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2012年9月25日 (火)

九死に一生…井上聞多の「母の力」

 

元治元年(1864年)9月25日、長州藩での御前会議を終えた井上聞多が、反対派に襲撃され重傷を負いました。

・・・・・・・・・・

井上聞多(いのうえぶんた=志道聞多)・・・後の井上馨(かおる)さんですが、江藤新平(えとうしんぺい)がらみの汚職事件(4月13日の真ん中へん参照>>)と言い、鹿鳴館(ろくめいかん)の贅沢三昧(11月28日参照>>)と言い・・・なんとなく良い印象の無い人なのですが、それこそ、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに長州藩の一翼を担い、幕末の動乱を乗り越えて維新に貢献した1人でもありますし、維新後は、先の汚職事件で辞職した後も、また政府に呼び戻されるのですから、やはり、大した人なのでしょう。

Inouekaoru600 財閥と密接な関係を持ち、賄賂と利権で私腹を肥やしたという話がある一方で、友情に篤く、恩ある人から頼まれると断る事ができずに、後に悪評となる事を承知で引き受けた・・・なんて噂もあります。

仕事においても、テンションが長続きしないぶん、やるとなったら電光石火の早さで難問を一発で片づけるタイプだったとも言われます。

そんな井上聞多さん・・・若き頃は、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともに、イギリス公使館を焼き打ち(12月12日参照>>)するほどのガチガチの攘夷派(じょういは=外国を排除したい派)でした。

しかし、その事件の翌年の文久三年(1863年)に、伊藤博文(内閣の父)山尾庸三(やまおようぞう=工学の父)井上勝(いのうえまさる=鉄道の父)遠藤謹助(えんどうきんすけ=造幣の父)ら、後に聞多を含めて長州五傑(ちょうしゅうごけつ)と呼ばれる人たちとともにイギリスへ密航するのですが(ちなみに井上さんは「外交の父」と言われます)、その時に目の当たりにした外国の現状に驚愕・・・

「とてもじゃないが攘夷なんてできっこない・・・いや、攘夷より、早く開国して、外国の最先端を学ばなければ!!」
と、一発で開国派となって帰国・・・同じ思いを抱いた伊藤とともに、あの下関砲撃事件(5月11日参照>>)での和平交渉に尽力したと言います。

しかし、その翌年・・・政局が大きく動きます。

文久三年(1863年)8月18日・・・当時、尊王攘夷派の中心だった長州藩が、公武合体(朝廷と幕府が協力)で幕府と仲良くなった派に牛耳られた朝廷から、その名も八月十八日の政変(8月18日参照>>)で除外され、

その翌年の元治元年(1864年)6月5日には水面下で行動する藩士が池田屋騒動(6月5日参照>>)で倒れ・・・

この朝廷と幕府の仕打ちに、白黒つけるために武装して大挙京都へ押し寄せた事で禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)となり、長州藩は朝敵(国家の敵)となってしまい、孝明天皇からも「長州討伐」の命令まで出てしまうのです。

このままでは、国家を相手に一長州藩が戦う事になるわけで・・・当然の事ながら、この先、
「これまでの姿勢を貫いて、幕府の行う長州征伐を受けて立つのか」
「とにかく平謝りで幕府への恭順姿勢を見せて長州征伐を回避するのか」
藩内の意見が真っ二つに分かれる事になるわけですが・・・

かくして元治元年(1864年)9月25日藩主出席のもと行われた御前会議で、聞多は、幕府恭順派相手に一歩も退く事無く激論を交わし、相手を言い負かした末、聞多が主張する「幕府と抗戦」に決定して、会議を終了させたのです。

その夜の事・・・
帰宅途中の聞多は、3人の刺客に襲われます

ちなみに、この刺客を放ったのは椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)だとされていますが・・・

深手を負い、大量の出血・・・

意識もうろうとしながらも、近くの農夫によって発見され、自宅に運ばれますが、当然、虫の息・・・

もはや、しゃべる事もできない中、わずかに意識の残る聞多は手招きして、兄に介錯を頼みます。

そう
「いっその事、ひと思いに首を落としてくれ」
と・・・

兄の胸中も複雑ですが、弟の苦痛にゆがむ姿を見るのもツライ・・・涙を流しながらも意を決した兄が、刀を振り上げた時!!

突然、そばにいた母親が、聞多の体に覆いかぶさり、
「斬るなら、この母、もろとも斬ってくだされ~~」
と言って、血まみれの息子の体を抱きしめたのです。

もちろん、この母の姿に、兄は、振り上げた刀を納めます。

すると、この母の思いが奇跡を呼んだのでしょうか・・・そこに、偶然、友人だった漢方医の所郁太郎(ところいくたろう)が駆けつけた事で、その命、助けるための手術が行われるのです。

結果的に、50針も縫う大手術・・・その後、数十日に渡る献身的な母の看護によって、彼は一命を取りとめたのです。

結局、その後の藩内は恭順派で占められる事になり、福原越後(ふくはらえちご)をはじめとする3家老の首を差し出す(11月12日参照>>)事で長州征伐を回避する方向に進むのですが・・・

果たして、この日からわずか3ヶ月後の12月16日・・・高杉が功山寺で挙兵(12月16日参照>>)し、再び、長州藩は尊王の先頭に立つ事となります。

その前に・・・
生きた聞多とは対照的に、この同じ夜に亡くなる周布政之助(すふまさのすけ)については明日=9月26日のページでどうぞ>>

ちなみに、今回の井上聞多のお話は、「母の力」という題名で戦前の国語の教科書に載っていた話だそうですが、なかなかに感動するお話ではありませんか?

本人ですら諦めても、母は息子を諦めない・・・母とは、そういうものです。。。
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コメント

「母の力」は、私の母の十八番です。なんど聞かされてきたことか^^;
あと、「稲むらの火」とか「鉢の木」とか。私も、子供に伝えています。(それなりに)

投稿: 真田丸 | 2012年9月25日 (火) 21時38分

真田丸さん、こんばんは~

>「母の力」は、私の母の十八番

おぉ、そうでしたか!
もちろん、「稲むらの火」も、いつか書かせていただきます~
いつかって、たぶん、アノ日ですが…

投稿: 茶々 | 2012年9月26日 (水) 02時19分

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