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2012年12月31日 (月)

アンケート企画:この国を変えてくれそうなリーダー(歴史人物)は?

 

いよいよ、2012年も、今日で終わりとなりました。

12月の選挙での投票率を見る限り、
「誰が政権を握ろうが大して変わらないんじゃないの?」
てな、雰囲気や
「入れたい政党なんて無いヨ!」
てな感じが受け取れる一方で、

やはり、
「何かが変わるんじゃないか?」
「何とか、良い方向に行って欲しい」

という、ほのかな期待も感じとれます。

という事で、旧暦の無い31日・・・本年最後のアンケート企画!

今回のテーマは・・・
そんな、様々な問題が山積みのこの国を
「変えてくれそうなリーダーは?」

もちろん、お遊び感覚のアンケートですし、歴史ブログですので、そのリーダーも歴史上の人物という事で・・・

新しき年を迎えて何かが変わりそうな希望を持たせてくれるリーダー的存在という事で、いつものように、個人的好みを加えながら選択肢となる歴史上の人物を選ばせていただきました。

「この人なら!」と思う人物に清き1票を・・・もちろん、地元推しなど、その他のご意見や、投票理由のコメントなどもお待ちしております。

  1. 強気外交で世界の中の日本を目指します!
    「日出ずる処の天子」聖徳太子
    (参照ページ:7月3日>>)
  2. 嫌なら「つき合わない」という選択もアリ?
    「白紙に戻そう遣唐使」菅原道真
    (参照ページ:4月9日>>)
  3. 貿易で外貨を稼ぎ経済UP!
    「2012年の主役」平清盛
    (参照ページ:2月11日>>)
  4. 新体制で改革に挑みます!
    「イイハコ造ろう」源頼朝
    (参照ページ:7月12日>>)
  5. 国民の生活が一番!地盤あります
    「撫民政策でお馴染の」北条時頼
    (参照ページ:3月23日>>)
  6. 命を懸けて、この国を守ります!
    「外敵を一蹴するなら…」北条時宗
    (参照ページ:9月7日>>)
  7. 言うだけじゃない!実現する公約を…
    「貿易で外貨獲得の夢を実現」足利義満
    (参照ページ:5月13日>>)
  8. 革新的な政治を目指します!
    「言わずと知れた」織田信長
    (参照ページ:信長の年表>>)
  9. 内需拡大・インフラ整備・大陸にも行きまっせ!
    「ワテが太閤だす」豊臣秀吉
    (参照ページ:秀吉の年表>>)
  10. 長期に渡る平和な国を実現します!
    「江戸を世界一の都市にした」徳川家康
    (参照ページ:家康の年表>>)
  11. 謎多き評価ですが…とりあえず建て直し
    「享保の改革の暴れん坊」徳川吉宗
    (参照ページ:6月18日>>)
  12. いやいや…不況の時こそ金を回さねば!
    「尾張第7代の地盤を継ぐ」徳川宗春
    (参照ページ:10月8日>>)
  13. 経済の活性化はおまかせ!
    「老中経験者」田沼意次
    (参照ページ:10月2日>>)
  14. クリーンな政治を目指します!
    「マジメに寛政の改革」松平定信
    (参照ページ:6月19日>>)
  15. 日本を洗濯するぜよ!
    「知名度抜群!」坂本龍馬
    (参照ページ:11月22日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がいましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・なんとか上記の16項目に絞ってみました。

・‥…━━━☆

勝手ながら2013年の1月15日締め切りとさせていただきました。

投票結果はコチラからどうぞ>>

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2012年12月29日 (土)

2人の天下人に運命を翻弄された八条宮智仁親王

 

天正十七年(1589年)12月29日、第106代正親町天皇の孫の智仁親王が、豊臣秀吉の猶子を解かれました。

・・・・・・・・・・・

智仁(としひと)親王は、正親町(おおぎまち)天皇の第5皇子である誠仁(さねひと)親王の第6皇子です。

正親町天皇は、あの織田信長に、東大寺・正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を削り取らせてあげたり(3月28日参照>>)、盛大な御馬揃えを見物したり(2月28日参照>>)、何かと交流していた天皇様ですが、この正親町天皇が、信長亡き後に、明智光秀(6月13日参照>>)柴田勝家(4月21日参照>>)を倒し、さらに、小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)紀州征伐(3月17日参照>>)を経て、事実上トップに立った豊臣秀吉を、天正十三年(1586年)に関白に任命し、その翌年に、後継者に譲位する事を決意するのですが、

その時には、正親町天皇の皇子である誠仁親王が亡くなっていたので、その第1皇子(つまり孫)和仁(かずひと=後に周仁)親王に皇位を譲って、この和仁親王を第107代後陽成(ごようぜい)天皇として即位させたのです。

この後陽成天皇に対して、秀吉は、あの聚楽第(じゅらくだい)に天皇を招いて盛大におもてなししたり(4月14日参照>>)、逆に、秀吉が小田原征伐(11月24日参照>>)に向かう時には、天皇がわざわざお出ましになって、その出陣を見送ったり・・・という、なかなかに良好な関係だったわけですが、

Tosihitosinnou600 そんな関係を象徴するかのような出来事が、天正十六年(1588年)、その後陽成天皇の8歳年下の腹違いの弟智仁親王を、秀吉の猶子(ゆうし=契約上の養子)にする事でした。

もちろん、そこには、単なる仲良しだけではなく、秀吉の思惑もあったわけですが・・・そう、この時の秀吉には、まだ実子が生まれていなかったのですね。

ご存じのように、ほぼ天下を掌握した秀吉は、はじめは征夷大将軍の座を狙いますが、これまでの先例として「ここのところの征夷大将軍には源氏しか任命されていない」という事があったため、何とか、信長に京を追われた足利義昭(よしあき)(7月18日参照>>)養子となって源氏になろうとしますが、プライドの高い義昭に断られ・・・

そうなると、主君の信長が平氏を名乗っていた事から、自分も姓を名乗って左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に任じられた経験のある秀吉は、あの平清盛にならって太政大臣になるか、いっその事、藤原氏になって関白になるかなワケですが・・・

と、その時に、たまたま近衛前久(このえさきひさ)が関白を退いた後に関白となった二条昭実(にじょうあきざね)に物言いをつけたライバルの近衛信尹(のぶただ)が、お互いに譲らずにいて、次の関白が決まらないという出来事があり、秀吉と太いパイプを持つ右大臣菊亭晴季(きくていはるすえ)秀吉が関白になる事を強く推し勧め、結局、金に物を言わせて近衛前久の猶子となった秀吉が、藤原姓となって関白についた・・・というわけで、

つまり、秀吉の関白就任は特例中の特例なわけで、そんな秀吉に子供がいないとなると、その関白の座は1代限りになる可能性が高い・・・

そこで、関白に成り得る血筋の優秀な人物を身内として取り込んで、その人物に次の関白になってもらえば、自分は太閤(たいこう=関白職を退いた人)として、その後も権力を振れる・・・これが、秀吉が智仁親王を猶子にした最大の理由なわけです。

この時、智仁親王は11歳・・・その運命が大きく動いた年でした。

ところがドッコイ・・・運命とは何と皮肉な事か!

その翌年に、秀吉と淀殿(茶々)の間に男の子=鶴松が誕生するのです。

そうなると、「関白は実子に継がせたい」と思うのが人の常・・・

もはや、猶子の智仁親王は邪魔者でしかなく、むしろ、将来、我が子と関白を争う敵となる存在です。

かくして天正十七年(1589年)12月29日秀吉は智仁親王との猶子関係を解消・・・智仁親王にとっては「なんじゃ!ソラ」とツッコミまくりのドタバタ劇・・・

その翌年には新たな宮家=八条宮(はちじょうのみや)家を創設して、智仁親王を当主としたのです。

秀吉の気分で突然運命が変わり、またまた突然変わった智仁親王・・・12歳ともなれば、もう、だいたいの事は理解できているでしょうから、その心はいかばかりであったでしょうか・・・

いや、聡明な智仁親王は、むしろ、その状況を見事に理解し、慌てず騒がず、和歌などの古典文芸に打ち込む事で、動けば立つ波風を抑える事に徹するのです。

そうです・・・ご存じのように、この鶴松という秀吉の息子は、わずか3歳で亡くなり、失望した秀吉は、姉=ともの息子である秀次を養子に迎えて、天正十九年(1591年)、この秀次に関白職を譲りますが、その2年後に、淀殿が秀頼を生んだ事から、結局、文禄四年(1594年)に、秀次は高野山へ追放され、切腹を命じられました(7月15日参照>>)

智仁親王が猶子と解かれてから、わずか5年間に起きた一連の出来事・・・この時17歳になっていた親王は、この出来事をどのように受け止めていたのでしょうか?

それこそ、最も多感な時期に、大きなショックを受けたであろう事は想像できますが、それをはねのけるかのように、さらに歌の道に打ち込んだ親王は、関ヶ原の合戦があった慶長五年(1600年)には、細川幽斎(ゆうさい・藤孝から『古今伝授(こきんでんじゅ)(古今伝授については7月21日の後半部分を参照>>)を授かっています。

しかし、この同じ年、またしても、智仁親王を翻弄させる出来事が・・・

それは、かの後陽成天皇が、息子の政仁(ことひと)親王との折り合いが悪く、弟である智仁親王に皇位を譲りたい!として、徳川家康に、その事を打診したのです。

ところが、家康は、例え一時であったとしても智仁親王が秀吉の猶子であった事実を嫌い、猛反対・・・

結局、家康が首を縦に振る事はなく、慶長十六年(1611年)、家康が強く推す政仁親王が後水尾(ごみずのお)天皇として即位します。

そう、この後水尾天皇が、家康の息子=秀忠の娘=和子を中宮に迎える天皇です(4月12日参照>>)

2度に渡り、天下人に翻弄された智仁親王・・・しかし、文化芸術に優れ、造園の才能もあった智仁親王は、この頃から、自らの領地であった京都の下桂村(京都市西京区)に別荘を築き始めます。

これが、現在の桂離宮・・・残念ながら智仁親王自身は、その造営中の嘉永六年(1629年)4月7日に51歳で亡くなりますが、その志しは、息子の智忠(としただ)親王に引き継がれ、ご存じのように、この桂離宮の庭園は、日本庭園として屈指の名園に仕上がりました

また、智仁親王が授かった『古今伝授』は、後水尾天皇に受け継がれ、以来、『古今伝授』は宮中で受け継がれる事となります。

自らの預かり知らぬところで、その運命を翻弄されながらも、卑屈になったりヤケになったりする事なく、自らの進む道をしっかり見据え、歌の道と名園という芸術的遺産を未来に残した智仁親王・・・

天皇にも関白にもなれなかった皇族ですが、その存在は大変大きい人物だと思います。
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2012年12月27日 (木)

日本史の新発見&発掘…2012年総まとめ

 

いよいよ、今年も、残すところ、あと5日・・・

振り返れば、今年も様々な新発見があった1年でしたね。

大きく報道されたのは、6月に福岡県太宰府松本遺跡で発掘された『戸籍を記す最古の木簡』・・・7世紀末の飛鳥時代の物で、人名や身分や性別などが分かる16名分の戸籍が記されており、大宝律令以前の地方行政単位である「評(郡に相当)」の文字も見えるそうです。

これまで最古とされていたのが、奈良・東大寺の正倉院に伝わる『筑前国嶋郡川辺里(かわべり)戸籍』(702年)など・・・大宝律令の完成が大宝元年(701年)ですので(8月3日参照>>)、まさに、今回、それ以前の戸籍が初めて発見された事になります。

近くには大宰府政庁跡がある事から、その発掘場所近くにも役所があった可能性が高いとの事・・・おそらく、まだまだ、何か発見されるんじゃないでしょうか?

個人的に気になったのは、あの奈良の藤ノ木古墳の埋葬者の一人が女装していた可能性が高い事がわかった事・・・皇族クラスの古墳でありながら、未盗掘という貴重な状態で昭和六十年(1985年)に発掘された藤ノ木古墳の二人の埋葬者が、皇位継承がらみの蘇我(そが)VS物部(もののべ)の争いに敗れて殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ=北側被葬者)(6月7日参照>>)宅部皇子(やかべのみこ=南側被葬者)ではないか?と推理されていると、以前、お話させていただきましたが(9月15日参照>>)、そのお名前でわかる通り、どちらも皇子=男性なのですが、南側の被葬者がネックレスやブレスレット、足にもアンクレットとおぼしきガラス玉を巻いており、古墳時代の埴輪を見る限り、このような装飾品は女性に用いられる物・・・つまり、「女装して埋葬されていた」という事になります。

Dscn2539a900 藤ノ木古墳

そこで、考えられる推理は二つ・・・

古代の中国で「宮刑(きゅうけい)という、死刑に次ぐ思い刑が存在し、それが男性のアレを切り落とす刑だった事から、それを真似て、実際に切るのではなく、女性の恰好をさせて埋葬する事で、一種の見せしめの刑に処したのではないか?との事・・・

そして、もう一つは、生前の二人が男女のように仲が良かった・・・つまり、南側の方がオネェ系だったかも・・・実際に、「穴穂部皇子と宅部皇子は非常に仲が良かった」という記録も残っているのだとか・・・

もちろん、未だ埋葬者が誰なのかも特定されていませんから、女装に関しては、あくまで推理の段階なのでしょうが、個人的には後者であってほしい気がします。

いつの時代も恋愛は自由・・・「罰でさせられた」というよりは、生前のご本人に良かれと思ったおくり人のやさしき処置と思いたいです。

また、残念なニュースも・・・

2月には、大阪城の天守閣の西方にある武家屋敷跡の発掘調査で、係の方の連絡ミスにより、大坂夏の陣の焼土層を40cm~90cmくらい深く掘り過ぎてしまい、一部調査不能になってしまったのだとか・・・まぁ、誰も「わざと壊そう」とは思っていないわけで、おそらくは関係者の方も意気消沈なさってると思われ、残念ではありますが・・・

一方、これこそ残念なのは、まさに一昨日のニュース・・・『岡山市北区にある金山寺の本堂が全焼』・・・

あの宇喜多直家(うきたなおいえ)(10月30日参照>>)が再建に尽力したという天正時代の建物・・・未だ出火原因も特定されていないので何とも言えませんし、住職さんがご無事で何よりなのですが、重要文化財がなくなってしまうのは、やはり悲しいですね。

そんなこんなで・・・僭越ではありますが、今年、気になった歴史の発見&発掘を一挙まとめてみようと思います。

1月 京都府八幡市「古代寺院・美濃山廃寺(みのやまはいじ)跡」から、約30棟分の建物跡が出土…謎の寺院の伽藍配置が解明されるかも。
三重県明和町「斎宮跡」からひらがなで「いろは歌」の書かれた11世紀末~12世紀前半の土器の破片発見…いろは歌が書かれた物としては最古。
京都の清水寺「清水の舞台」は3度焼失…舞台下の地層約3mのところから3層の焼土が見つかりました。
京都市下京区興正寺で江戸末期の京都の地震や幕末&維新の動乱の時代の京都の様子を記録した僧の日記を発見…謎の部分を解明できる貴重な史料。
2月 奈良県橿原市「新堂遺跡」で、井戸の中から鬼の顔を墨で描いた平安時代後期の土器発見…井戸を埋める際に鬼を地中に封じ込める何かの呪い使われた可能性アリ。
邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大型建物跡の南側に溝発見…建物跡と並行している事から柵の跡と考えられています。
3月 奈良県橿原市藤原宮跡で、重さ1tもある礎石が2個見つかりました…「建部門(たけるべもん)と呼ばれた門の可能性が高く、その礎石の大きさから立派な門であった事がうかがえるそうです。
4月 大阪府狭山市のため池から出土した窯跡ではないか?とされる遺跡から、瓦や煉瓦のカケラ約200点と須恵器のカケラ約1000点出土…5世紀~13世紀の数百年間に千基の窯があったとされる大規模な生産拠点だった事が証明されました。
5月 大阪府高槻市萩之荘南遺跡で、大規模な溝に囲まれた竪穴式住居跡や墓を発見…弥生時代末期の環濠集落跡とみられます。
6月 日本書紀などに名前だけ登場していた幻の人工池=「磐余池(いわれいけ)の推定値から池底跡を発見…出土した土器などから、鎌倉時代に埋められた事も判明しました。
7月 奈良県橿原市藤原宮跡で、約42㎡の建物跡発見…これまでに出土していた掘っ立て柱仕様ではなく、初めての礎石の建物跡という事で、格調高い皇族の使用した建物とみられます。
8月 奈良県上牧町久渡(くど)3号墳から中国製の銅鏡=「画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)」1枚を発見…残念ながら調査時の重機による掘削で真っ二つに割れてしまっていましたが、初期ヤマト王権の史料となりそう。
京都市中京区の平安京跡にある京都地方気象台の構内から、物資輸送のために平安時代初期に作られた運河の跡発見…平安京を南北に貫く運河で東西で2本あったうちの西側に当たるらしい。。
また、氾濫の跡も見られ、その土砂で造った秀吉時代の御土居(12月13日参照>>)の一部も確認されたとか…
9月 京都市中京区平安京跡から、「延喜式」(12月26日参照>>)などにその名が登場するも、平安時代に焼失してしまっていた『白虎楼(びゃっころう)』のものとみられる瓦100枚以上が出土…その文様から丹波国の職人が造営に関わっていた事がわかったとの事…
杏林大の松田和晃教授大潮平八郎の手紙を発見…20年前に購入した古文書を整理していて、今年発見されたそうで、乱を起こす2年前に門徒に宛てた手紙=原本だそうです。
11月 京都府木津市恭仁(くに)京跡から朝堂の建物跡発見…わずか4年間しか存続しなかった恭仁京の全容解明に近づきました。
京都市中京区の平安時代の貴族の邸宅跡から、平仮名が墨書きされた土器の破片が見つかりました…これまで10世紀に成立したとされていた平仮名が9世紀後半にすでに成立し使用されていた事を示す貴重な発見だそうです。
大阪府堺市北区ニンザイ古墳から埴輪が出土…埴輪の分析からあの仁徳天皇陵の次に築造された事が判明し、被葬者には履中(りちゅう)天皇(2月1日参照>>)の名があがっているとの事、さらなる研究に期待します。
12月 奈良県橿原市植山古墳石室を封鎖した跡が見つかりました…この古墳は、日本初の女帝=推古天皇(12月8日参照>>)とその皇子の竹田皇子(たけだのみこ)がいち時埋葬された場所ではないか?と言われる古墳ですが、それを、この後使用できないように封鎖してあったという事は、『古事記』にある推古天皇の改葬を裏付ける史料という事になります。

以上、今年気になった新発見のニュースをピックアップさせていたがきましたが、専門家で無い私の知るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、関西在住という事もあり、さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは独断の重大ニュースという事で、ご理解くださいませm(_ _)m
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2012年12月25日 (火)

大河ドラマ「平清盛」…最終回を見て(感想)

 

終わりましたね~
大河ドラマ「平清盛」・・・

以前もチョコッとお話しましたが、毎年、大河ドラマの放送直後には、少なからずの影響を受けるこのブログ・・・今年は、それはもう、大変お世話になりました。

おそらくは、人気の時代の戦国や幕末と違って、源平争乱の時代を扱っているサイト自体が少なく、そのぶん検索に引っ掛かりやすいのだと推測しますが、運営してるコチラとしてはウレシイ限りで、一日のアクセス数が10000を越える日も少なく無く、それを機会に、頻繁に見に来てくださるような方もおられ、大河さまさまであります。

PC版では、右サイドバーに「Web拍手」という、このブログ内の人気のページをランキングするブログパーツを表示しておりますが、現在1位の「信西さんのページ」>>をはじめ、「崇徳天皇の怨霊のページ」>>「源義朝と常盤御前のページ」>>など、現在12位の「藤原頼長のページ」>>に至っては、大河が始まるまでは、かなりマイナーなページだったのですが、大河をキッカケに沢山の方々に見ていただいて、とても光栄に思います。

こんなに恩恵を受けていたら、悪口は書けないな~っと思うばかりですが、そんなしがらみを棚の上に置いてみても、今回の「平清盛」は良い大河だったと、個人的には思います。

昔ながらの大河ファンの皆様にとっては「アレで?」というツッコミもあろうかと思いますが、ここ3~4年のがトンデモなかったので、私としては「久々に大河らしい大河を見せてもらった」という印象です。

全体のストーリーとしては、ほぼ『平家物語』に沿っており、飛びぬけて逸脱する事は無かったわけですが、『平家物語』自体が軍記物なので、その内容には創作も含まれているぶん、ドラマのストーリーも、おそらく史実では無い部分もあるのですが、見ていておもしろかったので、私としては○です。

ただ、作り手の方の難しさとしては、ベースが『平家物語』でありながら、題名が「平清盛」で清盛が主役であった事・・・

『平家物語』が、有名な「祇園精舎の鐘の声…」「序文」から「殿上の闇討ち」(11月23日参照>>)平忠盛の出世に始まり、最後に、「大原御幸」後白河法皇が出家した建礼門院徳子に会いに行って思い出を語り、「女院死去」(12月13日参照>>)徳子の死を以って終わるのは、それが、まさに平家の盛者必衰の理を現わしていて、それこそが完結となるのですが、基本、主人公の誕生から死までを描く大河ですから、清盛の死を以って終わらねばならないわけで・・・

そこのところをどうなさるのか?素人ながら気になっておりましたが、鉄則通り、主人公の死を最終回に持って来られましたね。

その点、その後の源平の戦いや壇ノ浦(2008年3月24日参照>>)での安徳天皇の入水(2007年3月24日参照>>)をはじめ、個々の人物の最期が、源頼朝の語り中心になってしまうのは致し方無いところです・・・むしろ、それしか方法がありませせん。

ただ、個人的にチョイとばかり残念だったのは、木曽義仲の登場がまったく無かったという事でしょうか?

確かに、この清盛の死は、その前年の治承四年(1180年)の10月に富士川の戦い(10月20日参照>>)があって、11月に福原から都を戻して(11月16日参照>>)、12月に南都焼き打ち(12月28日参照>>)して、年が新たまった2月ですから、その直後の墨俣の戦いでは平家が勝利(3月16日参照>>)、義仲は、その3ヶ月後の6月の横田河原の合戦(6月14日参照>>)にて、やっとこさ驚異的存在となるわけで、平家を都落ちさせるには、さらに1年かかるわけですから、描かずとも話を進める事はできます。

しかし、それなら源義経も同じ・・・義経に至っては、もっと後の、その義仲の追討【(1月16日参照>>)で以って、やっと主役クラスになるので、なぜに、ドラマの中で、あれだけスポットを当てたのかが疑問なのです。

そのために、弁慶の立ち往生(6月30日参照>>)まで描かなくちゃいけなくなった気がしないでもない(><)

おそらく、お母さんの常盤御前にスポット当てちゃったために・・・ってな感じでしょうが、一方では義仲のお父さん(8月16日参照>>)も、確か出てたと思うんですが、コチラは、その記憶が曖昧なくらいアッサリしてたような???

いや、良いんです・・・義経にスポット当てても・・・なんせ、頼朝さんの弟だし・・・

ただ、義経にスポット当てるなら義仲も・・・結局、義仲をまったく無視した事で、最終回のナレーションだけでは、誰が平家を都落ちさせたのか?がウヤムヤになってしまっているような所が、歴史好きとしては非常に残念です。

歴史好きでない方が、予備情報なく、あの最終回を見た場合、なんとなく頼朝&義経コンビが平家を都落ちさせ、そのまま壇ノ浦まで持って行ったみたいな造りになっていたみたいな気がしてなりません。
(放送時間の関係もあるのでしょうが…)

清盛臨終の場面に関しては、ほぼ『平家物語』の通りでしたね(2月4日参照>>)

皆々へのひと言が、何やら、学園ドラマの最終回の卒業式を思わせる長さではありましたが、1年の長きに渡ってのドラマですから、主人公の最後の場面としてはアリだったかも知れません。

頼朝と西行の対面の場面(10月15日参照>>)も描かれていましたし、そこに登場した北条政子「銀の猫を子供が…」と、さりげなく言うところなんぞ、そのエピソードを知ってる者から見て小気味良かったです。

また、「清盛なくして武士の時代は無かった」として、清盛の夢を頼朝が継ぐという発想は斬新でしたね。

その両者の繋がり方を支持するかどうかは別として、「新しい試み」としては評価できると思います。

なんせ、清盛&頼朝という超有名人なわけですから、いつも同じに描いていたら、新しいドラマとは言えませんから・・・

そして、役者さんのガンバリが見えた大河でもありました。

それこそ「アレで?」とおっしゃる方もおられましょうが、平均年齢が若いワリには、皆さんガンバっておられたとい思いますよ。

特に主役の松ケンさんは、そもそも20代の役者さんが、40代・50代で出世する人物を演じる事自体が難しい中、晩年の表情・・・

そして、それと対比するかのように、最終回の最後の場面で登場した、海の底にある都へと海中を泳ぐ若き日の表情・・・

まるで別人のごときすがしがしい少年のような表情での登場は、まさに有終の美と言っても良いかも知れません。

おそらくは、松ケンさんも、スタッフの皆さまも、視聴率の低迷と、それにともなう酷評に悩まされた1年だったかも知れませんが、冒頭に書かせていただいた通り、私にとっては、久々に大河らしい大河でした。

気になるのは、「視聴率の低迷を受けてテコ入れを行った」てな事を巷で聞くのですが、だとしたら、「NHK様も視聴率をお気になさる」という事で、今後の大河が幕末・戦国のくりかえしとなり、さらに、ウケ狙いの、ここ何年かのトンデモ大河に戻ってしまわないか・・・って事・・・

どうか、その点はテコ入れする事なく、今後も、人気の無い様々な時代の歴史人物にスポットを当てていただきますよう、一視聴者として希望しますですm(_ _)m

以上、つたない感想ではありましたが、1年、楽しませていただきました事、たくさんのお客様に、このブログを見ていただいた事を感謝しつつ、このページを終わらせていただきます。

*追記:平清盛と平家物語に関してのその他のページは【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>
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2012年12月23日 (日)

「私はコレで飛ばされました」~浜松藩主・井上正甫の失態

 

文化十三年(1816年)12月23日、遠江浜松藩・第3代藩主の井上正甫が奏者番を罷免されました。

・・・・・・・・・・

井上正甫(いのうえまさもと)の井上家は、徳川譜代の家臣・・・藩主を任されていた場所が遠江(とおとおみ=静岡県西部)浜松という、徳川家にとって大事な場所であった事を見ても、政権内で有力な家柄だった事がわかります。

天明六年(1786年)、おそらく12歳ぐらいだったこの年に、父の死を受けて浜松藩の第3代藩主となった正甫は、その後、第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)のもとで奏者番(そうじゃばん・そうしゃばん=江戸城内の儀式を管理する仕事)をこなしておりました。

そんなこんなの文化十三年(1816年)・・・

同じく奏者番をやっていた同僚の、信濃(長野県)高遠藩・第6代藩主の内藤頼以(ないとうよりもち)に招かれて、小鳥狩りに興じておりました。

この小鳥狩りというのは、よく聞く鷹狩りと似た感じですが、野原を馬に乗って鷹を使って狩りをするような大掛かりな物ではなく、下屋敷の敷地内を散歩しがてら、樹木に集う小鳥たちを、いわゆる鳥糯(とりもち)のついた串棒で捕まえるといった遊び感覚重視の物です。

規模は小さいですが、鷹狩りと同様に、日頃のストレス発散には持ってこいで、手軽なぶん、江戸に詰める大名たちには好評のイベントだったのです。

もちろん、この日招かれた正甫も、ここぞとばかりに夢中になって、あちこち小鳥を追いかけ、家臣たちとともに、ひとときのストレス発散をしていたわけですが・・・

ただ、内藤家の下屋敷と言っても、その広さはハンパ無いもんで・・・

私、関西在住なもので、その大きさがよくわからないのですが、現在の新宿御苑全体が、その内藤さんの下屋敷・・・いや、当時は、もっと広かったそうで、そこには、いわゆる庭園の定番とされる華麗な建て物や、いかにも造園しました的な庭はなく、田園風景がそのまま残る物で、気軽に地域住民とともに、その自然を楽しむ憩いの場となっていたそうなのです。

なので、その敷地内には、森林もあり、田んぼや畑もあったそうなのですが・・・

そう・・・あまりに小鳥狩りに夢中になった正甫さん・・・いつしか森林の中に迷い込んでしまいます。

しかも、気づいた時には、連れていた家臣たちともはぐれ、ただ一人・・・

とは言え、基本、下屋敷の敷地内ですから、慌てず騒がず、とりあえず足を進めますが、そうこうしているうちに、喉の渇きを覚え・・・しかし、水筒を持った家臣は、どこかへ行っちゃって見当たらない・・・

しかたなく串棒を片手に持ってブラブラ歩いていると、ふと、1軒の農家が目に止まります。

とりあえず、水を一杯もらおうと、その農家に立ち寄る正甫・・・

夫はどこかに出かけていると見え、若い女房が、一人で対応しますが、それこそ、正甫の身なりを見れば、ただのお侍でないのは一目瞭然・・・

「おそらく、とても身分な高い人なのだろう」
と、やや震えながらおそるおそる湯呑みを差し出す震える手・・・

かしこまって身を縮めながらも、着物の裾から見える健康的な足・・・

おしろいを塗りたくったお屋敷の侍女には無い、そのハツラツとした美しさに、男・正甫・・・グァワ~~ンというキョーレツな音とともに、その理性が吹っ飛びます。

2杯めの水を所望し、女房が、それを手渡すと同時に、その手を引きよせ、強引に、その欲望を貫いたのです。

・・・と、そこへ、ナイスなタイミングで帰宅したダンナさん・・・

「ウチの嫁に、何してくれとんじゃ!」
とばかりに、そばにあった天秤棒で、奥さんに馬乗りになっている正甫に殴りかかります。

慌てて刀を抜いて応戦する正甫・・・一説には、この時、亭主の片腕を斬り落としてしまったのだとか・・・

事態を知って駆けつけた家臣は大慌て・・・事が公になってはマズイとばかりに、ひた隠しに隠して、事の解決に奔走します。

かの夫婦を浜松城下に住まわせ、できる限りの優遇をして口封じに努めますが、壁に耳あり障子に目あり・・・人の口に戸は建てられないものです。

いつしかそれが下々の噂となり、やがて江戸市中に知れ渡り、登城の際には、他の大名の中間(ちゅうげん=武士の雑務を行う従者)たちから「イヨッ!密夫大名!」と声をかけられる始末・・・
*密夫(みっぷ)=情夫・隠れて人妻と不倫する男

もちろん、やがては将軍の耳にも達し・・・

そうなると、さすがに、幕府のおエラ方も、放ったらかしにしておくわけにはいかず・・・

文化十三年(1816年)12月23日、幕府の命によって正甫は奏者番を罷免される事になります。

さらに翌年には、棚倉藩(福島県東白河郡棚倉町)処罰的な移封・・・いわゆる、「飛ばされました」です。

Hamamatuzyou800 浜松城…まだ、行った事ないので「無料・許可不要のフリー素材」さん>>からお借りしました~

いつの世も、殿方の理性は崩れやすいものですが、それを崩さないようにするのが男というもの・・・40歳前後の男盛りで、男盛りな失態を犯してしまい、女性を傷つけ、名門・井上家の名にも傷をつけてしまいましたね。

ただし、正甫の後を継いだ息子の正春(まさはる)が頑張ってくれたおかげ、また、井上家の後に浜松に入って老中にまで上り詰めた水野忠邦(みずのただくに)天保の改革に失敗(3月1日参照>>)してくれたおかげで、その正春さんが浜松藩主に返り咲き・・・井上家自体は、無事存続する事になります。
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2012年12月21日 (金)

後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生

 

延元元年・建武三年(1336年)12月21日、光明天皇三種の神器を渡し花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が脱出して吉野へと向かいました。

・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、去る元弘三年(1333年)に建武の新政(6月6日参照>>)を開始した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、新政に反発する足利尊氏(あしかがたかうじ)光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り(4月26日参照>>)、後醍醐天皇方の楠木正成(くすのきまさしげ)湊川(みなとがわ)の戦いで自刃(5月25日参照>>)・・・

京都で尊氏軍を迎え撃った新田義貞(にったよしさだ)も敗退(6月30日参照>>)したため、一旦、比叡山へと逃れながらも、尊氏がら和睦の打診を受けてい(8月15日参照>>)後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と、その異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を義貞に託して北国へ落ち延びさせた(10月13日参照>>)後、自らは尊氏のもとへと向かい、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇三種の神器をを手渡しました(11月2日参照>>)

Godaigotennoucc こうして、一旦は和睦となった両者・・・後醍醐天皇は花山院に幽閉されます。
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幽閉の身となった後醍醐天皇のもとへは、誰一人訪れる者もなく、「もはや出家しようか?」と思い悩んでいたところへ、天皇のもとで刑部大輔(ぎょうぶのだいふ)となったいた大江景繁(おおえかげしげ)なる人物が登場・・・

ここのところの官軍(後醍醐天皇軍)の近況を報告するとともに、
「近いうち、夜の闇にまぎれてここを脱出し、大和(奈良県)方面へと向かいましょう」
と提案します。

「よし、わかった!明日の夜、馬を用意して東の小門のあたりで待っててくれ」
と後醍醐天皇・・・(この時の「近いうち」は早いのねん(゚ー゚;)

かくして、約束の延元元年建武三年(1336年)12月21日夜・・・景繁が待っているところへ、後醍醐天皇が女房姿に変装して登場・・・早速、馬に乗ってもらい、天皇が持っていた三種の神器は景繁自らが抱えて出立・・・ただ、ひたすら南を目指します。

その夜のうちに大和国に入る事ができましたが、さすがに白昼、この姿のまま奈良を通過するのはヤバイと、後醍醐天皇に粗末な輿(こし)に乗り換えてもらうのですが、やはり、昼間は目立つし、夜は真っ暗で行く道が見えず、がはやるものの、なかなか前に進めませんでした。

しかし、その夜、春日山の上空から金峯山(きんぶせん)へ向けて一筋の光が飛び渡り、松明のごとき光を放って道を照らし、何とか、大和の賀名生(あのう=吉野郡)という場所まで到着します。

しかし、ここには、後醍醐天皇が長期滞在できるような場所もなく・・・

そこで、景繁は、金峯山の僧侶たちを味方に引き入れるべく、先に吉野へと向かい、長老の吉水法印と面会し、昨日の謎の光の話をします。

法印曰く
「それは、まさしく蔵王権現のお導きであろう」
と、後醍醐天皇に味方する事を表明・・・ほどなく到着した後醍醐天皇を、甲冑に身を包んだ約300名の僧兵が出迎えたのです。

そう・・・こうして、この吉野にもう一つの朝廷=南朝が誕生する事となるのです。

ご存じのように吉野というのは、その金峯山を主峰とする南大和の山岳地帯の総称で、山と山に囲まれた天然の要害であったわけですが、もちろん、後醍醐天皇が、この地を、次の拠点として選んだのには理由があります。

まぁ、先ほどの「謎の光うんぬん」という『太平記』のくだりは、天皇の威光を示すお話として、実際問題としては、やはり、その地の利があったという事でしょう。

なんせ、ここは、伊勢の北畠氏にも近いし、河内の楠木氏にも近い・・・ここに来てもなお、後醍醐天皇に味方してくれるこの両者は、やはり、後醍醐天皇が最も頼りにしたい兵力であった事でしょう。

さらに、後醍醐天皇には、高野山や東大寺、さらに熊野三山など、神社や寺院の勢力が味方をしていましたから、ここ吉野なら、彼らに対して軍用金の手配や人員の手配も容易に行えます。

また、吉野が古来より修験者の修行の場であった事も・・・

もちろん、修験者そのものを味方にしたいという事もあったでしょうが、あの修験者の姿は、なかなかの隠れ蓑になります。

現に、後醍醐天皇配下の日野俊基(ひのとしもと)が、山伏の姿となって各地へ立ちまわっていたという話もあり、密使として情報収集&情報伝達するには、うってつけの恰好だったわけです。

古くは源義経(みなもとのよしつね)主従(4月30日の後半部分参照>>)、戦国では真田幸村(信繁)御一行様(10月9日の後半部分参照>>)・・・かなりウロチョロできます。

こうして、後醍醐天皇は吉野の吉水院(きつすいいん=吉水神社)に入り、その後、蔵王堂近くの実城寺を行在所(あんざいしょ=行宮・仮の宮)とし、ここから、諸国へと向かった皇子や、配下の武将に様々な指令や檄を飛ばす事になります。

やがて、この場所には楠木正行(くすのきまさつら=正成の息子)らを始めとする、諸国の武将が続々と集まって来るのですが・・・その正行の活躍は四条畷(しじょうなわて)の戦い(1月5日参照>>)で見ていただくとして・・・

その前に・・・
そう、もう一人・・・この時、遠き奥州にいた強い味方北畠顕家(きたばたけあきいえ=親房の息子)が、天皇の吉野行きや義貞の北国行きを聞きつけてはるばると馳せ参じ・・・って事になるのですが、そのお話は1月8日のページでどうぞ>>
 

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2012年12月19日 (水)

伊勢平氏=平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」

 

嘉承二年(1107年)12月19日、出雲にて反乱を起した源義親の追討を命じられた平正盛が、京都を出立しました。

・・・・・・・・・・・・・・

あの源頼朝(みなもとのよりとも)が、
「我は、かの八幡太郎義家が子孫」
と称して、配下の武士の統率を図った事でもお解りのように、源義家(みなもとのよしいえ)の存在は偉大で、源氏の武勇の誇りでもありました。

ただし、あの後三年の役が、朝廷から「私的な合戦に関与した」とみなされた事で、恩賞にはありつけず(10月23日参照>>)・・・この時、義家は、やむなく、自らの私財を投じて、手柄のあった東国武士に恩賞を与えたと言います。

まぁ、それが、東国武士と源氏の信頼関係に繋がったのかも知れませんが・・・

とは言え、義家が、武士として初めて院昇殿を許される栄誉を得たという事もあり、当時は、義家に対抗しうるほどの武士がいなかった事も確か・・・

しいて、義家の河内源氏のライバル的存在と言えば、あの酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)の武勇が光る源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)から枝分かれした摂津源氏ですが、彼らの勢力は、あくまで畿内にあって東国へ向かう事はなく、河内源氏とも協調の姿勢をとっていました・・・(清和源氏の系図を参照>>)

当時、朝廷の実質的な指導者として政治の実権を握っていたのは院政をしく白河法皇(11月26日参照>>)でしたが、そんな法皇は、自らの意のままにならない比叡山の僧兵の武力とともに、やはり、源氏の武力にも恐れていたわけで・・・

そんな白河法皇が目をつけたのが、未だ源氏ほどの武力は持たない新興勢力の平正盛(たいらのまさもり=清盛の祖父)伊勢平氏(桓武平氏系図を参照>>)・・・彼らに目をかけ、自らの手足となる武士に育てる事によって、源氏や僧兵の武力に対抗しようと考えていたワケですが・・・

そんなこんなの康和三年(1101年)夏・・・太宰大弐(だざいのだいに=大宰府の次官)である大江匤房(おおえまさふさ)が、対馬守(つしまのかみ)だった源義親(みなもとのよしちか)一派が、人を殺害したり強盗を働いたりしているとの悪行の数々を、朝廷に訴えます。

「すぐに追討すべし!」
の声が朝廷で上がる中、それを抑えたのが義家・・・実は、この義親さん、義家の息子です。

父親として、なんとか公家たちを抑えて、配下の藤原資通(ふじわらのすけみち)を義親のもとに派遣し、「速やかに京都に戻るよう」説得させるのですが・・・なんと、義親は京に戻るどころか、逆に資通を味方に引き入れ、ともに現地の役人を殺害してしまうのです。

結局、その反乱の翌年に捕えられて、義親は隠岐へと流され(配所に行かなかった説もあり)、配下の者も、それぞれ周防(すおう=山口県)阿波(あわ=徳島県)に流罪となりました。

Minamotonotameyosi500 本来なら極刑は免れないところを、やはり、ここでも義家がわが子の減刑のために一肌脱いだと言われ、一説には、この時点で、義親を飛び越えて、そのの息子=つまり自身の孫にあたる源為義(みなもとのためよし・義朝の父で頼朝の祖父)を後継者に指名していたとも言われます。

こうして、しばらくは隠岐にておとなしくしていた義親・・・しかし、ここで、偉大な父=義家が亡くなります。

嘉承元年(1106年)・・・この時、為義は、まだ11歳でした。

おそらく、この父の死のニュースを聞いて、「俺が源氏を盛り上げねば!」を思ったであろう義親・・・翌年、隠岐を脱出して出雲(いずも=島根県東部)へと渡り、出雲国の目代(もくだい=国司の代理)とその従者を殺害して、多くの物品を奪いました。

これが、世に言う源義親の乱ですが・・・

記録の中に、殺害やら強盗やらの文字を見ると、確かに悪行なわけですが、先ほども書かせていただいたように、説得に向かった資通が味方になってしまう事や、その勢力が数カ国に渡っていたとも言われる様を踏まえると、義親の行為は、ただの悪行ではなく、そこに何かしらの政治的背景があるような気がしないでも無い・・・ただ、そこのところは、記録に残っていないので、何とも言えません(;ω;)

とにもかくにも、これにて朝廷は、義親の追討を決定・・・その追討使に選ばれたのが平正盛でした。

かくして嘉承二年(1107年)12月19日義親の留守宅に3本の鏑矢(かぶらや合戦の合図となる矢)を射込んだ後、京の町を出立した正盛は、年が明けた正月6日に出雲へと入りました。

戦いの詳細について伝わっていないのが残念ですが、どうやら、正盛は、わずか数日のうちに、この合戦で勝敗を決したとされ、1月19日には、
「出雲国で、義親と、その配下4名の首を討ち取った」
との報告が朝廷に届きました

この知らせを聞いた白河法皇は大いに喜び、ただちに正盛を但馬守(たじまのかみ)に任命し、その息子たちも、それぞれに昇進したとか・・・

やがて1月29日・・・討ち取った義親の首を掲げて、正盛は凱旋帰国・・・

4人の首を矛先に掲げた下人5人を先頭に、甲冑をつけた4~50人の歩兵が続き、次に捕虜を従えた馬上の正盛・・・さらに、弓矢を持った兵&郎党が200人も連なる大行列が都大路を練り歩き、京中の男女が見物人となって、「人々が狂うがごとし(中右記)」に熱狂して出迎えたと言います。

まさに、伊勢平氏=平正盛が、一躍名を挙げ、この後の清盛の威勢にもつながる出来事となったわけですが、一方では、その行列を見る人々から、
「あれは、ほんまに義親の首やろか?」
という疑問が投げかけられます。

「未だ、ポッと出の正盛に、義家以上の武勇の持ち主と言われる義親が、そう簡単に討ち取られるはずは無い!」
という思いが、京都市民にはあったようですが、それこそが、義親の反乱が、ただの悪行では無かった事を意味しているような気がします。

それを裏付けるかのように、
「義親は生きている」の噂が流れ、
あちこちに
「我こそ義親なり!」
と義親を名乗る者が現われたとの事・・・

まぁ、その多くはニセ者であり、大事になる事なく鎮圧されてしまうのですが・・・

なんせ、この事件から20年経った大治四年(1129年)8月に、関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)が時の崇徳(すとく)天皇に、
「坂東から来た源義親なる者が一条のあたりに隠れているらしい」
てな事を報告していますので、いかに義親生存の噂が根強かったかが伺えます。

この義親の生存説や、以前の義家時代に築かれた東国武士と源氏との関係から、伊勢平氏は東国へと勢力を伸ばす事はできなかったのですが、そのぶん、天皇家の手足となって活躍する事で、勢力をのばしていくのです。

今回、反乱を起こした義親の孫が源義朝(みなもとのよしとも)・・・
朝廷の命令で、その謀反人を追討した平正盛の孫が平清盛(たいらのきよもり)・・・

大河ドラマ「平清盛」では、ともに源氏&平家の御曹司としてライバル関係にあった二人ですが、清盛の誕生がこの事件の10年ほど後で、義朝はさらに5歳年下ではあるものの、その誕生の時点で、朝廷側から見て、少々、印象の違う立場にあった御曹司だった事が伺えますね。

もちろん、ドラマとしては、ライバルの方がオモシロイのですが・・・
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2012年12月17日 (月)

真田丸はどこにあった?

 

慶長十九年(1614年)12月17日、豊臣秀頼の許可を得た大野治長の命により、塙団右衛門(ばんだんえもん)らが蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)の陣に夜襲をかけました。

また、その一方で、徳川家康の本陣に勅使(ちょくし=天皇の使者)が下向し、講和をするよう勧めた事も、『豊内記』『駿府記』など複数の文献に見られます。

そう、その講和(12月19日参照>>)の話し合いが開始されるのが、明日=12月18日という事で、まさに大坂冬の陣のクライマックスな日なわけですが、実は、先日、大阪城周辺をウロウロして写真を撮って来ましたので、今日は、その写真をご覧いただきながら、この大坂冬の陣で、胸のすくような一戦があった真田丸の場所について、お話させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

その胸のすくような一戦というのは、慶長十九年(1614年)12月4日にあった真田丸の攻防なのですが(戦いについては12月4日参照>>)、そこでも書かせていただいた通り、この真田丸というのは、
「もし、大坂城が攻められるとしたら南側から…」
と考えた大坂方の真田幸村(信繁)によって、大坂城の南東部分に突き出るような形で構築された出丸の事です。

まぁ、その構築の逸話についてもお話したいところですが、それは、またいずれかの日にさせていただくとして、本日は、その真田丸が、現在のどのあたりにあったのか?という話に限定させていただきます。

Kinzyoumonkenroku650a …で、右図→は『金城聞見録』にある慶長年間の古図ですが、もう、皆さまご承知の通り、南惣構堀の南東に突き出た部分が真田丸ですね。
(クリックして拡大できます)

現在の地図だとコレ↓

大きな地図で見る

地図の上部に見える大阪城公園から真下(南)へ下がった所にある真田山公園と道を挟んでその北側にある真田山小学校・・・「+キー」で地図を拡大していただくとお解りになると思いますが、その小学校の北側にあるのが三光神社で、ここに有名な「真田の抜け穴」というのがあって、真田幸村の像も建てられ、一般的には、ここが真田丸の跡として知られています。

Ca3e0065a600 (←いつの間にか大筒っぽいオブジェができてるゾ!!!(゚ロ゚屮)屮)
ただ、すでに歴史好きの皆さまはご存じだと思いますが、実は、ここは真田丸のあった場所では無いようです。

現在、公園や小学校があって真田山と呼ばれている場所が真田山と呼ばれるようになるのは少し後の頃から・・・それ以前は、このあたりは宰相山と呼ばれていたんです。

(Google地図を拡大していただくとわかりますが)三光神社の隣の公園も「宰相山西公園」という名前なんですね。

ただし、『摂津名所図絵』には
嬪山稲荷祠(ひめやまいなりのやしろ=三光神社の前身)=玉造の南にあり。
世に真田山といふ。
元和の頃真田の塁ここにありしとぞ。
社説には宰相山といふ。
加賀宰相候の陣屋この辺
(ほとり)にありしよりかくいふなり。
嬪山は旧名なり」

とあり、

すでに、少々混乱の雰囲気がありますが・・・
昔、嬪山と呼ばれていた場所に、大坂の陣の時、徳川方の加賀宰相=前田利常(10月12日参照>>)が陣取ったので、宰相山と呼ばれるようになったという記述は、複数の文献に見られます。

Oosakasangouezu800 そして、元禄時代に書かれた『大坂三郷町絵図』(←)には、道を挟んで、東に宰相山と、その西に真田山が描かれ、その真ん中に心眼寺というお寺が建っている様子が見えます(寺名が並ぶ1番上)

もちろん、「山」という限りは、その頃には、小さいながらも、ここに二つの山が存在し、この周辺が寺町として整備されていて、古図にも複数のお寺の名が見えるわけですが、

で、この心眼寺・・・元和八年(1622年)に真田幸村&大助父子の菩提を弔うため白牟和尚なる僧が建立したお寺なのですが、現在も、その同じ場所に建っています。

Ca3e0054a800 心眼寺

て事で、門にしっかりと六連銭が描かれたこのお寺の西側が真田山と呼ばれていた場所で、おそらく、そのあたりに真田丸があった・・・

Ca3e0057a800 道を挟んだ西側に目をやると・・・
そう、現在は私立・明星中学高等学校のグランド(→)というわけですね。
(逆光でスマンどす)

とは言え、冒頭の『金城聞見録』で見る限り、真田丸って、もっとデカイような気がしないでもない・・・

それこそ、冬の陣の講和によって惣堀の破却もあるわけで、その破却の実態にについても、未だ複数の説があり、規模の大きさうんぬんについては、更なる調査が必要でしょう。

ひょっとしたら、高校のグランドから宰相山西公園&三光神社&真田山小学校、さらに南の真田山公園も含むデカさだったって事もあるのかしら?

妄想は止まりませんねぇ~
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2012年12月16日 (日)

未曽有の大災害~天明の大飢饉

 

天明三年(1783年)12月16日、前年から続いていた悪天候と冷害に、火山の噴火によって拍車がかかった飢饉に対して、江戸幕府が向こう7年間の倹約令を発布しました。

寛永・享保・天保と並ぶ江戸四大飢饉の一つ・・・天明の大飢饉です。

・・・・・・・・・・

そもそも、【最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話】>>でお話させていただいたように、戦国から江戸にかけての時代は、小氷期と呼ばれる寒い時代だったワケで、あの大坂夏の陣の1ヶ月後の慶長二十年6月1日(西暦に換算すると1615年7月9日)に、江戸一帯に雪が降った(7月9日参照>>)なんて話もにわかに信じ難く、まさに小氷期のなせるワザって感じです。

んなモンで、冬は寒さ厳しく、夏も冷涼で多雨・・・農作物に多大な被害が出る事が多々あったワケですが、世に「田沼時代」と呼ばれる田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中を務めていた時代は、特に自然災害が相次いでいます。

意次が老中に就任した明和九年(1772年)には、7月に九州で暴風雨が起こり、8月には、上旬に関東・東海地方、下旬には中国・四国・近畿などが暴風雨と洪水に見舞われた記録が残っています。

以前書かせていただいたように、それに大火がプラスされて、「明和九年は迷惑年」として、元号を安永に変えたくらいですから・・・(2月29日参照>>)

なので、毎年のように悪天候に見舞われていたこの頃から、天明の大飢饉への兆候があったわけですが、その決定打となったのが、天明三年(1783年)3月12日の岩木山と、続く7月6日に起こった浅間山の大噴火です(7月6日参照>>)

ご存じのように、火山の噴火とは、直接的に被害に遭う地域は限られているものの、噴煙による日照量の低下によってもたらされる冷害の範囲となると、それはもう、広大なもの・・・

この浅間山の噴火では、風と共に広がった噴煙と灰が東北地方一帯に広がり、多大な被害を与えたのです。

飢饉となった村々では、牛や馬や犬・・・草木は根っこに至るまで食べつくしても、まだ足らず・・・食べる物がなくて餓死する人が後を絶ちませんでした。

研究者の調べによると、仙台藩では人口約70万人のうちの約30万~40万、八戸藩では約6万5000人のうち3万余人の人が餓死したとか・・・

なので、残る史料にも、書くのもはばかられるような悲惨な光景が記録されています。

杉田玄白『後見草(のちみぐさ)には津軽であった「死んだ子供を親が食べる話」とか、八戸の町人・晴山忠五郎が記した『天明三癸卯ノ歳大凶作天明四辰ノ歳飢喝(けかち)聞書』には、「餓死した母を娘が食べたり、姑が食糧を隠して自分だけ食べていて、やむなく嫁が我が子を…」なんていう話があります。

また、紀行文で有名な菅江真澄(すがえますみ)は、自身の日記『外が浜風』に、「陸奥に立ち寄った時、五所川原近くに、人骨が散乱していた」と書き残しています。

Teneinodaikikin600 『凶荒図録』(小田切春江)より…「大飢饉の村郷は 食物の類とては 一品もなく牛馬の 肉はいふも更なり 犬猫までも喰尽くし されどもつひには命を 保ち得ずして餓死 せしも数多(あまた)ありし」の文があります。

また、飢饉となれば餓死者のみならず、疫病も流行りますし、今度は、そこから逃げようという人が都市部へと移転し、それこそ、そんな人たちは食べる物にも困っているわけですので、移転した先で良からぬ行為に走り、町の治安も悪くなるわけで・・・

被害は被害を呼び、それはやがて全国的に広まって行きます。

早くも天明三年(1783年)9月に上野(こうずけ=群馬県)安中藩で米の価格の高騰に抗議する打ちこわし(暴動)が発生し、やがて、それは信州(長野県)へと広がり・・・さらに・・・

もちろん、幕府も対策を講じます。

豪商や豪農に献金を募り、その資金で救小屋(すくいごや)を設置したり、炊き出したり・・・被害に遭った農民には年貢の減免、そして本日、天明三年(1783年)12月16日倹約令の発布などなど・・・

しかし、もはや、それらの対策も焼け石に水・・・一揆に打ちこわしは治まる事を知らず、盗みや放火をする者も後を断ちませんでした。

やがて、幕府の中心人物である意次に不満が向けられます。

もちろん、以前、彼が蟄居となった日の【賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!】>>でもお話させていただいたように、噴火や冷害などの天災は彼のせいではありません。

しかし、有意義な対策できなかった幕府・・・いや、例え、今、考え得る限りの対策をしたとしても、結果が出なければ同じ事・・・

さらに、幕府の中には、もともとの反意次派もいるわけで・・・で、結局、天明六年(1786年)8月25日の第10代将軍・徳川家治の死(8月25日参照>>)をキッカケに意次は失脚するのです。
(厳密には天明六年(1786年)8月26日に老中御役御免、翌年10月2日に蟄居です)

そして、その代わりのごとく浮上して来るのが、その意次に個人的恨みを持ってるかも知れない松平定信(まつだいらさだのぶ)なワケですが・・・

実は、この定信が白河藩(福島県)11万石の藩主に就任するのが、奇しくも、この天明三年(1783年)・・・就任間もなく飢饉と直面した定信は、いち早く、遠くは大坂まで手を伸ばして米を大量に仕入れ、さらに、疫病対策の薬も早いうちから確保し、さらに雑穀や干し大根、海藻類など、とにかく、まだ飢饉が本格的になる以前に、見事な采配で買い集めていたのです。

おかげで、白河藩では、ただ一人の餓死者も出なかったとか・・・

これが、「白河藩に名君あり」との噂となり、一気に幕府内で昇進していくわけですが、さすがに、意次が失脚してすぐに・・・というワケには行かず、もうワンクッション・・・

それが、意次が老中御役御免となった翌年=天明七年(1787年)5月江戸で起きた大規模な打ちこわしでした。

さすがに将軍のお膝元で起こったこの事件・・・飢饉に餓死者を出さなかった名君=定信を推す声が挙がり、この年の6月、30歳という若さで老中に就任・・・かの寛政の改革に着手する(6月19日参照>>)事となります。

ちょうど同じ頃には、京都にて、幕府の対策不足に業を煮やした民衆による「御所千度参り」も発生(11月18日参照>>)・・・改革を急がねば!

ただし、この改革も、
♪白川の 清きに魚 すみかねて
 元の濁りの 田沼恋しき ♪

て風刺される事になるので、諸手を挙げての万々歳とは行かなかったようですが・・・
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2012年12月14日 (金)

建礼門院・平徳子の入内

 

承安元年(1171年)12月14日、平清盛の娘・徳子が、法皇の猶子として入内しました。

・・・・・・・・・・・・

平治元年(1159年)12月に勃発した平治の乱・・・(12月9日参照>>)

ごくごく簡単に言えば、藤原信頼(のぶより)VS信西(しんぜい・高階通憲)政権争いと言った感じですが、勃発前の平清盛(たいらのきよもり)信西の息子にも信頼の息子にも娘を嫁がせており、その立ち位置は中立・・・

ただ、清盛が熊野詣でに行ってる最中に起こった出来事で、信頼が信西を殺害(12月15日参照>>)した後に、最初は信頼の味方であったはずの二条天皇(後白河上皇の皇子)の側近たちが反対派に回って手引きした事もあって、清盛は京都に帰るなり、見事な天皇救出劇を決行(12月25日参照>>)して官軍となり、信頼と、彼に協力していた源義朝(みなもとのよしとも)らを撃ち砕きました(1月4日参照>>)

これで、ライバルを一掃した感のある清盛は、武士として前例の無い参議(さんぎ=朝廷組織の最高機関の官職)となりますが、これは、逆に言えば、貴族ばかりの場所に武士がただ一人のアウェー感満載・・・小うるさい貴族のご機嫌を取りながら事を進めていかねばならないわけで・・・

そこで、動いたのが、清盛の奥さん=平時子(たいらのときこ)・・・彼女は、清盛と同じ桓武平氏ですが、時子らは桓武天皇の孫の高棟王(たかむねおう)から繋がり、公家として宮廷に留まった堂上平氏で、清盛は、その高棟王の弟である高見王(たかみおう)から地方へと散らばったうちの伊勢平氏です(参照:桓武平氏の系図>>)

そして時子は、堂上平氏が持つ人脈をフル活用して、美人だと評判の自らの妹・平滋子(しげこ)後白河上皇に送り込み(7月8日参照>>) 、時子自身も二条天皇の乳母となって、天皇家との繋がりを確保したのです。

この作戦は見事成功し、数々の浮き名を流した後白河上皇は滋子に夢中・・・おかげで、後白河上皇の皇子がたくさんいる中、二条天皇の後を継いだ六条天皇(二条天皇の皇子)の時に、滋子の産んだ憲仁(のりひと)親王が、幾多の反対意見を抑えて皇太子となったのです。

同時に、従三位に叙された滋子は、翌・仁安二年(1167年)には女御となり、さらに、その2年後には建春門院(けんしゅんもんいん)という院号まで賜って、後宮の女王となるのですが、同時に、清盛も内大臣から左右大臣をすっ飛ばして太政大臣に・・・

しかし、ここで、その清盛を病が襲います。

仁安三年(1168年)、時に清盛51歳・・・原因は寸白(すびゃく=サナダムシ)だったと言われますが、それこそ、いち時は危篤とまで言われた清盛の病状は、朝廷にも大いに影響します。

この頃は、摂関家とも良好な関係にあったと見えて、九条兼実(くじょうかねざね)も、自身の日記『玉葉(ぎょくよう)の中で、
「前大相国(さきのだいしょうこく=清盛の事)の所労、天下の大事は只(ただ)この事に在(あ)るなり。
此の人夭亡
(ようぼう=若死)の後、弥(いよいよ)以って衰弊(すいへい)か」
と、清盛の病気は天下の一大事・・・亡くなりでもしたら天下は衰退すると、かなり心配してます。

それは、後白河上皇も、そして、何とか快復した清盛も同じ・・・清盛の病状に政情の不安を抱いた後白河上皇は、六条天皇の退位を早めて、皇太子の憲仁親王を高倉天皇として即位させて自らも出家。

清盛も出家して福原(神戸)に別荘を構え、新たなる一手を指します。

それは、大事な持ち駒=次女の徳子を高倉天皇のもとに入内させる事でした。

もちろん、それには、上皇の愛を一身に受ける滋子の働きかけもあり・・・

かくして承安元年(1171年)12月14日夜・・・徳子の乗った糸車に、おびただしい数の女房たちの出車が従い、さらに、公卿や殿上人の御供の行列が加わり、後白河法皇の御所=法住寺殿(ほうじゅうじでん)を出発します。

そう、徳子は、後白河法皇の御所で結婚の身支度を整えたのです。

Tairanotokuko600 それは、本来、平家は天皇の后妃を出すような家柄では無いから・・・
一旦、法皇の形ばかりの猶子(ゆうし=契約上の養子)となって、それからお嫁に行ったのですね。

まさに、後白河法皇と清盛の間が、良き関係であったかの象徴とも言えます。

高倉天皇=11歳、徳子=15歳の姉さん女房ですが、天皇はすでに元服前から、乳母である輔局(すけのつぼね)というお姉さまから恋の手ほどきを受けており、おそらく、ソノ事に関しては、徳子より遥かに経験豊富だったようですので、とりあえずはご安心を・・・

ただ、二人の関係は・・・というと、複数の浮き名を流す高倉天皇に対して、徳子の心の内の記録は残っていないので、何とも言えません。

先の、輔局との間には徳子の入内から5年後に女の子が生まれていますし、徳子に仕える召使いの少女=葵の前にも手を出してますし、以前書かせていただいた小督(こごう)との悲恋物語(1月14日参照>>)も超有名・・・

ただ、戦国時代の政略結婚がそうであるように、徳子も、ただの色恋で入内するわけではなく、それこそ、己の肩に平家一門の将来がかかっている事も重々承知で、浮き名を流す殿方の動向になど微動だにせず、自らの成すべき事をしっかりと見据える強い信念を持っていたに違いないでしょう。

徳子の入内から2年経った承安三年(1173年)の冬に、徳子の女房として仕える事になった右京大夫(うきょうだいぶ)は、その歌集の中で、翌年の元旦に、高倉天皇が徳子の御座所にお渡りになる姿を、廊下の影からコッソリと見て

♪雲の上に かかる月日の ひかりみる
 身のちぎりさへ うれしとぞ思ふ ♪

と歌に詠みました。

長い御引直衣(おひきのうし)(どんなんかは風俗博物館のサイトで>>別窓で開きますをまとった天皇に、唐衣(からぎぬ)(も)小袿(こうちぎ)表着(うわぎ)五衣(いつつぎぬ)を重ね(←いわゆる十二単です)正装した中宮・徳子・・・

恐る恐る垣間見た二人の姿が、まるで雲の上にかかる日と月のように、いかにも美しく、感動のあまりに詠んだのです。

私としては、なんだかんだで、ステキなご夫婦であってほしいなぁヽ(´▽`)/

やがて、入内から7年後の正月、にわかに病の床についた徳子・・・

寺の読経か神社の祈祷・・・はたまた、医者か薬か陰陽師かと慌てふためく清盛に、それが、徳子からの人生最高のプレゼント=妊娠とわかるのは、まもなくの事・・・。

後の安徳天皇(3月24日参照>>)の誕生です。
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2012年12月13日 (木)

会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦

 

文明十五年(1483年)12月13日、福井小次郎が備前福岡の戦いで討死しました。

・・・・・・・・・・・・

備前(岡山県南東部)は、もともと赤松氏が代々治めていた場所でしたが、例の赤松満祐(あかまつみつすけ)の第6代将軍足利義教(よしのり)・暗殺=嘉吉の乱(6月24日参照>>)の1件からゴタゴタが始まり、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも戦いに巻き込まれ・・・

その応仁の乱では、東西両軍の大将=山名宗全(そうぜん)細川勝元(ほそかわかつもと)が亡くなって(3月18日参照>>)から、さすがに京都市内は、少し静かになったのですが、逆に戦いは地方へと飛び火していくわけで・・・

そんな中、将軍を暗殺した事で、一旦は滅亡状態となっていた赤松氏の赤松政則(あかまつまさのり=満祐の弟の孫で細川勝元の娘婿)が、功を挙げたとして、将軍家より播磨・備前・美作(みまさか=岡山県北東部)を賜って復権します。

それを見過ごす事が出来なかったのが、山名政豊(やまなまさとよ=宗全の孫もしくは息子)・・・そもそも、政豊のジッチャン=宗全は、将軍を暗殺した満祐を追い詰めた功績でのし上がり、大名トップの座に昇りつめたような物ですし・・・

かくして文明十一年(1479年)閏9月、これから起こるあろう領国での不穏な空気を察した政豊は、現将軍の足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子)の願いを振り切って京都を発ち、領国=但馬(たじま=兵庫県北部)周辺の平定へと向かったのです(9月4日参照>>)

これに対して、政則も、現段階では事実上占拠されている、以前の赤松氏の領地を奪回すべく、播磨(はりま=兵庫県南西部)あたりまで進出・・・

この状況に驚いたのは、一連のゴタゴタの中で自ら領地を拡大し、その時、事実上備前西部を横領していた備前玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)・・・

もともとは赤松氏の被官(部下=守護に従属する国人領主)であった元成ではありますが、力づくで取った領地はともかく、「軍功で賜った領地は返したくない!」と主張し、政則と対立・・・水面下で山名氏と手を結んだ元成は、山名に援軍を依頼します。

その要請に対し、文明十五年(1483年)9月、尾道を出立して備後(びんご~広島県東部)国分寺に到着した3000余の山名軍は、11月7日に備前に入り、これを受けた元成ら松田軍は、政則配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)への攻撃を決定し、城の西北にある山に陣取ります。

ちなみに、後に、この城を治める事になるのが黒田如水(じょすい=官兵衛孝高)で、その後、自ら構築した新しい城にも福岡城と名づけた事から、九州に福岡という地名が誕生する事になります。

(話を戻して…(*´v゚*)ゞ)
当時は、両側を大きな川に挟まれた島山に構築されていた福岡城・・・ここを守るのが、元成と同じく、赤松氏の被官でありながら、袂を分かつ事になった城主・浦上則国(うらがみのりくに)以下2000余人・・・

この則国に仕えていたのが、本日の主役・福井小次郎(ふくいこじろう)・・・父の福井源左衛門(げんざえもん)とともに京都よりこの地に移住してきた21歳の若き武将です。

上記の通りの天然の要害であった福岡城は、11月21日に始まった合戦でも、その堅固ぶりを発揮し、一進一退の様相を呈しつつも、いよいよ文明十五年(1483年)12月13日量の寄せ手が攻めかかり、城兵にも、多くの戦死者が出てしまいます。

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば・・・
この日、やはり父とともに出陣していた小次郎は、激しい戦いの中、父とはぐれてしまいます。

父の事が心配になった小次郎は、一旦城中に戻りますが、城内にいないとわかると再び城外へと撃って出て、ひと際大きな名乗りを挙げつつ、縦横無尽に駆け回り、多くの兵を討ち取ります。

とは言え、いくら剛の者と言えど、休みなく永遠に戦い続けられるはずはなく、やがて疲れ、家人に肩を借りながら、何とか城へと戻ります。

ところが、なんと、その時点で、小次郎には、大小合わせて、すでに26ヶ所もの深手が・・・

残念ながら、小次郎は、そのまま息をひきとります。

一方の父は、何とか無事・・・しばらくして城へと戻って来ます。

もはや動かぬ息子と対面した父は、息子が残した手箱を手に取り、たくさんの書簡の中から、1通の手紙を見つけます。

「幼い頃に母と生き分かれたまま僕が討死したならば、さぞかし嘆き悲しんでおられる事と思いますが、しばしの間、この世に留まったとて、後には、あの世できっと会えるとお思いになっていてください」
と、細々と書かれた最後には、

生まれこし 親子の契り いかなれば
 同じ世にだに 隔てはつらむ
 ♪

と、会えぬ母への別れの歌がしたためてあったのです。

自分が死んだ時、最初に、この手箱を開けるのは父・・・未だ若き21歳の青年が、いついかなる時も死を覚悟して合戦に挑んでいた事を知り、そばにいた皆は、一斉に涙したと言います。

こうして、この後も、しばらく籠城を続けていた福岡城でしたが、12月25日、別働隊として動いていた政則の赤松軍が、真弓峠で山名軍に大敗して領国へ帰ってしまった事を受けて、年が明けた正月に城主の則国が城を脱出・・・福岡城が陥落する事になりますが、そのお話は2016年1月6日【薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤】でどうぞ>>
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2012年12月11日 (火)

成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と

 

文禄四年(1596年)12月11日、烏山藩の初代藩主となった戦国武将・成田氏長がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

映画「のぼうの城」の大ヒットで一躍有名になった忍城(おしじょう)の城主の成田氏長(なりたうじなが)さんです。

豊臣秀吉小田原征伐(10月24日参照>>)の中で起こった忍城攻防戦の時は、本店の小田原城に詰めていたので、合戦そのものには参加しない城主さんですが、映画の中では西村雅彦さんが、ちょっとコミカルな感じでイイ味出してはりましたね。

・・・で、せっかく旬なお話なので、蛇足ではありますが、成田氏長に関連して、映画鑑賞直後に書かせていただいた、以前の感想のところ(以前の感想は11月9日参照>>)では、書き切れなかったお話を少々・・・

この映画「のぼうの城」の売り文句の一つに「驚天動地の大逆転実話」とある事から、映画の内容のどこまでが史実なの?と気になってる方も多いと聞きましたが、以前の感想のところでも書かせていただいたように、かなり創作入ってます・・・てか、そもそも、そんだけ沢山の史料が残って無いのが忍城攻防戦です。

むしろ、史料が少ないからこそ、作家さんも創作のし甲斐があるという物で、わからない部分をあったかも知れないような創作で埋めてあるところがオモシロイわけです。
(個人的には、ここをありえない創作で埋めてしまうと昨年のアレのようなドンデモ時代劇になってしまうと思いますデス)

・・・で、以前の感想のところにも書かせていただきましたが、おそらく史実であろうという部分は・・・
「城主の留守を預かるわずかな城兵(通説では500)だけで、
天下人・秀吉の命を受けた
石田三成(いしだみつなり)率いる大軍(通説では20000)に囲まれ、
水攻めまで受けながらも、本店の小田原城が落城するまで抵抗し続け、他
すべての支店が陥落する中で、唯一、秀吉軍に負けなかった城・・・
というおおまかな流れくらいでしょう。

ただ、上記の部分でも、私個人としては「水攻めはあったんじゃないかな?」と思っているので、上記の史実であろう部分に含めましたが、「水攻めは無かった」という見解の専門家さんもおられます。

それこそ、映画のエンドロールを最後までご覧になった皆様も、あるいは現地に足を運んだ事のある皆様も、
「さすがに、石田三成の築いた堤の跡もあるんだから…」
と思われるかも知れませんが、水攻めは無かった派の専門家さんの見解は、そもそも、あの堤は、秀吉の権力を誇示したいがためと、それだけのスゴイ物を見せられた相手をビビらすためのパフォーマンス的な物で、実際に水攻めする前に、本店の小田原城が落ちたので、水攻めは無かった・・・という事らしいです。

確かに、現地の地形を見る限り、水攻めが有効で無い事は明白・・・というのは、どの専門家さんの意見も一致するところで、水攻めがあった派の専門家さんでも、水攻めは「三成の失策」あるいは「現地を見て無い秀吉の無謀な命令に三成が従っただけ」との見解を示しておられます。

その事を考えれば、水攻めは無かった派にも大いに理があり・・・ひょっとしたら、それが正解かも知れません。

ただ、たった500の兵で、20000の大軍を相手に落ちなかった背景には、「きっと、何かあるんじゃないか?」と、誰しもが思うわけで、そこに、水攻めの失敗やら、美人の姫の大活躍やら・・・って話が、軍記物で語られる事になるわけです。

映画で主役となる城代の成田長親(ながちか)も、実際に城代だったかどうかは不明です。

ただ、長親の父で城代を務めていた老臣・成田泰季(やすすえ)が、攻防戦のさ中に亡くなって(病死とも討死とも)しまうし、軍記物の中には「後の事は息子に…」と遺言したなんて話もあるので、おそらく、父の死後は、息子の長親が城代を務めたのだろうという事が想像できるわけです。

長親に関してわかっている事は、その程度ですので、もちろん、田楽踊りを踊った記録もありませんし、領民に慕われていた記録もありません(記録が無い=無かったという意味ではありません)

しかし、そもそも、たった500の城兵で籠城できるはずもなく、そこには、多くの領民が、ともに城内に入って戦ったであろう事が想像できるわけで、「ならば、長親…というより成田氏自身が領民から慕われていたのだろう」事も、これまた容易に想像できるわけです。

また、田楽踊りに関しては、軍記物の記録の中に、水攻めで湖と化した忍城の周囲に、舟を出して、囲む敵兵をあざけ笑うように、領民が歌を歌いながら、漕いで廻ったという場面が出て来るので、そこから、話を発展させれば、映画のような、よりドラマチックな感じになるわけで・・・

そんな中、ご存じのように、忍城が落ちる前に小田原城が落ち、忍城は開城される事になるのですが、この間、軍記物では、ほとんどが、城主・氏長の娘の甲斐姫の活躍が描かれているので、以前書かせていただいた
2008年6月9日【水の要塞・忍の浮城】>>
2011年6月16日【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>
というような話になるわけですが、この甲斐姫の存在自体が、江戸時代の軍記物による創作とも言われています。

忍城を開城するにあたって、城主の氏長は、秀吉に黄金900枚と唐頭(からがしら)の兜18個を献上して命乞いをしたとされます。

そのおかげか、忍城と同じ小田原城の支城という立場にあった城の城主には、合戦後に自刃を命じられた武将もいる一方で、氏長は命が助かり、さらに、その後には烏山(からすやま=栃木県那須烏山市)2万石を与えられています。

その処分の違いについては、確かに、北条政権内での重要人物度という物もあるのでしょうが、最後まで秀吉に抵抗して、しかも小田原戦で、唯一秀吉軍が落とせなかった城というワリには、なんで?という処分のような気もします。

そこで、思い当たるのが秀吉の女好き・・・前にも同じような事がありまたよね?

そう、あの京極高次(きょうごくたかつぐ)です。

本能寺の変の後の天王山(6月13日参照>>)では明智光秀につき、賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)でも柴田勝家に味方した彼・・・にも関わらず、命助かったばかりか近江(滋賀県)に2万500石を与えられています。

その高次優遇のもとは、メッチャ美人のお姉ちゃん(もしくは妹)龍子(たつこ)・・・美人の姉ちゃんが秀吉の側室となった事で、高次は優遇され、ついた仇名がホタル大名・・・(5月3日参照>>)

高次は、後に、浅井3姉妹の次女・と結婚して、またまた出世するので、姉と嫁の尻の光で出世したという意味でホタル大名と呼ばれたワケですが、

実は、今回の氏長さんにも「ホタル大名」という仇名がつけられてます。

つまり、敵対したにも関わらず領地を与えられる背景に、「美人の娘がいて、秀吉の側室になったんじゃないの?」という発想から、軍記物に甲斐姫が登場し、その存在が大きく扱われる事になったという事・・・なので、甲斐姫には、京極龍子の話を受けた架空の人物ではないか?の疑いがあったのです。

ただし、今年=2012年の8月・・・京都の醍醐寺(12月2日参照>>)が保管している醍醐の花見(4月7日参照>>)の席で詠まれた歌が131首書かれた短冊の中に「可(か)い」と署名された1首がある事が発見されました。

この発見で、確かに秀吉のそばに「かい」と呼ばれる女性がいた事は確実となりました。

残念ながら、史料が非常に少なく、この「かい姫」が、あの「甲斐姫」かどうかを確定するには至らないのだとか・・・でも、夢が膨らむ発見ですね。

新たな史料の発見に期待します。
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2012年12月10日 (月)

秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗

 

慶長四年(1599年)12月10日、豊臣政権下で侍医として活躍した施薬院全宗が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

施薬院全宗(やくいんぜんそう)前半生は僧侶・・・

亡くなった年齢が80歳と言われていますので、50歳前後の頃でしょうか???

それまでは、僧として比叡山延暦寺にいた全宗は、元亀二年(1571年)・・・あの織田信長比叡山焼き討ちをキッカケに還俗(げんぞく=出家していた人が一般人に戻る事)します。

信長の比叡山焼き討ちが通説の通りに(2006年9月12日参照>>)、全山を焼きつくすほどの猛攻撃だったとしたら延暦寺伽藍が壊滅状態となったから・・・

私が想像するように、焼き討ちの規模が大した事無い(2007年9月12日参照>>)なら、僧侶たちの墜落に嫌気がさして・・・

と、それこそ、その理由は想像するしかありませんが、父も祖父も僧侶だった全宗にとって、50にして寺を出て一般人となるという事は、なかなかの決心だった事でしょう。

その後、京都にて、天下の名医と呼ばれていた曲直瀬道三(まなせどうさん)に師事し、医学の奥儀を体得します。

しかし、全宗は、一町医者で我慢できる人ではなく、その心の内に壮大な夢を持ち、そのために医学を学んだようなもの・・・だったと思います(あくまで、今後の成り行きを見ての想像です)

なんせ、酸いも甘いも噛み分けた齢50・・・
「正義の無い力は暴力なり、力の無い正義は無力なり」
いくら正しい事をやろうとしても、力が無ければ何もできない事は重々承知・・・

なんと、彼は、自ら、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のもとへ、自分を売り込みに行くのです。

・・・と言っても、この頃の秀吉は、未だ、信長から山陽方面の平定を任されている状態の一家臣・・・この先、織田政権内で、どれほどの位置まで昇れるかは未知数だったわけですが、彼もまた、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)のように、秀吉が異例の出世を遂げるであろう事を見抜いていたのかも知れません。

こうして、秀吉の主治医となった全宗・・・

やがて、秀吉が備中高松城を包囲している真っ最中(4月27日参照>>)の天正十年(1582年)6月2日・・・あの本能寺の変が起こります(2007年6月2日参照>>)

この時、そばにいた黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)の進言を受けて、秀吉は、弔い合戦として明智光秀を討つ事を決意をする(6月6日参照>>)わけですが、この時、秀吉が、自らが中国大返しをするより先に、光秀との交渉という特命を与えて上洛させたのが全宗でした。

もと僧侶のお抱え医師という立場は、当然、これまでは光秀とも親しく接していたでしょうし、両者が敵対関係になった後でも、医師なら、真っ先に敵対する立場では無いわけで・・・そういう意味で、うってつけの使者だったという事でしょう。

『武功雑記』によれば、この時、秀吉は全宗に「道中の身の安全のために…」と1本の槍を渡し、「3日の内に畿内に戻るので、直接勝負しよう」という伝言を授けたとか・・・

その後、ご存じのように、その光秀を討って(6月13日参照>>)、織田政権内での立場を向上させた秀吉は、家臣の筆頭だった柴田勝家を倒し(4月23日参照>>)徳川家康を傘下に入れ(10月27日参照>>)、前後して四国(7月26日参照>>)九州(4月17日参照>>)・・・そして最後の大物=小田原北条氏(7月5日参照>>)と来て、その後の奥州仕置き(9月4日参照>>)・・・となるわけですが、

そんな中で全宗は、かの安国寺恵瓊や千利休とともに(千利休は途中で切腹しますが…2月28日参照>>、周辺の諸将の勧誘に奔走するのです。

孫子の兵法でも「百戦百勝善ならず、戦わずして勝つ」と言われる通り、合戦するのは最後の手段・・・できるなら、合戦をせずに相手を屈服させるのがベストなわけで、臨済宗の僧侶で軍師の恵瓊、茶人の利休らとともに、やはり、ここでも、もと天台宗の僧侶で医師という、武将とは別の人脈&情報網を持っている全宗の手腕を駆使して敵方の寝返り作戦に尽力したのです。

もちろん、その間に全宗の本職である医術で、秀吉の健康管理についても本領発揮しているわけですから、秀吉が天下を掌握する頃になると、もう、そりゃぁ、秀吉からの彼への信頼度はハンパ無い状況で・・・

『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば・・・
秀吉は、常に全宗の事をそばに置きたがって厚遇し、
(彼の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」
という状態だったとか・・・

そう、こうして、全宗の夢を実現する舞台が整いました。

彼の夢・・・それは、出世でも名誉でもなく、また、私利私欲でもなく・・・(と言えばカッコ良すぎですが、本日は主役なので、チョイと持ちあげます)

それは、富める者も貧しい者も、皆平等に治療を受ける事ができる医療福祉システムでした。

それこそ、秀吉の権威を借りて、施薬院代なる官職を作り、自ら就任しました。

そう、以前、奈良時代の光明皇后【奈良に始まる福祉の歴史】(4月17日参照>>)に書かせていただいた悲田院(ひでんいん=貧困者や孤児を収容する施設)施薬院(やくいん=病院・療養所)・・・「平安時代頃までは機能していたのが、いつの間にか無くなっていたのを、天正年間に秀吉が再興させたと、そのページで書かせていただきましたが、それが、この全宗の手による物なのですね。

施薬院そのものは、朝の6時から開院し、日没まで就業・・・場合によっては自らが往診する事もあるほか、9人の名医を選抜して自らの部下とし、一人の患者を一人の医師が担当して、トコトン治療を行うというシステムだったと言います。

そう、途絶えていた施薬院のシステムを復活させたばかりか、それを半永久的に継続できるシステムを作り上げたのです。

慶長四年(1599年)12月10日、全宗は、おそらく80歳前後の大往生を遂げますが、このシステムは養子の宗伯(そうはく)に引き継がれます。

ちなみに天正十五年(1587年)6月19日、秀吉が『切支丹(キリシタン)禁止令』を発布しますが(6月19日参照>>)、この文章を考えたのが全宗・・・医師としてはもちろん、秀吉の政治的ブレーンとしても強力な存在だったのです。
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2012年12月 8日 (土)

刺客に襲われて命を落とした僧・了源

 

建武二年(1336年)12月8日、浄土真宗仏光寺派の中興の祖として知られる了源が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・・

親鸞(しんらん)を開祖とする浄土真宗と言えば、あの本願寺・・・と、お思いかも知れませんが、それは、いわゆる中興の祖と呼ばれる8代めの蓮如(れんにょ)が、見事な働きで爆発的に信者を増やす事に成功した後からの話で、以前、蓮如さんのページ(2月25日参照>>)で書かせていただいたように、それまでは、親鸞の子孫の本願寺より、親鸞の弟子たちが広めた様々な宗派が、むしろ浄土真宗の主流で、その中でも、仏光寺(佛光寺)が1番人気でした。

そう、その仏光寺を1番にした僧が、今回の了源(りょうげん)さんです。

やはり浄土真宗の宗派である興正寺派・4世の了海の息子だという話と、もともとは武家の家人であったという話と、出自については二つの説がある了源ですが、息子では無かったとしても、興正寺の第7代だった事は事実で、その興正寺が故あって、了源の代に、仏光寺という、もう一つの名を持つ事になります。

その理由を・・・『了源上人絵詞』によれば、

幼い頃から才智に優れ、22歳で興正寺の7代めを継いだ了源は、絵系図を用いての布教活動を推し進め、そのわかりやすい教えは、またたく間に大人気となります。

しかし、人気が出れば出るほど、それを妬む者も現われ・・・ある時、そんな興正寺の由緒をおとしめようと、仏像や宝物も盗みに入った者がいたのです。

「由緒正しき&霊験あらたかな仏像や宝物が、いっさいがっさい無くなってしまえば、寺の権威もへったくれも無くなるだろう」と考えたのです。

ある夜、そんな反対派に頼まれた賊が、興正寺に侵入し、約束通り、仏像や宝物を盗み出しますが、それを持って逃げる途中、霊験あらたかな仏像を盗んでしまったという自責の念にかられ、怖くなって、プイっと、その仏像を、そのへんの草むらに投げて、逃げていってしまうのです。

一方、時の天皇・後醍醐(ごだいご)天皇は、その夜の明け方、南の方角から射して来るまぶしい金色の光によって目覚めます。

「夢か幻か?」と思いながらも、その光があった方角に使者を差し向けて探させると、ジャジャ~ン!!仏像、はっけ~~ん!

そして、その仏像を宮中へ持ち帰り、持ち主を探すべく、都中のお寺というお寺に仏像の事を告げますが、そこに登場したのが座光(仏像の後ろにある光背と下にある台座)を持って現われた了源・・・

その座光の上に、かの仏像を置いてみると、見事、ピッタリとハマり・・・
「おぉ、君が、あの時のシンデレラ!!・・・違っ!持ち主か!」
と感激した後醍醐天皇が、
「これをキッカケに、寺号を阿弥陀仏光寺…略して仏光寺と改めたまえ~」
となって、興正寺は、一山で二つの寺号を持つお寺となったのですね。

その後の文明十三年(1481年)に14代を継いだ兄弟によって、兄が興正寺を継ぎ、弟が仏光寺を継いだ事で、現在では、興正寺派と仏光寺派の両方が存在しますが・・・

Dscn3442a800 了源が再興した興正寺

そんなこんなの逸話もあって、ますます隆盛を極める仏光寺でしたが、そんなトップの座にあぐらをかく事はなく、了源は、畿内はもちろん、東海地方にまで、自ら布教の旅に出る日々を続けます。

しかし、当然の事ながら、ますます、その隆盛を妬む輩が後を絶たないわけで・・・

建武二年(1336年)12月8日、彼を恨む者からの依頼を受けた鈴鹿の山賊に襲撃された了源は、伊賀(三重県)の山中にて、その命を落とすのです。

その時、襲われた了源は、流れる血で衣の袖に
「私の死は宿業(前世に悪い事をした報い)なので、どうか、この者を罪に問わないでやってくれ!きっと将来改心するから…」
と書き残し、西に向かって合掌した後に、息をひきとったと言います。

その最期の姿を目の当たりにした賊・・・当然ながら、後悔の念にかられます。

しかし、後悔先にたたず・・・やむなく、賊は、了源の遺体を、道の横にあった桜の木の下に埋め、血文字の書かれた衣を持って本山へと自首するのです。

その一報を聞いた本山では、息子以下、主だった僧が、早速、現場へと向かい、遺体を掘り起こして火葬し、その場にお墓を建立します。

すると・・・
そばにあった、あの桜が、真冬にも関わらず、一斉に花を咲かせたという事です。

と、まぁ、桜の一件は、「教え」に近い逸話なのでアレですが、了源が刺客に襲われて命を落とした事は間違いないようです。

東京文化財研究所の報告によれば、保存されている遺骨(焼骨)の頭蓋から眼のあたりにかけての骨片に、一条の刻線があり、そこには鉄の赤さびが認められたという事です。

しかも、仏光寺の御影堂に安置されている了源坐像の胎内から発見された、上下7cmほどの木造小首(了源の死顔を写した物と思われる)にも、その同じ箇所に、明らかに意図的につけられたと思われる1本の傷があるとの事・・・

生前の姿を写した肖像坐像は多々あるものの、死んだ時の姿を後世に残そうとするのは、非常に珍しい事・・・

それは、最高潮に達した時に、その最高責任者が暗殺されるという出来事が、信者にとって、いかに衝撃的であったか、いかに惜しまれる出来事であったかを物語っているようです。

そりゃ、人から人へと伝わる間に桜も咲きます!
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2012年12月 7日 (金)

紅葉のじゅうたん~京都・光明寺

 

ベストシーズンに、「何年ぶりだろう?」と思うようなヒドイ風邪をひいてしまい、2日で5箱のティッシュを使い、2週間咳が止まらなかった事で、今シーズンの紅葉狩りは諦めていたのですが、一昨日、ヤホーの「紅葉情報」を覗きに行ったところ、

京都は、ほぼすべてが「色あせ始め」になっている中、光明寺「見ごろ」・・・しかも、近くの向日神社「見ごろ」・・・

「おぉ、これは…長岡京が、私を呼んでいる!」
「そうだ!京都へ行こう」

と、ばかりに、昨日行って参りました~
長岡京については2017年11月11日参照>>

光明寺は、ご存じ、2009年のJR東海「そうだ!京都へ行こう」シリーズのCMで、一躍、全国ネットの紅葉の名所となった場所・・・それまでは、けっこう、知る人ぞ知るの穴場だったんですけどね。

せっかくなので、阪急「長岡天神駅」の一つ京都寄りの「西向日駅」で降りて、長岡宮跡から向日神社乙訓寺光明寺長岡天満宮と、長岡京の名所を、徒歩で巡って来たのですが、そのくわしい観光ルートは、史跡巡りのモデルコースを紹介している本家HPの「京都ぶらり歴史散歩:長岡京へ行こう」>>(別窓で開きます)でご覧いただく事として、やはり、今日は、超有名となった光明寺の写真など、ご紹介させていただきます。
(写真はすべて、クリックで大きくして見ていただけます)

もちろん、上記の通り、もはや盛りが過ぎている事は重々承知・・・しかも、近畿地方の方は、ご存じかと思いますが、この前日の夜に、けっこうな突風が吹いておりまして、「かなり葉っぱも落ちてるだろう」との覚悟で行って来たのですが、

なかなか・・・
けっこう、イイ感じの「紅葉のじゅうたん」で、充分堪能できました~

Dscf2134pa1000

まずは、門を入ってすぐの。まさに紅葉のじゅうたん・・・
Dscf2077a900 竹で区切られた向こう側が、有名な「紅葉の参道」ですが、そこは、出口寸前の最後のお楽しみ・・・

●光明寺・境内図→

浄土宗の開祖である法然上人が創建した光明寺ですが、あの源平合戦の「青葉の笛」(2月7日参照>>)で有名な熊谷直実(くまがいなおざね)が、その出家後に、建立に尽力したお寺の一つ(11月25日参照>>)として知られています。

Dscf2092a800 先に、境内の中心となる御影堂←に参拝して、心静かに落ち着けてから、渡り廊下を通って、お待ちかねの「紅葉の参道」へと向かいます。

 .Dscf2100a600 

→は、渡り廊下の途中・・・

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そして、いよいよ…出た!
「紅葉の参道」です。

Dscf2118a800

たぶん、11月の下旬は、スゴイ人だったんでしょうね。

盛りを過ぎたからこそ、人があまり映り込んでいない写真を撮る事ができるのですから、感謝&感謝ですね。

Dscf2125ba800 薬医門です。。。やはり、ここが1番絵になるかな?

中学時代以来の光明寺・・・全国ネットになって、ちょっと雰囲気変わりましたが(笑)人気になったぶん、さすがの紅葉ぶりです。

今度は、人の多さ覚悟で、真っ盛りに訪れてみたいと思います。
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2012年12月 5日 (水)

独立して弘前藩の祖となった津軽為信

 

慶長十二年(1607年)12月5日、服属していた南部氏からの独立を果たし、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった津軽為信が58歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

様々な伝承があり、その出自が謎に包まれている津軽為信(つがる ためのぶ=爲信ですが、今のところ、南部氏一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だった平蔵(へいぞう)が、家庭内のモメ事から家出して津軽(青森県弘前市)に逃避行・・・一族の南部大浦氏を継いで大浦姓を名乗った人物が為信=その人だというのが定説とされています。

Tugarutamenobu500 つまり、最初は大浦為信・・・

その為信は、18歳になった永禄十一年(1568年)に南部氏の支城・大浦城(弘前市)の城主となりますが、ここで、宗家=南部氏からの独立を決意します。
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南部氏が、その一族の中でも最大の勢力を誇る九戸氏(くのへし)とのモメ事にアタフタしているのをチャンスと見た為信は、天正九年(元亀二年=1571年説もあり)、津軽における南部氏の拠点とも言うべき石川城(同じく弘前市)を、謀略とも言える手段を使いながら、わずかの兵で攻略し、南部家当主の叔父にあたる城主・石川高信(たかのぶ)を自刃に追い込みます(生存説あり)

その後、和徳城(わっとくじょう=同じく弘前市)大光寺城(だいこうじじょう=青森県平川市)浪岡城(なみおかじょう=青森市)・・・さらに、油川城(あぶらかわじょう=同じく青森市)田舎館城(いなかだてじょう=南津軽郡田舎館町)横内城(青森市)飯詰高楯城(いいづめたかだてじょう=五所川原市)など・・・次々と攻略して行き、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城をほぼ降伏させてしまいます。

これらの諸城の攻略の経緯に関しては、それぞれの史料によって年代が違っており、諸説あるのですが、最後に、為信が、事実上の津軽統一を成し遂げたのが天正十七年(1589年)というのは、ほぼ間違いが無いようです。

それは、その翌年の天正十八年(1590年)に、あの豊臣秀吉小田原征伐(3月29日参照>>)・・・

これまで何度か書かせていただいていますように、この時、小田原を攻める秀吉は、未だ、手つかずだった東北地方の諸将に、「君も参戦せぇへんか!」と声をかけ、その動向を見たのです。

もはや、南は四国(7月26日参照>>)九州(4月7日参照>>)も手に入れ、北は越後(新潟県)上杉をも傘下に入れ(6月15日参照>>)太政大臣になって豊の姓まで賜った秀吉(12月19日参照>>)、その意に従わぬ最後の大物=北条氏を攻めるのです。

そこに参戦をうながして、
「君ら、この先、どうすんねん?僕と一緒になるんか?なれへんのか?」
と問いかけてるわけです。

とは言え、東北の諸将には、歴史の古い名家も多く、「新参者の秀吉に従うなんて!」と眉をひそめる人多々あり・・・以前も書かせていただいたように、あの伊達政宗だって、家内の意見が真っ二つに割れ、大いに悩んだのです(4月5日参照>>)

そんな中、東北からいち早く駆けつけたうちの一人が、為信だったのです。

とるものもとりあえず、わずか18人の手勢を従えて、春先の2月に津軽を出立した為信は、未だ小田原に進軍中の秀吉に沼津(静岡県)で謁見し、忠誠を誓います。

わずかな数ではあるものの、遠い北の地から、いち早く馳せ参じてくれた為信のフットワークの軽さを大いに喜んだ秀吉は、彼の忠誠心を褒め、
「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」・・・合計3万石の朱印状を与えるのです。

豊臣政権公認の大浦城主となった為信・・・つまり、ここで南部氏から独立した事になります。

もちろん、同時に、大浦為信から津軽為信に改名・・・弘前藩となるのは、当然、徳川政権下ですが、その基礎は、この時から・・・以前書かせていただいた松前藩蠣崎慶広(かきざきよしひろ)(1月5日参照>>)と、同じ手法で、同じ独立を果たしたのです。

ただし、この行動に、宗家の南部氏は、おかんむり・・・「反逆の臣」と津軽氏の事を罵り、両者の確執は、江戸時代になっても消える事は無かったと言います。

やがて訪れた関ヶ原の戦いでは、東軍として参戦しますが、一方では嫡男の信建(のぶたけ)が、豊臣秀頼(ひでより)小姓として大坂城に詰め・・・と、どうやら、真田&前田同様の二股作戦を展開して、見事、生き残ります。

慶長八年(1603年)には、後に弘前城と呼ばれる事になる新城の構築に取り掛かりますが、未だ城が完成せぬ慶長十二年(1608年)、病気になった信建を見舞うべく京都に向かいますが、残念ながら間に合わず・・・

信建は父の到着前の10月に亡くなってしまいます。

息子の死がこたえたのか?・・・
続く、慶長十二年(16087年)12月5日為信も、また、京都にて、その生涯を閉じます。

当主と、その後を継ぐべき嫡男を、ほぼ同時に失った津軽氏では、後継者を巡ってお家騒動が勃発するのですが、何とか切り抜け、為信の築いた弘前藩は、なんとか無事、明治維新を迎える事となるのです。
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2012年12月 4日 (火)

佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎のその後

 

明治四年(1872年)12月4日、幕末の動乱期に「人斬り」と恐れられた河上彦斎が斬首されました。

・・・・・・・・・・・

元治元年(1864年)7月11日・・・

公武合体(朝廷と幕府が協力)開国論者の重鎮・佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)は、午前中に山階宮(やましなのみや)邸を訪問した後、昼過ぎに、木屋町御池付近にあった宿舎に帰宅すべく馬を進めておりました。

Dscn9407asyouzan600 三条通から木屋町へ曲がった、その瞬間!・・・人の暴漢が象山に襲いかかります。

馬の足を速めて御池通まで逃げ切った象山・・・しかし、そこには新たな敵が2~3人いて、再び左右から襲いかかります。

ここで象山も刀を抜いて斬り合いになりますが、そうこうしているうちに、さらに新手の敵が現われ、象山は落馬・・・馬から落ちたところでとどめをを刺されます。

ご存じ、佐久間象山の暗殺・・・その日の夜、三条大橋には、
「斬首して獄門にかけるべきところだが、白昼ゆえ、かなわぬ」
と、その罪状を記した紙が貼られたと言います。

この佐久間象山の暗殺を決行したのが、河上彦斎(かわかみげんさい)・・・

冒頭に書かせていただいた通り、幕末に「人斬り彦斎」と恐れられた彼ですが、確実に彦斎が斬ったとわかっているのは、この象山一人です。

それは、後に、彦斎自身が
「他にも人を斬った事はあるけど、佐久間象山を斬った時は(あまりにも大物だったので)体中の毛が逆立って、初めて人を斬ったと感じた…以来、人を斬るのを止めた」
と、この暗殺が人生最後の人斬りだった事を告白しているからです。

Kawakamigensai400 とは言え・・・伝えられている彦斎の容姿は、「人斬り」とは、ほど遠いイメージ・・・背丈は5尺前後(約150cm)と小柄で、色白で、一見女性に見間違うほどだった、と・・・

そう、実は、以前、少年ジャンプに連載されて人気を博し、最近では映画にもなった「るろうに剣心」の主人公=緋村剣心(『人斬り抜刀斎』の異名を持つ緋村抜刀斎)キャラ設定のモデルが、この彦斎なのですね。

そんな彦斎は、10歳の時に熊本藩士の父を失い、さらに16歳にして母と死別・・・同じく熊本藩士の河上源兵衛(かわかみげんべい=高田源兵衛)の養子となって、熊本藩主・細川斉護(ほそかわなりもり)掃除坊主として出仕します。

もともと、尊王攘夷派の双璧と呼ばれた宮部鼎蔵(みやべていぞう)から兵学を、轟武兵衛(とどろきぶへい)から文学を学んでいた彦斎は、自然と、その思想が尊王攘夷に傾きつつあったわけですが、

そんな彼が、尊王攘夷の現実を目の当たりにするのが、かの藩主の掃除坊主に続いて、国家老付きの茶坊主をしていた20代半ばの頃・・・

安政七年(1860年)3月3日に起こった大老・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺・・・世に言う桜田門外の変(3月3日参照>>)です。

この時、襲撃した側の水戸藩・薩摩藩の浪士は、護衛する彦根藩士の反撃に、ある者は斬られ、ある者は逃亡し、とバラバラになるわけですが、そのうちの一人が、彦斎の仕える細川藩邸に駆け込んで来たのです。

水戸浪士の行動を目の当たりにした彦斎は、おそらく、自分も大義のために働く決意を固めた事でしょう。

やがて、坊主から士分に取りたてられた彦斎は、尊攘派の志士たちとも盛んに交流するようになりますが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)の頃には、すでに脱藩・・・政変で朝廷を追われた三条実美(さねとみ)七卿を警固する形で長州(山口県)と向かっています。

そう、この頃には、すでに、その剣術の腕前も評判となっており、誰に習ったでも無い我流の剣法は「彦斎流」と呼ばれていたと言います。

そして、その政変から10ヶ月後の元治元年(1864年)6月5日に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・これは、かの政変で尊攘派の七卿らとともに、政権からはじき出された長州藩が、「何とか挽回する余地は無いか?」と、京都に隠れ住む長州藩士たちで、密かに開いていた会合を聞きつけた新撰組が、その現場に踏みこんで襲撃した事件なわけですが、

どこからどうなったのか?・・・この事件の黒幕は佐久間象山であるとの噂が流れたのだとか・・・

まぁ、尊攘派がウヨウヨいる京都の町を、西洋風のいでたちで、馬にも西洋風の鞍を着け、粋な乗馬姿で闊歩していた開国論者の象山が、何かしらの理由をつけて、ターゲットにされる事は、致し方無いところですが・・・

とにかく、その噂を信じた彦斎・・・池田屋事件で命を落とした師匠=宮部鼎蔵の仇を討つべく、京都に乗り込みます。

そして、冒頭に書いた象山暗殺です。

その後、第2次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)の時には長州側として参戦しますが、その頃の熊本藩が佐幕派(幕府寄り)だったため投獄され、慶応三年(1867年)10月の大政奉還(10月14日参照>>)、続く12月の王政復古の大号令(12月9日参照>>)、翌・慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)などは、獄中でおとなしくしているしかありませんでした。

こうして維新を迎えた彦斎・・・

しかし、その新政府の政策は、未だ攘夷の気持ちを持つ彦斎にとっては、納得のいかない物でした。

屈辱的な条件で続けられる外交・・・
開国前はあれだけしきたりにうるさかった朝廷への参内を、身分の低い外国人に安易に許してしまう・・・

卑屈なまでのペコペコ外交が、彦斎には耐えがたかったのです。

やがて、同じ思いを抱く仲間たちが集まって来ますが、その中の一人である大楽源太郎(だいらくげんたろう)(3月16日参照>>)が計画したクーデター未遂事件=二卿事件(にきょうじけん=外山・愛宕事件とも)が発覚すると、その源太郎を匿った罪で彦斎は逮捕されるのです。

もともと、反政府寄りの言動が多かった彦斎ですし、この事件で、その反政府組織が形成されつつあった事も発覚したわけで・・・

かくして明治四年(1872年)12月4日河上彦斎は斬首されます・・・享年:38歳。

一説には、彦斎の逮捕を、ヨーロッパ視察の寸前に聞いた木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が、その出発前に、部下に指示したと言います。

「肥後の河上くんは、豪傑やけど、今になっても、まだ、攘夷の説を唱えて動けへん・・・このまま放置してたら、いずれ国家に害を及ぼして、国の進路を狂わせるかもしれんから、僕が帰国する前に・・・頼むわな」
と・・・

木戸孝允は、未だ桂小五郎と呼ばれていたあの頃、彦斎とともに夢を語り、その性格を熟知している間柄・・・

池田屋騒動のその日、たまたま池田屋に行かなかった事で、命助かった小五郎・・・
そこで命を落とした仲間の仇を討つために京都へやって来た彦斎・・・

その頃は、同じ舞台に立っていた二人の志士を、時の流れは無情にも引き裂きました。

幕末維新の動乱には、そんな一面もあるのですね。

☆・「佐久間象山遭難之地」の石碑のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道~幕末編」でどうぞ>>
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2012年12月 3日 (月)

幕末・島津の「お由羅騒動」

 

嘉永二年(1849年)12月3日、幕末の薩摩藩で起こったお家騒動で、島津久光やお由羅の方の暗殺を計画していたとして、敵対する斉彬派の重鎮たちが捕縛されました。

世に、「お由羅騒動」「高崎くずれ」「嘉永朋党事件」などと呼ばれる出来事です。

・・・・・・・・・・・・

この「お由羅騒動」の名のもとであるお由羅(ゆら=遊羅・由良)の方という女性は、第10代薩摩藩主・島津斉興(しまづなりおき)お国御前・・・

お国御前というのは、当時の藩主は、参勤交代という制度のもと、一定期間で、江戸と国許(くにもと)を行き来してたわけですが、藩主の正室と嫡子は、言わば人質としてずっと江戸にいるので、藩主が国許に滞在している時の、国許にいる奥さんって事ですが、要するに側室です。

Simadunarioki500 実家は八百屋とも船宿とも言われ、その身分はかなり低いですが、藩主の斉興に愛され、二人の間には久光(ひさみつ)という息子がいました。

一方、江戸にいる嫡子の斉彬(なりあきら)は、頭脳明晰で国内の状況や世界の事情にも明るく、家臣からの信頼も厚い文句無しのデキた息子・・・しかも、もうすでに40歳になっていますから、いつでも、父から藩主を継げる状況・・・いや、むしろ遅い・・・いや、異常に遅すぎる!

実は、大藩の薩摩藩ではありますが、この幕末の頃は、実に500万両の負債を抱える超赤字状態・・・

それを、藩主の斉興が、祖父の代からの重鎮・調所広郷(ずしょひろさと)とともに幕政改革を断行して、約20年かかって、何とか借金を返し、逆に、250万両ほどのプラスを得るくらいに回復させたところだったのです。

しかし、ここで、嫡子の斉彬に藩主を譲ってしまうと・・・実は、斉彬さん、確かに聡明でデキる息子、若手の藩士には大人気なんですが、その思想は西洋かぶれとも揶揄(やゆ)されるくらいなので、ちょっとばかり不安もあるのです。

ここのところ、外国船が頻繁に近海に現われ、鎖国中の日本を脅かす状況で、幕府としては、何とか海岸線の防衛を強化したい・・・そんな中で、海に面した薩摩藩の立地条件や、昔からの琉球との交易などを踏まえて、薩摩藩が防衛に力を入れる事を期待していたわけですが、もし、西洋かぶれと噂されるほど先進的な斉彬が藩主になれば、当然、その藩のお金を湯水のごとく使って、最新の防御設備を構築する事は間違いないわけで・・・

そうすると、せっかく借金を返したばかりの藩の財政が、またぞろ悪化する可能性大・・・しかも、なんか幕府の思惑に乗せられるのもケッタクソ悪い・・・

必死のパッチで藩政改革に力を注いだ斉興さん&調所さんとしては、「嫡子の斉彬ではなく、その異母弟の久光が、次の藩主になってくれればいいのに…」と思うわけですが、斉彬の奥さんは徳川家の娘・恒姫・・・斉彬を廃嫡(はいちゃく=後継ぎから排除する事)する事が不可能な現状では、「譲るかい!」とばかりに藩主の座に居座り続けるしか無かったのです。

こうして、薩摩藩の中で分かれた斉彬派久光派・・・

そんな中、斉彬派にとって、目の上のタンコブである調所を排除するべく、彼らが起こした行動は・・・薩摩藩が琉球にて行っている密貿易を、幕府老中・阿部正弘(あべまさひろ)に暴露する事でした。

この琉球での密貿易は、ハッキリ言って、あの慶長十四年(1609年)に島津が琉球を傘下に治めて(4月5日参照>>)以来、ずっと水面下で行われていた公然の秘密で、薩摩藩の収入源の一つ・・・言ってみりゃ、これで借金返したようなもの。

しかし、暗黙の了解で目を瞑っていた幕府も、公になったら、何らかの処分はせねばならないわけで、ヘタすりゃ、薩摩藩のお取り潰しも免れない一大事ですが、斉彬派の若手藩士たちは、イチかバチかの賭けに出たのです。

案の定・・・幕府からの事情聴取を受けた調所は、その直後の嘉永元年(1849年)12月19日、密貿易に関するすべての罪を一身にかぶって亡くなります。

一説には服毒自殺だったと言われる調所の死・・・彼が、個人的にやった事として罪をかぶる事で、この一件は、藩自体が罪に問われる事は無く終わったのです。

こうして、調所という大きな後ろ盾を失った久光派・・・しかし、ここに来ても、いや、むしろ、大事な補佐役を失ったからこそ、さらにキョーレツに「意地でも譲るか!」と思いはじめた斉興が、ずっと藩主の座に居座り続けたので、すぐさま、斉彬が藩主になるという事もありませんでした。

そんな中、斉彬の子女のうちの何人かが次々と亡くなるという事態が起こり、「これは、お由羅の方が斉彬の子供たちに呪いをかけたからだ」との噂が立ちます。

一説には、本当に呪詛していたなんて事も言われますが、実際のところは、たぶん偶然・・・この時代、生まれた子供が成人するまでに亡くなる事は珍しくなく、まして、一定階級以上の高貴な血筋の人々は、一般庶民の健康的生活とはかけ離れた生活様式をとっていましたから、子供が早世する事が多々あったのです。

現にお由羅自身も、子供は3人生んでますが、成長したのは久光一人でした。

そんな中で、たまたま斉彬の子女が立て続けに亡くなり、たまたま同時期に生まれていた久光の子女が無事に成長していただけの事・・・

しかし、呪いという物が、未だ信じられていた中で、この噂を受けた斉彬派の、町奉行物頭務めの近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)山田清安(きよやす)高崎五郎衛門(たかさきごろうえもん)などなどが、久光とお由羅の暗殺を企てるのです。

嘉永二年(1849年)12月3日、その暗殺計画が実行前に発覚した事で、近藤以下、6名の仲間が、斉興のもとに呼び出されて捕縛されました。

この6名は、即刻、切腹を命じられ、その日の内に命を断ちますが、翌年、この時の密書が発見されたとかで、近藤・山田・高崎の3名は遺体を掘り起こされ、改めて、磔(はりつけ)や鋸引きの刑に処せられたと言います。

また、残りの斉彬派にも死罪や遠島、謹慎などが言い渡され、処罰された者は50余名にのぼり、もはや、斉彬派は、斉彬本人のみといった状況になって、斉彬としては万事休す・・・

ところが、話は、またまた急展開・・・

この騒動の中で、斉彬派のうちの4名が脱藩して逃れて福岡藩に逃げ込み、斉彬の親戚にあたる福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)に訴えたのですが、そんな脱藩藩士を「こちらに引き渡せ」と斉興がスゴんだ事から、これ以上騒動が大きくなる事を懸念した近親の伊達宗城(だて むねなり)や老中の安倍が、穏便に解決しようとして、時の将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)から、それとなく、やさしく、斉興に隠居をうながすという方法をとりました。

さすがに、「それとなくやさしく」とは言え、将軍命令とあっては斉興も、藩主の座を譲らざるをえず、嘉永四年(1851年)の2月、斉興はとうとう隠居して斉彬に家督を譲り、一連の騒動は一件落着となりました。

藩主となった斉彬は、皆さまご存じのように、名君の誉れ高い藩主となりますが、確かに、お金はだいぶ使ったかも知れませんね(7月16日参照>>)

上記の以前のページでご紹介した通り、暗殺説もある斉彬ですが、亡くなる時には、「2度とこのような騒動が起こらぬように…」と、久光の嫡男・忠徳(忠義)に家督を譲るとの遺言を残して亡くなったと言います。

ちなみに、この騒動で切腹させられた赤山靭負(あかやまゆきえ)の家政を担当していたのが西郷隆盛(さいごうたかもり)の父で、この時の父の悲しみ様を見た隆盛が共感し、以来、「斉彬一筋」になったと言われています。

また、あの大久保利通(おおくぼとしみち)が、この騒動で、琉球館附役についていた父が遠島となり、自らも謹慎処分を受けた時に、隆盛に大いに助けられ、ともに歩む決意をしたと言われています。

幕末って、短い一時期に様々な出来事が起こるので、それが、この先の色々な事に影響していく様が、実にワクワクしますね~
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2012年12月 2日 (日)

京都で最古の醍醐寺・五重塔

 

天暦五年(951年)12月02日、京都醍醐寺で五重塔の落慶供養が行われました。

・・・・・・・・・・・

醍醐寺(だいごじ)と言えば、やはり・・・

Dscn7799a900 醍醐寺の桜

以前にupした醍醐寺のページでも、ついつい、お話が桜の方に行ってしまいましたが・・・(2009年4月7日参照>>)

そのページにも書かせていただおたように、慶長三年(1598年)3月15日・・・天下人となった豊臣秀吉が、結果的には、人生最後となる壮大なイベントを決行します。

それが、あの醍醐の花見・・・

そこに桜があるから花見の宴を催したのではなく、花見がしたいから、そこに桜を植えた・・・まさに天下人らしい発想で、醍醐寺を再建したのです。

そんな壮大な伽藍の中でも、醍醐寺最大の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する寺)寺院の三宝院が最も有名で、秀吉自ら設計したと言われる庭園は、桃山時代の文化を色濃く伝える壮大な物で、ダイナミックかつ華やかなそれは、醍醐寺を訪れた際には、外せない見どころです。

・・・で、その桜&三宝院とともに有名なのが、今回の五重塔・・・

なぜに有名かは、その醍醐寺が歩んだ歴史と関係があります。

・‥…━━━☆

貞観十六年(874年)に、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝(しょうぼう)が、京都の笠取山(後に醍醐山と呼ばれる)に登り、頂上にて横尾明神(よこおみょうじん)啓示を受けて霊泉を見つけた事から、そこにお堂を建立して准胝観音(じゅんていかんのん)如意輪観音(にょいりんかんのん)を祀った事に始まる醍醐寺・・・

その後、延喜七年(907年)に、第60代天皇の醍醐天皇御願寺となって以降、険しい山上付近一帯が修験者の霊場として整備された後、その聖なる地が山の麓へと広がり、延長四年(925年)には、麓に釈迦堂が建立され、やがて、笠取山のすべてを含む、麓の周辺一帯を境内とする広大な敷地となった醍醐寺は、山上付近を上醍醐、山麓を下醍醐と呼ばれて隆盛を誇ります。

それこそ、その諡号(おくりな)をこの醍醐寺からとったという醍醐天皇は、上醍醐の准胝観音に祈願をして、後の朱雀&村上両天皇を授かったという事で、皇子である両天皇も、醍醐寺には、ひとかたならぬ思い入れがあったわけですが、

その第61代・朱雀天皇が、延長八年(930年)に亡くなった父=醍醐天皇の菩提を弔うために建立を発願したのが、五重塔です。

承平六年(936年)に着工して約20年の歳月をかけて完成・・・村上天皇天暦五年(951年)12月02日完成の落慶法要が行われたのです。

この五重塔には、父を思う二人の天皇の思いが込められているのですね。

か、しかし・・・実は醍醐寺の建物・・・その後の応仁の乱や、度重なる戦乱で、その伽藍のほとんどを失ってしまうのです。

だからこそ、戦国時代の終わりに天下を取った秀吉が再建・・・となるわけですが、実は、その戦乱の中で、たった一つ残った建物が、この五重塔なのですよ。

ご存じのように、平安の都、千年の都と言われる京都ですが、建物に関しては、実際のところ、そのほとんどが戦乱で焼失してしまっているわけで・・・今となっては、この醍醐寺の五重塔が、京都で最も古い、唯一の平安時代の建物なのです。

Dscn7841a600 醍醐寺・五重塔

高さ38mと、五重塔としては特別高いわけではありませんが、その高さの3分の1を、屋根から伸びる相輪が占めている事で、重厚感がハンパなく、そのドッシリした雰囲気がたまらない塔ファンも多いのです。

また、その一層内部の板壁に描かれている両界曼荼羅や真言八祖は、日本密教絵画の源流と言われ、一見の価値ありのすばらしい物・・・

残念ながら、普段は扉が閉まっていますが、毎月29日には、開扉され、納経法要が行われますので、四方の扉の外からチラ見できるそうです。

また、その時に、拝観料600円と、1000円で写経を希望(当日受付あり・10人以上は要予約)すれば、中に入れていただけるそうなので、「是非とも間近で見たい(もちろん信心あっての写経ですが…(*´v゚*)ゞ)とお思いの方はどうぞ。

秀吉の醍醐寺もイイですが、平安の醍醐寺に浸るのもイイですよ!

醍醐寺へのくわしい行き方、周辺の見どころは、本家HP:京都歴史散歩「六地蔵から日野・小野へ…」でどうぞ>>
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