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2013年2月28日 (木)

足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い

 

正平七年・文和元年(1352年)閏2月28日、先の小手指原の戦いで決着がつかなった新田義宗と足利尊氏が激突した笛吹峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・

とりあえず、おさらいしときますと・・・
鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)反発した足利尊氏(あしかがたかうじ・高氏)が反旗をひるがえして京都に攻め込み(6月30日参照>>)、京都にて室町幕府を開いたのが北朝・・・

一方、京都を追われた後醍醐天皇が吉野で開いたのが南朝・・・(12月12日参照>>)

・・・で、ご存じのように、おおむね北朝優位で展開する南北朝時代ですが、そんなこんなの正平五年・観応元年(1350年)の観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>) が起こって、北朝が内部分裂・・・

分裂した弟の直義(ただよし討伐のために、尊氏が関東に行ってるスキに、これを「チャンス!」と見た、今は亡き後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇が、京都の留守を守る尊氏の息子=義詮(よしあきら偽りの和睦を申し出て挙兵・・・(3月24日参照>>)

一方、尊氏のいる関東でも、今は亡き新田義貞(にったよしさだ)の息子である新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)兄弟が挙兵します。

これを尊氏が迎え撃ったのが、先日ご紹介した正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日の武蔵野小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)の戦い(2月20日参照>>)だったわけですが・・・

そのページに書かせていただいたように、義宗軍が尊氏を蹴散らすものの、別隊の義興らは本隊とはぐれ・・・しかし、決死の覚悟で挑んだ鎌倉攻めで鎌倉公方足利基氏(もとうじ=尊氏の四男)を敗走させる事に成功し、鎌倉を制圧・・・

一方、義興らの行動を知らない義宗は、逃げた尊氏を深追いする事無く、笛吹峠(ふえふきとうげ=埼玉県比企郡嵐山町)に陣を構えて、はぐれた義興らの到着を待つ事にしました。

Asikagatakauzi600 その様子を伝え聞いた尊氏・・・
一旦は石浜(東京都台東区あたり?)に撤退するも、即座に態勢を立て直して、すぐさま笛吹峠へ向かいます。

もちろん、そこには尊氏の敗戦を聞いて駆けつけた新手の軍も加わって・・・

一方、その頃には、笛吹峠に陣取った義宗のもとに、宗良親王(むねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)を奉じた上杉憲顕(うえすぎのりあき)の軍という強い味方も到着しますが、なんだかんだで義興らの軍とは、未だはぐれたまま・・・

その、未だ準備整わないところに、態勢を立て直した尊氏が襲いかかるのです。

正平七年・文和元年(1352年)閏2月28日・・・笛吹峠に押し寄せた尊氏率いる大軍は、巧みな戦法を駆使して一気に攻めかかり、戦況を優位に進めます。

・・・と、ここに長尾弾正(ながおだんじょう)根津小次郎(ねづこじろう)という二人の勇士がいました。

ともに上杉憲顕配下の彼らは、分の悪い上杉・新田連合軍を何とか盛り返そうと一策を講じます。

それは、足利軍の兵に変装して、二人だけで敵軍に紛れ込み、「尊氏のみを討ってしまおう」という作戦・・・

二人ともに、その目印を二引両(足利家の家紋)につけ替え、長尾弾正は髪をザンバラにふり乱して顔を隠し、根津小次郎は自らの刀で額を突き指して、その流れる血で人相を変え、討ち取った敵の首を刀の鋩(きっさき)につけての突入・・・

途中、「誰の手勢か?」と怪しまれた時には、「新田一族の大物を仕留めたので、御前で首実検をして確かめてもらいたい!将軍はどこにおられるか~」と、さも「討ち取ったり~!」と言わんばかりに高々と掲げます。

「おめでとう!!」と祝福する兵が「あちらに…」と指さす場所を確認すると、そこは、もはや弓なら完全に射程距離に収めたほどの近い距離・・・二人は、そっと目くばせをし、悠々と近づいて行きました。

尊氏、万事休す・・・

ところが、尊氏の運は、まだ尽きていませんでした。

尊氏の配下の中に、彼ら二人の顔を見知っていた者がいたのです。

「そこ!味方にまぎれて将軍に近づく武士は長尾弾正と根津小次郎や!皆、騙されんな!」
と、大声で叫びました。

すぐさま、尊氏を守るべく、300騎余りが左右から駆け付け、二人と尊氏の間に割って入ります。

こうなれば、もはや計画は遂行できません。

太刀の先で貫いた例の首をその場に投げ捨て、ふり乱した髪をかきあげ、敵陣に突入します。

さすがは名うての勇者二人・・・向って来る者をバッタバッタと斬り倒し、兜も鎧も真っ二つ!!

とは言え、いかんせん、彼らはたった二人・・・あっちこっちから攻められるわ、雨あられのような矢は飛んで来るわで、さすがに、これ以上は何ともできません。

やむなく撤退する二人は、尊氏に向かって
「ホンマ!お前は悪運の強いやっちゃで!」
と、声高らかに捨ゼリフを残して、上杉の陣営に戻っていったのでした。
(…って、この状況で、無事に戻っていける物なのか??)

結局、この日の戦いは、足利優勢のまま日暮れとなるのですが、夜が更けるにつれて、両者の陣営のかがり火が、一つ、また一つと着いていきます。

そう、笛吹峠に陣取る新田軍のかがり火のポツポツ感に比べ、峠を囲むように陣取る足利軍のかがり火は煌々と燃えるばかり・・・

それを見て
「これやったら、明日も、また負け戦か…」
と、気落ちする上杉憲顕・・・

結局、上杉軍はかがり火を捨て、信濃(長野県)へと撤退を開始・・・これを受けた義宗ら新田軍も、早々に越後(新潟県)への撤退を開始しました。

さらに、これらの状況を聞きつけた上総(千葉県中部)下総(千葉県北部)の武将たちが援軍として駆けつけ、いつしか尊氏の軍は80万騎(太平記の言い分です)膨れ上がります。

・・・で、この大軍の一報を聞きつけた鎌倉の義興らも、続く3月4日、やむなく、戦わずして鎌倉を放棄する事とし、国府津山(こくふつやま=小田原?)まで撤退し、そこに籠って再起のチャンスを計る事としたのです。

ただし・・・
残念ながら、義興は、この6年後に、合戦ではなく、騙し討ちでこの世を去る事になるのですが、そのお話は【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】のページでどうぞ>>
 .

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2013年2月26日 (火)

「二・二六事件」で暗殺された高橋是清

 

昭和十一年(1936年)2月26日、世に『二・二六事件』と言われる皇道派の青年将校たちによる反乱事件高橋是清が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

『二・二六事件』の詳細については、5年も前の記事で恐縮ですが【2008年2月26日のページ】>>でご覧いただくとして、本日は、それで命を落とした大蔵大臣高橋是清(これきよ)について・・・

ちなみに、そのページでも書かせていただいたように、首相の岡田啓介(おかだけいすけ)は何とか難を逃れています。

Takahasikotekiyo600 高橋是清は、この岡田内閣で、実に7回目の大蔵大臣に就任していた人物で、特に昭和四年(1929年)から始まった世界恐慌では、混乱する日本経済をいち早くデフレから脱却させる事に成功・・・
 .

この、
「恐慌の影響を受けた世界の中で、日本が最も早く復活した」事は大変評価が高く、今現在でも、「平成の高橋是清」の出現を熱望する声も少なくありません。

とにかく、悪い評判をあまり聞かない是清さん・・・

その根底にあるのは、若い頃から苦労して、何度も挫折を味わいながらも、その都度、自分自身の力で立ちあがる・・・それでいて、そこには自分本位の身勝手さはなく、常に、自分の事は置いといて、仕事の本位を最優先して取り組んだ姿勢にあるのです。

13歳でのアメリカ留学で、現地の人に騙されて奴隷として売られてしまった事・・・

ペルー銀山の経営に失敗して、家も名誉も失ってしまった事・・・

意に反して復帰した政界でのゴタゴタ・・・

さらに、途中、校長を務めた共立学校(現在の開成高校)時代では、あの『坂の上の雲』の中で、秋山真之(あきやまさねゆき)正岡子規(まさおかしき)の恩師として登場してますね。

それこそ、それらの逸話に関しては、いずれ個々の日づけにて書かせていただくつもりではありますが、とにかく、弱きを助け強きを挫く、国民優先の政策をした人物として、現役当時でも人気が高かったと言います。

でも、それなら・・・
なぜに、そんな人気の高い敏腕な人物が暗殺されなければならなかったのか???

実は、それも経済対策がらみ・・・

かの世界恐慌からの復活の後の昭和十年(1935年)、財政再建の一環として、公債漸減(こうさいぜんげん)をうちだして、軍事費を削ろうとしたのです。

当然の事ながら、それは職業軍人が職を失う事になるわけで、青年将校たちの反発をかったというわけです。

昭和十一年(1936年)2月26日・・・その日、
寒さに弱い是清は、寝巻の上に綿入りのチャンチャンコを着こみ、布団に入って寝ていたと言います。

目撃者の証言に、
「掛け布団をはがされるまで眠っていた」
というのと、
「彼らが入って来た時点で起きていた」
という喰い違いがあるようですが、

とにかく、是清の寝室に侵入したのは、中橋基明(なかはしもとあき)中尉中島莞爾(なかじまかんじ)少尉の2名で、中橋が「天誅(てんちゅう)!」と叫ぶと、是清が「馬鹿者!」とどなり返したとの事・・・

しかし、もはや、その状況ではどうしようもなく、銃で撃たれて倒れたところを刀で斬りつけられ、82歳の生涯を閉じたのです。

遺族の証言によれば、それは、すでに銃にて死んでいる者に対して、さらに幾度も太刀を浴びせるという残酷なものだったようですが・・・

それほど評判の良い人物が、このような最期を迎える事は何とも悲しい限りですが、それこそ、何度もの挫折にめげず、自らの努力で、その度に這いあがって来た是清さんの事を思えば、後世の人間としては、その生き方こそがすばらしい教材・・・

彼は、幼い頃、養祖母に
「おまえは運の良い子じゃ」
と、何かにつけて言われて育ったと言います。

そして、それは、自身が窮地に立った時、
「自分は運が良いのだから、絶対に乗り越えられる」
と、頑張りの原動力になっていたとの事・・・

そう、日本という国は、運が良い国です。

帝国からの侵略の時には神風が吹き、幕末の動乱に外国に侵攻される事もなく、未曽有の敗戦から、その努力で見事な経済大国に成長させたのです。

きっと、この先も・・・
乗り越えられるに違いないと、是清さんが教えてくれているような気がします。
 .

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2013年2月25日 (月)

天智天皇の読み方~「てんち」?「てんじ」?

 

先日upした【長屋王の邸宅跡の木簡発見で…】のページ(2月12日参照>>) で、いつもコメントをいただいているtontonさんから、このような疑問をいただきました。

「タイトルとは関係ないけれど
やっぱり気になるのでお伺いです。
「天智天皇」普通に読むなら「てんち…」と読むし
今までそう信じてきていたのですが
最近目にする読み方は「てんじ…」なんですよね。
どちらでもよいように書かれているものもありますが
正直私は??なんです^^;」

そのお返事にも書かせていただいた通り、私も、学校では「てんち」と習った記憶があるのですが、最近の歴史ドキュメンタリーなどで「てんじ」と発音されているうえに、PCで変換する時に、「てんちてんのう」だと「天地」が出て来ますが、「てんじ」だと1発で「天智」と変換されるので、最近はそうなのかな?と、今のところ、このブログでは「てんじ」というふりがなにさせていただいてます。

結局、今の段階では、世間一般では「てんち」でも「てんじ」でも良いような感じになってるようですが、実は、こういう、曖昧な感じが、この日本には意外に多くあります。

この「日本」という国名さえそう・・・

以前、別のページでもコメントさせていただきましたが、「日本」と書いて、「ニホン」と読むのか?「ニッポン」と読むのかが、実は、「決まっていない」&「どちらでも良い」のです。

江戸時代に日本を訪れた外国人が、「日本」と書いて何と読んでいるのかを巷の人々に聞いて、その発音をアルファベットで書き残しているらしい(それが「日本」の発音に関する最古の記録だそうです)のですが、それによると、
「ニホン」の人もいれば「ニッポン」の人もいて、さらに、変わったところでは「ニフォン」と言う人や「ジフォン」という人などもいたそうです。

結局、昔の人が「ニホン」と言ってたか「ニッポン」と言ってたかがわからないのだからどちらでも良いというのが、今の政府の見解だそうですが、「自国の呼び方が決まっていない国」というのは、世界に類をみないのだそう・・・でも、私、個人的には、事、歴史に関しては、そんな曖昧な感じが好きだったりします。

だって、自分自身はもちろん、現在生きている人の誰一人として、実際に見た事も聞いた事も無い物を、「私はこう思うから、それが正しい見解で、あなたは間違ってる!」なんて事は、私としては口が裂けても言えません。

このブログを書くにあたっても、すべての文章が「…だと思います」「…だったかも知れません」的な言い回しで終わると、何か変な文章になってしまう気がして、一部、断定的な「…でした」「…だったのです」てな書き方をしている部分もありますが、気持ち的には、このブログの内容、全部が、「あくまで、私が個人的に思ってる事」であって、別の意見の方の見解を否定しているわけではありません。

その証拠に、古い記事と新しい記事では見解が少々変わってたりしてるのもあったりします(*´v゚*)ゞ
(↑自慢気に言うな!…と自分で突っ込むww)

そもそも、昔の文献には、基本、ふりがななんてふってありませんし、たまに、ふってあっても、文献によって違っていたりして、ハッキリ言って、何て読んでいたかわからない事が多く、現在、ネット上や教科書等でうってあるふりがなも、読めないと不便なのでふってあるだけで、「それが絶対に正解」というわけでは無いのが本当のところです。

また、それは、古くなれば古くなるほど、わからない度が大きくなります。

それは、以前の【なぞなぞのルーツ?】(4月22日参照>>) でも書かせていただいたように、そもそも、昔と現代では発音が違うのです。

さらに、母音も、現在は「アイウエオ」の五つですが、中世以前はもっと沢山あったと言われています。

そんな中での、今回の天智天皇ですが・・・

「智」の文字が単独で「ち」と読む事でも想像できるように、本来、「天智天皇」にフリガナを打つなら「てんぢてんのう」なのだと思います。

この「ぢ」と「じ」・・・現在ではまったく同じ発音をしますが、以前は「ぢ」と「じ」は違った発音をしていた事が解明されています。

ところが、明治の頃から「ぢ」と「じ」の区別が無くなってしまったため、現在の国語では、明らかに「ち」から変化したであろうごく一部の単語を除いたその他すべてを「じ」とルビをふる事が決まっているのです。

なので、天智天皇は「てんぢ」かも知れないけれど、現在の表記では「てんじ」となるのですね。

ちなみに、病気の「痔」の場合、薬屋さんのCMでは、わかりやすいように「ぢ」と表記されていますが、上記の通り、特例以外は皆「じ」なので、国語としての正式なフリガナは「じ」です。

実は、この発音の変化・・・すでに古代に起こっています。

和歌などでは、「東」と書いて「ひんがし」とか「ひむがし」とかって読んだりしますが、これは、東が太陽の昇る方向であった事から「日向かし」が変化して「ひがし」となったと言われていますので、もともとは「ひむがし」だったわけですが、いつしか「む」と「ん」の発音の区別が無くなって「ひんがし」と発音されるようになったそうで、この変化が起こったのが、なんと万葉の時代だと言われています。

もうすでに、その時代から、言葉という物は変化し続けていたとは!!と驚いてしまいますが、実は、これの名残りが、ローマ字表記に見えます。

この時の「む」という発音は、現在の「む=mu」とも違う発音で、どちらかというと「ん」に近く、ローマ字表記するならば「m」なのですが、たとえば、大阪の難波・・・駅のローマ字表記はもちろん、「なんはCITY」「なんばパークス」のローマ字表記も、すべて「NAMBA」となっています。

ちなみに、例のアイドル集団さんも「NMB48」ですね。

これは、日本橋も同様で、東京の日本橋では「NIHOMBASI」「NIHONBASI」、大阪の日本橋でも「NIPPOMBASI」「NIPPONBASI」と、場所によって2種類の表記が存在します。

つまり、昔の「ん」には、「む」に近い「m」と、完全に「ん」の「n」の2種類の発音があったという事が、逆にローマ字表記にまだ残っている?という事なのですね。

・・・って事は、「JI」と「DI」の他に「ZI」もあって、「HU」と「FU」も違っていたのかも・・・

だから、先の室町時代のなぞなぞも、現在の「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「HA・HI・HU・HE・HO」ではなく「FA・FI・FU・FE・FO」っぽい発音だったという事なのかも知れません。

ところで、
最初の天智天皇にお話を戻しますが・・・

「ち」が「ぢ」に変化するのは、方言が絡んでいる気がするのです。

「山崎さん」というお名前がありますよね。

これを「やまさき」と読むのか「やまざき」と読むのか・・・もちろん、現在生きていらっしゃる山崎さんは、ご自分で「僕はやまさきです」とか「私はやまざきです」とおっしゃっているので、当然、ご本人がおっしゃる読み方が正しいし、そう呼んでさしあげねば失礼なわけですが、
(ただし、その「やまざきさん」のご先祖様が、100年前、200年前にも「やまざきさん」と呼ばれていたかどうかは別の問題ですけどね…)

これを、実際に調べてみると、現段階では、西日本には「やまさき」さんが多くて、東日本には「やまざき」さんが多いのだとか・・・なので、言語学の世界では、この「やまさき」と「やまざき」の違いは方言なのではないか?と言われています。

中田さんや高田さん、中島さんなども同様だそうですが・・・
(そう言えば、北海道出身の中島みゆきさんは「なかじま」で、九州出身の中島美嘉さんは「なかしま」だワ)
これは、名字だけではなく、名詞もです。

たとえば「保健所」・・・

私は大阪生まれの大阪育ちなので、これを「ほけんしょ」と読みますが、東日本の方は、これを「ほけんじょ」と読みませんか?

さらに「研究所」も、「けんきゅうしょ」「けんきゅうじょ」・・・もちろん、このグローバルな時代ですから、かなり入り乱れているでしょうし、もはや明確な線引きなどできませんが、東の方に住んでおられる方には「自転車」を「じでんしゃ」と発音する方も多いと聞きました。

こうして、各地方に方言という物がある中、時代の流れで、京都に都があった時代から、天皇こそ京都におわすものの、政治の中心が、事実上江戸へと移行していくうち、いつしか関東の方言がメジャーな発音とされるようになり、「ち」から「ぢ」へ、「さ」から「ざ」へ、「た」から「だ」へ変化・・・さらに、明治になって制定された標準語という物が、江戸言葉をベースにしている事・・・

などなどが重なっていって、天智天皇にふるふりがなも「てんち」から「てんぢ」、そして「ぢ=じ」となって「てんじ」という事に、今のところは、なっているのではないのかな?なんて思っているのですが・・・

「今のところ」というのは・・・そう、上記の通り言葉はどんどん変わっていくのです。

ただし、この「変わっていく」というのも「今のところ」です。

なんせ、現代には録音機がありますから・・・

音をそのまま残す事が不可能だった時代には、早くも万葉の頃には失われてしまった「ん」の発音における「N」と「M」の違いですが、録音する技術があれば、また別・・・

これまで変化していた物が急に変化しなくなるかもしれませんし、逆に、ひょっとしたら、これまでの何千年とは違う変化が、わずかの間に起こるかも知れません。

もう、ワクワク…茶々の妄想は止まりません(*^-^)
 .

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2013年2月23日 (土)

庚申の夜の昔話~彦八ばなしin京都

 

今日2月23日は庚申(こうしん)の日です。

庚申とは・・・
「庚=かのえ(十干)」の日であって「申=さる(十二支」の日であるって事で、古くから「庚申講(こうしんこう)あるいは「庚申待ち」という行事が行われていた「寝てはいけない日」だったわけですが、その由来etcのお話は、以前の庚申待ちの日のページ(3月6日参照>>)で見ていただくとして、本日は、その庚申待ちにちなんだ京都の昔話を一つ・・・

・‥…━━━☆

昔、丹後地方(京都府北部)のある村に、とても話上手な彦八という男がいました。

その話のおもしろさから、あっちこっちの村から
「彦八っさん、ウチの村に話しに来てぇな」
「ウチらも彦八さんの話、聞きたいわぁ」

との誘いがかかり、何かの集まりがある時など、少々のお小遣いをもらって、遠くの村まで出かける事もありました。

そんな中で、特に彦八のファンだったのは、町の三上屋という造り酒屋のご隠居さん・・・

しょっちゅう彦八さんを呼び寄せては、すべらな~い話を聞き、そして、話の最後に、
「彦八…そら、ウソやろ!」
と、笑いながらツッコミを入れるのが口グセとなっていました。

そんなこんなのある庚申の日・・・

やはり、その日も、ご隠居さんの使いの者が彦八のところにやって来て
「今夜は庚申さんやさかい、きっとウチんとこに来てくれなアカンで~」
と、ご隠居はんが言うてはります・・・と、

庚申の夜は、「寝ると体に虫が入って来るので寝てはいけない」=「一晩中起きて宴会やら寄り合いをする」という習慣でしたから・・・

しかし、彦八は・・・
「わしは、よー行きまへん」
と、今夜に限って、ご隠居さんの誘いを断ります。

「なんで??」
と、ちょっと困った様子の使用人・・・

「せやかて、ご隠居はんは、いっつも、わしが話をすると、『彦八…そら、ウソやろ!』と笑いはります。
せっかく、話した事を、いっつもいっつも『嘘』て…そんなん、わしかてショックですわ~」

と、

今回ばかりは、使用人が何度説得しても、彦八は、首を縦に振りません。

しかたなく使用人は一旦帰って、ご隠居さんに、その話を・・・

それを聞いたご隠居さん・・・
「そうか…そら、わしが悪かった。
もう2度と『嘘やろ!』てな言い方はせぇへんさかいに来てくれと頼んでおくれ。
 

もし今夜、わしが一言でも『嘘や』って言うたなら、ウチの銘酒を一斗樽でプレゼントするさかいに…って言うて説得しておくれ」
と頼みます。

「そら、おもしろい!ほな、行きまっさ」
と彦八・・・

早速、ご隠居さんのところへ駆けつけると、すでにご隠居さんはほろ酔いの上機嫌で、
「おぉ、彦八…よう、来てくれた。。。ささ、まずは飲め、飲め」
と・・・

「ご隠居はん、相変わらずのご機嫌で…
ほな、早速…今夜は、庚申の日でっさかいに、とっておきの、『とんびと殿様』の話をさしてもらいます~」

と・・・

チャカチャンリンチャンリン・・・

「昔昔…、宮津の殿様が参勤交代の途中で、大江山の麓に差し掛かった時、どこからともなく1羽のトンビがピィヒョロロ~って飛んできて、殿さんのお駕籠に、ビッとフンをひっかけたんですわ。 

ほんだら、すぐに、家来たちが、
お駕籠のお乗り換え~』
っちゅーて、用意してあった新しい駕籠に乗り換えはりましたんや」

「ほほぉ、さすが殿さん…大したもんやな」

「ほんで、いよいよ山のてっぺんに着いて、ここで行列を止めてひと休みしてから、頃合いを見計ろうて、さぁ出発!とばかりに、殿さんが駕籠に乗ろうとした時、またまたトンビがピィヒョロロ~って飛んできて、今度は、殿さんの刀に、ビッとフンをひっかけたんですわ。 

ほんだらすぐに、今度は
『お刀のお取り替え~~』
っちゅーて、新しい刀と取り替えですわ」

「こら、いよいよ大したもんやなぁ」

「ほんで、殿さんが、『なんや知らんけど、えらいトンビが多い山やなぁ』って言いながら、ふと空を見上げとったら、またトンビが舞い降りて来て、
今度は、殿さんのデコに、ビコッってフンをかけよったんですわ~ 
ヒドイこってす。
 

ほんだら、なんと、すぐに
『お首のおすげ替え~』
っちゅーて、家来が殿さんのお首をスコンと抜いて、新しいのんとすげ替えたんですわ。

ほんで、殿さんはな…」

「おい、彦八…、ちょぉ、待ちぃな。。。
殿さんのお首すげ替え~~って…そら、ウソやろ!

と、ご隠居さんが思わず言ってしまいます。

「へぇ、まいどおおきに~
ほな、お酒、いただいて帰りま~す(◎´∀`)ノ」

と、彦八は酒樽をかつぎあげて、とっとと帰っていったそうな。。。

これで、むかしのたねくさり(←丹後地方の昔話の締めくくりの言葉です)・・・

・‥…━━━☆

というお話なのですが・・・

実は、私=茶々の地元・・・大阪の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)では、毎年9月に「彦八まつり」なる落語のイベントがあります。
生國魂神社への行き方「本家HPの大阪歴史散歩:上町台地」へどうぞ>>)

それは、江戸時代、この生國魂神社の境内で多くの芸能の披露されていて、その中でも特に人気を博した上方落語の元祖とも言われる米沢彦八(よねざわひこはち)にちなむ物なのですが、

果たして・・・
昔話の彦八さんが先か、落語家の彦八さんが先か・・・

昔話を知っていた落語家さんが、それに因んで彦八と名乗ったのか?
落語家の彦八さんが有名だったので、村のオモロイ人の代名詞が彦八だったのか?
それとも、まったくの無関係なのか???

さすがは庚申の夜・・・今夜も眠れない(≧m≦)
 .

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2013年2月22日 (金)

幕末・足利三代木像梟首事件

 

文久三年(1863年)2月22日、京都・等持院に安置されていた室町幕府将軍の木像の首と位牌が盗まれ、賀茂川の河原に晒される・・・世に言う「足利三代木像梟首事件」がありました。

・・・・・・・・・

ちょうど、このあいだの大河ドラマ「八重の桜」でやってましたね~

とは言え、まずは、大きな出来事をピックアップして、この頃の大まかな流れを見てみましょう。

安政元年(1854年):
 ペリーが江戸湾に再来し、日米和親条約を締結します。
安政五年(1858年):
 13代将軍・家定が病没し、家茂が14代将軍に…
安政六年(1858年):
 大老・井伊直弼安政の大獄を実施。
 (10月7日参照>>)
万延元年(1860年)3月:
 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される。
 (3月3日参照>>)
文久元年(1861年)10月:
 皇女・和宮が下向(公武合体政策)
 (8月26日参照>>)
桜田門外の変の後あたりから、安政の大獄で弾圧された尊王攘夷派の志士たちによる天誅(てんちゅう)と称する報復行動が、幕府の統制が緩んだ京都にて活発となり、佐幕派(幕府寄り)や公武合体派の人物や安政の大獄協力者などがターゲットとして狙われるようになります。

・・・で、治安が最悪となった京都の町を守るべく、新たに京都守護職という役職が設置される事になりますが、すでにある京都諸司代や町奉行を統轄するこの役職には、やはり、強大な武力を持ち、藩内の論調も安定してる親藩(徳川家の親戚)でないと・・・

この条件に当てはまるのは、福井藩と会津藩ですが、福井藩の松平春嶽(しゅんがく=慶永)は、すでに幕府で政事総務職についていたので、この役目は、会津藩主の松平容保(かたもり)に・・・と白羽の矢が立ちます。

最初はお断わりしていた容保でしたが、会津の初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)「将軍家と盛衰存亡をともにすべし」という家訓を楯に迫られ・・・
文久二年(1862年)閏8月1日:
 松平容保が京都守護職に就任します。
同年の12月24日:
 容保は上洛し、黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に入ります。
文久三年(1863年)1月2日:
 容保が孝明天皇に拝謁し、天盃と御衣を賜ります。

一方江戸では・・・
同じ文久三年(1863年)2月4日&5日:
 小石川伝通院(でんつういん)にて浪士組を一般募集
これ↑は、この3月に予定されている将軍・家茂の上洛に先駆けて京都に入り、その身辺警護させるための人員を募集した物で、後に新撰組となるメンバーが応募してるアレです。

・・・と、今回の「足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)は、まさに天誅の嵐吹く京都に将軍がやって来る寸前に起こった出来事なわけですね。

事件の経緯としては、文久三年(1863年)2月22日深夜、室町幕府の初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)の墓所として知られる等持院(とうじいん)に安置されていた初代・尊氏、2代・義詮(よしあきら)、3代・義満(よしみつ)の3体の木像の首と位牌が盗まれ、翌未明に、これらの木像の首が、賀茂川の河原に晒されていた・・・という物です。

・・・で、そのそばには
「逆賊である足利尊氏・義詮・義満の像に天誅を加える…けど、今現在、コイツらよりもっとヒドイやつらがおる。
早い事、その罪を反省して正さんと、俺ら有志でいてまうど!」

てな内容の立札が立ててあったと・・・

ちなみに、木像晒し首が発覚した、この2月23日という日は、江戸で募集されたかの浪士組が上洛を果たした日でもあります(2月23日参照>>)

Sanzyougawara1000 三条高札場…現在はスタバの駐輪場です

とにもかくにも、時代劇でよく見る、あの晒し台の上に、木像の首が乗っかってる光景は、いかにも異様・・・てか、これまで、天誅と称するテロ行為で、何人も人が殺され、実際にその生首が晒されていたわけですから、それらを見ている京都の人々にとっても、逆に異様だったかも・・・

ただ、実際に殺人したわけでも無いし、現代の感覚で行けば、ちょっとしたイタズラにも思えるこの行為(もちろん、イタズラではなく窃盗ですし、イタズラでもやってはいけません)・・・

しかし、これには、イタズラでは済まされないポイントが・・・

それは、かの立札にある後半部分にもある事なのですが・・・

そう、このブログを読んでくださっている方々はお解りですね。

昨日もお話した南北朝時代・・・かの足利尊氏は、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇に対抗して、前政権の鎌倉幕府が擁立していた光厳院(こうごんいん=北朝初代の天皇)院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を賜り(4月26日参照>>) 、その弟で猶子(ゆうし=契約関係によって成立する親子)光明(こうみょう)天皇を北朝の天皇として即位させています(8月15日参照>>)

で、ご存じのように、最後に南北朝が合一する時、なんだかんだで北朝有利に進められてしまった結果(10月5日参照>>)、本来は、北朝・南朝から交代々々でその後の天皇を出すはずだった約束は破られ、その後は、ずっと北朝側の天皇に・・・

つまり、この幕末の時代の天皇であった第121代孝明天皇、そして、その皇子である第122代明治天皇も、北朝の流れを汲む血筋なわけです。

そこを考えれば、足利将軍は逆賊では無い事になる???

これには、以前水戸黄門様の『大日本史』編さんのところ(10月29日参照>>)でもご紹介したように、その『大日本史』で「南朝が正統」としちゃった中、尊王攘夷の思想はその水戸学から来ているので(10月2日参照>>)、大日本史が正統とした南朝に反発した足利将軍は逆賊という事になるわけですが、

一方では、孝明天皇や明治天皇が北朝の流れである事も、当時の人・・・特に武士は皆知っていたわけで・・・

その後、明治時代になっても、そこのところが問題となり、結局は「南北朝の時代に限って南朝が正統」として、その時代以外は、どっちも正統という玉虫色になってるようですが、幕末当時の人たちの心情という物は、どうだったんでしょうかね???

それこそ、あくまで、個人的な想像ですが、
そこに、この事件にとっては、北朝・南朝うんぬんより、「天皇家に反発した幕府」というポイントが重要だったという事があるような気がするのです。

この事件に激怒した容保が、それまで、「言路洞開(げんろとうかい=話し合いで解決)しようという姿勢をとっていたのを、徹底的に始末する強硬路線に切り替えたと言われていますが、そこには、やはり、この事件に「現幕府を倒す」という意味が込められていた事が重要だったという事なのでしょう。

まぁ、今回の事件の犯人は、尊王攘夷思想を持つ平田派国学者の一派・数名だったわけですが、そこに、過激派の志士たちを監視するために会津藩から送り込まれていた大庭恭平(おおばきょうへい)が関与していた事も、容保を激怒させた一因でしょうが・・・

・・・と、ここまで見ていると・・・
そう、今回の大河ドラマ「八重の桜」は、まったく以って、そのまま描かれていますね。
(京都守護職を引き受けた容保が泣いちゃったのには、ちと驚きましたが…)

確かに、歴史好きとしては、あの3年前のように、主人公がどんな重大事件にも関与するハチャメチャな創作を織り込まれても困り物なのですが、あまりにも、その通りだと、「ただ、一般的な歴史をなぞっているだけ」という感がぬぐえないのも確か・・・

何となく、今のところ、その中央での一般的な歴史の流れのドラマと、八重の周辺の出来事との二つのドラマを見せられている感じ・・・

なので、このブログでも、初回の感想以来、ドラマの感想は1度も書いていないのですが・・・

が、しかし、思えば、まだまだ序盤です。

おそらく・・・
サスペンスで言えば、事件に絡む人々の人間関係や背景を紹介している段階で、まだ、肝心の事件は起こっていない・・・この段階で、物申すのは失礼千万!!

という事で、「八重の桜」に関しては、これからが請うご期待!・・・で、もうちょい「その時」を待つ事にいたしましょう。
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2013年2月20日 (水)

足利尊氏VS新田義興…小手指原の戦い

 

正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日、武蔵に進攻した新田義興軍と足利尊氏軍が激突した小手指原の合戦がありました。

・・・・・・・・・

あぁ、ややこしい南北朝・・・

とにもかくにも、ともに一致団結して鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇足利尊氏(あしかがたかうじ・高氏)新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)以下諸々・・・

しかし、後醍醐天皇がおっぱじめた建武の新政(6月6日参照>>)反発した尊氏が反旗をひるがえして(8月19日参照>>)京都に攻め込み(6月30日参照>>)京都にて室町幕府を開いて光明(こうめい)天皇を即位させ(8月15日参照>>)、追われた後醍醐天皇が吉野へ逃げて、ここでも朝廷を開く・・・(12月12日参照>>)

・・・で、尊氏の京都が北朝で、後醍醐天皇の吉野が南朝・・・これが、基本なのですが、この基本が崩れたのが、正平五年・観応元年(1350年)の観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>) です。

それこそ、鎌倉討幕の時から、兄=尊氏の右腕となって活躍していた弟=直義(ただよしとの、簡単に言えば内ゲバの兄弟ゲンカなわけですが、尊氏を倒したい直義が南朝へと降り、そこに執事の高師直(こうのもろなお)を巻き込んで合戦となるわけですが(2月26日参照>>)、師直を倒した直義が復権すれば、今度は、尊氏と息子=義詮(よしあきらが南朝に降って、直義の討伐を願い出る・・・

そう、時系列での前後はあるものの、北朝のNo.1とNo.2が、どっちも南朝に降った事になるわけで・・・

で、その直義が正平七年・文和元年(1352年)の正月に降伏し、続く2月29日に病死・・・となるのですが、この間、直義討伐のために尊氏は関東にいたわけで、京都の留守を預かる息子・義詮は、南朝へ和睦の使者を送り、南朝も、これを受諾・・・

つまり、この瞬間は日本に朝廷は南朝ただ一つとなり、南北朝では無かったわけですが、この義詮の和睦提案は、あくまで、現時点で将軍がいない京都を守るためのかりそめの和睦・・・

直義討伐のために南朝に降って南朝と和睦したからと言っても、実際に京都に陣取っているのは尊氏&義詮らのグループなわけで、南朝のメインキャラは、未だ吉野にいる・・・その南朝のメインキャラたちに、尊氏のいない間に、実際に京都に来てもらっては困るので、時間稼ぎしたわけです。

この時、南朝のトップと言えば、亡き後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇だったわけですが、実は、この後村上天皇は、義詮の作戦もお見通し・・・わかっていて和睦提案を受諾したのです。

それは、こちらはこちらで、ここで和睦しておいて後村上天皇の京都行きを承諾させ、その行幸を完全武装で行って、一気に京都を奪ってしまおうという作戦でした。

この作戦は見事成功し、一旦、南朝軍が京都を制圧する事になるのですが、後村上天皇自身は、京都市内には入れず、八幡に陣を置き、これが、以前、後村上天皇のページで書かせていただいた(3月11日の後半部分参照>>)男山=石清水八幡宮での八幡合戦なわけですが、この京都のゴタゴタと同時に起こったのが関東のゴタゴタ・・・

すんません、当時の畿内での状況を説明しようとして前置きが長くなってしまいましたm(_ _)m本チャンはここからです。

先ほどかかせていただいたように、すでに後醍醐天皇はこの世になく(8月16日参照>>)、ご存じのように、楠木正成はとうの昔の湊川(みなとがわ)(5月25日参照>>)、新田義貞は越前で討死(7月2日参照>>)し、この4年前には正成の息子=正行(まさつら)四条畷(しじょうなわて)に散っています(1月5日参照>>)

Nittayosioki600 そんな中、このタイミングで関東にて挙兵したのは・・・その義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)でした。

彼らが、後村上天皇からの「尊氏追討」の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を得た事を宣伝すると、関東各地から続々と味方する武将が参陣・・・その中には、例の観応の擾乱で散った直義の旧臣たちも・・・

こうして10万余騎の味方を得た(またまた太平記の数字です)義興らは武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)へと進攻・・・一方、この時、鎌倉にいた尊氏は、一報を聞いて、すぐさま迎撃すべく8万騎を従えて出陣・・・

かくして正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日両者は武蔵野の小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)を舞台に激突する事となります。

朝8時、小手指原に到着した新田軍・・・義宗・義興・義治は、それぞれの軍勢を5手に分けてそれぞれ配置・・・

一方、この様子を聞いた尊氏も、自らの軍を5手に分けて現地へ・・・

こうして両軍合わせて20万騎と言われる大軍が、一進一退の攻防を展開するのですが、尊氏軍の第1陣=平一揆(へいいっき)第2陣=白旗一揆に続く、第3陣を務めたのは花を旗印にした軍団=花一揆(はないっき)の司令官を務めたのは饗庭命鶴丸(あいばみょうづるまる)という18歳の美少年・・・

晴れの舞台に甲冑を花で飾りたて、見るも美しい軍団ではありました・・・が、その若さゆえに命知らずな突進はするものの、その若さゆえに陣の備えが悪く、その突進は向こう見ずで無謀な物となり、それが、逆に邪魔となって、尊氏軍の新手が前へ進めない・・・

このチャンスに、義宗は
「天下にとっては朝敵、俺にとっては親の仇…今、尊氏の首を取らんで、いつ取るんじゃぁ!」
と将兵にゲキを飛ばし、その勢いに少し退き気味となった二つ引両(足利家の家紋)の大旗目指して追い撃ちをかけます。

このリズムの狂いに、形勢は新田軍に傾き、やむなく撤退する尊氏・・・命からがら石浜(東京都台東区あたり?)まで逃走した尊氏は、その場で鎧を脱ぎ棄て、自決を覚悟します。

しかし、近習の侍たちが、その楯となるべく、命がけで敵の追撃軍の中に飛び込んで行ってくれたおかげで、その隙間を狙って、尊氏は対岸へと身を隠す事に成功・・・やがて、日が暮れ始めた事で、義宗は追撃を諦め笛吹峠(ふえふきとうげ=埼玉県比企郡嵐山町)に陣を構え、激戦のさ中にはぐれた義興&義治らの軍勢を待つ事にします。

そう、実は、義興と義治は、尊氏を追跡している間に義宗軍と離れてしまっていて、すでに手勢は300騎程度になっていたのです。

そこを足利方の仁木頼章(にっきよりあき)義長(よしなが)兄弟が狙います。

葦の原に身を隠しながら、鶴翼(かくよく)の陣にて、密かに義興らを囲む仁木勢・・・やがて、それに気づいた義興らは魚鱗(ぎょりん)の陣にて迎え撃ち(陣形については9月8日のページで>>)なんとか、仁木勢を振り切ったものの、義興・義治、ともに3ヶ所以上の傷を負っての逃走でした。

こうして、なんとか、敵を振り切った義興でしたが、すでに手勢は200騎・・・
「この手勢では上野(こうずけ=群馬県)に戻るのも難しい」
と考えた義興は、もはや戦って死ぬ覚悟で、軍を鎌倉に向けます。

途中、はぐれていた仲間(義宗ではありません)と奇跡的に再会し、3000騎となった義興軍は、その奇跡も含む盛り上がりを見せたまま鎌倉へ突入!

たまたま死ぬ気で向かった鎌倉・・・という事は、鎌倉側も、まさか攻め込まれるとは想定していなかったわけで、そこに奇跡のテンションに決死の覚悟が加わり、なんと、新田軍は、そこにいた鎌倉公方足利基氏(もとうじ=尊氏の四男)を敗走させ、鎌倉を制圧してしまったのです。

笛吹峠の義宗、鎌倉の義興&義治・・・しかも、その笛吹峠には、宗良親王(むねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)を担いだ上杉憲顕(うえすぎのりあき)軍も到着・・・

さぁ、どうする?尊氏!!

って事で、そのお話は、両者がぶつかる事になる2月28日【足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い】でどうぞ>>
 .

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2013年2月19日 (火)

アンケート企画「歴史上の最強戦士は誰?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「歴史上の最強は誰結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
予想通り、「その他」が多かったですね~まぁ、そこは致し方ないところです。

 .
改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
19票
上泉信綱
やはり、新陰流の剣聖がトップでしたね~2位に倍ほどの差をつけて、堂々の1位です!
2位
9票
宮本武蔵
こちらもやはり…剣豪として不動の人気ですからね~
3位
8票
塚原卜伝
ドラマ放送中の効果アリ…ですね。一時はほとんど名前を聞く事がなくなってたんですが、盛り返しました。
4位
4票
俵藤太(藤原秀郷)
柳生宗矩

戦国武将憧れのご先祖と柳生一族が並びましたね。
6位
3票
足利義輝
永倉新八
桂小五郎(木戸孝允)

永倉と小五郎なら実際に相対した事も…あ、小五郎は戦うのキライなので逃げる方が早いですね。
9位
2票
荒木又右衛門
雷電為右衛門

今なお伝説となっているお二人…実際はどのくらい強かったのか気になります。
11位
1票
源頼光
岩見重太郎
北畠具教
千葉周作

1票ずつでしたか…やはりその他が多いので票が分散された感じですね。
15位
0票
小野忠明
スンマセンm(_ _)mこのブログでの紹介の仕方がマズかったか…小野派流の開祖に失礼な事をしてしまいました。
その他 45票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 源為朝。この人無茶苦茶でしょ。(30代/男性/兵庫)
「日本初の切腹ですしね」
上泉信綱 武田も柳生もお手上げ。流石剣聖!(40代/男性/東京)
「やはり剣聖と言えば…ですね」
宮本武蔵 剣道を習った最初の師が「五輪書」を愛読されていました。(60代/男性/東京)
「ノウハウを伝えるに関してはダントツですね」
柳生宗矩 柳生宗矩… 徳川将軍家指南役で「天下一の柳生」なんて云われているんだから、強かったんだろうと思う。 いろいろと云い過ぎなのが、気に入らない。(60代/男性/海外)
「やはり柳生一族ですからね~」
塚原卜伝 今夜のNHK番組第2話〜をも楽しみに愛ある卜伝の強さに大きく期待^^v(40代/女性/山口)
「堺雅人さんのにこやか卜伝はイイですね」
その他 近藤勇。池田屋での実戦を見る限り個々の技量は永倉や沖田が上でも一番となると近藤だと思います。(40代/男性/埼玉)
「永倉さんも1番は近藤さんって言ってますもんね
その他 斉藤 一(30代/男性/埼玉)
「やはり…
俵藤太 ご先祖様だから ちなみに家系は、そこから枝分かれした信夫佐藤氏 それが今じゃ大没落(/_;)(40代/男性/宮城)
「ご先祖様は推しますよね~」
その他 巴御前です。 一騎打ちでホイホイ首を挙げてますし。(40代/女性/千葉)
「素手で首をねじ切ったって話もありますからね~」
その他 伊庭八郎 隻腕でも強いのですから。斎藤一とどちらにしようか迷いましたが、伊庭八郎に一票(40代/女性/宮城)
「そうです!伊庭さんも強いですね~」
桂小五郎 だと思います。でも、人を切ったことはなかったような。(40代/男性/千葉)
「強い人ほど、殺生しないのかも知れません」
その他 神武天皇:如何に名のある人物でも初代天皇の偉業前では無いに等しいと思います。人智を超える戦いを成されましたからな。(40代/男性/兵庫)
「人智を越えてますからね~」
その他 剣豪あげたいけど最強は「舩坂弘」、医師が死亡確認しても生き返って敵兵を倒す姿。彼以外最強の人間はいないと思う。もはや人間じゃない・・・・(30代/男性/東京)
「近代史が苦手なので、この方は知りませんでしたが、調べてみるとスゴイですね~不死身とはこの事か!」
俵藤太 ムカデ退治の話を昔から聞いていたので(20歳代/男性/滋賀)
「ちょっと前までは、五月人形のモデルの筆頭でしたからね~
足利義輝 もしも生きていたなら…と悔やんでしまう名君だと思います♪私も今30歳…頑張らないといけませんね♪(30代/男性/滋賀)
「名君だからこそ、命を狙われるのでしょうね」
上泉信綱 好きなのは足利義輝ですが、最強と言えば、やはりこの御方。(30代/男性/大阪)
「やはり…そうですね」
その他 桂小五郎のあと、練兵館の塾頭になり、鞍馬天狗のモデルともいわれる、渡辺昇が最後の最強剣士です!!(40代/男性/長崎)
「鞍馬天狗のモデルですか~それは強いですね」
その他 土方歳三、実戦ならNo.1だと信じています。また武士の気骨もNo.1クラスだと…(40代/男性/東京)
「なんだかんだで絵になりドラマになる人です」
その他 やっぱり大鵬でしょ。巨人・卵焼きと。(40代/男性/愛知)
「当時、大阪のオッチャンの好きな物は、阪神・柏戸・ストリップと聞いておりました」
その他 項籍(羽)か呂布(奉先)(海外)
「スンマセンm(_ _)m中国史はあまり知らないので…」
その他 戦場で小野忠明と互角に渡り合ったとされる正木大膳亮時堯。 記事の通りなら、武勇の誉れ高い正木大膳亮家累代の猛者の一人として選から外す訳にはゆかないでしょう。(50代/男性/静岡)
「小野さんはトラブルメーカーっぽいですからね~」
その他 無双の弓矢の達者といわれた源為朝(30代/男性/東京)
「あえて義経を外す源平のシブイ系好みからは断然人気の為朝さんですね
その他 司馬遼太郎・梟の城の架空伊賀忍者・葛籠重蔵。剣豪と言えど、なんでもあり1対1では、日本の世界に誇るニンジャの敵じゃないのではないかな・・・。(50代/男性/兵庫)
「確かに、何でもアリなら忍者が強いかも…」
上泉信綱 このブログの話が面白かったので(男性/海外)
「そう言っていただければウレシイです」
その他 本多忠勝でしょう。(50代/男性/長野)
「唐の兜と本多忠勝ですからね~」
上泉信綱 柳生一族を倒せば日本一でしょう!(60代/男性/神奈川)
「いくら青い時期とは言え、素手でスコンですからね~」
上泉信綱 みな剣豪ではありますが、同時代に活躍してたと仮定して比較すれば、やはり剣術の始祖と思われる上泉信綱でしょう!(60代/男性/兵庫)
「剣術の始祖…スゴイです」
その他 ヤマトタケルノミコト(40代/男性/東京)
「確かに、個人戦の様相を呈しています」
その他 ぜんいんくそ弱い(10代/男性/埼玉)
「若いっていいな」
その他 本多忠勝(30代/男性/静岡)
「やはり、そうですね」
その他 前田慶次
「槍さばきを見ていみたい!」
上泉信綱 迷いましたが(源頼光とか)、初志貫徹で伊勢守で!!(また、無刀流、山岡鉄舟の実力は如何に?)(40代/男性/大阪)
「そうですね~山岡鉄舟も強そうですね~」
その他 沖田総司。母方の先祖に桂小五郎がいるので迷ったのですが身内贔屓はやめて、三段突きで有名な、新撰組一の剣士と言われた彼を選びました(10代/女性/海外)
「沖田さんは人気ありますね~」
俵藤太 武家の共通祖先みたいな感じ?(40代/男性/福島)
「に流れを汲むって武将の多い事!
その他 古代ローマの剣闘士には100人抜きがざら(50代/男性/東京)
「グラディエーターですね」
宮本武蔵 多くの剣豪の集大成というイメージなので。(迷い過ぎて地元の宮本武蔵にしたとか言えない(笑))(20代/男性/岡山)
「剣豪の集大成…確かに!
上泉信綱 塚原卜伝に剣豪将軍も捨てがたいながら 無双の剣に下克上の世にあってのあの義理堅さと無刀取り やっぱり剣聖が一番似合う人な気がします(10代/男性/大阪)
「やはり剣聖と言えば…ですね」
その他 斎藤一に一票。人を斬ることだけを考えてるから、逆に強いと思う。(10代/女性/大阪)
「ドラマでもなんとなく謎を秘めた感じに描かれますね」
その他 源為朝は…結果的には敗者ですが、インパクトが強いです!(30代/女性/岡山)
「確かに…インパクトがバツグンです」
その他 世界史を塗り替えた名もなき日本、台湾、半島人。アジア、アフリカの植民地人が蜂起しても甚大被害者を、いや、今日も植民地のままかも。中国は中共の世界最大植民地国家。
「名もなき…ですね~」
足利義輝 足利将軍家って、弱弱しい公家のイメージがなんとなくあったのですが、その意外性に一票。でも実際は、やっぱ現場の新撰組って思いも・・・(30代/男性/福岡)
「将軍と言えど、のほほんとはしていられない時期ですからね~」
柳生宗矩 剣豪といえば武蔵ですが、私の中では、柳生新陰流のほうが最強の印象が強いです。ドラマとゲームの影響受けすぎでしょうか(笑)(30代/男性/愛知)
「武蔵も柳生一族もドラマの影響があるでしょうね」
その他 本田忠勝!三英傑,武田からも称賛された豪将(40代/男性/愛知)
「賞賛ぶりがグンを抜いてますね~」
その他 真柄直隆(20代/男性/神奈川)
「スゴイ方をご存じですね~」
上泉信綱 我等が群馬の英雄!この方できまりです。是非、大河ドラマにして下さい(笑)(40歳代/男性/群馬)
「ドラマ、見てみたいですね~」
その他 飯篠長威斎家直でお願いします。地元ですし、剣道中興の人なのできっと強かったと思います。(10代/女性/千葉)
「天真正伝香取神道流ですね…やはり地元では人気ですか?」
その他 資料は少ないが、やっぱり前田慶次じゃないかな。漫画(花の慶次)は話半分としても、相当な豪傑だったとか。小説(一夢庵風流記)お薦めです。(40代/男性/静岡)
「イロイロと想像をかきたてられる人ですね~それも魅力です」
その他 《愛》直江兼続さん  ある意味あれだけ戦をして敗北しても生き残れたのが、凄いと思います!(30代/女性/大阪)
「個人的には、どちらかと言うと策略家のイメージが強いですが、強さもあったかも…ですね」
その他 沖田総司:近藤勇が亡き後の天然理心流は沖田にと言い残したから。(40代/女性/東京)
「確かに、沖田に継いでもらいたいと手紙に書いてますからね」
宮本武蔵 「ただ口だけ の男があれほどの画が描けるものか」ってことで(40代/男性/埼玉)
「絵の才能もある人だったんですね~」
その他 秀長さまに一票(40代/女性/大阪)
「強くてやさしい感じがします」
荒木又右衛門 荒木の前に荒木なく、荒木の後に荒木なし(40代/女性/愛知)
「なんせ36人ですから…」
その他 本多忠勝です、どの戦いでもかすり傷一つ負わなかった〜って話がありますから。(女性)
「全戦無傷はスゴイです」
その他 島津義弘、戦場では「鬼島津」といわれてたらしい。かなりの強者だったと思います。(30代/男性/愛知)
「名将としてのイメージが強いですが、個人戦もイケたかも」
荒木又右衛門 腕だけではなく、仇討ちに計画性もあり頭もわるくないから。(40代/男性/三重)
「そうですね…やはり、それで名を残した人ですから」
その他 平将門(40代/男性/神奈川)
「鬼神のごとき活躍ですからね」
宮本武蔵 剣術なら徳川太平〜幕末の剣術が盛んな頃の人物だと思うが、武器の指定が無いので武蔵かな、彼はどんな事をしても勝(生き抜こうと)しそうな泥臭い闘いをするイメージ(30代/男性/埼玉)
「どんな事をしてでも…確かにそんなイメージありますね」
その他 個人で強いなら、前田慶次郎利益以外には考えられん。日本中が戦をしてた戦国時代が豪傑揃いだと思う。(40代/男性/神奈川)
「戦国時代は強者のそろい踏みですからね~」
その他 本田忠勝(50代/男性/東京)
「ですね」
塚原卜伝 悩んだ挙句、地元推しです。(30代/男性/茨城)
「地元の英雄は強いです」
その他 大海人皇子
「赤旗の元祖ですね」
その他 居合の始祖、林崎甚助。(20代/男性/岡山)
「居合抜き…強そうです」
その他 服部半蔵(20代/男性/東京)
「暗がりならダントツな気がします」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
その他 堀部安兵衛(マー君さん)
その他 源頼政(レッドバロンさん)
その他 新田義興
その他 斎藤一(hana-mieさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2013年2月18日 (月)

越中一向一揆~蓮乗VS石黒光義

 

文明十二年(1480年)2月18日、加賀を追われた一向一揆衆が、越中・瑞泉寺に集結している事を受けて、彼らを討つべく石黒光義が福光城を出陣しました。

・・・・・・・・・・

戦国時代に、100年に渡る「百姓の持ちたる国」を造った加賀一向一揆(6月9日参照>>)のお話ですが・・・

もともとは、あの応仁の乱(5月28日参照>>)で、加賀(石川県)の守護であった富樫政親(とがしまさちか)が東軍に、弟の富樫幸千代(とがしこうちよ)が西軍にて参戦していた時点で、すでに両者の間で取り合いになっていた加賀という場所・・・

それぞれがそれぞれの近隣の武将を味方にして取り合いが活発になる中、他の仏教勢力に京都を追われた蓮如(れんにょ)が、越前の吉崎にて吉崎御坊(ごぼう)建立した事で(7月27日参照>>)、地元の侍などを巻き込みつつ、一気に本願寺門徒が増えていく北陸地方・・・

その門徒たちの一向一揆としての武力に目をつけた政親は、幸千代が彼らと敵対する高田(たかだ)門徒を味方にしている事を幸いに、一向一揆を味方につけ、幸千代が本拠地としていた蓮台寺城(れんだいじじょう・石川県小松市)を攻め落とし、政親が加賀一国の守護となったのです。

これが、文明六年(1474年)に起こった加賀一向一揆の最初の一揆で、文明一揆(7月26日参照>>)と呼ばれます。

しかし、戦う時には頼った本願寺門徒の勢力ですが、いざ、その地を統治する側に立つと、その強大な力は脅威となります。

以前も書きましたが・・・
なんせ、「力がある」という事は、「上にたてつく」事もできるって事ですから・・・

やがて守護の威勢を脅かす状態になってしまった本願寺門徒たちに対して、政親は、弟との戦いの時に結んだ本願寺との同盟を破棄し、一転、門徒弾圧に乗り出すのです。

度々の政親の攻撃に、徐々に加賀を追われた門徒たちの多くは、越中(富山県)井波(いなみ)瑞泉寺(ずいせんじ・南砺市)に逃れます。

もちろん、この状況を打開しようと、門徒たちは、自分たちのトップである蓮如に使者を送り、政親と話し合って、何とか事を穏便に・・・と願うのですが、なんと、この願いを、蓮如の側近である下間蓮崇(しもつませんそう)が、蓮如に伝えずに握りつぶしたどころか、逆に、門徒に「戦え!」と命令したのです。

後で、この事を知った蓮如は、蓮崇を破門にし、文明七年(1475年)8月21日、過激になった門徒たちを鎮静化させるために、吉崎を去ります(8月21日参照>>)

しかし、教祖様がいなくなった吉崎御坊は、すぐに、政親の命を受けた高田門徒に焼きうちされ、ほぼ壊滅状態となった加賀の信者たちが、ますます瑞泉寺へ集結する事となるのです。

この瑞泉寺は本願寺の末寺で、院主(いんす)は蓮如の子・蓮乗(れんじょう)・・・言わば、一向一揆の越中富山支店といったところでしょうか。

Togasiyosizaki900 富樫の攻撃を受ける吉崎御坊(「蓮如上人絵伝」淨賢寺蔵)

この状況を苦々しく思っていたのが、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)・・・加賀の脅威が、そのまま越中の脅威となったわけですからね。

・・・と、ちょうど、このタイミングで政親が光義に接触して来ます。

「最近、本願寺の僧や宗徒が、一揆とか起こしてムチャクチャやっとるさかいに加賀から追い出したったんやけど、どうやら、ソイツらが瑞泉寺に寄り集まっとるらしい・・・
君の軍勢で、瑞泉寺を焼き払うて、コイツらを根絶やしにしてくれへんか?」

てな内容の書状を送って来たのです。

なんだかんだで、政親は、お隣の守護大名ですからね。。。

エライ人のお頼みをコレ幸いに、「騒動が大きくなってからでは間に合わん」とばかりに、打倒瑞泉寺に動き出す光義・・・しかも、ここに来て、彼には強い味方が・・・

加賀と越中の国境あたりにあった医王山(富山県南砺市)惣海寺(そうかいじ)です。

惣海寺は壮大な伽藍を持つ天台宗のお寺・・・かの蓮如の登場以来、北陸の民衆が一気に浄土真宗に傾いていった事で、やはり苦々しく思っていたのです。

もちろん、光義らの動きを察知した瑞泉寺側も戦闘態勢に入ります。

急きょ、未だ瑞泉寺に来ていない近隣の門徒にも声をかけ、寺から少し離れた山田川付近に集結させます。

その数・・・ほとんどが農民だとは言え、約5000名・・・

かくして文明十二年(1480年)2月18日、惣海寺の宗徒を含む1600名の軍勢を率いて、光義は、居城の福光城(富山県南砺市福光町)を進発したのでした。

予想通り、山田川付近で石黒軍の先陣と一揆勢がぶつかり、激しい戦闘が開始されました(田屋河原の戦い)

が、しかし、実は、一揆勢は、その軍勢を二手に分けておりました。

瑞泉寺の院主・蓮乗は、もともと二俣本泉寺(ほんせんじ=石川県金沢市)の住職だった人・・・それが、例の父・蓮如の吉崎退去にともなって、彼も本泉寺を追われてコチラ=瑞泉寺に来ていたわけで、当然の事ながら、蓮乗の指示に従う宗徒が、本泉寺にもいるわけで・・・

そう、この山田川で光義軍と戦いながらも、その本泉寺の宗徒=2000を別働隊として、越中に送り込んでいたのです。

その本泉寺隊は、さらに二手に分かれ、一方が惣海寺を焼き討ちし、一方が福光城を背後から攻撃・・・

前には山田川の本隊、後ろには本泉寺の2隊・・・光義軍は、見事に挟み撃ちにされてしまったのです。

もともと数の上では劣る石黒勢・・・思わぬ挟み撃ちで、もはや総崩れとなったしまった軍勢を目の当たりにして、光義は、やむなく安居寺(あんごじ=富山県南砺市)に落ちますが、そこをさらに追撃する一向一揆勢・・・

「もはや、これまで!」
と悟った光義は、この安居寺にて自刃しました。

こうして、砺波一帯は瑞泉寺の支配下となったのです。

これで盛り返して来るのが、加賀で逃げ隠れしたいた門徒たち・・・やがて、それは大きな勢力となり、最大の敵であった富樫政親を自刃に追い込む長享一揆という加賀一向一揆の中で最大の一揆となるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
(ブログを始めて間もなくに、そのお話は1度書いておりますが、加賀一向一揆の初出という事で、一揆全体のあらすじのような内容になってしまっていますので…m(_ _)m)
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2013年2月16日 (土)

シーボルト事件に殉じた天文学者・高橋景保

 

文政十二年(1829年)2月16日、江戸後期の天文学者高橋景保が、獄中で病死しました。

・・・・・・・・

高橋景保(かげやす)は、文化元年(1804年)に父・至時(よしとき)の死を受けて天文方(てんもんかた=天体運行や暦の研究をする江戸幕府の役職)を継ぎ、幕府の命により、世界地図の作成などに携わっていた人物・・・

文化七年(1810年)には『新訂万国輿地全図』を完成させたほか、伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)の測量事業を監督し、忠敬亡き後は、その遺志を継いで『大日本輿地全図』も完成させました。

また、同時に、外国の書物を翻訳する係である蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)書物奉行も兼ねる書籍の専門家でもありました。

御用で翻訳するのは、主にオランダ語でしたが、父が亡くなって間もなくの頃に来日したロシアの使節が、日本でも通じると勘違いして、満州語で書かれた文書を、当時の長崎奉行に提出しますが、これを見事に訳した『満文強解』や、和・漢・満・蘭語辞典である『亜欧語鼎(あおうごてい)まで作っていますので、その語学の実力も並々ならぬ物だった事がうかがえます。

そんな景保が、文政十一年(1828年)10月10日・・・いきなり、逮捕されます。

当時、ご近所さんだった元肥前平戸藩主・松浦静山(せいざん)は、その著書『甲子夜話続編』で、その日の様子を書き残しています。

「十月十日ノ夜、天文台ノ下、高橋氏ノ屋鋪(やしきヲ猿屋町ノ方ト御蔵前ノ方ヨリ大勢取囲ミタリ。
夜陰ノ事ユエ灯籠夥
(おびただ)シク、其中ニハ御紋ノ高張モ見エシガ、ヤガテ高橋ガ屋鋪ヨリ青網ヲカケタル駕(かご)ヲ舁(かつぎ)出タリ」

こうして連行された景保へは、その夜から徹夜の尋問が開始されます。

その容疑は・・・そう、このブログではすでに書かせていただいているシーボルト事件です。

長崎出島にあったオランダ商館付きの医者として文政六年(1823年)に来日し、学校と病院を兼ねた鳴瀧(なるたき)を開いていたドイツ人医師・シーボルトが、5年間の日本滞在を経て、帰国しようとした文政十一年(1828年)の8月、その出国荷物の中に、当時は海外へは持ちだしてはならない禁制の品だった伊能忠敬の日本地図の写しが入っていたのです。

そのページ(9月25日参照>>)に書かせていただいたように、もちろん、シーボルト本人も罪に問われますが、それをご禁制とわかっていながら彼に渡した人物も罪になるわけで・・・

本職が公儀隠密だった間宮林蔵(まみやりんぞう)(5月17日参照>>)の仮の姿が、伊能忠敬の弟子の樺太探検家・・・なので、当然、景保とも親しかったわけで、問題の地図を渡したのが景保って事が幕府に筒抜けとなって逮捕されたのです。

もちろん、景保自身も、それが罪になる事は重々承知だったわけですが、先にも書いた通り、景保は、書籍にも通じている人物・・・

実は、シーボルトが持っていたロシアのクルーゼンシュテルノン提督の書いた『世界周航記』という本とオランダ領東インドの地図9枚・・・これが、どうしても欲しかったのです。

つまり、ソレとコレを交換したのですね。

ここのところの日本をとりまく世界情勢が気になっていた景保は、「その最新情報が書かれているその本を翻訳すれば、きっと役立つに違いない」と考えていたのです。

バレれば罪に問われるでしょうが、おそらく大名預かり程度の罪であり、一方で翻訳が完成すれば、その罪に余りあるほどの有意義な物だと考えていたのでしょう。

なんせ、その獄中からの手紙にも
「昼夜厠(かわや)のにほひをかぎ居候(そうろう)
夜は八ツ九ツ迄
(まで)もねむられず、真暗なる所に、おきてみつ床(とこ)の寒さ哉にて候」
と、トイレの臭さと寝床の寒さには嫌気がさすものの・・・いや、むしろ獄中からの手紙にそんな事を書いちゃうところに、「多分大した罪にはならんやろ」みたいに、楽観的に思っている雰囲気が感じとれます。

ところが、その後、急激にその身体の不調が迫り来るのです。

投獄されてから、4ヶ月後の文政十二年(1829年)2月13日には、もはや、「評定所の吟味に出られない」旨の届けを出しています。

そして、さらに、そのわずか3日後の文政十二年(1829年)2月16日・・・家族のもとに病死の知らせが届くのです。

それは・・・
何の病気なのか?
どんな経過をたどったのかも明かされない不確かなもの・・・

いまだ、45歳の男盛りでした。

なので、その死因は、病死の他に、覚悟の自決をしたのでは?の憶測も流れてしまう事になるのですが・・・

Takahasikageyasu300 さらに、衝撃的なのは、未だ事件が未解決であったため、その後、景保の遺体は塩漬けにされて瓶(かめ)に納められ、判決が出る翌年の3月26日まで、浅草溜(たまり)内に保管されたのだとか・・・

結局・・・その判決は
「存命ニ候ヘバ死罪」
と、大変厳しい物でした。

さらに子供たちは遠島、門弟たちは江戸払い・・・

しかも、景保の遺骸は「取り捨て」となったため、その後、遺体がどうなったかすらわからないのだそうです。

景保にとっては、私利私欲ではなく、それこそ国の未来を思ってやった事・・・なんだか、この先の幕末維新の動乱を予感させる悲しい出来事となってしまいましたね。
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2013年2月15日 (金)

泉州堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷

 

慶応四年(1868年)2月15日、土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件・・・世に言う泉州堺事件が起こりました。

・・・・・・・・

時は幕末・・・

ペリー来航に始まった、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かの嵐は、紆余曲折を経た後(くわしくは【幕末・維新の年表】で>>)、同盟を結んだ薩摩長州(1月21日参照>>)によって倒幕へと向かっていきます。

その薩長の勢いを回避するため、江戸幕府・15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)を決行したのが慶応三年(1867年)10月14日の事・・・

しかし、何が何でも幕府を倒したい薩長は、その日のうちに朝廷から討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)を受け、12月9日には大政復古の大号令を発します(12月9日参照>>)

それでもまだ、衝突を回避しようと思っていた将軍・慶喜でしたが、12月25日、江戸市中にてテロ行為を行っていた薩摩藩に対しての藩邸襲撃事件が勃発し(12月25日参照>>)、やむなく、薩摩討伐の許しを朝廷に得るため、年が明けた1月2日、幕府役人が京都へ向かいます。

この幕府の行列を、京都に入れるまいと鳥羽街道と伏見街道で待ち構えていた薩長軍が阻止・・・こうして始まったのが鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

続く1月5日には、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍である事を明白にして幕府軍に勝利を収めた事で(1月5日参照>>)、敗戦を知った慶喜が、単身、大坂城を脱出して(1月6日参照>>)江戸へと戻ったため、1月9日には大坂城が開城されて(1月9日参照>>)鳥羽伏見の戦いは終結・・・

官軍となった薩長軍は、この勢いのまま東(江戸)方面へ向かって行く事になりますが、ここからの戦いは、一般的に戊辰戦争と呼ばれます。

・・・と、こうして戦闘の主力部隊は、東へ移動するわけですが、ここで、京都や大阪の幕府軍が負けた・・・という事は、当然、それまで、その場所の治安などを引き受けていた幕府の侍たちもいなくなるわけで・・・

新しく、その場所の治安維持に務めなければならないのは、官軍側の人たちという事になりますが、ここに絡んで来るのが、すでに日本にやって来ている外国の軍隊です。

ご存じのように、すでに幕府が開国をして、開かれた港には外国の軍隊もいて、官軍の中心となる薩長も薩英戦争(7月4日参照>>)下関戦争(5月10日参照>>)の経験から、外国を受け入れる体制だったわけですが、なんだかんだ言っても、官軍側の人たちは、ほんの1~2年前までは、尊王攘夷を叫んでいた人たちばかりですから・・・

未だ、外国人を敬遠する気持ちも残ったまま・・・

そんなこんなの1月11日・・・土佐藩の箕浦猪之吉(みのうらいのきち)率いる土佐藩八番隊は、かの大坂城落城によって奉行所の同心たちが逃亡してしまって無政府状態となっていた堺の警護を任される事になります。

実は、この1月11日という日・・・この後の堺事件を予感させるようなアメリカ兵射殺事件=神戸事件が起こっています(1月11日参照>>)

聞くところによれば、箕浦は、この神戸事件の事を1月16日には聞いて知っていたと言いますが、それが、彼に影響をあたえたのか否か、とにかく、事件は慶応四年(1868年)2月15日に起こります。

この日の朝、駐兵庫フランス副領事らを迎えるために、堺港に入っていた、フランス海軍のコルベット艦・デュプレクスは、午後になって、湾内の測量を行っていましたが、午後3時頃になって、士官以下数十名のフランス水兵が上陸して堺市内を徘徊したのです。

夕方、この知らせを受けた箕浦ら土佐藩八番隊と六番隊警備隊長・西村佐平次らは、フランス水兵たちに帰艦するよう説得しようとしますが、何せ言葉が通じないわけで・・・

なんやかんやモメながらも、言う事をきかない水兵らを、とりあえずは連行しようとする箕浦らに対して、フランス兵側が、そこにあった藩旗をぶっ倒して逃走しようとしたため、 箕浦は発砲を命令・・・

ある者は射殺され、ある者は海に落ちて溺死し、結果的に11名のフランス兵が亡くなると言う事件になってしまったのです。

即刻、事件に関わった面々は大阪の土佐藩邸に戻され、フランスの要求通りに遺体をすぐに引き渡した新政府ですが、問題はここから・・・

もちろん、自国の兵を殺されたフランスも黙ってはいられませんから。

フランス公使・ロッシュ
事件に関わった者を斬刑に処する事
賠償金の要求に応じる事
土佐藩主が直接フランス軍艦まできて謝罪する事
など5箇条からなる要求を日本側に提示しました。

冒頭に書いた通り、この時、すでに軍の主流は東へと移動していて、畿内は何かと手薄・・・万が一フランス側とモメるような事になれば、戦力では到底勝ちめはありませんから、新政府代表で交渉役となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)も、ほぼ、フランス側の要求を飲むしかありませんでした。

ただし、事件に関わった者全員を処分するとなると、世論の反感をかい、未だ冷めやらぬ攘夷論が再び燃え上がるとの事から、これだけは、箕浦以下、大きく関与した者20名を切腹させる事で話をまとめたのでした。

かくして2月23日、堺の妙国寺にて、刑が執行されます。

Dscn1030a800 妙国寺(大阪・堺市)

この時、次々と切腹する藩士たちは、居並ぶフランス人たちに、自らの内臓を投げつけたと言われています。

その光景を見ていたフランス軍艦長・トゥアールは、フランス側の被害者と同じ、11人が切腹したところで中止を要求・・・結局、残りの9名は助命されました。

これには、
その切腹の光景があまりにも惨かったから・・・
あるいは、この状態では、
逆に彼らが英雄扱いされると判断したから・・・
また、
夕暮が迫って来たため、夜になって自分たちが帰る時の危険を考えて・・・
など、様々に言われますが、結局は、事件そのものよりも、彼らの処刑に注目が集まってしまった事は否めません。

あの(もりおうがい)『堺事件と題した小説を大正時代に発表していますが、やはり、処刑を受けた側の立場に立って、その理不尽さを語っているようです。

もちろん、これは小説なので、創作が含まれているわけですが・・・

とは言え、現在の研究では、フランス側が、この日、湾内の測量をしていたのは、前月に起こったアメリカ軍のボート転覆事故で乗組員が溺死した事を受けての調査測量で、上陸する事も事前に届け出ていたという話もあり、そうなると、冷静に見た場合、完全に日本側の連絡ミスという事にもなるわけで・・・

亡くなった方々の最期が壮絶なだけに、様々に解釈される堺事件・・・またまた、幕末維新の動乱に散った人々を思うばかりです。
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2013年2月14日 (木)

2月14日は「ふんどしの日」

 

2月14日は、言わずと知れたバレンタインデー!!

ですが、実は、「2(ふん)(ど)(し)の語呂合わせから『ふんどしの日』という記念日でもあるのです。

・・・と思って、その記念日を制定した『日本ふんどし協会』のサイトに行ってみると・・・これがなかなかオモシロイ!!

『日本ふんどし協会』へ>>(別窓で開きます)

今日だけなのかも知れないけれど、トップにどど~んと
「2月14日はふんどしの日だよ!!」
と、デカデカと表示・・・

しかも、「恥ずかしいと思う人のために…」と、はきたい放題の『ふんどしカメラ』なるアプリも用意され、
「みんなで締めれば怖くない!」
「ナイスふんどし!」
(略して「ナふ!」)
という合言葉には、業界の方々の並々ならぬ努力を感じます。

また、男性陣は、
「バレンタインデーに、チョコではなく、ふんどしを贈る女性を手放すな!」
という定義も・・・

その理由は、
まず、この2月14日が、「バレンタインデーであるとともに、ふんどしの日でもある」という事を知っているという事で、その女性が情報通で知識が豊富な事がうかがえ、さらにユーモアがある事もわかり、そのうえ、「健康に良い下着を贈る」という行為に、その愛情の深さを感じる・・・というわけだそうです。

「なるほどなぁ」となかなかに説得力のある理由だと思いました。

ところで、この「ふんどし」の語源については、「踏通(ふみとおし)が転じて・・・というの一般的ですが、他にも「踏絆(ふもだし=馬の行動を拘束する綱)や、 「絆す(ほだす=動かないよう縄等で繋ぎ止める)「糞通(ふんとおし)から・・・などと諸説あって、よくわかっていません。

漢字で「褌」と書くところから、戦闘服の意味だったとも・・・

とにもかくにも、そのおおもとがよくわからないふんどしですが、日本史上、絵画として初めて登場するのは、平安末期から鎌倉時代に成立したとおぼしき『餓鬼草子(がきぞうし)・・・

とは言え、当時は布自体が高価な物であった事を考えると、やはり、下着として一般的に普及しはじめるのは江戸時代の初期の頃から・・・

はじめは、五尺(約1.5m)ものを半分にした物が主流だったようですが、やがて、長さが六尺(約2.3m)ほどある六尺褌(ろくしゃくふんどし)や、長さ1mほどの布の端に紐をつけた越中褌(えっちゅうふんどし)、長さ70cmほどの布の両端に紐を通したモッコなどなど、多くの種類が生まれました。

素材は、一般的には木綿ですが、高貴な人は繻子(しゅす)などを用い、色も、普通はの無地ですが、魔よけの意味を込めたを用いる事もよくありました。

Dscn0558a800 江戸時代の錦絵に描かれた三十石船のふんどし姿の船頭

ちなみに、越中褌は、以前書かせていただいたように、六尺褌を簡略化した物で、越中守(えっちゅうのかみ)だった細川忠興(ただおき)が考案した(12月2日参照>>)と言われますが、やはり、越中守だった松平定信(まつだいらさだのぶ)(6月19日参照>>) 説や、越中という名の遊女が考案したと言う説もあります。

また、モッコは、越中褌をさらに簡略化した物で、石や土を運ぶモッコの形から、その名が生まれたという事です。

江戸時代から明治にかけては、褌は、男子が9歳になった時に初めてつけるとされ、武士だけではなく、民間でも広く、元服に至るまでの中間の通過儀礼として、着用の儀式的な物が行われていたようです。
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2013年2月12日 (火)

長屋王の邸宅跡の木簡発見で…

 

天平元年(神亀六年・729年)2月12日、時の左大臣であった長屋王が自害に追い込まれた長屋王の変がありました。

・・・・・・・・・・

長屋王(ながやのおう・ながやのおおきみ)は、大化の改新(6月12日参照>>)を行った天智(てんじ)天皇亡き後の後継者争いである壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)の孫・・・

その後、天武天皇の遺志を引き継いだ奥さんの持統(じとう)天皇が、日本初の本格的な都=藤原京を誕生させ(12月6日参照>>)、日本は、皇族による中央集権の律令国家への道を歩み始めるわけですが、

その後、藤原京から平城京へと都が遷る頃(2月15日参照>>)には、天皇の親政というよりは、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)以来、強大な力をつけて来た藤原氏による政治へと移行していく中、皇族の一人として孤軍奮闘するのが長屋王・・・

という事で、藤原氏にハメられた悲劇の王としての印象が強いのですが、一方では長屋王が仏教よりも、神仙思想を重視しており、力をつけて来た仏教界から煙たがられていた・・・なんて話もあり、その抗争は少々複雑なようですが、

とりあえずは、5年も前のページではありますが、長屋王の変については2008年2月12日>>に書かせていただいてますので、そちらでご覧いただくとして、本日は、もう一つ・・・長屋王を一躍有名にした、アノ事について・・・

・‥…━━━☆

それは、昭和六十一年(1986年)から始まった奈良市内の二条大路の南側での発掘調査・・・

ここは、当時、そごう百貨店の建設予定地だったわけですが、当然、どこに何が埋まってるかわからない奈良という土地柄、その建設前に、奈良文化財研究所による調査が行われたわけです。

そんな中、掘っ立て柱が見つかり、堀が見つかり・・・どうやら、ここには、あの甲子園球場の1,5倍にあたる約60000㎡もの広大な敷地を持つ大邸宅があった事がわかって来ます。

宮殿に近い一等地に、このような大邸宅を構える人物・・・それは、藤原武智麻呂(むちまろ=不比等の長男・南家祖)か、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王=橘三千代の息子)(11月11日参照>>)か、舎人親王(とねりしんのう=天武天皇の皇子)(11月14日参照>>)か・・・と、様々な憶測と期待が渦巻いていたわけですが・・・

そんなこんなの昭和六十三年(1988年)1月13日・・・『長屋王の邸宅跡で名前入りの木簡が出土!』の見出しが新聞紙面を飾りました。

この遺跡が、長屋王の邸宅跡であった事がわかった瞬間でした。

Heizyoukyouzu 平城京の図
ちなみに、現在の法華寺が藤原不比等の邸宅跡とされています

しかも、この発見が、その屋敷の主である長屋王を一躍有名にするほどの大発見だったのは、名前入り以外にも、合計5万点を越える大量の木簡が出土した事・・・その内容を解読する事によって、未だよくわからなかった奈良時代の人々の、ごくごく普通の日常が解明されていく事になるのです。

Nagayanooumokkan600 ところで・・・
最初に見つかった木簡に記されていたのは
「長屋親王宮鮑大贄十編」
という文字・・・

これは「大贄」=長屋王の宮殿に「貢物として10編のアワビを送りましたよ」という、平城京宅配便の送り状なのですね。

こんなのが5万ですよ!

ちなみに、親王というのは、ご存じの通り、「天皇の皇子で、この先、皇位につく可能性のある人」を称する表示なので、本来、天皇になっていない高市皇子(たけちのみこ)の息子である長屋王を長屋親王と称する事は無いわけですが、母親の身分は低いものの、高市皇子は天武天皇の長男ですし、長屋王もその長男・・・

なので、実際に親王と称されていたのではなく、その大きな権力に対して敬意を表する意味で「親王」と書いたのであろうという事だそうです。

実際に親王に準ずるような地位にいたわけですし・・・平たく言うなら、バーのホステスさんが、一般サラリーマンのお客さんに「社長さん」って言ったり、商売人がお店の主人を「大将」って呼ぶみたいな物??(←これは大阪だけかも)

とにかく、以来、5万点に及ぶ木簡は、様々な事を教えてくれ、以前、チョコッと書かせていただいた奈良時代の食生活が意外にグルメだった(5月31日参照>>)もわかるわけで・・・

さらに、その長屋王邸に使用人が何人いたやら、複数の奥さんの生活様式やらも垣間見え、また、その邸宅には、私的な空間だけでなく、家政を取り仕切る執務機関や税を管理する税務署的な場所もあった事もわかっているのだとか・・・

まぁ、細かな事は、おいおい・・・それこそ、私自身も、イロイロと調べながら、順次ご紹介させていただけたらと思っておりますが、とりあえず、その中で、個人的に興味を持ったのは、「長屋王が犬を飼っていた」という事・・・

それも、数の多さや1頭あたりの餌の量からみて、「猟犬」だった可能性が高いのだとか・・・ついつい奈良時代の装束で狩りをする姿を想像してしまいます~

しかも、その餌に米の飯を与えていたらしい事も・・・

この時代の庶民がアワやヒエのような雑穀が主食だった事を考えれば、飼ってる犬にご飯を与えるなど、ちょっと贅沢三昧な気がしないでもなく、ますます長屋王への気の毒感が薄れてしまう今日この頃ですが、まぁ、国のトップクラスとなれば、そんなもんかも知れませんね。
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祝!ブログ開設7周年~感謝です

 

おかげさまで、本日、2013年2月12日を以って、この「今日は何の日?徒然日記」が、開設7周年を迎えました。

私事で恐縮ですが・・・

以前から、時々書かせていただいております通り、物ごころついた時から歴史好きで、小学校から図書館に入り浸り、中学からお寺巡りを続けて来た茶々ではありますが、このブログを書くにあたって、今一度調べたり、書籍を読みなおしたりしていくうち、これまでは漠然とした「ただの好き」だったのが、より確実に、より具体的に頭の中に描いていけるようになりました。

私の中での、ちょっとした進歩です!

とは言え、未だに年号を覚えるのは苦手ですが・・・(*´v゚*)ゞ

でも、負け惜しみではありませんが、年号を覚えるより、出来事の流れを・・・それこそ大河のように流れる時代が、様々な人物の登場と関わりによって、少しずつ変化して次世代へ受け継がれていく様が、私としてはとても楽しいのです。

なので、「歴史上の人物で誰が好き?」「どの時代が好き?」と聞かれると返答に困ってしまう茶々であります。

そのために、様々な時代を扱い、様々な歴史人物が登場するこのブログは、専門的なサイトから見れば、情報は浅く、間違いも多いかも知れませんが、「歴史を勉強する」ではなく「歴史を楽しむ」をモットーとして、細々と続けていけたら・・・と思っております。

これまでも、そしてこれからも、イロイロと調べながら、勉強しながらの執筆ではありますが、
今後とも「今日は何の日?徒然日記」と羽柴茶々をよろしくお願い致しますm(_ _)m
 .

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2013年2月10日 (日)

北海道の名づけ親~探検家・松浦武四郎

 

明治二十一年(1888年)2月10日、幕末から明治にかけて活躍した探検家・松浦武四郎がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、文化十五年(1818年)に、伊勢国一志郡須川村(三重県松阪市小野江町)の郷士・松浦圭介(桂介・時春)の四男として生まれました。

Matuuratakesirou600 実は、この、松阪という地に生まれ育った事が、彼の人生を決定づけたとも言えます。

それは、この松阪という場所が、伊勢・和歌山・長谷(はせの3つの街道と、伊賀越え奈良道が重なる交通の要所であった事・・・
 .

以前、やはり松阪出身の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)のページ(6月13日参照>>) で、その宣長が憧れの師=賀茂真淵(かものまぶち)と、人生たった1度の対面をする「松阪の一夜」のお話をご紹介させていただきましたが、地元にいながらにして、憧れの人物と対面できるラッキーに恵まれるのは、この松阪が街道の要所にあって、伊勢参りをする真淵が、ここを通りがかったから・・・

そう、以前、枚岡梅林を訪れた時にチョコッと書かせていただいた(2月22日参照>>) 江戸時代に何度もブームとなった・・・「お陰参り(おかげまいり)「伊勢参り」ですね。

物ごころついた時から、自宅のすぐそばを通る伊勢街道を行き交う人々を目にしていた武四郎少年は、
「この人たちはどこから来て、どこへ行くのだろう?」
と、旅人たちがたどった道、これから通るであろう道、果ては、その先にあるまだ見ぬ遠い町へと思いを馳せるようになるのです。

7歳になった頃、近くのお寺に手習いに通いはじめた武四郎少年は、そこにあった『名所図絵』に興味を持って、一心に読みふけります。

やがて、13歳で津藩の儒学者・平松楽斎(ひらまつらくさい)の私塾に通いますが、その3年後・・・無断で家を飛び出して
♪盗んだバイクで走り出す~♪16の夜~~てのは冗談ですが、16歳でいきなり出奔して、たった一人で江戸まで旅をしちゃいます。

さすがにこの時は、連れ戻されてしまいますが、その熱意が伝わったのでしょうか?翌年には、ちゃんと許可を得て、念願の一人旅に出発する事になります。

近畿地方に始まって、北陸甲信越・・・東北を回って関東から東海へと旅を続け、一旦帰郷した後、19歳の時には四国八十八ヶ所巡りを達成し、翌・20歳で九州一周・・・

ところが、立ち寄った長崎にて病に倒れた武四郎は、出家して文桂と名乗り、平戸のお寺の住職となります。

実は、最初の手習いのお寺で、仏教の事や経典を積極的に学んでいた武四郎にとっては、仏教の世界に生きる事も、もう一つの夢だったのです。

おそらく、体調を悪くして旅する事が困難となり、もう一つの夢に生きる事にしたのかも知れませんが、そこで多くの僧から絵を習う中、またまた旅への夢が膨らんで来ます。

そう、武四郎は、少年時代の頃から、旅をする時には必ず、自身が『野帳(のちょう)と呼ぶノートを持参していて、その土地の様子を、細かくメモし、詳細なスケッチも描き添えていたのです。

僧侶となって絵の才能が開花するうち、スケッチ旅行への憧れが、またまた盛り返して来たって感じでしょうか?

もちろん、徐々に体調も快復していった事もあるでしょう・・・24歳で住職を辞めて対馬(つしま)へと渡り、さらに朝鮮半島を目指そうとしたと言います。

まぁ、さすがにこれは、鎖国状態の江戸時代では叶える事ができず・・・しかし、戻って来た長崎にて、ここ何年か、日本近海に頻繁に現われていたロシア船が(4月5日参照>>)徐々に南下して脅威となっているとの話を聞き、蝦夷地(えぞち=北海道)を調査する事を決意するのです。

「日本を外国から守るためには、まずは、その国土をしっかりと把握しておかねばならない!」と・・・

弘化元年(1844年)、還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻る事)した武四郎は、翌年、28歳にして初めて蝦夷地に渡りました。

以後、41歳になる13年間で6回の調査を行っていますが、そのうち最初の3回は、なんと自費での調査・・・あくまで、個人で旅をして、それを記録していくという物でしたが、おそらく、細かな事まで例の野帳にメモしていく並々ならぬ彼の情熱が周囲の人をも巻き込んでいったのでしょう。

嘉永三年(1850年)には、3回目までの自費調査した野帳の記録を12冊にまとめた『初航蝦夷日誌』が出版されますが、それは、独学で旅した彼らしく予備知識の無い庶民にも読みやすく、「一般人でもわかりやすい」と大評判になります。

ただ、これは、単なる紀行文ではなく、彼自身の思いも書き添えていたので、ある一部の人たちからは反感を持たれる事になります。

そう、現地のアイヌ人と親しくなり、アイヌ語を教えてもらい、その文化のすばらしさを体感していた武四郎にとっては、アイヌの人々を下に見て酷使する松前藩のお侍や和人の商人たちの事が許せず、キワドイ実情とともに、その批判も書いていたのです。

また、測量の専門家でない彼の調査には、間違いが多かった事も確か・・・

ただ、できあがった詳細な地図は、充分に役に立つ物でしたし、それこそ生の体験談は貴重な物・・・特に、幕末になって高まって来た攘夷(じょうい=外国を排除する考え)思想の強い水戸藩などからは重用され、北の大地の現状を知りたい吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)(9月14日参照>>)らとも親しく交流し合ったと言います。

なんせ、現段階では、彼が、蝦夷地に最もくわしい人物・・・あの伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)も蝦夷を旅して地図を造ってますが、なんだかんだで海岸線のみで、内陸部深くに入った人は武四郎が初めてなのですから・・・

その評判は幕府をも動かし、安政二年(1855年)には蝦夷御用御雇(おやとい)に抜擢され、4回目以降の蝦夷地調査は幕府公認のもとで行われ、なんと、この間の調査の記録は150冊を越える膨大な物となったのだとか・・・

やがて迎えた明治維新・・・明治新政府では蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)に任じられた後、明治二年(1869年)に開拓使が設置される開拓判官に任命され、ここで武四郎は、これまで蝦夷地と呼ばれていた場所に、北海道という新しい名を命名するのです。

これは、彼が、アイヌの人たちから「アイヌは自分たちの事をカイと呼ぶ」と聞いた事から、そのアイヌ語の「カイ」に由来する言葉=「北のアイヌの地」という意味なのだとか・・・そう、アイヌの文化に敬意を表する、彼の考えは、未だ変わっていなかったのですね。

残念ながら、武四郎は「北加伊道」との表記を提案したものの、明治政府によって「北海道」の表記に変えられ、武四郎が意図した「カイ」の意味は伝わり難くなってしまいましたが・・・

もちろん、現在の北海道の地名に、アイヌ語に漢字を当てた独特の地名が多いのも、武四郎がアイヌの人たちを愛するが故の命名なのです。

しかし、異文化を尊重する彼の姿勢は、利益を優先する商人たちと度々ぶつかる事となり、結局、わずか1年で辞職に追い込まれてしまします。

その後は、馬角斎(ばかくさい)と号して趣味の世界に生きる武四郎でしたが、それでも、「全国を旅したい」という信念は変わる事無く、折に触れて旅を続け、その出版も続けました。

晩年には、68歳ににして、奈良県の、あの大台ヶ原に3度も調査登山をし、明治二十一年(1888年)2月10日71歳で亡くなる前年にも、富士登山を決行したのだとか・・・

♪花咲て また立出ん 旅心
 七十八十路 身は老ぬとも ♪

これは武四郎が亡くなる1年前に詠んだ、人生最後の和歌だそうです。

幼い頃に、家の前を通る旅人を見て
「僕も、あの向こうに行きたい!」
と夢見た少年は、狭い価値観にこだわる事ない広い視野を持ち、動乱の時代の真っただ中を、1歩、また1歩と、確実に歩み、おそらくそれは、最後の1日まで夢の途中だったに違いありません。

アイヌの人たちへの仕打ちを生々しく描いた記録のいくつかは発禁となり、上記の通り、明治政府の開拓使のやり方にも反対した事から、明治の頃は、その業績への評価が低かったという武四郎さん・・・大正→昭和→平成となって、時代がやっと、彼に追いついて来たのかも知れません。
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2013年2月 8日 (金)

エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶

 

建久三年(1192年)2月8日、法然らを批判した『興福寺奏状』で知られる鎌倉時代の僧・貞慶が、隠遁生活を願い出ました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「平清盛」での阿部サダヲさんの名演技のおかげもあって、一躍、時の人となった信西(しんぜい)入道・・・

本日の主役である貞慶(じょうけい)は、その信西の孫にあたります。

ドラマでも描かれていたように、信西は、もともと高階通憲(たかしなみちのり)と名乗っていた藤原一族の人・・・なので、貞慶も藤原氏という貴族の人だったわけですが、

ご存じのように、平治元年(1159年)の暮れに勃発した、あの平治の乱信西は首をはねられ都大路に晒され(12月15日参照>>)・・・当然その息子である貞慶の父=藤原貞憲(さだのり)も配流に処せられました。

この時、貞慶・・・わずか5歳・・・

何もわからぬままの生家の没落・・・幼い貞慶には、当時、興福寺の住職であった叔父の覚憲(かくけん)を頼るより他に道はなく、そのまま興福寺へと入り、11歳の時に出家して東大寺戒壇院で受戒・・・以後、僧侶として生きて行く事になります。

Dscn0639a800 興福寺

しかし、この貞慶・・・祖父=信西の比類なき頭脳を、そのまま引き継いでおりました。

法律を学び、万巻の書物を読み・・・それこそ、ジッチャンに負けず劣らずの勉強家で、しかも、得た知識を見事に使いこなす能力も兼ね備えていましたから、またたく間に当代きっての学問僧と噂されるほどに、その頭角を現していきます。

やがて、、大法会などにも奉仕し、後鳥羽(ごとば)天皇や、時の権力者=九条兼実(かねざね)らの信頼を一身に受けるようになりますが・・・

そんなこんなの建久三年(1192年)2月8日、いきなり兼実のもとを訪ねた貞慶は、
「興福寺を去って笠置山に隠遁(いんとん)したいのです」
と願い出たのです。

何のつまづきもなく、見事に学問僧としてのエリートコースを歩み続けていた彼の突然の願い出に、戸惑う兼実は、当然、引きとめますが、貞慶の決意は固く、翌年、弥勒菩薩の信仰篤き笠置寺にて隠遁生活を開始したのです。

兼実の日記には、
「仏教界の損失…非常に悲しむべき事」
とあり、ものすごく残念がっていた事がうかがえます。

彼が興福寺を出た理由には、
「春日神の夢のお告げがあった」とか、
「僧たちの堕落を嫌って…」とか、
「騒がしい奈良を離れたかった」とか、

様々にあるようですが、この後の活躍ぶりを見るならば、「官からの離脱」というのも大きな理由であった事でしょう。

実は、当時の、興福寺や東大寺や延暦寺の僧というのは、言わば官僚でもあったのです。

国家が認めた、あるいは国家推し進める仏教に奉仕する立場の僧ですから、出世を望むなら公家の仏事などへの尽力を欠かさず行い、学問僧として認められたければ、勉強に勉強を重ねて、談義や論義で相手に勝ってさえいれば、その地位は国家に守られて、順風満帆なわけですが、

それは、逆に考えれば、国家が認めない事はやってはいけない事になるわけで・・・

たとえば、貞慶は、隠遁後の承元三年(1209年)に、奈良の北山非人に代わって曼陀羅堂の再興を願う願文を書いて提出していますが、非人とは、それこそ文字通りの「人に非(あら)ず」という事ですから、国が人と認めていない彼らを手助けする事は、官の立場の僧にはできない事になるわけです。

一般的な救済活動もそうです。

「病に苦しむ人たちを助けたい」
と思っても、そのような人たちの多くは、一般から忌み嫌われる最下層の身分の人たちですから、官の立場では、彼らに接触する事はできないのです。

また、辻説法など、道端で庶民を集めて法を説く事も、国家の僧には許されなかった事でしょう。

「いずれ、仏教界の頂点に立つであろう」
という周囲の期待を裏切って、
約束されたエリートコースを捨てて、

それでも貞慶がやりたかったのは、何者にも縛られない、自らの思い通りの仏の道では無かったか?と思います。

革新的で新しい鎌倉時代の仏教と言えば、法然(ほうねん)(2月18日参照>>)親鸞(しんらん)(11月20日参照>>)に注目が集まり、彼らを批判して流罪に追いやる立場にあった貞慶には、保守的な僧として、なかなかスポットが当たる事がありませんが、

それこそ、
法然や親鸞の、「念仏を唱えた者だけが救われる」という思想が、貞慶の思想と相反する物であったから、反対の立場で『興福寺奏状』を起草して、専修念仏の停止を求めたのあって、

貞慶は、決して保守的な人では無く、むしろ革新的・・・彼もまた、鎌倉時代の新しい仏教を求めた人であったのかも知れません。
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2013年2月 7日 (木)

源平・一の谷~生田の森の激戦

 

寿永三年(1184年)2月7日、源平の合戦の中でも特に有名な一の谷の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・・・

このブログでは、一の谷の戦いについて、すでに、3度書かせていただいております。

いずれも、名場面と言われる部分なので、つい先にご紹介させていただきましたが、実は、それらの名場面の部分は、言わば戦いの後半部分・・・どちらかと言うと雌雄が決する頃のお話です。

なので、話が前後して恐縮ですが、本日は、その前半部分=生田の森での逸話を中心にご紹介させていただきたいと思います。
(本文の最後に、それらの名場面へのリンクを設置してますので、まずは前半戦のお話を…)

・‥…━━━☆

前年の寿永二年(1183年)、北陸での勝ち戦の勢いのまま上洛する木曽義仲(よしなか=源義仲)の軍に京を追われて(7月25日参照>>)、一旦は、四国の屋島に陣取っていた平家一門でしたが(10月1日参照>>)、その義仲と源頼朝(みなもとのよりとも)氏のトップ争いでモメてる間に態勢を立て直し、かつて、あの平清盛(たいらのきよもり)が一時の都を構えた福原(現在の神戸)(11月26日参照>>)へと落ち着いておりました。

一方、明けて寿永三年(1184年)の正月早々に、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(1月20日参照>>)頼朝の弟=源義経(よしつね)は、1月29日、兄の源範頼(のりより)とともに京を発ち、いよいよ平家軍に迫ります。

この時、彼ら源氏を迎え撃つべく、平家が福原を中心に築いていた城郭は、東は生田の森(現在の生田神社付近)、西は一の谷にまたがる場所で、北には崖の如き険しい山があり、南には海が迫るという、言わば天然の要害・・・

そこに、わずかに行き来できる東西に堀や土塁、柵などを構築して騎馬武者の進路阻むという造りで、特に、西の一の谷側では、山の麓から遠浅の海の中にまで大石を積み上げての防御態勢をとっていたと言います。

さらに、東の大手(正面=生田の森)には平知盛(とももり=清盛の四男)平重衡(しげひら=清盛の五男)西の搦め手(からめて=一の谷)には平忠度(ただのり=清盛の弟)福原に通じる山の手には平通盛(みちもり=清盛の甥)を配置・・・さらに、山中の丹波路の三草山付近には平資盛(すけもり=清盛の孫)を向かわせる万全の態勢

しかも、一門トップの平宗盛(むねもり=清盛の三男)建礼門徳子(けんれいもんいんとくこ=清盛の娘で安徳天皇の母)安徳(あんとく)天皇は、すでに船にて海上に退避という徹底ぶりでした。

一方、攻める源氏は、範頼軍が山陽道を通って東の大手の生田の森へ、義経軍が丹波路から山中を迂回して西へと回り、搦め手の一の谷へと2手に分かれての挟み撃ち作戦を決行します。

2月5日夜・・・早くも鉄壁の一つが破られます。

丹波路を行く義経軍が、内通者に命じて、合戦は翌日との判断をしていた資盛の陣に火をかけさせ、そのドサクサで三草山を突破したのです。

もちろん、この一報を聞いた平家軍は、東西の城戸を更に固めるわけですが、ここで義経は密かに自軍を2手に分け、土肥実平(どひさねひら)に7000の兵をつけて、そのまま一の谷に向かわせ、自らは3000を率いて別の道を・・・そう、これが、ご存じ鵯越(ひよどりごえ)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、義経の通ったコースは、あくまで伝承で、実際にはよくわかっていないのですが・・・(鵯越逆落としのページへのリンクは本文の最後あたりにあります)

かくして迎えた寿永三年(1184年)2月7日・・・運命の夜明けを迎えます。

合戦の火蓋が切られたのは西の城戸=一の谷でした。

一番乗りを狙う熊谷直実(くまがいなおざね)は、息子とともに、密かに他者を抜け駆け・・・未だ静まり返った西の城戸に向かって大声で名乗りを挙げますが、わずかの兵数と見切った平家側の反応は無し・・・

しかし、そこに、やはり1番乗りを狙う平山季重(ひらやますえひら)らが到着して名乗りを挙げると、平家側も黙ってはおれず、24騎の武者が踊り出て、両者入り乱れての戦場となりました。

そうこうしているうちに、かの土肥実平の7000の本隊が到着して怒涛の如く押し寄せ、一の谷は本格的な合戦に突入します。

Itinotani1000 源平一之谷大合戦之図:歌川芳綱・画(静岡県立中央図書館蔵)

一方、その間に大手の生田の森でも合戦が開始されます。

寄せる源氏は5万騎・・・と、その中に、武蔵の国の住人である河原高直(たかのう)盛直(もりのう)という兄弟がいました。

戦いが始まろうとする頃、兄の高直は弟・盛直に、その決意を語ります

「大物の武将は、自分から率先した戦わんでも、部下が手柄を立てたら、それが大将の功名となるけど、俺らみたいな下っ端は、自分で敵の首を取らん限り、功名にはありつけん。 

このまま、後方で矢の1本も射らんままではアカンさかいに、これから敵の中深く入り込んで、ひと矢撃ってこようと思う…けど、そうしたら、おそらく命は無いやろから、お前は、ここに残って、俺の武功の証人になってくれ!」
と・・・

すると盛直・・・
「兄弟のうちで、兄貴が討たれて、俺だけが生き残っても、なにも残らへんがな!
俺も行く!
どうせなら、同じところで討死しようぜ!」

お互いの心意気を感じた二人は、わずかにいる配下の者に向かって、故郷で待つ妻子たちに、最期の勇姿を伝えるようにと言い残し、馬にも乗らず、その足で、二人して平家の構築した柵を乗り越え、敵陣へと入ったのです。

「武蔵の国の住人、河原太郎私市(きさいち)高直、同じく次郎盛直…生田の森の先陣ぞや!」
と、高らかに名乗りを挙げる兄弟ですが、なんたって、たった二人・・・

構える平家側は、たった二人で乗り込んで来た彼らに、関東武者の勇気を感じるものの、たかが二人で何ができるものかと、ただ、見守るばかり・・・

ところが、この河原兄弟は、比類なきほどの弓の名手・・・次から次へと放つ矢が、危ない場所を攻撃してきます。

こうなったら平家軍も黙ってはおられません。

こちらも西国一の弓の名手とうたわれた備中の住人=真名辺(まなべ)五郎が得意の弓を射かけ、見事、それが高直の胸板を撃ち抜きます。

身動きがとれなくなった兄に、慌てて弟が駆けよって肩に担ぎあげ、再び柵を乗り越えて戻ろうとしますが、そこをすかさず真名辺の2本目の矢が弟・盛直の胴を貫きました。

哀れその場で倒れた二人は、駆け寄った平家の兵士によって、その首を取られます。

この光景を見ていた大将=知盛は
「敵ながらあっぱれな勇気…彼らこそ一騎当千のツワモノや!惜しんでも余りある!」
と褒めたたえますが、この兄弟の死の一報に、怒りをあらわにしたのが梶原景時(かじわらかげとき)・・・

「河原兄弟を死なせてしもたんは、指揮をとる俺らが不甲斐ないからや!
今こそ、一気に攻める時やぞ!」

との景時のゲキに、一斉に城中に攻め入る源氏軍・・・

と、その先頭をただ一人で駆けていくのは、自らの次男=梶原景高(かげたか)・・・

慌てて景時は
「ただ一人で先駆けする者には褒美は無いぞ!
後方の兵の勢いを見ながら進め!」

と指示します。

しかし景高は
♪もののふの とりつたへたる あづさ弓
 引いては人の かへるものかは ♪

との一首を詠んで、敵陣深く突っ込んで行ったのです。

戦場とは言え、さすがに親としての心配が先立ち
「平次(景高の事)を討たすな!」
と叫びながら、長男の景季(かげすえ)、三男の景茂(かげもち)とともに、敵の中へ・・・

しかし、このドサクサで、今度は長男の景季の姿を見失います。

しかも、そばにいた郎党の話では「すでに討死した」と・・・

さすがの景時も、その思い抑える事ができず、
「俺らが戦場で奮戦するのも、子供の事を思えばこそや!
子供を討たせて、父親が生き残ったってどぉもならへんがな!」

とばかりに、大声で敵陣に向かって名乗ります。

「我こそは、鎌倉権五郎景正の末孫、梶原平三景時…東国に聞こえし一騎当千の兵なり!我と思わん者は見参せぃ!」

平家にも、その名聞こえし梶原景時・・・その首取れば、このうえない褒美に預かれるとばかりに、無数の兵が景時を取り囲みますが、それらを蹴散らしつつ、さらに敵陣の奥へと進む景時・・・

「源太(景季の事)はいずこ」
と、声を挙げながら、さらに置くへと進むうち、5人の兵に囲まれ、岩壁に追い詰められている我が子=景季を見つけます。

すぐさま駆けつけ
「ええか、源太、父はここにおる!死んでも敵に背中を見せるな」

と励ましながら、父子で協力して、周囲の兵を討ち果たす二人・・・
「弓矢取りっちゅーもんは、進む時も退く時もタイミングを見計らうもんや!
1騎で勝手な行動をする物やない…さぁ、来い!」

と、我が子をひき抱えて、城外に引き返しました。

この時の景時の戦いぶりは「梶原の二度懸け」と呼ばれ、能『箙(えびら)の題材となりました。

ちなみに、この時、景季は、箙に梅の花を指して奮戦していたとの事で、その手折った梅が、現在も生田神社の境内にあり、
『箙の梅』と呼ばれているとか・・・ロマンやなぁ(*゚ー゚*)

・・・と、こうして、激戦が繰り広げられた生田の森&一の谷ですが、この流れが変わるのが、例の義経の『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』(2008年2月7日参照>>)・・・

まさかと思った崖からの攻撃に、平家の本営は大混乱となり、一の谷の大将=平忠度が討死(2009年2月7日参照>>)平重衡が生捕られ(6月23日参照>>)、さらにあの「青葉の笛」で知られる敦盛(あつもり=清盛の甥)の最期(2007年2月7日参照>>)・・・となるのですが、

続きのお話は、それぞれのページでどうぞm(_ _)m
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2013年2月 6日 (水)

足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦

 

延元元年・建武三年(1336年)2月6日、後醍醐天皇方の北畠+新田軍と、足利直義の軍が遭遇戦を展開した豊島河原合戦がありました。

・・・・・・・・

第96代後醍醐(ごだいご)天皇とともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)が、その後に後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して挙兵(8月19日参照>>)・・・

それを迎え撃つべく、天皇の命を受けて進発した新田義貞(にったよしさだ)(11月19日参照>>)でしたが、箱根・竹ノ下の戦いに敗れます(12月11日参照>>)

一方、押せ押せムードの足利勢が、その勢いまま上京したため、後醍醐天皇はやむなく比叡山への逃れ、一時は京都を占拠する足利勢でしたが、態勢を立て直した義貞軍に、東北から馳せ参じた北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍が加わり、延元元年・建武三年(1336年)1月27日の京都市街での戦いに勝利・・・再び後醍醐天皇側が京都を奪回しました(1月27日参照>>)

しかし、この時、天皇方は、楠木正成(くすのきまさしげ)の進言で、一旦、兵を京都市街から退かせます。

この、京都市街に天皇方の兵がいなくなった状況を知った尊氏は、再び兵を京都へ戻しますが、実はこれが、正成の作戦・・・翌朝、2~30人の僧を市街へやり、討死した大将の遺体を探すフリをさせたのです。

「新田殿、北畠殿、楠木殿など、主だった方々=7人が討死されたので、供養のために、その遺体を探しております」
と・・・

この話を聞いて、「大将の討死により、多くの兵が散り々々に逃げた」と考えた尊氏は、追撃をかけるべく、京都市街に一部の兵を残して、それ以外の多くを、鞍馬路、小原口、勢多、宇治、嵯峨、仁和寺などへ差し向けてしまったのです。

その夜・・・尊氏が兵を分散させた事を確認した正成は、退いた比叡山より一気に京都市街へと撃って出て、市街に残っていた足利の軍に攻めかかります。

ふいを突かれた足利軍は、それこそ、鞍馬路やら宇治やら嵯峨やらへ散り々々に逃走しはじめますが、その状況を見た各場所に配置された兵たちもが、天皇方の追撃を恐れて逃走しはじめるわ、逃げて来た味方を敵と勘違いしてさらに逃げるわで、足利軍は大混乱となってしまいます。

もはや、尊氏自身も、自軍の統率すらとれない状況で、やむなく丹波方面へと向かいます。

途中、何とか連絡のとれた自軍と、湊川付近で合流した尊氏は、従者としてそばについていた熊野の別当の子孫で薬師丸という稚児を、使者として光厳院(こうごんいん)のもとへ派遣します。

この光厳院(7月7日参照>>)は、かの後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕に失敗して隠岐(おき)に流された時に(3月7日参照>>)鎌倉幕府によって擁立された天皇で、後醍醐天皇の復権にともなって退位させられていた方・・・なので、尊氏の味方になってくれそうな天皇経験者という事になります。

尊氏としては、後醍醐天皇に対抗するためにも、なんとか、天皇家の人の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を受ける事で、官軍の証である錦の御旗が欲しかったのです。

一方、2月2日に、足利軍の撤退を確認した後醍醐天皇は、逃れていた比叡山から都へと戻り、皇居へと落ち着きます。

そうこうしている間に、一旦散り々々になった足利軍も、尊氏が湊川にいると知った事で、徐々にもとの軍勢が戻って来るのですが、一方では「もはやこれまで」と新田軍に降った者も多く、天皇方の軍勢は、ますます増えていきます。

「ここで更なる追撃を…」と考えた天皇方は、顕家と義貞が10万余騎の兵を率いて京都を出立し、摂津・芥川(あくたがわ=大阪府高槻市付近)まで進軍します。

Asikagatadayosi600 これを知った尊氏は、弟の足利直義(ただよし)16万の兵をつけて向かわせました。

かくして延元元年・建武三年(1336年)2月6日両者は豊島河原(てしまがわら=箕面市から池田・伊丹へ流れる箕面川の下流の河原)で遭遇・・・合戦へとなだれ込んだのです。

押しつ押されつ・・・両者は五分五分のまま、その戦いは終日続き、勝敗が着かないまま、日暮れを迎えますが、そこに、遅れて到着した正成・・・

合戦の様子を見て、そのまま正面から攻めかからず、神埼を回って直義軍の後方につけ、そこから攻撃を開始します。

朝からの合戦にて、もはや疲れがピークに達しているところに加え、後方からの新手の登場に驚く直義軍・・・ここで、このまま1戦交えたなら、逆に、360度を敵方に囲まれてしまう危険大・・・

やむなく直義は、正成軍とは1戦も交える事無く、その合い間をぬって、兵庫へと撤退を開始しました。

これを更に追撃して西ノ宮へと到着する義貞・・・「これより先に行かせるか!」とばかりに、湊川に陣を構えて防戦する直義ですが、そこに登場して来るのが、それぞれに加勢する水軍でした。

足利軍には、大友(おおとも)厚東(こうとう)大内(おおうち)の水軍・・・
天皇方には、土居(どい)得能(とくのう)の水軍・・・

両者に新たな手勢が加わった事で、戦いは続くかに見えましたが、未だ士気を保っている天皇方に比べ、足利軍は連日の戦いで疲れ果てていて、その士気は低い・・・

その様子を見てとった大友水軍の大友貞宗(おおともさだむね)の進言により、尊氏は海路、九州へと向かって態勢を立て直す事となるのですが、そのお話は3月2日【足利尊氏・再起~多々良浜の戦い】でどうぞ>>
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2013年2月 5日 (火)

武田信玄の死後に勝頼が動く~明智城陥落

 

天正二年(1574年)2月5日、武田勝頼が美濃明智城を攻略しました。

・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した織田信長(9月7日参照>>)・・・しかし、ご存じのように、その二人の関係は、わずか1年ちょっとでギクシャクしはじめます(1月23日参照>>)

そんな中、信長は、上洛要請を拒み続けていた越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻撃(4月26日参照>>)・・・

さらに、この時に朝倉に味方した北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を巻き込んで、それは、元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦(6月28日参照>>)へと突入していきます。

もちろん、かねてより信長の態度に不満を抱いていた義昭は、これをチャンスとばかりに、未だ信長寄りの姿勢を見せていない各地の戦国大名や有力寺院に、自分の味方になるよう声をかけていき、この姉川から、わずか2ヶ月後には、あの石山本願寺も反・信長の姿勢となります(9月12日参照>>)

やがて、元亀三年(1572年)、義昭期待の大物=甲斐(かい=山梨県)武田信玄が動き始めます。

その年の3月に、配下の秋山信友(のぶとも)岩村城(岐阜県恵那市)を攻略させた信玄は、10月3日、自ら甲斐を出陣・・・10月13日には一言坂の戦い(10月13日参照>>)、続く14日には二俣城を包囲(10月14日参照>>)、二俣城攻略後の12月には、いよいよ三方ヶ原(2006年12月22日参照>>)、さらに、年が明けた元亀四年(天正元年・1573年)の正月早々、三河(愛知県東部)野田城を攻略します(1月11日参照>>)

以前にもご紹介させていただいた通り(2008年12月22日参照>>)、この時の信玄の西上が、実際に上洛を目的としていたかどうかは微妙なところですが、この後の2月16日の日づけで、義昭の側近=東芳軒常在(とうほうけんじょうざい)に宛てた手紙の中で、去る1月に野田城を攻め落とした事を報告とともに、信長と決戦する意欲も見せていますので、そのまま京都まで行く気だったかどうかは別として、この先、義昭に味方となって信長を倒すつもりであった事は確実でしょう。

それこそ、他を圧倒する軍事力を持っていた信玄の参戦に、義昭は大いに心が躍った・・・と、同時に、信長は絶体絶命のピンチと感じていたに違いありません。

こうなったら強気の義昭・・・3月30日、京都諸司代の村井貞勝(むらいさだかつ)の屋敷を包囲して焼き払ったのです。

この義昭に対抗すべく、続く4月4日には信長が上京焼き討ち(4月4日参照>>) を決行・・・

ところが、信玄は上洛するどころか、ここでUターンし、甲斐へと戻ってしまいます。

そう、ご存じのように、4月12日に信玄が亡くなってしまったのです。

この時、「3年間はこの死を隠せ」との遺言を残したとされ、実際に、息子の勝頼(かつより)が、父・信玄の葬儀を行ったのは天正四年(1576年)4月16日なわけですが・・・(4月16日参照>>)

その死を知ってか知らずか、義昭は7月3日に再び挙兵・・・槇島城(京都府宇治市)に立て籠ったものの、わずか半月ほどで降伏(7月18日参照>>)・・・その後は追放の処分となってしまいました。

その後、信長は、8月には越前征伐を開始して(8月6日参照>>)浅井・朝倉の両氏を滅亡に追い込みました(8月28日参照>>)

とは言え、越前という所は、もともと、朝倉氏と対抗できるほどの力を持つ本願寺門徒の地でもあった(8月6日参照>>)わけで、先に書いた通り、本拠の石山本願寺が反・信長にて参戦している以上、越前の本願寺門徒も、一向一揆として信長への対抗姿勢を見せるため、朝倉を倒したとて、まだまだ油断はできない場所・・・

Takedakatuyori600a そんな頃、事実上、信玄の後継者となった勝頼が動き始めるのです。

一説には、「信玄の死す」の一報は、半年ほどで京都まで届いたとも言われていますので、この年が終わる頃には、おそらく信長の耳にも、その情報が入っていたものと思われますが、それこそ、記者会見があるわけでもありませんので、聞いたニュースが本当かどうかは半信半疑だったでしょうから、信長は越前にも、武田の動きにも注意を払わねばならなかった事でしょう。

かくして、明けて天正二年(1574年)1月27日・・・そんな信長のもとに、武田の軍勢が岩村へと侵入し、明智城(岐阜県可児市)を取り囲んでいるとの知らせが届きます。

早速、信長は、2月1日、尾張(愛知県西部)と美濃の軍勢を先発隊と派遣し、自らも出陣すべく準備に取り掛かります。

続く2月5日、準備整い、嫡男・信忠(のぶただ)とともに信長は出陣・・・その日のうちに御岳(可児郡御岳町)まで進み、翌日には、高野(瑞浪市)に陣を構えました。

とは言え、このあたりは非常に険しい山々が連なる場所で、なかなか身動きが取れず、思うように攻撃できない状況・・・

それでも、信長は「山々の奥深く入り込んで攻撃せよ」と、軍にゲキを飛ばしますが、やがて、「すでに明智城は落ちた」との一報が舞い込んで来るのです。

実は、武田勢に囲まれた明智城中で飯羽間右衛門尉(いいばさま うえもんのじょう)なる人物が武田勝頼に内通し、奇しくも、信長が出陣した天正二年(1574年)2月5日の日に、明智城は落城してしまっていたのでした。

「是非に及ばず」
さすがの信長も、すでに落ちてしまっていては、どうする事も叶わず・・・やむなく、明智城の事はあきらめ、高野と小里(瑞浪市)備えのための砦を築いて配下の者を配置し、2月24日には、岐阜へと帰還すべく、現地を後にしました。

この後、勝頼は、カリスマ的存在だった父の影を払拭するかのように領地拡大に奔走し、やがては、あの長篠の戦いへと突き進んで行く事になりますが、そのお話は4月21日【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】>>でどうぞ
 .

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2013年2月 3日 (日)

リアル「信長のシェフ」~料理人・坪内某の話

 

この1月から、テレビ朝日系列で、金曜の深夜、「信長のシェフ」というドラマがスタートしました。

現代のシェフが戦国時代にタイムスリップして、織田信長お抱えの料理人になるという設定なのですが、これがけっこうオモシロイ(*^-^)

もちろん、時代考証や史実うんぬんに関してはツッコミどころ満載ですが、もともと、タイムスリップという荒唐無稽な設定ですし、予算の少ない深夜枠では、表現方法にも限りがあり・・・

ミッチー信長がはおる完全に今風の毛皮のコートも、合戦シーンなのに誰も騎馬してない事も、「衣装にもお金かかるやろし、馬の出演料って高いもんな~」と思えて許せるわけで・・・

ものスゴイ予算をかけたゴールデンで、つじつまの合わない戦国恋愛ドラマを見せられるよりは、肩肘張らずに見れるぶん、深く考えずに楽しめますし、そのワリには、森可成(もりよしなり)(9月20日参照>>)北畠具教(きたばたけとものり)(11月25日参照>>) といった、あまりドラマではお目にかかれないツウ好みの人物が登場して来るところは、なかなかの物です。

なので、ここのところ、毎週楽しみに見ておりますです。

て事で、本日は、その見終わったテンションそのままに、歴史上に登場する信長の料理人のお話を・・・
「いざ参らん!戦国のキュイジーヌ! 」
(↑主人公の決めゼリフです)

・‥…━━━☆

亡き13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長・・・(9月7日参照>>)

その後、かつては畿内を制していた三好家を滅ぼした時、その三好家に仕えていた坪内某(つぼうちなにがし)という料理人を生け捕りにします。

しばらくの間、放し囚(はなしめしうど=自由に動ける捕虜)となった坪内は、数年を経て、信長の家臣の菅谷九右衛門(すげのやきゅうえもん)に仕えるようになります。

と、その頃、市原五右衛門なる家臣が信長に進言・・・

「坪内なる者は、包丁さばきも見事ですし、格式の高い儀式や接待料理にも精通してますし、その息子らはすでに、ウチで奉公してますよって、そろそろ、捕虜てな身分を取っ払って、厨房の事を任せはったらどうでっしゃろ」

と、信長は
「ほな、明日の朝、料理させよ…その出来具合で考えとくわ」
との事・・・

早速、その翌日、信長が、その料理を食べる事になりますが、
「なんじゃ。この水臭い料理は…食べられた物やあれへんがな!」
と、怒り心頭・・・

すると、坪内は
「慎んで承りました。
けど、今一度チャンスを…明日、もっかい調理させてください。
それでも、お口に合わへんかったら、その時は、潔う切腹しますよって」

果たして、その翌日出て来た料理は、何とも美味・・・信長は、大喜びで、「何か褒美を与える」と言います。

すると、坪内は
「実は、昨日の味付けは三好家風の味付けでしたが、今朝のこの味付けは、ハッキリ言うて、第三番(三流)の味付けです。
三好家は長輝
(之長の別名)から5代に渡って将軍家の家事を取り仕切り、この国の政務を行って来ましたんで、何事も下品ではありませんのや。 

昨日のは、そんな1流の味付けでお出ししましたさかいに、お口に合わんのも道理やと思いますわ。
一方、今朝の味付けは辺鄙な田舎風味やったので、殿様のお口に合いましたんや」

と言ったと・・・

この話を聞いて、人々は「信長さん、恥かいてしもたな~」と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

・・・と、このお話は『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)『常山紀談(じょうざんきだん(1月9日参照>>)にあるお話なので、ご存じの方もおられるでしょうが、

信長ファンの皆さまには「信長をバカにしてる不愉快な逸話」と、
濃い味付け好みの関東の方々からは「都人の上から目線のいやらしさ満載だ」と、
かなりのお怒りをかっている逸話です。

中には、この坪内の発言を聞いた信長が、
「最初から主人好みの味を作らない料理人の方が、三流の料理人やんけ」
と言い返した・・・なんていう続きの逸話を掲載しているサイトもネット上にはありますが、少なくとも『武辺咄聞書』や『常山紀談』では、信長の言い返しはなく、

『武辺咄聞書』では
「「信長公に恥辱を与へまいらせし」と皆人笑ひけるとなん」と、
『常山紀談』では、
「聞く人信長に耻辱をあたへたる坪内が詞也といひあへり」と、
どちらも、「信長さんが恥をかいたのよ」という終わり方で話を閉めくくっています。

ちなみに、『武辺咄聞書』と『常山紀談』は文章は違いますが内容はほぼ一緒です。 
また、信長が言い返したという逸話の出典をご存じの方、ぜひ「○○という文献の●●あたりに出てたよ」とお教えいただければ幸いですm(_ _)m

という事で、言い返しの話は、未だ出どころを知らないので、『武辺咄聞書』と『常山紀談』の逸話に沿ってお話を進めさせていただきますが、

上記の「信長をバカにしてる不愉快な逸話」とか「都人の上から目線のいやらしさ満載だ」とかのお怒りの件ですが、私、個人の考えを申させていただきますと、
「おっしゃる通り」だと思います。

いや、むしろ、そのための逸話だと思います。

もちろん、『武辺咄聞書』や『常山紀談』の筆者が、信長をバカにして書いたというのではなく、「信長をバカにしたい」あるいは「都人特有の上から目線の」どこかの誰かが言い始めた話が噂として広がっていて、筆者である彼らが、巷の噂として、この話を書いたんじゃないか?と・・・

と、言いますのも、この話のあったとされる時期・・・
『武辺咄聞書』では「信長公天下を治給ふ砌(みぎり)とあるので、ちょっと曖昧ですが、『常山紀談』では「三好家滅し時」とあります。

信長は上洛の際に三好三人衆を畿内から追い出し(9月28日参照>>)、この時、三人衆は敗走してますが、三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ)若江城を安堵されて、むしろ、信長の味方となってますので、この『常山紀談』の「三好家滅し時」というのは、その後に義昭を受け入れた事によって攻撃されて(7月18日の後半参照>>)事実上滅亡した元亀四年(天正元年=1573年)の事と思われます。

そして、この料理の話は、その滅亡から数年を経て(『武辺咄聞書』では「四五年」と表現)とありますので、おそらく天正六年(1578年)前後のお話・・・信長が義昭を奉じて上洛してから、すでに10年経ってます。

それこそ、その数年前に義昭を追放して、柴田勝家北陸(2月9日参照>>)、秀吉に中国(5月4日参照>>)明智光秀丹波など(10月24日参照>>)を攻略させてる最中で、自らは本願寺との合戦に備えて、あの鉄甲船(9月30日参照>>)を建造させているような時期です。

いくらなんでも、そんな頃まで、信長が関西の薄味を知らなかったはずは無いわけで・・・なので、おそらくは、信長の事を快く思わない誰かが流した噂話ではないか?と・・・

ただ、それにしても、濃い味を三流だとか、田舎の好みだとか・・・やっぱり、皆さんお怒りのごとく、失礼な言い方ですよね~

しかし、それが、当時の価値観・・・

今だと、それは、単に味の好みが違うだけで、どちらが上品でどちらが下品なんて事はあり得ませんし、それも、座り仕事の多い京都の公家と、合戦にあけくれる武将とでは、当然、味の好みが違い、運動量が多ければ多いだけ、塩分も多く摂らなきゃいけないし、甘い物も欲するし、味が濃くなって当然だと理解できますが、当時の人には、そんな事はわからない・・・

ですが、そんな当時の価値観を払拭させたのが革新的な信長であり、それに学んだ秀吉であり、二人を引き継いで完成形を作った徳川家康では無かったかと思います。

それまでは、どこよりも賑やかで、どこよりも人が集まり、どこよりも最先端で、どこよりも素晴らしかった唯一無二の存在である都に対し、家康が作った江戸という新しい都市が、そこに匹敵する大都市になるにつれて、唯一無二の価値観は唯一無二では無くなり、新しいもう一つの価値観が、同等の価値観として成長し、いつしか「あっちもイイけど、こっちもイイネ」と思えるようになる・・・

そのような価値観が生まれるまでは、やはり、都の物が一流・・・という考えがあったのだと思います。

ところで・・・
ずいぶん昔に小耳に挟んだだけの話なので恐縮ですが、たしかユダヤの格言?か何かに「恥じをかく事は学ぶ事」というのがあると聞いた事があります。

たとえば、難しい漢字を覚えようとしてもなかなか覚えられないけれど、その文字が読めない事で、何かしらの恥ずかしい思いをした時、その恥ずかしさ度合いが大きければ大きいほど、その人は、1発でその漢字を覚え、一生忘れる事は無い・・・だから、怖がらずにどんどん恥じをかきなさい」みたいな事だったと思います。

もし、今回の料理人との話が、実際にあった話だったとしても、あるいは、信長をおとしめるための噂話だったとしても、信長さんともあろうお人なら、その出来事をバネとし、むしろ、より高みに昇るための原動力にしたのではないでしょうか?

.それに・・・
よくよく考えたら、そうでもなかったかもしれない比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)を、全山を焼きつくす悪魔の所業のごとく」との噂を流す延暦寺の僧や、帰依せずにちょとしたカリスマ性を見せただけで、「神になろうとする悪魔的思いあがり」なんて噂を流すイエズス会(4月8日の後半参照>>)のほうが、よっぽど悪意に満ちた信長をおとしめる噂のように、私は感じます。
 .

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2013年2月 1日 (金)

京都の昔話~愛すべき貧乏神

 

いよいよ、今日から2月・・・

春が待ち遠しい季節ですが、一方で、2月1日は、2度目のお正月との見方もある日です。

二月礼者(にがつれいじゃ)と言って、お正月に年始回りをできなかった人が、この2月1日に回礼に回るという風習のある日なのです。

・・・で、本日は、お正月の間に書こうかな?と思っていたのに書けなかったお話をご紹介させていただきます。

それは、京都の丹後地方に伝わる「貧乏神」の昔話です。

・・・・・・・・・

昔、あるところに、大きな酒屋さんを経営するお金持ちの長者さんがおりました。

・・・と言っても、このお話の主役は、その長者さんのお隣に住んでいるメチャメチャ貧乏の一家・・・

とにかく貧乏で、いつもお金が無く、ただただその日一日をなんとか暮らしている夫婦とその子供3人の5人家族のお家・・・

もうすぐ正月だというのに、やはり今年も貧乏真っただ中・・・年の暮れにお金も無く、しかたなく、皆で物乞いに出かける事にします。

「おぉ、皆、お椀と袋持ったか?」
「今日は、皆で、物乞いするさかい。行くで~」
とお父さんとお母さん・・・

と、仕度をして庭へ出ると、どこからともなく、見た事も無い小さな男の子が、チョコチョコっと現われて
「僕も連れてってぇな」
と・・・

「君、どこの子や?」
「ウチは5人でさえ食べていかれへんのに、このうえ君を養う事なんかでけへんで」
と夫婦が言うと、

「僕は、この家の貧乏神やねん。縁の下にいっつもおるねんで」
と・・・

「な~るほど…君がおるさかい、ウチは、いつまでたっても貧乏で貧乏で、食べる事にも困るような生活やねんな。。。納得~」
「って、アンタ
納得してる場合やないがな~
(゜゜ )☆\(^^ ;)☆
と、ふたりで夫婦漫才・・・

そんな夫婦の様子を見ていた男の子・・・

「ちょっとだけ、待っててな」
と、縁の下に入って行って、何やらちょっとゴソゴソ・・・
「タネ・シカケ、ちょぼっとあるよ」(←byゼンジー北京)

と、再び出て来たかと思うと、片手にひとつかみのお米を持って
「このお米を四升鍋で炊いて、ご飯にしてくれへんやろか?」
と言います。

「これを…って、
こんなちょびっとのお米、四升鍋で炊いたかて、おかいさん
(粥)にもなれへん…
米まばらスープみたいなんができるだけやないかい」

「いやいや、オッチャン、そう言わんと、いっぺん炊いてみてぇや」

「おかしな子ぉやなぁ」
と思いながらも、とりあえず、その子の言う通りに、大きな鍋でちょびっとのお米を炊いてみると・・・

ありゃ不思議・・・ピッカピッカのお米が、四升炊きのお鍋いっぱいに・・・

「ありゃま、不思議やこと…あんなちょびっとのお米で、こんなよーけのご飯になったわ」
と、家族皆、大喜びでワッシワッシとご飯を食べまくり・・・

「あ~~満腹なったわ~」
と、とえりあえず、一家5人、一息つきますが・・・

「さぁ、お腹もいっぱいになった事やし、ほな出かけよか」
とお父さん・・・

そう、確かに、今、お腹いっぱい食べましたが、そもそも、明日のお米を買うお金も無い家計火の車状態は変わらないわけで・・・

「ここで、こうしてたって、明日の正月のためのお餅を用意できるワケやなし」
と、再び家を出ようと庭に行くと、

またまた
「オッチャン、もうチョイ…明日まで待ってぇや」
と、男の子が止めます。

実は、ちょうどその頃、正月を迎える準備真っただ中の隣の長者さんの家では、お餅つきが始まっていたのです。

できあがったお餅は、それぞれに形を整えて、明日まで一晩置いておかれますが、その日の真夜中に、コッソリと長者さんの家に忍び込んだ男の子は、そのお餅に、食紅をペッタンペッタンまぎれ込ませていきました。

翌朝、そのお餅を目にした長者は
「あれぇ?えらいこっちゃ!お餅の中に血ぃがまじってしもとるがな!
こんなお餅は食べられへんなぁ…しゃぁない、ほかそ
(捨てる)

と、そこへチョコチョコっと現われた男の子・・・

「オッチャン、これ、ほかすんか?
ほかすんやったら、全部、僕にちょーだいや」

そう言って、そのお餅を持って帰って、貧乏家の皆に分けました。

貧乏一家は、またまた満腹に・・・

そうこうしているうちに、やがて、だんだんと長者さんの家は貧乏になっていき、逆に、貧乏一家には、どんどんお金がたまっていき、いつしか、その隆盛が反対になってしまったのだとか・・・

こんな貧乏神もいてるんやね~

・‥…━━━☆

と、お話は、ここで終わりますが・・・

う~~ん・・・これは、貧乏神やなくて福の神ですね~。

実は、これ以外にも、各地に残る貧乏神のお話には、今回のように、毛嫌いせずにやさしく対応したり、丁寧に祀る事で、貧乏神が「家の神」に転化して福をもたらすというパターンが多く残ります。

まぁ、一般的には、貧乏神は、豆粒ほどの小男だったり、貧相な老人の姿だったりする事が多く、今回のような子供の姿というのは少ないように思いますが、現われる時期が年の暮れというパターンは多いです。

なので、、おそらく、この貧乏神は、お正月とともにやって来る年神(としがみ)(12月20日参照>>) の性格も持っていたのでしょうね。

いずれにしても、各地に残る貧乏神のお話は、どれも憎めないほのぼのした雰囲気で、貧乏神という存在が、昔の人にとっても、「ちょっと厄介だけど愛すべき神様」であった事がうかがえますね。

きっと、今回の男の子貧乏神も、毎日、縁の下から貧乏一家の生活を見ているうちに、この一家の事が大好きになったのでしょう。
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