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2012年11月30日 (金)

火の神・カマド神~ひょっとこと竜宮童子のお話

 

いよいよ明日から12月・・・

すでに寒いですが、師走に入ればもっと寒くなるんやろなぁ~・・・てな事を考えていたら、何やらあったか~い話がしたくなったので、本日は「火の神様=カマド神」のお話をしましょう!

・・・・・・・・・・・

カマドと言えば、「おクド(火処)さん」・・・関西では「へっつい(戸津火)さん」なんて呼ばれて、「三つべっつい」「五つべっつい」火口が複数あるカマドが一般的で、大きなお屋敷なんかは、その数の多さを誇った物ですが、関東では火口が一つで二つの鍋を乗せる「二つべっつい」が一般的だったそうです。

Dscn2100a900 複数の火口がありますね~(奈良県今井町・米谷家のカマド)…今井町については2008年7月4日のページでどうぞ>>

とにもかくにも、このカマドは、今で言うところのコンロなわけですが、昔の人から見た感覚は、単なる調理をする場所というだけでなく、おいしい料理や、明るさ&温かさを与えてくれる火という物が大切で、その恩恵に預かれる事への感謝、また、毎日おいしい料理が食べられるとは限らない庶民にとっては、そこは神聖に扱わねばならない場所で、言わば、家そのものを表す象徴的な場所でもありました。

地方によっては、破産する事を「カマドを返す」と言ったり、分家する事を「カマドを分ける」と言ったりするそうですが、それこそ、カマドという物が家そのものを表していたからなのでしょう。

なので、当然、そんな神聖な場所には「火の神様」がいると考えられ、全国各地、様々な名前を持つ火の神が、カマド神として祀られる事になります。

近畿地方の古いお家では、「三宝さん」を神棚に祀っているお家も、多いんじゃないでしょうか?

かく言う私の実家も、母が毎日、神棚の三宝さんに水やご飯をお供えしておりましたが・・・

この三宝さんは、仏教や修験道とくっついて「三宝荒神」とも呼ばれ、ちょっと前までは、僧や山伏が各家を訪れて、清めのお祓いをするなんて事もありました。

荒神はその名の通り、荒ぶる神ですが、とても便利な火という物が、一つ取り扱いを間違えれば、火事になったりヤケドをしたりする・・・そんな火という物に対して、昔の人が、そこに荒ぶる神の存在を感じるのは、現代の我々でも納得ですね。

荒ぶる神は崇り神でもあり、そこに、神聖なる物への感謝の気持ちとともに、大切に扱わねば・・・という引き締まった気持ちが共存するのがよくわかります。

・・・と、近畿や西日本では三宝さんですが、東北や東日本のカマド神・火の神と言えば、あの「ひょっとこ」ですね。

Hyottoko200 火に空気を送る(ふいご=金属製錬などで火力を強めるために用いる送風装置)を吹いている時の顔をした、ちょっとおどけたお面で有名な「ひょっとこ」ですが、もともとは火男で、火を守る火の神様だったと言われています。

どの地方に伝わるお話かという事は失念してしまいましたが、そのひょっとこの起源となる『竜宮童子』という昔話があります。

・‥…━━━☆

あるお爺さんが竜宮へ行き、そこで、柴をプレゼントしたお礼にと言って「ヒョットク」という名の小汚い童子をもらい受けます。

しかし、家に連れ帰っても、その童子は何をするという事もなく、ただ、自分のヘソをいじくり回すばかり・・・

あきれたお爺さんが、ちょっとしたイタズラ心で、ヒョイッと、その童子のヘソを火箸でつっついてみると、なんと、そこから、小粒の黄金がポロリとこぼれ落ちて来ました。

それから、毎日3度ずつ、チョイッとヘソ突いて、ちょびっとずつ黄金を取り出していたお爺さんでしたが、それを見た欲ばり婆さん・・・

お察しの通り、
「もっとつつけば、もっと沢山の黄金が出るに違いない!」
とばかりに、一気に突っつき、哀れ、童子は死んでしまいます。

やさしいお爺さんは、童子の死を悲しんで、それからしばらくは、涙々の日々を過ごしていましたが、ある夜、夢の中に童子が現われて
「僕の顔に似たお面を造って、カマドのそばの柱に飾っといたら、自然に富が舞い込んで来るで~~」
と告げたのです。

早速、その通りにしたお爺さんは、やがて村1番の長者になったという事です。

・‥…━━━☆

長者話の定番と言えば定番ですが、やはり、ここでも、火の神様であるカマドの神様=火男は、その荒ぶる力で邪神を追い払い、家を守ってくれる神様だったのですね。

1年の終わりには、カマドにお礼をする「カマドジメ」なる行事を行う地方もあるそうです。
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2012年11月29日 (木)

信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め

 

天正五年(1577年)11月29日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が、赤松政範の籠もる播磨上月城に攻めかかりました。

・・・・・・・・・・

ご存じのように、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて(9月7日参照>>)上洛した織田信長は、その後に義昭との関係が悪化した事で(1月23日参照>>)、その義昭の呼びかけに応じた反信長勢力による信長包囲網とも言える包囲網が形成され、周囲が敵ばかりの状態に・・・

それを、一つ一つ崩していく信長・・・

元亀四年(天正元年=1573年)7月に、その義昭の槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆を終結させ(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月には、あの武田を長篠で撃ち破ります(5月21日参照>>)

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の信忠(のぶただ)に譲った信長は(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかります(2月23日参照>>)が、この頃、激しくなって来ていたのが、すでに6年前の元亀元年(1570年)に勃発していた本願寺との石山合戦・・・(9月12日参照>>)

5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)に続いて、7月の第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)では、いよいよ西国の雄=毛利が、水軍を出して本願寺に兵糧を送り込むサービスで参戦し、さらに、あの越後(新潟県)上杉謙信までもが、本願寺と和睦して参戦を表明します(5月18日参照>>)

とは言え、ご存じのように、この時期・・・信長自身は畿内を中心に動いていますが、一方では、配下の武将に、それぞれの地域を担当させて、領地を拡大してしていたわけで、謙信が参戦した北陸には柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)伊勢方面は北畠に養子に入れた息子の信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)、そして、山陰丹波方面は明智光秀(あけちみつひで)(1月15日参照>>)・・・

と・・・そんな中で、山陽地方担当だったのが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)です。

この状況に、いち早く信長傘下を表明したのが、後に秀吉の軍師として活躍する黒田官兵衛孝高(よしたか=如水)の属する播磨(兵庫県)小寺氏だった(2008年11月29日参照>>)わけですが、その小寺氏でも、これまで通りに毛利の傘下でいるか?、新しく登場して来た信長の傘下となるか?で大モメにモメたわけで、ここらあたりに領地を持つ中間管理職大名は、皆、今後の動向を悩んでいたワケです。

・・・で、そんな中の一人が、西播磨上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を本拠とする赤松政範(あかまつまさのり)・・・

彼は、なかなかに武勇優れた武将であり、先見の明を持つ名君でもありましたが、少々優柔不断のところもあり、ここのところ、「どうすべきか?」の軍議を何度も設けておりながら、「どうするか」の決断をなかなか出せずにいました。

そうこうしているうちに時間ばかりが過ぎ、いよいよ秀吉の手が間近に迫った段階になって、よくやく、「毛利は裏切れない」の決断となります。

さすがは、才智溢れる政範・・・
「後々、バカな決断だと笑われるかも知れないけれど…」
と、この先の状況を読みとりつつも、
「これまでの義理は捨てられない」

として、この決断に至ったようです。

こうして、来たるべき秀吉との決戦を覚悟した政範・・・なんせ、この西播磨は、この先は毛利一色の出雲(島根県東部)美作(みまさか=岡山県北東部)備前(岡山県南東部)への玄関口に当たる要所ですから、敵はスルーするはずはなく、刃向かえば、必ず決戦となる場所ですから・・・

Koutukizyoukankeizucc (↑以前の上月城のページでupしたイラストですが、位置関係がわかりやすいので…今一度)

そんな中、上月城の決断を受けた秀吉は、まず、竹中半兵衛や黒田官兵衛を先鋒に、上月城の支城や砦の攻撃をを開始します。

支城の城主の中には、すでに秀吉との講和の場を持って、信長の傘下に入る事を表明していた者もいたという事ですが、ここは、「本社の上月城が決断したなら、それに従うしかない」とばかりに抗戦に至った支城もあったとか・・・

とは言え、やはり、秀吉軍は強く、小さな支城や砦が次々と攻略されていく中、天正五年(1577年)11月29日、いよいよ、本城の上月城に攻めかかるのです。

側面と正面の2陣に分かれて開始された攻撃・・・翌・30日には、同じく毛利傘下となっている宇喜多直家(うきたなおいえ)の援軍が、上月城を救わんとばかりに駆けつけた事で、その戦いは壮絶を極めました。

しかし、激戦の中で、その援軍も蹴散らされると、すでに、総攻撃の前日=28日の包囲が完了した時点で水の手も断たれている上月城は、その籠城も時間の問題となって来ます。

やがて、12月2日の夜・・・政範は、残っていたわずかな兵で、秀吉の本陣に夜襲をかけますが、あえなく失敗・・・

翌・3日の朝に、その敗戦の一報を受け取った彼は、城内で最後の酒宴を催した後、妻をその手で刺し、自らも自刃しました。

主君の最期を見届け、そばにいた一族&家臣たちも次々に自らの命を絶ったという事です。

こうして上月城を陥落させた秀吉は、尼子氏滅亡の後に、信長に近づいて来ていた山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)に、この上月城を守らせ、自らは、三木城攻防戦へと向かう事になる(3月29日参照>>)のですが、

ご存じのように、その鹿之介さん・・・すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を新たな当主として尼子の再興を夢見てる・・・(7月17日参照>>)

が、しかし、なにぶん、先に書いた通り、この上月城は、毛利にとっても最前線の重要な場所であるわけで、毛利が、そのままにしておくはずはなく・・・

と、この先の上月城については
5月4日:信長に見捨てられた上月城>>
7月3日:山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>でどうぞ
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2012年11月28日 (水)

幕末の動乱に老中となった間部詮勝

 

明治十七年(1884年)11月28日、越前鯖江藩の第7代藩主で、幕末に老中として活躍した間部詮勝がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

文化元年(1804年)に、第5代・越前(福井県)鯖江藩主の間部詮熙(あきひろ)の3男として、国許の鯖江にて生まれた間部詮勝(まなべあきかつ)・・・

Manabeakikatu500 文化十一年(1814年)に、父の後を継いで第6代藩主となっていた兄・詮允( あきさね・ あきざね)が急死した事で、急きょ、詮勝が、わずか11歳で藩主の座を継ぐ事になります。

若いとは言え藩主は藩主・・・他の藩同様に、この頃は慢性的な財政難に陥っていた鯖江藩を建てなおすべく、叔父・牧野貞喜(まきのさだはる)らの後見を得ながら、自らが先頭に立って質素倹約を押し進めます。

そんな彼・・・国許に帰った時などは、村々を巡察して庶民とも親しく接し、藩の実情を把握しようとする、なかなかの名君であったと言います。

やがて文政九年(1826年)、第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)のもと、奏者番(そうじゃばん・そうしゃばん)という役職に抜擢された詮勝・・・

この奏者番という役職は、年始や節句などの祝いの際に、将軍に謁見する大名の取次をしたり、進物のチェックや礼式のダンドリを組んだりする重要な役職ですが、それより何より、幕政に参加する大名の登竜門となる役職・・・つまり、幕閣において、将来、要職につくべき人が最初に預かる役職だったわけで、

これまで、鯖江藩から幕政に関与した藩主は一人もいませんでしたから、そりゃもう、藩士&領民挙げて大喜び・・・

もちろん、それだけ詮勝が優秀だったという事ですが、詮勝自身も、その期待に応えるかの如く、寺社奉行大坂城代京都所司代へと、見事な出世街道まっしぐら・・・やがて、天保十一年(1840年)には老中にまで昇り詰めました。

しかし、わずか3年後の天保十四年(1843年)、病気を理由に老中を辞任・・・それからしばらくは、書画に親しんだり、藩の財政を立て直すための産物会所を設けたり、鯖江市民の憩いの場となる公園を建造したりと、静かな生活を送っています。

そんな詮勝に転機が訪れるのは安政五年(1858年)・・・そう、日本が開国を巡って大きく揺れるあの年です。

この4月に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)の下で再び老中に復帰し、勝手御入用掛(財政担当)外国御用取扱(外交担当)を命じられたのです。

ここで、あのアメリカ公使ハリス(7月21日参照>>)を相手に日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)の調印に直面する詮勝・・・

彼は、才智に長けた優秀な人でしたが、外国との交易に関しては、少し軽率な部分もありました。

それが露骨に出てしまったのが、このハリスとの交渉・・・

そのハリスに金銀貨幣の交換価値を計る品位量目について尋ねられた時、答えに困った詮勝は、
「幕府には勘定奉行、藩には家老っちゅー者がいてるよって、大名は金銀の事情にくわしくなくてもえぇねん…くわしい事は、ここにいてる勘定奉行に聞いてくれ」
と、しどろもどろだったとか・・・

言われたハリスも
「そんなんで、国の代表が務まるんかい?」
と驚いた・・・なんて話もあり、結局は、ここで、あの不平等な条約の締結(2009年10月7日参照>>)となってしまうわけですが・・・

しかし、一方では、その条約締結を朝廷の許可無しにやった事を受けて、8月8日に朝廷が下した戊午の密勅(ぼごのみっちょく)に対しては、即座に京に入って数ヶ月滞在し、条約締結に至る経緯を説明し、理解を得ようと奔走しました。

戊午の密勅
天皇の許しなく条約締結締結した事をとがめるとともに、幕府には今後は攘夷を推進するよう改革を行う事を命令し、諸藩には、それに協力して公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)を実現するようにという内容の事を、天皇が幕府を飛び越えて水戸藩に直接下した物】

しかし、これらの事で、さらに激しくなった尊王攘夷運動を抑えるため、事は、安政の大獄(2012年10月7日参照>>)という弾圧へと発展してしまうのです。

ここで詮勝・・・あまりにも厳しい弾圧を行う直弼に対して、
「そんな事をしていたら、国にとって大事な者たちを失ってしまう事になる」
と言って猛反対し、聞き入れられないと知るや、即座に老中を辞任し、藩主の座も、次男の詮実(あきざね)に譲り、キッパリと表舞台から姿を消します。

そう、実は、1度目に老中を辞任した時も、表向きの理由は病気ですが、実際には、当時、天保の改革を行っていた水野忠邦(みずのただくに)意見が合わなかったために辞めたと言われています。

今回も、「嫌な物は嫌」「譲れない事は譲れない」・・・として、正面から立ち向かう姿勢がありました。

あのハリスとの交渉の場では、しろどもどろだった詮勝ですが、一貫した意志の強さ、出処進退の潔さという物は、しっかりと持っていたのです。

もちろん、安政の大獄に関与した者として、尊王攘夷派からは「鬼」と呼ばれ、その評価にも賛否両論あるかとは思いますが、それこそ、幕末の動乱は、佐幕派も尊攘派も手探り状態・・・両者ともに、より良き未来のために「良い事」だと思って奔走していたわけで、一概にどちらが正義でどちらが悪とは言えない・・・

やがて、明治十七年(1884年)11月28日・・・晩年は、書画や詩歌に没頭する、ごくごく控えめな生活を送りつつ、80歳で亡くなった詮勝・・・

地元・鯖江では、最も長期に渡って藩主を務め、幕政にも関与した藩の出世頭として、また、地元の文化向上にも尽力した人物として、評価を得ているようです。

来たる2014年が、藩主就任200周年にあたるメモリアルイヤーだとして、地元では何やらイベントも計画されているとか・・・楽しみですね。
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2012年11月26日 (月)

平清盛・全盛からの転機~福原遷都

 

治承四年(1180年)11月26日、平清盛の決断によって、福原から、再び都が京に戻されました。

・・・・・・・・・・

わずか半年間だけの都だった福原遷都については、6年前の同じ日づけで大まかな流れを書かせていただいているのですが(2006年11月26日参照>>)、なにぶん、未だブログを開設して間もなくの頃で、文字通り、大まかな流れ的な内容になっていますので、捕捉の意味を込めまして、本日、もう1度書かせていただく事にしました。

本年の大河ドラマ「平清盛」も、現在、ちょうど、このあたりですしね・・・ただし、以前のページと、内容が重複する部分が多々ありますが、その点は、ご了承くださいm(_ _)m
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その前年の治承三年の政変(11月17日参照>>)によって後白河(ごしらかわ)法皇の院政をストップさせ、事実上、政権を握った平清盛(たいらのきよもり)は、自らが住まう福原(現在の神戸)へと遷都する事を宣言・・・

さらに翌・治承四年(1180年)の2月21日には、高倉(たかくら)天皇を退位させ、その高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた自らの孫を、第81代安徳天皇として即位させ、ついに天皇の外戚(母方の実家)という待望の席を確保したのです。

続く4月には、そんな平家全盛に不満を持つ以仁王(もちひとおう・後白河法皇の第3皇子)が、全国の反平家に向けて清盛追討の(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を発しますが、まもなく、その動きを察した平家によって、以仁王に同調した源頼政(みなもとのよりまさ)もろとも、鎮圧されてしまいます(2007年5月26日参照>>)
(●以仁王生存説2009年の5月26日のページでどうぞ>>)

そのわずか1週間後の6月2日・・・清盛の別邸があった福原へ、後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇の行幸が行われ、そこに行宮(あんぐう=仮の宮殿)が置かれた事で、事実上、この福原が都となりました。

早くから、海外貿易が生む巨大な利益に目をつけていた清盛は(2月27日参照>>)、大陸との交易の要所である九州から瀬戸内海を通ってやって来る大型船が入れるように大輪田泊(おおわだのとまり・大和田泊=現在の神戸港西部)を拡張し、仁安四年(1169年)、そこに隣接する福原の地に、出家後の隠居所と称して雪見御所なる別邸を建てて住んでいましたが、当然の事ながら、おとなしく隠居生活をするわけはなく、ここに居を構えながら、京都の政治をコントロールしていたわけで、ここ福原は、都の六波羅と並ぶ平家の拠点となっていたのです。

ただし、清盛に従う平家と平家寄りの公卿はともかく、右大臣・九条兼実(くじょうかねざね)をはじめ、都の移転に気乗りしない貴族も多く、まして、この遷都の際に、清盛が、後白河法皇と宋国人を対面させたという出来事もあり、兼実などは、その日記(『玉葉』)の中で
「我が朝、延喜以来未曽有の事なり。天魔の所業」
と、清盛の強引なやり方を批判しています。

また、高倉上皇も、
「母(建春門院滋子=平時子の妹)も望んでおられない」
として、福原は離宮にすべきと言い、離宮となる建物は建てたものの、自身はまもなく京に戻り、この後の政務も、京都で行っています。

なんせ、京都には朝廷の省庁の多くも、内裏の建物もそのまま残っていますから・・・

それでも、清盛は、政務に必要な建物を構築し、何とか都として整備しようとしますが、もともと福原という土地は、海と山に挟まれた場所で、京都のように平坦な土地が開けているわけではなく、建設工事も難航します。

そうこうしているうちの8月17日・・・かの以仁王の令旨を受けとった、ご存じ源頼朝(みなもとのよりとも)が、配流先の伊豆にて挙兵します(8月17日参照>>)

さらに、続く9月には、やはり以仁王の令旨を受け取っていた北陸の源義仲(みなもとのよしなか=木曽義仲)が挙兵(9月7日参照>>)・・・

10月に入ると、かの頼朝は鎌倉を拠点と定めて関東武士を統轄しはじめ、後の幕府の基礎となる物も構築の兆し・・・(10月6日参照>>)

そんな反平家勢力の動きを受けて、清盛は自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣するのですが、この軍が、10月20日、あの富士川の合戦にて、戦わずして撤退してしまいます(10月20日参照>>)

続く金砂城の戦いでも、平家方である佐竹秀義(ひでよし)が敗走・・・(11月4日参照>>)

それでも、秋には、かろうじて、新しい福原の都で、新嘗祭などの皇室行事を行ったものの、それが終わると、多くの公家たちは福原にとどまる事なく、平安京に戻ってしまいました。

『平家物語』には、この頃、福原にて様々な怪現象が起こった事が書かれています。

Heikemonogatariemakimonono 「平家物語絵巻」巻五上:物の怪のこと(林原美術館蔵)

ある夜、清盛の寝室に、柱と柱に納まりきらないほどの大きな顔が現われますが、清盛が、少しも驚かず、睨み返したところ、ス~っと消えた・・・とか、

大木など無い庭で、大木が倒れるような音とおもに2~3000人の笑い声・・・「天狗の仕業に間違いない」となって、毎夜100人ほどの警備の者に守らせますが、天狗がいるとおぼしき方向に矢を射ると無反応ながら、天狗がいないとおぼしき方向に矢を射ると、またしても2~3000人ほどの、大きな笑い声が聞こえる・・・

はたまた、ある朝、清盛が庭に出てみると、そこには無数のドクロが飛び交っており、やがてそれがひと固まりになったかと思うと、庭に入りきれないほどの大きな山となり、その中の一つのドクロから、大きな眼(まなこ)がいくつも出て来た・・・とか、

まぁ、これらの平家物語の記述は、さすがに、実際にあった出来事とは思えないですが、それほど、人々の心には、何か不吉な事が起こるような不安が立ちこめていたという事でしょう。

この頃は、京都にも突風が吹き荒れて、多くの家が倒壊して多数の死者が出るという惨事も起こり、京の町も不穏な空気に包まれていたようですから・・・

果たして治承四年(1180年)11月26日清盛は、新都の建設をひとまず延期して、再び、都を京都へ戻す事となります。

もはや、この不穏な空気、内乱の予感に対して、新都建設よりも、先に、それらの不安材料を払拭してしまう事の方が先決だと考えた・・・という事でしょう。

思えば、あの保元の乱(7月11日参照>>)の勝利以来、少しずつ階段を上り続けていた清盛にとって、これが初めての大きな挫折だったかも知れません。

ただし、ひと言、清盛さん側に立って弁明させていただくならば、ドラマなどではかなり強引に、周囲の反対を押し切って、清盛が独裁者の如く遷都するように描かれますが、私個人的には、それは清盛の構想が未だ周囲に理解されていなかっただけで、交易を重視して国を豊かにするという発想自体は、間違っていなかったと思いますし、そもそも「遷都する事に対して公家が反対する」というのは、いつの時代も同じで、遷都後の場所がどこであろうと、保守的な人が多い貴族の間では反対意見が多数出るのは常・・・あの明治維新の時も、明治天皇が江戸改め東京に行幸する事を、公家たちは散々反対してましたから・・・(1月19日参照>>)

ところで・・・
この福原遷都には、上記した外国との交易と同時に、「政治に介入しまくる仏教勢力から離れる」という目的もあったわけですが、皮肉な事に、福原から京に戻った平家を待っていたのは、その仏教勢力・・・【平重衡の南都焼き討ち】12月28日のページでどうぞ>>
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2012年11月24日 (土)

源実朝…実現しなかった夢の船出

 

建保四年(1216年)11月24日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が陳和卿に大船の建造を命じました。

・・・・・・・・・・・・

陳和卿(ちんなけい)は、(そう・中国)から渡って来た人物で、あの源平合戦のさ中に、平家に焼き打ちされた東大寺の大仏殿(12月28日参照>>)の再興にあたった技術者として知られていました。

『百人一首一夕話』によれば、
鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)が、その功徳を聞きつけ、
「彼に会ってみたい」
と誘いをかけたものの、
「彼のお方は、天下を取ったお方ではありますが、その一方で、おびただしい数の人命を絶たれたお方でもあり、私は、会いたくありません」
とキッパリと断わり、両者の面会は実現しなかったと言います。

Minamotonosanetomo600 そんな和卿が、この建保四年(1216年)の春頃に鎌倉に入り、その頼朝の息子でもあり、第3代の鎌倉幕府将軍となっている源実朝(みなもとのさねとも)に謁見したいと願って来たのです。

それを聞いた実朝も大いに喜び、早速、拝謁する事に・・・

すると開口一番・・・和卿は、
あなたの前世は、宋の国の育王山(いくおうざん・医王山とも)におわす禅師(高徳な僧侶)であり、その時(前世)の私は、あなたの弟子でありました。
今日、お顔を拝見して、私はその事を確信しました故、この後は、弟子として、あなたに尽くしましょう」

と言ったのです。

周囲の者にとっては、にわかには信じ難い話ですが、実朝は、すっかり信じ込みます。

実は実朝・・・かつて、一人の老僧が現われて、実朝の前世について語るという夢を見ており、その内容が、和卿の話とピタリと一致していたのです。

「宋に行きたい!・・・宋に行って育王山を拝みたい!」

早速、実朝は、自らが60人の従者とともに宋に渡るという計画を立て、建保四年(1216年)11月24日和卿に命じて、宋に渡るための大船を造らせたのです。

実はこの頃の実朝・・・
なにやら、生き急いでるような印象を受けます。

やたら官職を欲しがって次々と朝廷に要請し、この建保四年(1216年)の6月20日には権中納言に任ぜられ、続く7月21日には左近衛中将に・・・

この事を心配した大江広元(おおえのひろもと)が、
「功績も無いのに昇進する事は“位打ち(くらいうち)”と言って寿命を縮めるもの・・・どうか子孫の繁栄のためにも、辞職して、征夷大将軍にのみに集中していただきたいんですが・・・」
と諫めますが、実朝はまったく聞き入れなかったのだとか・・・

『吾妻鏡(あづまかがみ)によれば、その時、実朝は
「言うてる事は、よ~く、わかるで。
けど、源氏の正統は、今限り・・・子孫が継ぐ事は無いよって、せめて官職を身につけて、源氏の名を、ちょっとでも挙げようと思てるねん」

と答えたとか・・・

この時、実朝は、未だ25歳・・・満年齢なら23歳ですから、まだまだ子供を残せる希望も持てたはずなのに、なぜに、「源氏の正統な血筋が、自分限りで絶える」などと言ったのでしょう?

先ほどの前世に関する夢の話・・・実朝が、その夢の事を誰にも話していなかったにも関わらず、和卿が現われて、その夢のお告げの通りの事を言ったので、彼はすっかり信じたわけですが、ひょっとして、それとは別の・・・何か生き急がねばならないような夢のお告げがあったのでしょうか??

とにもかくにも、実朝は、何かに追われるように大船の建造を命じ、母=北条政子(ほうじょうまさこ)反対をも押し切って、自ら宋に渡る夢を実現しようと急ぐのです。

かくして、昼夜を問わず、何百万もの大金を投じて建造された大船は、翌年の4月17日に完成し、由比ヶ浜にて進水式が執り行われました。

実朝の見守る中、慎重に数百人の人夫を水中に立たせて、船を曳きおろして漕ぎ出そうと試みますが、残念ながら、船が重すぎて浮く事ができず・・・結局、砂浜を離れる事なく、そのまま座礁してしまいました。

その時の実朝の心情は、記録にはいっさい残っていませんが、おそらく、相当に落胆した事でしょう。

果たして、その3年後の建保七年(承久元年・1219年)1月27日、前年に、武士として初めて右大臣となったお礼を兼ねて、鶴岡八幡宮に参拝した実朝は、兄・頼家(よりいえ)(7月18日参照>>)の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺され、28歳という若さでこの世を去ります(2008年1月27日参照>>)

その公暁も、犯行後にすぐさま殺され(2013年1月27日参照>>)、ここに頼朝直系の血筋は、本当に絶えてしまう事になります。

その暗殺のページにも書かせていただきましたが、なにやら、この先の自らの運命を知っているかの実朝の行動・・・

♪世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ
  海人
(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも ♪

これは、新勅撰和歌集にある実朝の詠んだ旅の歌・・・
百人一首の93番目の歌としても有名ですが・・・

「小船の綱を引く猟師たちの、のどかな声が聞こえる浜辺のように、この世の中も平穏やったらええのになぁ」

あの明治の歌人=正岡子規(まさおかしき)が、「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)以来の最高の歌人」と絶賛する実朝の歌の才能・・・

周囲の覇権争いに翻弄され、わずか12歳で、元服と同時に征夷大将軍に就任した実朝は、本当は、歌など詠みながら、心静かに暮らす事を望んでいたのかも・・・

他人から見れば荒唐無稽に思える宋への船出に執着したのも、
自分は誰なのか?
なぜ、生まれて来たのか?
なぜ、ここにいるのか?

その原点を知りたかったのかも知れませんね。
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2012年11月22日 (木)

悪政を極めた藩主・真田信利

 

天和元年(1681年)11月22日、上州沼田藩主真田信利が改易処分となりました。

・・・・・・・・・・・

あの関ヶ原で、昌幸(まさゆき)と、幸村(ゆきむら=信繁)一大決意で袂を分かち(7月21日参照>>)、その後の真田家を、妻・小松姫(7月25日参照>>)とともに守り抜いた真田信之(のぶゆき)・・・

Sanadanobutosi500 今回の真田信利(さなだのぶとし)さんは、その信之の庶長子(父親に認知された長男)である上野沼田城主・信吉(のぶよし)の次男として生まれます。

信吉の死後、その沼田領は、一旦、信利の兄が継ぎますが、その兄が幼くして亡くなってしまった事、また、その時信利が、まだ3歳であった事から、叔父の信政(信吉の弟)沼田領を相続します。

その後、明暦二年(1656年)に、本家の松代藩主だった祖父の信之が隠居した事を受けて信政が松代藩主となったため、沼田領を信利が継ぐ事になります。

ところが、そのわずか2年後に信政が死去・・・未だ健在だった信之の判断で、松代藩は、信政の息子・幸道(ゆきみち)に決定します。

しかし、そこに「待った!」をかけたのが信利・・・そう、なんだかんだで信利の父・信吉は信之の長男だったわけで、その信之が隠居した時に、すでに信吉が亡くなっていたので、弟の信政が継いだだけで、もし、生きていたなら父が藩主を継いでいたはず・・・

なので、「その息子である自分にも、松代藩を継ぐ権利がある」というワケです。

・・・と、ひとモンチャクあったものの、結局は、幕府の決定で、松代藩の後継者は幸道に決まるのですが、その代わり、それまで、本家松代藩の分領(分地)でしかなかった沼田領を沼田藩として独立させ、信利が、その初代藩主となる事で、話は収まりました。

こうして、沼田藩を経営する事になった藩主・信利・・・

ところが、本家の松代藩・10万石に対して、沼田藩が3万石が気に入らなかったのか・・・直後に領内を検地し直して、実高14万4000余石を強引に打出して、幕府に報告します。

つまり、実際には農地でない部分まで農地である事にして幕府に申請しちゃったわけで、もちろん、その藩主のエエカッコは、領民への税金に跳ね返って来ます。

さらに、沼田城にデッカイ天守閣を設けたり、江戸の中屋敷も、松代藩のそれに負けないような豪華な造りに改築・・・

・・・と、そんな時、江戸の小石川藩邸にいた沼田家臣・麻田権兵衛のもとに材木商大和屋久右衛門から、幕府の御用木調達の話が持ちかけられ、麻田は、この話に飛びつきます。

去る延宝八年(1860年)8月に江戸を襲った暴風雨によって、あの両国橋が大破し、その普請を8500両の入札金で落札したのが大和屋で、その材料となる木材を求めて声をかけて来たワケです。

普請奉行として、藩主から、城やら屋敷やらの普請を命じられてばかりで、その資金に困っていたにも関わらず・・・いや、資金に困っていたからこそ、麻田は、この話に飛びついたのかも知れません。

なんせ、これの契約実行金は3000両・・・

この金額は魅力的だし、そもそも、山地が豊富な沼田の領地には、たくさんの材木があるわけですし・・・

早速、信利から許可を得て、材木の伐採にとりかかる麻田・・・

しかし、事は、彼の計画した青写真通りには進みませんでした。

実は、先ほどの両国橋を大破させた暴風雨・・・これが、関東一帯に及ぶ広範囲に被害をもたらしていた暴風雨で、沼田の領内も、その例外では無かったのです。

あてにしていた材木の多くは、かの災害で流されてしまっていたうえに、その御用木も、全部で690本のうち30本はケヤキで、しかも、末口2尺7寸以上、長さ9間以上10間未満(約18m)と、そのサイズまで決められ、さらに、その納品も天和元年(1681年)も8月20日までと、期限が決まっていたのでした。

しかし、もはや、条件に叶う材木が、山のどこらあたりにあるのやらもわからない状況・・・

結局、蓋を開けてみれば、
のべ16万8000余人の人夫を動員し、
5200俵の食糧と、
8127両もの費用を費やして・・・

なんとか、8月20日の納期までに江戸に着いた木材は、わずかに6本・・・さらに、何とか納期を延期してもらって10月まで待ってもらいますが、それでも全部合わせて、たったの13本だったのです。

しかも、この間に、以前から重く圧し掛かっていた重税に加え、今回の事で労働を強制された農民たちの間で不満が高まり、直訴状を隠し持った領民が、密かに江戸へと向かいます。

その一人、松井市兵衛は目付けへと訴え、もう一人の杉木茂左衛門は将軍家に直訴しました。

万事休す・・・

結果・・・
材木が揃わないと両国橋の建造もできない事を重く見た幕府は、大和屋を投獄・・・10月29日には、麻田らを呼びつけて木材の延滞について問いただしました。

そして、天和元年(1681年)11月22日幕府評定所に呼び出された信利は、老中らか列席する中、今回の御用木請負いの遅延とともに、農民酷使の実情を書き上げた10ヶ条について、厳しく追及されたのです。

この時、信利は、ひと言の弁明も出来なかったと言います。

かくして、その日のうちに信利は改易となり、山形藩主・奥平昌章(おくだいらまさあきらに預けられる事となりました。

その後、デッカイ天守を誇った沼田城は取り壊され、沼田領は幕府の直轄地になりました。

ちなみに、
幕府に直訴した松井市兵衛は斬首、杉木茂左衛門は磔の刑に処せられましたが、悪政から領民を救った英雄として祀られているそうです。

何とも、後味悪いですね~

こうして、悪政を極めた藩主としてその名を残した真田信利・・・その身分不相応な贅沢三昧は、やはり松代藩主になれなかったコンプレックスから来ているのでしょうか?

いやしかし、その松代藩主の争奪戦にしても、彼を後押ししていたのは、奥さんの実家である土佐藩山内家だったり、下馬将軍で有名な大老・酒井忠清(12月9日参照>>)だったりで、信利自身が、どこまで、それを望んでいたのかは微妙です。

さらに、藩主としての贅沢三昧の中には、殺生禁止の場所で狩りを行ったとかいう、改易大名定番の、おそらくは後付けであろう内容も含まれていますので、幕府の公式文書に書かれている事を、すべてと鵜呑みにするわけにもいきません。

なんせ、幕府の公式文書には、改易される側の言い分は含まれていませんから・・・

ただ、今回の信利さんの場合は、領民の直訴というのがあるので、ちょいと分が悪い・・・このページの主役だからと言って、いつものように「汚名を晴らしたい!」と高らかには言い放てない、残念な結果となってしまいましたが、

それこそ、あの智略に長けた昌幸の曾孫であり、地道に真田を守った信之の孫であり、武勇誇れる幸村を大叔父に持つ信利さんなのですから、せめて引退後の晩年・・・何か良き事をやっていて下さってる事を望むばかりです。
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2012年11月21日 (水)

平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言

 

昌泰三年(900年)11月21日、文章博士三善清行が「辛酉革命」の予言を発しました。

・・・・・・・・・

これまで、このブログにも何度か書かせていただいておりますが、明治大正昭和のように、「一人の天皇に対して元号が一つ=前天皇が崩御された後に次の天皇が即位された事で元号が変わる」という方式・・・いわゆる「一世一元」となったのは、明治天皇からで、それまでは、天皇の交代よりも、むしろ、大きな災害や戦乱、あるいは、珍しい奇異な現象が起こったりした時に、その悪しき連鎖を撃ち破るがごとく改元されていました。

それは、日本では、古来より、暦を司る事が天皇の権威の象徴であり、世を治めている証でもあったからで、天皇の指示のもとに朝廷によって造られた暦だけが、世に流布する公式の暦で、それを天下に公示する事が、イコール、この「天下=時代を支配している」という意味があったからです。

神代の昔から、天皇の1番の仕事と言えば、国家の泰平と国民の安寧を願う事ですが、それこそ、事実上、政治の細かな事は側近たちがやったとしても、これだけは他の人にはできませんから、悪しき出来事が続いた時には、改元をして、災いを払拭するという事があったわけです。

そんな中、「何かあったから」ではなく、定期的に改元されるという年があります。

皆様も、年表などをご覧になって、
「辛酉革命(しんゆうかくめい)により改元」
「甲子革令(かっしかくれい)により改元」
なんて、文をご覧になった事もあるのではないか?と思いますが・・・

ちなみに・・・
「辛酉」とか「甲子」とかっていうのは、十二支=えと(11月9日参照>>)十干(12月28日の後半部分参照>>)を使って、その年を表現する物で、「辛酉=かのととり」「甲子=きのえね」・・・その十干のページに書かせていただいた「丙午=ひのえうま」なんてのはヘンな迷信まで生んだ、60年に1度還暦を迎える、あの言い表し方です。

そんな「辛酉」や「甲子」の年に元号を改める・・・
というコレは、讖緯(しんい)という古代中国で行われていた予言を元にした説で、そこに「戊午革運、辛酉革命、甲子革令」とある事を引用して、辛酉の年には革命が、甲子の年には革令(変乱)があるとされる説に基づいて、その政変を避けるために改元するという事なのです。

Miyosinokiyoyuki600 この言い伝え自体は、奈良時代頃には、すでに伝わっていたようですが、「だから改元しましょ」と、初めて言ったのが、今回の三善清行(みよしのきよゆき・きよつら)さん・・・

上記の通り、後に、甲子の年も定期的に改元されるようになりますが、まずは、今回の辛酉革命・・・

昌泰三年(900年)11月21日に、清行が、時の天皇=第60代醍醐(だいご)天皇「来年は辛酉の年なので革命が起きます」との警告を発した事に始まるのです。

三善清行という人物は、淡路守(あわじのかみ)を務めていた三善氏吉なる人物の息子とされ、平安時代の学者である巨勢文雄(こせのふみお)の教えを受け、若くして才智の誉れ高くこの頃は、漢文学や歴史学などを教授する文章博士(もんじょうはかせ)となっていた人・・・つまり、信頼のおける学者さんですね。

・・・で、今回の警告ですが・・・

もちろん、大学者が発した公の警告という事で、朝廷では「どう対処すべきか?」の議論が沸騰する事となるのですが、果たして、この翌年の1月25日・・・

あの菅原道真(すがわらのみちざね)大宰府に左遷されるという大政変が発生し、「清行の予言が的中した!」と大騒ぎに・・・

それを受けた清行が、「災いを払拭するために元号を改めるべき」との内容の『革命勘文(かくめいかんもん)なる意見書を提出し、朝廷は、7月15日に元号を延喜に改める・・・という事になります。

これをキッカケに、以降、辛酉の年は改元するのが定番となったのです。

以前、道真さんの左遷のお話(1月25日参照>>)延喜元年(901年)1月25日の日づけで書かせていただきましたが、厳密には、この901年は7月15日から延喜元年となったという事になります。

ただ・・・
今思えば、「この予言的中…ってどうなん??」
いや、「それは、君らの小手先次第やろ!」
って、少々のツッコミを入れたくなりますね~

そう、実は、この清行さん・・・当時の朝廷内で、道真とライバル関係にあった左大臣藤原時平(ときひら)(4月4日参照>>)の派閥に属している人・・・

いや、その前に・・・
実は、この清行さん・・・1度、官吏(かんり=公務員)の採用試験に落ちているのですが、その時の試験管が道真であったとかで、もともと道真の事を嫌っていたなんて話も・・・

なので、先の左遷の話のページに出て来た『阿衡(あこう)に任ず』事件の時にも、道真とは違う立場に立っていたし、朝廷でも度々対立していたのだとか・・・

そう、かの道真が左遷となり、その息子や仲間たちもことごとく左遷や流罪になる1件を『昌泰の変(しょうたいのへん)と呼びますが、この変を起こした人が、誰あろう、清行の属する派閥の長=時平なのですから、冷静に考えれば、予言もクソも、あったモンじゃないわけです。

まぁ、道真=天神様なので、どうしても、対立している時平や清行らが悪役っぽいイメージになってしまっていますが、彼らから見れば、道真以下息子たちに牛耳られている朝廷内を変えたいという大義もあったので、一概に、時平&清行が悪いとは言えないわけですが・・・

実際の人物像としては、清行は正義感溢れる立派な人だったようで、後に、『意見十二箇条(いけんじゅうにかじょう)なる意見書も提出しています。

「国は民を以て天となし、民は食を以て天となす。
民なくば何にか拠らん、食なくば何にか資
(よ)らん。
然らば則ち、民を案ずるの道、食を足すの要、唯水早沴
(わざわい)なく、年穀登(みのり)あるにあり、故に…(以下略)

これは、その意見書の奏上文の一部とされる『大日本史』にある記述の、さらに1部分ですが、

それは、
偽装が横行する、当時の悲惨な土地状況を天皇に報告し、それを管理できない無能な国司たちや、私腹ばかりを肥やす輩を批判して、政府がちゃんと管理しなければ・・・と提言している内容なわけですが、

「民衆が幸せであるからこそ国家が安泰」
的な言い回しは、現代にも通じる、イイ言葉なんじゃないか
と・・・今から1000年以上前の昔に、このような文を残す三善清行なる人物もなかなかの人格者なのではないか?と思う次第です。
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2012年11月19日 (月)

朝敵・尊氏を追討せよ…大将軍・新田義貞

 

建武二年(1335年)11月19日、足利尊氏らの追討命令を受けた新田義貞が京都を出立しました。

・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)5月、長きに渡って執権として政権を握っていた北条氏の第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)自刃に追い込み(5月22日参照>>)鎌倉幕府を終わらせて建武の新政を開始(6月6日参照>>)した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、その新政は貴族や公家に厚く、実際に討幕に功労のあった武士には薄い物で、両者のギクシャク感を増長します。

そんな中、亡き高時の遺児北条時行(ときゆき)を担いだ信濃(長野県)諏訪頼重(すわよりしげ)らによる北条復権を願っての反乱=中先代の乱が鎌倉を占拠・・・この地を任されていた後醍醐天皇の皇子=成良(なりよし・なりなが)親王(八宮)足利直義(ただよし=足利尊氏の弟)命からがら駿河(静岡県)へと脱出します(2012年7月23日参照>>)

・・で、これを受けた後醍醐天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏から改名)乱の鎮圧を要請するのですが、この時、京都を出兵する条件として尊氏が提示したのが「関東8ヶ国の管理と支配権」「征夷大将軍・就任」

結局は、関東の支配権だけて征夷大将軍に関する正式な勅状(ちょくじょう=天皇の命令を記した文書)は得られないまま、尊氏は出陣する事となったのですが、ほどなく、乱を鎮圧した尊氏は、今回の戦いで功績のあった配下の者に、独自の論功行賞を開始します(8月19日参照>>)

それが・・・
今回、関東を平定した事を良い事に、新田義貞(にったよしさだ)の領地も、恩賞として配下の者に与えたとか・・・

これに怒った義貞は、逆に、足利の領地を自らの家臣に与え・・・

そうなると、今度は、義貞誅伐の認可を求める尊氏の奏状(天皇宛ての意見書)が京都に送られて来て、それを見た義貞が、次は尊氏誅伐の奏状を提出し・・・と、

さらに、そこに「尊氏謀反」の噂まで登場し、もはや大混乱・・・

そこで後醍醐天皇は、真偽を定めるべく評定を開くのですが、この席にて発言したのが坊門宰相清忠(ぼうもんのさいしょうきよただ)・・・

「今両方の表奏を披(ひら)いて、つらつら一致の道理を案ずるに…」という『太平記』での彼の発言を要約すると・・・

「尊氏と義貞、双方の訴状を見て検討しますと、義貞が訴える尊氏の8つの罪は、どれも重罪・・・特に、大塔宮(おうとうのみや=護良親王の事)殺害の一件(2009年7月23日参照>>)が本当やったら、尊氏と直義の罪も確定でっしゃろけど、一方の訴えだけで即決してしまうのは良く無い事…少し時間を置いて、この噂が真実かどうか確かめてから判断を下しまひょ」
という事で、その日の評定は終了したのですが、

まもなく、鎌倉にて大塔宮の身辺の世話をしていた南御方(みなみのおんかた)という女官が上洛した事で、大塔宮が実際に直義の配下の者に暗殺されていた事がわかり、天皇以下、朝廷は動揺します。

さらに、そこに、尊氏が下した九州や四国方面での援軍要請書が数十通ある事が発覚し、これが決め手となって尊氏の謀反が決定・・・尊氏追討軍が派遣される事となったのです。

早速、後醍醐天皇の皇子・一宮(いちのみや=尊良親王)関東管領(総督)に、新田義貞を大将軍(最高司令官)とした尊氏追討軍が編成され、建武二年(1335年)11月19日6万7000余騎の軍勢が京都を出立したのでした。

もちろん、これを受けた足利側も早速・・・と言いたいところなのですが、肝心要の尊氏が、異を唱えます・・・

実は尊氏・・・新田を相手にする事には、何のちゅうちょも無いわけですが、「自分は後醍醐天皇に刃向かうつもりでは無い」というのが、彼の心情・・・

ここまでの一連の行動は、
「あくまで配下の武士たちの待遇を向上するためにした事であり、天皇自身には恩義を感じており、敵対する気は無い」
と・・・その気持ちを解ってもらうために、このまま出家するとして、以降、尊氏は引き籠り状態になってしまうのです。

Asikagatadayosi600 やむなく、弟の直義が兵を率いて新田軍に立ち向かうため、翌11月20日に鎌倉を出陣するのですが、まもなく、三河矢矧川(やはぎがわ=愛知県岡崎市)でぶつかった両者・・・

しかし、義貞と、その弟・脇屋義助(わきやよしすけ)渡河誘導作戦に引っ掛かり、足利軍は矢矧川を撤退・・・

続く、鷺坂(さぎさか=静岡県磐田市)で迎え撃つも破られ、手越(てごし=静岡県手越原)では夜襲を掛けられて敗走・・・

逃げる足利軍を追撃する形で、とうとう新田軍は伊豆を手中に収め、いよいよ鎌倉に迫ります。

鎌倉に逃げ帰った直義が、その戦況を報告すべく兄=尊氏のもとを訪ねると、兄は、ボサボサ頭にヒゲぼうぼうの状態で、まさに出家寸前・・・

そこで直義・・・一世一代の大ウソをついて、尊氏の出家を止め、彼を参戦に導くのですが、そのお話は、ようやく尊氏が参戦する事になる箱根竹ノ下の戦いのページ(後半部分)でどうぞ>>
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2012年11月17日 (土)

アンケート企画「どの家臣団に入りたい?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「どの家臣団に入りたい?」結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
予想通り、「その他」もたくさんいただきましたが、前回に引き続き、またまた得票数ゼロだった項目がなく、選択肢を考えた身としては、ウレシイ結果となっております。

 .
改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~ン

1位
20票
真田十勇士
こういう系の投票の時、「ダントツ1位なる事多し」の信長さんを抑え、今回ばかりは真田が取りました!堂々の1位です!
2位
12票
上杉四天王
永遠のライバル=武田を僅差で抑えて2位を獲得したのは毘沙門天のご加護か?
3位
11票
武田四天王
1票及ばず…二十四将ではなく四天王にしちゃった所で、迷われた方も多かったかも
…(管理人の反省点(*´v゚*)ゞ)
4位
9票
豊臣四天王
やはり、大坂夏の陣にて「何とか力になりたい!」という気持ちが強いかも…です
5位
7票
織田四天王
徳川四天王
賤ヶ岳七本槍

5位には「メジャー軍団が並んだ」という雰囲気でしょうか
8位
6票
島津四兄弟
南国の雄はなかなかに人気ですね~。
9位
5票
黒田八虎
やはり、「他に類を見ないほどの軍師」というのが魅力的なのでしょうね。
10位
4票
羽柴四天王
秀吉っさん絡みは、上位を獲得する事が多いんですが…今回ばかりは
11位
3票
尼子十勇士
長宗我部三奉行
山中鹿介&長宗我部元親の人気をしても、11位でしたか…ちと残念(>0<)
13位
2票
三好三人衆
龍造寺四天王
最上四天王

是非とも大河ドラマでスポットを…かなりスゴイのにスルーされ続ける気の毒さに、ファンはそろそろ限界かも
その他 16票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 赤穂浪士(40代/男性/宮城)
「確かに、赤穂浪士も家臣軍団でした~今回は、戦国に限定してしまって申し訳ないです」
真田十勇士 もう、真田幸村大好きなんで?お側で共に戦いたいですよ!(20代/女性/三重)
「自由奔放に活躍する様は、やはり魅力的ですよね」
豊臣四天王 褒賞なんて関係なしで、武士としていかに潔く散るかを考えて戦いたい(30代/男性/福井)
「戦国最後の男の舞台…という感じがします」
その他 好色三人衆
「う~んc(>ω<)c 秀吉と家康と…
あと1人は…ってコラっ!(=゚ω゚)ノ」
その他 立花宗茂・・・家臣団!
「あぁ、そうですね~立花宗茂も魅力的ですなぁ」
その他 大谷吉継。 あなたのためなら私の首も差し出します!!
「平塚為広や湯浅五助とともに…泣けます
真田十勇士 ココ以外は、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…」、だとか、「兵どもが夢のあと…」の結末。そんなもの飛び越え、魔術妖術怪力駆使して、己の力のみで勝負!!(40代男性/大阪)
魔術妖術怪力駆ってのがイイですね」
三好三人衆 影から操る立場に混ざりたい!(20代/男性/秋田)
「影から… シブイところチョイスされますね~」
黒田八虎 如水ならうまくつかってくれそうなので。(20代/男性/滋賀)
「天才軍師のお手並み拝見したいですね」
その他 毛利両川  島津4兄弟がありなら、こちらのほうが好きかも(40代/男性/静岡)
「おぉ、毛利の両川もありましたね~両川無くして毛利は語れない!」
織田四天王 一緒に働いて、才能溢れる明智光秀の苦悩を少しでも助けてあげたい(40代/女性/兵庫)
「光秀さんのメンタル部分を癒してさしあげたいです~」
豊臣四天王 後藤基次の男ぶりに惚れてます。(60歳代/男性/兵庫)
「寝坊している幸村を起こしに行くか?はたまた、自らすぐに道明寺に向かうか?」
真田十勇士 やっぱり地元が一番!(40代/男性/長野)
「やはり地元愛は、優先しちゃいますね~」
長宗我部三奉行 遺恨を残さないような四国制覇をするべきだった。(60代/男性/東京)
「三奉行も一領具足との狭間で苦悩したのでしょうね
その他 島津斉彬の家臣!時代を動かしたい!(40代/男性/東京)
「幕末ファンという事ですね…あの頃の薩摩は、どこよりもリードしていた気がします」
真田十勇士 子供の頃、真田十勇士をわくわくしながら読み、クールな霧隠才蔵がカッコいいと思ったから。(50代/男性/兵庫)
「目立つアカレンジャーより、クールなアオレンジャー派ですね!」
その他 オダはオダでもオダ違い、常陸国小田家臣団だったら加わりたいな。(50代/男性/静岡)
「周囲に翻弄される氏治さんを支えたい~  って感じですか?」
その他 豊臣秀長公が好きなので、大和大納言家を支える家臣団に入りたいです。(40代/男性/兵庫)
「確かに…秀長さんは、戦国らしからぬ穏やかな雰囲気で、魅力的ですね」
徳川四天王 いい意味でも、そうでない意味でも家康の策は興味があります。(60代/女性/千葉)
「なんだかんだで徳川300年を築いた功績は大きいですよね~」
その他 勘助や昌幸が入ってる武田二十四将に投票です。(10代/男性/東京)
「確かに二十四将のほうが、ちと魅力あるかも…です」
真田十勇士 くノ一になってみたい!笑(20代/女性/徳島)
「ワォ!20代女性なら、ハニートラップ仕掛け放題ですね~」
徳川四天王 大坂の陣の前に亡くなった四天王達の代わりに、最後まで生き延びて戦国の世の終わりを見届けたいです。まずは殿のように健康マニアになることかな…(20代/女性/岐阜)
「長生きした者が最後には…って感じがしますもんね~結局は
織田四天王 迷いましたがやはり織田がいいですね。(40代/男性/千葉)
「なんだかんだで革新的な信長さんの下で働くのは、働きがいがありそうです」
賤ヶ岳七本槍 戦国鍋TVで以前やってたので…(30代/女性/岐阜)
「チェッカーズっぽい七本槍…10月からサンTVでの放送無くなったみたいで寂しいです」
徳川四天王 粘り強い東北人には魅力です。(40代/男性/青森)
「東北の方々の我慢強さは、ホント尊敬します!」
その他 服部半蔵 影の軍団(50代/男性/東京)
「おぉ、サニ千葉さんの半蔵世代ですね?長谷直美さんの男装がステキでした」
上杉四天王 そう、”あの上杉”を支えた家臣の一人になってみたい・・・!(40代/女性/兵庫)
「やっぱり“あの上杉”ですよね~」
島津四兄弟 かっこいい、と思う(50代/女性/東京)
「兄弟とて家督争いする戦国の世に、この結束の固さは素晴らしいです」
上杉四天王 モモイロと申します。私は会津人ですから。(50代/男性/福島)
「モモイロさん、こんにちはm(_ _)mおぉ、会津の方なのですね。。。やはり地元には愛です」
真田十勇士 信濃の誇り!?県外者ですが...(30代/女性/長野)
「力優先の戦国の世に、知恵と勇気で生き抜いて来たという感じです」
武田四天王 家臣を大事にする信玄公がいいです(30代/女性/大阪)
「人は石垣…ですからね~」
羽柴四天王 太閤さん苦労を共にした部下に冷たすぎ・・・(30代/男性/静岡)
「今回、若かりし秀吉っさんの人気がも一つなのは、やはり、そこにあるのでしょうか?」
島津四兄弟 自分を含めて島津五兄弟…。カッコいい!(30歳代/男性/大阪)
「個人的には、長男だと荷が重そうなので、下から2番目あたりの位置がイイです」
その他 毛利両川の吉川元春の家臣団に加えていただければ♪(30代/男性/広島)
「隆景さんより元春さんですか?…イイかも(*^-^)
上杉四天王 職場いじめが無さそうだから。(40代/女性/愛知)
「職場の人間関係は最重要ですからね~人間関係が良いと少々ハードな仕事も乗り越えられそうです」
龍造寺四天王 今、イチバン熱い気がします!!大河でやらないかな〜!(30代/女性/神奈川)
「検索すると、カッコいいイラストが出て来るんでけど…今、イチバン熱いんですか?だったら、やはり今のうちに大河希望」
羽柴四天王 羽柴秀長の家来ならなりたいです(40代/男性/神奈川)
「やはり秀長さんですか…若い秀吉は意外に人気がない事を、今回知りました」
真田十勇士 やっぱり大阪城落城を救いたい!(生まれ育ったのは大阪)(50代/男性/滋賀)
「大阪生まれは、やはり大阪落城を1番に考えちゃいますね」
島津四兄弟 薩摩ステキ♪(30代/女性/神奈川)
「兄弟だとDNAの関係上、全員がイケメンの可能性アリで、想像も膨らみます」
島津四兄弟 西国制圧→豊臣挟撃→徳川と雌雄を決する(30代/男性/福岡)
「少しのタイミングの違いだけで、実力はあった島津ですからね~イロイロと考えちゃいます」
黒田八虎 天才軍師に使われてみたい!!(30代/女性/愛知)
「黒田の魅力は如水の魅力~!」
その他 前田利家の軍団に入りたい。 利家は生涯トップにはなれなかったが、常に時代の道の真ん中を歩いていた。(50代/男性/石川)
「加賀百万石の祖…地元ならなお更ですね。。。トップならなかったからこそ、の魅力もあります。」
真田十勇士 いかにもイケメン揃い!なイメージ(笑)架空の人物だらけでも、ぜひ!(20代/女性/大阪)
「イメージするのは自由…例え、名前に入道とついておてもイケメンを想像してしまいます」
真田十勇士 猿飛佐助や霧隠才蔵とともに活躍したい。忍者に憧れます。(40代/男性/神奈川)
「猿飛佐助や霧隠才蔵なんて…もう、名前だけでカッコ良すぎです」
真田十勇士 面白そう(30代/女性/神奈川)
「確かに…仲間に入れば1番おもしろそうです」
その他 マイナーだけど北条五色備(20代/男性/東京)
「北条五傑ではなく五色備…ですね。。。マイナーというよりは、未だ研究途中という感じでしょうか?」
上杉四天王 運慶さんの工房。行基さんの土木チームもいいな。(40代/女性/東京)
「今度は、戦国時代の家臣団以外の軍団のアンケートも考えてみたいと思います」
賤ヶ岳七本槍 賤ヶ岳の激戦を一緒に戦ってみたいです。(10代/女性/東京)
「戦場を駆け抜ける加藤清正や福島正則や片桐且元…イイですね~」
武田四天王 最強軍団に入りたい!(30代/男性/山梨)
「最強軍団…確かに、家臣団と言われて、まず思いつくのは、武田ですね~」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
その他 赤穂浪士、伊達政宗の家臣団(マー君さん)
豊臣四天王
尼子十勇士
豊臣四天王に一票(ティッキーさん)
尼子十勇士に一票(お母様)
その他 「里見八犬伝」の八犬士(ハルブルさん)
徳川四天王 徳川四天王に一票(ひろさん)
豊臣四天王
長宗我部三奉行
豊臣四天王に、(清花さん)
長宗我部三奉行(お嬢様)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2012年11月15日 (木)

小倉の陣中で…吉川元春の最期

 

天正十四年(1586年)11月15日、弟の小早川隆景とともに、毛利家を支えた吉川元春が亡くなりました。

・・・・・・・・・

Kikkawamotoharu600 吉川元春(きっかわもとはる)は、西国の雄と称された安芸(あき=広島県)の戦国大名=毛利元就(もうりもとなり)の次男で、元就の「養子に入った家を乗っ取ろう作戦」の手ゴマとして、18歳の時に吉川家の養子となります(9月27日参照>>)

同じく、小早川家を乗っ取るべく養子に入った弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに、父=元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』(11月25日参照>>)をよく守り、兄の隆元(たかもと)が亡くなって(8月4日参照>>)からは、その兄の息子で毛利家の当主となった輝元(てるもと)を二人が支えた事から、吉川と小早川で『毛利の両川』と呼ばれました。

とは言え、この両川のお二人の中では、どちらかと言えば、弟の隆景さんが冷静な策士の雰囲気で、兄の元春さんの方が破天荒でキカン坊のような印象を受けます(←あくまで個人の感想です)

以前書かせていただいた嫁選びの逸話(8月30日参照>>)もそうですが、あの羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)備中高松城の水攻めの際も・・・

この時の元春と隆景は、秀吉から水攻めを受けている高松城を救援に向かいながらも、結局は、天正十年(1582年)6月4日、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)切腹を以って和睦する(6月4日参照>>)事を決定するのですが、その決定後に、すでに2日前に織田信長が本能寺で暗殺されていた事を知った彼ら・・・

「そんなん詐欺やんけ!」と怒り、「帰る準備中の秀吉軍に総攻撃をかけよう」と主張したのが元春で、逆に、「兄ちゃん、書面に署名捺印した以上、書類は正等で、講和は成立や!それを破ったらこっちが不利になるがな」と、冷静に諭したのが隆景・・・

結局、その後の更なる和睦交渉で、吉川広家(元春の三男)毛利秀包(元就の九男)を人質として秀吉のもとにおく条件で、それぞれの領地を安堵するという事で(9月23日まん中部分参照>>)毛利も、そして彼ら両川も秀吉の傘下となるわけですが、

元春は、そんな和睦交渉が成立する以前・・・いや、正確には、かの高松城水攻めから、わずか半年後の天正十年(1582年)12月に、家督を、長男の元長(もとなが)に譲って、隠居の身となっています。

そうです・・・
あの備中高松城の水攻めを終えた、その尻で、中国大返しの離れ業をやって(6月6日参照>>)、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)秀吉は、その半月後の清州会議(6月27日参照>>)で主導権を握る事に成功し、続く10月15日には、養子の秀勝を看板に、まるで後継者のごとく信長の葬儀まで仕切っちゃってた(10月15日参照>>)わけで・・・

おそらく、元春は、そんな秀吉の傘下に、自らが収まる事に耐えられ無かったのでしょうね・・・その後の四国征伐(7月26日参照>>)でも、弟の隆景は参戦していますが、元春は、息子を出陣させただけでした。

しかし、秀吉がそれを許しませんでした。

天正十四年(1586年)・・・今度は九州の大友宗麟(おおともそうりん)の要請を受けて(4月6日参照>>)島津を倒す事になった秀吉は、輝元を通じて、元春の出馬を要請して来たのです。

秀吉は・・・
「四国平定の時は、活躍してくれた小早川君に伊予(愛媛県)を進呈したけど、今度の九州退治では吉川君に筑前福岡県西部)をあげよかなぁ~なんて思てんねやんか。
僕も、そのうち、九州に渡海するよって、その時には、昔々に対峙した戦の話なんか、二人で語り合いたいなと思てんねん。。。
せやから、ぜひ、出陣して~
って、君から伝えといてくれへんかな?」

と、輝元に言ったのです。

これから先、まだまだ秀吉と付き合わねばならない輝元以下毛利家の事を思えば、元春が断われるはずはありません・・・まぁ、結局は、それを解っての秀吉の言い回しなワケですが・・・

天正十四年(1586年)10月・・・本家の毛利軍とともに北九州に上陸した元春は、すぐさま豊前小倉城を攻略しますが、次に立ちはだかる香春岳(かわらだけ=福岡県田川郡)城主の高橋元種(たかはしもとたね)の攻撃に向かったのは、弟の隆景と、息子の元長と、同行する黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=如水)で、元春は、今回の総大将の輝元とともに、小倉城に留まりました。

実は、元春は(よう=化膿性炎症の病を患っていたのです。

11月7日には、宇留津(うるつ=福岡県築上郡椎田町)を攻撃中の元長のもとに、「癰が悪化して大変苦しんでおられる」との急報が入り、元長は、一旦、小倉城に戻って、看病したりなんぞしています。

ところが、その看病の甲斐あってか、11月13日付けの元春の手紙には、
「なんか、最近、調子よくなって来て…これやったら、合戦にも出られそうやわ」
てな事を、配下の将宛てに書き送っています。

ところが、その手紙から2日後の天正十四年(1586年)11月15日・・・容態が急変し、そばにいた外科医の徳琳の手当ても空しく思えるほどになってしまいます。

自らの死期を悟ったのか、元春は徳琳を近づけ、
「輝元に伝えてくれ」
と言いながら、これからの毛利家の取るべき戦略を語った後、小倉の陣中にて没しました。

享年:57歳・・・

『陰徳太平記』によれば・・・
病が一旦快復に向かった時、かの黒田官兵衛が用意してくれた鮭料理を、癰の病には良く無い(鮭は血を破ると言われていた)と知りつつ
「病気やからって食べへんかったら、せっかく贈ってくれた親友(黒田官兵衛)に申し訳ないやん」
と言って食べたところ、本当に病状が悪化して死に至ったという事になってますが・・・

さすがに、それだと、知って贈ってたら故意になるし、知らなかったとしても過失致死っぽい事になるので、話がややこしい事になるのでは???(官兵衛さん、わざとじゃないよね?(^-^;)

なので、おそらく、これは、「いかに元春が義理固い人か」という事を言いたいがための逸話だと思われますが・・・

息子・元長は、父の葬儀を弟に任せ、その死後も戦い続け、11月20日には、かの香春岳城の三ノ岳を奪取しています。

弟の隆景も、支城攻略中で、使者を通じて手紙を送るのが精一杯でした。

しかし、
破天荒でキカン坊・・・
ここまでの状況になっても、まだ秀吉の配下になりたくなかった元春なら、息子や弟のいない、そんな葬儀も戦国武将として、むしろ本望・・・寂しくは無かったのかも知れませんね。
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2012年11月14日 (水)

日本初の兵糧攻め~後三年の役・金沢柵の攻防

 

寛治元年(1087年)11月14日、金沢柵が炎上し、後三年の役が終結しました。

・・・・・・・・・

陸奥守(むつのかみ)に任じられた父・源頼義(みなもとのよりよし)を助け、ともに安倍一族を倒した前九年の役(9月17日参照>>)から20年・・・その父も亡くなり、当時、若武者だった源義家(みのもとのよしいえ)も、もはや40歳を越えた頃、奥州に再び戦乱の兆しが見えはじめます。

亡き安倍一族の遺領を支配していたのは、先の前九年の役で、義家らとともに戦った清原武則(たけのり)の息子の武貞(たけさだ)の子供たちなのですが、その清原一族の間で内紛が起こっていたのです。

当時の清原氏の当主は武則の長男であった清原真衡(きよはらのさねひら)・・・

ところが、その真衡が、一族の長老である吉彦秀武(きみこのひでたけ)と不仲になり、永保三年(1083年)、秀武を攻めるべく挙兵するのですが、その事を知った秀武は、以前から真衡と仲が悪かった、彼の弟=2人を仲間に引き入れ、背後から真衡を攻めさせたのです。

その2人の弟というのが次男の清衡(きよひら)と三男の家衡(いえひら)なのですが・・・実は、兄の真衡が父と先妻との間にできた子供で、清衡はその後に父が再婚した後妻の連れ子家衡は父と後妻の間に生まれた子と、三者三様のややこしい関係・・・

そんな中、この奥州のきな臭さを心配した都の白河天皇や関白・藤原師真(ふじわらのもろざね)らから鎮守府将軍に任命されたのが、かの源義家・・・いち早く義家に接近する真衡は、あの手この手のおもてなしで義家の機嫌をとり、見事、仲間に引き入れ、「強い味方を得た!」とばかりに清衡&家衡を蹴散らし、名実ともに長男として清原氏の嫡宗(てきそう・ちゃくそう=正統を受け継ぐ本家)を獲得するのです。

しかし、それもつかの間・・・その後まもなく、真衡は病死してしまいます

真衡の死で、宙に浮いた宗家の領地は、国主である義家に委ねられる事になり、義家の采配で、清衡と家衡に平等に分配される事になるのですが、これに不満爆発なのが家衡・・・

なんせ、兄とは言え清衡は、後妻の連れ子・・・つまり、清原家の血は流れていないわけで、
「なんで、そんなヤツと半分っこやねん!」
とばかりに、清衡の留守中に家を焼き、一族を殺してしまうのです。

当然、その行動に怒り爆発の清衡は、合戦を決意し、義家に助けを求め・・・と、ここに後三年の役が始まるわけです。

義家の参戦を知った家衡は、出羽沼柵(秋田県横手市)で防備を固めます。

応徳三年(1086年)、自ら1000の軍勢を率いて出陣して沼柵を囲む義家ですが、なかなかに苦戦・・・しかも、その間に冬が訪れてしまい、関東出身者が多く、寒さに不慣れな義家の軍には、戦いではなく、寒さによる死者が相次ぐようになります。

さらに、そのうち兵糧も尽きてしまい、飢えと寒さで、ますます兵士たちは弱って行く一方・・・やむなく、義家は撤退する事にします。

この状況を伝え聞いた京の都では、義家に援軍を派遣する事も検討されましたが、結局は、その案はボツ・・・そう、この時点で、朝廷は、義家の今回の戦いが朝敵を討伐する公の合戦ではないと判断したのです。

一方、この間に、沼柵より、もっと強固な金沢柵(かなざわのさく=秋田県横手市)に本拠を移転した家衡・・・さらに、ここに来て、その家衡の軍に叔父の清原武衡(たけひら)の軍が加わりました。

寛治元年(1087年)9月・・・今度は、数万騎とい大軍を率いて多賀城を出立した義家・・・しかも、今度は、兄の苦戦を聞きつけて駆けつけてくれた弟=源義光(よしみつ)も加わって、軍の士気もあがります。

しかし、敵もさる者・・・もともと金沢柵は、横手市街の北方に位置する山腹に築かれた山城で、平地との高低差は100mほどあるため、敵の動きは手に取るようにわかるうえ、今回は、前回の沼柵以上に、堅固な防備を固めていました。

案の定・・・またしても攻めあぐねる義家・・・

一進一退の攻防の中、勝敗を急いで強気の城攻めをすれば、その損害は大きくなるばかり・・・かと言って、あまりの持久戦に及べば、兵の士気は下がっていくばかり・・・

その時、清原一族の長老・吉彦秀武が進言します。
「無益な力攻めは、ここらで終わりにして、兵糧攻めといきましょうや」

兵糧攻めとは、ご存じの通り、敵の食糧補給路を断って孤立させ、兵糧を失わせて勝つ城攻めの方法ですが、実は、これが、日本の歴史上、初の兵糧攻め・・・

Gosannoeki1000 燃える金沢柵「後三年合戦絵詞」より(東京国立博物館蔵)

かくして寛治元年(1087年)11月14日兵糧の尽きた金沢柵から、いきなり火の手が上がり、建物が火の海に包まれます。

乱入する義家軍と、防御する家衡軍が入り乱れる中、この混乱に乗じて農民姿に扮装して逃げようとした家衡が発見され、義家軍の兵士によって討たれました。

続いて、叔父の武衡も間もなく発見され、義家の前に引き出された後、首をはねられ・・・

こうして、奥州の大乱は終焉を迎えたわけですが・・・

以前、書かせていただいたように、この戦いを私的な戦いと見ていた朝廷は、結局、義家の陸奥守を解任・・・以後、義家が任官に預かる事は2度とありませんでした(10月23日参照>>)

一方、義家が去った奥州・・・清原氏当主の家で、真衡が死に、家衡が死に、ただ一人生き残ったのは、後妻の連れ子の清衡・・・

彼は、今は亡き実父=藤原経清(つねきよ)の姓を受け継ぐ事を決意し、以降、藤原清衡(ふじわらのきよひら)と名乗り、戦乱で荒れた大地に大いなる国を建設していくのです。

これが・・・
清衡1代で、陸奥の玄関口=白河関(しらかわのせき=福島県白河市)から津軽外ヶ浜(青森県東津軽郡)までの広大な土地にお影響を及ぼす事になる黄金の国=奥州藤原氏の誕生です(前半部分の内容カブッてますが…7月13日参照>>)
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2012年11月13日 (火)

2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件in応仁の乱

 

応仁二年(1468年)11月13日、足利義視が比叡山に逃走しました。

・・・・・・・・・・・

応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦により、幕開けとなった応仁の乱・・・(1月17日参照>>)

何度か書いております通り、そもそもは、早く将軍職を隠居して趣味に没頭したい第8代室町幕府将軍=足利義政(よしまさ)が、奥さんの日野富子(ひのとみこ)との間に子供がいなかった事で、仏門に入っていた自らの弟=足利義視(よしみ)還俗(げんぞく=僧になっていた人が一般人に戻る事)させて、次期将軍を譲る事にします。

ところが、その直後に嫁=富子が男の子=義尚(よしひさ)を出産・・・我が子を次期将軍にしたい富子は、実力者の山名宗全(やまなそうぜん・持豊(3月18日参照>>)に近づきます。

Ouninnoransoukanzu2 一方の義視も、一刻も早く隠居したがっていた兄が、いつまでたっても将軍を辞めない現状を見て、子供が生まれて気が変わったんじゃないか?と心配し、元管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に相談・・・

こうして、将軍家の後継者争いとなるのですが、そこに、もともと後継者争いでモメていた管領家の畠山(はたけやま)斯波(しば)義尚派と義視派に分かれ・・・そうなると、その配下となる諸国の守護大名も、いずれかの派にくっついて、日本全国を東西真っ二つに分けた応仁の乱となったワケです。

そんなこんなの5月・・・
当初は中立だった将軍=義政が、「私的な後継者争いに関与するな」という命令を出していたにも関わらず、先の畠山同志の御霊合戦に宗全の孫・山名政豊(まさとよ)が関与していた事を知った勝元は、戦火から御所を守るという名目で将軍の住まう花の御所を本陣とし、「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、その総大将に義視を任命したのです(5月20日参照>>)

一方の宗全は、花の御所から数百メートル西の自宅に陣を構えます・・・ここが、現在も織物で有名な西陣・・・

で、以降、細川方が東軍で官軍、山名方が西軍で賊軍となるわけですが・・・お察しの通り、すでに何だかオカシイ・・・

そう、富子とその息子の義尚です。

富子らは、宗全を味方にしているわけですが、将軍の嫁と息子なので、当然、花の御所に住んでるわけで・・・敵であるはずの細川の軍に警固されながら、味方であるはずの山名の攻撃を受けるというヘンな感じ・・・

とは言え、始まった当初の応仁の乱は、それぞれの武将が活発に抗争をくり返し、5月26日未明に起こった五月合戦では、将軍・義政も思わず停戦命令を出すほどでしたが(5月28日参照>>)、そんな中で起こるのが、総大将・義視のトンズラ事件・・・(初回)

現状に納得いかない富子が、同じ花の御所にいる事を逆手に取って、水面下で様々な画策をして義視にプレッシャーをかけていた事で、それに耐えきれなくなった義視が、伊勢北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って、花の御所から姿を消したのです。

総大将の逃亡・・・という前代未聞の出来事に士気下がる東軍ですが、10月3日には、相国寺の戦いという、この応仁の乱でも屈指の激しい戦いが繰り広げられました(10月3日参照>>)

しかし、京都市街戦としては、ここらあたりがピー・・・徐々に両軍ともに疲れを見せ始め、翌・応仁二年(1468年)3月21日の稲荷山の攻防戦(3月21日参照>>)を最後に、以降の京都市街戦は、足軽同志の小競り合い程度となり、逆に、それぞれに味方する守護大名や配下の国人による地元=地方での戦いが激しくなっていくのです。

たとえば、後の加賀一向一揆の基となる文明一揆なんかは、この応仁の乱の時に東西に分かれた守護大名の富樫(とがし)に地侍やら信者やらを巻き込んでの戦いとなっています(7月26日参照>>)し、あの山城の国一揆も、地元でドンパチやってる畠山氏に対しての地元の国人や土豪による一揆だった(12月11日参照>>)ですし・・・。

とまぁ、こうして、徐々に地方へと移って行く応仁の乱ですが、一方で、市街に陣取る勝元にとって、総大将が逃亡したままでは具合が悪いわけで・・・

そこで、勝元は、義政を動かして
「山城(京都府南部)と近江(滋賀県、さらに伊勢の寺社本所領から得られる税金の半分を保証しますさかいに、戻って来ておくれやす」
てな約束を義視に提示してご機嫌を取ります。

なんだかんだで次期将軍の資格を持つ義視は、旗印として、勝元の欲しい存在なわけで・・・

その後、天皇からの帰還を催促する勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出た事もあり、この年の9月・・・義視は意気揚々と東軍の陣に戻ります。

ところが、この義視さん・・・またもや富子以下の日野一族の画策に耐えきれず、わずか2ヶ月後の応仁二年(1468年)11月13日今度は比叡山へとトンズラするのです。

この状況を見逃さないのが西軍=山名宗全・・・なんせ、この応仁の乱が始まった時から、コチラ西軍は賊軍とされているわけですが、上記の通り、それは、たまたま、先に東軍の勝元が花の御所に陣取って義政を取り込んでいるからで、対抗する西軍には西軍の大義名分があって、決して彼ら自身は賊軍だとは思っていないわけで・・・

「そないに、アッチの日野富子がうっとぉしいんやったら、コッチへおいでョ…熱烈歓迎やで~」
と誘いをかけ、義視を西軍の斯波義廉(しばよしかど)の館へと迎え入れ、勝元らのいる花の御所と対抗すべく、義視を将軍に祭り上げ、以下、西軍の諸将が管領や政所執事を務める幕府体制を作ったのです。

『二人の将軍、帝都に並びて歳暮年始の喜代を争う』(応仁略記)・・・
つまり、このいち時期だけではありますが、この日本に2つの幕府があったわけですね。

これを受けた勝元は、義政を名実ともに東軍の将軍とし、正月の酒宴の席にて、5歳になった義尚を、その後継者として正式に披露する事に・・・

やったね!富子さん・・・

義政が弟・義視を還俗させる時、
「例えこの先、自分に男の子が生まれたとしても、お前に次期将軍の座を譲るから…」
と言って説得したにも関わらず、見事、このゴタゴタを利用して、息子=義尚を次期将軍にする事を認めさせちゃいました。

結局、天下分け目の戦いとして始まった応仁の乱も、兵士の疲れにも増して、総大将が東軍から西軍に寝返るという前代未聞のグダグダ合戦となりながら、もうしばらくはグダグダのまま続くのですが、

やがて、両軍の将、山名宗全と細川勝元の死とともに、文明五年(1473年)12月に義尚が正式に第9代将軍となった事で、もはや、戦う大義名分も無くなり、文明九年(1477年)に、最後まで京都に残っていた周防(すおう・山口県南東部)大内政弘(おおうちまさひろ)が帰国する事で、世紀の大乱の幕を下ろす事になります(11月11日参照>>)
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2012年11月12日 (月)

耳川の戦いのその後…大友氏の落日

 

天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の合戦=耳川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

そもそも・・・
ここに来て力をつけて来た薩摩・大隅(鹿児島県)を支配下に置く島津義久(よしひさ)に攻め込まれ、日向(宮崎県)南部を奪われた伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん・義鎮)救援を求めた事に始まった耳川の戦い・・・

前日=11月11日の高城川の戦い(11月11日参照>>)に続き、本日の天正六年(1578年)11月12日は惨劇となった本チャンの耳川の戦いがあったわけですが(2008年11月12日参照>>)、その合戦の流れについては、すでにおおむね書かせていただいておりますので、追加情報は、また、新情報を仕入れた時に、まとめて追記させていただく事として、本日は、その耳川の戦いが与えた影響=その後の大友氏について書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

それこそ、日向の伊東義祐が彼に救いを求めるくらいですから、この耳川の戦い以前の大友宗麟はけっこうノリノリだったわけで・・・九州のキリシタン大名の代表格として、宣教師たちからも「豊後の王」なんて呼ばれて、勢いづいていた頃でした。

ただ・・・ちょっとばかり不安な事が・・・

それは、この耳川の戦いの頃の大友氏が二頭政治だったという事・・・

ご存じのように、宗麟はドップリとキリスト教にハマり、島津に勝って義祐から日向の半分を貰ったあかつきには、無鹿(むしか・務志賀=宮崎県延岡市無鹿)キリスト教の理想の王国を造るんだと大ハリキリ(8月12日参照>>)、それに専念したいばかりに、耳川の2年前の天正四年(1576年)に、嫡子の義統(よしむね)家督を譲り、自らは隠居の身となって洗礼を受けています。

Ootomosourin600 この時、宗麟:47歳、義統は19歳でした。

それから2年・・・耳川の戦いの時には、義統が総大将として豊後の野津(のづ=大分県臼杵市)に陣を置き、宗麟は、そこから船で南下して、例の無鹿に陣を敷きそこを本営として本隊を、さらに南にある高城へ向かわせたというわけです。

義統が野津に残ったのは、もちろん、この時に北側から攻められるかも知れないための守りとともに、本隊を後方支援するためだったわけですが、この状況は、総大将というのが名目だけで、実権は宗麟が握っている事は明らかです。

この時期、息子の義統も
「隠居したくせに、いつまで干渉するんじゃ!」
と怒りを露わにしていますので、やはり、そこに一筋の不安があった事は確か・・・

そんな父子の二頭政治は、当然の事ながら、家臣団にも少なからず影響を与えるわけで・・・で、そんな中で行われたのが耳川の戦いで、お話をさせていただいたように、大友軍は島津に大敗をしてしまう事になったわけです。

この大友の大敗をチャンスと見たのが、肥前(佐賀県)の熊と呼ばれていた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。

この隆信の蜂起を見た筑後の国人たちは一斉に隆信に味方し、それを受けた筑前(福岡県西部)豊前(福岡県東部と大分県北部)などの周辺の戦国大名も、反大友の姿勢をあらわにします。

そうなると、先の二頭政治の影響を受けていた家臣にもグラつきが出て来るわけで・・・

まず、大友氏からの離反を表明したのは、重臣の田原親宏(たわらちかひろ)・・・彼は、大友氏の中でも一・二を争う実力者でしたので、当然、他の家臣たちにも動揺が走ります。

「俺らがもともと持ってた領地(国東・安岐)を返してくれへんかな?
返してくれへんねやったら、筑前の秋月と組んで、挙兵すんゾ」

と、親宏は、自分が宗麟の傘下に入る前に領していた地の返還を求めます。

秋月だけならまだしも・・・上り調子の龍造寺と組まれては、大友氏としてもちょっとアブナイ・・・やむなく、宗麟は親宏の要求を呑みますが、これが、家臣たちの動揺をさらに加速させるのです。

たまたま、その直後の天文七年(1579年)に親宏が病死してくれた事で、事は沈静に向かうかに見えましたが、親宏の後を継いだ養子の親貫(ちかつら)が父と同じ姿勢をとったため、その間にも、大友家臣の離反は相次ぎます。

ただ、この頃は、三つ巴となった九州戦線の中で、龍造寺と島津との抗戦が頂点に達してくれていたおかげで、大友は、何とか、その態勢を維持していたわけですが、天正十二年(1584年)3月に、沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)隆信が、島津に敗れて戦死すると、その島津の矛先は大友氏に・・・

もはや大友を守りきれない!・・・絶体絶命のピンチに立たされた宗麟は、翌・天正十三年(1584年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に救援を求めます。

この大友の申し出に対して、秀吉は、島津に「停戦」を打診しますが、この時の秀吉は、未だ、あの小牧長久手の戦いを終えたばかり・・・(11月16日参照>>)

未だ、この先どうなるかわからない状況であったため、島津は、秀吉の停戦命令を無視して、大友領内への攻撃を継続します。

たまらず宗麟・・・翌々・天正十四年(1586年)4月6日に、宗麟自らが大坂城へと赴いて、直接秀吉に拝謁し、島津討伐を願い出たのです(4月6日参照>>)

この間に、紀州征伐(3月21日参照>>)を終え、四国をも平定(7月26日参照>>)していた秀吉・・・この宗麟の要請を、渡りに船とばかりに、九州平定へ向け・・・ここから後は、島津VS豊臣の戦いという事になります。

戸次川の戦い>>
鶴崎城攻防戦・前篇>>
鶴崎城攻防戦・後編>>
高城・根白坂の戦い>>

という事で、結局は、秀吉の傘下のもと、家名が守られる事になった大友氏・・・

悪く言えば「寄らば大樹の陰」で戦国武将らしいカッコ良さには欠けるかも知れませんが、信念を貫いて華々しく散るのも戦国武将なら、何としてでも、どんな手を使ってでも家を潰さず生き残っていくのも戦国武将・・・

物語やドラマでは前者のほうが断然カッコイイですが、現実には、世は下剋上・・・滅亡してしまえばそこで終わりなわけで、生き残るためにカッコ悪い事もせねばならず、言いかえれば、それは、時勢を見る目がある外交上手という事にもなるわけです。

とは言え、そんな大友氏も、宗麟亡き後の義統が、朝鮮出兵でヘタこいて所領を没収された後、再起をを懸けて、あの黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)と、石垣原で決戦する事になるのですが、そのお話は9月13日のページでどうぞ>>
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2012年11月11日 (日)

王を辞めて臣下になります!~橘諸兄の決断

 

天平八年(736年)11月11日、葛城王が橘諸兄に改名しました。

・・・・・・・・・・・・

すでに何度か書かせていただいておりますが、その昔、日本には「貴種(きしゅ)と呼ばれる特別な4つの姓(かばね)がありました。

ご存じのように、明治維新が成って四民平等となり、皆が苗字を名乗るようになって、もはや姓や氏や苗字やらの区別も無くなりましたが、もともとは氏・素性を表す一族の呼び方であったのが姓で、その後、多くなり過ぎた氏・素性を家族単位で判別するために名乗ったのが苗字・・・

姓は賜る物ですが、苗字は、基本、勝手に名乗って良い物・・・なので、明治以前にも、武士だけでなく、農民で苗字を名乗っている人もいました(【氏・素姓と苗字の話】参照>>)

・・・で、その姓の中でも特別扱いされる天皇から直接賜った4つの姓が「貴種」で、『源平藤橘(げんぺいとうきつ)・・・そのうちの源平は、ご存じの源氏平氏で、これは、天皇の子供たちが、その姓を賜って皇族から抜け、臣戚に下った物です。

一方の藤橘は、功績のあった臣下の者に天皇が与えた姓で、藤は、あの大化の改新に功績のあった中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、第38代・天智(てんじ)天皇から賜ったのが藤原で、ご存じのように亡くなった時には藤原鎌足でした。

・・・で、この藤原と同じように、その功績によって第43代・元明天皇から(たちばな)の姓を賜ったのが県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。

彼女=橘三千代(たちばなのみちよ)は、鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)と結婚して、安宿媛(あすかべひめ)という女の子を生みます。

この安宿媛が、第45代・聖武天皇と結婚して、初の皇族出身ではない皇后となる光明皇后・・・この聖武天皇の母である宮子も不比等の娘ですので、不比等×三千代夫婦にとっては、夫の孫が天皇で、二人の娘が皇后という、わが世の春を迎える形となったわけです(実際には、安宿媛が皇后になった時には、すでに不比等は亡くなっていますが)

まさに、この後、あの藤原一族が政権を牛耳る基礎となった夫婦なんですね。

とは言え、実は、この三千代さん・・・不比等との結婚が初婚ではありません。

それ以前に、第30代・敏達(びたつ)天皇の4世の孫・美努(みの)という人と結婚していて、二人の間には、葛城(かつらぎ)王・作為(さい)牟漏(むろ)女王という2男1女をもうけていました。

しかし、この美努王という人・・・いくら天皇の子孫とは言え、もう4世ともなれば七光の光具合も大した事なく、当時の記録にもほとんど残っていない所を見れば、あまり活躍した人でもなさそうな雰囲気・・・

って事で、三千代が美努王を見限ったのか?はたまた他に何かあるのか?・・・とにかく、「ヤリ手の乳母」を武器に出世街道を歩み始めた彼女は不比等と深い仲になり、今度は、夫婦そろっての出世街道となったわけです。

そして、そんな三千代が亡くなったのが天平五年(733年)1月11日・・・(三千代さんの出世物語についてはコチラのページで>>)

その死から3年と9ヶ月経った天平八年(736年)11月11日、三千代の前夫との長男であった葛城王が、母の姓である「橘」を継ぐ事を聖武天皇に願い出て、その許可を得たのです。

Tatibananomoroe500 その名は、橘諸兄(たちばなのもろえ)・・・彼にとっては、それこそ一世一代の決断であった事でしょう。

なんせ、活躍しなかったとは言え、父は天皇家の人・・・つまり、そのままいれば皇族なわけですが、橘の姓を継ぐ=臣下に下るという事ですからね。

源平のように、天皇側からそうするように言われたならともかく、「願い出る」という事は、おそらく彼は、自分自身でそうする事を決断したわけですし、当時は未だ源平の先例も無かったわけですから・・・

当時、不比等亡き後に、藤原氏を仕切っていたのが、その息子たちの藤原四兄弟(つまり光明皇后の兄ですが母は三千代ではありません)・・・

後の藤原四家(南家・北家・式家・京家)の祖となった4人ですが、その武智麻(むちまろ)房前(ふささき)宇合(うまかい)麻呂(まろ)の4人が、臣下の自分たちにとって目の上のタンコブだった皇族・長屋王(ながやのおう)を葬り去り(2月12日参照>>)、亡き父=不比等の念願だった妹・安宿媛の立皇后をも実現した(8月10日参照>>)のが天平元年(729年)・・・

それからは、まさに、4兄弟の全盛となっていたワケですが、そんな時期に、あえて、母の橘姓を継いだ諸兄・・・彼を決断させたのは、やはり、聖武天皇からの信頼の篤さでしょう。

なんせ、父は違うと言えど、聖武天皇の皇后は、諸兄の妹・・・以前書かせていただいたように、政略結婚とは言え、なかなかに仲睦まじかったであろう聖武天皇と光明皇后ですから、聖武天皇は、そんな嫁の兄である諸兄の事をドップリと信頼していたようです。

そして、この決断は見事に当たります。

なんと、その翌年の天平九年(737年)、天然痘の流行により、その4兄弟が次々とこの世を去ったのです。

それこそ、自分たちの保身のために、これまで、長屋王のごとき実力者を排除して来た4兄弟ですから、彼らがいなくなれば、それに相当する人物も、ほとんどいないわけで・・・

っで、そこにいたのは、藤原に匹敵する家柄で天皇の信頼篤い橘諸兄・・・って事になるわけで・・・

彼は見事、空席となった右大臣に昇進し、その席に座る事になったわけです。

以来、聖武天皇を補佐する形で国政を担当し、朝廷の中心人物となった諸兄・・・天平十五年(743年)には、従一位左大臣となり、天平勝宝元年(749年)には正一位に叙されるのです。

しかし、そこがピーク・・・同じ年に、年老いた聖武天皇が、娘の第46代・孝謙天皇に皇位を譲った事で、その孝謙天皇のお気に入りである藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が台頭して来るようになるのです。

仲麻呂は、かの藤原四兄弟の武智麻呂の次男・・・そう、時代が四兄弟の息子たちへ動き始めていたのです。

これまでのように、思う存分腕を揮えなくなって来た諸兄・・・ついつい酒の席でウップンをぶちまけ、暴言を吐いてしまします。

どのような暴言だったかは具体的な記録は残っていないものの、受け取りようによっては謀反とも疑われかねない発言だったと言われています。

ただ、その事を聞いても、病床の聖武天皇は、一切、諸兄の事を咎めなかったと言いますから、未だ聖武天皇は諸兄の事を信頼しており、世代交代にあえぐ彼の気持ちを察していたのかも知れません。

ただ・・・その聖武天皇の様子を聞いた諸兄自身が、そのままでいられる事ができなかったのです。

その暴言事件のあった翌年の天平勝宝八年(756年)・・・諸兄は自ら辞職を願い出て、政界を引退し、その1年後の天平勝宝九年(757年)が明けて間もなくの正月・・・静かに73年の生涯を閉じました。

そして、皆さまお察しの通り・・・その後、力をつけた仲麻呂は、諸兄の後を継いだ橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)ターゲットとして葬り去る事になるのですが、そのお話は、2007年7月4日【闇に消えた橘奈良麻呂の乱】でどうぞ>>
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2012年11月 9日 (金)

「のぼうの城」見て来ました!(感想です)

 

一昨日、話題の映画「のぼうの城」を見て来ましたので、本日は、その感想など・・・

いやぁ、実におもしろかったデス!
と言っても、感じ方は人それぞれ・・・

「お前がオモシロイと言うから見に行ったけど、つまらなかったから金返せ!」
と言われても困りますので(笑)、あくまで、個人的な感想としてお読みいただければ幸いです。

Noboup600c それにしても、ホント・・・私の中では久々のヒットでした。
(このケチ茶々がパンフレットを買っちゃうくらいですから→)

歴史物の映画で、これほど自分にハマったのは、サニー千葉さんの『戦国自衛隊』薬師丸ひろ子さんの『里見八犬伝』以来ですかね~
(戦国自衛隊のジャンルはSFですが…一応、歴史がらみなので)

そうなんです・・・実は、今回の『のぼうの城』は、戦国歴史物と言うよりは痛快娯楽時代劇と言った印象を受けました。(ソコにハマる…茶々の好みをお察し下さい)

なので、「史実をもとにしている」と言いながらも、かなり創作が入っています。

とは言え、今回の創作部分は、断然おもしろくなってると思いますので、私としては◎なんですが・・・

なんせ、日頃から、このブログでも度々書かせていただいている通り、歴史小説や大河ドラマと言えど、「小説&ドラマ」と言う限りは、それは創作物であるのが当然で、そこに、史実に忠実なだけを求めるのは野暮というもの・・・

逆に、史実を踏まえた上に創作をプラスして、よりおもしろくする事こそが、作家さん&スタッフさんの腕の見せどころだと、個人的には思っておりますので・・・

そもそも、その史実というのも、今、解明されている事が、どこまで本当なのか?は、当時生きてた人がいない以上、現代人には確かめようも無いわけですし・・・

「とは言え、一応、おさえておきましょう!」
というのが、このブログのコンセプトの一つ
でもあるわけで・・・なんせ、歴史好きには歴史好きだけにしかわからない「この史実だけは変えて欲しく無い」という暗黙のルールのような物が、そこかしこにあるわけでして・・・それこそ、それは言葉では言い表せない複雑な物なんですョ(*´v゚*)ゞ

・・・で、これまでに、書かせていただいた小田原征伐関連のページは・・・

となるわけですが・・・この中で、今回の「のぼうの城=忍(おし)城の関連」は、6月9日と6月16日のページです。

ですが、そのページにも書かせていただいたように、通説の忍城攻防戦で、最も有名かつ1番活躍する城主・成田氏長(うじなが)の娘・甲斐(かい)でさえ、江戸時代の軍記物の創作による架空の人物の可能性が高いというのが現状・・・

ただ、細かな事は江戸時代以降の創作であったとしても、城主の留守を預かるわずかな城兵(通説では500)だけで、天下人・秀吉の命を受けた石田三成(いしだみつなり)率いる大軍(通説では20000)に囲まれ、水攻めまで受けながらも、本店の小田原城が落城するまで抵抗し続け、他のすべての支店が陥落する中で、唯一、秀吉軍に負けなかった城・・・というところは、おそらく事実・・・

もう、このおおまかな流れだけで、物語が、痛快かつ、おもしろくなる要素が満載なわけで、あの『忠臣蔵』がそうであるように、もともと、「オモロくならんかったらオカシイやろ!」という素材である事は確かです。

そんな中で、今回の『のぼうの城』は、その期待を裏切らない作品になっていると思います。

とにかく、主要キャラを演じる俳優陣が見事にハマってます。

主役の城代・成田長親(なりたながちか)を演じる野村萬斎さんですが、さすがに狂言の方だけあって、その踊りが見事・・・作品の中では萬斎さんが踊る「田楽踊り」が、物語の流れを変える重要な部分に出て来ますが、この踊りがヘタッピーだったら、この映画自体がトンデモない事になるところですが、それが、あまりにスゴイので、もはや、この役は萬斎さん以外には考えられないほどの当たり役となっています。

対する、未だ青い三成を演じる上地雄輔さんもなかなかの演技・・・それをサポートするクソまじめな大谷吉継(おおたによしつぐ)山田孝之さんも、コメディ満載のドラクエパロディ中でもマジメな「勇者ヨシヒコ」の如く、淡々とマジメを貫く・・・

忍城を守る正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで)佐藤浩市さんの堂々たる姿は、もう安心して見ていられ、ぐっさんの槍さばきも頑張ってはります。

「いつまで若者やねん」と思わせる成宮寛貴さんの初陣を飾る若い感じもイイです。

そう言えば、極悪人が1人も出て来ないところも、往年の娯楽時代劇の王道を行ってる感じ・・・しいて言えば、平岳大さん演じる長束正家(なつかまさいえ)が小憎たらしい役ですが、それこそ、憎たらしい役を演じたら天下一品の平さんが、悪役だけど憎めないという難しい役どころを見事にこなしておられます。

そんな中で、気になるのは甲斐姫を演じた榮倉奈々さん・・・

いや、これは榮倉さんがどーのというわけでは無く、イメージ的に少し違う気がする・・・という感じでしょうか?

序盤で、初めて榮倉さん=甲斐姫を見た成宮さん演じる酒巻靭負(さかまきゆきえ)が、
「あれは…人か?」
というシーンがあるのですが、一瞬、意味がわかりませんでした。

どうやら、「この世の人とは思えないほど美しい」という事のようですが・・・確かに榮倉さんはキレイな女優さんですが、美人というよりはチャーミングな女優さんで、私の個人的なイメージとしては、「手の届かない高嶺の花(←ちょっと冷たい感じ)というよりは、「笑顔がステキで親しみやすい雰囲気(←暖かい感じ)が魅力的だと感じていたので・・・

ただ、この甲斐姫は、「この世の人とは思えないほどの美しさ」でありながら、「大の男とも対等に戦える熱き心と武勇の持ち主」なので、その両極端なキャラクターを兼ね備えた役という時点で、すでに、誰がやろうと演じるに難しいと言える役なので、そこのところは、致し方ない気もします。

公開が1年延びた原因ともなった水攻めシーンは、「さすがは映画…金かかってんな(CG無しだそうです)という迫力で、スタッフさんの頑張りがうかがえ、見ごたえタップリです。

さらに、歴史好きにたまらなかったのはラストのエンドロール・・・

残念ながら、お隣の座席に座っていらしたカップルは、エンドロールが始まった途端に早々と席を立たれましたが、たまたま、私は20年来のエレカシのファンでして、文字の背景が例え真っ黒であったとしても、最後まで立つ気は無かったわけですが・・・

それが・・・
このエンドロールの背景には、現在の忍城周辺の史跡が映し出されるのですよ。

かく言う私・・・城跡や古戦場などの史跡巡りとともに、京都や奈良やらのお寺巡りにもよく行きますが、無神論者ゆえ、お寺や神社の方には申し訳ないほど、信心のこれっぽっちもありません。

なのになぜ行くか?と言えば、そこが歴史の舞台となった場所で、大好きな歴史人物が立った「その地に立ちたい」とか、「その景色を見たい」から行くわけで・・・

たとえそれが、今はただの田んぼだったとしても、ただの住宅街だったとしても、どこまでも青い空や降り注ぐ太陽の光、そよぐ風に漂う香りなど、あの頃と変わりなき空気の中で、その時代に夢を馳せながら妄想するのが大好きなのです。
(ちなみに、あるお寺1ヶ所に、ただ座って5時間いた事あります)

そういう意味で、エンドロールの向こうに流れる風景は、400年の昔に、ここで命を懸けて戦った人々の熱き思いが伝わって来るようで・・・それを、大好きなエレカシの歌とともに味わえるのは、ちょいとばかり至福の時でした。

私にとっては、とにかく、見て良かった・・・あっという間の2時間半でした。

最後に1行の追加感想・・・
中尾明慶くん、父親役をやるような年齢になったのねん
~ここでも時の流れを感じる茶々でありました

*追記:12月11日の成田氏長さんのご命日に、チョコッと捕捉を書かせていただきましたのでよろしければ、その【成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と】のページもどうぞ>>
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2012年11月 8日 (木)

出っ歯の出刃包丁~刃物の日にちなんで…

 

本日、11月8日は、「刃物の日」という記念日なのだそうです。

昔から、鋳物師鍛冶屋刀工など(ふいご=金属製錬などで火力を強めるために用いる送風装置)を使って物作りをする職人の間で、「ふいご祭り」なるお祭りが、旧暦の11月8日に全国的に行われていた事

また、「11/8=イイハ」の語呂合わせから、刃物で有名な岐阜県関市刃物連合会の提案によって制定されたという事です。

刃物と言えば、上記の関市とともに有名なのが、大阪は堺・・・って事で、本日は、その堺に伝わる「刃物にまつわる昔話」をご紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・

昔々、堺の町で刃物を作る鍛冶屋が沢山並ぶ一帯に、清やんと呼ばれる刃物職人がいました。

仕事はマジメで、なかなかの評判でしたが、この清やん・・・何とも残念なお顔だち・・・

デコは飛び出て、鼻はダンゴで上を向き、おまけに、ものズゴイ出っ歯・・・なんせ、普通に歩いてて、ヒラヒラと落ちて来た桜の花びらが、その歯にくっついてしまうくらいですから・・・

そんな容姿だった清やんは、いつしか、顔をなるべく見られないように、いつもうつ向いて歩くようになり、人と話をする時も顔を上げず、ひと言ふた言、ポツリと返事するだけになってしまい、同僚からも
「変わったヤッチャな~」
「仕事はようやるけど、ちょっとなぁ…」

と変人扱いされていました。

そんな中、ある日、同じ鍛冶屋で働くお梅という女中が、横で包丁を研いでいた清やんに
「清やん、悪いけど、ちょっと手伝うてくれへんやろか?」
と声をかけます。

彼女は、夜ご飯の支度の真っ最中で、魚をおろそうとしていたのですが、どうも、うまくいかない・・・

日頃から、明るくテキパキ働く美人のお梅に密かに憧れていた清やん・・・

ドギマギしながらも、得意の包丁の事とあって、
「ちょっと見してみぃ」
と、彼女の持っていた包丁を手に取ります。

これは、いけません。

思いっきり刃こぼれしていて、さすがにこれでは、うまく魚がおろせません。

「ちょっと待ってや」
と、その包丁を研ぎ始める清やんですが、よ~く見てみると、彼女の持っている包丁は、どれもこれも、手元の部分ばかりが刃こぼれしていて、先にいくにつれ、刃こぼれは、ほとんど見られません。

「けったいやな?」
と思いつつ、その場は、すべての包丁をキレイに研いでやりました。

以来、お客さんが修理に持ってくる包丁を、注意深く観察するようになった清やん・・・

あらためて見てみると、お客さんの包丁も、お梅の物と同じ・・・皆、手前のほうばかりが痛んでいます。

実は、その頃の包丁は、手前も先っぽも、ほぼ同じ厚さで造られていたのですね。

しかし、実際に包丁を使う時は、手元に力が入るので、使っているうちに手元ばかりが痛んでくるわけです。

「どうないしたら、使いやすい包丁になるんやろ??」

清やんは、今まで以上に無口になって仕事に励み、その研究に夢中になっていきました。

それこそ、大好きなお梅ちゃんが、鍛冶屋をやめて故郷に戻ってしまった事にも気づかないくらい・・・

Dscn1058aa800 堺の包丁…以前、堺に訪れた時(5月21日参照>>)水野鍛錬所の工房を見せていただいた興奮のあまり、勢いで茶々が買ってしまった物です。今もよぉ切れます!

やがて、1本の包丁を作り上げた清やん・・・それは、今まで見た事も無いような不細工な形の包丁でした。

手元が異常にぶ厚く、先にいくほど薄くなるものの、1番薄い所でも、これまでの包丁よりは、うんとぶ厚い・・・

一大決心をして、その包丁を鍛冶屋のご主人に見せる清やん・・・

「なんや、これまたぶっさいくな包丁作ったなぁ~」
と言いながら、試し切りして見る主人・・・

これが、見事に使いやすい!!

固い魚の骨もなんなく切れるし、力を入れても刃こぼれしない・・・

「こらえぇわ!こんなちょっとした事で、こんなにも切れ味のえぇ包丁ができるとは!
清やん・・・頑張ったな…」

と、主人も大喜びで、早速、同じ包丁を大量に作って、新作として売り出す事に決めました。

しかし、清やん本人は、この新しい包丁を作った途端に店を辞めてしまい、どこへともなく旅立って行ってしまいました。

町の噂では、「包丁が完成したのに、見せる人がいない」・・・

つまり、「お梅がいなくなった事に気づいて、店を辞めてしまったのではないか?」と囁かれましたが、その行方はいっこうに知れず・・・

「お梅の故郷に追っかけて行って、二人は結ばれた」という人もいれば、
「失意のもとに、もう立ち直れなくなっている」という人もいましたが、

清やんが発明した包丁は
「出っ歯の清やんの包丁」「出刃包丁」という名前で、全国津々浦々に広がっていく事になるのです。

・‥…━━━☆

という事ですが、ご存じ出刃包丁の出刃は、おそらくは、歯ではなく「刃が出ている」って事で、今回のお話も、あくまで伝説の域を越えない物ですが、実際に、「出刃包丁が初めて作られたのが、江戸時代の堺である」というところは、間違いないようですので、清やんが出っ歯だったかどうかはともかく、彼のように研究を重ねた包丁職人が、堺にいた事は確かでしょう。

せっかくですから、できれば、お梅ちゃんの故郷で、二人、仲睦まじく暮らしていてほしいですね~
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2012年11月 6日 (火)

外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃

 

万延元年(1860年)11月6日、幕末に諸外国との交渉などて活躍した幕臣・堀利煕が切腹しました。

・・・・・・・・

大目付・堀利堅(ほりとしかた)の四男として文政元年(1818年)に生まれた堀利煕(ほりとしひろ)は、安政元年(1854年)、37歳にして函館奉行に任じられます。

そもそも、江戸幕府政権下では、鎖国と言いながらも国境線においては曖昧な部分もあり、特に、北方に関しては、あの蠣崎慶広(かきざきよしひろ)蝦夷地(北海道)における独占交易権を与えて(1月5日参照>>)松前藩として以来、幕府の姿勢としては、国境線に関して、あまり関与する事は無かったように思います。

しかし19世紀に入ってから、ロシアからの影響で、徐々に北方地域の先住民族との関係がスムーズに行かなくなって来るようになり、北方への関心が一気に高まり始めたのです。

そんな矢先の文化元年(1804年)には、日本人漂流民を手土産に長崎を訪れたロシアの外交官・レザノフの部下が、その帰路で択捉(えとろふ)島や樺太(からふと)に上陸して、放火や略奪をして逃亡したという事件もあり、その2年後には、それにまつわる高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)拉致の1件(4月5日参照>>)もあり、松前藩による蝦夷地周辺の警戒意識も高まっていたのです。

文化六年(1809年)には、あの間宮林蔵(まみやりんぞう)樺太探検してますが(5月17日参照>>)、これも、それまでは、その地理すら把握していなかった樺太地域に、幕府の目が向けられたからでしょう。

さらに嘉永六年(1853年)、ここに来て、あのペリー来航と同じ年に訪れたロシア使節・プチャーチンが率いるロシア艦隊・・・(10月14日参照>>)

当時の松前藩では、樺太の東岸は北緯48度まで、西岸は北緯50度までの南半分が、自らの支配権と認識しており、清国(中国)もそれを認めていたようですが、来航したプチャーチンには、その国境線をハッキリさせたいという希望もありました。

しかも、この時期、プチャーチンとは別口のロシア船が、樺太に上陸して駐屯地を造ってしまうという事態も起こっています。

もはや、松前藩だけでは、対ロシアに対応しきれなくなって来ていたのですね。

そこで、幕府は、ロシアの南下政策に対抗するために、蝦夷地を松前藩から、幕府の直轄地にすべきかどうかを検討するために、当時、目付けだった堀利煕と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)らを蝦夷・樺太へと派遣するのです。

この時の巡検に同行したのが、以前、ご紹介した玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)(4月9日参照>>)・・・文才のある彼の残した詳細な記録が、この時の利煕の現地調査の綿密ぶりを伝えてくれています。

地理的な事はもちろん、原住民の生活や外国船の渡来状況など、徹底した現地調査したうえで、未だ当地の原住民がロシアに服従していない事を見て取った彼は、幕府が即座に介入して、本格的な道路工事を始めて交通を整備し、郵便や物資の運搬がスムーズに行くようにすべき・・・と提案。

つまり、将来、正式に領有を主張する時に有利に運ぶよう「今のうちに実効支配をしておけ」という事です。

この利煕の意見は、翌年、再び訪れたプチャーチンとの交渉の場で発揮され、この時締結された日露和親条約では、樺太は両国雑居地と定められました。

また、同時に蝦夷地が幕府の直轄地になる事も決定し、ここで利煕が、かの函館奉行に任命されるというワケです。
(やっと冒頭の話に戻りました~長くてスンマセン)

その後、安政五年(1858年)には新設されたばかりの外国奉行にも任命され、翌安政六年には神奈川奉行も兼任して、各国との条約締結や横浜港の開港などにも尽力・・・まさに、幕末の外交交渉の1番手として力を発揮します。

ところが、そんなさ中の万延元年(1860年)・・・突然、事件が起こります。

当時、交渉中だったプロイセン(プロシア・現在のドイツ北部地域にあった国)の外交官・オイレンブルクとの修好通商条約の草案を、老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)に提出した利煕は、翌日の万延元年(1860年)11月6日条約の締結を見ないまま、謎の自刃を遂げるのです。

Horitosihiro500 この突然の自刃は、その直後には、利煕の自刃は、老中・安藤への死諫(しかん=死をもって主君に忠告すること)・・・外国と通商条約を結んで協調をとっている感のある安藤の姿勢への抗議だったとまことしやかに囁かれ、2年後の文久二年(1862年)に坂下門外の変(1月15日参照>>)安藤を襲撃した攘夷派の大義名分となっていましたが、現在では、この説は、攘夷派による捏造の可能性が高いと言われています。

一方、二人の下で外交実務にあたっていて、草案の内容も知っていた福地源一郎(ふくちげんいちろう・桜痴)は、
「幕府が条約締結の相手がプロイセン1国と考えていたのに、草案には“附庸せる諸国”も含まれており、それに納得いかない安藤が“利煕の不届き”とし、利煕が弁明するも共感を得られなかった」
と、草案提出の時の事を証言しています。

実は、当時のドイツは統一国家では無かったのですね。

最初の段階では、プロセイン1国との条約交渉だったのが、最終段階になって来て、いきなり、オイレンブルクがバイエルンやらブレーメンやら、プロセインに付属している周辺諸国・30ヶ国の名を列記した条約草案を持って来たのです。

安藤にとっては、未だ聞いた事もい無いような未知の国・・・5日に行われた交渉の場でも、安藤は「いずれ…」言葉を濁して、その話は保留として席を立ったのです。

ところが、その交渉後に利煕が安藤に提出した草案には、その30ヶ国が含まれていた事で、安藤が叱責した・・・という事です。

とは言え、証言した福地も、「それが自刃の原因かどうか」はについては、何も言っていません。

ただ、この最後の段階になって30ヶ国の名を挙げ、少々強圧的な態度で交渉に挑んでいたオイレンブルクが、利煕自刃の話を聞いた途端、その態度がうって変わって静かになり、結局、利煕の死から7日後の11月13日、プロセイン1国だけの条約を結んだだけで、静かに日本を去っています。

この結果を見る限りでは、ひょっとしたら利煕の自刃は、安藤ではなくオイレンブルクに対する抗議だったのかも知れません。

今となっては、真相は藪の中ですが・・・

良くも悪くも、この時代には、外交交渉に命懸けで挑む官僚がいた事を忘れてはなりません。

もちろん、今の平成の世では、本当に死んでもらっては困りますが、死ぬ気で頑張ってはいただきたいですね。
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2012年11月 5日 (月)

安政南海地震と濱口梧陵~稲むらの火

 

嘉永七年(安政元年・1854年)11月5日、紀伊半島から四国沖を震源とする安政南海地震が発生しました。

・・・・・・・・・

嘉永七年(1854年)11月5日夕刻(午後4時~5時頃)マグニチュード8.4~8.5と推定されるこの地震は、32時間前に起こった安政東海地震とともに、嘉永年間の末に発生しましたが、前年のペリー来航を含めた立て続けの災難のために、直後に安政に改元された事から、一般的には安政南海地震と呼ばれます。

その被害は九州から中部地方にまで及び、特に近畿地方東海地方の被害は甚大な物でした。

・‥…━━━☆

そんな中、紀州有田の農村の長・浜口五兵衛は、少し高台にある自宅から、村の様子を眺めておりました。

幸いな事に、地震による被害はあまり見られず、むしろ、村人たちは、近々行われる祭りの準備に忙しそうです。

しかし、その時、彼は、村の向こうに見える海の水が沖合へ退いて行くのを見たのです。

「津波が来る!」
そう確信した五兵衛・・・ところが、再び村を見下ろすと、祭りの準備に追われている村人たちは地震の事を気にも留めていない様子・・・

そこで五兵衛は、村人の注意をひくため、自分の田んぼにある稲むら(稲束)に火をつけたのです。

乾いた稲が一気に燃え上ると、夕暮れの村からも、赤々とした炎が見え、
「火事や~!」
「庄屋さんの家や!」
と、その火に気づいた村の若者たちが、急いで山手へと駆けあがりました。

続いて、老人や女性や子供たちも、若者らの後を追うように山の方に向かいます。

その時・・・
消火のために、山の手へと上がった村人たちの眼下で、津波は村を呑みこんでいったのです。

こうして、五兵衛の機転と犠牲的精神により、村人たちは津波から救われました

・‥…━━━☆

このお話は、昭和十二年(1923年)から昭和二十二年(1946年)まで、「稲むらの火」という題名で尋常小学校の国語の教科書に掲載された有名なお話・・・

この時の紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)では、建て物被害:339棟、死者:30人を出しましたが、それでも、彼のおかげで、周辺の村々より、はるかに少ない被害だったと言います。

Hamagutigoryou600 ・・・で、
この物語の主人公のモデルとなったのが濱口梧陵(はまぐちごりょう)・・・

紀州の醤油商人の息子として生まれた彼は、12歳で本家の濱口儀兵衛醤油醸造業の本家の名=現在の「ヤマサ醤油」)養子となり銚子(千葉県)に移り住みます。

若い頃は江戸に遊学して外国に憧れ、海外留学も希望していましたが、幕府に許されなかったため、30歳で故郷に戻り、家業を継いでいました。

上記の「稲むらの火」の話は、その頃のお話をモデルにした物で、多少の違いはあるものの、ほぼ史実の通りです。

しかし、実は梧陵の偉業はこれだけではなく・・・いや、むしろ、ここからがスゴイのです。

まずは、近隣の村々を駆けまわって米を買い集め、いわゆる炊き出しをして村人たちを救います。

とは言え、そんな支援は、小手先だけのもの・・・未曽有の災害に見舞われた村人たちは、命こそ助かったものの、家や田畑を失って、この地を去らねばならない人も出るし、また、何とか留まっても、仕事も家も、田畑や船も失って、生きる目標を失くした人が溢れ、このままでは村の活気は消えゆくばかりだったのです。

「何とかせねば!」
梧陵は、即座に立ちあがります。

地震から、わずか2カ月・・・翌年の1月には、藩に、「藩の力は借りず、すべて我々でやりますので…」と、上申書を提出して許可を得、2月には、もう村人を集め、堤防構築の事業を始めるのです。

若者はもちろん、老人から子供まで・・・「やりたい」という人を全員雇い、堤防工事が開始されます。

そう、防災対策と雇用対策を同時に行ったのです。

その賃金は日払いですから、働いたその日に、彼らはお金を手にする事ができます。

しかも、老人・子供に関係なく支払われますから、家族が5人いれば、5人分の手間賃が手に入るわけで・・・

すでに、梧陵は手広く商売をしていましたから、被災者に対して大金を寄付する事などたやすい事でしたが、梧陵は、そうはせず、彼らに「働いてお金を得る」という生きがいも与えようとしたのです。

結局、お金にして4665両・・・現在の何億円にも相当する費用は、そのほとんどが梧陵の私財でまかなわれたのです。

やがて安政五年(1858年)12月、子供から老人までが作業に参加し、3年10カ月の歳月をかけた堤防が完成します。

Hiromurateiboukosyasin1000 広村堤防の古写真

現在も、その堤防が残されていますが、その長さは636m高さは5m・・・堤防の海側には暴風のための松を植え、内側にろうそくの原料となるはぜの木を植えました。(その時の木が現在も5本残っているそうです)

これは、イザという時、そのはぜの木をろうそくの原料として売る事を考えての事・・・

また、堤防は、緩やかな傾斜になっていますが、これも、壁のようだと上れないけど、ゆるやかならば駆けあがって逃げれる・・・イザという時の逃げやすさを考えた物だそうです。

広村堤防と呼ばれるこの堤は、完成から88年過ぎた昭和二十一年(1946年)、昭和南海地震が発生して高さ4mの津波が広村を襲った時も、見事に、その役割を果たして村を守ったと言います。

Hiromurateibouzu 広村堤防の断面図

幕末の慶応四年(1868年)には、商人としては異例の紀州藩勘定奉行に抜擢された梧陵・・・さらに、維新後には大久保利通(おおくぼとしみち)の要請を受けて、駅逓頭(えきていのかみ=郵政大臣)も務め、帰郷してからは、和歌山県の初代県議会議長にも就任しました。

もちろん、その間にも私財を投げ打って社会貢献する梧陵は、特に医療に関心が深く、コレラ予防に関する支援なども行っています。

ちなみに、人気ドラマ「仁-JIN-」で、仁先生にペニシリン製造の支援をする醤油屋さんのご主人は、この梧陵さんがモデルですね。

こうして、
「住民百世の安堵を図る」
の言葉とともに、上から目線では無い支援を行って来た梧陵・・・彼に感謝する人々の発案によって晩年には、地元に「濱口大明神」なる神社を建立しようという意見も持ちあがりますが、梧陵はキッパリと、それを断わっています。

そんな梧陵・・・ただ一つ、やり残した事がありました。

そう、若き日に夢見た海外留学です。

明治十七年(1884年)、65歳となっていた梧陵は、その夢を実現させるべく欧米に旅立ちますが、残念ながら、翌・明治十八年(1885年)2月ニューヨークにて発病し、その地で帰らぬ人となりました。

今では、海外にまで知られるようになった「稲むらの火」の物語・・・当日の、その物語とともに、その後の梧陵の偉業の数々も、大いに人々を感動させる事でしょう。
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2012年11月 4日 (日)

源平争乱…金砂城の戦い

 

治承四年(1180年)11月4日、富士川の戦いに続く源平の合戦・金砂城の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・・

前年の11月に、『治承三年の政変』と呼ばれるクーデターを決行し、後白河法皇(ごしらかわほうおう)幽閉して院政をストップさせ、法皇の近臣や関白以下・公卿39名を解任(11月17日参照>>)した平清盛(たいらのきよもり)・・・

これを受けた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が、翌年の4月に平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を発した事で、続く8月、令旨をを受け取った源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆挙兵して(8月7日参照>>)、関東地方にて反平家を呼び掛けつつ鎌倉に本拠を定めた事から、清盛は、自らの嫡孫=平維盛(これもり=重盛の息子)を指揮官にした頼朝討伐軍を関東に派遣しました。

Zidaikamakura110 この両者がぶつかったのが、治承四年(1180年)10月20日の富士川の戦い(10月20日参照>>)なのですが、そのページでも書かせていただいたように、実際には、時を同じくして挙兵した甲斐源氏の面々が深夜に富士川を渡っていたところ、怯えた水鳥が一斉に飛び立ち、それに驚いた平家軍が戦わずして撤退したという事で、確かに、頼朝も、富士川の東岸近くに陣取ってはいましたが、「頼朝VS清盛の孫」の直接対決とは言い難い戦いでした。

とは言え、平家軍が撤退したのは事実ですから、頼朝は更なる追撃をかけるつもりでいたのですが、そこに「待った!」をかけたのが、隅田川のほとりで頼朝軍に加わった(10月6日参照>>)上総介広常(かずさのすけひろつね=平広常)という人物・・・

彼は、桓武天皇の玄孫である良文(よしふみ)を祖とする両総平氏の嫡流という名門・・・ここで、平家を追って、さらに西へ向かおうとする頼朝に、先に、常陸(ひたち=茨城県)の佐竹氏を攻めるよう進言したのです。

実は、この佐竹も、かの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の弟・源義光(みなもとのよしみつ)を祖に持つ源氏の名門ですが、この時は平家方についていた・・・ただし、清盛の配下という意味ではなく、名門故の彼らのプライドがそうさせていたのです。

頼朝は、かの富士川の合戦の後、その論功行賞を行っていますが、当然の事ながら、元流人の頼朝には、彼らに与える領地などあるわけがなく、それは、「彼ら武士たちがもともと持っている領地を安堵する」・・・つまり、現在ある領地を頼朝が認め保証するという形をとりました。

これは、それまでは、上の者が朝廷から認められた官職を下の者に授ける事でその上下関係を正当な物としていたのを、無位無官の頼朝が朝廷の力を借りる事無く行った事で、頼朝が関東を束ねる新たな権力者である事を示すとともに、その頼朝の采配で配下の武士を支配するという新しい組織の形だったわけです。

名門であるが故に、佐竹はこの頼朝のやり方が気に入らない・・・

当時、佐竹の当主であった佐竹隆義(さたけたかよし)は京都にて平家に仕え、領地は、その息子の佐竹秀義(ひでよし)が預かっていましたが、父が京都で平家に仕えているのも、今のところ、平家の当主である清盛が朝廷から高い冠位を与えられているからで、佐竹から見た上司は、あくまで朝廷であり天皇であるわけで、同じ武士の身分の者に従う気なんてさらさら無いのです。

なのに、無位無官の頼朝が、関東の支配者気取りで、自分勝手に領地を分配するなんて・・・彼らから見れば、あってはならない事だったわけです。

また、隆義の母が、奥州藤原氏の初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)(11月14日参照>>)の娘であった事もあって、この時の佐竹氏には「関東以北は俺らが守る」的な思いもあったかも知れません。

一方、頼朝にとっても・・・
当時、この佐竹氏と、相馬(そうま)の領有権を巡って、度々争っていたのが桓武平氏の流れを汲む千葉氏・・・その千葉常胤(ちばつねたね)は、頼朝が挙兵した時にいち早く駆けつけてくれた人物で、おかげで、軍の士気も挙がったわけで、当時、不安なまま旗揚げした頼朝にしてみれば、味方の中の味方である常胤に敵対する者は倒すべき相手でもあり、「関東で頼朝に従わない者は許さない」事を内外に示すチャンスでもあったのです。

頼朝は、広常に命じます。
「“話し合いをしたいから…”と言って、彼らを誘い出して殺せ」と・・・

武士なら、正々堂々と合戦に挑めよ!
とも思いますが、まぁ、策略も一つの作戦と言えば作戦・・・

この誘いを警戒した秀義は、誘いに乗る事なく、むしろ決戦が近い事を悟って、本拠の金砂城(きんさじょう=茨城県常陸太田市)へと籠ります。

ところが、佐竹一族の一人(秀義の兄とも)佐竹義政(よしまさ)は、広常の誘いに応じて国境まで出かけたところを、国境を流れる園部川に架かる大矢橋の上で騙し討ちにされたのです。

「義政死す」のニュースは、またたく間に金砂城に伝わり、城内は動揺します。

なんせ、騙し討ちですから・・・
「頼朝はどんな手を使ってでも佐竹を皆殺しにするに違いない!」と・・・

もともと、多くの関東武士を味方につけた頼朝に佐竹一族だけで立ち向おうという多勢に無勢・・・そんな中で、さらに、佐竹一族と言えど、当主の隆義&秀義父子とはかなり縁の薄い親戚もいるわけで・・・

そうなると、負けの見えた佐竹を見捨てて、自分だけ助かろうと考える者も出て来る・・・

かくして治承四年(1180年)11月4日、かねてより広常が交渉を持ちかけていた佐竹義季(よしすえ)が、とうとう頼朝側に寝返ります。

この義季は、当主・隆義の弟・・・つまり、留守を預かる秀義の叔父。

このような重要人物を寝返らせる事に成功した頼朝・・・早速、金砂城への総攻撃を決定します。

これまでも、幾度か攻撃を仕掛けてはいましたが、金砂城は断崖絶壁に建つ難攻不落の名城・・・敵の守りは固く、頼朝軍は大いに阻まれていたのです。

しかし、翌11月5日に始まった総攻撃では、義季の手引きによって金砂城内に楽々侵入した頼朝軍が、またたく間に奥へ奥へと・・・

なんせ、はなから兵力に劣る籠城作戦なのですから、「何としてでも城へ侵入させない」「鉄壁の防御で、籠城する」のが鉄則・・・そこを、内通者を利用して突破されてしまっては、もう、なす術もありません。

やむなく秀義は、城を脱出し、陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福島と秋田県の一部)へと逃走し、金砂城は、総攻撃から、わずか2日で陥落してしまいました。

・・・と、今回の金砂城の戦いをみて、お気づきになられたと思いますが・・・

今年の大河ドラマ「平清盛」に限らず、この時代のドラマでは、どうしても、わかりやすさ重視で、源平の争い=源氏VS平氏と称される事が多く(かく言う私も、このブログ内で「源平争乱の時代」というくくりで年表などの表示しています(^-^;)

頼朝の配下は皆源氏で清盛の配下は皆平氏と思い込みがちですが、実際には、頼朝に攻められた佐竹が源氏で、頼朝の配下として佐竹を攻めた上総介広常や千葉常胤が平氏という事になります。

参考↓
桓武平氏の系図>>
清和源氏の系図>>

なので、源平争乱というよりも、実は、清盛率いる伊勢平氏と坂東平氏(関東に根づいた平氏)との戦いと見ても良いかも知れませんね・・・特に、この金砂城の戦いは、房総地域の平氏の領地争いの色が濃いかも知れません。

と言いながら、題名には源平争乱をつけちゃいましたが・・・つけた方が時代がわかりやすいので(*´v゚*)ゞ
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2012年11月 2日 (金)

三種の神器のお話

 

延元元年・建武三年(1336年)11月2日、後醍醐天皇が光明天皇に三種の神器を渡しました。

・・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇とともに、鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)は、九州で態勢を立て直し(4月26日参照>>)光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り、湊川(みなとがわ)の戦い楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃させた(5月25日参照>>)後、京都合戦新田義貞(にったよしさだ)に勝利して、京都を制圧(6月30日参照>>)・・・後醍醐天皇は比叡山に逃れました。

さらに8月に、光厳上皇の弟を光明(こうみょう)天皇として即位させた尊氏は、一方で後醍醐天皇への和睦を打診・・・その尊氏の申し立てに心動かされた後醍醐天皇ですが、新田義貞の訴えによって思い直し(8月15日参照>>)、義貞に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と、その異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を託して北国へ落ち延びさせ(10月13日参照>>)、自らは三種の神器を携えて比叡山を降り、尊氏のもとへと向かいます。

かくして延元元年・建武三年(1336年)11月2日後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器が渡されたのです。

その後、後醍醐天皇は花山院に幽閉されていましたが、誰一人として側に仕える者もなく、その後の状況を知る術もなかったため、思い悩んだあげく、出家しようかとも考えていましたが、やがてそこに手引きする者が現われ、後醍醐天皇は脱出し吉野へ・・・

ここに、南北朝分裂とという事態が勃発するわけですが、そのお話は、やはり、脱出の「その日」に書かせていただく事にして、本日は、今日・11月2日に光明天皇へと渡された三種の神器という物について、少し書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

ご存じのように、三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)とは、
●八咫鏡(やたのかがみ)
●八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま=璽)
●天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣)
の3つ・・・

記紀神話によれば、八咫鏡と八尺瓊勾玉は、天岩戸(あまのいわと)に隠れた太陽神のアマテラスオオミミカミ(天照大神)外に誘いだすために用いられた道具(7月6日参照>>)で、天叢雲剣は、その弟のスサノヲノミコト(須佐之男命・素戔嗚尊)が地上に降りてヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、そのシッポから出て来た物を姉のアマテラスに献上した物とされます。

その後、アマテラスの孫であるヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が地上へ降りる、いわゆる天孫降臨の際に、ニニギノミコトに神器を手渡した事になっています。

その時、アマテラスは「この鏡を私の魂だと思って祭りなさい」と言った事から、鏡は太陽、その対となる勾玉は月・・・剣は星を象徴していると考えられていますが、あの北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)にも
「三種の神器が世に伝わる事は、日月星が天にある事と同じ…鏡は日の体、玉は月の精、剣は星の気である」
てな事が書かれているので、その考え方は古くからあったのでしょう。

こうして、ニニギノミコトによって地上にもたらされた三種の神器ですが、平安初期の『古語拾遣(こごしゅうい)によると、ニニギノミコトの孫で初代天皇となる神武(じんむ)天皇から数えて10代めにあたる崇神(すじん)天皇の時代に、あまりに、その神威がおそれおおいとして、八咫鏡と八尺瓊勾玉の2つは大和(奈良県)の笠縫邑(かさぬいむら)に遷して祭り、その分身を作って宮中に安置・・・その後、その息子で第11代の垂仁(すいにん)天皇の時代に伊勢神宮へ遷されたとされます。

天叢雲剣は、第12代・景行(けいこう)天皇の息子であるヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)が、東征の際に姉のヤカトヒメノミコト(倭姫命)から授かって戦いに使用し、凱旋の際に尾張(愛知県)の熱田神宮に奉納されたと言います。

その神秘さゆえに、たとえ天皇本人であっても「実物をその目で見てはならない」とされる一方で、天皇継承の即位の儀式などでは欠かせぬアイテムとされ、神器の無いまま即位した天皇は不完全ともみなされました。

源平争乱の際は、都落ちする平家は、平清盛の孫にあたる安徳(あんとく)天皇を奉じ、しっかりと三種の神器を抱えて西国に落ち、対する源氏は、三種の神器を取り戻す事を最大の目標としました。

結局、この時は、鏡と勾玉は確保したものの、剣は安徳天皇とともに壇ノ浦のもくずと消えたとされ(3月24日参照>>)、安徳天皇の後を継いだ後鳥羽(ごとば)天皇宝剣代という天叢雲剣の代わりとなる剣を創作する事によって何とか、その神器不在のコンプレックスをはねのけました。

今回の後醍醐天皇と光明天皇の間で交された三種の神器も、この後、吉野で南朝を開く後醍醐天皇が
「向こうに渡したのはニセモノだよ~」
と言って、南朝の正統性を訴えたりして、常に皇位継承の政争の中で注目をされていた三種の神器・・・

先の北畠親房の『神皇正統記』の記述も、親房が南朝側についていた故の記述なわけですが・・・

とは言え、南北朝の動乱も終わりが見え始めた建徳二年・応安四年(1371年)の後円融(ごえんゆう)天皇の即位の際には、北朝にて関白や摂政を務めた二条良基(にじょうよしもと)
「世の中の人は、未だに神器が南朝にあると思ってるけれど、私は、ここにあると思う…なぜなら、政治を正しく行う事こそが、すなわち神器なのだから…」
と言ったというように、

神器とともにいた平家が滅び、神器を持たない北朝が神器を持つ南朝より優位に立った事などから、徐々に、その神秘性は薄れていくのですが、今、現在も、宮中の重要な儀式では欠かせない物となっている事は確かで、神代の時代から続く大切な物という意識は変わらないと思います。

ちなみに、現在でも、
「本物は宮中にある」とか
「別の場所に現存する」とか
「もう、無い」とか
その所在は様々に語られているようです。

「絶対に見てはいけない」と言われると、「見たい」「確かめたい」と思うのが人の常ですからね~
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