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2013年1月24日 (木)

道三を驚かせた?若き信長の村木城(砦)の戦い

 

天文二十三年(1554年)1月24日、織田信長が今川方の尾張村木城(砦)を落としました。

・・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、地理的に、美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(どうさん)と、遠江駿河(とおとうみ&するが=静岡県西部)今川義元(よしもと)に挟まれる形だった現在の愛知県・・・

そんな愛知県の西部が尾張(おわり)で東部が三河(みかわ)・・・で、戦国時代の常として、ここらへんでの境界線を巡っての抗争が絶えなかったわけですが、両者とも未だ弱小・・・
小豆坂の戦い>>井ノ口の戦い>>を参照

国内統一すらできていなかった尾張の織田信秀(のぶひで)は、天文十六年(1547年)9月の加納口の戦い(9月22日参照>>)の後、道三との戦いを一旦休止して、自らの息子=信長と道三の娘=帰蝶(濃姫)(2月24日参照>>)結婚の実現させて同盟を結び、生き残りを図ります。

一方の三河の松平広忠(ひろただ)も、自らの息子=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)人質として義元に差し出し、今川の傘下となって生き残りを図ります。
(実際には、竹千代は織田に奪われます:8月2日参照>>

・・・で、こうなると、その境界線争いの構図は、「織田VS今川&松平連合軍」が主流となる(11月6日参照>>)わけですが・・・

そんなこんなの天文二十年(1551年)・・・信秀が病死して、当時18歳の信長が後を継ぎます。

その後、天文二十二年(1553年)閏1月には、信長の(もり)だった平手政秀(ひらてまさひで)が切腹する(1月13日参照>>)という一件がありながらも、同じ年の4月には、あのドラマでの名シーンの道三との会見をこなし・・・

・・・と、そんな中、駿河の義元は、織田に属する重原城(愛知県知立市)山岡伝五郎を攻めた後、尾張進攻の前線基地として村木城(愛知県知多郡東浦町=村木砦とも)を築き、水野金吾(家康の母:於大の方の弟の水野忠分と思われる)緒川城(小河城=同じく東浦町)に狙いを定めます。

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(このイラストはそれぞれの城の位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の信長の居城は那古野城(愛知県名古屋市中区)・・・村木城は、完全に、那古野城と緒川城との連絡路を遮断する位置に構築されたのです。

この状況に、織田方だった寺本城(愛知県知多市)人質を差し出して今川方に寝返り・・・

当然の事ながら、かの村木城をぶっ潰すべく、出陣を決意する信長ですが、先に書いた通り、現段階では尾張国内にも敵がいっぱい・・・自分が留守にしている間に、清州城(愛知県清洲市)織田信友(のぶとも=尾張下四郡の守護代:11月26日の前半部分参照>>那古野城を攻めて来る事を警戒した信長は、舅である道三に援軍の派遣を依頼します。

これを受けた道三は、すぐさま、配下の安藤守就(もりなり)1000の兵をつけて派遣・・・さらに田宮甲山安斎熊沢物取新五という5人の武将にも、「合戦の一部始終を報告するように…」との命令を授けて、信長のもとに送り出しました。

天文二十三年(1554年)1月20日、安藤らに面会した信長は、大いに喜び、翌日の1月21日に出陣する事を決定しますが、ここで、織田家の家臣である林秀貞(ひでさだ)林通具(みちとも)の兄弟が、なぜか猛反対して、与力である前田与十郎(種定)の城へと戻ってしまいます。

まぁ、この兄弟・・・後に柴田勝家(かついえ)と結託して、信長の弟=信行(11月2日参照>>)当主とすべく動く人たちなので、何となく、信長とウマが合わなかったのかも・・・

とは言え、重臣が、戦わずして戻ってしまった事に、城内は騒然となるのですが、さすがは信長さん・・・「別にええやん」慌てず騒がず、そのままご出陣・・・

・・・で、上記の通り、緒川城への連絡路を塞がれてしまっているので、信長は、海路にて緒川城へと向かい、緒川城側・・・つまり村木城を背後から攻める作戦を計画し、熱田に一泊した後、1月22日に出港する手はずとなっていたのですが・・・

これが、朝起きてみると、この日はトンデモな強風・・・とてもじゃないが船を出せる天候とは言い難く、地元で雇った船頭や水夫たちは、こぞって船出に反対します。

すると信長・・・
「昔の渡辺、福島にて逆櫓(さかろ)を争ふ時の風も、是れ程こそ候えめ」と言った(『信長公記』より)と・・・

そう、あの源平合戦の時の、屋島の戦いに向かう源義経(みなもとのよしつね)梶原景時(かじわらかげとき)の、あの一件です(2月16日参照>>)

屋島に陣取る平家軍を奇襲すべく、義経は、猛反対する景時や船頭たちにナイショで、わずか5隻の船で、嵐の海を四国へと渡海し、見事、奇襲を成功させる・・

「あの時かって、こんな風が吹いとったやろ…せやから、ゴチャゴチャ言わんと、船、出せや!」
というわけです。

こうして半強制的な船出となりましたが、無事、緒川城の近くに到着・・・その後、緒川城に入って水野と会って最新の状況を聞き、いよいよ決戦の時を迎えます。

天文二十三年(1554年)1月24日明け方に出陣した信長は、午前8時頃から村木城に攻めかかります。

この村木城は、北は手薄なれど天然の要害、東が大手、西が搦手(からめて)となっており、南側に大きな堀を備えています。

信長は、自ら、最も攻め難き南に陣取り、若手の精鋭を堀端にとりつかせてゲキを飛ばせば、血気盛んな若者たちが、我先にと堀端を上り、落とされては、また上り・・・その間に、3隊に分けた鉄砲隊で、入れ代わり立ち代わりの援護射撃・・・

一方では西の搦手を織田信光、東の大手を水野金吾が攻めます。

この戦いでは、織田方にも多くの死者を出したと言いますが、もちろん、それ以上に敵のダメージは大きく、夕方頃には、もはや敵兵もまばらとなった事から、信長は、この後の事を水野に任せて、自らは引き揚げました。

結局、午後4時半頃には戦闘は終了・・・織田軍の勝利となりました。

翌日、今回の一件で寝返った寺本城下に、手勢を派遣して火を放った後、那古野城に帰還・・・

その後、美濃へと帰還した安藤らは、使命を受けた通り、今回の合戦の一部始終を道三に報告するわけですが・・・

その様子を聞いた道三・・・
「すざまじいやっちゃな…そんなヤツと隣人やとは!」
と言ったとか・・・

信長を、一気に全国ネットに押し上げる桶狭間は、この数年先(5月19日参照>>)・・・未来を予感させるような、信長=21歳の時の合戦でした。
 .

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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは

私の中で、若き日の信長さんと斎藤道三さんのコンビといえば、真っ先に思い浮かぶのは、大河ドラマ「国盗り物語」です。

そして、濃姫さんといえば、若き日の松坂慶子さんの姿です。
本当にお綺麗でした(^O^)
過去の記事を読んで、濃姫さんが晩年、文献にはほとんど出て来ず、暗殺説まである事を知ってビックリ(*_*)

私は本能寺の変で、信長さんと共に亡くなられたとばかり思っていましたので。
本能寺の炎の中、勇ましく長刀を奮い、最期は背中を槍で刺され、苦しい息の下、信長さんの事を想い「殿!」と呟き息を引き取った濃姫さんこと松坂さんの姿が 今でも強く私の中に残っています
(>_<)

…ので、私も信長さんと濃姫さんが最期まで、愛情を持ち続けていたと想いたいですね。

茶々さんが「国盗り物語」の事を書いて下さっていて、とても嬉しかったです( 〃▽〃)
私も、濃姫さんが輿入れの時、父道三さんに言った言葉が大好きでした。
(13才位の女の子が本当にそんな事言ったとは思えませんが)

後、傅役の平手さんが切腹されましたが、私が知る限りで切腹した一番古い方は平手さんです。
切腹の歴史について、いつから、どうやって始まったのか?一番初めに切腹された方の名前等、教えて頂けたら幸いです。[変なお願いをしてしまいスミマセン(>_<)]

長文失礼しましたm(__)m

投稿: 伊集院みちこ | 2013年2月 1日 (金) 00時52分

伊集院みちこさん、こんばんは~

ホント若き日の松坂慶子さんキレイでしたね~
それこそ、子供ごごろに「こんなキレイな人が世の中にいるのか!」と思うくらいキレイでした。(今もキレイです)

ところで、切腹のお話ですが…
5年以上も前の記事になって恐縮ですが、2007年7月23日のページ>>で書かせていただいています。

そこにも書きましたが、文献に残る最古は『播磨風土記』の淡海神で、武士の切腹としての最初は保元の乱で敗れた源為朝(3月6日参照>>)というのが一般的です。

ただ、そのページの切腹という行為の意味に関しての記述は私見が入っていますので、あくまで諸説あるうちの一つ、「そうかも知れない」程度の話としてご覧いただけたらウレシイです。

投稿: 茶々 | 2013年2月 1日 (金) 03時11分

茶々さん、コメントありがとうございます。

過去の記事を調べもしないで失礼しましたm(__)m

切腹は、武士の専売特許だとばかり思っていましたが、ルーツは遥か古代までさかのぼるかも知れないのですね。そして、その意味合いも違っていたのですね。

また、武士で最初に切腹した源為朝さんは平安末期の方、随分古くから切腹されていたのですね。

スッキリしました。ありがとうございました(^O^)

投稿: 伊集院みちこ | 2013年2月 1日 (金) 11時04分

伊集院みちこさん、こんにちは~

>過去の記事を…

いえいえ、ページ数も多いですから…
人物名や日づけがわかっている出来事なら、見つけやすいかも知れませんが、そうでない「単語」の場合は、見つけ難いと思います。

特に、今回のは、ぜんぜん関係無い日づけでupした記事ですので…

投稿: 茶々 | 2013年2月 1日 (金) 15時28分

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