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2012年12月13日 (木)

会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦

 

文明十五年(1483年)12月13日、福井小次郎が備前福岡の戦いで討死しました。

・・・・・・・・・・・・

備前(岡山県南東部)は、もともと赤松氏が代々治めていた場所でしたが、例の赤松満祐(あかまつみつすけ)の第6代将軍足利義教(よしのり)・暗殺=嘉吉の乱(6月24日参照>>)の1件からゴタゴタが始まり、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも戦いに巻き込まれ・・・

その応仁の乱では、東西両軍の大将=山名宗全(そうぜん)細川勝元(ほそかわかつもと)が亡くなって(3月18日参照>>)から、さすがに京都市内は、少し静かになったのですが、逆に戦いは地方へと飛び火していくわけで・・・

そんな中、将軍を暗殺した事で、一旦は滅亡状態となっていた赤松氏の赤松政則(あかまつまさのり=満祐の弟の孫で細川勝元の娘婿)が、功を挙げたとして、将軍家より播磨・備前・美作(みまさか=岡山県北東部)を賜って復権します。

それを見過ごす事が出来なかったのが、山名政豊(やまなまさとよ=宗全の孫もしくは息子)・・・そもそも、政豊のジッチャン=宗全は、将軍を暗殺した満祐を追い詰めた功績でのし上がり、大名トップの座に昇りつめたような物ですし・・・

かくして文明十一年(1479年)閏9月、これから起こるあろう領国での不穏な空気を察した政豊は、現将軍の足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子)の願いを振り切って京都を発ち、領国=但馬(たじま=兵庫県北部)周辺の平定へと向かったのです(9月4日参照>>)

これに対して、政則も、現段階では事実上占拠されている、以前の赤松氏の領地を奪回すべく、播磨(はりま=兵庫県南西部)あたりまで進出・・・

この状況に驚いたのは、一連のゴタゴタの中で自ら領地を拡大し、その時、事実上備前西部を横領していた備前玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)・・・

もともとは赤松氏の被官(部下=守護に従属する国人領主)であった元成ではありますが、力づくで取った領地はともかく、「軍功で賜った領地は返したくない!」と主張し、政則と対立・・・水面下で山名氏と手を結んだ元成は、山名に援軍を依頼します。

その要請に対し、文明十五年(1483年)9月、尾道を出立して備後(びんご~広島県東部)国分寺に到着した3000余の山名軍は、11月7日に備前に入り、これを受けた元成ら松田軍は、政則配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)への攻撃を決定し、城の西北にある山に陣取ります。

ちなみに、後に、この城を治める事になるのが黒田如水(じょすい=官兵衛孝高)で、その後、自ら構築した新しい城にも福岡城と名づけた事から、九州に福岡という地名が誕生する事になります。

(話を戻して…(*´v゚*)ゞ)
当時は、両側を大きな川に挟まれた島山に構築されていた福岡城・・・ここを守るのが、元成と同じく、赤松氏の被官でありながら、袂を分かつ事になった城主・浦上則国(うらがみのりくに)以下2000余人・・・

この則国に仕えていたのが、本日の主役・福井小次郎(ふくいこじろう)・・・父の福井源左衛門(げんざえもん)とともに京都よりこの地に移住してきた21歳の若き武将です。

上記の通りの天然の要害であった福岡城は、11月21日に始まった合戦でも、その堅固ぶりを発揮し、一進一退の様相を呈しつつも、いよいよ文明十五年(1483年)12月13日量の寄せ手が攻めかかり、城兵にも、多くの戦死者が出てしまいます。

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば・・・
この日、やはり父とともに出陣していた小次郎は、激しい戦いの中、父とはぐれてしまいます。

父の事が心配になった小次郎は、一旦城中に戻りますが、城内にいないとわかると再び城外へと撃って出て、ひと際大きな名乗りを挙げつつ、縦横無尽に駆け回り、多くの兵を討ち取ります。

とは言え、いくら剛の者と言えど、休みなく永遠に戦い続けられるはずはなく、やがて疲れ、家人に肩を借りながら、何とか城へと戻ります。

ところが、なんと、その時点で、小次郎には、大小合わせて、すでに26ヶ所もの深手が・・・

残念ながら、小次郎は、そのまま息をひきとります。

一方の父は、何とか無事・・・しばらくして城へと戻って来ます。

もはや動かぬ息子と対面した父は、息子が残した手箱を手に取り、たくさんの書簡の中から、1通の手紙を見つけます。

「幼い頃に母と生き分かれたまま僕が討死したならば、さぞかし嘆き悲しんでおられる事と思いますが、しばしの間、この世に留まったとて、後には、あの世できっと会えるとお思いになっていてください」
と、細々と書かれた最後には、

生まれこし 親子の契り いかなれば
 同じ世にだに 隔てはつらむ
 ♪

と、会えぬ母への別れの歌がしたためてあったのです。

自分が死んだ時、最初に、この手箱を開けるのは父・・・未だ若き21歳の青年が、いついかなる時も死を覚悟して合戦に挑んでいた事を知り、そばにいた皆は、一斉に涙したと言います。

こうして、この後も、しばらく籠城を続けていた福岡城でしたが、12月25日、別働隊として動いていた政則の赤松軍が、真弓峠で山名軍に大敗して領国へ帰ってしまった事を受けて、年が明けた正月に城主の則国が城を脱出・・・福岡城が陥落する事になりますが、そのお話は2016年1月6日【薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤】でどうぞ>>
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コメント

・・自分が死んだ時、最初に、この手箱を開けるのは父・・・会えぬ母への別れの歌
いいなあ~、 親父を信じる息子と母への想い・・・ <福井小次郎
うちなんか、「Dad! Pocket money! Pocket money!」 だ、もんなあ~。

投稿: 夏原の爺 | 2012年12月15日 (土) 21時37分

夏原の爺さん、こんばんは~

21歳の若者が…と思うと泣けますね。

現実は…でも、元気な間はスネをかじらせてあげて下さい。

投稿: 茶々 | 2012年12月16日 (日) 01時32分

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