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2012年10月31日 (水)

アンケート企画:どの家臣団に入りたい?

 

さて、旧暦の無い31日の恒例となりつつあるアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが入ってみたい戦国家臣団は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

強調したいところは、あくまで『家臣団=団体』という事です。

「織田信長の家臣になりたい」
「上杉謙信の家臣になりたい」

という事だと、武将の人気投票みたくなってします。

それはそれで楽しいアンケートですが、それは、また別の機会にさせていただくとして・・・

今回は、「○○四天王」や「○○五人衆」なんて呼ばれる人たちの中に、自分も加わりたい!という感覚で選んでいただければウレシイです。

「四天王に、すでに4人いるのでムリ」というのは、今回ばかりは棚の上にあげて考えない事にします(笑)。。。9人いるのに七本槍って例もありますから・・・

また、基本、お楽しみのアンケートですので、実在か架空かの怪しい人たちも加えてみました。

それ以外にも、家臣のくくり具合についてなど、ご意見も多々あろうかと思いますが、独断と偏見を以って自分なりに選択肢を作ってみましたので、「この家臣団に加わりたい!」「この仲間になりたい!」と思う項目に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 上杉四天王
    あの上杉を支えたい!
    甘粕景持・直江景綱・宇佐美定満・柿崎景家…
    (参照ページ>>)
  2. 武田四天王
    信玄公のもとで…
    山県昌景・馬場信春・春日虎綱・内藤昌秀…
    (参照ページ>>)
  3. 織田四天王
    天下に向かってGO!
    柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀…(参照ページ>>)
  4. 三好三人衆
    信長に一矢報いたい!
    三好長逸・三好政康・石成友通…(参照ページ>>)
  5. 羽柴四天王
    天下人の苦労時代を支え…リアル太閤立志伝
    神子田正治・尾藤知宣・戸田勝隆・宮田光次…(参照ページ>>)
  6. 徳川四天王
    やっぱコレでしょ!
    酒井忠次・井伊直政・本多忠勝・榊原康政…(参照ページ>>)
  7. 龍造寺四天王
    5人が6人になっても気にしない!
    成松信勝・百武賢兼・木下正直・江里口信常・円城寺信胤…(参照ページ>>)
  8. 尼子十勇士
    架空の人物になら入れ換わりやすいかも…
    山中鹿介・薮原荊之介・五月早苗介・上田稲葉之介・尤道理之介・早川鮎之介・川岸柳之介・井筒女之介・阿波鳴戸之介・破骨障子之介(常山紀談バージョン)(参照ページ>>)
  9. 長宗我部三奉行
    蓋の開け閉めはおまかせ!
    久武親信・桑名弥次兵衛・中内源兵衛…(参照ページ>>)
  10. 最上四天王
    何が「愛」じゃ!「悪」の間違いちゃうんかい!直江君
    志村光安・鮭延秀綱・野辺沢満延・氏家守棟・楯岡満茂・里見民部…(参照ページ>>)
  11. 賤ヶ岳七本槍
    感状あれば10人でも11人でもOK!
    加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋助右衛門尉・片桐且元・石河兵助・桜井左吉…(参照ページ>>)
  12. 黒田八虎
    いつでも天下を狙えます!
    井上之房・栗山利安・黒田一成・黒田利高・黒田利則・黒田直之・後藤基次・母里友信…(参照ページ>>)
  13. 島津四兄弟
    兄弟ですが…仲間に入れて~
    島津義久・島津義弘・島津歳久・島津家久…(参照ページ>>)
  14. 真田十勇士
    架空の人物だらけですが…
    猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・穴山小介・由利鎌之助・筧十蔵・海野六郎・根津甚八・望月六郎(立川文庫バージョン)
  15. 豊臣四天王
    男の花道、咲かせます!
    木村重成・長宗我部盛親・後藤基次・真田幸村(信繁)(参照ページ>>)
  16. その他
    「やっぱ、ここでしょ」っていう家臣団がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

勝手ながら、このアンケートは11月14日に締め切りとさせていただきました。

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、11月17日のページでどうぞ>>
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2012年10月30日 (火)

周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王

 

嘉暦元年(1326年)10月30日、鎌倉幕府・第7代将軍となった惟康親王が、この世を去りました。

・・・・・・・・・

ご存じのように、源平の争いに勝利した、あの源頼朝(みなもとのよりとも)が開いた鎌倉幕府ですが、その頼朝の直系の将軍は、わずかに3代・・・

嫡男として2代めを継いだ源頼家(よりいえ)は、自らの手腕を奮う事もままならぬまま、御家人同志の権力のハザマで非業の死を遂げました(7月18日参照>>)

その後を継いで第3代将軍となった弟の源実朝(さねとも)は、亡き兄の遺児・公暁(くぎょう)(2013年1月27日参照>>)に暗殺されますが、これも、単なる「父を殺された個人的恨み」ではなく、周囲の御家人たちの権力争いに、実行犯の公暁が踊らされただけ・・・との見方があります(2009年1月27日参照>>)

とにもかくにも、ここで、頼朝の直系という血脈を失った鎌倉幕府は、執権として、事実上の全権を握る北条氏のもと、公家から名ばかりの征夷大将軍(宮将軍)を迎えて幕府を運営していくという方針を取ります。

本日の惟康親王(これやすしんのう)は、そんな中の、第7代・鎌倉幕府征夷大将軍です。

父で、第6代将軍だった宗尊親王(むねたかしんのう)が、将軍職を廃されて京都に送還された事を受けて、その嫡男であった惟康親王が、わずか3歳で第7代将軍となったのですが、当然の事ながら、惟康親王自身に「将軍になりたい」意思があったわけではなく、完全にお飾り目的の将軍です。

ところで、
「父の宗尊親王が、将軍職を廃されて京都に送還」って?
「どういう事?」
って、ひっかかりますよね?

実は、かの実朝が暗殺されて以来、幕府は、毎回、そんな感じの同じ事やってます。

実朝の死で源氏の直系=皇族から臣籍に降下した高貴な血筋を失った幕府は、何とか皇室につながる高貴なお方・・・つまり皇族から将軍を迎えようと画策しますが、あの後鳥羽(ごとば)上皇に拒否されたため、頼朝の妹(母は頼朝と同じ由良御前)の曾孫にあたる藤原頼経(ふじわらのよりつね)を、第4代将軍に迎え入れます。

この、頼朝の妹という人が一条能保(いちじょうよりやす)という貴族の奥さんとなり、そこに生まれた二人の娘が九条良経(くじょうよしつね)西園寺公経(さいおんじきんつね)とにそれぞれ嫁ぎ、その子供同志が結婚して生まれたのが藤原頼経さん・・・つまり、頼朝と同じ血脈が4分の1~8分の1くらいのチョコッとだけ流れている、ほとんど藤原氏の人という事ですが、この時点で、わずか2歳・・・

しかし、成長するにつれ、当然の事ながら「将軍の何たるか」を知る事なり、当然の事ながら幕府に介入するようになると、時の執権・北条経時(ほうじょうつねとき=4代執権:政子の弟の義時の曾孫)にとってはうっとぉしくてたまらないワケで、結局、なんだかんだの理由をつけて、27歳の時に将軍職を廃されて、頼経の嫡男である藤原頼嗣(よりつぐ)が、またまた、わずか6歳で第5代将軍に・・・

しかし、この頼嗣も14歳の時に、謀反事件に関与したとか言って将軍職を廃されて京都に送還され、代わりに第6代将軍となったのが、第88代・後嵯峨(ごさが)天皇の皇子であった宗尊親王・・・当時、11歳。

もともと、実朝亡き後に幕府が望んでいたけど断わられた皇族将軍が、やっとこさ誕生したわけですが、これには、当時、摂関家として最も力を持っていたのが九条家で、かの頼嗣さんの実家も九条家・・・将軍家と摂関家の両方を九条家が掌握する事に不信感を抱いた天皇家と北条家の両方の利害関係が一致して、皇族からの将軍の誕生となったわけです。

しかし、この宗尊親王も、25歳となった時に、奥さんが僧と不倫したのを口実に将軍職を廃され・・・ほんでもって、今回の惟康親王がわずか3歳で第7代将軍となったのですが・・・

と書けば、もう、お解りですね?
そう、
この惟康親王も、26歳となった正応二年(1289年)9月・・・北条氏が次期将軍に、第89代・後深草(ごふかくさ)天皇の皇子である久明親王(ひさあきしんのう)就任を望んだという理由で、将軍職を解任され、京都に戻されるのです。

まぁ、そこには、単に幕府が望んだという事以外にも、後嵯峨天皇と後深草天皇の微妙な関係があり(2月17日参照>>)、この確執が後々、あの南北朝の火種となる分裂があるのですが・・・(9月3日参照>>)

何か、ご本人の預かり知らぬところで、話が進んでしまった惟康親王の将軍解任劇・・・

この時、惟康親王の鎌倉追放の様子をたまたま目撃した後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう=後深草院に仕える女官)が、自らの日記『とはずがたり』に、その様子を書き記しています。

「さるほどに いくほどの日かずもへだたらぬに 鎌倉に事いでくべしとささやく…」ではじまる「惟康親王上洛」のくだり・・・

惟康親王がお住まいになっていた建物のそばに置かれていたのは、見るも粗末な張輿(はりごし=略式の輿)・・・そこに、お出になった親王を、丹後の二郎判官(二階堂行貞)なる者が輿に乗せようとすると、北条貞時(さだとき=9代執権)の使者だという平二郎左衛門(たいらのじろうざえもん=平頼綱の嫡男)なる武士がやって来て、
「反対!反対!」
と言って、輿の向きを逆さまにさせた(罪人は逆さまに乗せます)かと思うと、まだ、親王が、ちゃんと輿に乗ってもおられない時点で、小者の武士が土足のまま御殿に上がり、次から次へと簾(すだれ)をひっぺがしはじめ、その様子は「目も当てられなかった」と・・・

しかも、出発予定の日は、大変な悪天候でしたが、「予定変更はしない!」として、そのまま暴風雨の中、真夜中の午前2時に出立された親王の目には、ひとしずくの涙が・・・

なんだか、大変、お気の毒です。。。

周囲に翻弄された惟康親王は、京都に戻ってまもなく出家・・・その後は、嵯峨にて隠遁生活を送られ、嘉暦元年(1326年)10月30日63歳の生涯を閉じられたという事ですが、晩年の事を記した記録がほとんど残らず(安中氏が子孫を自称してはいますが…)、果たして、心安らかに過ごされたのかどうか・・・

その後の親王が心配です・・・
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2012年10月29日 (月)

武田信玄の伊那進攻

 

天文十三年(1544年)10月29日、武田方の先鋒・武田信繁伊那荒神山砦を包囲しました。

・・・・・・・・・・・・

天文十年(1541年)、とにもかくにも父・信虎(のぶとら)を追いやって(6月14日参照>>)甲斐(かい・山梨県)一国の当主となった武田信玄・・・(当時の名乗りは晴信ですが、本日は信玄で通させていただきます)

その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父・信虎が手をつけらながらも達成する事ができなかった信濃(長野県)攻略へと駒を勧め、諏訪一族の1人・高遠頼継(たかとおよりつぐ)の寝返りを足がかりに、諏訪氏の本拠地・上原城(茅野市)を攻撃・・・翌7月に降伏した諏訪頼重(すわよりしげ)甲府東光寺に幽閉された後に切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)

かくして、その頼重の遺領配分・・・

この時、信玄は、遺領の西半分は頼継に与えましたが、東半分は武田の領地に組み入れます。

これが、頼継には気に入らなかった・・・

すぐさま、武田勢が守る上原城を襲撃し、諏訪社も占領します。

もちろん、信玄もこれに黙ってはいられません。

・・・が、未だ征服したばかりの土地・・・諏訪一族の人物を信玄があからさまに討ち果たしては、旧臣の反発を誘いかねません。

そこで、信玄は自らの妹・禰々(ねね)の息子で、わずか生後6カ月の寅王(とらおう)前面に推しだして出陣します。

実は、この禰々は、亡き諏訪頼重に嫁いでいたわけで、つまり寅王は頼重の遺児という事になります。

この寅王を掲げた武田の大軍を安国寺にて迎え撃つ頼継でしたが、やはり、配下の者の中には、かつての主君の遺児に弓を向ける事に抵抗ある者も少なく無く、あえなく敗退・・・伊那方面へと逃走します。

その頼継を追って、怒涛のごとく伊那へ進攻した武田軍・・・

この時、武田方の先鋒を任されていた駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、天文十一年(1542年)9月26日に荒神山砦を奪取し、頼継と結託している藤沢頼親(よりちか)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)に迫ります。

大軍を前にした頼親は、その2日後にあっさり降伏して甲斐に出仕しますが、これは、その場逃れのポーズだけの降伏・・・結局、2年後にまたもや反旗を翻すのです。

こうして、再び伊那への進攻が開始された天文十三年(1544年)10月29日、信玄から武田軍の先鋒を預かった弟の武田信繁(のぶしげ)が、伊那荒神山砦を包囲します。

Singensinanocc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この伊那荒神山砦は、頼継が本拠とする高遠城(長野県伊那市)と頼親の福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)とを結ぶ地点にある要所・・・

すでに、信濃守護小笠原長時(おがさわらながとき)とも結んでいた頼継方には、その長時から派遣された兵も陣取っていましたが、信繁は、これを、わずか3時間で蹴散らし、またたく間に120の兵を討ち取って、砦を奪い取り、ここを拠点として、福与城周辺へと攻撃を仕掛けます。

今1度撤退するも、この戦いは翌年の4月に、福与城を陥落し頼親を降伏させる事によって信玄の勝利となり、信玄は上伊那の大半を手中に収める事となるのです。

その後、信玄の矛先は、さらに北へ・・・と向かいます(8月17日志賀城攻略参照>>)
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2012年10月28日 (日)

大阪天満宮の流鏑馬神事

 

先日・・・ブログの更新をお休みさせていただいた10月25日ですが、実は、大阪天満宮の流鏑馬神事(やぶさめしんじ)を見物しに行っておりました。

全国的には、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮が有名な流鏑馬ですが、名前の由来としては、「馬を馳せながら矢を射る」事から、「矢馳せ馬(やはせうま)と呼ばれていたのが、いつしか「流鏑馬=やぶさめ」と呼ばれるようになったという事です。

最も古い記録としては、あの『日本書紀』天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)の時代に、「神社にて馬を走らせて矢を射る」という記録もありますが、ハッキリと神事として行われている記録としては、やはり平安時代の中期頃から・・・

やはり「武士のおこり」とともに発達していったようです。

やがて、あの源頼朝(みなもとのよりとも)が、質実剛健の気風を養う武士のたしなみとして推奨し、幕府の行事として組み込んだ事から、鎌倉時代に全国的に広まって行き、神事として各地の神社に奉納されるようになります。

しかし、その後、合戦が1対1の名乗りを挙げての戦い方から、足軽による集団戦に変わって行くにつれて流鏑馬は衰退し、戦国時代にはほとんど見られなくなりましたが、江戸時代に入って、再び復活の兆しを見せます。

やはり、平和な時代でも日頃の鍛錬は大切・・・と見直され始めたのでしょうが、その頃には、流鏑馬を含む馬術自体に複数の流派が生まれました。

そんな中で、今回の大阪天満宮の流鏑馬神事・・・

室町時代に行われていた形跡はあるものの、やはり上記の通り、ここも、いち時中断していたようですが、元和元年(1615年)の大坂の陣(年表参照>>)の後に、大阪城主となった松平忠明(まつだいらただあきら=奥平信昌の四男で母は家康の娘の亀姫)幕命により神事として復活・・・以来、幕府が滅んだ維新後も、鎮台司令官、旧陸軍第四師団(2月9日参照>>) が、これを継承してきました。

現在は、関西大学・馬術部の学生さんが奉仕されています。

・‥…━━━☆

Dscf1894a600m 当日は、まず神職さんが騎上して、斎庭に設置された高殿(←)を3度廻った後、南門から出て、馬場を清めるために、折り返し地点までの道を1往復します(↓)Dscf1859a800m

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Dscf1860a800m 清めた道を、人が、車が、渡る渡る…えぇんかいな(笑)

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Dscf1863a800m その後、(かみしも)をつけて陣笠をかぶった前駆者(←)が、馬上から道筋に日の丸の扇を投げて、的を立てる位置を、3ヶ所決めます。

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Dscf1865a600m (←)扇が落ちた位置に、的を持った人がスタンバイ!

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そして、いよいよ室町時代の狩装束を着た本駆者が、Dscf1874a800m 拝殿下にて天地四方を射る型をした後に騎乗して、高殿を3回廻った後に馬を駆せさせて、3ヶ所の的を半弓にて、
エイッ!とばかりに打ち破ります。

もちろん、初めは、実際に矢で3ヶ所の的を射ていたわけですが、ここ天満宮周辺は江戸時代から大都会であったため、見物人の数がハンパなく、大変危険なので、江戸時代中期には、すでに、的を射る形式から、半弓で的を叩いて打ち砕く形式に変わったという事です。

Dscf1875a800m 打ち砕かれてバラバラになった的(←)は縁起物・・・持って帰って身につけていると、幸せが舞い込んで来るのだそうで、馬が去った後に、見物人皆で拾いに行きます。

Dscf1890a800 必死のパッチのオッチャン&オバチャンをかき分け、茶々も1辺ゲット(→)・・・もちろん、私も必死なオバチャンの一人ですが、何か??

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とは言え、的は3ヶ所にあって、本駆者は3往復しますし、見物人の方も、皆、和気あいあいと細かく分けてくださるので、いただく気がある人は、必死にならなくとも、大概ゲットできます。

みんなで、幸福を分けあいましょう!!

地元の人にも、あまり知られていない天満の天神さんの流鏑馬神事・・・毎年、10月25日に行われていますので、機会がありましたら是非。

大都会の町並みの中を馬が激走する姿は、なかなかお目にかかれませんから・・・
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2012年10月26日 (金)

伊達政宗を相手に…二階堂盛義の妻・大乗院阿南姫

 

天正十七年(1589年)10月26日、伊達政宗の攻撃によって須賀川城が落城し、ここを本拠とした二階堂氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・・・・

二階堂氏は、藤原氏の流れを汲む名門で、鎌倉時代の大安元年(1444年)頃に、陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市)地頭職を持った事から、須賀川二階堂氏の初代となる二階堂為氏(ためうじ)が鎌倉より下って土着し、以来、須賀川城を居城としていました。

その初代から数えて9代めの当主となっていたのが二階堂盛義(にかいどうもりよし)・・・この彼のもとに嫁いで来たのが、本日の主役=大乗院阿南姫(だいじょういんおなみひめ)

彼女は伊達(だて)の15代当主・伊達晴宗(たではるむね)の娘・・・伊達政宗(まさむね)の父・伊達輝宗(てるむね)の妹なので、つまりは政宗の叔母さんになるわけです。

大乗院(だいじょういん)という名前は、その死後につけられた戒名で、阿南(おなみ)というのは「生前、そう呼ばれていたかも…」という程度の伝承に過ぎないので、実際のところ、本名はわかっていないのですが、本日は阿南姫と呼ばせていただきます。

彼女が盛義のもとに嫁いだのは永禄年間(1558年~1570年)の初め頃と言われ、お相手の盛義は、先代当主だった父を亡くしており、すでに当主の座を継いでいたものと思われますが、この盛義の母という人も輝宗の妹なので、二人は従兄弟同志で結婚したという事になりますね。

その頃の二階堂氏は、米沢城(米沢市)を本拠地とするその伊達と、黒川城(福島県会津若松市)芦名(あしな・蘆名)と、常陸(茨城県)佐竹(さたけ)ハザマで揺れ動く状態でしたが、先代と盛義の2度の婚礼で、妻の実家となった伊達氏からの支援を得る事ができ、度々脅かされる芦名にも対抗できるといった具合でした。

しかし、そんな中で、伊達輝宗がかの芦名と講和を結んでしまった事で、対・芦名との交戦における支援を得られなくなってしまい、永禄九年(1566年)には、芦名盛氏(あしなもりうじ)盛興(もりおき)父子に松山・横田両城を攻め落とされ、盛義は、やむなく嫡男・盛隆(もりたか)を会津黒川城に人質として差し出して和睦を結び、以後、二階堂氏は芦名氏に属する形で、何とか領国を維持する事となってしまいました。

ところが、天正年間に入ると、その芦名氏のゴタゴタに二階堂は翻弄されます。

すでに父から家督を譲られて芦名氏の当主となっていた盛興が、天正三年(1575年)に29歳の若さで亡くなり、しかも、盛興に後を継ぐべき男子がいなかったため、黒川城で人質となっていた盛義の嫡男・盛隆が家督を継ぐ事になります。

盛興の奥さん・彦姫(伊達晴宗の娘で輝宗の養女)を、そのまま盛隆の奥さんに据えて、父の盛氏が後見として実権を握るという形の当主交代劇・・・しかし、天正八年(1580年)、その盛氏も60歳の生涯を閉じます。

これで、盛隆は名実ともに芦名氏の当主となったワケですが、逆に、正式に芦名氏を継いでしまった事で、二階堂氏の跡取りがいない状況となってしまいます。

そんな中で、天正九年(1581年)、盛義が38歳という若さで亡くなってしまいます。

実は、このあたりの史料が非常に少なく、情報が錯綜しているのですが、盛義には3人の男子と1人の女子がいたと伝わるものの、はっきりと、その存在が確認されるのは、今回、芦名を継いだ盛隆と、成長して岩城常隆(いわきつねたか)後に伊達成実(なりざね)に嫁ぐ女の子の2人のみ・・・

行親という次男がいて二階堂氏を継いだとする史料もありますが、当主としての具体的な記録は何も無く、一方では、この行親は若くして亡くなってしまったという史料もあり。

また、3男で、行栄(ぎょうえい)という僧になった子がいたという史料もありますが、この人も早くに死んだとされ、他にも、盛義には盛隆しか子供がいなかったとする史料もあるとか・・・

もちろん、もし、子供が3人いたとしても、その母が阿南姫かどうかもわからない状態ですし、それほど曖昧な史料しか残っていないという事は、「もし、子供がいたとしても、二階堂家を継いでいない、あるいは継ぐべき立場に無かった=後継ぎがいなかった」と解釈するのが妥当ではないかと思います。

盛隆は、あくまで芦名氏の当主・・・そう、盛義亡き後の二階堂氏を支えたのは、まぎれも無く妻の女当主=阿南姫だったのです。

さらに天正十二年(1584年)、その盛隆が、男同志の恋愛のもつれから家臣に殺されるという事件が発生・・・その家督は、盛隆の息子で、わずか生後1ヶ月の亀王丸(かめおうまる)が継ぎ、その母の彦姫が、輝宗の後見を受けて芦名氏をまとめる事になりました。

・・・と、ここで登場するのが、同じ天正十二年に家督を譲られて伊達氏の当主となった伊達政宗・・・そう、この当主交代で、父の時代の同盟関係がグダグダになり、東北諸国の関係もおかしくなって来るのです。

この年の8月に、政宗が大内定綱(おおうちさだつな)の支城・小手森城(おてのもりじょう・二本松市)を攻撃して、その城の非戦闘員まで皆殺しにした事で、定綱が逃げ込んだ二本松城(福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ)がビビリまくり、それは、政宗自身が、父の輝宗を殺害(10月8日参照>>)せねばならなくなるという悲惨な結果を生んでしまします。

さらに、それは、翌・天正十三年(1585年)の人取橋の戦い(11月17日参照>>)に発展・・・その翌年の天正十四年(1586年)には、かの亀王丸が、わずか3歳で亡くなり、その後継を巡って、政宗の弟・小次郎(こじろう=政道)佐竹義重(さたけよししげ)の次男・義広(よしひろ)の間で争いが起こるという事態に・・・

そんな中で政宗は須賀川を攻略する事を明言します。

ここは、もちろん二階堂の須賀川城がありますが、芦名と連合する佐竹との勢力の中間ともなっている場所で、重要拠点でもありました。

この表明以降、阿南姫は、政宗と激しく対立する事になりますが、やがて、天正十七年(1589年)6月5日の摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)芦名を破った政宗は、会津をほぼ制圧・・・周辺の多くの武将が、ここらあたりで伊達に従属を誓う事になるのです(11月4日参照>>)阿南姫は断固として政宗と戦う事を選びます。

もちろん、政宗の勢いプラス会津の軍勢を加えた伊達軍に刃向かう事は二階堂にとっても命取り・・・もはや、いずれは攻めて来る事は確実で、多勢に無勢も明白な以上、二階堂家臣たちの中にも、「むざむざと城を落とされ、全員討たれてしまうよりは、攻め込まれる前に降伏したほうが得策」という意見が出るのですが・・・

「私には、心に決めている事があり、同じ自害するとしても、攻め寄せる敵を迎え撃ってから自害したいと思てます。
このような状況になっても義理を重んじ、一緒に死のうと思てくれる者がいてるんなら、ともに来てください」

・・・と、阿南姫は譲りません。

  1. 政宗が敵対している田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と婚姻した事。
  2. 自分の娘の嫁ぎ先である猪苗代城を調略した事。
  3. 芦名を攻めて黒川城を乗っ取った事。
  4. 父を殺した事。
  5. 常陸太田に出陣し、叔母(阿南姫の妹)と、その息子=佐竹義宣(よしのぶ)を滅ぼうそうと考えた事。

家臣だけでなく一般領民をも須賀城に集めた中で、この5つを「政宗五逆」として、涙ながらの大演説をブッ込んだ阿南姫・・・それは、あの北条政子(ほうじょうまさこ)涙の演説(5月14日参照>>)のごとく家臣&領民の心をつかみ、城内は、一気に籠城一色となるのです。

わずかに残る阿南姫の記録・・・これこそが、おそらくは夫の死後から約9年間に渡って、その細腕で二階堂家を支えて来た気丈な女当主なればこその風景に思えます。

かくして天正十七年(1589年)10月26日、午前9時・・・伊達軍による須賀川城への猛攻撃が始まります。

もともと多勢に無勢なうえに、実は、重臣の何人かが、すでに政宗側の働きかけによって内通していた状態で、もはや、戦闘が始まった時点で、結果は時間の問題だったのです。

夕暮れの午後5時・・・須賀川城は落城し、ここに二階堂氏は滅亡します。

一説には騎馬:500騎、足軽:2000人が討ち取られたとか・・・

阿南姫は自害を試みますが、無情にも伊達の兵士に発見され、救助されてしまいます。

政宗にとっては叔母にあたる阿南姫・・・政宗は彼女を厚遇しようとしますが、阿南姫はそれを断わり、妹のいる佐竹氏のお世話になる事を希望したとか・・・

それから13年経った慶長七年(1602年)・・・佐竹氏は出羽秋田に国替えとなりますが、同行する事になった彼女は、その旅の途中に病に冒され、須賀川の長禄寺にて、その生涯を閉じました。

米沢でもなく常陸でもなく秋田でもなく・・・須賀川で、その生涯を終えた事は、事実上二階堂最後の当主となった彼女にとっては本望だったのかも知れませんね。
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2012年10月24日 (水)

和算を世界レベルにした数学の神様…関孝和

 

宝永五年(1708年)10月24日、江戸時代の数学者「算聖」と崇められた関孝和が、その生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

それまでの日本の数学=和算と言えば、中国から伝わった物のモノマネに過ぎなかったのを、そこから独自の発展を遂げて、本家を越える・・・いや、当時としては、西洋の数学をも凌駕する高等な物にしたのが関孝和(せきたかかず)です。

・・・と言っても、彼の前半生は、ほぼ謎・・・徳川忠長(とくがわただなが)(12月6日参照>>)に仕えていた内山永明(ながあきら)の次男として生まれますが、ご存じのように主家が断絶してしまっているうえに、彼自身も関五郎左衛門の養子になっているので、幼少の頃の事が記録として残っていないらしく、その生誕地も上野国(群馬県)藤岡(藤岡市)江戸か・・・、誕生した年もよくわかっていません。

Sekitakakazui400 その後、勘定役として仕えていた甲斐(山梨県)甲府藩主徳川綱重(つなしげ=徳川家光の三男)の息子の家宣(いえのぶ)第6代徳川幕府将軍となった事で、晩年に、その身分は幕臣とされますが、けっこうすぐに隠居してしまっているので、「役人として何かをした」というような記録も、あまり伝えられていないのです。

江戸後期の随筆『翁草』によれば・・・
若い頃は、まったく算術には無縁で、八算(九九の割り算バージョンみたいな計算法です)も苦手だったのが、ある時、彼の家来が持っていた『塵劫記(じんこうき)(吉田光由が執筆した江戸時代の算術書)を見ながら、その家来から本の解説をしてもらった事で、何やら興味津々・・・

様々な算術書を集めはじめ、やがては「仕事よりオモシロイ」と夢中になっていったとか・・・

本を読めど「不解(かいせざる)事多し」・・・しかし、それが熟読するうちに理解できるようなり、そうなるとおもしろくて、どんどん本のレベルも上がり、やがて、自ら算術法を発明し、さらにそれを工夫して発展させ・・・

となると、当然、その事が上の方々のお耳に入るようになり、重宝させる事に・・・甲府藩の勘定役に抜擢されるのは、この頃ですね。

そんなこんなのある時、奈良の古寺に唐の国から伝えられたという仏書がありましたが、誰もその内容が理解できず、長きに渡って医術書だと思われていたものの、「役に立たないので捨てられる」事になりました。

・・・と、この話を小耳に挟んだ孝和・・・何やら、その書物の事が異常に気になって、「ひょっとしたら算術書かも知れない」と思うと、いてもたってもいられず、即座にお暇をいただいて、奈良へと旅立ちます。

寺に懇願して中身を見せてもらうと・・・・ビンゴです!

まさしく、それは、未発見の中国の算術書・・・それから、しばらく奈良にとう留して、夜を徹して書きうつして江戸に持ち帰り、その後、約3年の月日をかけて、その奥儀をマスターしたのだとか・・・

また、ある時、すでに将軍世嗣となっていた家宣公が、納戸に保管されていた大きな伽羅(きゃら)の香木「皆で分けよ」と下された事があったのですが、なんせ「皆で…」って言っても人数がハンパじゃない・・・

まずは、どこからノコギリを差し込んで良いかもわからず・・・ほとほと困り果てて老中相談のうえ、「これは孝和に計算してもらおう」という事になります。

この難問をつきつけられた孝和は、その伽羅の香木を預かって計算・・・筋引きをしてお返しします。

果たして、この孝和の引いた筋通りに切ったところ、見事、寸分違わぬサイズに分配できたのだそうです。

さらに・・・
今度は、唐より伝わりしからくり時計・・・

それは、台の上に唐子人形がいて、その上部に釣鐘がしつらえてあり、時間が来ると、その人形が鐘をついて時を知らせるというシロモノですが、ゼンマイが錆びて朽ちていたり無くなっていたりで、もはや動かない状態で、時計師を呼び寄せて見てもらうものの、皆、「もう直りませんわ」とサジを投げます。

その噂を聞いた孝和さん・・・その時計を持ち帰り、なんと45日ほどで修理してしまったのだとか・・・

もちろん、こんな細かな事ばかりではなく、江戸と甲府を行き来する時は、必ず、籠から顔を出し、メモを取りながら方角や地形を観察して、その高低差を割り出し、『甲斐国絵図』として献上したりなんぞもしております。

しかし、そんな中でも最も注目すべき業績と言えば、独自で開発した記号法(傍書法)を用いて天元術(てんげんじゅつ)を格段に飛躍させたこと・・・

天元術とは、代数問題の解き方の事で、いわゆる「何々を x とした場合…」という方程式のアレ・・・

数学苦手なので、ウマく説明できませんが、もともと中国から伝わっていた天元術を応用して、ものすごく簡単に数式の処理を行えるようにしたワケです。

いやしかし・・・
孝和の業績は、それだけに留まりません。

そう、後世に与えた影響が最も大なのです。

彼自身が残した著書は『発微算法(はつびさんぽう)という、たった1冊ですが、彼の弟子たちが師匠の業績を未来に残すべく、あるいは、師匠から教わった様々な術を応用して他分野に適用したり・・・

とにかく、孝和の切り開いた道を、見事に発展させていくのです。

現在、和算と言えば、単に日本の数学という意味でなく、「関孝和以降の日本の数学の事」とされるくらい・・・

故に、日本数学史上最高の英雄と称される関孝和・・・西洋の数学の影響をまったく受ける事なく、同時代のニュートンに勝るとも劣らないというのですから、大したものです。
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2012年10月23日 (火)

武士で初の昇殿…八幡太郎・源義家の苦悩

 

承徳二年(1098年)10月23日、源義家が武士として初めて昇殿を許されました。

・・・・・・・・・

康平五年(1062年)、陸奥守(むつのかみ)を任じられていた父・源頼義(みなもとのよりよし)に従って、長く泥沼化していた前九年の役(9月17日参照>>)を勝利で終えた源義家(みなもとのよしいえ・八幡太郎)・・・

翌2月に行われた論功行賞では、父・頼義が正四位下伊予守(しょうよんいげいよのかみ)、義家が従五位下出羽守(じゅごいげでわのかみ)に補任・・・未だ25歳の義家にとって受領任命は破格の待遇でした。

しかし、同時に、頼義・義家父子に協力した出羽(山形県・秋田県)山北(せんぼく)の豪族・清原武則(きよはらのたけのり)従五位下鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任ぜられ、この戦いで滅びた安倍氏の遺領・奥六郡(おくろくぐん)を拝領する事となりました。

一説には、この時の頼義には、「奥州を手にしたい」という野望があったと言われますが、もし、それが本当なら、彼が欲しがっていた奥六郡が、武則にかっさらわれた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、この戦いの時に、すでに高齢だった頼義は承保二年(1075年)に87歳で亡くなり、その後の義家は、名実ともに河内源氏の棟梁となって、美濃(岐阜県)の争乱や南都の僧兵の鎮圧、白河天皇の行幸の護衛など、東北とはほぼ無縁の生活を送りながら、源氏の勢力拡大に力を注ぎます。

やがて、そんな義家にチャンスがやって来ます。

あ・・・もちろん、このチャンスというのは、亡き父・頼義が奥州に対する野望を持っていて、息子の義家が、その思いを継いでいたら・・・という事での「チャンス」という意味で・・・

そう、永保三年(1083年)に、義家が鎮守府将軍に任命されたのです。

しかも、武則の後を継いだ清原家が一族内で内紛を起こしている・・・

武則亡き後を継いだ息子の武貞(たけさだ)の息子・・・つまり、孫の清原真衡(さねひら=長男で先妻との子)が、弟の清衡(きよひら=後妻の連れ子)家衡(いえひら=後妻との子)らと衝突・・・再度の奥州の争乱に、都の白河天皇や関白・藤原師真(ふじわらのもろざね)らが、武勇優れた源氏の棟梁に、事を治めてもらいたいと、義家を派遣したワケです。

この時、真衡が、自らの後継者としていた海道成衡(かいどうなりひら=岩城地方の海道平氏の一族)の妻が、義家の妹の縁者あった事から、奥州に赴任して来た義家に対して真衡は最大限の奉仕をしてすり寄って、彼から全面的支援をとりつけます。

おかげで、攻撃して来た清衡&家衡を蹴散らし、衡は、長男として清原氏の嫡宗(てきそう・ちゃくそう=正統を受け継ぐ本家)を獲得するのです。

これは、もし、義家が父の野望を受け継いでいたとしたら、なかなかにラッキーな展開・・・「清原氏の宗家が義家の支援を受けて…」となると、今はただの支援ですが、後々は、従属する関係になる可能性もあるわけですから・・・

ところが、その直後、真衡が急死するのです。

宙に浮いた宗家の領地は、国主である義家に委ねられる事になり、義家の采配で、清衡と家衡に平等に分配され、めでたしめでたし・・・

これで、清原氏の勢力は2分割され、その上に義家が君臨するがの如き構造となって、何となく頼義以来の野望が叶った雰囲気・・・

しかし、これに家衡が納得しません・・・なんせ、先に書いた通り、家衡は武貞の実子ですが清衡は連れ子なので、清原一族の血は流れていないワケで、家衡から見れば「一緒にされては困る」という事・・・こうして始まったのが後三年の役(11月14日参照>>)です。

実際には5年に渡って繰り広げられた後三年の役・・・今回は清衡を支援する義家は、寛治元年(1087年)の金沢柵(かなざわさく=秋田県横手市)の戦いで、ようやく家衡らを滅ぼす事ができました。

その後、義家は、論功行賞を有利に進めるべく、ち取った家衡の首級を奉じて上洛の途につきます。

しかし、朝廷からは、なかなか正式な沙汰が出ません。

『後三年合戦絵詞(ごさんねんかっせんえことばによれば・・・
京に向かう道すがら、義家は
「家衡の反乱は、かつての安倍一族を上回る規模でしたけど、それを、私の力によって平らげたんです。
できるだけ早く官符
(かんぷ=義家らが官軍だと認める正式文書)を賜り、首を京へお届けしたいと思いますねんけど…」
国解(こくげ=上申書)を提出しますが、

朝廷からの返事は
「わたくしの敵たるよしきこゆ…官符べからざるよしにさだまりぬ」
今回の戦いは私的な戦いなので官符を出す事は無いし、勧賞(かんしょう=功労をほめて官位や物品を与える事)も行わないと通告・・・朝廷は、義家に野望があり、介入する事で、逆に戦いを大きくしてしまったと見たわけです。

その返答に怒った義家は、道端に首級を打ち捨てて、空しく京に戻ります。

Gosannenkassenekotoba1000 義家が京へ帰還する場面「後三年合戦絵詞より」(東京国立博物館蔵)

果たして、義家には、奥州制覇の野望があったのか?なかったのか?

ただ、義家の経歴を見る限りでは、野望といった物は見受けられず、一連の行動は、朝廷の意思に忠実に動いていた結果で、ただ朝廷や公家の意向に翻弄されただけ・・・という雰囲気もします。

結局、その1カ月後に朝廷が下した沙汰は、義家の陸奥守(むつのかみ)の解任・・・しかも、国司交替の手続きすら中途半端な状態で、新たな荘園を持つ事も禁じられました。

それから11年・・・承徳二年(1098年)10月23日、すでに60歳となっていた義家は、武士として初めて、院昇殿を許される栄誉を得ましたが、依然として任官は得られず・・・

嘉承元年(1106年)7月に、その身分は「前陸奥守」のまま、68歳の生涯を終えました。

まるで、義家と入れ代わるかのように・・・
奥州では、清原氏の遺産を一手に引き受けた清衡が、平泉にて北の王国建設に向けての1歩を踏み出し、都では伊勢平氏平正盛(たいらのまさもり=清盛の祖父)出世の階段を上り始める・・・(12月19日参照>>)

まさに、時代が変わろうとするのを目の当たりにする雰囲気ですが、そんな義家の無念を背負って立つのが、義家の孫の孫・・・あの源頼朝(みなもとのよりとも)です。

それこそ、その心の内はご本人に聞くしかありませんが、頼朝に奥州藤原氏への出兵(8月10日参照>>)は、ここに端を発するという見方がある事も確かです(12月5日参照>>)
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2012年10月22日 (月)

信長&秀吉の前に散る若狭武田氏

 

元亀元年(1570年)10月22日、若狭の武田氏配下の武藤友益らが織田信長に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・・・

若狭(福井県南部)武田氏は、安芸(広島県)武田氏から枝分かれした武田信栄(たけだのぶひで)が、第6代室町幕府将軍・足利義教(あしかがよりのり)の時代に、当時、若狭の守護大名であった一色義貫(いっしきよしつら)を倒して、新たに守護職に任命された事に始まると言われます。

ちなみに、以前、ご紹介した松前藩の蠣崎家の祖とされる武田信広(のぶひろ)(1月5日の冒頭部分参照>>)は、初代の信栄の弟として若狭武田氏の2代めを継いだ武田信賢(のぶかた)の息子だという事ですが、そこらあたりは伝承の域を出ないお話です。

やがて、あの応仁の乱も経験し、一色残党との戦いに明け暮れながらも乱世を生き抜いて行く若狭武田氏ですが、8代め当主となる武田義統(よしずみ)の時代に家督争いが起こり、武田元明(もとあき)9代め当主を継ぐ頃には、もうすっかり勢いが無くなってしまっていました。

実は、兄で第13代将軍だった足利義輝(よしてる)三好三人衆松永秀久に殺害された(5月19日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき)が、細川藤孝(後の幽斎)らに救出された時(7月28日参照>>)いち時、この若狭武田氏を頼った事があったのですが、あまりの非力に、とっとと、その先の越前(福井県北部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って去って行ってしまった(10月4日参照>>)という経緯があります。

そんな事で、その義昭が織田信長(おだのぶなが)の支援を受けて上洛する(11月18日参照>>)永禄十一年(1568年)には、その朝倉氏からの進攻を受けて、元明は強制的に、朝倉の本拠地である一乗谷に移住させられ、名ばかりの領主となり、実質的に若狭は朝倉氏の支配下となってしまいました。

そんな時に起こったのが例の手筒山・金ヶ崎城の戦い(4月26日参照>>)・・・将軍・義昭の名を借りて信長が発した上洛要請に従わない朝倉義景を、信長が攻めた戦いです。

この戦いで危機一髪を味わった(4月27日参照>>)信長は、2ヶ月後に姉川の合戦へと展開していきます(6月19日参照>>)が、この時の、若狭武田氏の動きが複雑です。

なんせ、朝倉氏に領地を奪われてしまった恨みもあり、この機会に朝倉を離れて武田を再興したい希望もありで、武田の家臣たちの多くが、信長が上洛した時点で、信長についていて、もはや越前に進攻して来る信長を出迎えるほどのベッタリ感だった(8月13日参照>>)わけですが、一方では、当主の元明は朝倉の手の中にある状態ですから、当主からは「信長を討て」という命令が出ているわけで・・・

そんな中、武田四老の一人であった武藤友益(むとうともます・景久)ら一部の家臣たちは、元亀元年(1570年)10月22日信長に反抗する決意を固めたのです。

しかし、ご存じのように、先の金ヶ崎の退き口こそピンチだったものの、態勢を整えた信長は強く、姉川から、さらに天正元年(1573年)8月の越前征伐(8月14日参照>>)へと駒を勧める中で、明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)若狭へと派遣し、友益を降伏させて、居城の石山城を破壊します。

とは言え、朝倉滅亡後は、多くの武田配下が信長に味方とた事もあってか、元明は、若狭への帰国を許されます。

しかし、これまた、武田の若狭支配は名目上のみ・・・実質的には、若狭は丹羽長秀の支配下となって、元明には、ごく一部の領地が与えられただけでした。

それも、この一部の領地というのは、一連の朝倉との戦いで最前線で戦った若狭衆(もと武田の配下で信長軍に組みこまれた人たち)たちの懇願によって、何とか実現したもの・・・

またぞろ、恨み節が残る若狭武田氏・・・

そんなこんなで、やがて訪れる本能寺の変・・・(6月2日参照>>)

先の恨みもあってか、明智光秀についた元明の命を受けた友益は、当時、丹羽長秀が居城としていた佐和山城を攻撃し、見事、その奪取に成功します。

しかし、これまた、皆さまご存じのように、光秀は山崎の合戦に敗れ(6月13日参照>>)、その命をも落としてしまうわけで・・・

この結果を受けて、第9代当主・武田元明は自害を命じられ、ここに、名門・若狭武田家は滅亡する事となります。

ただ、武田氏は滅亡しましたが、最後まで若狭武田氏を裏切らなかった武藤友益は、丹羽長秀の配下となって生き残り、また、元明の血筋も、その息子・義勝が、後に京極高次(きょうごくたかつぐ)家臣となる事で生き残りました。

Kyougokutatuko600 そう、実は、この武田元明さんの奥さんが、あの京極龍子(たつこ)・・・羽柴秀吉(はしばひでよし・豊臣秀吉)がその美貌にメロメロになって、元明亡き後に側室とし、兄(もしくは弟)の高次大出世につながる、その人です。

後に、かの関ヶ原の功績(9月7日参照>>)によって、高次は若狭一国を任される事になりますので、少しばかりは、若狭武田氏の思いも救われたといったところでしょうか。
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2012年10月20日 (土)

源平激突!富士川合戦

 

治承四年(1180年)10月20日、源頼朝率いる源氏軍と、平維盛率いる平家軍富士川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

平清盛(たいらのきよもり)という大黒柱を中心に、全盛を誇る平家のもとで不遇の日々を送っていた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、治承四年(1180年)4月に発した平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)・・・(4月9日参照>>)

おそらく、朝廷を中心とした政治が、普通に立ち動いていた時なら、親王宣下(しんのうせんげ=この先に天皇になるかも知れない皇子は宣下を受け親王となります)すら受けていない以仁王の令旨など、それほど有効とは思えないシロモノなのですが、

この前年の11月に、清盛は、『治承三年の政変』と呼ばれるクーデターを決行し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)幽閉して院政をストップさせ、法皇の近臣や関白以下・公卿39名を解任しています(11月17日参照>>)

つまり、天皇以下、皇室や公家による政権が、まともに機能していなかった状態なワケで、そんな中での以仁王の令旨は、各地でウズウズしている反平家勢力に、兵する大義名分を与えるには充分だった事でしょう。

ただ、その以仁王とともに動いていた源頼政(みなもとのよりまさ)は、未だ万全な準備が整わぬうちの治承四年(1180年)5月26日宇治川の露と消える事になるのですが(5月26日参照>>)

続く8月、令旨をを受け取った源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆で(8月7日参照>>)・・・
9月には北陸木曽義仲(きそよしなか・源義仲=頼朝の従兄弟)が、相次いで挙兵します(9月7日参照>>)

そんな中、伊豆での挙兵の後の石橋山では九死に一生の苦戦(8月23日参照>>)をした頼朝ではありましたが、房総半島を北上しながら反平家を呼び掛けた事で、衣笠城の戦い(8月27日参照>>)に見るように、彼に味方する東国武士が、頼朝のもとに続々と集まって来るようになります(9月3日参照>>)

やがて、頼朝が鎌倉を本拠と定める中、時を同じくして、武田信義(たけだのぶよし)一条忠頼(いちじょうただより=信義の嫡男)安田義定(やすだよしさだ)甲斐源氏の面々も挙兵します。

この甲斐(山梨県)の源氏たちの挙兵が、最初っから頼朝と連携していたかどうかは、史料が無く、微妙なところですが、少なくとも、清盛は、この時すでに連携していると思ったのでしょう・・・自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣する決意を固めるのです。

9月29日平忠度(ただのり=清盛の弟)平知盛(とももり=清盛の四男)らとともに京都を出立する維盛・・・侍大将として従うのは藤原忠清(ふじわらのただきよ=坂東八ヶ国の侍別当…関東平氏のまとめ役)

とは言え、このところの近畿地方は大変な飢饉で、兵糧はもちろん、まともな訓練もできないほどだったとも言われ、東進する中で、各地の武士を参戦させて、人数こそ増えていった平家軍でしたが、その士気は、あまり高いとは言えず、寄せ集め感も拭えない大軍でした。

しかも、彼らが出立した後に、平家が駿河国(静岡県東部)の統率を任せていた橘遠茂(たちばなのとおもち)が、かの武田信義に攻め込まれて討死してしまうという出来事が・・・これが、10月14日の事・・・

当時の駿河には、遠茂亡き後の武士たちを統率できるほどの実力者がいなかった事を考えると、おそらく、ここで、駿河の武士たちは、信義率いる甲斐源氏の傘下となったと思われます。

そんなこんなの状況で、今回の富士川の戦いに突入するわけですが・・・

この、本チャンを去る事3日前の10月17日・・・甲斐源氏の信義は、来たるべき合戦に際して
「浮島原(うきしまがはら)で正々堂々と戦いましょうや!」
という内容の手紙を使者に持たせました。

ところが、この書状を受けた藤原忠清は
「お前ら、謀反人のくせに、何、エラそうに、官軍の俺らと同等に戦おうとしとんねん!アホか!」
と、この使者を斬ってしまうのです。

そして、その翌日・・・つまり10月18日に、平家軍は富士川の西岸に布陣します。

ところが、その日の夜、数百名の兵士が、甲斐源氏に寝返って投降したとか・・・これが本当だとすると、平家軍の士気の低さに比べて、ヤル気満々の甲斐源氏が、すでに富士川の東岸に布陣しており、それが、ひしひしと伝わる状態だった事が推測されます。

かくして治承四年(1180年)10月20日夜、甲斐源氏が動きます。

Fuzigawanotatakai600 「平家物語絵巻」富士川のこと(部分)…林原美術館蔵

信義は、自らの軍を二手に分け、一方はそのまま富士川の東岸に陣取り、もう一方を夜のうちに北方へと向かわせ、富士川の上流にて渡河させ、朝までに平家軍の西側背後へと回らせる・・・つまり、平家軍を挟み撃ちにする作戦です。

・・・で、この時、富士川の沼地を渡る兵士たちの気配に怯えた数百羽の水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を(とき)の声と勘違いした平家軍の兵士が、「源氏の夜討ちだ~!」と大騒ぎとなり、兵士たちは、矢も弓もその場に置いて我先に逃げ出し、他人の馬に乗って逃げるヤツ、杭につないだままの馬に乗ってつんのめるヤツ、近在から呼び寄せた遊女をほったらかしにして裸のまま走るヤツ・・・。

と、総大将・平維盛以下5万の兵は、その夜のうちに一兵残らず姿を消してしまいましたが、翌朝、そうとは知らない東岸の源氏軍が渡河作戦を決行・・・

しかし、いくら進んでも敵陣からは矢の1本も飛んでは来ない事を不思議に思って、兵士を偵察に向かわせたところ「皆、逃げてました」と・・・

対岸に着けば、そこは何もかも、ちらかりっぱなしの無残な状態・・・やがて、武田勢と合流した頼朝は、水鳥の羽音を聞いて逃げたのだと聞いて一同大笑いとなる・・・

と、まぁ、富士川の戦いと言えば、この「水鳥の羽音に驚いて戦わずして平家は逃げた」という事だけが強調されますが、それ以前の甲斐源氏の動きや駿河の状況を見れば、平家軍は、あえて合戦をしなかったようにも思います。

未だ統率のとれない自軍に対し、対岸に布陣する敵を見て、「今は戦わないほうが得策」と判断したのではないかと・・・

「逃げた」というと聞こえは悪いですが、「勝ち目の無い戦はしない」とういのが、孫子の時代からの合戦のセオリーであったわけですから、この時点では、それが正解であった可能性が高いです。

ただ、この後の平家・・・いや、清盛に「それほど時間が残っていなかった」というのが、今後の展開への最大のポイントだったような気がします。
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2012年10月19日 (金)

「家康様一筋に…」無二の忠臣・石川家成

 

慶長十四年(1609年)10月19日、徳川家康にとって無二の忠臣と言われた石川家成が死去しました。

・・・・・・・・・

石川家成(いしかわいえなり)の父・石川清兼(きよかね)は、徳川家康誕生の時に蟇目役(ひきめやく)を務めたほどの重臣で、その次男(もしくは三男)である家成も、家康が、駿河(静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のところで人質生活(8月2日参照>>)をしていた頃からの譜代の家臣でした。

蟇目役:出産や病気のときに、邪気をはらうために蟇目という射たときに音を響かせる儀式的な矢を射る役】

いわゆる徳川四天王のような有名どころではありませんが、あの永禄三年(1560年)5月の桶狭間のゴタゴタによって、家康が今川の呪縛から解き放たれて(5月19日参照>>)独立して以来、常に最前線て敵と向き合って来たツワモノです。

中でも、家康の信頼を一身に受けるようになったのは、永禄六年(1563年)の三河一向一揆(9月5日参照>>)の時・・・

実は、それまでの家成父子は、熱心な一向宗信者で、むしろ、徳川軍団の中では、信仰の中心的存在であったにも関わらず、一揆が勃発した途端に速やかに改宗し、その鎮圧にも大活躍しました。

信仰よりも主君を選んでくれた事に、いたく感謝した家康は、すぐさま、家成に西三河の支配を一任するほどでした。

やがて、軍団は、家成の事を『西三河の旗頭(はたがしら=旗本の先手)酒井忠次(さかいただつぐ)(10月28日参照>>)の事を『東三河の旗頭』と呼ぶように・・・つまり、家康初期の頃の両巨頭といった扱いを受けていた事になります。

やがて、家康が義元亡き駿河にターゲットを絞る頃になると、家成は、常に家康のそばにいて長期戦略の立案に関わるようになります。

そう、義元の後を継いでいた今川氏真(うじざね)に対して、あの武田信玄(たけだしんげん)が猛攻を仕掛ける(12月13日参照>>)わけですが、最終的に、掛川城を開城させて(12月23日参照>>)、今川を滅亡に追い込んだのは家康・・・

しかも、その後の氏真の行動を見ると、何やら水面下で画策していたとも受け取れる雰囲気・・・(3月16日の中盤参照>>)

この一連の戦略に、言わば軍師のような役割で、ものすごく貢献していたとおぼしき家成・・・現に、氏真から奪い取った掛川城に、家康はすぐさま家成を入れて、彼を掛川城主とし、『西三河の腹頭』の役回りは、彼の甥っ子の石川数正(かずまさ)に与えていますから・・・

Kakegawazyouezu600 正保年間の掛川城絵図

もちろん、その次の姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、家康勝利に貢献するわけですが、その頃から三河に触手を伸ばし始めた信玄(10月14日参照>>)に対しても、掛川城という最前線で一歩も退けを取らなかったとか・・・まぁ、家康自身は三方ヶ原でピンチ(12月22日参照>>)でしたが・・・

その後、天正八年(1580年)には、家督を長男の康通(やすみち)に譲って隠居・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐の後に、家康が江戸へ(7月13日参照>>)移ってからは、伊豆にて隠居生活を送っていました。

ところが、慶長十二年(1607年)に、その康通が、未だ後を継げないほどの幼い息子を残して亡くなってしまい、やむなく家成が、その後を継ぐ事に・・

つまり家成は、74歳にして大垣藩第2代藩主となったのですが、そのわずか2年後の慶長十四年(1609年)10月19日家成は、その生涯を終えるのです。

しかし、その信頼度が伺えるのが、その死後・・・本来なら、後継ぎがいないまま当主が亡くなった場合、断絶となるのが江戸時代を通じての徳川将軍家の基本方針なわけですが、この石川家の場合・・・

家成の娘の子供・・・つまり、外孫を家成の養子にして、第3代藩主・石川忠総(ただふさ)とし、石川家を存続させたのです。

もちろん、これは家康の命・・・やはり、忠誠を貫いた律儀者への、家康の配慮という事なのでしょうね。
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2012年10月18日 (木)

第15代室町幕府将軍・足利義昭 就任

 

永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭が織田信長の助力により従四位下に叙せられ、室町幕府第十五代将軍となりました。

・・・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)らによって暗殺された(5月19日参照>>)事を受けて、義輝の近臣であった細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)が、義輝の弟・足利義昭(よしあき・義秋)を幽閉先から救い出し(7月28日参照>>)朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って越前(福井県)へ・・・

しかし、義昭を奉じて上洛する気の無い義景に失望して、「誰か、自分を助けて、京へと上ってくれる大名はいないものか?」と探しはじめたところに、明智光秀(あけちみつひで)を通じて織田信長(おだのぶなが)の存在を知り、両者は急接近・・・

一方の信長も、前年に美濃(岐阜県)斎藤氏を滅ぼして(8月15日参照>>)からは、その稲葉山城を岐阜城と改めて本拠とし、京へと上る大義名分を探していたのです(10月4日参照>>)

とは言え、急がねばなりません。

なんせ、先の将軍=義輝を暗殺した彼らが、自らの思い通りになる将軍=足利義栄(よしひで)を擁立して、すでに、永禄十一年(1568年)2月8日に朝廷からの将軍宣下も受けてしまっているのですから・・・

信長が、義昭からの要請を快諾した事を受けて、7月25日義昭は越前を発ち、信長のもとへと向かいます。

一方の信長は、8月7日に同盟を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)のもとを訪れ(6月28日前半部分参照>>)上洛への道筋を再確認・・・ただし、同じく近江の六角承禎(じょうてい=義賢)からは協力を拒否され、改めて、戦闘を覚悟するのでした。

かくして9月7日、信長は、義昭の前で
「江州をひと呑みに討ち、あなたをお迎えしまっせ(v^ー゜)」
と、高らかに勝利宣言して岐阜を出陣しました(9月7日参照>>)

そのまま、網の目のように張り巡らされた支城には目もくれず、承禎・父子の本拠地である観音寺城を目指す信長軍・・・

この時、前年に、主君の斎藤氏を滅ぼされ、信長の傘下となっていた美濃出身の武将たちは、合戦の鉄則として「おそらく、自分たち=美濃衆は合戦の最前線の危険な場所に立たされて奮戦させられるもの」と覚悟を決めていたようですが、いざ、始まると、あれよあれよと言う間に、佐久間信盛(さくなのぶもり)木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)などなど・・・「信長の手勢だけで、どんどん先に進んで行った」事に驚きを隠せなかったと言います。

それだけ、信長軍がスゴかったって事なのでしょうが、事実、9月13日には、その観音寺城を陥落させ(9月13日参照>>)て、24日には琵琶湖畔の三井寺に到着・・・ついに9月26日、信長は京都へと入り、9月29日には三好三人衆の籠る摂津芥川城を落とした(9月28日参照>>)のでした。

義昭も、同じ日に京都に到着して清水にて落ち着く中、信長は、芥川城を拠点にして残党への応戦にあたります。

この芥川に滞在中には、すでに、信長上洛の噂を聞きつけた人たちの参賀の列が絶えなかったと言いますが、その中の一人が、例の三好三人衆とツルんでいた松永久秀・・・すでに信長の好みをわきまえていたと見え、作物(つくも・九十九)茄子の茶入れという最高級茶器を献上して、その傘下に入りました。

やがて、10月も半ばになると、もはや信長の勢いに抵抗する者もいなくなり、10月14日には信長も清水に落ち着き、今度は、洛中洛外を治安の守り、警固する役目として軍を指揮する事になります。

かくして永禄十一年(1568年)10月18日義昭は朝廷から、正式な宣下を受けて、第15代・征夷大将軍に就任したのです。

Asikagayosiakisyougunsenge700 将軍宣下を受ける義昭(太閤記より)…中央でひれ伏しているのが義昭で、その右にいるのが信長

大はしゃぎでルンルンの新将軍=義昭ですが、間もなく行われた観能の会では、吉例の弓八幡を脇能として十三番の演目が組まれていたのを、信長は
「今って、これから、まだまだ隣国平定に向かわなアカン時やのに“これで弓矢が納まり”なんてオカシイやん」
と、演目を「高砂」から「呉羽」までの五番に省略したうえ、義昭からの「鼓を演奏してくれへんかな(゚ー゚)」の希望もピシャリと断わるという、何となく、この先を予感させるような出来事もありつつ・・・

それでも、10月24日に帰国の挨拶に訪れた信長に対して、義昭は、今回の功績に対して心からの感状を手渡し、その書状の中で、
「武勇天下第一」
と信長を褒めたたえ、その宛名を
「御父織田弾正忠殿」
と記したのでした。

こうして、10月26日信長は帰国の途につきます。

ところで、今回・・・三好三人衆が敗北し、松永久秀が信長傘下となってしまった事で、あの14代将軍となっていた義栄さんはどうなったのか???

彼は、そもそも第11代将軍・足利義澄(よしずみ=義昭はこの方の孫です)の次男・義維(よしつな)の長男として阿波国(徳島県)で生まれた身・・・その後、彼ら三好三人衆に推されて、摂津越水城(兵庫県西宮市)に入り、その後、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)総持寺やら普門寺(ふもんじ)やらに入っていたのですが、三人衆の敗北を聞いて、故郷の阿波へと逃れます。

ところが、その直後・・・以前から患っていた腫物が悪化して、わずか29歳(または31歳)で亡くなってしまったのです。

しかも、亡くなった日づけも、9月の半ばから10月の下旬まで複数の説があり、よくわからない状況・・・ひょっとしたら、義昭が、将軍宣下を受けた、この10月18日には、もう、この世の人では無かったのかも・・・

彼は、将軍の本拠地である京都に、1度も足を踏み入れる事なく去って行った、日本史上数少ない将軍・・・(ちなみに、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜も、将軍として江戸城に入った事がなく、歴史上、この2人だけです)

義栄さんにどれだけの野望があったのかは何とも言えませんが、彼ら=三好三人衆の傀儡(かいらい=操り人形)だった事を思えば、それほど野望を持っていたとも思えないわけで、何やら、周囲のゴタゴタで、その短い生涯を翻弄させられたようで、お気の毒です。
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2012年10月17日 (水)

嫡男・万福丸の処刑~浅井長政と息子たち

 

天正元年(1573年)10月17日、羽柴秀吉に捕らえられた浅井長政の嫡男万福丸が、関ヶ原にて処刑されました。

・・・・・・・・・・・

この日づけについては、本日の10月17日説とともに、10月7日説もありますが、とりあえず、今日書かせていただきます。

ご存じ、あの織田信長(おだのぶなが)が、越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を倒した戦い・・・(8月28日参照>>)

この浅井長政の三女で、後に江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)の奥さんとなる(ごう=江与)が主役をはった昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」では、まさに序盤の山場となった出来事ですが、残念ながら、この日処刑される万福丸は、ドラマ内にいたのやらいなかったのやら・・・

私の記憶に無いだけで、ドラマには出ていたのかも知れませんが・・・まぁ、主役のお母さんであるお市の方の子供では無いので、そのような扱いなのかも知れませんが、歴史好きとしては、長政の息子たちが、記憶に残らないほどの扱いで済まされるのは、ちょっと悲しい気分ですね。

だって、母親が違うと言えど、主人公の兄弟なのですから・・・

とにもかくにも、その経緯は・・・
(もしくは姪)お市の方を嫁に出して、浅井を自らの味方につけた(2011年6月28日参照>>)つもりの信長でしたが、その後、越前を攻めた際に長年の同盟関係にあった事を優先した政が朝倉についた(4月27日参照>>)事で、元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦(2007年6月28日参照>>)へと発展・・・

さらに、その後も抵抗し続ける浅井朝倉(11月26日参照>>)に対して、3年後の天正元年(1573年)8月20日に朝倉を滅亡させ(8月6日参照>>)、続く8月28日(近年では9月1日が有力です=8月29日参照>>に、浅井の小谷城を陥落させたというわけです。

浅井長政とお市の方のような政略結婚の場合、本来なら、同盟が破たんした時点で奥さんは離縁され、実家に戻るのが定番なのですが、お市の方の場合、先の金ヶ崎でも姉川を経ても浅井家に残り、この天正元年(1573年)に至っては、三女の江を生んでいます。

そう、江は、まさに、この年に生まれたんですね~
(大河ドラマでは、小谷城を囲んだ何万もの兵士が、合戦中のメッチャ騒がしい中で、赤ちゃんの産声を聞くという、いかにも、主役誕生という雰囲気でしたが…)

この日の小谷落城に際しては、その直前に、長政がお市の方と3人の娘たち(茶々・初・江)を城外へと出し、輿入れの時からお市の方につき従っていた藤掛三河守が4人を預かり、その後、織田本陣へと届けています。

「落城の際には女子の命は助ける」というのが戦国の基本ルールでありましたからね。

しかし、男子はそういうわけにはいきません。

古くは、今年の大河でお馴染の平清盛が、あの源頼朝の命を助けた末(2月9日参照>>)、その頼朝によって平家は滅びるわけですし、鎌倉時代の北条の滅亡後にも、遺児を担いでの乱(8月19日参照>>)が起こっていますから・・・

『寛政重修諸家譜』によれば、長政には、3人の娘たちの他に万福丸万寿丸という二人の息子がいたとされます。

その中で、嫡男とされる万福丸は、小谷落城の際に脱出し、余呉湖のほとりで匿われていたと言いますが、その後の織田軍の探索によって発見され、天正元年(1573年)10月17日に処刑されます。

『信長公記』には、関ヶ原にて磔の刑(一説には「串刺しの刑」)に処せられた「十歳の嫡男」との表記がありますので、やはり、お市の方の子では無いのでしょう(長政とお市の方の結婚は永禄十年=1567年かその翌年と考えられています)

そして、次男とおぼしき万寿丸・・・彼も、落城寸前に脱出して身を隠しますが、幸いな事にコチラは処刑される事なく仏門に入って正芸と号し、後に、近江国坂田(滋賀県米原市)福田寺(ふくでんじ)の住職になったと伝えられていますが、彼の誕生は江と同じ天正元年(1573年)とされるので、やはり、彼も、お市の方の子供では無いようです。

・・・と、しかし・・・実は、長政にはもう一人、
やはり、お市の方の子供では無いものの、後に信長が死ぬまでその身を隠し続けた喜八郎という男子がいたとされています。

彼が登場するのは、この小谷落城から43年経った、あの大坂の陣・・・

豊臣方の武将として大坂の陣に参戦する浅井政堅(政賢・政信・政春・井頼・長房=これらが改名した同一人物とされています)と名乗る武将です。

政堅は、信長の死後に、羽柴(豊臣)秀吉の養子となっていた信長の四男・秀勝(ひでかつ)に仕え、秀勝の死後は秀吉の弟の秀長に仕え、その死後は増田長盛(ましたながもり)に仕えますが、その長盛がどっちつかずの関ヶ原で大和郡山城が没収され(5月27日参照>>)てしまったために、彼は浪人に・・・その後は、讃岐・丸亀城主の生駒一正(いこまかずまさ)のもとに身を寄せていたと言います。

大坂の陣における詳細はよくわからないのですが、豊臣方=負け組となったわけなので、その身も危ないかと思いますが・・・しかし、ここでも、彼は無事生き延びます。

そもそも、信長亡き後に、有名武将のもとに仕官できたのも、おそらくは秀吉の側室となっていた姉=茶々(淀殿)のおかげだと思われますが、ここに来ても、またまた、お姉ちゃんが助けてくれます。

Zyoukouin600a そう、京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁いだ、浅井三姉妹の2番目の(はつ)・・・

この頃はすでに、夫の高次が亡くなっているので常高院(じょうこういん)という尼さんになっていたわけですが・・・(12月19日参照>>)

彼女を頼って若狭(わかさ・京都府北部)にやって来た政堅は、すでに大坂の陣をキッカケに出家しており、作庵(さくあん)と号していましたが、客分として迎え入れられ500石を与えられています。

そんな初さんの気持ちがよくわかる書状が残っています。

それは、息子・忠高(ただたか=高次と側室の子)に宛てた彼女の遺言状・・・

『さくあん事、なにの御やうにもたち候ハず候ニ、いまゝで御くなうになし、めいはく申候へども、いまさらすてられ候ハぬニより、くわぶんのちぎやうをも御やり候事、我身への御がいりよくとおもひ申候間、いよゝゝこれさきへハ、御ふセうなる事にて候へども、いまゝでのごとく御めかけ候て給り候べく候。たのミ入申候』

「作庵は、何の役にも立った事ないし、迷惑やろと思うけど、いまさら邪険にもできひんよって、いくらかの知行だけでも渡してやってくれるか?
私に小遣いやってるつもりで、この先も作庵に、いままで通り目ぇかけたってくれたらウレシイわ」

と・・・

戦いにあけくれはしたものの、なんだかんだで落城後も日の当たる場所で暮らした自分たち三姉妹と違って、多感な少年時代を、逃げ隠れして育った弟の事が、やはり、彼女は不憫でならなかったのかも知れませんね。

その後、京極家は出雲松江播磨竜野を経て、讃岐・丸亀城主として明治維新を迎えますが、作庵の子孫も、この丸亀藩士として生き残り、浅井家の血筋を残したという事です。
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2012年10月15日 (月)

法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時

 

建久三年(1203年)10月15日、武蔵の住人・甘糟忠綱が法然のもとを訪ねて悟りを開き、合戦に挑みました。

・・・・・・・・・・

建久三年(1203年)10月15日朝・・・その時、京都大谷にいた法然(ほうねん)(2月18日参照>>)のもとを、一人の武士が尋ねます。

ちなみに、このお話は『法然上人絵伝(ほうねんしょうにんえでん)『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)などに登場し、微妙に日づけが違っていたりしますが、現在のところ、合戦があったのが建久三年(1203年)10月15日とされていますので、このお話も、その日の出来事とされています。

その武士は武蔵の国甘糟郷(埼玉県美里町)を本拠とする武士・甘糟忠綱(あまかすただつな)・・・

乱を起こした比叡山の僧兵に対して、朝廷が征伐の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を下した事で、その鎮圧に向かう前に、法然のもとに立ち寄ったのです。

そう、彼には悩みがありました。

仏に帰依したいという自らの気持ちと、殺生を・・・しかも人を殺して名誉を得るという武士という者である自分の立場とのギャップに悩んでいたのです。

「僕は、武勇の家に生まれましたよって戦をしなければ仕事になりません。
けど、それを貫いて敵と戦えば、悪心でいっぱいになって、仏に帰依して往生したいという気持ちが薄れます。
かと言うて、往生したいという気持ちを貫けば、敵の捕虜となって、末代まで臆病者と呼ばれるでしょう。
何とか、弓矢の家業も捨てる事無く、往生の願いも叶えられる事はできませんやろか?」

その質問に法然が静かに答えます。

「阿弥陀様の本願という物は不思議なもんで、それの早い遅いを問う事はなく、行いの多い少ないを問う事もなく、その人の浄・不浄を選ぶ事も無いのですよ。
時にも場所にも縁にも関係なく、罪人なら罪人として、名号を唱えたその時から往生は叶えられるのです。

武家に生まれたのなら、ためらわず思いっきり戦いなさい。
例え、それで命を失う事になっても、念仏さえ唱えていれば本願に乗じ、往生が遂げられる事でしょう」

忠綱は大いに喜んで
「ありがとうございますm(_ _)m
何やら、悟りが開けました」

・・・と、そこで、法然が1枚の袈裟を忠綱にプレゼント・・・

鎧の下に、その袈裟をかけ、晴れ晴れとした面持ちで、颯爽と合戦に挑む忠綱・・・

もとより、命捨てる覚悟で挑んだ戦いは壮絶を極め、押して退くうち、忠綱はその身に重傷を負い、持っていた刀も折れてしまいました。

「もはや、これまで!」
と覚悟を決めた忠綱は、刀を捨て、声高々に念仏を唱え、その身を敵に任せました。

その時です・・・紫色した雲がにわかに沸き立ち、あたりに漂いました。

紫雲が比叡山の方向にたなびいた・・・との知らせを聞いた法然・・・
「あぁ、甘糟は往生したのですね」
と、ポツリ・・・

法然のこの言葉は、遠く、故郷にて夫の帰りを待つ、忠綱の奥さんに伝えられたのだとか・・・

Hounensyounineden800 「法然上人絵伝」部分(知恩院蔵)

・・・と、法然さんの偉業を讃える絵伝ですので、最後はちょっと宗教色なお話になっていますが、同時代の東国武士では、あの熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)も、武士という戦う職業に悩み、最後に出家の道を選んでいます(11月25日参照>>)

私、思うんですが・・・
たとえ、喰うか喰われるかの戦国時代であっても、誰も、好き好んで合戦に赴く人はいなかったと思うのです。

もちろん、忠綱が言うように、戦いに挑む時は、自らの心を奮い立たせて、高揚しまくりのアドレナリン放出しまくりで挑まないと、敵に捕らえられてしまいます。

しかし、戦い終わって、ふと、落ち着いた時、言いようの無い空しさや罪悪感、「これで良かったのか?」という思いが渦巻いていはずです。

もちろん、一人一人の心の中など、わかるはずもありませんから、あくまで、個人的な想像ですが、普通の人間なら、わざわざ喜び勇んで刀を振り回すなんて事は無かったのではないか?と思います。

だからこそ、どんなに強い武将も、皆、仏にすがり、神に祈るのではないかと・・・

最近のドラマでは、よく、合戦がナレーションのみというのを見かけますが、戦いをスルーするのではなく、是非とも、武将の心の葛藤を描きながらカッコ良くお願いしますデス・・・あっ!今年の「平清盛」はなかなか良いでっせ!m(_ _)m
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2012年10月14日 (日)

歴代1位のダメ藩主…夜鷹殿様・津軽信順

 

文久二年(1862年)10月14日、「夜鷹殿様」の異名をとる陸奥弘前藩の第10代藩主・津軽信順が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

陸奥(むつ)国弘前(ひろさき)(青森県)は、戦国時代に活躍した藩祖の津軽為信(つがるためのぶ)(12月5日参照>>)以来、代々、現在の青森県の津軽地方(青森県西部)を治めて来た大名ですが、そんな中で、第7代・津軽信寧(のぶやす)、第8代・津軽信明(のぶあきら)という二人の名君に恵まれ、彼らの見事な藩政改革による大成功を収めていました。

ところが、その名君だった第8代・信明が、わずか30歳という若さで亡くなってしまい、しかも、後継ぎも残せなかった事から、いわゆる分家の子=津軽寧親(やすちか)なる人物が養嗣子となって、第9代藩主を継ぐ事になります。

ところが、どうも、先代に比べて名君とは呼び難い雰囲気の寧親・・・自ら、その事に気づいていたのか?いなかったのか?

とにかく、先代のように内政に力を注ぐのではなく、良い家柄を結びつく事によって家柄のランクを上げ、中央政界に乗り出す事を夢見るのです。

・・・その計画の大事な駒として使ったのが、自らの息子=津軽信順(のぶゆき)です。

まずは、信順=12歳の文化八年(1811年)、信順が第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがいえなり)に初めて謁見した事をキッカケに、その3月に内大臣の近衛基前(このえもとさき・藤原基前)娘と婚約させる事に成功します。

公卿のお姫様が、当時としては最北端の田舎大名のところに嫁に来てくれるのです・・・その先には、今まで、どれだけ欲しても叶わなかったような冠位が、手の届くところにやって来る事はうけ合いです。

もちろん、この縁談をまとめるためには、その裏側で、津軽家から藤原家へ・・・多大な金銭が動いた事が想像できますが・・・

ところが、その2年後・・・未だ、婚約だけで、実際の結婚が成されていない状況で、その姫は亡くなってしまいます。

これはいけません!

せっかく掴んだ蜘蛛の糸・・・このままプッツリ切れたままにさせるわけにはいきません。

・・・で、「公家がダメなら、今度は徳川家だ!」
とばかりに、次は、将軍・家斉の弟で、後に、御三卿田安家を継ぐくとになる徳川斉匡(なりまさ)の娘・鋭姫と婚約・・・

おかげで、信順は、文政三年(1820年)12月、従四位下・侍従という、これまでの藩主が賜った事が無いような冠位に任じられます。

もちろん、ここにも、味方にすべき幕閣や田安家に対して、莫大な賄賂がバラまかれたと言います。

しかし、またしても・・・しかも、冠位を獲得したその日に、お相手の鋭姫が亡くなってしまうのです。

もう、こうなったら、とにかく急がねば!!!

翌・文政4年(1821年)4月に、亡き鋭姫の妹・欽姫との婚約を成立させ、翌・文政五年に、やっとこさ、無事、結婚の運びとなりました。

その後、寧親は引退・・・文政八年(1825年)、息子の信順が第10代藩主となったわけです。

ところが、この新藩主様・・・父の上をいくほどの名君とは言い難いお方でして・・・

未だ若殿時代から夜遊びが大好きで、毎夜毎夜、飲めや歌えの大騒ぎをして寝るのは深夜・・・なので、翌日に起きて来るのは昼過ぎという生活・・・

ついた仇名が「夜鷹殿様」・・・

それでも、若殿時代は、何とか許されるものの、これが、藩主になってもおさまらない・・・

中でも、参勤交代の時に、宿泊する宿場でそれをやるもんだから、毎日、出発するのが昼過ぎとなってしまい、どんどん進むのが遅くなる・・・

以前も書かせていただいたように(6月30日参照>>)、そもそも、膨大な費用のかかる参勤交代は、どの藩主も、1日も早く到着する事を目標に、一般人よりもはるかに早いスピードで歩き、賃金の安いバイトを雇って、できるだけ費用をおさえるのが、この時代の常・・・

なのに、日にちは他人よりかかるうえ、毎晩、遊興にふけっていちゃぁ、さらに費用は重なるわけで・・・結局、この時の参勤交代では、「予定表に書かれた期日に江戸に到着できない」という事態に・・・

あまりの出来事に自らの責任を感じた家老・高倉盛隆が、旅の途中で諫言切腹(かんげんせっぷく=主君を諫めるため、忠告の意味で切腹する事)するという事件まで起きますが、当の信順は、まったく、我関せず・・・

そもそも、先の結婚がらみでの出費で、先代が回復した藩のお金は、すべて使い果たしているのに、その後も、花見で1杯、月見で1杯、祭で1杯・・・

もはや財政は火の車で、なんと、藩士の給料を未払い・・・つまり、藩士たちからお金を借りて、藩を運営せねばならないほど・・・

そんな主君に、家臣たちの不満もピークに達した文政十年(1827年)・・・信順は、事件を起こしてしまいます。

この年の3月、将軍・家斉が太政大臣にに就任した事と、その嫡子の家慶(いえよし)が従一位を授かった事を祝う儀式が、江戸城にて行われたのですが、その登城の際に、信順は轅輿(えんよ・轅=ながえ)に乗って登城してしまったのです。

Dscn1946a300 (←写真は、京都「葵祭」の主役・斎王代(さいおうだい)の輿ですが、こんな感じの乗り物です)

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轅輿とは、いわゆる輿(こし)ですが、その中でも、重要な儀式や菩提寺の参拝の時に将軍のような身分の高い人が乗るシロモノで、はっきりとした身分制度が定まった江戸時代では、幕府が認めた大名家のみに使用される物で、それに乗っているだけで、家の格式の高さを象徴する物でした。

しかも、信順は悪びれる様子も無く、帰りの際は、その姿を江戸の町の人々に見せつけるかのようにわざわざ遠回りをして自らの江戸屋敷に戻って行ったのだとか・・・

信順としては、津軽家代々で最も高い冠位を授かった自分をアピールするつもりだったのかも知れませんが、武士の家格については、それこそ、皆が戦々恐々と、少しでも格を上げたいと常々狙っている中で、ある程度高くなっても、「轅輿なんて、まだまだ身分不相応…」と、表向きの遠慮をしている大名ばかり・・・

それを、平気で堂々とやられちゃぁ、周りの大名だって気分が悪い・・・

そう、信順は、家臣だけでなく、周囲の大名たちも敵に回してしまったわけで・・・

で、結局、その失態を理由に、幕府は、信順に強制隠居を命令し、藩主は養嗣子の津軽順承(ゆきつぐ=三河吉田藩の松平信明の七男)が継ぐ事になりました。

その後は、表舞台から去った信順さん・・・文久二年(1862年)10月14日62歳で亡くなりますが、果たして、引退後はおとなくしていたのかどうか・・・

歴代藩主の中で第一位のダメダメ藩主として、不名誉な名を残した事は確かだと思いますが・・・
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2012年10月12日 (金)

鬼の目にも涙??茨木童子のお話

 

今日は、地元、大阪に伝わる茨木童子のお話をさせていただきましょう。

茨木童子(いばらぎどうじ)は、平安時代大江山を拠点にして京の都を荒らしまわった鬼の一人で、あの酒呑童子(しゅてんどうじ)(12月8日参照>>)1の家来とも言われます。

それこそ、昔話の域を出ない話ですので、伝説がさらに伝説になって様々な事が語られ、その出身地も、有力な越後(新潟県)説をはじめ、信州(長野県)や、伊吹山や、そして、その名のごとく摂津(大阪府)の茨木も・・・

そして、それは、『平家物語』やら『太平記』やら『御伽草子(おとぎぞうし)やらにも登場し、果ては、歌舞伎になったり謡曲になったりもしていますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、それらのストーリーは、大抵、酒呑童子と同様に、都にて様々な狼藉を働いた後、源頼光(みなもとのらいこう)四天王のような英雄によって退治される・・・という、完全なる悪役ポジションなわけですが、

酒呑童子の時にもお話させていただいたように、これらは、当時主力となっていた仏教勢力に反発する古来の信仰を貫く人たちであったり、現在の朝廷にさからう人たちを、「鬼」として、彼らを滅ぼす過程を、昔話風に語り継いだ物だと思われます。

しかし、今回、ご紹介するのは、それとはちょっと違ったお話・・・

もちろん、地元・茨木に口伝えで伝えられているお話ですので、人から人に伝わるうちに様々にアレンジされ、もはや、原型をとどめていない可能性もあり、「私が聞いたのと、違うゾ!」という地元の方もおられるかも知れませんが、あくまで、今に伝わるお話の中の一つとして、心に留めておいていただければありがたいです。

そう、実は、これが、なんとも悲しく、切ないお話なのです。

・‥…━━━☆

昔、茨木という村に、一人の男の子が生まれます。

ところが、その男の子は、その体が普通の赤ちゃんの何倍もの大きさがあり、生まれた途端にはい出し、周りで見ていた大人が、びっくり仰天するその様子を見て笑った口元には、すでに白い歯が生えていたのだとか・・・

それを見た母親は、あまりのショックに、その場で気を失い、そのまま亡くなってしまいます。

さらに、その後、わずか生後3日で歩きはじめたかと思うと、もう外へと遊びに行きますが、それを見た近所の子供たちは
「鬼が来たゾ~」
と逃げ回る・・・

すると、その様子がおもしろいのか、
「ワイは鬼やぞ~~、ほれ、鬼が来た…はよ逃げんかいな」
と、わざと、皆を脅かしながら追っかけまわします。

父親は、
「アホな事言うな、ホンマに鬼やったら、えらいこっちゃ」
と、思いながらも、この先、この子はどないなるのやろ?と胸はドキドキ・・・

そんなこんなのある日、皆を追っかけ回すのに疲れた男の子は、水を求めて近くの小川へ・・・水を飲もうとして小川に顔を近づけ、川面に映った自分の姿を見て
「アレレ??」

「頭に、何か、生えて来てる??」
と、首をかしげている所に、通りがかった父親・・・

「わぁ! お前、どないなっとんねん、自分で、鬼や、鬼やで言うさかい、ホンマにツノが生えて来たやないかい!」

ーこら、アカン・・・もう、里には住まれへんー
と思った父親は、
「ぼん、栗拾いに行こか」
と男の子を誘い、山の奥の奥にある栗林へと連れて行って、男の子が栗拾いに夢中になっているすきに姿を消し、そのまま、男の子を置き去りにして、帰ってしまったのです。

しばらくして、父親がいない事に気づく男の子ですが、それこそ、体は大きくても、未だ生まれて間もない赤子・・・父親を探しながら、あたりを歩いてみますが、歩けば歩くほど山奥に入り込んでしまいます。

やがて、お腹がすいた男の子は、そばに来たウサギを仕留め、目に留まったキジを仕留め・・・それこそ、生きて行くには、自分で何とかしなくてはならないわけで・・・いつしか、イノシシまでをも1発で仕留めるような腕前になる男の子・・・

それもこれも、
「生きてさえいれば、またお父ちゃんに会えるかも知れん」
という、彼の純粋な気持ちでした。

しかし、ある時、またまた小川の水を飲みに行って、川面に映る自分の姿を見た男の子・・・成長した彼は、自分自身の姿を、はっきりと確認します。

その目、その口、しっかりと生えたツノ・・・
「まるで、ホンマモンの鬼やないかい、、、こんな姿では、もうお父ちゃんにも会われへん。
それこそ、お母ちゃんみたいに、俺の姿を見た途端に死んでしまうかも知れん」

その大きな眼に、うっすらを涙を浮かべた男の子・・・黙って、さらに山奥へと足を進めます。

そう、「もう2度と里へ降りたいなどとは思わない…父の事は忘れてしまおう」と決意したのです。

それから30年余り・・・

男の子は、もはや、ひとっ飛びで京の都とも行き来できるほどになり、怖い物知らずの立派な「鬼」になりました。

ところが、そんなある日、ツノの付け根のところが、何やら痛い・・・こんな事は初めて・・・

何となく胸騒ぎを覚えた彼・・・おそらく、父は、かなりの老人になっているはず・・・
「ひょっとしたら、お父ちゃんに何かあったのかも知れん」

そう、思ったら、気になって・・・こうなったら、怖がるも怖がらないもありません。

今、会っておかないと、もう一生会えないような気がして・・・たまらず、彼は生まれ故郷の里へと向かいます。

すると、案の定、父は病の床にふせり、もう、体を動かす事もできない様子・・・

彼は、できるだけ脅かさないように、ゆっくりと、ソ~と、我が家の戸を叩きます。

すると、父は
「どなたでっか??ワシはもう、動けませんのや、なんやったら入っておくなはれ」

「いや、入りたいねんけど、体が入らへんわ」
そう言いながら、戸口から覗きこむ・・・

Ibaragidouzi それを見た父親・・・
「わっ!鬼や!どないしょ」
と思いますが、体が動かないので、逃げる事もできずにいると・・・

「お父ちゃん、俺やがな」
と息子・・・いや、鬼が・・・

 .
「こんな風体になってしもたさかい、びっくりさしたらアカンと思て、今まで、よう会いに来んかってんけど、なんや、急に心配になってな。
いや、来て良かったわ。
心配すんな!
俺が、山に連れていって、ウマイもん、ぎょうさん食べさしたるさかいに・・・
ほんだら、すぐに元気になるて!」

父親に対して、自分を捨てた事を咎めるどころか、逆に、その事は無かったかのように、やさしく声をかける息子・・・

その姿に、感激の涙を流し、そのやさしさに胸がいっぱいになる父親・・・

しかし、もはや、その父の体は、その感激に耐えられないほどに衰弱しきっていたのです。

驚きではなく、感激のあまりに、父は、その場で亡くなってしまいました

その様子を見た鬼・・・そっと、やさしく父の体を抱き抱えると、フッとひとっ飛びして、再び山へ帰って行ったのだとか・・・

その時、鬼の出現を遠巻きに見ていた茨木村の人々は、走り去って行く鬼の目に、いっぱいいっぱいの涙が溢れていたのを見たのだそうです。

以来、その鬼は、2度と人々の前には現われませんでしたとさ。
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2012年10月10日 (水)

「死ぬこととみつけたり」…山本常朝の武士道

 

享保四年(1719年)10月10日、佐賀鍋島藩士で武士道論書『葉隠』の口述者として知られる山本常朝が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

山本常朝(やまもとじょうちょう・つねとも)・・・というお名前には馴染がなくとも、
「武士道とは死ぬこととみつけたり」
というフレーズは、どこかしらで聞かれた事があるのではないでしょうか?

Yamamotozyoutyou300 常朝は、この言葉を言った人です。

万治二年(1659年)に佐賀藩士・山本重澄の次男として生まれた常朝ですが、実は、この時、父の重澄は、すでに70歳の高齢でした。

幼い頃は、「成人するまで生きられないのでは?」と、父が心配するくらい体の弱かった常朝でしたが、そのぶん「鍛えねば!」と思った父の命によって、鍋島支藩の小城(おぎ=佐賀県小城市)にあった父の実家(重澄は中野家からの養子)の菩提寺である妙勝寺まで、往復七里(約28km)の距離を、草鞋ばきにて、度々行き来するという訓練をやったおかげなのか、無事、すくすくと成長していきます。

高齢の父は、常朝が11歳の時に亡くなりますが、やがて第2代佐賀藩主・鍋島光茂(なべしまみつしげ)小姓として仕え、20歳で元服してからは側用人として従事しました。

さらに、藩随一の学者と噂されるほどの聡明さで仕事をこなす常朝・・・24歳で結婚してからは、江戸に京都に、はたまた国許に呼び戻され・・・という中で、様々な役職をこなしておりましたが、元禄十三年(1700年)、主君・光茂の死とともに、彼の転機も訪れます。

そう、実は、30年以上に渡って光茂一筋で生きて来た常朝は、主君の死を悼んで殉死したいとも思いましたが、その光茂自身が殉死を禁止していた事から、出家を願い出て、世を捨てる事で主君に殉じます。

時に常朝、42歳・・・

はじめ、佐賀城下から三里(約12kim)ほど北にある金立山(きんりゅうざん)の麓にある黒土原(くろつちばる=佐賀市金立町)にて隠棲(いんせい=俗世間を逃れて静かに住むこと)していた常朝でしたが、正徳三年(1713年)に光茂公の奥さんが亡くなり、その場所にお墓が造られる事になったので、遠慮した彼は、近くの大小隈(佐賀市大和町礫石)庵を結び、そちらに移りました。

そこでの生活は、出家の時に常朝を剃髪してくれた高伝寺住持の了意和尚とただ二人・・・朝、早くに起きて、二人で読経し、二人で粥をすすり、二人で薪を採りに山へ出かけという、いたってシンプルなもの・・・

やがて、和尚が去った後の宝永七年(1710年)、和尚と入れ替わるように、常朝の庵を訪ねて来る者がありました。

同じ佐賀藩の田代陣基(たしろつらもと)という、常澄よりも20歳ほども年下の男・・・その年の3月5日からは、ほぼ毎日のように庵に顔を出すようになり、やがて、彼も、近くに住み着きはじめます。

♪浮世から 何里あろうか 山桜 ♪
と常朝が詠めば、
♪白雲や 唯今花に 尋ね合い ♪
と陣基が答える・・・

何とも風流で浮世離れした雰囲気の中で、常朝と交される談話・・・それを、陣基が書きとめます。

これが7年間続く・・・そう、この陣基が筆録した物が、かの『葉隠(はがくれ)という書物となるわけです。
(ちなみに『葉隠』が完成した時点で陣基は里へと戻ります)

今や原書は残らず、写しのみとなっている『葉隠』ですが、それは全11巻あり、武士としての心構えを説いた部分と、各藩の藩主や藩士の逸話の部分とで構成されています。

最も有名なのは、やはり冒頭に書いたこの部分・・・
『武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり。一つ一つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付(かたづく)ばかりなり』
「武士たる者、生きるか死ぬかの状況になった時は、即座に死を選ぶべきである」
という感じ??

それこそ、「山本常朝も『葉隠』も知らなくても、この言葉だけは、皆、知っている」というくらい有名で、あたかもこれが武士道の真髄のように受け止められ、潔く死ぬ事が大和魂であるかのように解釈する場合が、今現在でも多くあります。

しかし、考えてもみてください・・・それを言った常朝自身が、61歳まで生きてます。

それも、その最期は畳の上で、奥さんと養子・三四郎に見守られながら静かに・・・まして、彼の生きた時代は、島原の乱も終わり、鎖国も完成した、まさに元禄の最も平和な時代・・・

当然の事ながら常朝は合戦に出た事もなければ、命を賭けるような出来事に遭遇する事すらなかったはず・・・しかも、出家した今となっては、武士とは正反対の位置にいる世捨て人なわけで・・・

つまり、この『葉隠』の武士道論は実践経験から得た物ではなく、常朝の理想・・・悪く言えば、「絵にかいた餅」であり「机上の空論」なわけです。

それが少し垣間見えるのが、「武士道とは…」のくだりとともに有名な
『恋の至極は忍恋(しのぶこひ)と見立申候(みたてもうしそうらふ)。逢ひてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死(しに)するこそ、恋の本意なれ』
「究極の恋は忍ぶ恋・・・恋が実ってしまったら、その気高さは失われてしまう。一生心に秘めて、その人にこがれ死するのがホンモノの恋だ」
の部分・・・

確かにこれも「こがれ死」とは言ってますが、これを、「恋のために死になさい」と解釈する人は少ないのではないでしょうか?

どちらかと言えば、「その人にこがれ死するくらい惚れて惚れて惚れ抜けてな解釈のほうが自然な気がするんですが・・・(特に平和な時代の解釈としては)

また、常朝は、かの冒頭の「武士道とは…」に続いて、
『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。』
と言っています。

この中の『常住死身(じょうじゅうしにみ)とは、「いつでも死ぬ覚悟」という事ですが、前後の文章からして「いつでもイザという時には死ぬ覚悟だ」という事ではなく、「いつも死ぬ覚悟で挑め」だという事がわかります。

そうすれば「一生、落ち度なく仕事を勤め上げる事ができる」と・・・

つまり、仕事にも恋にも「死ぬ気で頑張れ」という事であって、「潔く死ね」という事では無いように思うのです。

ともあれ、そんな常朝に・・・晩年、最後の仕事とも言うべき仕事が舞い込んで来ます。

それは、享保二年(1717年)に、藩祖・鍋島直茂(なおしげ)(10月20日参照>>)百回忌に当たり、「これまでの先祖の功績をまとめて提出せよ」との藩の要請・・・これは、暗に、「過去の実績如何によっては恩典=ご褒美がある」事を意味しています。

実は、この時、常朝の父の実家である中野家は浪人の身・・・しかし、平和な時代となっては、合戦で武功を挙げる事はできませんから、もはや、その浪人生活は永遠に続くかに見えていたわけですが、直茂と同時代を生き、戦場を駆けた常朝の祖父・中野清明武功を申請すれば、何かしらの恩賞が貰えるかも知れないわけで・・・

で、常朝は、その書類の執筆を頼まれたわけです。

早速、常朝は、1週間ほどで下書きを書きあげ、浪人中の一門が皆、同等の恩賞が得られる事を願って、中野家へ手渡しました。

1ヶ月ほどして、養子の三四郎が吉報を持って常朝の庵を訪れます。

見事、申請した彼らが、扶持を拝領する事が決まったのです。

「父上!これは神通様(清明の法名)もお喜びになるに違いありません」
と息子も大喜び・・・

そう、実は、まもなく、常朝の祖父・清明の百回忌がひかえていたのです。

このタイミングでの吉報は、法要も盛り上がる事、間違い無しです。

享保四年(1719年)7月18日、その昔、常朝が鍛錬のために度々訪れた、あの勝妙寺にて、法要が盛大に行われました。

その法要の席で、常朝はポツリと言ったと言います。
「皆、もう、名前だけになってしもた…」
と・・・

堂内を見回しても、知った顔はなく、五十回忌の時に来ていた親戚は、皆、亡くなってしまっていて、今や61歳となった常朝が、長老のようです。

戦国を駆け抜けた祖父の法要で、ポツリと言った、この言葉・・・ひょっとしたら、常朝は、自らの理想を祖父・清明に見ていたのかも知れません。

もはや平和な時代に、例え「絵に描いた餅」であろうと、武士を捨てた自分が成し得る事が出来なかった理想を、『葉隠』に託したという事なのでは??

果たして、その3ヶ月後の享保四年(1719年)10月10日常朝は61歳の生涯を閉じます。

お経だけはあげられましたが、遺言により、引導を渡す(死者が悟りを得るように法語を唱えること)事なく、その夜に、遺体は庵の前にて野焼きにされたという事です。
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2012年10月 9日 (火)

真田幸村が九度山を脱出し大坂城へ…

 

慶長十九年(1614年)10月9日、関ヶ原の合戦の後、九度山に追放されていた真田幸村が九度山を脱出し、大坂城へ向かいました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦い・・・

ご存じのように、この天下分け目の戦いは、わずか半日で決着がついてしまい(2008年9月15日参照>>)・・・と言っても、決着がついたのは、加藤清正(かとうきよまさ)らの武闘派を取り込んだ徳川家康(とくがわいえやす)が、文治派石田三成(いしだみつなり)率いる派閥に勝ったという、あくまで豊臣家内の内紛であって、合戦後も主君=豊臣秀頼(とよとみひでより)と五大老筆頭の家康との関係は、何ら変わりなかったと、私=茶々は思っておりますが・・・
(くわしくは、
【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係】>>
もしくは【秀吉の遺言と家康の思惑】>>でどうぞ)

とにもかくにも、この関ヶ原の時に、一旦は家康の指示通りに、会津の上杉征伐に向かった真田昌幸(さなだまさゆき)信幸(のぶゆき・後の信之=兄)幸村(ゆきむら・信繁=弟)父子3人ですが、下野(しもつけ・栃木県)犬伏の宿にて三成からの密書を受け取った事から、話し合いのもと、兄の信幸は東軍について、そのまま徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)のもとへ馳せ参じ、父・昌幸と弟・幸村は西軍につく事にして居城の信濃(長野県)上田城に戻りました(7月21日参照>>)

その後、会津征伐のために留守にしていた伏見城を三成が攻撃した事を知った家康は、下野小山における軍議で突如のUターンを発表(7月25日参照>>)家康は東海道で(8月11日参照>>)、秀忠は中山道で、ともに西へと向かって進軍するわけですが、その秀忠の行く道にあったのが、かの上田城・・・

ここで、秀忠は、西軍に降って上田城に籠城する昌幸&幸村父子を相手に、思わぬ足止めを喰らってしまったため(9月7日参照>>)肝心要の関ヶ原に間に合わないという失態を演じてしまいます。

結局、秀忠は上田城を落とせねまま、あきらめて、西へ向かう・・・なので、上田城の合戦は昌幸&幸村父子の勝利という事になるわけですが、当然のごとく、本チャンの関ヶ原で西軍が負けているので、その勝利は意味を成しません。

本来なら、死罪は免れないところですが、上記の通り、東軍に味方して奮戦した兄の尽力によって、昌幸&幸村父子は高野山(和歌山県伊都郡)への蟄居(ちっきょ=屋敷の一室にて謹慎)となり、真田家の所領も、そっくりそのまま兄=信幸が受け継ぐ事となりました。
(てか、そのために親兄弟で東西に分かれてたのねん)

こうして昌幸&幸村父子は、高野山から、後に山麓の九度山に移って、14年に渡る謹慎生活を送る事になるわけですが・・・(12月13日参照>>)

ドラマなどでは、この間、豊臣恩顧の家臣としてのプライドを持ちつつ、家康への復讐の炎をメラメラと燃やし続ける真田父子ですが(ドラマなら、その方がオモシロイ)、現存する史料には、そのような物はなく、昌幸などは、「老後は町中でゆっくり暮らしたい」という手紙を国許に出し、関ヶ原の件の赦免とともに、「江戸や上田で暮らしたい」という希望を出し続けていたと言います。

Sanadamasayukisyozyou900 慶長八年(1603年)3月15日付・信綱寺宛ての真田昌幸の書状(信綱寺蔵)
:1ヶ月前に将軍宣下を受けた家康が、今度、江戸に行くので、その時に本多正信が(自分の赦免の話を)家康に持ちかけてくれる事を期待する内容…昌幸は合戦直後から、正信を通じて赦免を願い出ていたものと思われます。

一方も幸村も、先の12月13日のページに書かせていただいたように、多少の自由はあると言えど、行動範囲が決まっている九度山の生活には希望を持てず、また、生活が困窮を極めていた事もあって、何度も江戸か上田での生活を希望していたと言いますから、けっこうあきらめムードの漂う謹慎生活だったようです。

さらに慶長十六年(1611年)6月4日に、昌幸が病気で亡くなってからは、その昌幸の近臣たちもが上田に戻ってしまったため、幸村は、わずかの近臣とともに、山奥での寂しい生活が続く事になります。

なんせ、この時の幸村は、まったくの無名ですから・・・

昨年の「江」でも、ちょっと前の「天地人」でも・・・ドラマなどでは、関ヶ原の前後から、いや、その前から、ものスゴイ武将のように描かれる幸村ですが、「徳川を2度も破った男」として武名を誇ったのは父・昌幸であって、その父について参戦していただけの幸村は、未だ、「あの昌幸の息子」でしか無かったわけですから・・・

Sanadayukimura500 しかし、慶長十九年(1614年)10月・・・そんな幸村に絶好のチャンスがやって来ます。

黄金200枚、銀30貫を持参して、「大坂入城」を希望する秀頼の使者が九度山を訪れたのです。

そう、大坂の陣です。

これまで、征夷大将軍になりながらも、一応は豊臣家臣のポーズをとっていた家康が、亡き秀吉の悲願であった方広寺の大仏造営に尽力していた秀頼に向かって、その方広寺の鐘に書かれていた銘文にイチャモンをつけ(7月21日参照>>)大仏開眼供養の中止を要求して来たのです(7月26日参照>>)

話し合いは決裂し(8月20日参照>>)、いよいよ、両者が兵を集め出したわけです。

未だ無名の幸村・・・おそらくは、「父のような名声を得るには、これしかない!」と思った事でしょう。

とは言え、幸村は蟄居の身・・・この時も、紀伊(和歌山県)浅野長晟(あさのながあきら)が、周辺の名主らに命じて、幸村を監視させていたと言います。

かくして慶長十九年(1614年)10月9日・・・『翁草』によれば、

幸村は「身内に祝い事があるから・・・」と言って、近在の村人や村役人を大勢集めて、飲めや歌えの大騒ぎをし、彼らをさんざんに酔わせておいてから、かねてから示し合わせていた恩顧の者を招き入れ、九度山を後にしたのです。

♪村中を 酔わせて真田 すっと抜け♪

まもなく、村人たちは、この事に気づきますが、誰も、後を追おうと言う者がいなかったのだとか・・・

その後、山伏姿に身を変え、警戒をかいくぐりながら大坂に入った幸村は、大野治長(おおのはるなが=淀殿の乳母の息子で豊臣家の重臣)(11月5日参照>>)の屋敷へと向かいました。

・・・と、屋敷に着くと、どうやら治長は留守のよう・・・

奏者番(そうしゃばん=主君への取り継ぎ役)の者が
「どこの山伏か?」
と聞くので、
「大和(奈良県)の奥で修業している者ですが、祈祷に来ましたよって治長さんに会わせていただけませんやろか?」

すると、
「ただいま、城に行かれているので、ここで、少々お待ちを…」
と、ある部屋に通されます。

その部屋には、10人ほどの若い侍がいて、何やら、お互いの刀や脇差を見せ合いながら、目利きの真っ最中・・・

「あんたはんのも、見せてくださいよ!」
と一人の侍が言うので
「山伏の刀なんか、犬を追い払う時に使うくらいのモンで、大した刀やおまへんで」
と言いながら差し出します。

しかし、それは、抜けば玉散る名剣で、しかも、見事に手入れしてある・・・
あまりのスゴさに
「ただ者やないな!」
「お前、誰やねん!」

と、室内、にわかにザワつく中、

城から戻って来た治長が到着・・・

部屋に入るなり、幸村と目と目が合った治長は、ポンポンと彼の横方を打ち、その手を握りしめながら、上座へと招き
「来てくれると思てました!」
と涙を流したと言います。

もちろん、その後、すぐさま登城して、幸村の来訪を秀頼に報告・・・幸村を大坂城へと招き入れたのです。

ちなみに、先ほどの部屋で会った若者たちには、その後、城内で会うたびに、幸村は冗談まじりに
「刀の目利きは上達したか?」
と聞いて、彼らを赤面させていたとか・・・

さぁ、いよいよ大坂の陣が始まりますが、そのお話は、これまでイロイロ書いてますので【大坂の陣の年表】からどうぞ>>
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2012年10月 7日 (日)

橋本左内と安政の大獄

 

安政六年(1859年)10月7日、井伊直弼が行った安政の大獄で、越前藩士・橋本左内が斬首されました。

・・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)・・・それは、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かで日本を真っ二つに分ける事になります。

また、タイミングの悪い事に、この同じ年に第12代江戸幕府将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)が死去し、四男の徳川家定(いえさだ)後を継いで13代将軍になるものの、その家定が病弱で子供がいなかった事から、将軍に就任直後から、その後継者問題が持ち上がり、こちらも、現将軍に血筋の近い紀州藩主・徳川慶福(よしとみ=後の徳川家茂)を推す南紀派と、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男で御三卿(11月10日参照>>)の一つの一橋家の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)を支持する一橋派とに分かれます。

そんな中、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約の締結を迫られる幕府・・・

もはや、条約を受け入れるしかないと判断した幕府は、老中・堀田正睦(ほったまさよし)が京へと向かい、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ようとしますが、それはムリというもの・・・

尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉がありますが、これは、もともと別物だった「天皇を尊ぶ=尊王」「外国を排除する=攘夷」が結びついた物・・・時の孝明天皇が、大変な外国嫌いであったため天皇を支持する事はイコール外国を受け入れないという事だったのですから、皇から条約締結の許しなど、出るはずはありません。

しかし、その直後の安政五年(1858年)4月、幕府大老に南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が就任し、慶福を14代将軍に勧める一方で、天皇の勅許を得ないまま条約調印してしまうのです。

これを不服としたのが、前水戸藩主の徳川斉昭、その息子で現藩主の徳川慶篤(よしあつ)、そして尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく=慶永)ら・・・慶喜の父親である斉昭が含まれている事でもお解りのように、彼らは、皆、一橋派です。

そんな彼ら=一橋派が抗議の意を込めて、登城をボイコットした事から、直弼が、彼らを謹慎処分ににすると、それに反発した薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)が、兵を率いての上洛を計画します・・・ただ、その直前に斉彬が亡くなってしまうので(7月16日参照>>)、実際には上洛はありませんでしたが・・・

そんなこんなの8月・・・孝明天皇は、尊王攘夷の思いが強い水戸藩に対して、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を下します。

これは・・・
かの条約を、天皇の許しなく締結した事をとがめるとともに、幕府には今後は攘夷を推進するよう改革を行う事を命令し、諸藩には、それに協力して公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)を実現するよう指示する内容・・・これを、天皇が、幕府を飛び越えて水戸藩に直接下すという前代未聞の出来事だったのです。

しかも、朝廷内でも幕府寄りだった関白・九条尚忠(くじょうひさただ)完全無視して発せられた物で、この直後に尚忠は辞職に追い込まれます。

こうして、幕府を飛び越えての密勅に、完全に威信を潰された幕府・・・と言っても、ご存じのように実際に命令を出して実行したのは井伊直弼ですが・・・
早速、その密勅をひた隠しにしたまま、老中の間部詮勝(まなべあきかつ)と京都所司代の酒井忠義(さきただあき)を上洛させ、9月7日(8日とも)には、尊王攘夷論を展開していた梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)逮捕(9月14日参照>>)・・・続く10月には橋本左内(はしもとさない)逮捕されました。

これを皮切りに、武家だけでなく、公家の家臣にまで行われる一連の尊王攘夷派への弾圧・・・これが安政の大獄と呼ばれる物です。
(安政の大獄には、先の一橋派の藩主たちの謹慎も含まれる場合もあります)

一説には、先のアヘン戦争(8月29日参照>>)に敗北し、今やイギリスの属国と化している清(しん=中国)のようにならないためにも、国内を二分してモメてる場合では無く、「何が何でもどちらかに一致団結させなければならない」と考えた直弼が、恨まれる事を覚悟して行った(2006年10月7日参照>>)とも言われる安政の大獄・・・

Hasimotosanai600 その犠牲となった橋本左内は、福井城下の藩医の長男として生まれ、15歳の時に、自らを奮いたたせるための『啓発録(けいはつろく)を著していますが、そこには、その冒頭に5つの大事な事が書かれてあります。
 .

  • 稚心を去る
    毎日遊び呆けて楽な方へと暮らし、何かと言えば親に頼ろうとするような子供じみた心は、早く捨てる事。
  • 振気
    人に負けたくないという気持ちを大切に、自分を奮い立たせる事。
  • 立志
    目標をはっきりと決めて、それに向かって努力する事。
  • 勉学
    学ぶ事とは、本を読んで知識を増やす事ではなく、先人に習って、自分も負けまいと努力し、真の知識を高め心を鍛える事である。
  • 朋友を択ぶ
    自分を慕ってくれる友人は大切にしなければならない・・・ただ、他人に媚(こび)を売ってへつらう小利口な輩は、一見、人柄が良く見え、世間からも褒められるものだけれど、彼らとは違う目線で友人を選ぶ事・・・自分の欠点を指摘してくれる厄介な友人を大切にし、友人の見習うべきところは見習って、自らを高めてくれる友人を持とう。

ウォー!!15歳の少年の言葉に、大の大人の耳が痛くなる~~ヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ
もう、これだけでも、凡人では無い事がわかりますが・・・

その後、大坂へ出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の蘭学塾「適塾」(6月10日参照>>)に学びますが、嘉永五年(1852年)に父の病気により帰郷して藩医の跡目を継ぎました。

しかし、勉学への思いが断ちきれず、藩の許可を得て、今度は江戸にて遊学・・・やがて、安政二年(1855年)に、藩から帰郷を命じられますが、そこに待っていたのは、藩主・松平春嶽の側近という役職でした。

以来、左内は、春嶽の懐刀として活躍する一方で、度々江戸へ行っては、先の梅田雲浜や藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)西郷隆盛(さいごうたかもり)といった面々や横井小楠(よこいしょうなん)(1月5日参照>>)らとも交流を持ち、世界情勢へも目を向けながら、更なる学識を深めていったのです。

やがて安政四年(1857年)に江戸詰めとなり、ちょうど持ちあがっていた将軍継承問題に向き合う事になるのですが、一橋派の春嶽の懐刀の左内ですから、当然、一橋派として動くわけで・・・

さらに、朝廷を尊重し、幕府の独断ではなく、諸侯による話し合いで事を決断すべきといった自論を公家相手に語ってみたり、日露同盟論を主張して世界的視野に立った国家思想を持っていたり・・・

・・・と、これらの行動が、安政の大獄による弾圧の対象となりました。

安政五年(1858年)10月に捕縛された左内は、翌・安政六年(1859年)10月7日小塚原刑場にて斬首となりました。

わずか26年の生涯でした。

Hasimotosanaizyakou700 福井県立郷土史博物館には、藩主の春嶽が、獄中の左内に差し入れした麝香(じゃこう=香料・生薬の一種)が残っています(←左写真)。

左内は、これを「もったいない」として自分では使用せず、そのまま、手紙に添えて、福井で待つ母に送ったとか・・・

このブログでは、何度も何度も、口を酸っぱくして言っておりますが・・・

まことに、実に、惜しい・・・
幕末には、惜しい人が大勢、この世を去ります。

しかも、攘夷も佐幕も、どちらも、この国の未来を思っての行動であるところが、さらに、心痛みますが、彼らの犠牲のもとに、今の日本がある・・・だから、人は歴史を知らねばならないのだと思います。
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2012年10月 5日 (金)

足利尊氏の天龍寺・創建で大モメ

 

延元四年・暦応二年(1339年)10月5日、足利尊氏が天龍寺を創建しました。

・・・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)、その後に、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を持った足利尊氏(あしかがたかうじ)反旗をひるがえして京都を制圧した(6月28日参照>>)事で、吉野へと逃げた後醍醐天皇が、コチラでも朝廷を開く・・・これが、約60年の長きに渡る南北朝時代(10月27日参照>>)なわけですが・・・
(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

この間の両者の戦況に関しては、おおむね北朝が有利で、特に南朝=延元三年、北朝=暦応元年(1338年)の頃からは、しばらく戦闘も無く、京都の町では平穏が保たれていました。

とは言え、長きに渡る戦乱で国家の財政は破たんし、朝廷の儀式や年中行事は、しばらくの間、断絶したままになっていました。

古今東西、祭という物は、国家が安泰してしっかりとしている状況で行われる物で、これが怠っているという事は=政治が失墜しているという事・・・

そんな中、延元四年・暦応二年(1339年)8月16日、あの後醍醐天皇が、都奪回を夢見たまま、吉野にて崩御されます(8月16日参照>>)

そこで、尊氏の信頼篤い禅僧・夢窓疎石(むそうそせき・夢窗疎石)(9月30日参照>>)が進言します・・・
「今もなお、国家の混乱が続くのは、亡き後醍醐天皇の怒りが深いからではないでしょうか?
災いを鎮めるためにも、その菩提を弔う寺院を建立しませんか?

その言葉に、尊氏も、その右腕として活躍する弟の足利直義(ただよし)も納得・・・延元四年・暦応二年(1339年)10月5日天龍寺の創建が決定したのです。

こうして、第88代・後嵯峨(ごさが)天皇亀山離宮跡で始まった造営ですが、費用がどうしても足りず、途中で、幕府は、あの蒙古襲来(7月1日参照>>)以来途絶えていた元との貿易を再開して、何とか、その費用を捻出・・・

かくして興国六年・康永四年(1345年)、ようやく完成に漕ぎつけました。

Dscn9662a800 京都・嵐山にある天龍寺…天龍寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩の「竹林の里・嵯峨野&嵐山」でどうぞ>>

ところが、ここで大きな問題が起こります。

その落慶供養の席に、光厳(こうごん)上皇(7月7日参照>>)が出席する事を知った比叡山延暦寺が「待った!」をかけて来たのです。

当時、国家を護持する役目を負っていたのは比叡山を頂点とする天台宗山門のみ・・・そうではない天龍寺でやられては、比叡山の面目が丸つぶれです。

比叡山は、早速、夢窓疎石の流罪を要求すると同時に、天龍寺の破却を朝廷に願い出るのです。

これを受けた朝廷の会議では、喧々諤々の議論が交わされます。

「朝廷と山門の間には長い歴史があり、それを崩してはいけない」・・・なので、山門の意見を聞くべきという保守派。

「いやいや、理不尽な要求を突き付けて来る山門こそ罰するべき」・・・というイケイケ派

「両者の意見が対立してるんやったら、禅宗(天龍寺)と天台宗(延暦寺)で宗論(しゅうろん=宗教論で議論)で戦ってもろて、勝った方の言う通りにしたら?」・・・なんていうノホホン案も・・・

もはや収拾がつかない中、声を挙げたのは時の関白・二条良基(にじょうよしもと)・・・

「両方とも、ちゃんとした宗教やし、宗論で甲乙つけるなんてできんやろ。。。
それにしても、ここンとこ、政治の事は、皆、幕府が勝手に決断して処理して・・・いや、決める事は、えぇんやけど、普通、その決定を、最後に朝廷に委ねて、朝廷の決裁を仰ぐのが、これまでの道筋やんか。
どやろ?
今回は、その昔の方法を取るっちゅー事で、まずは幕府に処断してもろて、その結果を勅裁(ちょくさい=天皇による裁決)で仰ぐって事にしてもろたら・・・」

「・・・って、結局、幕府まかせか~~い!」というツッコミをする者もなく、むしろ、「もっともだ」という事になり、この問題は、そのまま、幕府へと持ちこまれます。

て、ゆーか、そもそも、創建してるのが尊氏なのに、そんなもん、幕府に委ねたら、イケイケ意見になるに決まってまんがなwww

案の定、尊氏らの意見は
「同じ仏教同志でいがみ合うて、供養を邪魔すんねやったら、武力でいてもたるだけやないかい!
と、比叡山の意見を全面却下!!

怒った比叡山は、奈良の興福寺に呼びかけ、強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)の構えです。

武力と武力のぶつかり合いに困ったのは朝廷・・・なんせ、今回は南都と北嶺(ほくれい)の僧兵が合同でやって来るのですから、ドえらい事に・・・

重臣たちは、何とか光厳上皇に供養への出席を取りやめてもらい、上皇には、供養の翌日に、仏縁を結ぶために天龍寺へ詣でていただく・・・という形をとる事にしました。

これには比叡山も納得・・・何とか、無事、事が収まりました。

かくして興国六年・康永四年(1345年)8月29日、尊氏をはじめとする幕府の重臣&公家のお歴々が、豪壮かる華麗なる大行列を整えて天龍寺に参拝し、空前絶後の豪華な供養が行われました。

予定通り、その翌日に、花園上皇&光厳上皇が参拝されたという事です。

めでたしめでたし・・・

ところで・・・
宗教の自由も保障され、多種多様の考え方が認められている現代で、しかも無宗教の茶々から見れば、なんか、葬式のやり方でモメる親戚のオッチャンみたいです・・・(ヘンな例えしてスンマセン)
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2012年10月 4日 (木)

「僕を京都に連れてって!」~足利義昭の上洛希望

 

永禄八年(1565年)10月4日、近江に滞在中だった足利義昭が上杉謙信に手紙を送り、北条氏康と和睦して上洛することを求めました。

・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)らによって暗殺されます(5月19日参照>>)

6歳の時に、御供衆(おともしゅう)細川元常(ほそかわもとつね)の養子となって、自らも、将軍の御供衆となって仕えていた細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)にとって、それは、たまたま非番の日に起こった事件でした。

久秀と三好三人衆らの思惑は、将軍=義輝を殺害し、その後、自分たちの思い通りになる操り人形的な将軍を擁立する事・・・その人物は、義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)で、父の代から将軍位を争っていたライバルだったのです。

藤孝にとっては、それは何としても阻止せねばならない事・・・そのために、今は、興福寺の僧となっている義輝の弟を引っ張り出さねば!!

これが、足利義昭(よしあき・義秋)です。

すでに久秀らの手によって幽閉の身となっていた義昭が、藤孝の手引きによって救い出され、近江国甲賀郡和田村の豪族・和田惟政(これまさ)の館へと身を寄せたのが、義輝暗殺から2ヶ月経った永禄八年(1565年)7月28日の事でした(7月28日参照>>)

そして、今回の永禄八年(1565年)10月4日・・・近江滞在中の義昭が、上杉謙信(うえすぎけんしん)に手紙を送って上洛を打診したというワケです。

永禄八年と言えば、あの桶狭間(5月19日参照>>)から5年経っていますが、織田信長(おだのぶなが)は、やっとこさ、その2年後に尾張を統一したばかり(2011年11月1日参照>>)、未だ、隣国の美濃(岐阜県)斎藤家に翻弄されている頃で、逆に、謙信にプレゼント攻撃をして気をひいたり、養女(遠山夫人)武田信玄(たけだしんげん)の息子=勝頼(かつより)に嫁がせて友好関係を築いたりと、まだまだ、両巨頭に低姿勢で対応していた頃・・・

やはり、この頃に、義昭が最も頼りにしたのは謙信だったという事なのでしょう。

『義残後覧』には。
「三好は、義昭公の仇やよって、もし、滅ぼしてくれって言いはるんやったら、それこそ、この謙信にとっては、お安い御用でっせ。
人数集めて合戦には及ぶまでもなく、三好らが賀茂の競馬を見物に来た時にでも、ケンカふっかけて殺ってもたりますさかい」

てな事を19歳の時に言った・・・なんて事が書かれていますが、さすがに、これは年齢的にあり得ない話ですが、後世の人に、そのように思わせるような雰囲気はあったという事でしょう。

しかし、ご存じのように色良い返事はもらえなかった・・・

なんせ、謙信も、その前年の永禄七年(1564年)8月には、大戦にはならなかったとは言え、信玄との川中島が、未だ継続中でした(8月3日参照>>)から・・・

やむなく藤孝らは、義昭を奉じて、翌・永禄九年(1566年)に朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)を頼って越前(福井県)へと身を寄せますが、この義景も動こうとはしない・・・

Dscf1269pa600 そこで、義昭は、この越前に滞在しながら、自らを助けて京へと上ってくれる有力大名を求めて、せっせと手紙を書き続けるのです。

先の上杉をはじめ、武田斎藤島津毛利六角・・・それこそ、手当たりしだいに、僧兵という兵力をかかえる有力寺院にまで声をかけましたが、やはり、良い返事はもらえませんでした。

そんな時、藤孝に声をかけたのが、当時、朝倉氏に仕えていた明智光秀(あけちみつひで)・・・

光秀が言うには、
「僕の親戚の娘(こ)の嫁ぎ先が尾張の織田信長という人で、僕、その人から“俺んトコけぇーへんか?”って誘われてるんですけど、その人を頼ってみませんか?」
と・・・

しかし、おそらく義昭側から見れば、信長は役者不足・・・
「誰や?それ・・・そんな田舎大名、知らんゾ!」
てな感じだったでしょう。

そんなこんなしてるうちに、永禄十年(1567年)8月、信長は念願の斎藤氏を滅ぼし(8月15日参照>>)稲葉山城を手に入れ、そこを岐阜と改めて本拠とします。

それをキッカケに信長が使い始めたのが、ご存じ『天下布武』の印鑑・・・

Nobunagatenkafubu500 この『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味ですが、この天下という言葉が日本全国を指すかと言えば、そうではなく、後々、いずれは日本全国と同じ意味になるとしても、当初の目標としては畿内を押さえるという意味・・・

なんせ、戦国時代は全国各地、それぞれの大名が治めるバラバラの国なわけですが、その上に天皇家&朝廷という存在があるわけで、天皇家に認めてもらえていない間は、あくまで実力行使でそこを治めているに過ぎないわわけで、いくら「俺は、この国の支配者だ!」とイキがってみても、それは単に「自称・支配者」なわけで・・・その天皇様がおわすのが京都・・・

「京都を制すれば天下を制す」というのは、そういう意味ですね。

という事で、ここで『天下布武』の印鑑を使い始めた信長は、明らかに天下を意識していたわけですが、それこそ、ただ京都に行ったからと言って、即、「君はその国の支配者だ!」と朝廷が認めてくれる事は無いわけで・・・現に、信長は、尾張統一の前後に、お得意の派手々々ファッションで鳴り物入りの上洛を1度果たしてします(2010年11月1日参照>>)、朝廷はもちろん、将軍・義輝にも軽くあしらわれ、単なる田舎大名の都見物で終わってしまったという苦い経験があります。

確かに、その頃よりは成長し、岐阜も手に入れた信長ですが、もうワンランク上の何か・・・手土産みたいなのを持って行かない限り、朝廷は相手にしてくれないかも・・・

一方の、義昭側は、それでも、朝倉や上杉に匹敵するような名門を模索中であったと思われますが、ここに来て、ケツに火がつきます。

そう、あの久秀と三好三人衆が擁立した義栄です。

これまで、義輝の死亡以来、3年間空席となっていた将軍のイス・・・永禄十一年(1568年)2月8日、これまで拒絶していた朝廷が、いよいよ、義栄を第14代室町幕府将軍と認め、将軍宣下が成されたのです。

もう、名門だ役者だなんて事、言ってられません。

かくして永禄十一年(1568年)7月、義昭は、
「足利家再興に力を・・・ともに天下を統(す)べろうぞ!!」
と、信長に声をかけるのです。

「キタ━(゚∀゚)━! 」
上記の通り、上洛の手土産=大義名分を探してした信長にとっては、最高の手土産が手に入りました。

早速、信長は、翌・8月に、前年に妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって味方につけていた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に会って、上洛への道筋を再確認(6月28日前半部分参照>>)その翌月の9月に、義昭を奉じて上洛するのです(9月7日参照>>)

上洛を阻む六角承禎(じょうてい・義堅)父子を追い払い(9月13日参照>>)、三好三人衆を蹴散らし(9月28日参照>>)・・・ちなみに、松永久秀はちゃっかりと、作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを信長に献上して、その傘下となっています(12月26日の冒頭部分参照>>)

ところで、そもそも、最初に声をかけた謙信は??

謙信が、義昭の手紙にあった北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶのは、この信長上洛の翌年の永禄十二年(1569年)3月・・・それも、上洛うんぬんではなく、あくまで信玄をけん制するための同盟だったと言われていますので、一刻も早く上洛したい義昭さんサイドが信長に鞍替えした事は正解だったかも知れません。

ただし、その後の事は、展開から見て正解とは言い難いですが・・・なんせ、将軍をたててくれる他の戦国大名と違って、信長は、自分で治める気満々の『天下布武』ですから・・・
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2012年10月 2日 (火)

娼妓解放令と三英傑の人身売買禁止

 

明治五年(1872年)10月2日、明治政府による芸妓・娼妓・奉公人の人身売買の禁止、年季奉公の制限と前借金の無効宣言した娼妓解放令が布告されました。

・・・・・・・・・・・

実はコレ、以前書かせていただいたマリア・ルーズ号事件に関係して布告された法令です。

この事件は、明治五年(1872年)6月5日、嵐で破損した船体の修理のために横浜港に入港したペルー船籍の汽船=マリア・ルーズ号が、実は清国(中国)人奴隷を運ぶ奴隷船だった事が発覚した事で、時の外務大臣副島種臣(そえじまたねおみ)は、船長らを逮捕して、船には横浜港からの出港停止を命令を出し、その後、「清国人奴隷全員の解放を条件に出港を許可する」とした事件です(9月13日参照>>)

しかし、相手側は、「これは奴隷船ではなく移民船である」と主張し、さらに「日本にも遊女という奴隷制度がまかり通っているのに、なぜ、俺らだけが罪になる!」と、日本の、年季奉公の証文を差し出しながら抵抗・・・

とにかく、この時は、強引に日本側の主張を押し進めた事で、その年の9月13日に、マリア・ルーズ号に乗っていたすべての清国人が解放され、帰国の途についたのですが、「おそらく、相手国のペルー政府も、このままでは引き下がるわけはない」という予想のもと、次の交渉で、相手側に痛いトコ突かれないよう、対処したのが、明治五年(1872年)10月2日の、この娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)・・・とい事ですが、わずか半月で布告に漕ぎつけるスピードは大したものです。

とは言え、お察しの通り、この法令1発で、年季奉公という名の人身売買がバッサリと無くなるというワケはなく、その後も手を変え品を変え・・・結局は、もうしばらく続く事になりますが・・・

なんせ昔は、現在のように生活保護があるわけでもなく、大飢饉に襲われて餓死者が続出しても、その損害を補てんしてくれる制度も無いわけですから、売る物が無い貧困家庭なら、「一家全員が飢えて死ぬよりは…」という考えがあった事も確かです。

薩摩の有力豪族だった二階堂氏には、ある1通の証文が残っているそうですが、そこには・・・
「永正八年(1511年)辛未年の飢饉たるによて、あさ(字)と申女子年廿二歳(22歳)に罷成(まかりなり)(そうろう)を、永代に二階堂山城守殿おうちさま(奥さん)に飢饉相伝の下部(しもべ)と身をはめ申候事実也(じつなり
右件
(くだん)の御下部と罷也候うへは、於以後に、違乱防(いらんさまたげ)を親類兄弟などとて申者あるまじく候。
(もし)にけはしり(逃走)候て、如何なるけんもん(権門)富家神社仏寺の御領内へ罷入り候共、以此状御さた(沙汰)あるべく候。
其時一儀一口のあらそひ申べからず候。
(よって)為後日証文如件(くだんのごとし)。」
という文章とともに、初本人のサインが書かれてあるとか・・・

「親類兄弟も一切異議を唱えない」
「逃亡して、有力者や神社仏閣に逃げ込んでも、この証文を示されたら、ひと言も争わない」
なんとも悲しい限りですが、上記の通り、「一家全員が餓死するよりは…」と、娘さん自らが身売りを決意する事もあったと言います。

また、有名なところでは、「花いちもんめ」・・・

これは、手をつないでグループになった二組が向かい合って
♪ふるさとまとめて花いちもんめ
 あの子がほしい あの子じゃわからん…♪

歌いながら、ジャンケンで仲間を奪い合うゲームですが、

「花」は咲いてる花ではなく、「花代」・・・つまり、娼婦に支払う代金の事で、「いちもんめ」は、文字通り「一文目」という金額・・・

♪勝ってうれしい♪
「買ってうれしい」という人買いのセリフで、
♪負けてくやしい♪
(値段を)まけてくやしい」という売る側のセリフだとも言われていますね。

ただ、もしそうだとしたら、売りする状況が、子供の遊びとして残っているなんて、現代の感覚では理解し難いですが、ひょっとしたら、まだ、そっち=食べるために身を売る方がマシだったという事なのかも知れません。

そう、実は、戦国時代にはもっと悲惨な「乱取り」による人身売買というのが公然と行われていました。

戦国時代に終わり頃には・・・

  • 天正十五年(1587年)6月18日に豊臣秀吉日本人を奴隷として海外へ売る事を禁止(6月18日参照>>)
  • 天正十八年(1590年)4月27日に同じく秀吉が上杉景勝らの人身売買を禁止
  • 慶長十四年(1619年)12月22日江戸幕府が12箇条の「人身売買禁止令」を発布
  • 寛永三年(1626年)4月27日江戸幕府が人身売買を禁止

と、度々、人身売買の禁止令が出ています。

それだけ、たくさんあったという事ですね。

有名なところでは、義の人として知られる上杉謙信が・・・

実は、謙信の度々の関東遠征は、豪雪地帯である領内の冬季の口減らしのためと、乱取りによる出稼ぎのためだったとも言われています。
(もちろん、それだけではなく関東管領などイロイロ理由がありますが…)

乱取りとは、戦闘ではなく、いわゆる略奪行為・・・放火や刈田をして一般民衆を襲い、その家にある食糧や物品はもちろん、人まで誘拐して売り払い、農閑期の生活を成り立たせていたのです。

謙信が北条と戦った小田原籠城戦の時には、人身売買の市がたったという記録もあります。

また、以前、志賀城攻略のページ(8月17日参照>>)でご紹介した武田信玄も有名で、言わば身代金のような格好で、法外な値段をつけて身内に返すという方法で儲けていたと言われます。

ただ、この場合、家族が、その提示された金額を払える場合は、何とか無事、取り返せますが、払えない場合は、やはり悲惨な結果となります。

なにぶん、謙信も信玄も、そして多くの戦国大名たちも、未だ兵農分離されておらず、合戦に動員される兵士の中で8割が一般農民だったとも言われ、農閑期の彼らが、稼ぐためには、乱取りしかないのが現状でした。

それを、打ち破ったのが兵農を分離させた織田信長・・・兵士は兵士として稼ぎ、農繁期&農閑期に関係なく、1年中いつでも戦えるプロの戦闘集団にした事で、乱取りなどしなくても生活できるようになるわけで・・・(もちろん、信長の時点では未だ完成形にはほど遠かったとは思いますが…)

信長の場合は、黒人奴隷を連れて日本にやって来て、九州のキリシタン大名たちをはじめ、アジア各国で人身売買をする宣教師たちに対して
「ウチは人身売買を禁止してるんやから、君らも、もう、やめたら?」
てな事を言っていたようなので、たぶん、してなかったのでしょう。

そして、上記の通り、秀吉も禁止しているので、たぶんやってない・・・一説には、秀吉が出した切支丹禁止令も、その理由の一つには、当時、宣教師を通じてヨーロッパと交易していた九州のキリシタン大名が、何万人もの九州の女性を交易に使っていた事を禁止するためもあった(6月18日参照>>)と言われます。

さらに徳川家康も・・・さすが三英傑です。

ただし、この場合も、そして、江戸時代を通じても、年季奉公など、お金のために・・・というのは禁止してはいないのですが・・・

それを禁止するためには、やはり貧困層への支援が必要ですから、もう少し、時を待たねばならなかったのかも知れません。
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2012年10月 1日 (月)

義仲・初の敗戦~源平・水島の戦い

 

寿永二年(1183年)閏10月1日、西国へと都落ちした平家と、その追討を命じられた木曽義仲が戦った水島の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

平清盛(たいらのきよもり)によって築かれた平家全盛の時代・・・

かねてより、その事に不満を持っていた後白河法皇(ごしらかわほうおう)の第3皇子・以仁王(もちひとおう)は、ついに起こった治承三年の政変(11月17日参照>>)にブチ切れ、翌・治承四年(1180年)4月に、各地の反平家勢力に向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発します(4月9日参照>>)

この時の以仁王の挙兵そのものは、平家の手によって潰されます(5月26日参照>>)、令旨を受け取った者の中に、平家打倒の気運が高まるのは当然の事・・・

3ヶ月後の8月には、あの平治の乱で伊豆に流罪(2月9日参照>>)となっていた源頼朝(みなもとのよりとも)関東武士を率いて挙兵(8月17日参照>>)・・・

翌・9月には、木曽中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで育った(8月16日参照>>)源義仲(みなもとのよしなか=木曽義仲・頼朝とは従兄弟)が、北陸にて初陣を飾ります(9月7日参照>>)

こうして、太平洋側から頼朝が、北陸から義仲が京に向けて進軍する事になりますが、もちろん、たとえ大黒柱の清盛を熱病で失った(2月4日参照>>)と言えど、平家も、それを阻止すべく追討軍を派遣するのですが(個々の戦いは【源平争乱の年表】からどうぞ>>)先に平家を脅かしたのは義仲のほうでした。

寿永二年(1183年)5月倶利伽羅(くりから)峠の戦いに圧勝し(5月11日参照>>)、翌6月篠原の戦い(6月1日参照>>)に撃ち勝った義仲が京都を射程距離内に収めた事で、翌7月平家は都を捨て(7月25日参照>>)一旦、西国へと逃れて挽回のチャンスをうかがいます。

こうして、その3日後に、意気揚々と、平家のいなくなった京都に入った義仲(7月28日参照>>)・・・一方、平家が都落ちする時には、比叡山に身を隠して義仲の到来を心待ちにしていた後白河法皇でしたが、木曽育ちで都のしきたりにウトい義仲の行動を知った途端に、法皇の気持ちは冷めてしまいます。

たぶん、心の中では
「同じ源氏なら、礼儀をわきまえた頼朝のほうがええわ!」
と思ったに違い無い法皇ですが、その事はおくびにも出さず、義仲に、更なる平家追討の命令を出すのです。

もちろん、そこには、「西で態勢を整えた平家が、再び京を奪回しに来る」という噂が立っていた事も事実ですが、法皇としては、「とにかく義仲を遠ざけて、その間に頼朝と接触しようという魂胆だったわけです。

義仲は、それを知ってか知らずか・・・いや、気づいていたとしても、義仲自身も、ここで、今一度平家にガツンと言わせておいた方が良いわけで、法皇の命令通りに追討に向かうのが妥当なところ・・・

かくして、今は四国の屋島に拠点を置いて、京都奪回を狙う平家に向けて、義仲は一旦、進発するのですが・・・

ここのところ、畿内では飢饉が続いていた事で、大量の兵士を養うための兵糧の事を心配したのか?
義仲は、7000の軍勢のうち3000だけを現地に残し、自身は京へと帰還するのです。

この事が、義仲の敗因の一つとも言われますが、とにもかくにも、この状況で、
寿永二年(1183年)閏10月1日平家VS義仲軍の水島の戦いが展開されます。

Mizusimanotatakai600 水島の戦い(林原美術館蔵)

この日、屋島攻撃のために約500艘の船に分乗して。水島(岡山県倉敷市)を出撃した義仲軍に、約1000艘を誇る平家軍が攻めかかるのです。

しかも、はなから水運に長けた平家軍は、船での戦い方も熟知したもので、あらかじめ船同士をつないで、陸戦と同様の陣形を形成しているだけでなく、そこに板を渡して、船と船を縦横無尽に行き来できるようにして、移動しながら矢を射かけて来るのです。

たまらず、義仲軍が陸に戻ろうと船を向けると、平家軍には、すでに船や海に慣れた馬が備えられてあり、馬で海を泳いで海岸に上陸して、すぐさま戦闘に入るという見事な態勢・・・

激戦が展開される中、やがて、この戦いに際して義仲から大将を預かっていた源義清(よしきよ・足利義清)海野幸広(うんのゆきひろ)という両大将が討死してしまいます。

・・・と、その時・・・

にわかにあたりが薄暗く・・・たぶん、真っ暗闇てな事は無かったとは思いますが、ただ事では無い何かを察する事ができるほど、あたりが暗くなった事は確かです。

そう、実は、この日、太陽と月と地球が一直線に重なる日食があったのです。

Dscf1443b この日の日食は、今年=2012年の5月21日にあったのと同じ金環食だったと言われています。

「いやいや、アレやったら今年見たけど、日食グラスで確認せん限り、欠けてるかどうかもワカランかったゾ!」
とお思いかも知れませんが・・・(かく言う私もその一人です)

しかし、この時代の1級史料とされる九条兼実(くじょうかねざね)の日記=『玉葉(ぎょくよう)にも、軍記物の『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)にも、この日食の事が書かれています。

もちろん、現在の天文学で計算した結果でも、この日に日食があったであろう事は確か・・・

かの九条兼実が日食グラスを持っていたとは思えませんから、やはり、この時の金環食は、肉眼で確認できたという事なのでしょう。

『源平盛衰記』にいたっては、
「この日食の事を計算済みだった平家と、まったく知らなかった義仲軍の動揺の差がハンパなく、この状況に恐れをなして義仲軍が敗走していった」
事になっているようです。

実際に平家が、この日の日食の事を計算して知っていたかどうかは確認する事はできませんが、身内から何人もの公卿を輩出し、朝廷に近い立場にあった平家なら、宮中お抱えの陰陽寮(おんみょうりょう=天文・時・暦の編纂や占いを担当する部署)天文博士とも接点があるかも知れませんから、知っていた可能性は高いかも知れません。

とにもかくにも、こうして、初陣以来、初めての敗戦を経験した義仲・・・しかも、その間に後白河法皇が頼朝と接触していた事を知った事で、その怒りは頂点に達します(11月18日参照>>)

一方、戦いに勝った平家は、再び、拠点を福原(現在の神戸)に戻し、態勢を整える事になります・・・ここが、後々、合戦の場となる一の谷ですね(「一の谷の戦い」については2月7日のページでどうぞ>>)。
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