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2012年12月21日 (金)

後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生

 

延元元年・建武三年(1336年)12月21日、光明天皇三種の神器を渡し花山院に幽閉されていた後醍醐天皇が脱出して吉野へと向かいました。

・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、去る元弘三年(1333年)に建武の新政(6月6日参照>>)を開始した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、新政に反発する足利尊氏(あしかがたかうじ)光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り(4月26日参照>>)、後醍醐天皇方の楠木正成(くすのきまさしげ)湊川(みなとがわ)の戦いで自刃(5月25日参照>>)・・・

京都で尊氏軍を迎え撃った新田義貞(にったよしさだ)も敗退(6月30日参照>>)したため、一旦、比叡山へと逃れながらも、尊氏がら和睦の打診を受けてい(8月15日参照>>)後醍醐天皇は、皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と、その異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を義貞に託して北国へ落ち延びさせた(10月13日参照>>)後、自らは尊氏のもとへと向かい、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇三種の神器をを手渡しました(11月2日参照>>)

Godaigotennoucc こうして、一旦は和睦となった両者・・・後醍醐天皇は花山院に幽閉されます。
 .

幽閉の身となった後醍醐天皇のもとへは、誰一人訪れる者もなく、「もはや出家しようか?」と思い悩んでいたところへ、天皇のもとで刑部大輔(ぎょうぶのだいふ)となったいた大江景繁(おおえかげしげ)なる人物が登場・・・

ここのところの官軍(後醍醐天皇軍)の近況を報告するとともに、
「近いうち、夜の闇にまぎれてここを脱出し、大和(奈良県)方面へと向かいましょう」
と提案します。

「よし、わかった!明日の夜、馬を用意して東の小門のあたりで待っててくれ」
と後醍醐天皇・・・(この時の「近いうち」は早いのねん(゚ー゚;)

かくして、約束の延元元年建武三年(1336年)12月21日夜・・・景繁が待っているところへ、後醍醐天皇が女房姿に変装して登場・・・早速、馬に乗ってもらい、天皇が持っていた三種の神器は景繁自らが抱えて出立・・・ただ、ひたすら南を目指します。

その夜のうちに大和国に入る事ができましたが、さすがに白昼、この姿のまま奈良を通過するのはヤバイと、後醍醐天皇に粗末な輿(こし)に乗り換えてもらうのですが、やはり、昼間は目立つし、夜は真っ暗で行く道が見えず、がはやるものの、なかなか前に進めませんでした。

しかし、その夜、春日山の上空から金峯山(きんぶせん)へ向けて一筋の光が飛び渡り、松明のごとき光を放って道を照らし、何とか、大和の賀名生(あのう=吉野郡)という場所まで到着します。

しかし、ここには、後醍醐天皇が長期滞在できるような場所もなく・・・

そこで、景繁は、金峯山の僧侶たちを味方に引き入れるべく、先に吉野へと向かい、長老の吉水法印と面会し、昨日の謎の光の話をします。

法印曰く
「それは、まさしく蔵王権現のお導きであろう」
と、後醍醐天皇に味方する事を表明・・・ほどなく到着した後醍醐天皇を、甲冑に身を包んだ約300名の僧兵が出迎えたのです。

そう・・・こうして、この吉野にもう一つの朝廷=南朝が誕生する事となるのです。

ご存じのように吉野というのは、その金峯山を主峰とする南大和の山岳地帯の総称で、山と山に囲まれた天然の要害であったわけですが、もちろん、後醍醐天皇が、この地を、次の拠点として選んだのには理由があります。

まぁ、先ほどの「謎の光うんぬん」という『太平記』のくだりは、天皇の威光を示すお話として、実際問題としては、やはり、その地の利があったという事でしょう。

なんせ、ここは、伊勢の北畠氏にも近いし、河内の楠木氏にも近い・・・ここに来てもなお、後醍醐天皇に味方してくれるこの両者は、やはり、後醍醐天皇が最も頼りにしたい兵力であった事でしょう。

さらに、後醍醐天皇には、高野山や東大寺、さらに熊野三山など、神社や寺院の勢力が味方をしていましたから、ここ吉野なら、彼らに対して軍用金の手配や人員の手配も容易に行えます。

また、吉野が古来より修験者の修行の場であった事も・・・

もちろん、修験者そのものを味方にしたいという事もあったでしょうが、あの修験者の姿は、なかなかの隠れ蓑になります。

現に、後醍醐天皇配下の日野俊基(ひのとしもと)が、山伏の姿となって各地へ立ちまわっていたという話もあり、密使として情報収集&情報伝達するには、うってつけの恰好だったわけです。

古くは源義経(みなもとのよしつね)主従(4月30日の後半部分参照>>)、戦国では真田幸村(信繁)御一行様(10月9日の後半部分参照>>)・・・かなりウロチョロできます。

こうして、後醍醐天皇は吉野の吉水院(きつすいいん=吉水神社)に入り、その後、蔵王堂近くの実城寺を行在所(あんざいしょ=行宮・仮の宮)とし、ここから、諸国へと向かった皇子や、配下の武将に様々な指令や檄を飛ばす事になります。

やがて、この場所には楠木正行(くすのきまさつら=正成の息子)らを始めとする、諸国の武将が続々と集まって来るのですが・・・その正行の活躍は四条畷(しじょうなわて)の戦い(1月5日参照>>)で見ていただくとして・・・

その前に・・・
そう、もう一人・・・この時、遠き奥州にいた強い味方北畠顕家(きたばたけあきいえ=親房の息子)が、天皇の吉野行きや義貞の北国行きを聞きつけてはるばると馳せ参じ・・・って事になるのですが、そのお話は1月8日のページでどうぞ>>
 

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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

ワクワクッ^^
続きが早く読みたいです!
近いうち?!(笑)

以前、後醍醐天皇の御霊は京の天龍寺に…って私コメントしたかと思いますが
その後、吉野に行かれたそうです。
吉野の地には後醍醐天皇の御霊を守るお役目の方がいらっしゃる~らしいのです。

投稿: tonton | 2012年12月21日 (金) 19時03分

ども

後醍醐帝が吉野へ向かった最大の理由はやはり…!?、

葛餅と柿の葉寿司が食べたかったからでは…!?

(ゴメンナサイ)

吉野は常に反体制に準じ、また正道(この解釈もまたムズカシイ)に反する勢力に抵抗してきたような気がします。

(代々の十津川村郷士達も立場は違ってもなぜか似てるような気がしますが…)

茶々様はどう思われますか?

では

投稿: azuking | 2012年12月21日 (金) 21時05分

tontonさん、こんばんは~

私の近いうちは、あの方なみに…(笑)
いえいえ、日づけが合いましたら書かせていただきます。

確かに、天龍寺の聖廟のところの説明には、後醍醐天皇の像を祀るとしか書かれてませんでしたね。
御霊は吉野にあるという事なのですね。
なるほど…納得しました。

投稿: 茶々 | 2012年12月22日 (土) 03時04分

azukingさん、こんばんは~

アハハ…私も葛餅と柿の葉寿司、大好きです!

十津川村や川上村には、南北朝合一の後も抵抗した後南朝の意志を継ぐお祭りが、今現在も行われているそうですから、やはり、そういう精神がずっと受け継がれていたような気がします。

投稿: 茶々 | 2012年12月22日 (土) 03時12分

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