源実朝…実現しなかった夢の船出
建保四年(1216年)11月24日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が陳和卿に大船の建造を命じました。
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陳和卿(ちんなけい)は、宋(そう・中国)から渡って来た人物で、あの源平合戦のさ中に、平家に焼き打ちされた東大寺の大仏殿(12月28日参照>>)の再興にあたった技術者として知られていました。
『百人一首一夕話』によれば、
鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)が、その功徳を聞きつけ、
「彼に会ってみたい」
と誘いをかけたものの、
「彼のお方は、天下を取ったお方ではありますが、その一方で、おびただしい数の人命を絶たれたお方でもあり、私は、会いたくありません」
とキッパリと断わり、両者の面会は実現しなかったと言います。
そんな和卿が、この建保四年(1216年)の春頃に鎌倉に入り、その頼朝の息子でもあり、第3代の鎌倉幕府将軍となっている源実朝(みなもとのさねとも)に謁見したいと願って来たのです。
それを聞いた実朝も大いに喜び、早速、拝謁する事に・・・
すると開口一番・・・和卿は、
「あなたの前世は、宋の国の育王山(いくおうざん・医王山とも)におわす禅師(高徳な僧侶)であり、その時(前世)の私は、あなたの弟子でありました。
今日、お顔を拝見して、私はその事を確信しました故、この後は、弟子として、あなたに尽くしましょう」
と言ったのです。
周囲の者にとっては、にわかには信じ難い話ですが、実朝は、すっかり信じ込みます。
実は実朝・・・かつて、一人の老僧が現われて、実朝の前世について語るという夢を見ており、その内容が、和卿の話とピタリと一致していたのです。
「宋に行きたい!・・・宋に行って育王山を拝みたい!」
早速、実朝は、自らが60人の従者とともに宋に渡るという計画を立て、建保四年(1216年)11月24日、和卿に命じて、宋に渡るための大船を造らせたのです。
実はこの頃の実朝・・・
なにやら、生き急いでるような印象を受けます。
やたら官職を欲しがって次々と朝廷に要請し、この建保四年(1216年)の6月20日には権中納言に任ぜられ、続く7月21日には左近衛中将に・・・
この事を心配した大江広元(おおえのひろもと)が、
「功績も無いのに昇進する事は“位打ち(くらいうち)”と言って寿命を縮めるもの・・・どうか子孫の繁栄のためにも、辞職して、征夷大将軍にのみに集中していただきたいんですが・・・」
と諫めますが、実朝はまったく聞き入れなかったのだとか・・・
『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、その時、実朝は
「言うてる事は、よ~く、わかるで。
けど、源氏の正統は、今限り・・・子孫が継ぐ事は無いよって、せめて官職を身につけて、源氏の名を、ちょっとでも挙げようと思てるねん」
と答えたとか・・・
この時、実朝は、未だ25歳・・・満年齢なら23歳ですから、まだまだ子供を残せる希望も持てたはずなのに、なぜに、「源氏の正統な血筋が、自分限りで絶える」などと言ったのでしょう?
先ほどの前世に関する夢の話・・・実朝が、その夢の事を誰にも話していなかったにも関わらず、和卿が現われて、その夢のお告げの通りの事を言ったので、彼はすっかり信じたわけですが、ひょっとして、それとは別の・・・何か生き急がねばならないような夢のお告げがあったのでしょうか??
とにもかくにも、実朝は、何かに追われるように大船の建造を命じ、母=北条政子(ほうじょうまさこ)の反対をも押し切って、自ら宋に渡る夢を実現しようと急ぐのです。
かくして、昼夜を問わず、何百万もの大金を投じて建造された大船は、翌年の4月17日に完成し、由比ヶ浜にて進水式が執り行われました。
実朝の見守る中、慎重に数百人の人夫を水中に立たせて、船を曳きおろして漕ぎ出そうと試みますが、残念ながら、船が重すぎて浮く事ができず・・・結局、砂浜を離れる事なく、そのまま座礁してしまいました。
その時の実朝の心情は、記録にはいっさい残っていませんが、おそらく、相当に落胆した事でしょう。
果たして、その3年後の建保七年(承久元年・1219年)1月27日、前年に、武士として初めて右大臣となったお礼を兼ねて、鶴岡八幡宮に参拝した実朝は、兄・頼家(よりいえ)(7月18日参照>>)の遺児・公暁(くぎょう)によって暗殺され、28歳という若さでこの世を去ります(2008年1月27日参照>>)。
その公暁も、犯行後にすぐさま殺され(2013年1月27日参照>>)、ここに頼朝直系の血筋は、本当に絶えてしまう事になります。
その暗殺のページにも書かせていただきましたが、なにやら、この先の自らの運命を知っているかの実朝の行動・・・
♪世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)漕ぐ
海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも ♪
これは、新勅撰和歌集にある実朝の詠んだ旅の歌・・・
百人一首の93番目の歌としても有名ですが・・・
「小船の綱を引く猟師たちの、のどかな声が聞こえる浜辺のように、この世の中も平穏やったらええのになぁ」
あの明治の歌人=正岡子規(まさおかしき)が、「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)以来の最高の歌人」と絶賛する実朝の歌の才能・・・
周囲の覇権争いに翻弄され、わずか12歳で、元服と同時に征夷大将軍に就任した実朝は、本当は、歌など詠みながら、心静かに暮らす事を望んでいたのかも・・・
他人から見れば荒唐無稽に思える宋への船出に執着したのも、
自分は誰なのか?
なぜ、生まれて来たのか?
なぜ、ここにいるのか?
その原点を知りたかったのかも知れませんね。
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コメント
宋を目指して由比ヶ浜を船出する幻の大舟…
何か、実朝の不安で孤独な心象風景を見るようです。優れた歌人であったこともありますが、日本の為政者としては珍しいタイプの人ですよね。
いろんな想像をさせられます。
投稿: レッドバロン | 2012年11月25日 (日) 00時00分
レッドバロンさん、こんばんは~
約束された道は、実朝にはツライ道だったのかも知れませんね。
おそらく、周囲が思ってる以上に聡明な人だったのでしょう。
投稿: 茶々 | 2012年11月25日 (日) 02時11分
この茶々さんのお話のまとめ、深いですね。
投稿: minoru | 2013年11月24日 (日) 16時26分
minoruさん、こんばんは~
いつの世も、人は、無い物ねだり…ですね。
「人気者になりたい!」とデビューしたアイドルが、人気が出ると「普通の女の子に戻りたい」と願う…
将軍様には、将軍様にしかわからない悩みがあるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年11月25日 (月) 02時08分