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2012年11月15日 (木)

小倉の陣中で…吉川元春の最期

 

天正十四年(1586年)11月15日、弟の小早川隆景とともに、毛利家を支えた吉川元春が亡くなりました。

・・・・・・・・・

Kikkawamotoharu600 吉川元春(きっかわもとはる)は、西国の雄と称された安芸(あき=広島県)の戦国大名=毛利元就(もうりもとなり)の次男で、元就の「養子に入った家を乗っ取ろう作戦」の手ゴマとして、18歳の時に吉川家の養子となります(9月27日参照>>)

同じく、小早川家を乗っ取るべく養子に入った弟の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに、父=元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』(11月25日参照>>)をよく守り、兄の隆元(たかもと)が亡くなって(8月4日参照>>)からは、その兄の息子で毛利家の当主となった輝元(てるもと)を二人が支えた事から、吉川と小早川で『毛利の両川』と呼ばれました。

とは言え、この両川のお二人の中では、どちらかと言えば、弟の隆景さんが冷静な策士の雰囲気で、兄の元春さんの方が破天荒でキカン坊のような印象を受けます(←あくまで個人の感想です)

以前書かせていただいた嫁選びの逸話(8月30日参照>>)もそうですが、あの羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)備中高松城の水攻めの際も・・・

この時の元春と隆景は、秀吉から水攻めを受けている高松城を救援に向かいながらも、結局は、天正十年(1582年)6月4日、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)切腹を以って和睦する(6月4日参照>>)事を決定するのですが、その決定後に、すでに2日前に織田信長が本能寺で暗殺されていた事を知った彼ら・・・

「そんなん詐欺やんけ!」と怒り、「帰る準備中の秀吉軍に総攻撃をかけよう」と主張したのが元春で、逆に、「兄ちゃん、書面に署名捺印した以上、書類は正等で、講和は成立や!それを破ったらこっちが不利になるがな」と、冷静に諭したのが隆景・・・

結局、その後の更なる和睦交渉で、吉川広家(元春の三男)毛利秀包(元就の九男)を人質として秀吉のもとにおく条件で、それぞれの領地を安堵するという事で(9月23日まん中部分参照>>)毛利も、そして彼ら両川も秀吉の傘下となるわけですが、

元春は、そんな和睦交渉が成立する以前・・・いや、正確には、かの高松城水攻めから、わずか半年後の天正十年(1582年)12月に、家督を、長男の元長(もとなが)に譲って、隠居の身となっています。

そうです・・・
あの備中高松城の水攻めを終えた、その尻で、中国大返しの離れ業をやって(6月6日参照>>)、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)秀吉は、その半月後の清州会議(6月27日参照>>)で主導権を握る事に成功し、続く10月15日には、養子の秀勝を看板に、まるで後継者のごとく信長の葬儀まで仕切っちゃってた(10月15日参照>>)わけで・・・

おそらく、元春は、そんな秀吉の傘下に、自らが収まる事に耐えられ無かったのでしょうね・・・その後の四国征伐(7月26日参照>>)でも、弟の隆景は参戦していますが、元春は、息子を出陣させただけでした。

しかし、秀吉がそれを許しませんでした。

天正十四年(1586年)・・・今度は九州の大友宗麟(おおともそうりん)の要請を受けて(4月6日参照>>)島津を倒す事になった秀吉は、輝元を通じて、元春の出馬を要請して来たのです。

秀吉は・・・
「四国平定の時は、活躍してくれた小早川君に伊予(愛媛県)を進呈したけど、今度の九州退治では吉川君に筑前福岡県西部)をあげよかなぁ~なんて思てんねやんか。
僕も、そのうち、九州に渡海するよって、その時には、昔々に対峙した戦の話なんか、二人で語り合いたいなと思てんねん。。。
せやから、ぜひ、出陣して~
って、君から伝えといてくれへんかな?」

と、輝元に言ったのです。

これから先、まだまだ秀吉と付き合わねばならない輝元以下毛利家の事を思えば、元春が断われるはずはありません・・・まぁ、結局は、それを解っての秀吉の言い回しなワケですが・・・

天正十四年(1586年)10月・・・本家の毛利軍とともに北九州に上陸した元春は、すぐさま豊前小倉城を攻略しますが、次に立ちはだかる香春岳(かわらだけ=福岡県田川郡)城主の高橋元種(たかはしもとたね)の攻撃に向かったのは、弟の隆景と、息子の元長と、同行する黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=如水)で、元春は、今回の総大将の輝元とともに、小倉城に留まりました。

実は、元春は(よう=化膿性炎症の病を患っていたのです。

11月7日には、宇留津(うるつ=福岡県築上郡椎田町)を攻撃中の元長のもとに、「癰が悪化して大変苦しんでおられる」との急報が入り、元長は、一旦、小倉城に戻って、看病したりなんぞしています。

ところが、その看病の甲斐あってか、11月13日付けの元春の手紙には、
「なんか、最近、調子よくなって来て…これやったら、合戦にも出られそうやわ」
てな事を、配下の将宛てに書き送っています。

ところが、その手紙から2日後の天正十四年(1586年)11月15日・・・容態が急変し、そばにいた外科医の徳琳の手当ても空しく思えるほどになってしまいます。

自らの死期を悟ったのか、元春は徳琳を近づけ、
「輝元に伝えてくれ」
と言いながら、これからの毛利家の取るべき戦略を語った後、小倉の陣中にて没しました。

享年:57歳・・・

『陰徳太平記』によれば・・・
病が一旦快復に向かった時、かの黒田官兵衛が用意してくれた鮭料理を、癰の病には良く無い(鮭は血を破ると言われていた)と知りつつ
「病気やからって食べへんかったら、せっかく贈ってくれた親友(黒田官兵衛)に申し訳ないやん」
と言って食べたところ、本当に病状が悪化して死に至ったという事になってますが・・・

さすがに、それだと、知って贈ってたら故意になるし、知らなかったとしても過失致死っぽい事になるので、話がややこしい事になるのでは???(官兵衛さん、わざとじゃないよね?(^-^;)

なので、おそらく、これは、「いかに元春が義理固い人か」という事を言いたいがための逸話だと思われますが・・・

息子・元長は、父の葬儀を弟に任せ、その死後も戦い続け、11月20日には、かの香春岳城の三ノ岳を奪取しています。

弟の隆景も、支城攻略中で、使者を通じて手紙を送るのが精一杯でした。

しかし、
破天荒でキカン坊・・・
ここまでの状況になっても、まだ秀吉の配下になりたくなかった元春なら、息子や弟のいない、そんな葬儀も戦国武将として、むしろ本望・・・寂しくは無かったのかも知れませんね。
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コメント

元春は、イメージと異なり源氏物語を写本する教養人だったそうですね。
秀吉が無理をさせずに優しく接して元春が長生きしていれば、又は元長がこの後、急死しなければ、関ヶ原で広家があのような重要な立場に立つ事はなく、豊臣家の悲劇も無かったかもしれなかったと思うと因果応報か・・・。

投稿: てつ | 2012年11月16日 (金) 20時20分

てつさん、こんばんは~

>元春は、イメージと異なり源氏物語を写本する教養人だった…

ハイッ!もちろん、破天荒というのはその名の通り、「いかにも荒武者っぽい」という感じの意味で、身につけている教養とは別物と思っていますデス。
写本と言えば、月山富田城攻防戦に時にも、暇つぶしで「太平記」を書写しちゃうくらいですから、やはり教養人だったでしょうね。

おっしゃる通り、もう少し長生きしていてくれたら関ヶ原での毛利の動向にも変化があったかも知れませんね~

投稿: 茶々 | 2012年11月16日 (金) 21時43分

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