« 大阪天満宮の流鏑馬神事 | トップページ | 周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王 »

2012年10月29日 (月)

武田信玄の伊那進攻

 

天文十三年(1544年)10月29日、武田方の先鋒・武田信繁伊那荒神山砦を包囲しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・

天文十年(1541年)、とにもかくにも父・信虎(のぶとら)を追いやって(6月14日参照>>)甲斐(かい・山梨県)一国の当主となった武田信玄・・・(当時の名乗りは晴信ですが、本日は信玄で通させていただきます)

その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父・信虎が手をつけらながらも達成する事ができなかった信濃(長野県)攻略へと駒を勧め、諏訪一族の1人・高遠頼継(たかとおよりつぐ)の寝返りを足がかりに、諏訪氏の本拠地・上原城(茅野市)を攻撃・・・翌7月に降伏した諏訪頼重(すわよりしげ)甲府東光寺に幽閉された後に切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)

かくして、その頼重の遺領配分・・・

この時、信玄は、遺領の西半分は頼継に与えましたが、東半分は武田の領地に組み入れます。

これが、頼継には気に入らなかった・・・

すぐさま、武田勢が守る上原城を襲撃し、諏訪社も占領します。

もちろん、信玄もこれに黙ってはいられません。

・・・が、未だ征服したばかりの土地・・・諏訪一族の人物を信玄があからさまに討ち果たしては、旧臣の反発を誘いかねません。

そこで、信玄は自らの妹・禰々(ねね)の息子で、わずか生後6カ月の寅王(とらおう)前面に推しだして出陣します。

実は、この禰々は、亡き諏訪頼重に嫁いでいたわけで、つまり寅王は頼重の遺児という事になります。

この寅王を掲げた武田の大軍を安国寺にて迎え撃つ頼継でしたが、やはり、配下の者の中には、かつての主君の遺児に弓を向ける事に抵抗ある者も少なく無く、あえなく敗退・・・伊那方面へと逃走します。

その頼継を追って、怒涛のごとく伊那へ進攻した武田軍・・・

この時、武田方の先鋒を任されていた駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、天文十一年(1542年)9月26日に荒神山砦を奪取し、頼継と結託している藤沢頼親(よりちか)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)に迫ります。

大軍を前にした頼親は、その2日後にあっさり降伏して甲斐に出仕しますが、これは、その場逃れのポーズだけの降伏・・・結局、2年後にまたもや反旗を翻すのです。

こうして、再び伊那への進攻が開始された天文十三年(1544年)10月29日、信玄から武田軍の先鋒を預かった弟の武田信繁(のぶしげ)が、伊那荒神山砦を包囲します。

Singensinanocc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この伊那荒神山砦は、頼継が本拠とする高遠城(長野県伊那市)と頼親の福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)とを結ぶ地点にある要所・・・

すでに、信濃守護小笠原長時(おがさわらながとき)とも結んでいた頼継方には、その長時から派遣された兵も陣取っていましたが、信繁は、これを、わずか3時間で蹴散らし、またたく間に120の兵を討ち取って、砦を奪い取り、ここを拠点として、福与城周辺へと攻撃を仕掛けます。

今1度撤退するも、この戦いは翌年の4月に、福与城を陥落し頼親を降伏させる事によって信玄の勝利となり、信玄は上伊那の大半を手中に収める事となるのです。

その後、信玄の矛先は、さらに北へ・・・と向かいます(8月17日志賀城攻略参照>>)
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 


|

« 大阪天満宮の流鏑馬神事 | トップページ | 周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

コメント

茅野にはちょっと行ったことがあるのですが、大河ドラマ「風林火山」をやっていた時期だったので、その辺の小山がみんな城跡に見えてしまうのです。「安国寺」の交差点は自動車教習の目的地になっていたのでよく行きました。そこから南に行くと杖突峠の山道です。今回の記事の目的地はその先ですよね。
ほかにも意味ありげな「高遠」という交差点もあるし、山奥のほうは町名が「米沢」で、私などは大混乱するし、部外者には茅野は謎だらけです。
残念ながら上原城には行けませんでした。
ところで、名代官だった関東郡代の伊奈氏はこの地方と関係があるのでしたっけ?

投稿: りくにす | 2012年10月29日 (月) 20時54分

りくにすさん、こんばんは~

なんと、このあたりを自動車教習で…
地名がそのまま残っていて良いですね~

明日香のあたりに行くと、どこもかしこも古墳に見えてしまうのと同じですね。

ところで…
関東郡代の伊奈氏は、やはりこの伊那に関係あるようです。
足利義尚の時代に、伊那に領地を貰ったのが始まりと聞きました。
それ以上のくわしい事は、まだ、知りませんが…

投稿: 茶々 | 2012年10月29日 (月) 23時47分

勉強させてもらってます。歴史をさかのぼる事で、現代に通じる何かがあると思われてなりません。
果たしてその作戦が良かったのかは、検証することで、歴史の醍醐味が出ると考えます。その上で先人達から学び。
ただホームページを読むだけに終わらせないようにしたいものです。
これだけ詳しく書いてあると、こうしていたらどうなったか?と考えてしまいますけどね。
それじゃあフィクションになりますが。
茶々氏は考える、こうやればこうなったと思うとか読みたくなります。

投稿: おいらん淵 | 2012年10月30日 (火) 12時26分

おいらん淵さん、こんにちは~

そうですね。
「もし、この時、こうしていたら」とか、
「もし、この人が、もう少し長生きしていたら」とか、考えるのは楽しいです。
また、
点と点をつなぎ合わせた時に、つじつまが合わなくて、うまく繋がらない時、
「この点とこの点の間に何があったんだろう」と考えるのもワクワクします。

ただ、おっしゃる通り、それをするには、かなりの予備知識が必要です。
このブログをはじめて6年目になりますが、初めは基本的な出来事から…登場人物も有名どころばかりでしたが、年月が経つにつれ、徐々にマイナーな人物やマイナーな出来事にもスポットを当て、同じ出来事の場合は、より掘り下げて書こうと心がけています。
つまり、私も、イロイロと勉強しながらの更新です。
いつか、自分自身の見解を堂々と述べられるようになれば…と、
それを目標に日々、頑張りますです。
長~い目で、見守っていただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2012年10月30日 (火) 16時48分

茶々様、こんばんは。本文と関係ないことにお答えいただきありがとうございます。
昨日googie地図で「高遠」の交差点を探したのですが分かりませんでした。安国寺の近くのはずですが。
ドラマをちゃんと見ていたら「高遠頼継の本陣がここだったの?」と思えたのでしょうけど当時は忘れておりましたし、教習中だから降りて確かめるわけに行かないし、宿舎から遠いし…
(寅王丸だけ覚えておりましたが)
ちなみに私の住んでいる街は幕末に韮山代官領だったと最近知りました。案外こちらの方が謎だらけなのかもしれません。

投稿: りくにす | 2012年10月30日 (火) 22時54分

りくにすさん、こんばんは~

韮山と聞いて、伊豆のあたりだけかと思いましたが、意外にも代官領はかなりの広範囲みたいですね~

管轄が広いとお代官様も大変なのかな?と…

投稿: 茶々 | 2012年10月30日 (火) 23時43分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/47633119

この記事へのトラックバック一覧です: 武田信玄の伊那進攻:

« 大阪天満宮の流鏑馬神事 | トップページ | 周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王 »