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2013年1月27日 (日)

謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期

 

建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。

・・・・・・・・・

とは言え、この源実朝暗殺事件・・・

父=源頼朝が開いた鎌倉幕府を受け継いだ第3代将軍である源実朝(みなもとのさねとも)が、建保七年(1219年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した時に、公暁(くぎょう)という人物に襲われて死去・・・

犯人=公暁は、前将軍であった実朝の兄・頼家(よりいえ)の息子で、父も(7月18日参照>>)、そして兄(10月15日参照>>)や弟もが北条氏によって殺された事への恨みとともに、自らが新将軍の座につきたいという野望を以って犯行に及んだものの、有力御家人の三浦義村(よしむら)の放った追手によって、その日のうちに殺害される・・・というのが、一般的に言われている、事件のおおまかな経緯。

このブログでは2008年と2009年の
【迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎】>>
【将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2】>>
と、内容かぶりながらも、2度に渡って書かせていただいているので、くわしくは、ソチラのページで見ていただけるとありがたいのですが、本日は、その捕捉として、複数の文献に残るお話をご紹介させていただきます、

Minamotonosanetomo600 そもそも、一国の将軍ともあろう人が、公卿の居並ぶ前で暗殺されたにも関わらず、なぜに、謎が多いのか??

もともと、恨みと野望による犯行とする、上記のおおまかな経緯というのも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)によるところが大きいわけですが、その『吾妻鏡』は、幕府の公式記録であるがゆえに、「北条家の悪口は一切書かない」という方針であるため、その内容を丸々信用するわけにはいかないところへ持ってきて、他の文献には微妙に違った事が書いてある・・・

公暁の最期の場面に関しては、『吾妻鏡』も、そして『吾妻鏡』より信憑性があると言われている『愚管抄(ぐかんしょう)でも、犯行後の公暁が、「今日から、俺が将軍や!準備して迎えに来いや」という内容の手紙を三浦義村に送り、なかなか来ない迎えにしびれを切らして三浦邸へ逃げ込もうと、屋敷の塀を登ったところで追手に襲われて長尾定景(さだかげ)に討ち取られたとありますので、今のところ、それが正史であろうと言われているわけですが・・・

しかし、その『吾妻鏡』でさえ、討ち取った公暁の首を、北条義時(よしとき)邸にて首実検する際、息子の泰時(やすとき)
「我れ、いまだ公暁殿の面(おもて)を見奉ることなし。なを疑胎(ぎたい)あり」=(首が)本物がどうかワカラン」
という発言をしているのです。

他にも・・・
『保暦間記(ほうりゃくかんき)では、三浦邸に逃げて来た公暁を、義村自身が刺殺した事になっているのと、『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)では、公暁は三浦邸には行かず、大臣山に逃げ込んだものの、大雪のために道に迷い、山中をさ迷っているところを長尾定景に討たれたとなっています。

まぁ、それでも、ここらへんまでは、あくまで微妙な違いで、なんとなく許容範囲なわけですが、同じ『保暦間記』には、別の説として「八幡宮山にて餓死した」という説がある事を書いています。

また、別の『承久記(じょうきゅうき)には、逃走中に、大雪のために山から転げ落ち、あるお屋敷の門の下に身を寄せていたところ家主に盗賊と勘違いされて殺され、遺体が犬の群れに噛み散らされたとありますが、またまた、そこでも別の説として、「なんだかんだで結局は行方不明」みたいな事も書かれています。

そんな曖昧な最期を裏付けるかのように、公暁のお墓という物は、未だ見つかっておりませんし、葬儀らしき物が行われた記録もありません。

「見つかっていない」と言えば、暗殺後に肌身離さず公暁が持っていたはずの実朝の首も見つかっていないのです。

冒頭に書かせていただいた通り、時の将軍ですよ!
その首が見つからないまま・・・って、、、

犯人の公暁だって、なんだかんだで将軍家の血筋を引き継ぐ人なわけですし、何たって北条政子の孫・・・なんだか、事件の終わり方が、とても不可解です。

しかも、どうやら、この不可解さは、文献の微妙な違いによって現在人が感じる不可解さではなく、事件当時からあった不可解・・・

なんせ、嘉録二年(1226年)には陸奥国白河関(福島県)「我こそ公暁!」と名乗る者が現われ、結城朝広(ゆうきともひろ)なる人物が討ち取ったと言われているのです。

結局は、捕えてみればニセモノだったようですが、嘉録二年(1226年)と言えば、この暗殺劇から、まだ7年しか経っていません。

そんな時期に、ニセモノとは言え公暁と名乗る者が現われて謀反を企て、幕府側でも「ひょっとしたら」と思うという事は、やはり、この将軍暗殺事件が未解決であったからではないでしょうか?

『吾妻鏡』が言うように、この事件が、北条家に恨みを持ち、自らが将軍になろうとした公暁による私利私欲の単独犯で、犯人が、すぐさま捕えられて殺害されたのだとしたら、不可解な事など何も無いはずですからね~

建保七年(1219年)1月27日28歳の若さで暗殺された将軍・実朝・・・
そして同じ日に、20歳で死んだ実行犯とされる公暁・・・やはり、二人ともが被害者のような、違和感の残る事件ですね。
 .

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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

ども
以前に鎌倉を訪れた際、やはり頼朝のお墓に参拝しとかねば、と行ってみたのですが。
第一印象は、こんなんでエエんかいな…? と思ってしまいました。
(鎌倉ではこの位の墓が立派なのかも…)
この時代の鎌倉は武力闘争オンパレード…。(今でも遺骨が出るようで)
政権内にここまでの殺戮を繰り返す時代は鎌倉以外に無いと思うのですが…
雅とは違う、「詫び寂び」を感じる哀しい土地だと感じました。
茶々様の鎌倉の印象はどないでしょうか…?
では

投稿: azuking | 2013年1月27日 (日) 23時51分

azukingさん、こんばんは~

残念ながら、私…鎌倉は小学生の時に行ったっきりで、詫び寂びや雅を感じれる年齢では…というより記憶もまばらです。

鎌倉幕府って、文化の違いと言うか…何か、特殊な政権だったような印象があります。

曖昧な印象ですが…
初めての武士政権だったからですかね?

投稿: 茶々 | 2013年1月28日 (月) 03時05分

何だか不可解…^^;
謎は謎のままに~でしょうか!?

昨年旅した鎌倉を懐かしく思い出しました。
大きな戦があったからかどことなく侘しく
著名な墓地も多々あり感慨深く
それでも趣ある古都でしたね。
またゆっくり訪ねてみたいものです^^

投稿: tonton | 2013年1月28日 (月) 08時13分

tontonさん、こんにちは~

先に書いた通り、私も、ほとんど鎌倉の記憶が無いので、行ってみたいです~
京都とは、また違った雰囲気なのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年1月28日 (月) 13時13分

大銀杏の下で殺害された、と唱歌にも歌われている、その鎌倉八幡宮の大銀杏が根元の方から折れてしまったのは、あの、3,11 の丁度一年前でした。
将軍が不遇な甥っ子に討たれてしまう、という、平安時代の尾を引いているような、ちょっと、怨念めいた事件があった、そういう場所って、やっぱり、何か、あるのではないでしょうか。
・・・その、倒れた銀杏の木から接木か何かをして、既に、若木が活きているそうですが、それは、やっぱり、怨念も引き継がれている、ということにはならないでしょうか。。。

投稿: 五節句 | 2013年1月29日 (火) 18時08分

五節句さん、こんばんは~

怨念ですか…(゚ー゚;

怨念というよりは、もはやあきらめていた木から新芽が息吹く、自然の強さを感じていましたが…

投稿: 茶々 | 2013年1月30日 (水) 01時48分

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