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2012年8月20日 (月)

飛騨松倉城の人柱伝説

 

天正十三年(1585年)8月20日、金森長近父子が飛騨松倉城を攻略しました。

・・・・・・・・・・

藤原北家の公家の流れを汲む姉小路家の名跡を継承する姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱)が、飛騨の国司として、現在の高山市の西南に位置する松倉山に、その本拠となる飛騨松倉城を築いたのは天正七年(1579年)の事でした。

現在、日本国内に現存する城郭(城跡含む)の中で、この松倉城は最も標高が高い位置にあり、それだけでも、天然の要害として難攻不落の城だったであろうと言われます。

戦国時代、頭角を現して来た織田信長と組んだ頼綱は、信長の死後は、羽柴(後の豊臣)秀吉と対立する柴田勝家につきました。

勝家亡き後も、越中富山の佐々成政(さっさなりまさ)とともに、秀吉に対抗していた頼綱でしたが、織田信雄のぶお・のぶかつ)徳川家康との小牧長久手の戦いを終えた秀吉が、その戦いで敵対した者への報復とばかりに北陸に進攻し、滅亡の憂き目に遭います。

この時、秀吉は、自らの本隊が成政の富山城を囲む(8月6日参照>>)一方で、信長の死後に秀吉側についた武将・金森長近(かなもりながちか)松倉城の攻略を命じたのです。

成政の富山城もそうですが、いくら堅固な城を言えど、かの小牧長久手で家康を黙らせ、その戦いで敵対した紀州を征(3月21日参照>>)して四国も手に入れて(7月25日参照>>)、さらに関白に就任しての秀吉の北陸進攻・・・しかも、すでに松倉城内には内通者もいた状況では、もはや、先は見えていました。

天正十三年(1585年)8月20日金森軍の攻撃により松倉城は落城し、頼綱は京都にて幽閉の身となり、以後、この松倉城は、この功績によって飛騨一国を賜った長近の管理下に置かれる事となりました。

Kanamorinagatika400 しかし、それから、わずか3年後の天正十六年(1588年)、長近が、以前の天神山城跡を利用して高山城を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

もちろん、以前、お話させていただいたように(4月6日参照>>)、この時期は、戦う城から治める城への転換期でもあり、長近は、高山築城と同時に、城下町の整備も手がけており、現在、小京都と呼ばれる美しい街並みの飛騨高山が誕生しはじめたのもこの頃ですから、ここで松倉城が廃城とされるのも、必然的な流れだったのかも知れませんが・・・

それにしても・・・
考えてみれば、築城から廃城まで、わずか10年に満たない松倉城・・・

実は、そこには悲しい物語も伝えられているのです。

それは、最初の城主=頼綱によって、せっせと松倉城の構築が進んでいた頃・・・

城下のある村に、母一人子一人、しかも、その母が病気を患っているという境遇の中、明るく生きる小糸(こいと)という少女がいました。

貧しい中、何とか母に栄養をつけさせようと、近くの草摘み場にセリを摘みに行くのが彼女の日課・・・その日も、いつものように、草摘みへと出かけました。

しかし、その日は夜になっても帰って来ない・・・彼女は、まだ10歳の少女ですから、心配になった母親は、ふらつく足取りで、何とか外へ出て、小糸の姿を探します。

「こいと~ こいと~」
と弱々しい声で呼びながら、何とか、いつも草摘みをしている場所までたどりつくと、そこには、家を出る時、小糸が持って出た竹籠が・・・半分ばかり、セリが入った状態で、無造作に放置されています。

人さらいか?神隠しか?
娘の身に、ただ事では無い何かが起こった事を感じる母・・・

しかし、翌日も、その翌日も・・・何日たっても小糸は戻って来ません。

母は、半狂乱になりながら、毎日、
「こいと~ こいと~」
と、フラフラの足取りで城下をい探し歩きます。

そんな母親の姿を見て、
「気の毒に…」
「可哀そうに…」

と思いながらも、どうする事もできない村人たち・・・

そう、実は、小糸が草摘みをしている最中に、数人の侍たちに囲まれて、拉致される現場を見ていた村人が何人かいたのです。

しかし、相手は城普請役の立派な家臣・・・そこで、何人かの村人が抵抗に入ったところで、何ともなるものではありません。

そう、難攻不落の山城は、その建てる場所も険しい山中なわけで、度々難所に工事を阻まれ、そこから先に進めない事があり、
「ならば、人柱を立てよ」
という城主の命令で、彼らは小糸を拉致し、連れていったのでした。

このブログでも、【彦根城の人柱伝説】>>【父は長柄の人柱】>>など・・・いくつか人柱伝説を書かせていただいてますが、人柱というのは、難工事がスムーズに進行するように、神様に捧げるいけにえの事・・・城の工事の場合は、中心柱のかたわらに純潔の娘を生きたまま埋めて神様にお供えし、永遠の神のご加護を願おうという物です。

もちろん、城主とて簡単にそうする物ではなく、あまりの難工事でいっこうに進まない、あるいは工事での犠牲者が大量に出てしまった時などに行う苦肉の策ではありましたが・・・

とにもかくにも、そんな村人の証言から、小糸が人柱にされた事を確信した母は、それ以降、朝も夕も築城工事が行われている周辺を、まるで魂が抜けたかのような状況で、
「こいと~ こいと~」
と、娘の名前を呼び続けながら徘徊し、やがて、母も息絶えたのです。

それからというもの、完成した松倉城の周辺では、どこからともなく、風の音にまじって、
「こいと~ こいと~」
という、娘を呼ぶ母の声が聞こえるようになるのです。

それを聞きつけた1人の猛者が、
「我こそは、その化け物を退治してくれる!」
とばかりに意気込んで、ある夜、城の周辺で一夜を明かしました。

ところが、翌朝、彼は、青白い顔でブルブル震えながら
「アカン!…あの声にはゾッとするような冷気が漂うてて、声を聞いた途端に、手足が凍りついたようになって、刀を抜く事さえできなんだ!」
と言って、そそくさと退散してしまったのです。

以後、母の悲しげな声は、永遠に消える事は無かったのだとか・・・

一説には、最初の城主=姉小路頼綱の姉小路家が滅びるのも、滅ぼした金森氏が、後に、いきなりの転封となって、ここ高山が徳川の直轄地となるのも、母子の崇りだなんて噂もあるらしい・・・

ひょっとして、築城から、わずか10年で廃城になってしまうのも・・・この噂のため???

とは言え、実際に飛騨高山の地が徳川の直轄地となったのは、金銀や木材などの高山の豊富な資源を、徳川家が独占したかったから=土地に人を寄せ付けないための噂?なんて現実的な話もあり、生きてる人間の欲のほうがよっぽど怖いって感じがしないでもありません。
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コメント

教えてください!飛騨地方の歴史を調べております。松倉城の人柱伝説は、国分寺三重の塔の小糸伝説と松倉城の話がごちゃ混ぜになった気がするのですが、出典はどちらですか?

投稿: せんだいも | 2014年3月 2日 (日) 11時50分

せんだいもさん、こんにちは~

あくまで伝説ですから、その出典は探り難い物と存じます。
なので、私も、今回の「松倉城の人柱伝説」は、文字通り伝説として、昔話的な感じで見聞きしたのみで、史料として残されているのかどうかは存じあげませんし、一方の「国分寺三重の塔の小糸伝説」というのは聞いた事が無かったです。

ただ、時系列で並べてみますと、本文にある通り、松倉城は天正十三年(1585年)以前にすでに築城されており(通説では天正七年=1579年築城)、金森長近が攻略した後に廃城となりますが、一方の飛騨国分寺の三重の塔の建立は元和元年(1615年)ですので、松倉城の方が先という事になります。

また、これまで見聞きして来た中では、城や橋などの建設には人柱伝説が多く残りますが、お寺の建立で人柱という話は、あまり聞いた事がありませんので、個人的には、松倉城の話の方が先かな?って思いますが、それは裏付けの無い(あくまで)予想です。

そもそも、伝説という物は、それが事実だったかどうかというのも怪しい物で、何かの教訓(この松倉城の場合だと、子供に一人で出歩かないよう注意するためとか、子を失った母の悲しみとか、人の恨みは怖いよとか)を教えるための創作である可能性もあり、それが、代々伝えられて来た背景を読みとる事も大切かと思います。

なにぶん、「国分寺三重の塔の小糸伝説」の方を知らない物で、ちゃんとした回答になってなくて申し訳ないですm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2014年3月 2日 (日) 17時18分

申し訳ございません。
ご返信下さっていたんですね。
今日、別件で調べ物していて、またこのサイトを拝見しました。一年以上前ですね。

国分寺の三重の塔の話は、奈良時代の話で、その時は七重の塔だったそうです。
その名前は、小糸ではなく八重菊という少女が大工棟梁の父親に殺されたというイチョウの伝説の話です。
私がごっちゃになっていました。すいません。こちらにあります。
http://i.4travel.jp/review/show/11664236

投稿: せんだいも | 2015年12月23日 (水) 00時40分

なお、下から12行目の金山氏→金森氏です。お知らせまで。

投稿: せんだいも | 2015年12月23日 (水) 00時42分

せんだいもさん、こんばんは~

アッほんとですね~全然気づいてませんでした。
ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2015年12月23日 (水) 02時30分

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