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2012年11月 6日 (火)

外交交渉に命を懸けて…堀利煕の自刃

 

万延元年(1860年)11月6日、幕末に諸外国との交渉などて活躍した幕臣・堀利煕が切腹しました。

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大目付・堀利堅(ほりとしかた)の四男として文政元年(1818年)に生まれた堀利煕(ほりとしひろ)は、安政元年(1854年)、37歳にして函館奉行に任じられます。

そもそも、江戸幕府政権下では、鎖国と言いながらも国境線においては曖昧な部分もあり、特に、北方に関しては、あの蠣崎慶広(かきざきよしひろ)蝦夷地(北海道)における独占交易権を与えて(1月5日参照>>)松前藩として以来、幕府の姿勢としては、国境線に関して、あまり関与する事は無かったように思います。

しかし19世紀に入ってから、ロシアからの影響で、徐々に北方地域の先住民族との関係がスムーズに行かなくなって来るようになり、北方への関心が一気に高まり始めたのです。

そんな矢先の文化元年(1804年)には、日本人漂流民を手土産に長崎を訪れたロシアの外交官・レザノフの部下が、その帰路で択捉(えとろふ)島や樺太(からふと)に上陸して、放火や略奪をして逃亡したという事件もあり、その2年後には、それにまつわる高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)拉致の1件(4月5日参照>>)もあり、松前藩による蝦夷地周辺の警戒意識も高まっていたのです。

文化六年(1809年)には、あの間宮林蔵(まみやりんぞう)樺太探検してますが(5月17日参照>>)、これも、それまでは、その地理すら把握していなかった樺太地域に、幕府の目が向けられたからでしょう。

さらに嘉永六年(1853年)、ここに来て、あのペリー来航と同じ年に訪れたロシア使節・プチャーチンが率いるロシア艦隊・・・(10月14日参照>>)

当時の松前藩では、樺太の東岸は北緯48度まで、西岸は北緯50度までの南半分が、自らの支配権と認識しており、清国(中国)もそれを認めていたようですが、来航したプチャーチンには、その国境線をハッキリさせたいという希望もありました。

しかも、この時期、プチャーチンとは別口のロシア船が、樺太に上陸して駐屯地を造ってしまうという事態も起こっています。

もはや、松前藩だけでは、対ロシアに対応しきれなくなって来ていたのですね。

そこで、幕府は、ロシアの南下政策に対抗するために、蝦夷地を松前藩から、幕府の直轄地にすべきかどうかを検討するために、当時、目付けだった堀利煕と勘定吟味役の村垣範正(のりまさ)らを蝦夷・樺太へと派遣するのです。

この時の巡検に同行したのが、以前、ご紹介した玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)(4月9日参照>>)・・・文才のある彼の残した詳細な記録が、この時の利煕の現地調査の綿密ぶりを伝えてくれています。

地理的な事はもちろん、原住民の生活や外国船の渡来状況など、徹底した現地調査したうえで、未だ当地の原住民がロシアに服従していない事を見て取った彼は、幕府が即座に介入して、本格的な道路工事を始めて交通を整備し、郵便や物資の運搬がスムーズに行くようにすべき・・・と提案。

つまり、将来、正式に領有を主張する時に有利に運ぶよう「今のうちに実効支配をしておけ」という事です。

この利煕の意見は、翌年、再び訪れたプチャーチンとの交渉の場で発揮され、この時締結された日露和親条約では、樺太は両国雑居地と定められました。

また、同時に蝦夷地が幕府の直轄地になる事も決定し、ここで利煕が、かの函館奉行に任命されるというワケです。
(やっと冒頭の話に戻りました~長くてスンマセン)

その後、安政五年(1858年)には新設されたばかりの外国奉行にも任命され、翌安政六年には神奈川奉行も兼任して、各国との条約締結や横浜港の開港などにも尽力・・・まさに、幕末の外交交渉の1番手として力を発揮します。

ところが、そんなさ中の万延元年(1860年)・・・突然、事件が起こります。

当時、交渉中だったプロイセン(プロシア・現在のドイツ北部地域にあった国)の外交官・オイレンブルクとの修好通商条約の草案を、老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)に提出した利煕は、翌日の万延元年(1860年)11月6日条約の締結を見ないまま、謎の自刃を遂げるのです。

Horitosihiro500 この突然の自刃は、その直後には、利煕の自刃は、老中・安藤への死諫(しかん=死をもって主君に忠告すること)・・・外国と通商条約を結んで協調をとっている感のある安藤の姿勢への抗議だったとまことしやかに囁かれ、2年後の文久二年(1862年)に坂下門外の変(1月15日参照>>)安藤を襲撃した攘夷派の大義名分となっていましたが、現在では、この説は、攘夷派による捏造の可能性が高いと言われています。

一方、二人の下で外交実務にあたっていて、草案の内容も知っていた福地源一郎(ふくちげんいちろう・桜痴)は、
「幕府が条約締結の相手がプロイセン1国と考えていたのに、草案には“附庸せる諸国”も含まれており、それに納得いかない安藤が“利煕の不届き”とし、利煕が弁明するも共感を得られなかった」
と、草案提出の時の事を証言しています。

実は、当時のドイツは統一国家では無かったのですね。

最初の段階では、プロセイン1国との条約交渉だったのが、最終段階になって来て、いきなり、オイレンブルクがバイエルンやらブレーメンやら、プロセインに付属している周辺諸国・30ヶ国の名を列記した条約草案を持って来たのです。

安藤にとっては、未だ聞いた事もい無いような未知の国・・・5日に行われた交渉の場でも、安藤は「いずれ…」言葉を濁して、その話は保留として席を立ったのです。

ところが、その交渉後に利煕が安藤に提出した草案には、その30ヶ国が含まれていた事で、安藤が叱責した・・・という事です。

とは言え、証言した福地も、「それが自刃の原因かどうか」はについては、何も言っていません。

ただ、この最後の段階になって30ヶ国の名を挙げ、少々強圧的な態度で交渉に挑んでいたオイレンブルクが、利煕自刃の話を聞いた途端、その態度がうって変わって静かになり、結局、利煕の死から7日後の11月13日、プロセイン1国だけの条約を結んだだけで、静かに日本を去っています。

この結果を見る限りでは、ひょっとしたら利煕の自刃は、安藤ではなくオイレンブルクに対する抗議だったのかも知れません。

今となっては、真相は藪の中ですが・・・

良くも悪くも、この時代には、外交交渉に命懸けで挑む官僚がいた事を忘れてはなりません。

もちろん、今の平成の世では、本当に死んでもらっては困りますが、死ぬ気で頑張ってはいただきたいですね。
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コメント

死ぬ気で頑張るのが文字通りの意味だったから当時の人達は優秀だったのかなあ。
なんだか当時の支配階級の人達は今の日本人と全く異質なすごい人々のような気がしてしまいます。
自分のために生きていない人が多いというか。

投稿: | 2012年11月 6日 (火) 23時01分

この時代は、攘夷派であれ、佐幕派であれ、皆が、明日の日本を真剣に考えてくれていた時代ですからね。

最近は外交問題がイロイロあるので、考えさせられます。

投稿: 茶々 | 2012年11月 7日 (水) 00時52分

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