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2012年12月17日 (月)

真田丸はどこにあった?

 

慶長十九年(1614年)12月17日、豊臣秀頼の許可を得た大野治長の命により、塙団右衛門(ばんだんえもん)らが蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)の陣に夜襲をかけました。

また、その一方で、徳川家康の本陣に勅使(ちょくし=天皇の使者)が下向し、講和をするよう勧めた事も、『豊内記』『駿府記』など複数の文献に見られます。

そう、その講和(12月19日参照>>)の話し合いが開始されるのが、明日=12月18日という事で、まさに大坂冬の陣のクライマックスな日なわけですが、実は、先日、大阪城周辺をウロウロして写真を撮って来ましたので、今日は、その写真をご覧いただきながら、この大坂冬の陣で、胸のすくような一戦があった真田丸の場所について、お話させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・

その胸のすくような一戦というのは、慶長十九年(1614年)12月4日にあった真田丸の攻防なのですが(戦いについては12月4日参照>>)、そこでも書かせていただいた通り、この真田丸というのは、
「もし、大坂城が攻められるとしたら南側から…」
と考えた大坂方の真田幸村(信繁)によって、大坂城の南東部分に突き出るような形で構築された出丸の事です。

まぁ、その構築の逸話についてもお話したいところですが、それは、またいずれかの日にさせていただくとして、本日は、その真田丸が、現在のどのあたりにあったのか?という話に限定させていただきます。

Kinzyoumonkenroku650a …で、右図→は『金城聞見録』にある慶長年間の古図ですが、もう、皆さまご承知の通り、南惣構堀の南東に突き出た部分が真田丸ですね。
(クリックして拡大できます)

現在の地図だとコレ↓

大きな地図で見る

地図の上部に見える大阪城公園から真下(南)へ下がった所にある真田山公園と道を挟んでその北側にある真田山小学校・・・「+キー」で地図を拡大していただくとお解りになると思いますが、その小学校の北側にあるのが三光神社で、ここに有名な「真田の抜け穴」というのがあって、真田幸村の像も建てられ、一般的には、ここが真田丸の跡として知られています。

Ca3e0065a600 (←いつの間にか大筒っぽいオブジェができてるゾ!!!(゚ロ゚屮)屮)
ただ、すでに歴史好きの皆さまはご存じだと思いますが、実は、ここは真田丸のあった場所では無いようです。

現在、公園や小学校があって真田山と呼ばれている場所が真田山と呼ばれるようになるのは少し後の頃から・・・それ以前は、このあたりは宰相山と呼ばれていたんです。

(Google地図を拡大していただくとわかりますが)三光神社の隣の公園も「宰相山西公園」という名前なんですね。

ただし、『摂津名所図絵』には
嬪山稲荷祠(ひめやまいなりのやしろ=三光神社の前身)=玉造の南にあり。
世に真田山といふ。
元和の頃真田の塁ここにありしとぞ。
社説には宰相山といふ。
加賀宰相候の陣屋この辺
(ほとり)にありしよりかくいふなり。
嬪山は旧名なり」

とあり、

すでに、少々混乱の雰囲気がありますが・・・
昔、嬪山と呼ばれていた場所に、大坂の陣の時、徳川方の加賀宰相=前田利常(10月12日参照>>)が陣取ったので、宰相山と呼ばれるようになったという記述は、複数の文献に見られます。

Oosakasangouezu800 そして、元禄時代に書かれた『大坂三郷町絵図』(←)には、道を挟んで、東に宰相山と、その西に真田山が描かれ、その真ん中に心眼寺というお寺が建っている様子が見えます(寺名が並ぶ1番上)

もちろん、「山」という限りは、その頃には、小さいながらも、ここに二つの山が存在し、この周辺が寺町として整備されていて、古図にも複数のお寺の名が見えるわけですが、

で、この心眼寺・・・元和八年(1622年)に真田幸村&大助父子の菩提を弔うため白牟和尚なる僧が建立したお寺なのですが、現在も、その同じ場所に建っています。

Ca3e0054a800 心眼寺

て事で、門にしっかりと六連銭が描かれたこのお寺の西側が真田山と呼ばれていた場所で、おそらく、そのあたりに真田丸があった・・・

Ca3e0057a800 道を挟んだ西側に目をやると・・・
そう、現在は私立・明星中学高等学校のグランド(→)というわけですね。
(逆光でスマンどす)

とは言え、冒頭の『金城聞見録』で見る限り、真田丸って、もっとデカイような気がしないでもない・・・

それこそ、冬の陣の講和によって惣堀の破却もあるわけで、その破却の実態にについても、未だ複数の説があり、規模の大きさうんぬんについては、更なる調査が必要でしょう。

ひょっとしたら、高校のグランドから宰相山西公園&三光神社&真田山小学校、さらに南の真田山公園も含むデカさだったって事もあるのかしら?

妄想は止まりませんねぇ~
 .

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コメント

幸村が真田丸を築いた目的は、豊臣家が持つ金銀を奪い取り、それを子供達が生き残るための、手だてにしたかっただけでしょう。
幸村の配流が解かれなかった背景には、上田藩が幕府に対して、父と弟の配流を解いてもらえるよう、賄賂を贈ろうとしなかったためです。
実際、石川貞清は徳川に金を掴ませて、自由の身を手に入れています。

人が追い詰められると、最後に信用できるのは、金の力なので、幸村はそう噛み締めて、真田丸にこもったのでしょうね。

投稿: Y子 | 2012年12月19日 (水) 15時27分

Y子さん、こんにちは~

>幸村が真田丸を築いた目的は、豊臣家が持つ金銀を奪い取り、それを子供達が生き残るための、手だてにしたかった…

真田丸を築いて徳川と戦う事で、どうやって豊臣の金銀を奪うのか?大変興味深いお話ですが、ソースは何でしょうか?
『落穂集』には、幸村が真田丸を構築する際の様子がけっこうくわしく書かれていますが、その話は無かったと思います。
出典となる文献を教えていただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2012年12月19日 (水) 16時33分

申し訳ありませんが、後世の文献は、歴史考察において役に立つとは限らないと思います。
真田丸建造を利用し、豊臣の金銀を奪う方法なら、建造に必要な材木の買い付けを利用すればいいでしょう。
戦争時はこういう材木類は値上がりするので、相場の数倍の資金が必要です。
真田丸が冬の陣後の和睦に際して、破却されているので、建築資材は新品ではなくても、構わなかったと思います。
要するに、豊臣が用意した予算と、実際の購入代金の差額を、幸村は懐にしまったと考えられます。
但し、後世の幸村人気を考慮すると、真田丸建造に関わった人足の人件費には手をつけず、きちんと支払ったと思います。

投稿: Y子 | 2012年12月28日 (金) 01時47分

Y子さん、こんにちは~

もちろん、たとえ1級史料と言えど、すべてを鵜呑みにするわけにはいきませんが、少なくとも参照すべき対象であると私は考えます。
まして『落穂集』は、実際に大坂の陣に参戦した武将の息子が父から聞いた話を書いた文献ですから、それが考察の対象にならないとのお考えなら、是非とも、Y子さんの推理の参考となったソースをお聞きしたいのですが…

あと…
>豊臣が用意した予算と、実際の購入代金の差額を、幸村は懐にしまった…
とおっしゃっておられますが、この時代の合戦は基本・成功報酬です。
結果的に勝てば恩賞という形で報酬が出ますが、それまでに合戦にかかる費用は、武将の私費で賄うのが一般的です。

大阪の陣の時、豊臣家は、黄金200枚と銀30貫を用意して幸村を大坂城に迎え入れたとされますが、それは味方になってくれた幸村に対する、いわゆる契約金or準備金みたいな物で、使っても使わなくても幸村の懐に入るお金で、その後の費用(武器や兵士の給料など)は、おおもとの豊臣家ではなく、幸村が、その準備金から出すはずですので、豊臣家が真田丸の構築費用の予算を、別途組んだり支払ったりする事は、まず無いように思うのですが…
もちろん、幸村は浪人なので、その準備金を使いはたして足らなくなった場合、頼めば豊臣家が、追加で出したりしたのかも知れませんが、

また、
>真田丸が冬の陣後の和睦に際して、破却されているので、建築資材は新品ではなくても、構わなかった…とは、
もし、おっしゃる通りだとすると、「この後の冬の陣で和睦する事」「その条件に真田丸の破却が入ってる事」を、未だ冬の陣が始まってもいないし真田丸を造ってもいない準備段階で幸村が知っていた事になりますが???
辻褄が合ってないように思いますよ。

投稿: 茶々 | 2012年12月28日 (金) 13時17分

最近、真田丸の絵図が見つかったと聞きました。最近の研究だと従来の「推定位置」とは少し離れた場所にあったと言われていますね。

大河ドラマ真田丸を見ていて思ったんですが、戦国時代に「一族が一致結束した行動」をとると危険であるんですね。最大の理由は一族が全滅するから。
例えば本能寺の変で明智光秀が謀反を起こして、その後の山崎の戦いで返り討ちにあっていたり、関ヶ原の戦いで石田三成が挙兵していますが、戦いの後で2人の一族が全滅したとは聞きません。もしかすると、一族の誰かが反対のスタンスを取って戦後の処罰対象から免れたと思います。それとも一族が結束して対峙しようとしたが一族の意思をまとめきれなかったか?
ああいった番組を見ると「武家は一族が結束していなくてはいけない」という概念がどうしてもあります。
現在、明智光秀や石田三成の末裔と言う人がいます。

投稿: えびすこ | 2016年10月14日 (金) 10時02分

えびすこさん、こんばんは~

大河で注目されて、新発見のような雰囲気を醸し出してますが、絵図が発見されてわかったのは、真田丸の詳細な形であって、場所は、以前から、明星高校のグランド周辺だとされていたと思いますよ。
本文にも書かせていただいている通り、『大坂三郷町絵図』は以前からありましたし、そこにはお寺が明記されていますから…
三光神社が真田丸の跡という話は、いわゆる「伝承」として伝わっていただけで、歴史としての調査によって比定された場所では無かったと思います。

>「一族が一致結束した行動」をとると危険…

おっしゃる通りですね。
このブログでも何度か書かせていただいて、先日の大河の感想>>でも書かせていただいてますが、ドラマに扱われないだけで、戦国では、むしろ、親兄弟が分かれる方が主流だと思います。
血筋と家名を残すのが最大の任務ですから…
【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】>>のページを参照していただければありがたいです。

投稿: 茶々 | 2016年10月15日 (土) 03時59分

お久しぶりです。
体調不良とイタリア旅行とそのトラブルでこちらに来れませんでした。
イタリアに行ってバチカンをいきましたが壮大さに吃驚しました。多分使節団も吃驚したと思います。
ところで真田幸村に関して母からある情報をもらいました。TVでしていたそうですが何でも家康が夏の陣を護っていた家臣達は若者で逃げてしまい家康は幸村に殺され、その後すぐに秀頼と幸村達は鹿児島に逃れて島津の保護にあったそうです。嘘かどうか分かりませんが、今でも真田家の集まりに幸村の子孫が出てきているそうです。鹿児島での隠密を帰れなくさせたのも秀頼と幸村を護るためという話という説もあります。
最後に前の世界史云々の話ですが、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%A1%B0%E4%BA%A1%E5%8F%B2 この本が参考になると思います。他にはあまりあてになりませんが塩野七生のローマ人の物語も参考になると思います。ただし世界史の話、西欧政治史の話なので日本史にあうと思いませんが、私は今回話題になったノーベル文学賞受賞者の一人のモムゼンのローマ史を最近読んでいます。

投稿: non | 2016年10月15日 (土) 15時16分

http://kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20160922000026
この記事をどう思われますか?
オランダ側が書いたのと家康を皇帝と呼んだり、裏切りについても臨場感をあふれていますが本当に家康の傍にいたのでしょうか?
真田丸がありますし、家康は前線まで行っていないので内容を理解できないと思いますが・・・
もし家康側にオランダ人がいたら豊臣側にも西欧人はいたのではと思います。明石全登はカトリックですので・・・
というイタリア渡航前に驚いた記事でした。イタリアで日本関係はバチカンでも見ていません。パスポートを盗まれ二度と行きたくはないですが調査するならばバチカンの美術館などで探してみたいと思います。

投稿: non | 2016年10月15日 (土) 15時34分

nonさん、こんばんは~

京都で放火騒ぎがあったのは日本側の記録にも残っていますし、家康が三浦按針を通じて大筒を買った話も伝えられていたように思います。
また、別のページにも書かせていただいているように、大坂の陣は、当時の日本最大の都市で行われた市街戦ですから、町人たちの話も多く残っていて、町人への聞き取り調査は参考になると思いますよ。

投稿: 茶々 | 2016年10月16日 (日) 02時59分

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