが・・・

とにもかくにも、そんな村人の証言から、小糸が人柱にされた事を確信した母は、それ以降、朝も夕も築城工事が行われている周辺を、まるで魂が抜けたかのような状況で、
「こいと~ こいと~」
と、娘の名前を呼び続けながら徘徊し、やがて、母も息絶えたのです。

それからというもの、完成した松倉城の周辺では、どこからともなく、風の音にまじって、
「こいと~ こいと~」
という、娘を呼ぶ母の声が聞こえるようになるのです。

それを聞きつけた1人の猛者が、
「我こそは、その化け物を退治してくれる!」
とばかりに意気込んで、ある夜、城の周辺で一夜を明かしました。

ところが、翌朝、彼は、青白い顔でブルブル震えながら
「アカン!…あの声にはゾッとするような冷気が漂うてて、声を聞いた途端に、手足が凍りついたようになって、刀を抜く事さえできなんだ!」
と言って、そそくさと退散してしまったのです。

以後、母の悲しげな声は、永遠に消える事は無かったのだとか・・・

一説には、最初の城主=姉小路頼綱の姉小路家が滅びるのも、滅ぼした金森氏が、後に、いきなりの転封となって、ここ高山が徳川の直轄地となるのも、母子の崇りだなんて噂もあるらしい・・・

ひょっとして、築城から、わずか10年で廃城になってしまうのも・・・この噂のため???

とは言え、実際に飛騨高山の地が徳川の直轄地となったのは、金銀や木材などの高山の豊富な資源を、徳川家が独占したかったから=土地に人を寄せ付けないための噂?なんて現実的な話もあり、生きてる人間の欲のほうがよっぽど怖いって感じがしないでもありません。
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2012年8月19日 (日)

高氏改め足利尊氏が中先代の乱の後に…

 

建武二年(1335年)8月19日、前月に勃発した中先代の乱で主力となっていた諏訪頼重らが自刃し、討伐に向かった足利尊氏によって乱が鎮圧されました。

・・・・・・・・・

建武二年(1335年)7月23日に反乱軍が鎌倉を占拠・・・というお話をさせていただいた中先代の乱・・・(2012年7月23日参照>>)

この2年前・・・
千早城で踏ん張る楠木正成(2月5日参照>>)
京都を攻めた足利高氏(後の尊氏)(5月7日参照>>)
鎌倉を攻めた新田義貞(5月21日参照>>)
らの協力得て鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇は、その後、ご存じの建武の新政(6月6日参照>>)を開始します。

この鎌倉幕府滅亡の時に、事実上の最後の執権として自刃したのが第14代執権=北条高時(ほうじょうたかとき)です(5月22日参照>>)
(実際には、執権職は16代まで)

今回の中先代の乱は、その高時の遺児北条時行(ときゆき)を担いだ信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)らや、北条一族の生き残り=名越時兼(なごえときかね)らが東国で起こした、北条復権を願っての反乱・・・

・・・で、先に書いた通り、攻め寄せた反乱軍は鎌倉を占拠し、この地を任されていた後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)と高氏の弟=足利直義(ただよし)は、命からがら、駿河(静岡県)へと脱出する事になります。

脱出した直義らからの知らせにより、時行らの反乱を知った京都では、早速、高氏を征討に向かわせる事を決定しますが、この後醍醐天皇の命令を受けた高氏・・・それを引き受けるにあたって二つの交換条件を提示します。

「あの元弘の乱の時に、僕が援軍として加わったさかいに(4月16日参照>>、全国からの兵が倒幕軍に加わって、ほんで一気に勝利に導く事ができたんですやん。

Asikagatakauzi600 せやから、今、天皇さんのもとに天下が統一できたんも、この高氏の軍事的功績が大きいと思いますねん。

そもそも征夷大将軍の地位って源平両氏の武将が、その功績によって任命される物で、今までもいっぱい例がある事ですよって、どうか、今後の朝廷のためにも、我が足利家のためにも、僕を征夷大将軍にしてくださいよ。

それと・・・
反乱軍を鎮めるためには、戦いに功績のあった武将に、どんどんその場で恩賞を与えんと、彼らの士気も高まりませんし、忠義心を導く事もできません。

今みたいに、よーけの手続き踏んで褒賞を得るまでに時間がかかるようでは、どないもなりませんよってに、今回を含め、ちょっとの間、僕が、直接、軍の論功行賞を行えるようにしてくださいよ。

それやったら、今すぐ鎌倉に行って朝敵を征伐します・・・けど、この2点を許可してもらわれへんねやったら、反乱鎮圧は別の人にやってもろてください」

そうです。
ご存じのように、建武の新政は天皇の親政・・・天皇の許可なくしては賞罰すらままならぬ状況で、これまで、命を賭けて戦った武士たちには、かなりの不満が溜まっていたのです。

この高氏の言い分を許すか?許さないか?・・・
朝廷にとっては、かなりの重大事項ですが、意外にもあっさり決定・・・

ただし、あっさり許されたのは、関東8ヶ国の管理と支配権・・・つまり、上記の後半の条件だけで、征夷大将軍に関しては、「今回の反乱鎮圧の功績を見てから…」という事で、保留となりました。

その代わり・・・と言っては何ですが、後醍醐天皇は、自らの名前=「尊治(たかはる)から「尊」の1文字を高氏に与える事に・・・そう、ここから、足利高氏は足利尊氏となります。

という事で、結局は征夷大将軍に関する正式な勅状(ちょくじょう=天皇の命令を記した文書)が無いまま、やむなく出陣する尊氏・・・

途中で、直義らとも合流して5万余騎となった尊氏軍が鎌倉へと進軍します。

もちろん、これを迎え撃つべく反乱軍も3万余騎を擁して鎌倉を出発しますが、遠江(とおとうみ=静岡県西部)橋本相模(さがみ=神奈川県)相模川などで連戦連敗し、やむなく鎌倉へ退去・・・

敗軍となった反乱軍は、最後の最後・・・建武二年(1335年)8月19日には、わずか300騎となり、諏訪頼重以下、指揮官たちが全員自刃しました。

その時、その死体が誰なのか特定できないように、顔の皮を剥いでいたため、この時は、彼ら反乱軍に担がれた時行も自刃したものと判断されましたが、彼は、見事脱出し、後の南北朝動乱のさ中でに南朝方の武将として登場しますが、そのお話は、また別の機会にさせていただくとして・・・

とにもかくにも、こうして速やかに関東を制圧した尊氏・・・ここで、約束通り、自らの判断で、乱の鎮圧に功績のあった者への褒賞を行うわけですが、これが、けっこう、後醍醐天皇が思っていた以上に独断的で、しかも長期・・・

「京都に帰っておいでよ!」
の後醍醐天皇の要請にも応じず、何やら、鎌倉に腰を据えて、あたかも武家政権の誕生を思わせるかのように・・・やがて、浮上して来る「尊氏謀反」の噂・・・

しかも、ここに来て、かの中先代の乱の時、鎌倉を脱出しようとした直義が、そのドサクサで、幽閉状態にあった後醍醐天皇の皇子=大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)(2009年7月23日参照>>)を殺害していた事が問題に・・・

これが決定打となって、後醍醐天皇は尊氏討伐の命令を下し、その命を受けた新田義貞が東へと向かいますが、そのお話は、11月19日【朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞】でどうぞ>>
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2012年8月17日 (金)

アンケート企画「どの都を見てみたい?」の結果発表

 

お待たせしました!

最新アンケート
「どの都を見てみたい
の結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
予想通り、「その他」もたくさんいただきましたが、何たって得票数ゼロだった項目がなく、選択肢を考えた側としては、ウレシイ結果となっております。

 .
改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>  (別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
18票
天正四年(1576年)安土
やはり、信長人気衰えずです…しかも、そこに全容がわからないというミステリーさがプラスされて、堂々の1位です!
2位
10票
元禄時代(1688年~1704年)江戸
当時、世界一の大都市だったのに、それでいて、ヨーロッパとは比べ物にならないほどのエコな町…そのノウハウを見てみたさに2位獲得!
3位
9票
大治元年(1128年)平泉
おそらくは、京の都とは違う独特の雰囲気を醸し出していたはず…それを体験したさの3位、プラス東北を応援!
4位
8票
天正十四年(1586年)大坂
秀吉っさんの大坂…大坂城の錦の瓦は、ヨーロッパから輸入したガラス製だったとか…納得の4位ですね
5位
7票
天平勝宝四年(752年)平城京
堂々たる天平の甍の向こうに一段とそびえる大仏殿…中国からの使節も驚いた奈良の都は僅差の5位でした
6位
4票
治承四年(1180年)福原
大河ドラマの影響で、その見てみたさもアップ!!6位に喰い込みました
7位
3票
延暦十三年(794年)平安京
昭和六年(1931年)大阪
昭和三十三年(1958年)東京
同数7位の3項目ですが、雅な京都を楽しみたい派と、レトロな日本を体験したい派…て事ですね
10位
2票
持統八年(694年)藤原京
安政六年(1859年)長崎
初めての中央集権と西洋への扉…日本史上で大きな転機となった二つの場所が並びましたね
12位
1票
建久三年(1192年)鎌倉
応永四年(1397年)平安京
享保十五年(1730年)の大坂
明治五年(1872年)東京
1票ずつの4項目ですが、どれも転換期ではなく、最盛期と言った雰囲気の都市…戦い終わって成熟期を迎えた感じでしょうか?
その他 12票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

昭和六年の大阪 大阪人ですから。(男性/40代/千葉)
「ホント、大大阪と呼ばれた時代を見てみたいですね~」
元禄時代の江戸 人々がいきいきと活気ある都だったんですよね!人との繋がりも文化も自然も大切にされていたとか。(女性/40代/山口)
「高度成長期の真っただ中には『昭和元禄』という言葉がありましたね~人々が大いなる平和を感じていた時代という事でしょうね」
元禄時代の江戸 世界に誇る人口と平和による文化の発展を満喫したい。昭和33年頃の日本は年齢的にだいたい知ってるから。この年になると歴史の生き証人になってしまう(笑)(女性/50代/徳島)
「おぉ…『昭和元禄』という言葉をご存じの世代ですね~おっしゃる通り、平和な時代は文化も発展しますね」
その他 邪馬台国ですかね。周りをよ~く見て、大体どこらへんか見極めてみよ。(女性/40代/東京)
「あまりに幻すぎて、今回の項目には入れませんでしたが、見てみたい気持ちは大いにあります!」
天正四年の安土 とりあえず理由は、単に、信長さんが好きすぎるので、という1点でもいいですか?(女性/40代/兵庫)
「もちろん!『好きだから』というのも正統な理由です」
天正四年の安土 清須在住なので、信長が天下をめざしはじめた頃の清須…といいたいですが、首都にはなってないので…信長つながりで、安土!!(女性/30代/愛知)
「信長さんに関しては『岐阜』というのも考えましたが、個人的好みで、やはり安土を外せませんでした~

天正四年の安土

幻の城 見れるものなら見てみたいです(男性/40代/宮城)
「わずかな絵図ではわからない細かなところも見てみたいです」
天正四年の安土 信長に直接100文払って安土城を見たいです。(男性/20代/滋賀)
「そうでした!そうでした!お城見物では信長さんに直接、見物料を払えるというオマケもありましたね~今なら、総理大臣が官邸の入り口でお金を受けとるようなもの…考えたらスゴイです」
その他 やはり卑弥呼が治める国を!そして邪馬台国の所在地を突き止める!!(女性/20代/大阪)
「所在は絶対突き止めたいですね~GPSを隠し持って行きます!」
天正十四年の大坂 おはようです。秀吉が造った大坂。現在も尚独特の文化を持つ街に当時の様子が興味津々です。(男性/30代/群馬)
「あの大阪独特の雰囲気は、やはり秀吉っさんの時代から育まれているのでしょうね」
その他 秀吉時代の京都聚楽第(男性/40代)
「あぁ、そうですね~聚楽第のそびえる京都も見てみたいですね…もちろん御土居もグルリと確認したい!」
治承四年の福原 恥ずかしながら、今年の大河ドラマまで福原に都があったことすら知りませんでした…。わずか半年の幻の都を見てみたい!!(女性/10代/東京)
「現在の神戸はちょっと西洋風…そうじゃない神戸の港を見てみたいですね」
天正四年の安土 一度、安土城址を訪ねたことがあります。(男性/60代/東京)
「最初は、あの正面の大手階段も土に埋もれていて、別の道が大手と思われていたとか…全盛期を見たいですね」
元禄時代の江戸 世界に類を見ない完璧なエコ文化都市をぜひ見てみたいです。(男性/40代/愛知)
「紙も衣類も台所用品も、みんなリサイクルできるシステムは、現代人も学ばないといけませんね~
天正十四年の大坂 秀吉理想の大坂城はどれほど大きかったのか?(男性/50代/兵庫)
「豪華絢爛にして難攻不落…そこに集う人々とともに、とても魅力的です」
大治元年の平泉 興味があるので(男性/40代/千葉)
「黄金に輝きながら品の良い雅さ…見てみたいです!」
その他 斉明天皇7年(661年)の朝倉橘広庭宮 2ヶ月だけ福岡にあった首都を見てみたい(男性/40代/神奈川)
「あぁ…それもありましたね~天皇が亡くなってしまうので短命に終わりましたが、飛鳥の文化の集大成を見たいです」
その他 大内義興の頃の山口(男性/30代/東京)
「大内氏全盛の頃の山口は、都に匹敵するほどの盛隆ぶりだったと聞きます…どんな都市だったのか興味津々です」
天正四年の安土 やっぱり信長の安土城の城下が見てみたいです。
「幻だから、よけいに恋しいんですよね~」
その他 江戸時代の伊勢。日本中の人が参拝に来るのは今も昔も同じですが、全盛期の頃のお伊勢参りを見てみたいです。(女性/20代/岐阜)
「弥次さん喜多さんの頃ですね…その頃は旅費も何とかなったと言いますからね~どんな感じだったんでしょ?」
天平勝宝四年の平城京 できたばかりの大仏と東大寺の仏像を見てみたい。(50代/東京)
「今、残っているのは台座のハスの花のあたりくらいですもんね~」
天平勝宝四年の平城京 もともとの大仏がみたい(女性/40代/京都)
「金ピカでパッチリ目の大仏様に会いたいですね
昭和三十三年の東京 見てみたいというか、そこで暮らしたい・・・。(男性/40代/秋田)
「『三丁目の夕日』の世界ですね~」
大治元年の平泉 無量光院・・・見たい。(女性/20代/大阪)
「確か、宇治の平等院をモデルにした建物でしたよね~う~ん、見たいです」
昭和六年の大阪 若かりし頃の祖父と一緒に映画巡りがしたいっ笑(男性/10代/大阪)
「おぉ、ちょうど、日本初のトーキーが登場した年ではありませんか!映画好きのおじい様だったのでしょうか?イイですね~」
その他 井原西鶴がいた頃の大阪(女性/40代/東京)
「元禄時代の大坂ですか…近松門左衛門や竹本義太夫とか、大阪も江戸に負けず、文化が発展しましたね」
その他 夢でもいいから蘇我氏の宮殿が見てみたいです(男性/20代/兵庫)
「あぁ…それも見たいです~おそらく勝者によって徹底的に末梢されたであろう蘇我氏の功績を知りたいです」
天正四年の安土 信長にとって安土は通過点に過ぎないとは思いますが,信長好きとしてはやっぱり安土が見てみたいですね。(男性/30代/東京)
「通過点…だとしたら、安土の次は大坂だったのかも」
その他 三世紀の邪馬台国(男性/40代/東京)
「やっぱりそうですね~もはや、人々の織りなす雰囲気は想像もつきませんが」
その他 平将門が叛乱を起した千葉・茨城の県境(男性/30代/兵庫)
「新皇としての将門が、どんな都の構想を練っていたのか?」
元禄時代の江戸 関東大震災と空襲で全部焼けてしまい江戸の往時の姿がなんも残ってない。(女性/40代/神奈川)
「そうですね~今は、完全に東京ですからね~」
延暦十三年の平安京 平安文学が好きなので!(女性/30代/兵庫)
「会えるものなら女流作家にも会ってみたいですね」
元禄時代の江戸 紀文さんほどとは言わないが 遊びに行きたいなぁ(男性/50代/埼玉)
「やっぱ吉原で豪遊…なんてね」
天正四年の安土 幻の安土城をぜひ。戦に巻き込まれないようにしないとですね(苦笑)(女性/10代/千葉)
「安土市民として市場に買い物に行く…なんていう日常が味わえるかも、です
安政六年の長崎 はじめまして?いつも楽しく読まさせて頂いてます(^ ^)私は幕末の志士が大好きなので、やはり長崎を見てみたいす(^ ^)(女性/20代/徳島)
「後に名を残す人たちが、若き日にあーだ、こーだと言いながら集ってる所を覗き見したいです」
昭和三十三年の東京 昭和三十三年頃の東京(男性/40代/神奈川)
「夢多き時代の空気をかみしめて…」
その他 1615年の大阪。肝試し肝試し。
「都というよりは、合戦を見てみたいという感じでしょうか?」
天正四年の安土 和洋折衷の粋を尽くしたであろう天守閣を見てみたいです。(男性/50代/大阪)
「そこに住んだ信長の生活ぶりも…」
天正四年の安土 天守閣も見てみたいし、今に残っていない町だから気になるのかな 信長が構想してたように安土城に帝が訪れるのを見てみたいですね(女性/40代/北海道)
「安土城の大手は、帝が輿に乗ったまま上れるようにと広くまっすぐ造ったようですから…そのシーンも見たいですね」
天正十四年の大坂 豊臣大阪城を見てみたい!(男性/40代/東京)
「金キラの屋根つきの極楽橋は一見の価値ありだと思います」
天正四年の安土 安土城下を歩く宣教師などの外国人に遭いたい!(女性/50代/福井)
「セミナリヨを闊歩する宣教師…イイです!」
治承四年の福原 清盛さんの幻の都、見てみたいです。日本で都と貿易拠点を同じ所に置いたのは、清盛さんと秀吉さんくらいでしょうか?(女性/10代/千葉)
「大河ドラマでは、どんな町並みが描かれるんでしょうね~楽しみです」
延暦十三年の平安京 やはり、町並みや、食事風景など興味深いです。(女性/30代/大阪)
「十二単の着かた脱ぎ方にも興味ありです」
その他 1550年頃の山口。西の京と言われていた都がどんな所だったか?見てみたいです。(女性)
「大阪在住の私は西の京というと、つい奈良県の西の京を思いだしてしまいますが、大内氏全盛の頃の山口は、まさに西の京だったんですね~見てみたいです」
ここからは ブログからの投票です
(勝手ながら、投票にノーカウントのコメントは省かせていただきました)
天正十四年の大坂

天正14年の大坂(城)に一票。その昔、難波京というのがありましたが、厳密に言えば大阪は都ではないし、平城宮も平安京も、元禄の江戸も見てみたいですが、ここは茶々さまのおわした大坂城しかありませんでしょう。異論は許されません。(レッドバロンさん)

その他 迷う・・・。怖いけど大阪の陣直前の大阪。または直後の。肝試しジャア。(6幡太郎さん)
その他

こんばんわ、茶々様o(_ _)o今回も楽しい企画をありがとうございます(o^-^o)私は天正四年(1576年)の安土に一票入れさせていただきましたが、平安京も捨てがたかったです。くるまにのって御簾越しに都を見て回りたいです(*´ェ`*)賀茂の祭りとかもいいですよね。(瀬名さん)

・‥…━━━☆

以上、投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2012年8月15日 (水)

南北朝の幕開け…光明天皇の即位

 

延元元年・建武三年(1336年)8月15日、北朝第2代・光明天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇とともに、鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ=当時は高氏)でしたが、後醍醐天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を抱いていたところ、東国で起こった中先代の反乱(7月23日参照>>)の鎮圧に派遣された事をキッカケに、尊氏は、後醍醐天皇に反旗をひるがえします。

一旦は、天皇側から敗北を喰らう(1月27日参照>>)も、九州で態勢を立て直した(4月26日参照>>)尊氏は、光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り、湊川(みなとがわ)の戦い楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃させ(5月25日参照>>)、続く、京都合戦新田義貞(にったよしさだ)に勝利して、京都を制圧しました(6月30日参照>>)

尊氏の進攻を受けた後醍醐天皇は比叡山に逃れます。

この時点で、尊氏が奉じている光厳上皇・・・ちょっと、整理しますと、この光厳上皇は、かの後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱=元弘の変に失敗して隠岐へ流された時(3月7日参照>>)に、後醍醐天皇に代わって、鎌倉幕府=北条氏が擁立した天皇です。

なので、北条氏滅亡の際は、むしろ、北条氏と行動をともにしていた天皇(5月9日参照>>) 、だからこそ、今回は後醍醐天皇とともに比叡山へは逃げず、攻め上って来た尊氏と行動をともにしたわけですが、その北条氏を倒した後醍醐天皇が天皇に復帰した時に廃位され、その新体制のもとでは、特例として上皇の尊号を受けたものの、実際には、以前に天皇になっていた事さえ否定されている微妙な立場でした。

そこで尊氏は、その光厳上皇に、弟の豊仁親王猶子(ゆうし=契約関係によって成立する親子)にしてもらい、延元元年・建武三年(1336年)8月15日光明(こうみょう)天皇として即位させたのです。

Koumyoutennou600 三種の神器の無いまま、光厳上皇の院宣(いんぜん=上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書)による即位でした。

一般的に、光厳天皇が北朝初代で、光明天皇が北朝2代と言い現しますが、厳密には、上記の通り、光厳天皇が天皇だったのは鎌倉時代で、廃位のまま、特例で上皇になり北朝=尊氏に味方する・・・という事ですね。

とは言え、その一方で周到な尊氏・・・京都を追い出された形の後醍醐天皇に誘いをかけます。

「自分には、天皇に対しての反逆の意思はなく、京都で合戦に及んだのは、あくまで、新田義貞を討つため・・・天皇には、ぜひとも京都に戻っていただきたい。
なんなら、もっかい天皇になってもろてもええんでっせ」

との密使を送り、和睦を打診するのです。

これを受け取った後醍醐天皇・・・その文書に、伝教大師勧請の起請文(比叡山開祖の最澄の身代わりに誓いを立てた文書)が添えられていた事から、すっかりその内容を信じ、重臣の誰にも相談する事はく
「ほな、近々京都に行くよってに…」
との返事を出し、従う者の人選まではじめちゃいます。

驚いたのは、「後醍醐天皇が尊氏と和睦??」の噂を聞いた義貞です。

なんせ、彼は、ずっと天皇のために戦っているわけですから、むしろ、その情報は間違いなのではないかと思い、一族の堀田貞光(ほったさだみつ)を、後醍醐天皇のもとに派遣・・・しかし、そこで、それが事実である事を知った貞光は、涙ながらに天皇に訴えます。

この訴えによって、ハタッと、自らの先走りに気づいた後醍醐天皇は、義貞と、その弟の脇屋義助(わきやよしすけ)をそばに呼び、涙を浮かべながら、その心情を語ったのです。

「君らが、同じ清和源氏の一族でありながら、朝敵(国家の敵)の尊氏と袂を分かち、私に忠節を尽くしてくれてる事、ほんま、感謝してるんやで~

これまで、新田の一族を、ただ一つの天下の守護として、国家を統治して行こと、ず~っと考えとってん。

けどな、まだ、運が開かへんうちに戦況が悪なって、朝廷の権威もガタ落ちになってしもたさかい、ここは一つ、尊氏と形ばかりの和睦を結んで様子見て、時期を待とうやないかっちゅー事で、京都に戻るってな事を尊氏に言うたんや・・・

この事は、ホンマは君らに先に報告しよと思ててけんど、もし、秘密がバレたらマズイさかいに、時期を見て話そかな?と思てたところ、貞光が涙ながらに訴えに来たっちゅーわけで・・・

勝手な事して悪かったわ。

こうなったら、君は皇太子(後醍醐天皇の皇子の恒良親王)を連れて北国へ行ってくれるか?

越前(福井県)には、すでに味方の武士を派遣してるし、敦賀の気比社は、こっちの味方になってくれるて言うてる・・・

ただし、このまま、私が京都に戻ったら、君らが朝敵になってしまうよって、ここで、皇太子に皇位を譲って、ほんでから北国へ下ってくれ。

政治の事は、君らにまかす・・・私と同様に、新しい主君を盛りたてたってくれよ。

ほんで、北国で態勢を立て直して、再び、大軍を率いて天下の守護となるようにな!

私は、君らの忠節を信じて、それまで、どんな屈辱にも耐えとくさかいに・・・」

ここに来るまでは
「何、勝手に和睦しとんねん!」
と怒り心頭だった義貞らも、そして彼らに従う関東武士たちも、この言葉を聞いて、感激の涙にくれたと言います。

果たして、北国行きを決意した義貞・・・密かに日吉大宮権現に参詣し、先祖伝来の家宝=鬼切りという名刀を奉納して、朝敵討伐の祈願し、北へと向かったのです(10月13日参照>>)

一方の後醍醐天皇は、三種の神器を携えて比叡山を降り、尊氏のもとへ・・・

その三種の神器は、神器無しで即位した光明天皇のもとに渡り、後醍醐天皇には太上天皇の尊号が贈られ、そもそもの最初の約束通りの両統迭立(りょうとてつりつ=持明院統と大覚寺統か交代で天皇を出す…くわしくは伏見天皇のページで>>にのっとり、光明天皇の皇太子には、後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王が立てられたのです。

これで、めでたしめでたし・・・

と行かないのは、皆さまご存じの通り・・・

この後、後醍醐天皇は、突然
「あっちに渡した三種の神器はニセ物だよ~ん」
と言って、脱出先の吉野にて朝廷を開く・・・そう、ここから南北朝が始まるわけですが、そのお話は、12月21日のページでどうぞ>>
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2012年8月13日 (月)

生駒騒動を引き起こした?山口彦十郎の亡霊

 

今日のお話は、江戸前期の仮名草子『因果物語(いんがものがたり)に登場するお話なのですが、日づけのわからない(私が知らないだけかも知れません)ので、納涼怪談話として、夏の盛りにご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・

時は、あの関ヶ原から約半世紀を過ぎた万治年間(1658年~1660年)・・・

当時、四国は高松城主を務めていたのは、先日、そのご命日に、人となりを書かせていただいた第4代藩主の生駒高俊(いこまたかとし)でした(6月16日参照>>)

そのページにも、美少年好きの高俊さんが、少々ハシャぎ過ぎたところに、家臣同士のいがみ合いが重なり、結局、所領没収のうえ配流に・・・という話をさせていただきましたが、

実は、そのお家騒動を引き起こしたのが怨霊だったというお話が残っているのです。

・‥…━━

Ikomatakatosi500 先のページにも書かせていただいたように、坊ちゃん育ちのうえに、未だ藩主など務まるはずもない年齢で藩主になってしまった高俊さんは、政治をかえりみず、美少年をはべらせて遊ぶ事に夢中・・・

たまに、政治の事に口出したと思えば、やりっぱなしで、あとの事は知らん顔・・・それなら逆に、「何もしてくれるな!」と言いたくなるような、中途半端な口出しばかり・・・

もちろん、いくら殿様と言えど、そんな高俊に苦言を呈する、ちゃんとした家臣もいたわけで・・・それが、山口彦十郎という侍でした。

ある日、たまりかねた彦十郎は、
「家臣たちの昇進や昇級に不公平が出過ぎだと思います。
このままでは、家臣の統率が取れなくなり、藩の体制が乱れますよ」

と進言・・・

しかし、当然の事ながら、
「何を、しょーもない事、言うとんねん!」
と高俊は取り合わず・・・

「どうか」「どうか」
と、さらに食い下がる彦十郎をうっとぉしく思った高俊は、これまで、藩に多大な貢献をして来た彦十郎の功績も一切無視して、いきなり左遷・・・重要な仕事など一切回って来ない窓際族へと追いやってしまったのです。

この処分に怒った彦十郎は、その日から登城を拒否・・・屋敷に引き籠ります。

この彦十郎の行動を、藩主に対する反抗=謀反と判断した高俊は、すぐさま彦十郎の一族を捉え、彦十郎本人を斬首にしたうえ、その妻子までも死刑にしたのです。

やがて、その処刑の日・・・彦十郎の斬首を担当したのは、横井四郎右衛門という侍でした。

右衛門にとっては、個人的恨みなど無い人物ですが、命令が下った以上、その任務は真っ当せねばならないわけで・・・彼が、おもむろに刀を振り上げると、

「藩の人事に異義を申し立てた以上、処刑されるのはしかたない事やけど、武士の1人として切腹で死ねないのは無念や!!!
まして、妻や子まで…」

と、彦十郎は嘆きます。

その声を振り払うように、刀を振り下ろす右衛門・・・

その瞬間にコロコロと転がった彦十郎の首は、右衛門をカッ!!と睨みつけ、更なる怨みの言葉を言った後、やっと目を閉じたと言います。

その夜から、右衛門は苦しみ出し、様子がおかしくなります。

「彦十郎よ・・・
お前の首を討ったのは、殿の命令なんや
俺は、命令に従うただけだけや・・・許してくれ!」

と、くりかえし口走り、さらに苦しみ抜いた後、7日後には死亡してしまったのです。

さらに、その後、彦十郎の亡霊は、高俊の居室の天井に住みつきます。

高俊が眠りにつこうとすると、毎夜毎夜、姿を現し、天井からは、奇妙な音が鳴り響きます。

果ては高俊の居室を飛び出て、城内の大木を倒したり・・・

やがて、このおかしな現象で、奇妙な死に方をする家臣が十数人にも昇ったのだとか・・・

そして、最終的に勃発したのが、かの生駒騒動・・・高俊は、所領を没収され、堪忍料1万石で出羽由利(由利本庄市)へ配流となってしまったのです。

当時は、
「彦十郎の亡霊が、ついには幕府をも動かした」
と噂されたのだそうです。
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2012年8月12日 (日)

謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説

 

江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が、大岡越前守忠相を寺社奉行に任命したのが元文元年(1736年)8月12日・・・

さかのぼる事、半世紀前・・・
小田原征伐を終えて(7月5日参照>>)、その足で奥州仕置を行った豊臣秀吉が、検地の強行などを、配下の者に託して帰路についたのが、天正十八年(1590年)8月12日・・・

さらに、さかのぼって、
文治五年(1189年)8月10日から3日間に渡った阿津賀志(あつかし)の戦い(8月10日参照>>)に勝利した源頼朝が、奥州藤原氏の本拠地=平泉に向おうとしていたのが、ちょうど、この8月12日頃・・・ですかね?

本日は、この3つの出来事にまつわるお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

大岡越守忠相(ただすけ)が寺社奉行に任命されてまもなくの事、彼は、幕府老中より、ある密命を受けたのです。

それは結城城(茨城県結城市)に眠る埋蔵金の発掘!!

そもそもは、その奥州藤原氏・・・(7月13日参照>>)

奥州藤原氏が、京の都に勝るとも劣らない栄華を誇った背景に、陸奥特産とも言える黄金(砂金)がもたらす莫大な財力があっった事は、皆さまご存じの通り・・・

今に残る中尊寺金色堂は、まさに、その象徴とも言える物ですが、上記の通り、文治五年(1189年)に源頼朝に攻め込まれ、第4代藤原泰衡(やすひら)の死を以って、奥州藤原氏は滅亡するわけです。

この時、源平の合戦木曽義仲討伐にも参加し、この奥州でも頼朝に従って武功を挙げ、後の鎌倉幕府では頼朝の側近となって、あの梶原景時と並び称されるほどの重要人物となったのが結城朝光(ゆうきともみつ=小山朝光)・・・朝光一代でのあまりの出世ぶりに、頼朝のご落胤説もあり、朝光以下、代々の当主が継ぐ「朝」の字は頼朝の「朝」なんて話も・・・

とにもかくにも朝光は、一連の合戦の恩賞として、この時に、頼朝から結城郡を与えられたと考えられています。

その結城氏は、2代め朝広までは鎌倉幕府の重臣として栄えたものの、3代め以降の当主が夭折(ようせつ=若くして亡くなる事)したり後継ぎに恵まれ無かった事から、いち時衰退しますが、室町幕府から南北朝にかけて再び勢力を盛り返し、再度の最盛期を迎えます。

その、再びの盛り返しの原動力となったのが、初代の朝光が、頼朝から分け与えられた藤原氏の黄金では無かったのか???・・・と、

もちろん、実際に、そんな事があったのか?無かったのか?はわかりませんが、結城氏が、石高のワリには豊富な財政を誇っていた事から、江戸時代頃には、「藤原氏の黄金を結城氏が受け継いでる説」が、もっぱらの噂となっていたようです。

とは言え、戦国時代の結城氏は、後北条氏上杉氏などの大大名に翻弄されて揺れ動きながら、最後には、秀吉の小田原征伐に馳せ参じて所領を安堵された後、秀吉の養子となっていた徳川家康の次男=秀康を養子に迎えて、何とか存続を図った・・・

そう、ご存じ、結城秀康(ゆうきひでやす)(11月21日参照>>)ですね。

んん?でも、この秀康が結城氏の後継ぎとなったのなら、もし本当に、かの藤原氏から受け継いだ黄金があったとしても、それは秀康の物になったはず・・・

ところがドッコイ・・・戦国の世での生き残り作戦のために秀康を養子に迎えた第17代当主の結城晴朝(はるとも)ですが、やはり、イザとなったら、その血筋が絶える事がツライ・・・

そこで、いつか、ホンモノの結城家が再興される事を願って、その日のために、黄金財宝のすべてを、そっくりそのまま結城城のどこかに埋めてしまったというのです。

それを知った秀康が、必死のパッチで黄金を探すも見つからず・・・やがて、ご存じのように、秀康は越前(福井県)に転封となって越前松平家となるので、結城城は破却され、廃城となりました。

以後、ここは幕府の天領となり、幕府からは「何人たりとも、結城城に立ち入るべからず」のお触れ書きが出されていたとか・・・

やがて元禄十三年(1700年)に、この地に移封された水野勝長(かつなが)によって、その3年後に、新たな結城城が再築城されますが、その頃には、すでに以前の結城城がどのような物であったかさえ、忘れ去られていた状態だったと・・・

そうです・・・今回の大岡忠相さん、財政難にあえぐ幕府のために、もはや、その縄張りさえあやふやになった以前の結城城に埋められているかも知れない埋蔵金を掘り起こすように命じられたというわけです。

しかし、さすがの名奉行の大岡さまでも、埋めた直後の秀康でさえ見つけられない物を、そう簡単に見つけられるはずもなく・・・

「どうや…どう、なってる?」
「もう、見つかったか?」
と、老中たちは、忠相が登城するたんびに聞いてきますが、

それに対する忠相の返答が、
「いえ、まだでございます」
から
「掘り跡のあるとこや、土色の変わってるとこは、もちろん、もう、手当たり次第に掘ってますさかいに!」
と、その口調が変わるほどの期間を費やしても、結局、この時は見つかりませんでした。

・・・で、その後も、幕府は、江戸時代を通じて、6回も埋蔵金探しを行ったのだとか・・・

建て替えられた結城城は、幕末には戊辰戦争の舞台にもなって、またまた廃城・・・もはや、その遺構も判別し難い姿となりましたが、それでも、明治・大正と、この地を掘り起こそうとする人が後を絶たなかったのだとか・・・

奥州藤原氏の思い、結城氏の思い、徳川幕府の思い・・・いくつもの時代の様々な欲望に翻弄された結城城ですが、今は、一部が公園となり、静かに平成の世を迎えています。

果たして、その下には、今も眠っているのでしょうか?
 .

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2012年8月10日 (金)

石田三成・大垣城に着陣…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2

 

慶長五年(1600年)8月10日、関ヶ原の合戦において、西軍の石田三成が、大垣城主・伊藤盛正を説得・・・開城させて入城しました。

・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉亡き後に、五大老の筆頭として、事実上、豊臣家家臣のトップとなった徳川家康は、慶長五年(1600年)、上洛要請を拒否する会津上杉景勝(かげかつ)(4月1日参照>>)成敗すべく、大軍を率いて東へ向かっていましたが、その留守を狙って、石田三成(みつなり)挙兵を決意(7月11日参照>>)・・・伏見城に攻撃を仕掛けます(7月19日参照>>)

この、「三成挙兵」の一報を聞いた家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にで軍議を開いてUターン宣言・・・即座に西へと向きを変えた東軍の先発隊は、まもなく岡崎城へと到着しようとしていました(8月11日参照>>)

一方、攻撃を仕掛けていた伏見城を8月1日に落城させた(8月1日参照>>)三成ら西軍・・・

落城とともに自刃した城将=鳥居元忠(とりいもとただ)の首は、まもなく大坂に運ばれますが、無双の忠死を遂げた名将として、三成は、この首に礼を尽くして、高御台に据えて、大坂城の京橋口に晒したと言います。

『鳥居家中興譜』によれば・・・
この事を伝え聞いた、元忠恩顧の京都の商人=佐野四郎右衛門此由(これよし)なる人物が、急いで大坂に行き、警備の目を盗んで元忠の首を盗み出し、夜を徹して京都へ舞い戻って、寺にて供養した後、密かに埋葬・・・

しかし、ほどなく、首が盗まれた事は公になり、「誰が盗んだのか?」という探索が始まると、此由は、覚悟を決めて、自ら三成のもとへ出頭しますが、三成は、その忠義の勇気に免じて、此由を許し、お咎め無しとしたという事です。

そんなこんなの8月9日・・・三成は、3000ばかりの兵を率いて、美濃(岐阜県)垂井(たるい)に到着します。

しかし、井には、軍が宿泊できるような城もなく・・・そこで、三成は、西軍に与する事を表明している大垣城主の伊藤盛正付きの老臣・伊藤頼母(たのも)を説き伏せて大垣城を開城させ、慶長五年(1600年)8月10日大垣城に着陣しました。

Oogakisekigahara900 大垣城に拠る西軍「関ヶ原合戦図屏風:部分」(大阪歴史博物館蔵)

すでに、大谷吉継(よしつぐ)北陸方面の攻略にあたる(7月14日参照>>)中、三成は、一部の軍を、田辺城(7月21日参照>>)美濃安濃津(あのつ)(8月25日参照>>)松阪城へと派遣します。

また、ここらあたりで、宇喜多秀家(うきたひでいえ)長束正(なつかまさいえ)美濃&尾張方面へ進出・・・総大将の毛利輝元(てるもと)と、増田長盛(ましたながもり)豊臣秀頼補佐して大坂城に居るという、西軍の大まかな態勢が整います。

この雰囲気を見ると、西軍側は、もう、この時点で、「関ヶ原付近が東軍との決戦城になるだろう」との考えがあったのかも知れません。

そんな中、三成は、高橋修理なる西美濃の武将を、「是非とも味方につけておきたい」と思い、同じ西美濃出身の広瀬兵庫助(ひょうごのすけ)という武将に、いくらかの金銭を持たせて、修理のもとに向かわせました。

もともと、高橋家との交流があった事もあり、修理は、兵庫助を歓迎し、屋敷の仲へと招き入れて、数時間に渡って、話し合いが行われました。

「もう、知ってるやろ?
戦いになりそうやねやんか・・・
せやから、君とこの鉄砲の名手なんぞ引き連れて、西軍として参加してくれんやろか?
勝利のあかつきには、“美濃半分を差しあげる”って三成はんが言うてんねん。
美濃半分やで!」

と、切り出す兵庫助・・・

しかし、修理は
「君も知ってるやろけど、ウチは、室町頃から、この土地に根づいて、細々とやっとる。
実は、秀吉さんの時にも、俺ら、声かけられてんねんけど、ウチには“今以上の物を望むな”っていう、先祖代々の家訓があったから断わってん。

大金も魅力的やし、美濃半分なんか、欲し無いっちゅーたらウソになるけど、家訓に背いたらどんな天罰が待ってるやも知れんし、身分不相応に裕福になっても、ええ事は無い気がすんねん
と、断わります。

「せやけど、ここで断ったら、君らが徳川に通じてんのちゃうか?と疑われて、お前らはもちろん、領民かて殺されるかわからんゾ」
と兵庫助は喰い下がります。

すると
「いや、敵対したら攻撃されるかも知れんけど、敵対せ^へんかったら、攻撃は無いやろ?
俺ら、中立やねん・・・天下を治めるようなスゴイ人物に、今の領地の安堵を認めてもろて中立を貫きたいさかいに、はよ帰って、三成さんに、その事、伝えといてぇや・・・頼むで!」

と言って、兵庫助を返したのだとか・・・

この逸話は、『石卵余史(せきらんよし)という史料に登場するお話ですが、関ヶ原のような天下分け目の戦いで、中立を保つ事が、本当にできたのかどうか???

そこンところは、微妙ですが、確かに、修理さん、ウマイ事言います。

この言い方で、断わられると、何となく、彼の領地を攻め難いです・・・返事を聞いた三成からすれば、もし、そこを攻撃したら、自分が天下を治めるような器を持ってない人間だと、自分で言ってるみたいに見えますからね~

さぁ、関ヶ原まで、あと1ヶ月と5日・・・いよいよ、緊迫の度合いが高まります。

関ヶ原関連のお話は、【関ヶ原の合戦の年表】で「どうぞ>>
 .

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2012年8月 8日 (水)

上杉謙信と春日山城…の怪現象

 

永禄四年(1561年)8月8日、上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発ちました。

・・・・・・・・・・

いよいよ第四次川中島の合戦~八幡原の戦いへ動き始めましたね。

合計5回に渡る川中島の合戦で、最も激しい戦いとなり、一般的に「川中島の戦い」と言えば、この第四次の戦いを指すわけですが、戦いの経緯や、この合戦で命を落とす信繁や勘助に関しては、未熟な記事ながら、一応。すでに書かせていただいておりますので、今回は、本日、上杉謙信が出立した、春日山城についてのお話をさせていただきたいと思います。

川中島については、以前のページで↓
【鞭声粛々・川中島の戦い>>
【異説:川中島の合戦はなかった?>>
【補佐役に徹した武田信繁>>
【「山本勘助⇔山本菅助」その実在は?>>

・‥…━━━☆

春日山城(新潟県上越市)は、高田平野の西側にある春日山に築かれた山城で、山頂に天守台跡本丸跡があって、その西の下ったところに大きな井戸、そして、さらに西には、現在、毘沙門堂が再建されています。

謙信さんのページで、度々お話させていただいておりますように、謙信は毘沙門天を深く崇拝・・・どころか、自らが毘沙門天の化身と思っていたと言われるくらい帰依しており、戦いの際には、この毘沙門堂に籠って、1人瞑想しながら戦略を練っていたと言われていますね。

その様子は、3年前の大河ドラマ「天地人」でも度々描かれていましたが、ドラマの毘沙門堂は、なんか洞窟みたいな「毘沙門洞」になってましたが、残念ながら、実際の毘沙門堂は、その名の通りのお堂でした。

ドラマを信じて春日山城にやって来た人が
「洞窟じゃない!」
と言って、残念がった・・・なんてエピソードも、当時はあったみいですが・・・

Kasugatyamazyou600_2 元禄十五年(1702年)に写された春日山城古地図(新潟県立図書館蔵)

と言っても、この地に、このような本格的な城を築いたのは、謙信の父である長尾為景(ためかげ)さん・・・以前、書かせていただいたように、守護代であった為景が、上司である守護を倒して、事実上に実権を握るという下剋上をやってのけた武勇の人です(8月7日参照>>)

その為景の後を継いだのは、兄の晴景(はるかげ)でしたが、後に、19歳になった謙信(当時は景虎)兄との家督争いに打ち勝って、守護代の座を奪い取ったのです。

こうして、守護代として春日山城を居城とした謙信は、この城をより強固な物にするために、修築に励んだようです。

そして、その後、武田信玄と川中島で相まみえながら、皆さまご存じのように、山内上杉憲政(のりまさ)から関東管領職を受け継ぐ事となり(6月26日参照>>)、遠く関東まで出陣するようになりますが、天正五年(1577年)9月に七尾城を陥落させた(9月13日参照>>)後、その次の春を待たずに急死します(3月13日参照>>)

その後、春日山城は、後継者争いの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に打ち勝った景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)が治める事になるのですが、そこには、謙信の死にまつわる奇妙な話も残されています。

謙信には、猛将として知られた柿崎景家なる家臣がいましたが、ある時、馬の管理を任されていた景家は、差し当たって不用になった何頭かの馬を売りに、京都へと向かい、たまたま、その中の1頭を気に入った信長が、その馬を買ったのです。

よほどお気に召したのか、信長は、
「めずらしい馬をありがとう」
と、景家に礼状を送ります。

しかし、たまたま、景家は、この一連の流れを謙信に報告していなかった・・・やがて、何年か経って、その事を聞きつけた謙信は激怒します。

報告しなかった事を内通と判断した謙信は、この景家を殺害してしまうのですが、それが天正五年(1577年)11月7日とも(諸説あり)言われています。

以来、景家の亡霊が夜な夜な謙信の枕元に立ち、無実を訴えるように・・・結局、その翌年の3月に亡くなる事になる謙信の死は、この景家の怨霊による物と、春日山城では、まことしやかに囁かれていたとか・・・

さらに、その頃には、かの毘沙門堂のすぐそばにも、髪が肩にかかるほどにザンバラに伸びた異形の者が夜ごと現われ、人々を驚かすという現象もあったのだそうです。
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2012年8月 6日 (月)

迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政が秀吉に降伏

 

天正十三年(1585年)閏8月6日、羽柴秀吉が佐々成政を越中新川一郡に削封・・・礪波・射水・婦負郡を前田利家に与えました。

・・・・・・・・・・

尾張春日井(名古屋氏西区)に根を張る土豪(どごう=地元の小豪族)佐々氏に生まれたという佐々成政(さっさなりまさ)・・・

その出自など、はっきりした事はわかりませんが、最初は敵対していた織田信長の傘下に入った後は、その信長が優れた武将を20人選んで任命した母衣(ほろ)衆の隊長に任命されるほどの信頼を勝ち得ています。

母衣衆とは、戦場での最前線と、大将のいる本陣との連絡をする係なので、常に矢面に立つ場所にいて、それらの攻撃をかいくぐって移動するばかりか、それ専門ではなく、普通に戦ううえに、その役を任される物(会社で普通に仕事をしながら、その部屋の火元責任者を任されるような物)なので、それは、もう、大変な役どころでした。

しかし、迅速で勇猛で果敢なうえに負けず嫌いの性格も相まって、そんな中でも常に重要人物の首を挙げていたという武勇伝の持ち主です。

Sassanarimasa300 そのスゴさは、あの信長さんでさえ「参った」というほど・・・ある時、信長が成政に恩賞を与えようとしたところ、
「今回は、いただけるほどの武功を挙げてませんので…」
と、かたくなに固辞し、
「その我の強さが、お前の欠点や」
と言われた事もあったとか・・・

とは言え、信長さんも、そこまでの武勇の持ち主なら、キライでは無いわけで・・・

越前(福井県)朝倉を倒して柴田勝家北ノ庄城(福井市)にて北陸の支配を任せた時、同時に、前田利家不破光治(ふわみつはる)、とともに成政を、その与力・目付けとして府中に置きました。

当時は、未だ上杉謙信の勢力強かりし頃・・・その玄関口となる北陸に、この3人を置いたのは、やはり、それだけ信頼が篤かったわけで、彼らは「府中三人衆」と呼ばれました。

こうして、小丸城(福井県越前市)を居城とする北陸の住人となった成政・・・

やがて、一向一揆などとも戦う(9月8日参照>>)中で、天正九年(1581年)には、正式に越中(富山県)半国を与えられて大名に出世・・・富山城の主となります。

しかし、ここで、ご存じ、本能寺の変(6月2日参照>>)・・・さらに、その後の清州会議(6月27日参照>>)で、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉との間に入った亀裂が、やがて賤ヶ岳の合戦へと発展します(3月11日参照>>)

この時、成政は、勝家に味方します。

以前、途中で戦線離脱した前田利家についてお話しましたが(2009年4月23日参照>>)、そこで書かせていただいたように、この時の成政や利家ら「府中三人衆」の立場は、あくまで、「どちらに味方しようが彼らの自由」という立場・・・

彼らは、北陸支店長である勝家のもとに織田家本社か出向している形ですので、織田家内の北陸支店長=勝家に味方しようが、近畿支店長=秀吉に味方しようが、どちらでも構わないわけです。

ただ、この時、未だ、越後の上杉家の動向が気になる成政は富山を離れる事ができず、勝家の味方と言いながらも援軍を派遣した程度で、彼自身は、合戦に参加せず・・・そのおかげか、勝家が負けても(2010年4月23日参照>>)彼自身は、人質を差し出して剃髪する事で、富山の領土は安堵されました。

しかし、未だ完全に秀吉派とはなれずに悶々とする中(11月28日参照>>)、その後に訪れたのが、秀吉の勢いに脅威を感じた信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、徳川家康を味方につけて秀吉と抗戦した小牧長久手の戦い・・・
 (3月12日:亀山城攻防戦>>)
 (3月13日:犬山城攻略戦>>)
 (3月17日:羽黒の戦い>>)
 (3月28日・小牧の陣>>)
 (4月9日:長久手の戦い>>
 (6月15日:蟹江城攻防戦>>)

東海地方で行われたこの戦いを、秀吉に良い顔しながらも、しばらくは静観していた成政ですが、途中で、どうやら、家康に分があると見えた、また、隣接するライバルと感じている利家が秀吉についた事などから、成政は、最終的に家康側につく事を表明し、利家配下の末森城に攻撃を仕掛けました(8月28日参照>>)

それこそ、背後の上杉にも気を配らねばならない状況での戦いで苦戦を強いられる成政でしたが、未だ、北陸での合戦が決着を迎えない間に、なんと、合戦の言いだしっぺの信雄が、単独で秀吉と講和を結んでしまいます(11月16日参照>>)

まだまだ戦いを続けたい成政・・・慌てて、何とか、この講和を阻止しようと、決死の北アルプス・さらさら越えを決行し、直接、家康に会いに行った成政でしたが(11月11日参照>>)、もはや、信雄が講和してしまった以上、家康だって合戦を続ける大義名分は無いわけで、答えは当然「NO」・・・

訴えが聞き入れられず、寂しく越中へと戻る成政ですが、その翌年の天正十三年(1585年)8月・・・やって来ました秀吉っさん!!!

それも10万の大軍を要して、富山城を囲みます。

信雄と講和して家康を降伏させた秀吉が、あの小牧長久手に信雄&家康側で参戦した武将たちに行った征伐の一環・・・すでに、紀州を征伐し(3月21日参照>>)四国も手に入れて(7月25日参照>>)、さらに関白に就任しての、満を持しての富山攻め・・・

迎え撃つ成政は、すべての支城、すべての砦の兵を撤退させ、それら全部を富山城に集結させて籠城戦に挑みますが、これをチャンスと見た上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は動きはじめるわ、数少ない同盟者も、秀吉の別働隊に討たれるわ・・・

当時の富山城は、神通川の水を引き込んだ鉄壁の環濠で護られた要塞だったそうですが、さすがの成政も、10万に囲まれて孤立無援では、万事休す・・・

8月29日やむなく降伏し、自ら剃髪(2回目かい?)して、秀吉の前に参上(8月29日参照>>)・・・これが、潔かったのか、秀吉は成政の命を取る事はありませんでした。
(まぁ、長宗我部も生きてるしね)

その代わり・・・
天正十三年(1585年)閏8月6日成政の新川郡以外の領地をすべて没収して利家に与える事を決定し、成政自身は、妻子とともに大坂城で暮らす事に・・・

これより、成政は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=殿様の話相手)となります。

この時の成政・・・生年が諸説あって様々なのですが、少なくとも50歳は越えていたと思われる年齢・・・

もはや武将人生も最後か・・・と思いきや、
さすがは、信長をもうならせた迅速で勇猛で果敢な負けず嫌い・・・

このままでは終わらず、この次の秀吉の九州征伐で武功を挙げ、再び、肥後(熊本県)一国の大名に返り咲くのですが、残念ながら、その肥後一国が、彼の運命を大きく変えてしまいます。

そのお話は、7月10日のページでどうぞ>>
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2012年8月 5日 (日)

源平に芽生えた友情…平忠常の乱と源頼信

 

長元元年(1028年)8月5日、平忠常の乱の追討使に任命された平直方が、京都を出立しました。

・・・・・・・・・

その勃発の日=6月5日に書かせていただいた平忠常の乱です(6月5日参照>>)

事の発端&経緯に関してのくわしくは、そのページでご覧いただくとして・・・

とにかく、あの平将門(まさかど)(2月14日参照>>)従兄弟の息子にあたる平忠常(たいらのただつね)・・・

中央から地方へと派遣されて、何かと甘い汁を吸う国司に反発して立ちあがった忠常の姿は、まるで将門の再来のごとく受け止められながら、上総&下総にて展開されていた反乱は、いつしか安房(あわ=千葉県)へと進み長元元年(1028年)6月5日安房国府を襲撃して国司を殺害するまでに至りました。

とは言え、忠常の反乱は、あくまで、国司など、派遣されて来た地方官への反発であって、国家そのものへの反乱では無かったわけですが、朝廷の話し合いで、
「どうあっても忠常を討つべし!」
と、強く主張して、自らが追討使に任命された平直方(たいらのなおかた)の参戦によって、忠常の戦いは長引く事になります。

Kanmuheisikeizu_2 なんせ、忠常の一族は、その直方の一族と、かの将門の乱でも敵対した間柄で、領地の境界線においても、度々モメていたわけで・・・
(人間関係については、以前のページでupした【桓武平氏系図→】でご確認ください)

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忠常にとって、長年の宿敵が追討使になって参戦して来た以上、「負けたくない」と思うのは当然の事・・・

かくして、乱の勃発から2ヶ月経った長元元年(1028年)8月5日、平直方と、もう一人追討使に任命された中原成道は、約200騎の手勢とともに、京都を出発したのでした。

とは言え・・・実は、ヤル気満々の直方に対して、もう一人の成道のヤル気はまったく無し・・・もともと、成道は、あまり直方の事を快く思っていなかったので、二人コンビを組まされた時点で、本当は、ヤル気ゼロだったんです。

しかも、どうやら、朝廷も、この忠常追討に関しては、あまり重要視していなかった模様・・・なんせ、この追討使の二人は、朝廷の軍を率いるには、さほど身分も高くないし、手勢が200騎という少なさ・・

そもそも、先に書いたように、忠常も、「この反乱はあくまで、民衆を苦しめる国司に対する反乱であって、中央に反発する物では無い」事を明確にしていましたからね。

それこそ、人の心の内なんて物は記録に残りませんが、この状況を見る限り、おそらくは、直方以外は、ほとんど、ヤル気無い臭がプンプンしまくりの追討使派遣だったのです。

案の定、成道は、関東に向かう途中で、母親の病気を理由に美濃(岐阜県)に滞在したまま動こうとせず・・・結局、戦いには参加せずじまいで、途中で解任されています。

追討に向かった直方も、忠常らの激しい抵抗に遭い、まったく成果は出せず・・・ここらあたりのくわしい記録が無いので、合戦の詳細はわからないのですが、とにかく、ほとんど状況が変わらないまま、結局、3年の歳月が流れてしまいます。

あまりのグダグダ感に業を煮やした朝廷は、長元三年(1030年)9月、直方を京都に呼び戻しますが、なんと、この時、討伐どころか、未だ忠常の居場所さえ、直方は把握していなかったのだとか・・・

・・・で、直方は、その場で追討使をクビになり、代わって追討使に任命されたのが、以前、忠常に勝った経験がある源頼信(みなもとのよりのぶ)・・・

実は、最初に直方を追討使に任命する段階で、すでに頼信の名前も出ていたようなのですが、逆に、15年前の戦いで1度勝って、その時に、忠常が頼信の配下となっていた事が問題になり、追討使に選ばれなかったのです。

その時、戦いに勝った頼信と負けた忠常ではありましたが、その後、主従関係となった二人の関係が、なかなかに良かったらしく、今回、頼信を派遣しても、「情がからんで忠常を追い詰める事ができないんじゃないの?」てな意見が出てたくらい、両者の関係は良かったのです。

案の定、追討使となった頼信は、京都で僧となっていた忠常の息子を連れて関東に向かいます。

そう、追討では無く、説得に行ったんですね。

一方の忠常も、もはや心が通じていたのか、頼信が追討使としてやって来たと聞くやいなや、自身はすぐに出家し、息子2人と郎党を連れて、自ら頼信のもとに出頭するのです。

これも、以前のページに書かせていただきましたが、この時期、それぞれが独立した武士団を形成して地方に根づいていた平氏に対して、摂関家の支援を受けて中央での勢力を伸ばしていたのが源氏・・・

忠常から見て、頼信の兵力=中央の兵力という認識がある中で、はなから、中央に弓引く意思の無い忠常は、おそらく、頼信登場を聞いただけで、もはや戦う気持ちは無かった事でしょう。

また、この時、忠常は、すでに重い病気にかかっていたとも言われ、そういう意味でも、刀の納めどころを模索していたのかも知れません。

もちろん、忠常の出頭を受けた頼信も、自らが楯となって、彼らの行く末を見守る事を約束します。

こうして、3年以上に渡った乱は終結・・・反乱者となった忠常は、頼信の手で京都に護送される事になりますが、この時も、頼信は、病に冒された忠常を気遣って、かなりゆっくりなペースで京都に向かったと言われてします。

しかし、残念ながら、長元四年(1031年)の6月6日・・・京都に向かう途中の美濃野上にて、忠常は57歳の生涯を閉じました。

やむなく、頼信は、忠常の首をはねて京都に持ち帰りますが、本来、晒されるべきの反乱者の首なれど、晒し首はすぐに取りやめとなって、あくまで、本人の死亡確認だけをして、首は、間もなく遺族に返されています。

ここにも頼信の配慮がうかがえます。

しかも、息子たちも、いっさいお咎めなし・・・忠常の後を継いだ平常将(つねまさ)は、この後、頼信の家人となって働きます。

こうして、この乱の平定により、関東の平氏の多くが、頼信の配下に入る事になります。

さらに、途中でクビになったとは言え、忠常亡き後は関東平氏の頂点に立つ立場となっていた直方が、今回の頼信の息子の頼義(よりよし)娘を嫁がせて、頼信の傘下に入った事から、よりいっそう、清和源氏が関東で勢力を広げる事となったのです。

Seiwagenzikeizu クリックすると大きくなります

ちなみに、今回の頼信さん・・・何となく、器のデカイ英雄の雰囲気を醸し出していますが・・・

実は、彼のお兄さんが、大江山酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)で有名な源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)・・・孫が、源氏1番の武勇と言われる八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(9月17日参照>>)・・・やはり、スゴイDNA!

ひょっとして頼信さんがいなかったら、源頼朝が伊豆で挙兵する事も、鎌倉に幕府を開く事も無かったかも・・・ですね!

なんせ、先の【桓武平氏の系図】を見てお解りのように、挙兵した頼朝の配下の多くは、この時に傘下となった平氏ですから・・・
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2012年8月 3日 (金)

魔界へ訪問…太平記の「雲景未来記」

 

あぁ、今日も暑い暑い~

こう暑いと頭が回らなくなって、ついつい、恒例の「真夏の夜の怪談話」を、ご紹介したくなるんですが…

そんな中で、そう言えば、今週の大河ドラマ「平清盛」で、思う存分の怨みつらみを口走り、生きながら鬼となったあの崇徳(すどく)上皇(8月26日参照>>)がお亡くなりになられたなぁ・・・

という事で、本日は、怪談ではないかも知れないけれど、ちょっと不思議なお話・・・太平記』巻二十七に登場する「雲景未来記(うんけいみらいき)のお話をご紹介したいと思います。

・・・・・・・・・

貞和五年(1349年)と言いますから、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)征夷大将軍に任ぜられて(8月11日参照>>)から11年・・・後醍醐(ごだいご)天皇もお亡くなりになり(8月16日参照>>)、ぼちぼち、尊氏と弟の直義(ただよし)執事高師直(こうのもろなお)らの間に、少々の亀裂が生まれ始めた頃(10月21日参照>>)でしょうか・・・

明けて間もない正月に、まずは凶兆の星が空に現われ、その後、各地で異変が起き始めます。

2月には将軍塚(京都市山科区)から異様な音が鳴り響き、清水寺が炎上し、6月には石清水八幡宮(京都府八幡市)の神殿が鳴動し・・・

同じ6月には、関白の二条良基(よしとも)や将軍・尊氏が観覧する田楽の大興行が、四条河原にて催されましたが、そこに設置された上下二四九間(約450m)もの巨大な観覧席が倒壊して、多くの死者を出す大惨事がありました。

あまりの出来事に、これは・・・
叡山のある僧が謎の山伏に連れられて、田楽の貴賓席に瞬間移動し、尊氏から、ご丁寧にお酌まで受けたところ、その謎の山伏が「熱狂した頭、冷やしたる!」と、観覧席の柱を押して倒壊=つまり、天狗倒しだったのだ・・・てな噂が、まことしやかに囁かれました。

そんなこんなの6月20日出羽羽黒山山伏雲景(うんけい)が都に立ち寄った時、「1度、噂の天龍寺を見てみたい」と、西に向かって歩いていると、以前、太政官庁があったあたりで、1人の山伏に出会います。

年の頃なら60歳過ぎ・・・
「どこへ、行きはりますのん?」
と、聞かれたので、雲景が
「天龍寺を見に行こうと・・・」
と言うと、その山伏は
「ワシらが修行してる山は、日本一の霊地やで!君も、修行の思い出に、いっぺん来たらどうや」
と言います。

雲景も山伏のはしくれ・・・日本一の霊地と聞けば興味が湧き、ついて行く事にします。

山伏に案内されながら、どんどんと山道に入り、やがて愛宕山の山頂に・・・そこには白雲寺という、金銀を散りばめたような、それはそれは美しいお寺があり、その建物を見ただけで、「ここで修業したい!」と思うほどでした。

「ささ…奥へ、堂内を案内いたしましょう」
誘われるままに着いて行くと、奥には立派な住居があって、部屋の上座には金色に輝く鳶(とび)が羽をつくろい、その右側には弓や太刀を持った大男がいて、左側には、高貴な人が着るような美しい装束の人たちがズラリ・・・

「これは、どなたのお集まりで???」
と、雲景が聞くと・・・
「金色の鳶は崇徳上皇であ~る」

なんと、彼らは、生きながら鬼と化して死後は悪魔王の棟梁となった崇徳上皇を中心とした御霊(ごりょう)会談・・・

崇徳上皇の右にいる大男は、
源為朝(みなもとのためとも)(3月6日参照>>)で、
左には淡路廃帝(あわじはいたい=淳仁天皇(10月23日参照>>)井上皇后(10月1日参照>>)
さらに、後鳥羽上皇(7月13日参照>>)などなど、
いずれも、この世に怨みを残して亡くなった高貴な人ばかりで、あの後醍醐天皇大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)(7月23日参照>>)の姿も・・・

そんな方々が、今、ここに集まり、
「どうやって天下を乱してやろうか」と相談しているのだと言います。

「えらい所に来てもた…( ̄○ ̄;)!」
と雲景が驚愕していると、そこに一座の長老っぽい山伏=実は天狗界の重鎮が現われ、雲景に
「最近の京の都の事について、教えてちょ」
と言うので、雲景は、つい先日起こった、あの田楽興行での観覧席倒壊事件や、将軍兄弟が執事のために、何やら不穏な空気になっている事などを話すと、長老は、その事に答えるかのように、出来事の解説を始めます。

まずは、田楽での観覧席倒壊・・・
これは、天狗の仕業ではなく、本来は国政に尽力すべき、関白や将軍が、その職務を忘れ、群衆とともに遊興にふけったので、神仏がお怒りになったのだと・・・

さらに、足利将軍兄弟と執事の高兄弟の不和については・・・
臣下の将軍が君主である天皇を軽視すれば、当然、将軍の臣下である執事も将軍を軽視する・・・
そうして天下の道に背いた執事も、やがて滅び、不和は大乱を招いて平和が訪れる事は難しいであろうと予言しました。

続けて・・・
そもそも、政治は仁・・・仁とは国中に恵みを与えて国民を養い、慈しむ事である。
しかし、今の政治は、これを忘れている・・・

今の政治は、時代の流れと個人の欲が渦巻いて、何かと言えば下剋上・・・因果業報(いんがごうほう=前世にやった事が原因で現世の結果ある事)を知らず、それを、単なる運だと思っている・・・と、

さらに、後醍醐天皇の世が長く続かなかった事については・・・
後醍醐天皇は古の天皇にならって良い政治を行おうとしたけれど、結局のところ民衆を慈しむ心が無く、途絶えた伝統行事を復活させて神仏に篤い信仰を寄せたけれど、真心が無かった・・・なので、幕府を滅ぼしたものの、北条高時にも劣る尊氏に政権を奪われてしまったのた、と・・・

もはや、武家なくしては政治が行えない時代になった現状を理解せず、仁徳で導く親政を目指したものの、結局は国を支配したいという欲だけが先走ってしまった・・・

んん??(・_・)....?
何じゃ? これは、怖い話なのか??

いや、怪談話or不思議話ではなく、完全に政治批判になってまっせ・・・しかも、意外に公平な立場に立って、南北朝の両方ともを批判してる?・・・

しかも、ところどころ、平成の現代でも、耳が痛いようなフレーズが・・・

そう、軍記物である『太平記』は、そのほとんどが血生臭い戦いの話なのですが、この「雲景未来記」に関しては、不思議話のポーズを取りながら結局は、現在の政治批判をしているのです。

確かに、1人の人間の手による短期間の作品ではなく、複数の人物(10人以上)によって長期間費やして書かれたとおぼしき『太平記』ではありますが、正平二十五年・応安三年(1370年)頃には、すでに全40巻が成立していたと考えられていますので、天皇家や幕府どころか、未だ南北朝合一も成されていないうちでの政治批判とは・・・なかなか大したものです。

・・・で、結局、お話の流れは、このあと、雲景は、さらに、天下泰平の事について長老に聞きたい!と思うのですが、その途端に、あたりが猛火に包まれたので、雲景が急いで逃げようとした瞬間・・・・ふと気がつくと、最初に、あの不思議な山伏に出会った太政官庁跡に戻っていたのです。

雲景は、この魔界での貴重な体験を後世に伝えたいと思い『未来記』預言書)としてまとめ、朝廷に献上したという事です。
 

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2012年8月 2日 (木)

なでしこジャパンの先駆者・人見絹枝と8月2日

 

昭和三年(1928年)8月2日、昭和六年(1931年)8月2日、
そして、
平成四年(1992年)8月2日・・・

本日は、この3度の8月2日にまつわる人見絹枝さんのお話です。

・・・・・・・・・・・

4年に一度のアスリートの祭典・・・ロンドンオリンピックに沸く今日この頃で、オリンピックにまつわるエピソードがあちらこちらで話題になってる事もあり、ひょっとしたら、この方のお名前を、最近聞かれた方も多いかも知れませんが、この人見絹枝(ひとみきぬえ)さんは、昭和三年(1928年)に開かれたアムステルダムオリンピックに出場し、日本人女性で初めてのメダリストとなった人です。

明治四十年(1907年)に岡山県の農家の次女として生まれた絹枝は、初め、テニスの選手として、ごく普通の高等女学校生活を送っていましたが、もともと運動神経が良くて運動全般に才能を発揮していた事から、大正十二年(1923年)に開かれた岡山県の女子体育大会に陸上競技の選手として出場し、なんと、走り幅跳びで、非公認ながら当時の日本新記録を出して優勝したのです。

翌年、二階堂体操塾(日本女子体育大学)に入学し、塾長の二階堂トクヨから、本格的に体育の指導を受ける事になります。

塾生時代にも三段跳びやらやり投げやらの記録を残した絹枝は、翌年、塾を卒業し、体操教師として指導者になるかたわら、現役選手として三段跳びやら50m走の記録を塗り替えていきます。

大正十五年(1926年)には、大阪毎日新聞社に入社し、スポーツ関連の記者として仕事する一方で、関東陸上競技選手権大会女子体育大会などなど、出る大会、出る大会で、優勝&新記録達成のオンパレード・・・

そんな中で、いよいよ昭和三年(1928年)、21歳の絹枝は、この年に開催されるアムステルダムオリンピックに出場する事となります。

と、今なら、「なんて順調で、見事なアスリート人生なんだ!」って思いますが、実際には、この時代ならではの苦悩が絹枝には圧し掛かっていたのです。

そうです。
おしとやかで楚々とした振る舞いが日本女性の理想とされていた時代・・・太ももを露わにして、大股広げて走る事だけで、「なんてはしたない!」と軽蔑のまなざしで見られていたのです。

彼女のところにも、誹謗中傷の手紙が何通も送られて来ていました。

今回のオリンピックにおいても、実は、彼女にはたのもしい後輩が二人いたのです。

寺尾正(きみ)寺尾文(ふみ)という双子の姉妹・・・その実力は世界クラスで、特に、妹の文は、2年前の大会で100mの世界新記録を出していたほどでした。

しかし、美人姉妹であった彼女らは、好奇な目にさらされるばかりか、彼女らをモデルにした小説まで発表され、これが、彼女たちの父の目に触れて激怒・・・

「このままでは、嫁に行けなくなる」
として、オリンピックの出場を辞退させられたどころか、陸上を続ける事も反対され、尾姉妹は、わずか17歳で選手人生を終えてしまったのです。

結局、アムステルダムオリンピックに出場する女子選手は絹枝1人になってしまいました。

しかも、「出る限りは勝たねばならない」・・・彼女はその重圧とともに、アムステルダムに向かいました。

そして、自身の目標を100m1本に絞ります。

・・・というのも、未だ女子選手への門が開かれたばかりの今回のオリンピックでは、女子選手の陸上競技の種目は、100m800m400mリレー走り高跳び円盤投げの5種目のみ・・・彼女が世界記録を持つ、走り幅跳びは採用されていなかったので、事実上、100mに賭けるしか無かったのです。

しかし、7月30日に行われた100mでは、予選こそ1着で通過したものの、準決勝は4着で敗退・・・決勝進出すら逃してしまいました。

「このままでは、日本へ帰れない・・・」
落ち込みつつも闘志を燃やす絹枝は、なんと、その翌々日に行われる800mの予選に、急きょ、出場する事を決めたのです。

もちろん、未だかつて800mなんて、彼女は正式な競技で走った事はありません。

彼女は思います。
「最初の700mまでだと思って走ろう、最後の100mは体が覚えているはずだ」
と・・・

そう、この時の彼女は、100mの世界記録保持者です。
最後の100mまで行けば、あとはいつも通りに走れば良い、体が勝手に動いてくれるはずだ・・・と自分に言い聞かせて、心を高めました。

8月1日・・・予選は無事通過しました。

そして運命の昭和三年(1928年)8月2日・・・最初の1周めは6位で回った彼女・・・

2週目は、第1コーナーを回った所から徐々にスピードを上げ、5位・4位とどんどん、前の選手を抜いていきます。

あとゴールまで200mという所で、絹枝は先頭を走るドイツリナ・ラトケを捉え、にも追い抜かんが勢いで迫ります。

Hitomikinueatm600 誰もが拳を握りしめ、誰もが固唾をのむ、あと100m・・・しかし、これまで、前者を抜きそうな勢いだったのが、少し弱まり、先頭のラトケと、ほぼ同じスピードを維持したままゴール・・・

残念ながら1位は逃しましたが、堂々の銀メダル・・・絹枝は、日本女性初のオリンピックメダリストとなったのでした。

しかし、ゴールと同時に倒れ込む絹枝・・・なんと、少しスピードが落ちた最後の100m、女は失神し、気を失ったまま走っていたのです。

実は1位になったラトケ選手も、この時失神・・・このため、「女子800mは過酷過ぎる」として、しばらくの間、オリンピック種目から外される事になりました。

こうして、メダリストとなった絹枝ですが、オリンピック後も、休む間もなくドイツの国際大会に出場したり、帰国後も、様々な大会に出場して記録を残す中、後輩の育成にも尽力しました。

各地で講演を行って、女子選手の遠征費用をねん出するための寄付金を募ったり、もちろん、手取り足取りの後輩選手の指導も・・・

そんな中でも、未だ修まらない誹謗中傷に対して
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける しかし私の後から生まれてくる若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない」
と、堂々の記事を新聞に掲載しています。

オリンピックの翌年の昭和四年(1929年)、そして昭和五年(1930年)と、国内大会はもとより、日本チームを率いての国際大会にも果敢に挑戦していた絹枝・・・

しかし、昭和六年(1931年)の正月頃から、少し、体調を崩すようになります。

ここのところ、わずか半月の間に5大会もの競技大会をこなしており、肉体的にも負担がかかったのか?・・・しかし、実家で休養をとったのは、わずか1日で、またすぐに新聞社に復帰して記事を書いたり、後援者へのお礼に回ったりと、大会が無くても、休む間のない毎日が続きました。

そんなこんなの3月25日・・・彼女は吐血してしまうのです。
胸膜炎(きょうまくえん)でした。

すぐに阪大病院に入院する絹枝ですが、この病気は単独で起こる事は少なく・・・案の定、まもなく肺炎を併発します。

そして昭和六年(1931年)8月2日・・・奇しくも、あの銀メダルを獲得した3年後の同じ8月2日に絹枝は24歳の若さでこの世を去ったのです。

それから35年・・・
昭和四十一年(1966年)の暮れに、絹枝と同じ岡山県に女の子が生まれます。

彼女の祖母が、絹枝と同じ女学校の1年後輩だった事で、女は、小さい頃から、絹枝の話を聞きながら大きくなります。

その時、祖母から聞いていた絹枝の言葉は
「今は、こんなだけど、やがていつか、スポーツで女子選手が活躍する日が来る」
という言葉でした。

やがて、絹枝と同じ陸上選手の道を歩み始めた彼女・・・

訪れた平成四年(1992年)・・・バルセロナで開催されたオリンピックで、彼女は絹枝以来、64年ぶりの女子陸上競技での銀メダリストとなります。

それは、絹枝が銀メダルを取ってから64年後、亡くなってから61年後の平成四年(1992年)8月2日の事でした。

皆さんご存じ、マラソンの有森裕子さんです。

もちろん、バルセロナから帰国した有森さんは、真っ先に、絹枝の墓前に報告・・・その胸に輝く銀メダルは、陸上競技で女子選手が活躍する時代が来た事を象徴する物でした。
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2012年8月 1日 (水)

大陸に渡った奝然と釈迦如来像と清涼寺と…

 

永観元年(983年)8月1日、東大寺の僧・奝然が、宋に向け、中国船にて出港しました。

・・・・・・・・・

渡来系の氏族・秦氏の出身とされる東大寺の僧奝然(ちょうねん)は、近江(滋賀県)石山寺にて真言密教を学びました。

早くから、仏教の聖地=中国に渡って聖地を巡礼し、本場の仏教を日本に持ち帰りたいという夢がありましたが、当時は、あの菅原道真遣唐使を白紙(894年)に戻して(9月14日参照>>)以来、約100年ほど、日本から中国に赴く事が無かった時代でした。

ようやく夢が叶ったのは、40代も半ばを過ぎた頃・・・しかし、それこそ、夢が叶うのに、早いも遅いもありません。

永観元年(983年)8月1日、奝然は意気揚々と中国商船に乗り込み、一路、宋(中国)を目指したのです。

一方、彼を迎える中国側も、ほぼ、100年ぶりの日本からの訪問者という事で、彼を大歓迎・・・

なんと、北宋の第2代皇帝・太宗(たいそう)に謁見する事もできました。

この時、日本という国に興味津々の太宗に・・・
「日本は、代々、血のつながった国王(天皇)が統治をし、家臣たちも世襲制で、それに従っています」
奝然が、日本の事を紹介すると、太宗は、いたく感激し、

日本は、島国の夷(えびす)やと思てたけれど、国王が代々世襲するなんて、古の理想的な形やないかい・・・せやのに、我が国は、唐の昔から分裂ばかりを繰り返して、大臣や名家も短命に終わってしもてる」
と嘆きながらも
「私は、古の王に劣るかも知れんけど、これからも徳を積んで政治に励み、後々まで、朽ちる事の無い世を造りたい」
と言ったのだとか・・・

その後、奝然は、五台山天台山などの聖地を巡りつつ3年間の修行を終えた後、無事に帰国・・・その時、かつての遣唐使がそうしたように、彼もまた、沢山の仏典や仏像を持ち帰って来ています。

その中の一つが、現在、京都嵯峨野清涼寺のご本尊となっている国宝釈迦如来像・・・

この清涼寺が、昔から「嵯峨釈迦堂」と呼ばれて庶民に親しまれているのも、この釈迦如来像が、超有名だからなのですが・・・では、なぜに、そこまでの信仰を集めたのか???

Seiryouzisyakazou650 実は、この釈迦如来像は、生身のお釈迦様をそのまま映したお姿だからなのです。

その昔、お釈迦様が、母の摩耶夫人(まやぶにん)に法を説くために忖利天(とうりてん=別世界の天)に昇った際、しばらくお釈迦様に会えない事を悲しんだ弟子たちの姿を見かねた優塡王(うでんのおう=紀元前6世紀頃のインドの王)の発案によって、現在の生きているお釈迦様ソックリの像を造らせたのです。

果たして、90日後に戻って来たお釈迦様は、その像を見て
「メッチャ似てるやん。。。私が死んだ後は、この像が、私に代わって、皆を救ってくれるに違いないわ!」
と言って、大変喜んだのだとか・・・

その像が、やがて、インドからヒマラヤを越えて中国へと渡り・・・

そう、この時、奝然が持ち帰った釈迦如来像は、そのお釈迦様の像を、そっくりそのまま、現地で模刻した物なのです。

確かに、高さ160cmの等身大の像は、日本の仏像には無い雰囲気を醸し出しています。

Seiryouzigozoumokei600 また、昭和二十八年(1953年)、この像の胎内から絹で造られた五臓六腑(ごぞうろっぷ=内臓の事…くわしくは1月10日のページ参照>>が発見されています。

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これは、奝然が、この像を模刻した際に5人の中国人尼僧によって手作りされて納められた物・・・そう、それこそ、生身のお釈迦様を映した像という事で、内臓も納められていたというワケです。

Dscn7243a1000 清涼寺…清涼寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「嵐山・嵯峨野」でどうぞ>>

残念ながら、奝然自身は、その釈迦如来像を納めるべく建立するはずだった清涼寺の完成を見る事なく、長和五年(1016年)に79歳でこの世を去りますが、

その思いは弟子によって受け継がれ、さらに、お堂が完成した後には、1000年に渡って「釈迦堂」と親しまれるのですから、おそらく、奝然さんも、空の上で、喜んでおられる事でしょう。
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