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2012年10月19日 (金)

「家康様一筋に…」無二の忠臣・石川家成

 

慶長十四年(1609年)10月19日、徳川家康にとって無二の忠臣と言われた石川家成が死去しました。

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石川家成(いしかわいえなり)の父・石川清兼(きよかね)は、徳川家康誕生の時に蟇目役(ひきめやく)を務めたほどの重臣で、その次男(もしくは三男)である家成も、家康が、駿河(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)のところで人質生活(8月2日参照>>)をしていた頃からの譜代の家臣でした。

蟇目役:出産や病気のときに、邪気をはらうために蟇目という射たときに音を響かせる儀式的な矢を射る役】

いわゆる徳川四天王のような有名どころではありませんが、あの永禄三年(1560年)5月の桶狭間のゴタゴタによって、家康が今川の呪縛から解き放たれて(5月19日参照>>)独立して以来、常に最前線て敵と向き合って来たツワモノです。

中でも、家康の信頼を一身に受けるようになったのは、永禄六年(1563年)の三河一向一揆(9月5日参照>>)の時・・・

実は、それまでの家成父子は、熱心な一向宗信者で、むしろ、徳川軍団の中では、信仰の中心的存在であったにも関わらず、一揆が勃発した途端に速やかに改宗し、その鎮圧にも大活躍しました。

信仰よりも主君を選んでくれた事に、いたく感謝した家康は、すぐさま、家成に西三河の支配を一任するほどでした。

やがて、軍団は、家成の事を『西三河の旗頭(はたがしら=旗本の先手)酒井忠次(さかいただつぐ)(10月28日参照>>)の事を『東三河の旗頭』と呼ぶように・・・つまり、家康初期の頃の両巨頭といった扱いを受けていた事になります。

やがて、家康が義元亡き駿河にターゲットを絞る頃になると、家成は、常に家康のそばにいて長期戦略の立案に関わるようになります。

そう、義元の後を継いでいた今川氏真(うじざね)に対して、あの武田信玄(たけだしんげん)が猛攻を仕掛ける(12月13日参照>>)わけですが、最終的に、掛川城を開城させて(12月23日参照>>)、今川を滅亡に追い込んだのは家康・・・

しかも、その後の氏真の行動を見ると、何やら水面下で画策していたとも受け取れる雰囲気・・・(3月16日の中盤参照>>)

この一連の戦略に、言わば軍師のような役割で、ものすごく貢献していたとおぼしき家成・・・現に、氏真から奪い取った掛川城に、家康はすぐさま家成を入れて、彼を掛川城主とし、『西三河の腹頭』の役回りは、彼の甥っ子の石川数正(かずまさ)に与えていますから・・・

Kakegawazyouezu600 正保年間の掛川城絵図

もちろん、その次の姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、家康勝利に貢献するわけですが、その頃から三河に触手を伸ばし始めた信玄(10月14日参照>>)に対しても、掛川城という最前線で一歩も退けを取らなかったとか・・・まぁ、家康自身は三方ヶ原でピンチ(12月22日参照>>)でしたが・・・

その後、天正八年(1580年)には、家督を長男の康通(やすみち)に譲って隠居・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐の後に、家康が江戸へ(7月13日参照>>)移ってからは、伊豆にて隠居生活を送っていました。

ところが、慶長十二年(1607年)に、その康通が、未だ後を継げないほどの幼い息子を残して亡くなってしまい、やむなく家成が、その後を継ぐ事に・・

つまり家成は、74歳にして大垣藩第2代藩主となったのですが、そのわずか2年後の慶長十四年(1609年)10月19日家成は、その生涯を終えるのです。

しかし、その信頼度が伺えるのが、その死後・・・本来なら、後継ぎがいないまま当主が亡くなった場合、断絶となるのが江戸時代を通じての徳川将軍家の基本方針なわけですが、この石川家の場合・・・

家成の娘の子供・・・つまり、外孫を家成の養子にして、第3代藩主・石川忠総(ただふさ)とし、石川家を存続させたのです。

もちろん、これは家康の命・・・やはり、忠誠を貫いた律儀者への、家康の配慮という事なのでしょうね。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

徳川家は家成さんのような縁の下の力持ちというか、地味ながら良い家臣に恵まれて…。という話をよく聞きますが、実戦面では小牧・長久手がピークで、あとはロクな戦をしてませんね。

関ヶ原の時は秀忠が率いた主力はあの体たらくでしたし、大坂の陣では城方の諸将の勇戦ぶりの方が光っています。

家成さんたちの時代に築いたブランド・イメージを最大限に利用して、後は政略で押していった感じ。

徳川家の歴史のつまんなさ?はそんな所に起因しているように思いますが、それだけお祖父さん世代が孫子の分まで頑張ったと云うことでしょう。

投稿: レッドバロン | 2012年10月24日 (水) 18時26分

レッドバロンさん、こんばんは~

確かに…
お爺さん世代がガンバった感ありますね~

投稿: 茶々 | 2012年10月25日 (木) 02時13分

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