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2013年2月16日 (土)

シーボルト事件に殉じた天文学者・高橋景保

 

文政十二年(1829年)2月16日、江戸後期の天文学者高橋景保が、獄中で病死しました。

・・・・・・・・

高橋景保(かげやす)は、文化元年(1804年)に父・至時(よしとき)の死を受けて天文方(てんもんかた=天体運行や暦の研究をする江戸幕府の役職)を継ぎ、幕府の命により、世界地図の作成などに携わっていた人物・・・

文化七年(1810年)には『新訂万国輿地全図』を完成させたほか、伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)の測量事業を監督し、忠敬亡き後は、その遺志を継いで『大日本輿地全図』も完成させました。

また、同時に、外国の書物を翻訳する係である蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)書物奉行も兼ねる書籍の専門家でもありました。

御用で翻訳するのは、主にオランダ語でしたが、父が亡くなって間もなくの頃に来日したロシアの使節が、日本でも通じると勘違いして、満州語で書かれた文書を、当時の長崎奉行に提出しますが、これを見事に訳した『満文強解』や、和・漢・満・蘭語辞典である『亜欧語鼎(あおうごてい)まで作っていますので、その語学の実力も並々ならぬ物だった事がうかがえます。

そんな景保が、文政十一年(1828年)10月10日・・・いきなり、逮捕されます。

当時、ご近所さんだった元肥前平戸藩主・松浦静山(せいざん)は、その著書『甲子夜話続編』で、その日の様子を書き残しています。

「十月十日ノ夜、天文台ノ下、高橋氏ノ屋鋪(やしきヲ猿屋町ノ方ト御蔵前ノ方ヨリ大勢取囲ミタリ。
夜陰ノ事ユエ灯籠夥
(おびただ)シク、其中ニハ御紋ノ高張モ見エシガ、ヤガテ高橋ガ屋鋪ヨリ青網ヲカケタル駕(かご)ヲ舁(かつぎ)出タリ」

こうして連行された景保へは、その夜から徹夜の尋問が開始されます。

その容疑は・・・そう、このブログではすでに書かせていただいているシーボルト事件です。

長崎出島にあったオランダ商館付きの医者として文政六年(1823年)に来日し、学校と病院を兼ねた鳴瀧(なるたき)を開いていたドイツ人医師・シーボルトが、5年間の日本滞在を経て、帰国しようとした文政十一年(1828年)の8月、その出国荷物の中に、当時は海外へは持ちだしてはならない禁制の品だった伊能忠敬の日本地図の写しが入っていたのです。

そのページ(9月25日参照>>)に書かせていただいたように、もちろん、シーボルト本人も罪に問われますが、それをご禁制とわかっていながら彼に渡した人物も罪になるわけで・・・

本職が公儀隠密だった間宮林蔵(まみやりんぞう)(5月17日参照>>)の仮の姿が、伊能忠敬の弟子の樺太探検家・・・なので、当然、景保とも親しかったわけで、問題の地図を渡したのが景保って事が幕府に筒抜けとなって逮捕されたのです。

もちろん、景保自身も、それが罪になる事は重々承知だったわけですが、先にも書いた通り、景保は、書籍にも通じている人物・・・

実は、シーボルトが持っていたロシアのクルーゼンシュテルノン提督の書いた『世界周航記』という本とオランダ領東インドの地図9枚・・・これが、どうしても欲しかったのです。

つまり、ソレとコレを交換したのですね。

ここのところの日本をとりまく世界情勢が気になっていた景保は、「その最新情報が書かれているその本を翻訳すれば、きっと役立つに違いない」と考えていたのです。

バレれば罪に問われるでしょうが、おそらく大名預かり程度の罪であり、一方で翻訳が完成すれば、その罪に余りあるほどの有意義な物だと考えていたのでしょう。

なんせ、その獄中からの手紙にも
「昼夜厠(かわや)のにほひをかぎ居候(そうろう)
夜は八ツ九ツ迄
(まで)もねむられず、真暗なる所に、おきてみつ床(とこ)の寒さ哉にて候」
と、トイレの臭さと寝床の寒さには嫌気がさすものの・・・いや、むしろ獄中からの手紙にそんな事を書いちゃうところに、「多分大した罪にはならんやろ」みたいに、楽観的に思っている雰囲気が感じとれます。

ところが、その後、急激にその身体の不調が迫り来るのです。

投獄されてから、4ヶ月後の文政十二年(1829年)2月13日には、もはや、「評定所の吟味に出られない」旨の届けを出しています。

そして、さらに、そのわずか3日後の文政十二年(1829年)2月16日・・・家族のもとに病死の知らせが届くのです。

それは・・・
何の病気なのか?
どんな経過をたどったのかも明かされない不確かなもの・・・

いまだ、45歳の男盛りでした。

なので、その死因は、病死の他に、覚悟の自決をしたのでは?の憶測も流れてしまう事になるのですが・・・

Takahasikageyasu300 さらに、衝撃的なのは、未だ事件が未解決であったため、その後、景保の遺体は塩漬けにされて瓶(かめ)に納められ、判決が出る翌年の3月26日まで、浅草溜(たまり)内に保管されたのだとか・・・

結局・・・その判決は
「存命ニ候ヘバ死罪」
と、大変厳しい物でした。

さらに子供たちは遠島、門弟たちは江戸払い・・・

しかも、景保の遺骸は「取り捨て」となったため、その後、遺体がどうなったかすらわからないのだそうです。

景保にとっては、私利私欲ではなく、それこそ国の未来を思ってやった事・・・なんだか、この先の幕末維新の動乱を予感させる悲しい出来事となってしまいましたね。
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コメント

「本職が公儀隠密だった間宮林蔵(まみやりんぞう)」…全然知りませんでした。間宮海峡を発見したすごい人とは知っていましたが。

しかし,高橋景保の行動は,国家機密の漏えいと言うよりも,それ以上に得るものが大きいと考えた“義挙”ですねえ!…45歳ですか,今の私と同じです。

映画で「天地明察」を見ましたし,「伊能忠敬」の書物も読みましたが,江戸時代の中期以降の日本の天文観察や,日本地図作製はすごいですね。

その学問・実地のもとになっている「和算」と言うのが,またすごい。ヨーロッパでの「微分積分」等との対比ができるとまた面白いのでしょうが…。

伊能忠敬の作成した日本地図を見た英国人などは,その完成度の高さに“驚愕”したようです。日本は,それ以前の歴史的な田畑の測量等からして,その技術がすごかったらしいです。(これは,確かNHK BSプレミアムの『BS歴史館』でやっていました。)

景保の遺体は塩漬けにされて瓶(かめ)に納められたのは,高校の時の日本史教師から聞かされていました。

こう考えると,高等学校の教科書にちょこっとだけ出てくる人物にも,尊念の礼をとりたいです。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月18日 (月) 07時29分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

そうですね。
景保さんは、このい先の日本にとって大事な人だったと思います。
残念です。

投稿: 茶々 | 2013年2月18日 (月) 15時44分

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