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2013年1月15日 (火)

心やさしき藩主の二本松戦争…丹羽長国

 

明治三十七年(1904年)1月15日、幕末の動乱期に二本松藩主として戊辰戦争を戦った丹羽長国が71歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・

丹羽(にわ)という名を聞いてお解りの通り、あの織田信長に仕えた丹羽長秀(ながひで)(4月16日参照>>)の子孫です。

信長の弔い合戦となった天王山=山崎の合戦(6月13日参照>>)では羽柴(後の豊臣)秀吉とともに明智光秀(あけちみつひで)をを討ち、豊臣政権下でも一目置かれる存在でしたが、息子の長茂(ながしげ)関ヶ原で西軍についたため(8月8日参照>>)丹羽家は、一旦、改易となり、その後、徳川家康から領地を与えられて大名に復帰・・・常陸(ひたち=茨城県)古渡(ふつと)から、陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福島県)白河藩陸奥二本松藩となって江戸時代を生き抜いてきました。

Niwanagakuni600 そんな二本松藩を、安政五年(1858年)、父の隠居にともなって25歳で継いだのが、本日の主役=丹羽長国(にわながくに)さん・・・

安政五年と言えば、あの安政の大獄(10月7日参照>>)が行われる前年・・・まさに動乱の真っただ中に藩主となったわけですが、当の長国は、身体はうまれつき病弱で、性格もおとなしく、とてもじゃないが、そんな動乱に立ち迎えるような人では無かったようです。

もちろん、それは無能なバカ殿という意味ではなく、心やさしく温厚な文人タイプだったという事です。

それを示すかのような逸話が残されています。

病弱で武士らしい鷹狩りなどはほとんどしなかった長国の趣味は、歴史探究&考古学研究だったのですが、雪の多い東北では、冬はもっぱら室内での研究・・・春が来て、ようやく遺跡などの発掘調査を行える状況になるので、長国は、毎年、この時期を心待ちにしていたとか・・・

ある年、やっとその時期が訪れて、ウキウキ気分で発掘調査にレッツゴー!・・・とは言え、なんたって長国は殿様です。

さすがに、自ら土を掘って・・・なんて事はするわけがなく、もっぱら、周辺の農民たちが、その作業に駆り出され、彼らが、なんやかんやってる所を、お殿様が馬に乗ってお出ましになり、その様子を見聞する・・・といった感じだったのですが、

その日は、長国が行く道を、一人の藩士が塞ぎます。

正装して、道のドまん中で平伏した藩士・・・あまりにも下っ端すぎて、長国には、その顔を見ても誰かわかりません。

慌てて、彼をどけようとする従者・・・「何事や!」と驚く長国・・・

すると、その藩士は・・・
「恐れながら・・・殿様は、ご自分の楽しみのために、どれだけ多くの領民が困惑しているかをご存じですか?」
と、尋ねたのです。

つまり・・・
春が来れば、農民たちは農業を始めなくちゃならない・・・その時期に、こうして発掘調査に狩り出される事は、「本当は迷惑なのだ」という事です。

普通なら、「家臣のくせに、何を言っとるか!無礼な!」ってなるとこですが・・・

長国は
「それは知らなんだ・・・良い事を教えてくれた。予はうかつだった」
と言って、その後、2度と農繁期に発掘調査を行う事は無かったのだとか・・・

この心やさしき藩主の事は、周囲の家臣たちも重々承知でしたから、政務や軍事の事は、ほとんど家老や重臣たちが行い、病弱な殿様の手をわずらわす事は無かったわけですが、それでいて、藩主をないがしろにするという事もなく、信頼と尊敬の中に、二本松藩はあったようです。

しかし、ご存じのように、揺れ動く幕末の動乱・・・慶応三年(1867年)10月14日に大政奉還がなされ(10月14日参照>>)、続く12月には王政復古の大号令が発せられ(12月8日参照>>)、翌年の1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)での幕府の敗北(1月9日参照>>)を受けて、3月に行われた新政府軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟との会談(3月14日参照>>)で、4月11日の江戸城無血開城が決定し、戦場は北へと移動するのです。

・・・で、これまでも何度か書かせていただいているように、この時、多くの藩は戦わずして、あるいは形だけの抵抗だけを見せて、北へ向かう新政府軍の傘下となって行くわけですが、これに真っ向から挑むのが東北の諸藩です。

それこそ、各藩の思惑はそれぞれで、その参加の動機はひとくくりにはできない物ではありますが、そもそもは新政府が朝敵(ちょうてき=国家の敵)とみなす会津藩(福島県西部)庄内藩(山形県庄内地方)の許しを、近隣の藩の合同で嘆願するために、東北の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(4月25日参照>>)・・・これが、そのまま新政府と戦う同盟となります。

ご存じのように、この東北での戊辰戦争は、最終的には、今年の大河の主役である山本八重(新島八重)が活躍する会津戦争へと向かう(5月1日参照>>)わけですが、その前に「敵対勢力に我が城下を素通りさせてはならぬ!」底抗戦に出たのが二本松藩なのです。

「武士の名誉にかけても、全藩あげて死力を尽くして戦いたいと思います」
この、家老たちの決意を聞いた長国は、
「君らが、そう決めてんやったら、それでええ!!僕も城を守って死ぬだけや」
と言ったと言います。

心やさしき藩主としては一世一代の決意であった事でしょう。

かくして、慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、新政府軍の猛攻撃を受けた二本松城(福島県二本松市)は、大半の兵士が他の城への援軍として出ていたため、わずかの兵だけが守る状況となり、二本松少年隊と称される若者たちを含む250名ほどの戦死者を出して陥落するのです。

戦いの詳細については、また、いずれ書かせていただきたいと思っておりますが、今年注目の会津戦争も悲惨なれど、この二本松戦争も・・・なんせ、この二本松少年隊というのは、あの白虎隊(6月23日参照>>)よりも年少の12~3歳の少年たちだったと言いますから・・・

この時、長国は、最初の決意通り、城とともに死ぬ事を希望しますが、それを止めたのは家臣たち・・・そう、実は、この時、長国には、まだ後継ぎがいなかったのです。

江戸時代のならいとして、後継ぎがいないまま藩主が死んだら、その藩はお取り潰し・断絶するは必至・・・「ここは何としてでも命つないでください」と、最終的には、しぶる長国を布団ごとくるんで駕籠に押し込め、同盟国である米沢藩(山形県南部)に向け、脱出させたのだとか・・・

この時、藩主を脱出させ、自らは城と運命をともにした家老の丹羽一学(いちがく=富穀)は、
♪風に散る 霞の我が身は 厭(いと)わねど
  心にかかる 君の行く末 ♪

と、ここに来てもなお、自分の命より長国の行く末を案じた辞世を残しています。

こうして、結果的に、全藩兵の6分の1にも及ぶ死者を出して二本松戦争は終わりました。

その後、長国が隠居して、家督を養子の長裕(ながひろ)に譲る事で、何とか家名は存続しましたが、その領地の半分以上を没収され、二本松藩と長国は明治の世を迎える事になります。

それから約60年・・・明治三十七年(1904年)1月15日に、長国はその生涯を閉じますが、おそらく、心やさしき藩主の心中には、あの日、城とともに散って行った戦士たちの姿が焼きついていた事でしょう。
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コメント

茶々さまはじめまして。
最近このブログを発見して、その豊富な知識に圧倒され、すっかりファンになってしまいました。
二本松少年隊は知っていましたが、丹羽長国さん・・・存知あげませんでした。
お写真を見ても本当にかわいらしいおじいちゃまですね。お人柄がしのばれます。
歳は会津の容保公とほぼ同年代ですか。病弱で文人肌、優しいお殿様なところもキャラ的にちょっと似ているような気がしました。
大河には・・・出ませんよね・・・

投稿: きょちゃ  | 2013年1月21日 (月) 19時03分

きょちゃさん、はじめまして…

そうですね。。。何となく容保公と似ているかもですね。

>大河には・・・

どうでしょうね?
本文にも書いた通り、新政府軍が会津に入る時に、この二本松城を落としてから向かうので、ひょっとして…とも思いますが、やはり主役は会津なので、あまりスポットは当たらないかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2013年1月22日 (火) 00時00分

でも長国さまは「水戸討伐?いや、それはマズイでしょ?」で強烈に存在感をアピールして墓穴を掘ってしまった容保公とは違って、もし同じような場面に遭遇しても最後まで空気になってやりすごせる人だと思いますが。
しかし幕末になると病弱な殿様やお姫様がすごく多いんですね。夭折するお世継ぎもたくさんいたみたいだし・・・

投稿: きょちゃ  | 2013年1月22日 (火) 07時10分

きょちゃさん、こんにちは~

>幕末になると病弱な殿様やお姫様がすごく多い…

そうですね。
そもそも、母体そのものが、箱入りで育ったお姫様なので、健康とは言い難い中で、生まれて来る子供も特別な環境で育ちますし、幕末の頃になると、それが何代も続いた後ですからね。
11代将軍の家斉は、将軍史上最高の50人の子供をもうけましたが、そのうち成人した人は半数もいませんもんね~
よほど、特別な世界だったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年1月22日 (火) 15時18分

どうしても、戊辰戦争というと会津や函館ばっかりを思い浮かべがちですが、たくさんのお城で戦いがあったんですね。
二本松も少年隊の話をちろっと聞いた程度でしたが、多くの命が犠牲になったのかと改めて思いました。そして少年たち戦前に立つということはそれだけ、多くの本来戦前に出る大人が亡くなったのだと感じました。

長国さんはきっと平安な時代だったら、と思わずにはいられないです。しかし、丹羽家はてっきり改易になったままだとばかり考えていましたが、明治まで存続していたのですね。びっくりしました!

投稿: ティッキー | 2013年1月23日 (水) 21時55分

ティッキーさん、こんばんは~

ホントですね~
女子供が出陣するのは、まさに最後の最後…それ以前に沢山の戦いがあった事を象徴してます。。。

多くの犠牲があっての明治維新である事を忘れてはなりませんね。

投稿: 茶々 | 2013年1月24日 (木) 01時49分

他のブログでは、藩士は決死で抵抗したのに殿様は(鳥羽伏見の慶喜のように)逃亡を図ったやに書かれたものが多く、この殿様も卑怯の人のような印象を受け、本当のところはどうだったのか疑問でした。
このブログでそういう事もあり得るなと納得。
多くのブログや書物は、この「何故」という点にまで掘り下げず、書き散らしているものが多い。
そういう点で大変良いブログと思います。

投稿: 音好き | 2015年9月22日 (火) 15時18分

音好きさん、こんばんは~

そうですね。
激しい戦いでほとんどの人が亡くなってる中で、藩主が脱出して生きていれば、そんな噂が流れたりもするのでしょうね。

しかし、私としては、長国さんに男子がいなかった事は事実ですし、二本松戦争の時点では養子もいませんし、そのまま藩主が死ねば「家が断絶する」と家臣たちが考えるのは当然ですから、長国の脱出は、家臣たちの願いであったと思います。
何より、丹羽一学の辞世が、それを物語っていると思います。

投稿: 茶々 | 2015年9月23日 (水) 02時04分

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