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2012年8月27日 (月)

笠置山「楠の夢告」~後醍醐天皇と楠木正成

 

元弘元年(1331年)8月27日、後醍醐天皇が宮中を脱出して笠置山に移り、笠置寺の本堂を皇居としまた。

・・・・・・・・・・

承久三年(1221年)に、第82代の天皇であった後鳥羽上皇承久の乱(5月14日参照>>)に失敗した事で天皇の力は弱まり、その後の政治は、鎌倉幕府の実権を握る北条氏の得宗(とくそう=北条氏嫡流の当主)の独擅場となりました。

一方、その天皇家の方は、第89代後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)と、その弟で第90代亀山天皇の系統である大覚寺統(だいかくじとう)が、皇位継承をめぐって綱引きする中、幕府の仲介によって、大覚寺統の第91代後宇多天皇が、持明院統の第92代の伏見天皇に皇位を譲り、その後は、持明院統と大覚寺統から交代々々で天皇につく両党迭立(りょうとうてつりつ)の約束が守られる事になりました。
(両者の関係がややこしければ9月3日のページ>>の系図を参照してください)

そんな中で、文保二年(1318年)に順番が回って来たのが、大覚寺統の第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

ただ、これは、本来なら、後醍醐天皇の兄である第94代後二条天皇の皇子・邦良(くによし・くになが)親王が皇位につくべきだったのですが、邦良親王が未だ幼かったために、成人するまでの10年間という期限つきのピンチヒッターでの即位・・・

なので、後醍醐天皇の父である後宇多法皇の強い推しで、後醍醐天皇の皇太子には、その邦良親王が立ちました。

・・・とは言え、ピンチヒッターでも天皇は天皇・・・いや、むしろ、このピンチヒッターだった後醍醐天皇は、自らが、バリバリと政治を行いたいタイプの天皇だったわけで・・・

この頃の天皇は、天皇として存在はするものの、政治の実権は天皇の父・・・という院政が敷かれていましたが、後醍醐天皇は、その院政を即位から4年目にして中止し、自ら政治を行う親政に切り替え、それこそバリバリやりはじめます。

そんなこんなの正中元年(1324年)、後醍醐天皇の父=後宇多法皇が亡くなります。

・・・と、ここで不安になったのが邦良親王・・・
「自分を推してくれたお祖父ちゃんが亡くなった中で、バリバリ天皇の叔父さんは、ホンマに、この次に僕に皇位を譲ってくれるんやろか?」

・・・で、すでに成人していた邦良親王は、幕府に践祚(せんそ=皇位を継ぐ事)を打診します。

「アカン!このままやったら甥っ子が、次期天皇になってまう~!」
と、思った後醍醐天皇・・・

ここで、起こしたのが正中の変(9月19日参照>>)です。

しかし、事が事前に発覚して失敗・・・何とか、後醍醐天皇は難を逃れましたが、仲間は処分されてしまいました。

しかも、当然の事ながら、幕府は後醍醐天皇に退位を迫り、ライバルである持明院統にも協力を要請・・・しかし、コチラも当然の事ながら、
「絶対いやや!」
と、譲位を拒み続ける後醍醐天皇・・・

そんなこんなの嘉暦元年(1326年)、なんと邦良親王が27歳の若さで亡くなってしまいます。

コレ幸いと自分の息子を皇太子にしようとする後醍醐天皇ですが、さすがの幕府は猛反対・・・やむなく、後醍醐天皇は両党迭立の約束に従い、幕府の推す持明院統の量仁(かずひと)親王(後伏見天皇の皇子=後の光厳天皇)を皇太子に立てました。

とは言え、この幕府の介入によって、ますます、討幕の意思を固める後醍醐天皇・・・しかし、悲しいかな、天皇には、幕府に刃向かうだけの武力がありません。

そこで、奈良の東大寺興福寺、京都の比叡山延暦寺などの寺社勢力を味方につけようと、度々寺院を訪れたり、息子の尊雲(そんうん)法親王(後の護良親王)を比叡山に送り込んだり・・・もちろん、比叡山に入った尊雲法親王は、僧兵たちを引き連れて軍事訓練を開始・・・

しかし、そんな天皇側の動きは、当然、幕府にも知れるわけで・・・

密かにくみした仲間が、逮捕されたり蟄居(ちっきょ=謹慎)させられたりする中、元弘元年(1331年)の8月22日・・・鎌倉から、何かを携えた使者が上洛して来ます。

噂によれば、後醍醐天皇に流罪を、尊雲法親王を死刑に処するための使者だとか・・・

その話を耳にした後醍醐天皇は、24日の深夜・・・とるものもとりあえず、三種の神器を手に、宮中を脱出したのでした。

一旦は奈良に逃亡したものの、そこで支援を得られなかった後醍醐天皇が、和泉の鷲峯山(じゅぶざん=京都府相楽郡)を経て、山城(京都府南東部)と奈良の県境となる笠置山に入ったのは、元弘元年(1331年)8月27日の事でした。

山の南麓にある笠置寺の本堂を皇居とし、周辺の土豪(どごう=地元に根付いた半士半農の武士)や野伏(のぶせり=野武士)たちに応援を呼び掛けます。

そんなある日、うたた寝していた後醍醐天皇が夢を見ます。

「大きな常磐木(ときわぎ)の下に南向きに玉座が設けられた場所に、二人の男児が現われ、涙ながらに、しばらく、ここに留まるように勧める」
という夢・・・

これは天のお告げだ!!と考えて、夢判断を行う天皇・・・

「木に南と書きたるは、楠といふ字なり。
其の陰
(かげ)に南に向かうて座せよと、二人の童子の教(そし)へつるは、朕(ちん)、再び南面(なんめん)の徳を治めて、天下の士を朝(てう)しめんずるところを、日光・月光の示されけるよ」 『太平記 巻三』

「木ヘンに南と書いて楠と読む・・・
その影に南に向いて座るっちゅー事は
(君主たるもの南面にして太陽に対すると言うので)・・・
楠という名の天下一の人材を臣下として、俺が再び君主となるっちゅー事を、日光菩薩と月光菩薩が教えてくれてるんや!」

との判断をした後醍醐天皇・・・

早速、笠置寺の僧・成就坊律師(じょうじゅぼうりっし)を呼んで、
「もしかして、このへんに楠っていう字のつく武士はおるか?」
と尋ねます。

すると
「この周辺にはいてませんが、河内の国の金剛山の西に、楠木正成(くすのきまさしげ)という武勇の誉れ高い者がおります。
母親が若い頃に信貴山の毘沙門天に百日詣をして授かった子やからと、幼名を多聞
(たもん=毘沙門天の別名)というらしいです」

「ビンゴ~~!!キタ━(゚∀゚)━!

こうして、後醍醐天皇からの招待を受けた正成は、武士の最高の栄誉を得たと喜び、密かに笠置山を訪れて、ご対面・・・

Taiheikimukoku800 太平記絵巻…正成の到着を天皇に伝える使者(吉野如意輪寺)

この先、その命賭けて後醍醐天皇に尽くす事になりますが、そのお話は、
9月28日の笠置山の戦い>>
さらに
10月21日の赤坂城の戦いでどうぞ>>

まぁ、史実としてはアレですが、「楠の夢告」の話は、物語としては非常にドラマチックです。
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コメント

はじめまして。
最近このブログを読ませて頂いています。とても読んでいて、面白いです。何だかややこしい事でも、すごく分かりやすいです。
この記事は楠木正成さんですね、私は四條畷に近いところに住んでいるので、よく耳にするのですが… 夢のお告げで。
とても詳しくて、ナルホドと思いました。ちなみに、ここのブログ主さんは日々様々な文献などをお読みになって、歴史を研究しているのですか?
お恥ずかしいながら、ブログ主さんのお名前が分からないので申し訳ないです?

投稿: 華 | 2012年8月27日 (月) 22時03分

↑の一番最後のに ? ってなってしまいました。なんか、文ががおかしなことにヽ(;▽;)ノ

投稿: 華 | 2012年8月27日 (月) 22時07分

華さん、こんばんは~

コメントありがとうございます。

このブログの管理人で、羽柴茶々というハンドルネームを名乗っております。

研究なんておこがましい単なる歴史好きで、日頃見聞きした事や思った事をブログに綴っております。

ブログを始めるキッカケを書いた「ごあいさつ」>>というページも設けていますので、よろしかったら見てください。

このブログは、「歴史を楽しくわかりやすく」をモットーとしておりますので、「わかりやすかった」と言っていただけると、大変ウレシイです。
今後ともよろしくお願いします。
また、遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2012年8月28日 (火) 00時19分

鎌倉幕府の執権は16代もいたんですね。傍流の北条守時(赤橋)尊氏の奥さんの兄。

投稿: やぶひび | 2012年8月28日 (火) 06時32分

やぶひびさん、こんにちは~

そうですね~
名ばかりで実質的には高時さんが実権を握ってましたが、厳密には、高時さんが最後の執権では無いですね。

投稿: 茶々 | 2012年8月28日 (火) 14時02分

この後醍醐帝といい、後白河法王もそうでしたが、ワンポイント・リリーフのはずの人がやたら頑張り、ついには、延長戦まで持ち込む。

とにかくパワフルです。このとてつもないエネルギー源は何なのか?少なくとも、草食系ではないですよね。

投稿: レッドバロン | 2012年8月28日 (火) 16時37分

レッドバロンさん、こんばんは~

確かに、キョーレツな肉食系ですね!

投稿: 茶々 | 2012年8月29日 (水) 01時21分

茶々さま。
いつも楽しく拝読しています。

仕事柄(観光バスのガイドをしています)、歴史の事に触れる機会が多いのに、理解が浅く広くになっていることを反省しながら、「なるほど、なるほど・・・。」と、読ませていただいています。

やっぱり歴史って面白いですね。
教科書では教えてくれない裏話が、人間物語というか、歴史って人の繋がりでできてるんだなぁと思います。

茶々さまのこのブログで読ませていただいたネタを織り交ぜてお仕事すると、お客様から「ガイドさん、よく勉強しているわね~」と褒めていただく事もしばしば・・。

茶々さまにお返しできるものが何にも無くって申し訳ないですが、これからも愛読者の一人としてブログ、応援しています^^。
これからもよろしくお願いします^^。

投稿: さとな。 | 2012年8月29日 (水) 09時18分

さとな。さん、こんにちは~

わぁ、バスガイドさんですか?
憧れます~

しかも、暖かいお言葉をいただいて…
励みになります。

また、遊びに来てくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2012年8月29日 (水) 14時59分

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