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2012年8月23日 (木)

山本(新島)八重の会津戦争

 

慶応四年(1868年)8月23日、会津戦争において、新政府軍が戸ノ口原から会津若松城へと迫る中、男装した山本八重が城内へ入りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(3月14日参照>>)を経て、さらに北へ・・・

会津が舞台となった会津戦争と呼ばれる一連の戦いの中で、最後の戦いとなる城下での戦いが開始されたのが、今日、8月23日なのですが、これまでの経緯やその様子については、2010年に書かせていただいた【会津戦争~会津若松城下の戦い】>>のページでご覧いただくとして・・・

本日は、この日に会津若松鶴ヶ城へと入城した山本八重さんを中心に籠城戦のお話を進めさせていただきますが・・・

すでにご存じの方も多かろうと思いますが、この山本八重(後の新島八重)さん・・・来年の「大河ドラマ」の主役で、このブログでも、すでに、そのご命日に、彼女の生涯をサラッと書かせていただいていておりますので、よろしければ、ソチラ=【「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重】のページ>>もあわせてご覧いただければ幸いです。

・‥…━━━☆・‥…

慶応四年(1868年)8月23日、おそらくは、平和な日々なら、女たちが「あさげ」の仕度に忙しい時間帯・・・城下に響き渡るように早鐘が打ち鳴らされます。

この何日か前に、会津藩首脳たちは
「敵が迫ったら早鐘を打ち鳴らすので、それを合図に城へ走れ」
との通達を、城下の武家屋敷に住む婦女子に出していたのです。

これまでの会津戦争関連のページで書かせていただいていますように、新政府軍がここ会津城下に至るまでには複数の戦いがあり、すでに多くの会津兵士が、その戦いに駆り出されていたわけで、もはや城内を守るほとんどが少年兵と老人兵となってしまっている状況・・・

そのうえで籠城戦となるからには、婦女子の力を借りてでも何とか踏ん張り、城外で生き残った兵士や、新たなる救援部隊による外からの攻撃と合わせて、城下に入った新政府軍を迎え撃つ・・・この作戦が、最後の頼みでした。

こうして、打ち鳴らされた早鐘とともに、城に急ぐ婦女子たちの多くは、一世一代の晴れ着に身を包み、小脇に薙刀(なぎなた)を抱えての入城・・・

しかし、以前のページでも書かせていただいたように、一方では、年老いたり、あるいは戦う体力が無いなどで、もはや、入城するのはムリと判断した多くの女性たちが、決戦の足手まといにならないよう、自ら命を絶つという事もありました。

また、入城も自害もせずに、女戦士として戦った中野竹子娘子軍(じょうしぐん)(8月25日参照>>)という面々もいた中、会津若松城の西出丸近くに住んでいた会津藩砲術師範山本権八の娘=山本八重(八重子=後の新島八重)は、黒ラシャの筒袖服にダンブクロ(ズボン風の袴)という男物のいでたちに最新鋭の7連発スペンサー銃を抱えて、西出丸から城内に駆け込んだのです。

実は、コレ・・・先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟=三郎の形見の上下・・・彼女の中には、弟の仇を討つべく闘志の炎が、すでにメラメラと燃えていたのです。

父が砲術師範で兄が軍学者という家に生まれ育った八重は、幼い頃から砲術に慣れ親しんでいたうえに、13歳で4斗(72ℓ)の米俵を両手に下げて肩まで何度も上げ下げしたという怪力の持ち主で、近所の少年たちにも、銃の撃ち方を伝授するほどの腕前は、むしろ、「嫁の貰い手が無くなる」として、年頃になってからは、父から、銃を手に取る事を禁止されていたほどでした。

そんな彼女が、燃える闘魂を背負って入城・・・西出丸から本丸を経て、一路、北出丸へと走ります。

・・・というのも、この時、午前10時頃に甲賀町口を突破した新政府軍が、甲賀町通りを南に下り、怒涛の如く北出丸へ迫り、その堀端周辺に広く散らばっていたからです。

Aiduwakamatuzyouezu800 正保三年(1646年)に会津藩が幕府に提出した陸奥之内会津城絵図

実は、この会津若松城・・・本丸や二の丸三の丸のある中心部分とは堀で隔たれた、西に突き出た西出丸と北に突き出た北出丸が、それこそ、まるで鶴が羽根を広げたかのような(鶴ヶ城という呼び方は蒲生氏郷が名づけたようでうが語源は不明です)造りになっているのですが、西と北の出丸で、より重要な場所は北出丸・・・

それは、このお城が北からの脅威(伊達家)に備えて構築された城だからで、万が一、北から侵入した敵も、この北出丸でくい止めるべき役割を担っていたわけで、複雑な通路に進軍を阻まれた敵に、北と西から銃撃を加えて撃退する・・・という造りになっていて、別名=鏖丸(みなごろしまる)などという名前で呼ばれていたのです。

この形の会津若松城が構築されて以来、江戸時代を通じて戦火に遭う事はなく、ここで初めて、その作戦が展開された・・・つまり、ここまで怒涛の如く進んできた新政府軍が、複雑な構造に突入を阻まれ、堀の周辺に散らばって展開する形となっていたわけです。

そこに、7連発の銃をかかえた八重の登場です。

両者を阻む堀の幅は、意外に狭く、物を投げただけでも向こうに届きそうな距離だったと・・・そのために、入城を阻まれてそこに展開する新政府軍は、北出丸の櫓から放たれた銃弾によって、ここで多くの犠牲者を出してしまいます。

土佐の軍監・小笠原唯八(おがさわらただはち)など、名のある武人が、ここで命を落としていました。

後に、元会津藩家老の娘・山川捨松(やまかわすてまつ)と結婚する事になる薩摩砲隊の隊長・大山巌(いわお=当時は大山弥助)(2月18日参照>>)、ここで、銃弾が太ももを貫通する重傷を負っています。

混乱の中、誰が彼らを討ち取ったか?という記録が無いので、断定はできませんが、この時、北出丸にいたのは精度の低い火縄銃などを装備した老人兵が中心だった事、また、城内には、未だ組織化された鉄砲隊が存在しなかった事から、ここで、小笠原をはじめとする多くの新政府軍兵を討ち取ったのは、ただひとり7連発のスペンサー銃を装備した銃の名手=八重だったと考えられています。

故に、八重は、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれたりします。

その名にふさわしく、その後も縦横無尽に活躍する八重・・・時には、今日のように最前線で銃を撃ち、時には、ともに城に籠る城兵に銃の撃ち方を教え、また、婦女子たちに弾薬の製造を教えながら、八重の会津戦争は、約1ヶ月後の9月22日まで続く事になります。

*この後の流れ
8月29日…長命寺の戦い>>
9月8日…飯寺の戦い>>
9月14日…総攻撃開始>>
9月22日…若松城・開城>>
もどうぞo(_ _)o
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

元治元年(1864)夏、土佐東部、野根山中の岩佐関所に攘夷派清岡道之助以下二十三士が集結して、投獄された武市半平太の釈放を嘆願します。聞かれず阿波藩領に逃行しますが囚われます。やがて唐丸籠で安芸郡奉行所に送り返され、土佐藩大監察小笠原唯八の指揮下一言の弁明も聞かれず、全員奈半利川原で斬首されます。
その後土佐藩全体が薩摩長州に取り込まれていく過程で、脱藩郷士組の中心人物である中岡慎太郎は小笠原唯八と会ったとき、親しかった友たち(二十三士と慎太郎とは顔見知りの盟友の仲)の無念を一言は言ったのではないかと思います。処刑当日の唯七氏の日記の筆跡は相当乱れていた、と聞いています。
二十三士に遅れて、慎太郎は暗殺され、小笠原唯七は会津戦争で戦死する。会津戦争では多くの会津の人々が犠牲となっていく。歴史が激動して行った、と見るのでしょうか。

投稿: 植松樹美 | 2012年8月24日 (金) 10時27分

植松樹美さん、こんばんは~

幕末は、1藩士の思想に関わりなく、藩の方針によって様々な出来事が起こりましから…

投稿: 茶々 | 2012年8月24日 (金) 19時10分

大学OBなのもあって新島夫妻を尊敬しているのですが、綾瀬さんはミスキャストではないでしょうか。グラマーで可愛い声で男好きするタイプでは絶対にないですよね(笑)
なんだか子猫と虎くらいに違いがある気がします。
まあ映像作品ではある程度ルックスが求められるのは仕方ないですけど…。
それでも毎回観てしまうんだろうなあ。

投稿: ジョージ | 2012年8月25日 (土) 01時25分

ジョージさん、こんばんは~

私も…
個人的には、綾瀬さんは、同じ会津藩でも山川捨松さんのイメージです。

でも、抱くイメージは違えど、好きな女優さんなので、どんなドラマになるのか期待してます(* ̄ー ̄*)

投稿: 茶々 | 2012年8月25日 (土) 02時12分

コメントに返していただきありがとうございました。小笠原唯八氏の名前を後半2か所唯七と誤ってしまいました。ごめんください。
50歳代半ばに大阪に1年、1年の間隙後、京都に1年、住むことができました。在阪の休日には大阪城によく通いました。土曜昼のNHK番組にでるお姉さんではないですが、僕の庭のようなものだな、と思いたかったものです。山本八重氏の鶴ヶ城惜別のうたは哀しいですが、小生大阪城の小石も思い出に拾って記念にしております。

投稿: 植松樹美 | 2012年8月25日 (土) 07時54分

植松樹美さん、こんにちは~

時々書いてますが、私は、大阪城の近くで生まれ育ち、小中高&自宅で大阪城の四方を囲むように生活していましたので、大阪城には、とても思い入れがあります。

まぁ、子供の頃は、もっぱら犬の散歩での訪問でしたが…

投稿: 茶々 | 2012年8月25日 (土) 14時10分

ご無沙汰です。最近の暑さですっかり出不精です。
来年1月2日の新春時代劇は「白虎隊」になりました。こちらには山本八重は出るかな?大河ドラマとのコラボですね。

投稿: えびすこ | 2012年8月29日 (水) 14時46分

えびすこさん、こんにちは~

そうですか…白虎隊ですか。
白虎隊も人気ですね~

頻繁にドラマの題材となるのも、やはり、その人気による物なのでしょう。

投稿: 茶々 | 2012年8月29日 (水) 15時04分

山本八重が「幕末(会津)のジャンヌダルク」なら、大山巌と山川捨松は「幕末のロミオとジュリエット」みたいですね。さて山川捨松役は誰になるんでしょう?2人が無事に結婚できて末永く夫婦でいられたのは幸いです。

ところで昨年6月に「八重の桜」の制作が決まった際に、新島襄・八重夫妻の「戸籍上の末裔」と言う人や、2人の兄弟・姉妹の末裔の人が何らかのコメントを出したでしょうか?誰かが取材を受けていたと言う記憶がないです。
2人には実子がいないため襄の遺言で養子を取っていますが、戸籍上の曾孫・玄孫の代の人がいるとは思います。

投稿: えびすこ | 2012年8月30日 (木) 10時51分

えびすこさん、こんにちは~

今まで、歴史上の人物の末裔の方(タレントや有名人以外で…)が、ドラマの制作に当たってコメントを出される事って、よくあるのですか?

伊達政宗さん所は有名ですが、それ以外はあまり知らないもので…

投稿: 茶々 | 2012年8月30日 (木) 13時53分

どうでもいいことではありますが、当時の軍服を誰がどうやって仕立てていたのか気になります。
神戸に『カーネーション』に出てきたぱっち屋さんみたいな店があって男性の職人がミシンを踏んでいるのか、それとも兵士の家族の女性が手で縫うのか。
いずれにしても、かっこよくフィットする服ができると思えません。
当時の軍服は多くの場合和裁の技法で仕立てられていた、とかいった裏話、ありませんか?こんどそういう服を展示していそうな場所に行ってみようかと思います。
脱線してすみません。

投稿: りくにす | 2012年8月31日 (金) 22時19分

りくにすさん、こんにちは~

ペリーが来航して幕府や薩摩などが西洋式の軍隊を導入するので、それからは、全員おそろいの輸入の軍服になるのでしょうが、それまでは、写真等見る限りでは、個人でバラバラという感じがします。

写真にも西洋式の軍服の人と着物の人が混在して写ってますますし…

有名な土方歳三の写真の軍服は、すでに西洋式を導入していた幕府海軍の物ですね。

ただ、幕末の動乱の最初の頃は、軍人=武士のイメージが強いので、陣羽織など純和風のいでたちも多かったでしょう。
それだと呉服屋に仕立ててもらうのと家族が仕立てるのはケースバイケースなんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2012年9月 2日 (日) 10時53分

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