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2012年8月 5日 (日)

源平に芽生えた友情…平忠常の乱と源頼信

 

長元元年(1028年)8月5日、平忠常の乱の追討使に任命された平直方が、京都を出立しました。

・・・・・・・・・

その勃発の日=6月5日に書かせていただいた平忠常の乱です(6月5日参照>>)

事の発端&経緯に関してのくわしくは、そのページでご覧いただくとして・・・

とにかく、あの平将門(まさかど)(2月14日参照>>)従兄弟の息子にあたる平忠常(たいらのただつね)・・・

中央から地方へと派遣されて、何かと甘い汁を吸う国司に反発して立ちあがった忠常の姿は、まるで将門の再来のごとく受け止められながら、上総&下総にて展開されていた反乱は、いつしか安房(あわ=千葉県)へと進み長元元年(1028年)6月5日安房国府を襲撃して国司を殺害するまでに至りました。

とは言え、忠常の反乱は、あくまで、国司など、派遣されて来た地方官への反発であって、国家そのものへの反乱では無かったわけですが、朝廷の話し合いで、
「どうあっても忠常を討つべし!」
と、強く主張して、自らが追討使に任命された平直方(たいらのなおかた)の参戦によって、忠常の戦いは長引く事になります。

Kanmuheisikeizu_2 なんせ、忠常の一族は、その直方の一族と、かの将門の乱でも敵対した間柄で、領地の境界線においても、度々モメていたわけで・・・
(人間関係については、以前のページでupした【桓武平氏系図→】でご確認ください)

 .
忠常にとって、長年の宿敵が追討使になって参戦して来た以上、「負けたくない」と思うのは当然の事・・・

かくして、乱の勃発から2ヶ月経った長元元年(1028年)8月5日、平直方と、もう一人追討使に任命された中原成道は、約200騎の手勢とともに、京都を出発したのでした。

とは言え・・・実は、ヤル気満々の直方に対して、もう一人の成道のヤル気はまったく無し・・・もともと、成道は、あまり直方の事を快く思っていなかったので、二人コンビを組まされた時点で、本当は、ヤル気ゼロだったんです。

しかも、どうやら、朝廷も、この忠常追討に関しては、あまり重要視していなかった模様・・・なんせ、この追討使の二人は、朝廷の軍を率いるには、さほど身分も高くないし、手勢が200騎という少なさ・・

そもそも、先に書いたように、忠常も、「この反乱はあくまで、民衆を苦しめる国司に対する反乱であって、中央に反発する物では無い」事を明確にしていましたからね。

それこそ、人の心の内なんて物は記録に残りませんが、この状況を見る限り、おそらくは、直方以外は、ほとんど、ヤル気無い臭がプンプンしまくりの追討使派遣だったのです。

案の定、成道は、関東に向かう途中で、母親の病気を理由に美濃(岐阜県)に滞在したまま動こうとせず・・・結局、戦いには参加せずじまいで、途中で解任されています。

追討に向かった直方も、忠常らの激しい抵抗に遭い、まったく成果は出せず・・・ここらあたりのくわしい記録が無いので、合戦の詳細はわからないのですが、とにかく、ほとんど状況が変わらないまま、結局、3年の歳月が流れてしまいます。

あまりのグダグダ感に業を煮やした朝廷は、長元三年(1030年)9月、直方を京都に呼び戻しますが、なんと、この時、討伐どころか、未だ忠常の居場所さえ、直方は把握していなかったのだとか・・・

・・・で、直方は、その場で追討使をクビになり、代わって追討使に任命されたのが、以前、忠常に勝った経験がある源頼信(みなもとのよりのぶ)・・・

実は、最初に直方を追討使に任命する段階で、すでに頼信の名前も出ていたようなのですが、逆に、15年前の戦いで1度勝って、その時に、忠常が頼信の配下となっていた事が問題になり、追討使に選ばれなかったのです。

その時、戦いに勝った頼信と負けた忠常ではありましたが、その後、主従関係となった二人の関係が、なかなかに良かったらしく、今回、頼信を派遣しても、「情がからんで忠常を追い詰める事ができないんじゃないの?」てな意見が出てたくらい、両者の関係は良かったのです。

案の定、追討使となった頼信は、京都で僧となっていた忠常の息子を連れて関東に向かいます。

そう、追討では無く、説得に行ったんですね。

一方の忠常も、もはや心が通じていたのか、頼信が追討使としてやって来たと聞くやいなや、自身はすぐに出家し、息子2人と郎党を連れて、自ら頼信のもとに出頭するのです。

これも、以前のページに書かせていただきましたが、この時期、それぞれが独立した武士団を形成して地方に根づいていた平氏に対して、摂関家の支援を受けて中央での勢力を伸ばしていたのが源氏・・・

忠常から見て、頼信の兵力=中央の兵力という認識がある中で、はなから、中央に弓引く意思の無い忠常は、おそらく、頼信登場を聞いただけで、もはや戦う気持ちは無かった事でしょう。

また、この時、忠常は、すでに重い病気にかかっていたとも言われ、そういう意味でも、刀の納めどころを模索していたのかも知れません。

もちろん、忠常の出頭を受けた頼信も、自らが楯となって、彼らの行く末を見守る事を約束します。

こうして、3年以上に渡った乱は終結・・・反乱者となった忠常は、頼信の手で京都に護送される事になりますが、この時も、頼信は、病に冒された忠常を気遣って、かなりゆっくりなペースで京都に向かったと言われてします。

しかし、残念ながら、長元四年(1031年)の6月6日・・・京都に向かう途中の美濃野上にて、忠常は57歳の生涯を閉じました。

やむなく、頼信は、忠常の首をはねて京都に持ち帰りますが、本来、晒されるべきの反乱者の首なれど、晒し首はすぐに取りやめとなって、あくまで、本人の死亡確認だけをして、首は、間もなく遺族に返されています。

ここにも頼信の配慮がうかがえます。

しかも、息子たちも、いっさいお咎めなし・・・忠常の後を継いだ平常将(つねまさ)は、この後、頼信の家人となって働きます。

こうして、この乱の平定により、関東の平氏の多くが、頼信の配下に入る事になります。

さらに、途中でクビになったとは言え、忠常亡き後は関東平氏の頂点に立つ立場となっていた直方が、今回の頼信の息子の頼義(よりよし)娘を嫁がせて、頼信の傘下に入った事から、よりいっそう、清和源氏が関東で勢力を広げる事となったのです。

Seiwagenzikeizu クリックすると大きくなります

ちなみに、今回の頼信さん・・・何となく、器のデカイ英雄の雰囲気を醸し出していますが・・・

実は、彼のお兄さんが、大江山酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)で有名な源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)・・・孫が、源氏1番の武勇と言われる八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(9月17日参照>>)・・・やはり、スゴイDNA!

ひょっとして頼信さんがいなかったら、源頼朝が伊豆で挙兵する事も、鎌倉に幕府を開く事も無かったかも・・・ですね!

なんせ、先の【桓武平氏の系図】を見てお解りのように、挙兵した頼朝の配下の多くは、この時に傘下となった平氏ですから・・・
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コメント

義家も優しい人ですよね。もしかしてDNA!。

投稿: 6幡太郎 | 2012年8月 9日 (木) 12時22分

つづけますが貞盛(将門の乱に出てきます。)の子供で直方の兄弟?のコレヒラは、忠常側についています。敵味方に別れた兄弟?の話も機会があれば出してください!。

投稿: 6幡太郎 | 2012年8月 9日 (木) 12時35分

6幡太郎さん、こんばんは~

そうですね。
ご紹介するたmには、まず、史料を探さねば(^-^;
この時代は、なかなかに難しいので、少々のお待ちを…

投稿: 茶々 | 2012年8月 9日 (木) 19時30分

茶々さん、こんにちは。源頼信はどうして平忠常の子供たちをかばったんでしょう?家来だからでしょうか?平忠常の子供たちをなにか価値的なものとしてみていなかったんでしょうか?

投稿: しの | 2013年1月10日 (木) 01時08分

しのさん、こんにちは~

そうですね~
その心境となると、想像するしかありませんが、
あくまで、平忠常の敵が国司であったという事でしょう。
乱が大きくなって、結局は朝廷が追討使を出し、それに源頼信が任命されただけで、ひょっしたら、頼信自身も、国司の横暴さが目に余っていたのかも知れません。
「乱を起こす気もワカランではない」みたいな?

投稿: 茶々 | 2013年1月10日 (木) 15時24分

手元にある本によりますと、平忠常の乱によって上総国の公定田数が2万2980町から、たった18町!にまで激減したと記載されています。
乱から3年後の時点でも、1200町が復活できたに過ぎなかったとのことです。
とんでもない大乱だったのですね…。

こんな状態で忠常さんも戦いの意義を失ってしまったのではないでしょうか…。

毎日の暑さだけで、気力、体力がなえてしまいます。茶々様も健康にお気をつけください。

投稿: とらぬ狸 | 2015年8月 6日 (木) 20時20分

とらぬ狸さん、こんばんは~

>こんな状態で忠常さんも…

そうですね。
もともとは庶民の事を思っての反乱ですからね。

お気づかいありがとうございます。
明日8月8日は立秋…暑さも、今がピークかも知れません。
とらぬ狸さんも、残暑に負けぬようご自愛くださいませ。

投稿: 茶々 | 2015年8月 7日 (金) 01時26分

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