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2012年8月10日 (金)

石田三成・大垣城に着陣…関ヶ原直前の「ちょっといい話」×2

 

慶長五年(1600年)8月10日、関ヶ原の合戦において、西軍の石田三成が、大垣城主・伊藤盛正を説得・・・開城させて入城しました。

・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉亡き後に、五大老の筆頭として、事実上、豊臣家家臣のトップとなった徳川家康は、慶長五年(1600年)、上洛要請を拒否する会津上杉景勝(かげかつ)(4月1日参照>>)成敗すべく、大軍を率いて東へ向かっていましたが、その留守を狙って、石田三成(みつなり)挙兵を決意(7月11日参照>>)・・・伏見城に攻撃を仕掛けます(7月19日参照>>)

この、「三成挙兵」の一報を聞いた家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にで軍議を開いてUターン宣言・・・即座に西へと向きを変えた東軍の先発隊は、まもなく岡崎城へと到着しようとしていました(8月11日参照>>)

一方、攻撃を仕掛けていた伏見城を8月1日に落城させた(8月1日参照>>)三成ら西軍・・・

落城とともに自刃した城将=鳥居元忠(とりいもとただ)の首は、まもなく大坂に運ばれますが、無双の忠死を遂げた名将として、三成は、この首に礼を尽くして、高御台に据えて、大坂城の京橋口に晒したと言います。

『鳥居家中興譜』によれば・・・
この事を伝え聞いた、元忠恩顧の京都の商人=佐野四郎右衛門此由(これよし)なる人物が、急いで大坂に行き、警備の目を盗んで元忠の首を盗み出し、夜を徹して京都へ舞い戻って、寺にて供養した後、密かに埋葬・・・

しかし、ほどなく、首が盗まれた事は公になり、「誰が盗んだのか?」という探索が始まると、此由は、覚悟を決めて、自ら三成のもとへ出頭しますが、三成は、その忠義の勇気に免じて、此由を許し、お咎め無しとしたという事です。

そんなこんなの8月9日・・・三成は、3000ばかりの兵を率いて、美濃(岐阜県)垂井(たるい)に到着します。

しかし、井には、軍が宿泊できるような城もなく・・・そこで、三成は、西軍に与する事を表明している大垣城主の伊藤盛正付きの老臣・伊藤頼母(たのも)を説き伏せて大垣城を開城させ、慶長五年(1600年)8月10日大垣城に着陣しました。

Oogakisekigahara900 大垣城に拠る西軍「関ヶ原合戦図屏風:部分」(大阪歴史博物館蔵)

すでに、大谷吉継(よしつぐ)北陸方面の攻略にあたる(7月14日参照>>)中、三成は、一部の軍を、田辺城(7月21日参照>>)美濃安濃津(あのつ)(8月25日参照>>)松阪城へと派遣します。

また、ここらあたりで、宇喜多秀家(うきたひでいえ)長束正(なつかまさいえ)美濃&尾張方面へ進出・・・総大将の毛利輝元(てるもと)と、増田長盛(ましたながもり)豊臣秀頼補佐して大坂城に居るという、西軍の大まかな態勢が整います。

この雰囲気を見ると、西軍側は、もう、この時点で、「関ヶ原付近が東軍との決戦城になるだろう」との考えがあったのかも知れません。

そんな中、三成は、高橋修理なる西美濃の武将を、「是非とも味方につけておきたい」と思い、同じ西美濃出身の広瀬兵庫助(ひょうごのすけ)という武将に、いくらかの金銭を持たせて、修理のもとに向かわせました。

もともと、高橋家との交流があった事もあり、修理は、兵庫助を歓迎し、屋敷の仲へと招き入れて、数時間に渡って、話し合いが行われました。

「もう、知ってるやろ?
戦いになりそうやねやんか・・・
せやから、君とこの鉄砲の名手なんぞ引き連れて、西軍として参加してくれんやろか?
勝利のあかつきには、“美濃半分を差しあげる”って三成はんが言うてんねん。
美濃半分やで!」

と、切り出す兵庫助・・・

しかし、修理は
「君も知ってるやろけど、ウチは、室町頃から、この土地に根づいて、細々とやっとる。
実は、秀吉さんの時にも、俺ら、声かけられてんねんけど、ウチには“今以上の物を望むな”っていう、先祖代々の家訓があったから断わってん。

大金も魅力的やし、美濃半分なんか、欲し無いっちゅーたらウソになるけど、家訓に背いたらどんな天罰が待ってるやも知れんし、身分不相応に裕福になっても、ええ事は無い気がすんねん
と、断わります。

「せやけど、ここで断ったら、君らが徳川に通じてんのちゃうか?と疑われて、お前らはもちろん、領民かて殺されるかわからんゾ」
と兵庫助は喰い下がります。

すると
「いや、敵対したら攻撃されるかも知れんけど、敵対せ^へんかったら、攻撃は無いやろ?
俺ら、中立やねん・・・天下を治めるようなスゴイ人物に、今の領地の安堵を認めてもろて中立を貫きたいさかいに、はよ帰って、三成さんに、その事、伝えといてぇや・・・頼むで!」

と言って、兵庫助を返したのだとか・・・

この逸話は、『石卵余史(せきらんよし)という史料に登場するお話ですが、関ヶ原のような天下分け目の戦いで、中立を保つ事が、本当にできたのかどうか???

そこンところは、微妙ですが、確かに、修理さん、ウマイ事言います。

この言い方で、断わられると、何となく、彼の領地を攻め難いです・・・返事を聞いた三成からすれば、もし、そこを攻撃したら、自分が天下を治めるような器を持ってない人間だと、自分で言ってるみたいに見えますからね~

さぁ、関ヶ原まで、あと1ヶ月と5日・・・いよいよ、緊迫の度合いが高まります。

関ヶ原関連のお話は、【関ヶ原の合戦の年表】で「どうぞ>>
 .

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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

鳥居さんの壮絶な最期については、養源院でお話を聞いたりしてチョコっと知ってるつもりでしたが、こういう後日談があったのですね。

それにしても、三成さんの男気に感激。こんなイイ話が残っているのにも嬉しくなりました。

投稿: 千 | 2012年8月13日 (月) 10時20分

千さん、こんにちは~

ホントですね~
三成さんは杓子定規で、皆から嫌われていたという話が目立ちますが、私としては「そんな事は無い」と思います。

なかなかイイ男っぷりです。

投稿: 茶々 | 2012年8月13日 (月) 12時38分

こんにちわ、茶々様。

鳥居元忠さん・・・カッコ良すぎますね
(゚▽゚*)
『三河武士の鑑』と称賛されるだけあって、彼を慕った領民も佐野四郎右衛門此由を始め、多かったんだろうと思います。

良い話ですねぇぇぇ(ρ_;)

ところでいつも質問ばかりして申し訳ないんですが・・・・

なぜ三成は関ヶ原で決戦を望んだのでしょうか???
(北陸で上杉が頑張っている間に各支城で籠城戦も展開できたりだとか、いろんな選択肢があったと思いますが・・・)


この事も歴史上での謎の一つだと言われていますが、どうお考えですか?

投稿: DAI | 2012年8月13日 (月) 13時41分

DAIさん、こんにちは~

>なぜ三成は関ヶ原で決戦を望んだのでしょうか???

う~~ん(;;;´Д`)ゝ難しいですね~
一説には、14日に大垣城から、家康の馬印が見えた事に、「家康は、まだ来ない」と思っていた三成が非常に驚いた…なんて話もありますが、それだと準備万端というよりは、どちらかと言うと遭遇戦のような雰囲気もしますが、ご存じの通り、結果的に裏切りや寝返り組が出て敗北する関ヶ原ですが、布陣だけを見れば、誰が見ても西軍の勝ちだったわけで、やはり、個人的には、「関ヶ原で勝てる」と三成が思って、そこを選んだのではないか?と思います。
あれほどの大軍がぶつかれる場所も、そうそうありませんしね。

歴史家の方の中には、「三成の敗因は関ヶ原にて決戦した事ではなく、そこで負けた時の次の作戦をしっかりと構築していなかった事だ」とおっしゃる方もいますね。

つまり、その9月15日に、関ヶ原で負けても、DAIさんのおっしゃるように、各支城での籠城戦へ移行するなどの作戦が徹底していれば、ひょっとしたら合戦が長引いて、結果的に勝ってかも知れないと…

本来、合戦という物は何日or何ヶ月にも渡るのが普通ですから、私としては関ヶ原での決戦を望んだ事よりも、わずか半日で、そのすべてが終わってしまった事のほうが重要な事のような気がします。

投稿: 茶々 | 2012年8月13日 (月) 17時43分

回答 ありがとうございます
o(_ _)oペコッ

>、「関ヶ原で勝てる」と三成が思って、そこを選んだのではないか?

そうですね。
これに尽きますね。

いつかは忘れましたがTV番組である外国の軍人さんが関ヶ原の配置を見て『これは西軍のかちだ!負ける訳がない』みたいなことを言ってました。

三成の中でも負ける訳がないと思っていたのでしょう。

腑に落ちました。

今日も茶々様に感謝です。

投稿: DAI | 2012年8月14日 (火) 12時58分

DAIさん、こんばんは~

私たち後世の人間は、すでに結果を知ってしまっているぶん、どうしても、結果が先にチラついて、武将たちの「その時」の心を読み取るのが難しいですね~

まぁ、そこも歴史のオモシロイところなんですが…

投稿: 茶々 | 2012年8月15日 (水) 02時23分

【「本能寺の変」と「関ヶ原の戦い」と広瀬兵庫助】

【広瀬兵庫助と関ヶ原の戦い】関ヶ原の戦い前の話、石田三成は兵庫助に当面の支度金(買収金)として慶長小判100枚を預け、兵庫助の親族で美濃国日坂村の郷士・高橋修理の説得を依頼しました。修理は「百姓を天職とするので先祖の家訓には逆らえない」と再三の誘いを強く断ったといわれます。

【ほのぼの】2015.4.28投稿
広瀬兵庫助の末裔です。
 趣味で、広瀬兵庫助一族に関する研究成果を公開しています。
【広瀬兵庫助 研究所】
ところ:愛知県春日井市石尾台

投稿: 【ほのぼの】 | 2015年4月28日 (火) 19時33分

【ほのぼの】さん、こんばんは~

本文にも書かせていただいた通り、ご紹介させていただいたのは『石卵余史』に残るお話です。

投稿: 茶々 | 2015年4月29日 (水) 02時11分

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