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2013年3月31日 (日)

アンケート企画:日本史上、最高の「女傑」は誰?

さて、旧暦の無い31日という事で、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「女傑!!」

先日の赤松洞松院さんのページ>>で、いつもコメントをいただいているりくにすさんから
「『女性』のカテゴリーが作れそう」・・・
つまり、「まとめページを作っては?」という提案をいただきましたが、ふと、その前に、アンケートを作ってみたくなりました。
(以前の「汚名を晴らしたい」シリーズのアンケートが楽しかったので…)

で、今回、アンケートを作るに当たって「女傑」という言葉の意味をを辞典で調べてみると、
「しっかりした気性とすぐれた知恵をもち、実行力に富んだ女性」
「気性・言動などが思い切りがよく、大胆で、すぐれた働きをする女性」

などと出てきます。

つまり、「男顔負けの武勇に優れている」という意味だけでは無く、「内面の強さ」「母のような包容力」などもその中に含まれているとも解釈できるわけで・・・

って事で、今回のアンケートは、「女傑」&「烈女」・・・
それも、武勇の強さだけでなく内に秘めたる強さも含め
「あなたが思う日本史上、最高の『女傑』『烈女』は誰??という事で、アンケート募集したいと思います。

それこそ、人それぞれ重視する物が違いますので、様々なご意見もあろうかと思いますが、例のごとく、独断と偏見で16項目の選択肢を16個用意させていただきましたので「この人最高!」「惚れ惚れするゾ!」「地味だけどイイ」てな感じで、お好きな人に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 臨月なのに海外に出兵!
    神功皇后(参照ページ>>)
  2. 国を救い孤児を守る強き母
    和気広虫(参照ページ>>)
  3. 昼は一騎当千のツワモノ、夜は猫のように…
    巴御前(参照ページ>>)
  4. 言わずと知れた尼将軍
    北条政子(参照ページ>>)
  5. 頼りないダンナになど任せておけぬ!
    日野富子(参照ページ>>)
  6. 夫の遺志を継いで領国経営した鬼瓦
    赤松洞松院(参照ページ>>)
  7. 初恋を貫いた足利の姫
    青岳尼(参照ページ>>)
  8. 夫を助けた影のキングメーカー
    今川寿桂尼(参照ページ>>)
  9. 井伊家を守った戦国リボンの騎士
    井伊直虎(参照ページ>>)
  10. 女の武器フル活用で小城を守った
    吉岡妙林尼(参照ページ>>)
  11. 夢か幻か?城を守った美しき勇者
    成田甲斐姫(参照ページ>>)
  12. 戦国のゴッドマザー・龍造寺隆信の母
    龍造寺慶誾尼(参照ページ>>)
  13. 秀吉を支えた天下のおカミさん
    高台院(おね)(参照ページ>>)
  14. たった1度の恋に命燃やします!
    八百屋お七(参照ページ>>)
  15. やっぱり今年の主役!
    新島(山本)八重(参照ページ>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。
((ρ_;)クスン涙を呑んで外した人多し…次はおいおい時代別にやりますデス)

勝手ながら、コチラのアンケートは4月14日に締め切らせていただきました

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは4月19日のページでどうぞ>>
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2013年3月29日 (金)

比良八講荒れじまい~近江の昔話

 

毎年、3月の終わり頃になると、滋賀県の琵琶湖西岸に立つ比良(ひら)山地の急斜面を駆け降りるように、北西から琵琶湖面に向かって強い風が吹き荒れる事があります。

もちろん、これは、気圧配置に叶ったこの時期独特の自然現象なわけですが、「比良颪(ひらおろし)と呼ばれるこの風は、かつて、この比良にあった天台宗のお寺で、法華経を講読する法華八講と呼ばれる法要が行われる頃と重なる時期に多く発生していた事から、「比良八講(八荒)とも呼ばれています。

そして、不思議な事に(もちろん、現在では気象学で説明できるでしょうが)この風は4月に入るとほとんど吹かなくなる・・・

なので、この3月も終わりの頃に吹く比良おろしを「比良八講の荒れじまい」と呼んで、現在では、琵琶湖に本格的な春の訪れを告げる風物詩となっています。

本日は、そんな「比良八講の荒れじまい」にまつわる近江(滋賀県)のちょっと切ない昔話・・・『比良の八荒』をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

昔、琵琶湖東岸の愛知川(えちがわ=彦根市と東近江市の境界付近を流れる)の河口近くに住むある娘が、毎晩、たらい舟に乗って湖を渡り、対岸の若者に会いに行っておりました。

そう、彼女は、その若者が大好き!!

実は、その思いを告白した時、若者が
「そないに俺の事が好きやねんやったら、百日通て来い!
ほんなら、その思いを遂げさせたる」

と、思わずグーで殴りたくような上から目線な事をのたまったのです。

「でも、そんな俺様なところが好き!(≧m≦)」
(なのか?…ならしゃーない)
とばかりに、娘は思いを遂げるべく、その日から毎日、日暮れとともにたらい舟に乗って、対岸のカレのもとへ通っていたのです。

Dscn8428a1000b_2 琵琶湖の夕暮れ…彦根から対岸(比良山方面)を望む

雨の日も風の日も・・・毎日毎日、、、

「あと20日や」
「あと3日や」

と・・・湖の向こうにチラチラ見える灯りを頼りに、エッチラオッチラたらい舟を漕いで・・・

やがて
「あと一晩」
という夜の事・・・

いつものように湖に漕ぎだして、対岸の灯りを目指して進ん行ったのですが、ふと見ると、いつの間にやら頼りの灯りが消え、湖は真っ暗闇となってしまいます。

「ありゃ、どーしたこっちゃ!」
と、漕ぐスピードを速めてみるものの、たらい舟はあっちへ向いたり、こっちへ向いたり・・・何も見えない湖の上では、もはや方向もわからなくなってしまいます。

真っ暗な湖面と真っ暗な空・・・もう何も見えず、あたりは静かな波の音だけ・・・

やがて、そこに比良の八荒が吹きおろします。

そうなると、小さなたらい舟はひとたまりもありません。

アッと言う間にひっくり返って、その娘は、暗い湖の中に吸い込まれてしまったのです。

以来・・・毎年、彼女が亡くなった3月の終わりになると、彼女の悲しみを知らせるがのごとく、琵琶湖に「八荒おろし」が吹き荒れるようになったという事です。

・‥…━━━☆

何やら、小野小町(おののこまち)(3月18日参照>>)のもとへ通った、伝説の「深草少将の百日通い」を思い出すような昔話ですが、深草少将(ふかくさのしょうしょう)もそうであったように、これも、結局、思いが叶うはずの100日目にトラブルに巻き込まれて亡くなってしまうという悲しい結末を迎えます。

もちろん、冒頭に書いた通り、これは自然現象なので、おそらくは神代の昔から、比良八講はこの季節に吹いていたのでしょうが、「気象が…」「等圧線が…」なんて事はわからない昔の人たちだからこそ、春を待つこの季節に起こる風を、願いが届かなかった悲しい少女の物語に結びつけたくなったのでしょうね。
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2013年3月28日 (木)

家康×秀頼~二条城の会見と軍師・白井龍伯

 

慶長十六年(1611年)3月28日、豊臣家の軍師=白井龍伯の出した結果を無視して、二条城での会見が行われました。

・・・・・・・・・・・

「軍師」と聞くと、合戦の際に主君の相談を受けて、様々な作戦を指示する兵法に長けた人・・・みたいなイメージが強いですが、このブログでも度々お話させて」いただいているように、その種類は様々です(10月7日の真ん中あたり参照>>)

武将として軍議に参加して、兵法に基づいた作戦を提案する人もいれば、陰陽師や修験者として風水や占い、あるいは気象予報士の役目から、作戦を提案する人も、全部「軍師」と呼ばれます。

本日ご紹介する軍師=白井龍伯(しらいりょうはく)は、先のページで言うと『軍配者(ぐんばいしゃ・軍配師)と呼ばれる軍師で、風水や占いや気象予報のうえに兵法も熟知していて、すべての方面から考えて最も良い提案をする人・・・まさに、軍事のエキスパートです。

そんな龍伯が、豊臣秀頼(とよとみひでより)の軍師として登場するのは、あの関ヶ原の合戦を過ぎたあたり・・・慶長十六年(1611年)頃からです。

・・・で、まさにその頃、冒頭に書いた二条城での会見の話が持ち上がるわけですが・・・

一般的には、
慶長五年(1600年)9月に関ヶ原で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)(9月15日参照>>)、慶長八年(1603年)2月に征夷大将軍に任命されて(2月12日参照>>)江戸に幕府を開き、さらに、慶長十年(1605年)4月には、その将軍職を二代目の秀忠に譲っ(4月16日参照>>)、まさに天下を掌握した事を知らしめるべく、一大名に成下がった秀頼に対して、完成した二条城に挨拶に来るよう呼びつけた・・・みたいに言われます。

ドラマでもそのように描かれる事が多く、私も以前はそう思っていましたが(教科書にも書いてあるし…)、このブログを始めてイロイロ勉強するうち、現在では、「それは、後世の徳川家の言い分」で、実際には違っていたと考えておりますが、そのお話は、また、後半でさせていただく事として、

この慶長十六年(1611年)3月28日という日に、家康の呼びかけに応じた秀頼が二条城へやって来て、両者が会見をした(3月28日参照>>)というのは、おそらく事実なわけで、まずは、それに関わった白井龍伯の話・・・

『武家砕玉話脱漏(さいぎょくわだつろう)によれば・・・
そう、実は、彼は軍師として、この会見に反対していたのですね。

お察しの通り、この二条城での会見に、最も嫌悪感を感じてしたのが、秀頼の生母=淀殿(浅井茶々)・・・もちろん、敵地に乗り込む事になる可愛い息子を心配する母としては当然ですし、まして、相手は老獪(ろうかい=経験豊富で悪賢い)な家康であるわけですから・・・

そこで、殿の要請を受けた龍伯が、その吉凶を占う事に・・・早速、龍伯は、7日間の潔斎(けっさい=身を清めたり食を絶ったりして占いの準備をする)を行い、その後に香を焚いて、占いモードに入ります。

・・・で、立ち上る煙によって出た結果は・・・大凶!!

さらに、追加で占ってみますが、やはり結果は同じ・・・
3回連続で「大凶」となりました。

早速、その結果を秀頼の側近の茨木城主・片桐且元(かつもと)に報告・・・「二条城に行けば、必ず災難が降りかかるので、絶対に止めるように…」と・・・

ところがドッコイ・・・
なんと、且元は、
「その占いの結果、吉にする事はできひんか?」
と龍伯に相談・・・

もちろん、龍伯は、
「そんな事、できるわけおまへんがな」
と・・・

「けどな~~
俺、占いの事はようワカランけど、ここで秀頼さんが二条城に行けへんかったら、合戦になる気がするんやけど…
何とか、その占いの結果を書いた紙、吉に書きなおしてくれへんかな?」

「どうしても、って言うんやったら、ワシの預かり知らんところでやってくれ!
けど、それでもし何かあったら、どないするんや?」

と龍伯が言い放つと、且元は
「その時は、俺も秀頼さんといっしょに死ぬがな」
と、キッパリと言ったのだとか・・・

結局、龍伯は、占いの結果を書いた書面を「吉」と改ざんして淀殿に提出するのです。

もちろん、且元とて、悪意はありません。

占いの結果は重視しつつも、武将としての判断の方が勝ったという事で、あくまで豊臣家のためを思ってのウソの報告です。

現に、この時、関ヶ原では東軍についた加藤清正(かとうきよまさ)池田輝政(いけだてるまさ)前田利長(まえだとしなが)といった面々も、会見の実現に向けて奔走していましたから、武将の判断は、そうだったのでしょう。

で、ご存じのように、秀頼は会見を終え、無事に帰ってきますので、結果的には、ホンマモンの龍伯の占いははずれた事になります(今回の占いは、あくまで「会見の場」での占いで長期の情勢は含まれませんので…)「龍伯の占いの結果が吉だった」と信じていた秀頼は大いに喜んで、龍伯に、余りあるほどの褒美を与えたとの事・・・

で、当の龍伯も、
「いやぁ、今回は且元さんのおかげで、エライぎょーさんの褒美をもらいましたわ~」
と、彼の自宅にまで行って感謝し、以来、占いをやめてしまって、その後は静かに暮らしたとの事・・・

まぁ、丸く収まって良かったんじゃないでしょうか?

Dscf2319a1000 二条城の梅林

ところで(少々以前の記事とかぶってしまい恐縮ですが…)
その二条城の会見・・・

『当代記』「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」によれば・・・

「…廿八日辰刻、秀頼公入洛、則家康公の御所二條江御越、家康公庭上迄出給…」と、二条城に到着した秀頼に対して、家康が、わざわざ庭へ出て出迎えたと書かれています。

これは、もし、家康が秀頼の事を、一大名として見ていたのであれば、極めて異例な事です。

さらに・・・(漢字がしんどいので原文省略お許しをm(_ _)m)
続いて、
家康は、秀頼を、二条城で最高の座敷である『御成の間』に通し、お互いに同等の立場にて席につこうとしたのを、秀頼自らが
「家康さんは僕より年上ですし、朝廷から賜ってる官位も上ですよって、どうぞ上座に座ってください」
と、うながしたとの事・・・

その後、ご機嫌で会見を終えた秀頼は、豊国神社に参拝し大仏再建中の方広寺を見物して、伏見から船で大坂に戻ったと・・・

一方、会見を終えた家康は、この日、二条城に来ていた諸大名に対して、将軍の命に背いた者、謀反人、殺人犯などを匿う事を禁止する事など、三カ条の条例に対して、それを守る事を明記した誓紙を提出させていますが、当然、すでに帰っている秀頼の名前は、その誓紙に連署されていません。

つまり、秀頼は他の諸大名とは別格の存在だったという事ですね。。。
(*そんな感じのあれやこれやは8月9日のページで>>

もちろん、その時の家康の心の中までは、わかりませんが・・・

*以前の記事ではありますが、二条城で出された毒饅頭?の噂話2008年3月28日のページでどうぞ>>
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2013年3月27日 (水)

屈しない男=チーム旗本奴の水野十郎左衛門成之

 

寛文四年(1664年)3月27日、歌舞伎やお芝居で有名な幡随院長兵衛の敵役として知られる水野十郎左衛門こと水野成之が切腹しました。

・・・・・・・・・・

「お若けぇの お待ちなせえやし」の名ゼリフで、歌舞伎やお芝居でお馴染の幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)・・・

と言っても、最近では、いわゆる勧善懲悪の痛快娯楽時代劇も、すっかり少なくなった事で、「お馴染って言われても…?」「幡随院長兵衛って何?誰?」という方も多いかと・・・

その場合は、まずは以前にご紹介した【幡随院長兵衛さんのページ=2010年7月18日】>>を、先にご覧いただくとありがたいです。

そのページでも書かせていただいたように、戦国の世も終わりとなって、天下泰平の兆しを見せ始めると、それまでの、槍1本で出世の糸口をつかめた時代とは大きく異なり、出世の仕方も様変わりするようになります。

外様であれ旗本であれ、武士として生まれ、うまく幕府や大名家で事務的官僚の仕事にありつければラッキーですが、基本、そういう仕事を引き継ぐのは長男ですから、ある程度の家に生まれたとて、次男・三男なら、する仕事も無い・・・

そんな不満を持った若者たちが、長髪に大脇差、カラフルな着物をマントのようにはおるといった派手ないでたちで怒涛を組んで、町を闊歩・・・

社会に不満を持つ彼らは、夏に「寒い!」と言っては鍋をつつき、冬に「暑い!」と言っては裸になってソーメンをすする・・・もちろん、それぞれのグループによるモメ事&ケンカは日常茶飯事・・・

いわゆるツッパリチーマーカラーギャング・・・そんな感じの彼らは、やがては、旗本の坊ちゃんだけに限らず、商人のボンボンなどもチームを組むようになり、旗本の息子たちは旗本奴(はたもとやっこ)、町人の息子らは町奴(まちやっこ)と呼ばれ、ある意味ブームのようになっていきます。

Mizunozyuurouzaemon600 ・・・で、お芝居などの場合は、どうしても、権力に対抗する町人のヒーローとして町奴をかっこよく描くのがウケが良く、そのリーダー的存在が幡随院長兵衛・・・一方、そうなると、当然、そんな町奴とモメ事を起こす旗本奴は敵役となって、そのリーダー的存在が水野成之(みずのなりゆき)=通称:水野十郎左衛門です。

とは言え、先のページでも書かせていただいたように、旗本奴と町奴が抗争を繰り返していた事は事実で、幡随院長兵衛が誰かに殺害されたのも事実のようですが、その犯人が誰なのかも、動機や原因も不明で、実際には、どっちが悪いとは言えないもの・・・

しかも、現在でもそうであるように、ちょっと不良っぽい、流行の先端をいってる彼らは、意外と若い女の子にモテモテで、お芝居では敵役の旗本奴にも、実際には、それなりのヒーロー伝説があるのです。

現に、今回の主役=水野十郎左衛門のお父さん=水野成貞(なりさだ)も旗本奴のリーダーでしたが、その奥さんとなって十郎左衛門を生むのは、名君と言われた蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の一人娘ですから・・・

もちろん、水野という苗字でお察しの通り、この水野家も、徳川家康譜代の家臣で、十郎左衛門の祖父の水野勝成(かつなり)は、家康とともに戦場を駆け抜け、備後(広島県東部)福山藩10万石の初代藩主となっていますから、家柄はなかなかのものですが、何たって父の成貞は、その三男ですから後を継ぐわけでもなく、小姓から寄合(旗本で役職が無い)になって加増されても3000石だった人・・・

そこに、阿波(徳島県)25万7000石のお姫様=萬の方が嫁いだのですから・・・

一説には、このお萬の方が、町で闊歩する旗本奴リーダー成貞を見かけて「カッコイイ~゜.+:。(*´v`*)゜.+:」と一目ぼれして押しかけ女房になったなんて話もあるくらいの格差婚・・・もし、それが本当だとすると、やっぱ、旗本奴はモテてたのかも知れませんね。

・・・で、そんな不良リーダーを父に、阿波のお姫様を母に持つ十郎左衛門のヒーロー伝説が『及聞秘録』なる文献に残っています。

この頃・・・というか江戸時代を通じてそうですが、幕府に仕える医者という輩は、その権威をかさにきて、何かと態度がエラそうで傲慢で、好き勝手やって、一般市民からは煙たがられる存在だったわけで・・・

そこで、リーダー十郎左衛門が、仲間と結託して、近所の島田卜庵(ぼくあん)というエラそうな医者に一泡ふかせる事に・・・

ある日の朝、いつものように卜庵が、十郎左衛門の自宅の前を通りがかると、家来の一人が声をかけます。

「すんまへん、ウチの主人が、どーも具合が悪いみたいなんで、みてもらえませんやろか?」

卜庵も医者、しかも、相手は旗本ですから、何となく気分は乗らないものの、断わるわけにもいかず、とりあえずは家の中へ・・・

すると、座敷の中央にド~~ンと構えた十郎左衛門・・・いつもにも増して派手派手な衣装に、その気合の入りようも見てとれる雰囲気の中、周囲には5~6人の、これまたコワモテのオニイサン方がズラリ・・・

おもむろに
「脈とってヨ」
と、十郎左衛門が腕を差し出します。

もともと、病気では無いのですから、脈をとっても「何」という事もなく、
「すぐに、よくなりまっしゃろ」
と、空気の気まずさにそそくさと帰ろうとする卜庵・・・

「なぁ、薬、出してちょーだいや」
「そやそや、薬調合してもらわんと、治るもんも治らんがな」
と、十郎左衛門のセリフに合わせて、回りの手下たちもはやし立てますが、その道具として持って来たのは一升マス・・・

そんなモンで薬を調合できるはずもなく、卜庵がオロオロしていると、
「そや、先生!まだ、朝飯食べてはりませんやろ?
用意しましたさかい、どうぞどうぞ」

と、とてつもなく豪華なおかずに、デカイ茶碗にてんこ盛りご飯を差し出します。

「いや、もう朝は済ませてます」
と卜庵は断わるものの
「なんでや?こんなメッチャおいしそうな料理、食べな損やで!」
と、またまた周囲のコワモテが半ば脅すようにまくしたてます。

「ほな、ちょっとだけ…」
と、たまらず卜庵・・・

「先生、エライ小食やないかい!」
と言いながら、十郎左衛門はお酒を飲み始めます。

「このままやったらヤバイ!!」
もはや、たまらず・・・卜庵は
「また、明日、様子見に来ますさかい」
と、逃げるように屋敷を飛びだして帰っていったのだとか・・・

もちろん、その後、卜庵が十郎左衛門の家の前の道を通る事は2度と無かったとの事・・・

この話を聞く限り、まさに痛快時代劇の主人公ですね。

ただ、やはり、その素行の悪さが問題となり、母の実家の蜂須賀家にお預けとなったあげく、幕府からのお呼び出しにも、例の派手派手の衣装のまま出頭し、屈する事の無い大胆な態度を改め無かったため、寛文四年(1664年)3月27日とうとう切腹を言い渡されます。

十郎左衛門、時に35歳・・・「35歳でまだツッパるか?」「大人になれよ」とも思えなくもないですが、自由や基本的人権の守られた現代と、封建社会の江戸時代とでは、一律には比較できないもの・・・

現代での反社会ならアウトサイダーって感じですが、封建的な中での反社会ならレボリューションとも言えなくもないですからね。

それこそ、彼には彼なりの社会に対する不満があり、その思いを曲げる事はできなかった・・・それこそが、1番のヒーロー伝説なのかも知れません。

幡随院長兵衛が主役のお芝居では、敵として、卑怯な騙し討ちをする十郎左衛門ですが、一時代前の勧善懲悪時代劇ならともかく、近頃では、ガンダムに登場する赤い彗星=シャア・アズナブルのごとく、ある意味、主人公よりも魅力的な敵役が登場する作品も多いです。

次の時代劇では、カッコイイ十郎左衛門さんも見てみたいものですね。
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2013年3月25日 (月)

秀吉に「日本無双」と言わせた男…宮部継潤

慶長四年(1599年)閏3月25日、豊臣秀吉の配下として、その政権の一翼を担った善祥坊こと宮部継潤が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

宮部継潤(みやべけいじゅん)近江国浅井郡宮部村(滋賀県長浜市)の小豪族の出身で、もともとは比叡山の山法師であったと言われています。

なので、お坊さんの名前=宮部善祥坊とも呼ばれます。

僧侶をやめて、故郷の宮部に戻ってからは、地元の戦国大名=浅井長政(あざいながまさ)に仕え、対・織田信長との数々の合戦にも出陣し、多くの武功を挙げる、なかなかの勇将だったそうです。

ところが・・・姉川の戦い(6月28日参照>>)堅田の戦い(11月26日参照>>)を経た後、その浅井・朝倉の残兵を匿う比叡山を信長が焼き討ちした(9月12日参照>>)とされる元亀三年(1572年)秋・・・

当時、朝倉攻めの最前線であった横山城の城将をしていた羽柴(後の豊臣)秀吉からのお誘いに応じて、その秀吉の配下となるのです。

Anegawaitikankeizucc (←クリックすると別窓で大きく見れます)

以前、姉川の戦いに向けて、信長が岐阜を出陣した日の日づけで書かせていただいたページ(6月16日参照>>)にupした位置関係図を見ていただくと、その位置関係がわかりやすいかと思いますが、

浅井長政の居城・小谷城の南東にあるのが横山城・・・継潤の拠点である宮部村は、ちょうど、小谷城と横山城の中間あたりにあります。

つまり、織田方の最前線にいる秀吉が、浅井方の最前線にいる継潤を寝返らせる事に成功したというわけですね。

そして、ご存じのように、その翌年の天正元年(1573年)8月、信長は、浅井・朝倉を一気に滅亡させています(8月27日参照>>)

いかに、宮部という地と継潤という人物が、小谷攻めに重要だったかがうかがえますね・・・なんせ秀吉は、甥の秀次(後の豊臣秀次)(7月15日参照>>)を人質に差し出してまで、味方に引き込んだのですから・・・

とは言え、浅井の滅亡後は、その秀次も秀吉のもとに返され、以後、継潤は秀吉の与力となって、「秀吉様ドップリ」の大活躍をする事になります。

秀吉が、信長から中国地方の平定を任された頃からは、秀吉の弟・秀長(ひでなが)の片腕として働き、作戦参謀として、その指揮系統を全面的に任されるほどに・・・

その活躍が認められ、天正十年(1582年)には、その前年に秀吉が落とした因幡鳥取城(10月25日参照>>)の城代にまで昇り詰めます。

また、あの本能寺の変の時に、驚異の中国大返し(6月6日参照>>)で、秀吉が畿内に戻った時から、続く、清州会議(6月27日参照>>)やら信長の葬儀【(10月15日参照>>)やら、柴田勝家(しばたかついえ)との賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)やらで、秀吉が中国方面の攻略にかまっていられなくなった段階で、その留守を守るべく、中国方面に対する玄関口を死守したのも継潤でした。

さらに、その後、秀吉が行った九州征伐でも大活躍・・・

と、この九州征伐とは、ご存じの通り、「薩摩(鹿児島県西部)に本拠を持つ島津を倒す」という事ですが、その最大の戦いとなったのが、天正十五年(1587年)4月17日の高城・根白坂の戦いです(戦いの経緯は4月17日参照>>)

この時、羽柴軍に包囲された高城を救援すべく向かう島津勢と、それを阻止せんと根白坂に砦を構築した羽柴勢・・・

そこに、島津勢が奇襲をかけたものの、羽柴勢は、その奇襲を事前に察知していた・・・と、その4月17日のページにも書かせていただきましたが、『写本軍事録常紀之部』によれば、その奇襲を察知して、事前に準備を整えたのが継潤だったとの事・・・

実は、この日、「城兵の命の保証を約束する代わりに高城を速やかに明け渡すか否か?」という内容の事前の、島津とのやり取りがあったのですが、その時の敵の動向を不審に思った継潤が、密偵を派遣して様子を探り、「何かあるかも知れない」と自陣の前に堀と柵を構築して準備していたのです。

ただ、いくら準備を整えていたとは言え、そこに突入を喰らわした島津義弘(よしひろ)隊は、なんと1万5000の大軍・・・勇将の誉れ高い義弘は、槍を引っ提げて自ら先頭に立ち、堀を越えて柵に取りかかろうとします。

その時、かねてより準備していた綱を切り、柵を堀側に倒して、柵に群がっていた島津勢ごと堀に落とし、ここで約800名ほどが討死しましたが、義弘は、その屍を踏み越えて、次なる内柵へと進み、その進撃に、やむなく、少し後ろに下がる宮部隊・・・

と、その状況を川の向こう側に陣を取っていた秀長が目に留めます。

「根白の方を見渡せば、薩摩の軍兵雲の如く取り巻きて 鉄砲の音 鬨(とき)の声 矢叫び相交じり、天地も動く計なり」

まさに、島津の大軍に宮部隊のみで、孤軍奮闘状態・・・

早速、その救援に向かおうとする秀長隊でしたが、馬が川に足を取られて、なかなかに進まず・・・すると、それに気づいた藤堂高虎(とうどうたかとら)隊と黒田孝高(よしたか=官兵衛・如水)長政(ながまさ)父子らが、慌てて宮部隊の救援へと向い、そうこうしているうちに秀長隊も合流し、大軍となったおかげで、島津隊を敗走させる事に成功・・・こうして根白坂砦は守られたのです。

ご存じのように、この敗戦によって、島津は秀吉に降伏する事を決意するわけで・・・まさに、継潤の踏ん張りあればこその九州征伐だったわけです。

この働きに感動した秀吉は、継潤に『日本無双』の感状を与え、継潤は正式に鳥取城の城主となりました。

晩年、高齢を理由に隠居してからは、秀吉の御伽衆として、常にその相談相手になっていたとか・・・

そんな継潤・・・前年の8月に亡くなった秀吉(8月18日参照>>)の後を追うように3月3日に亡くなった前田利家(3月3日参照>>)の、さらに後を追うがのごとく慶長四年(1599年)閏3月25日に、この世を去ります。

果たして、彼のもとには、利家の亡くなったその夜に起こった石田三成(いしだみつなり)襲撃事件(3月4日参照>>)のニュースは届いていたのでしょうか?

かの文禄の役(3月26日参照>>)の時には、すでに60代も後半に差し掛かっていたとおぼしき年齢にも関わらず、「俺も大陸に渡らせて欲しい!」と、秀吉に懇願したというほど老いても血気盛んだった継潤・・・

あの日、一大決心をして秀吉の配下となってから、ともに各地を転戦し、ともに昇って来た天下への階段・・・もしもこの時、その延長線上に暗雲立ちこめる様子を垣間見ていたのだとしたら・・・

おそらく、日本無双の継潤にとって、その寿命の尽きる様が、自分自身で最もくやしかったかも知れません。
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2013年3月24日 (日)

南北朝~京都争奪の八幡合戦

 

正平七年・文和元年(1352年)3月24日、八幡に陣取った南朝軍を、北朝軍が攻撃・・・八幡合戦が開始されました。

・・・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)【(8月19日参照>>)反旗と翻して京都に攻め昇り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を即位させて(8月15日参照>>)開いた室町幕府が北朝・・・

一方、尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇が吉野で開いた(12月21日参照>>)のが南朝・・・

*さらにくわしい個々の出来事については【足利尊氏と南北朝の年表】>>から、それぞれのページへどうぞ

その延元元年・建武三年(1336年)から、約半世紀に渡る南北朝時代が始まるわけですが、あの鎌倉討幕の頃から、後醍醐天皇の手足となって働いた楠木正成(くすのきまさしげ)新田義貞(にったよしさだ)は途中の合戦で討死し、その後醍醐天皇も延元四年・暦応二年(1339年)8月に崩御(8月16日参照>>)・・・

この間、おおむね北朝優位に展開する中で、南朝は京都を奪回する事すらできていませんでしたが、正平五年・観応元年(1350年)になって、尊氏と弟の直義(ただよし)の内紛=観応の擾乱(じょうらん)が勃発(10月29日参照>>)・・・直義討伐のため、尊氏は関東へと向かいました。

この間、兄に反発する直義が南朝に降ったかと思えば、入れ換わりに尊氏が南朝に降ったり、執事の高師直(こうのもろなお)が討死したり(2月26日参照>>)しながらも、正平七年・文和元年(1352年)の正月に尊氏が直義を拘束(その後病死)・・・

これで、何とか北朝の内紛については一件落着したものの、今回のゴタゴタをチャンスと見た亡き新田義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが挙兵し、小手指原の合戦などを展開して鎌倉を占拠・・・(2月20日参照>>)

危機一髪をくぐりぬけながらも何とか勝利して、鎌倉を奪回する尊氏でした(2月28日参照>>)

この時、留守となった京都を預かった尊氏の息子=義詮(よしあきら)は、父がいない京都を守るためのかりそめの和睦を、亡き後醍醐天皇の後を継いでいる皇子=後村上(ごむらかみ)天皇に打診します。

これを受けた後村上天皇は、あっさりと承諾・・・それは、義詮の企む「かりそめ」を知って、わざと和睦に乗ったのです。

後村上天皇の作戦は、このあいまいな間にさっさと、自分の京都行きを承諾させて、その京都行きを完全武装で決行し、「そのまま、京都を奪ってしまおう」というもの・・・

こうして、正平七年・文和元年(1352年)2月26日、幕府には、天皇の警固のためと偽って完全武装で吉野を出立した南朝勢は、閏2月27日の朝、突如として京都市中に乱入し、京の町を制圧・・・義詮は、命からがら近江(滋賀県)へと退却する事となってしまいました。

ただ、制圧したとは言え、上記の通り、市中は戦闘状態・・・「今は危険」と判断した後村上天皇は、北畠親房(きたばたけちかふさ)顕能(あきよし)父子らを京にやって政務を行わせ、自身は京都市中には入らず、八幡(京都府八幡市)に滞在します。

ここで、後村上天皇により、御所を吉野の賀名生(あのう)に遷すと言って、北朝3代の崇光(すこう)天皇をはじめ、先代の光明院、先々代の光厳(こうごん)、皇太子らを吉野へと向かわせたのです。

一方、近江へと退いていた義詮のもとには、父=尊氏の関東での勝利の一報が届き、息子としても、ここは1発、再起をかけねばなりません。

もちろん、東国での尊氏の勝利によって、義詮のもとにも北朝を支援する武将が続々と集まってくる・・・

こうして、再起の決意をした義詮が、3月11日に近江を発ち、17日に東寺に入って、そこに陣を置くと、この動きを知った北畠顕能が、速やかに都を去って、男山(京都府八幡市)の麓に陣を取り、戦闘準備に入ります。

なんせ、石清水八幡宮のある男山は天然の要害・・・防戦するには、コチラに陣を構えた方が有利です。

かくして正平七年文和元年(1352年)3月24日、南朝から寝返っってきた赤松則祐(そくゆう・のりすけ)の援軍を得て士気もあがる義詮勢は、30000騎の大軍を率いて宇治方面から木津川を渡り、洞ヶ峠に陣を構えます。

Yamazakidougatougecc (←クリックして大きく見れます)

またまた同じ地図で恐縮ですが・・・
先日の赤松則村の山崎合戦(3月15日参照>>)でも、明智光秀(あけちみつひで)の山崎の合戦でも使用した地図(←)
「どんだけ、ここは、京都にとって重要なポイントなんだ?!」 って感じですね~

一方、これを迎え撃つ南朝側からは、楠木正儀(くすのきまさのり=正成の三男)とともに、和田五郎なる若武者が差し向けられる事になります。

五郎は未だ16歳・・・周囲には「若すぎる」と、その出陣を危ぶむ声もありましたが、合戦の前に参内した和田五郎は
「親類兄弟は、皆、度々の合戦に決死の覚悟で挑んで華々しく散りました。
今日の合戦は、公私ともに一大事・・・この命賭けて戦い、敵の大将の首を討ち取るまでは、この場に戻って来ない覚悟で参ります!」

と、力強く宣言・・・この姿に南朝の公卿たちも、皆が心躍ったと言います。

102pa1000 木津川に架かる御幸橋から見る男山(左)…川を挟んで右側手前に見えるのが天王山
男山&石清水八幡宮周辺、写真に写り込んでいる桜の名所の背割堤への行き方は本家HP:京都歴史散歩「男山周辺散策」でどうぞ>>

こうして敵陣に向かった彼らの前に、義詮の執事を務める細川清氏(ほそかわきようじ)土岐大膳(ときだいぜん)らが6000を率いて登場・・・

やがて、険しい山道の中、土岐大膳の家来・土岐悪太郎のメチャメチャ目立つ笠符(かさじるし=敵・味方を識別するための目印)を見つけた和田五郎は、「敵だ!」と叫びながら、長刀(なぎなた)の柄を短く持って勝負に挑みます。

しかし、そこを、横から現われた細川の郎党・関左近将監(さこんのだいぶ)が悪太郎の横を走り抜けて五郎を討たんと近づきます・・・が、そこは五郎の中間が放った矢が見事命中します。

やむなく、悪太郎は関左近将監を小脇に抱え、大太刀を振り回しながら、敵の中を逃走・・・これを逃すまいと追う五郎でしたが、いつしか、その姿を見失ってしまいました。

ところが、もはや悪太郎の運は尽きていたのか?・・・降り出した夕立にドロドロになっていた足元の土が崩れ、さらに泥沼のようになっている部分に足を取られ、抱えていた関左近将監ともども身動きがとれなくなってしまうのです。

そこに追いついた五郎・・・今度は長刀の柄を長く持ち、見事、二人を討ち取りました。

しかし、悪太郎を討ったとは言え、未だ合戦の勝負がついたわけでもなく、しかも、敵は予想以上に膨大な数・・・夜が迫るとともに楠木正儀が八幡の陣へと引き返したため、この日の戦闘は終了・・・その後、しばらくのこう着状態が続きます。

ただ、そんなこう着状態の中でも、幕府軍は着々と八幡の包囲を強化し続けていきます。

やがて5月4日、そんなこう着状態を打破しようと、南朝方は、夜討ちに手慣れた800人の精鋭部隊を編成し、幕府の包囲陣に奇襲をかけますが、突入直後こそ混乱したものの、幕府軍は動揺せず、大した成果を挙げる事はできませんでした。

ならば・・・と、南朝方は、楠木正儀と和田五郎を後方支援に回すべく、密かに包囲網を脱出させますが、なんと、ここで・・・和田五郎は突然発病し、亡くなってしまうのです。

しかも、一方の正儀は、父=正成(8月25日参照>>)や兄=正行(まさつら)(1月5日参照>>)とは、少々器が違っていたとみえ、「今日行くか?明日にするか?」と、敵陣への攻撃の日取りを迷うばかりで、いっこうに行動に起こしません。

そうなると、長期にわたる籠城戦に耐えかねて、南朝側から幕府側へ降伏する武将もチラホラ・・・

結局、籠城戦が50日余りに達した5月11日・・・後村上天皇は夜陰にまぎれて密かに包囲網を突破し、大和(奈良県)へと脱出・・・吉野へと戻ったのでした。

こうして、八幡合戦は終了を迎え、何とか京都を奪回した北朝=室町幕府・・・しかし、翌正平八年・文和二年(1353年)6月9日には、幕府の対応に不満を持った山名時氏(ときうじ)師氏(もろうじ)父子が挙兵して一旦京都を制圧し、その後、尊氏の次男・足利直冬(ただふゆ)を担いで謀反の兆し(6月9日参照>>)・・・

しかも、幕府側には困った事が・・・そうです。

南朝勢が一時京都を制圧した時に、北朝3代の崇光天皇以下、光明院・光厳院、さらに皇太子までもが吉野へ連れ去っていたわけで・・・この時点での北朝には、「天皇がいない」事になってしまっているのです。

しかも、三種の神器もありません・・・

やむなく、この後、神器なし指名なしでの前代未聞の北朝第4代・後光厳(ごこうごん)天皇の即位という事になるのですが、そのお話は後光厳天皇のご命日の日づけ=1月29日でどうぞ>>
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2013年3月22日 (金)

新羅と日本…古代の関係

 

天平勝宝四年(752年)閏3月22日、新羅からの使いが筑紫に到着した事を知らせる大宰府からの報告がありました。

・・・・・・・・・・・・

『続日本紀』にある天平勝宝四年(752年)閏3月22日付けの大宰府からの報告によれば・・・

この時、来日したのは7隻の船に分乗した新羅王子金泰廉(王子ではないという説もあり)を含む700余名の新羅使で、香料・薬物・調度などの物品とともに大量の金を貢物として持参していたと言います。

天平勝宝四年(752年)と言えば・・・そう、あの大仏開眼です(4月9日参照>>)

その大仏開眼が4月9日ですから、使者の到着は、まさに、その10日余り前・・・という事になります。

なので、「今回の大量の金は、大仏への塗装を意識しての事」とも言われますが、一行はしばらく大宰府に留め置かれ、大仏開眼供養に出席する事はありませんでした。

結局、彼らが上京して、孝謙(こうけん)天皇に謁見したのは、3ヶ月後の6月14日・・・

「両国の国交は昔より絶え間なく続いていて、本来なら、国王自ら訪問して貢物を献上しようと思うのですが、君主が1日でも留守にすれば国政が乱れますよって、王子を以って王に代わる者として向かわせ、様々な貢物を献上させますよって、ヨロシクね」
との王の言葉とともに、貢物を献上しています。

その後、一行はしばらく都に滞在した後、7月24日、帰国のために難波の館へと移り、天皇主催の酒肴を行った後に帰国したとの事・・・

とは言え、新羅と言えば、天智称制二年(663年)に、あの白村江(はくすきのえ=はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)で敵対した相手・・・

もちろん、それから100年近く経っているのですから、当然、情勢も変わって来るわけで・・・って事で、本日は、複雑だった古代の朝鮮半島との関係について、ご紹介させていただきます。

ただし、それこそ、古代の出来事ですので、未だ論争中の不確かな事もあり・・・あくまで、一般的な通説通りの流れ」という感じで、ご理解いただければ幸いです。

・‥…━━━☆

日本と朝鮮半島との関係は、それこそ、記録に残らない時代にさかのぼります。

土器をはじめ、釣り針やら狩りの道具やらには、どう考えても交流があったとおぼしき類似性がありますから・・・

そんな中、最初に史書と呼ばれる物に日本が登場するのが、ご存じ、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)邪馬台国(やまたいこく)・・・

この時、邪馬台国の使者が、当時は中国の一部だった楽浪郡(らくろうぐん)帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国に貢物をした事などが記録されています。

Tyousenhantouzyousei120 やがて、後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した事で、朝鮮半島情勢が活発になり、4世紀に入った313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡を滅ぼして半島北部に勢力を拡大します。

同時期に、徐々に誕生していた小国家が連合を組んで新羅(しらぎ)百済(くだら)が誕生しますが、最南端に誕生した弁韓という小国連合は、大和朝廷(日本)の支配を受けて加羅(から)任那(みまな・にんな)となります。

高句麗好太王碑(こうたいおうひ=414年に建立されたとされる好太王の業績を称えた石碑)によれば、その後、拡大する高句麗に対して、391年に大和政権が新羅と百済を従えて高句麗に攻め込むも、高句麗の勢力を阻止する事はできなかったとされます。

 .
『日本書紀』
には、その後、高句麗が百済へと浸食し、やむなく百済が都を南に遷した時、大和朝廷に対して加羅4県の割譲を要請・・・これに、日本側の大伴金村(おおとものかなむら)が、(一説には賄賂を受け取って)応じた事から、勢力を弱めた加羅は562年に滅亡してしまいます。

せっかくの半島での拠点を失ってしまった日本・・・

やがて660年に、新羅に攻め込まれた百済が滅亡・・・この時、百済が日本に助けを求めた事から、日本は、その要請に応じて大軍を派遣しています。

これが、先に書いた白村江の戦いですが、ここで、(中国)と新羅の連合軍に日本は破れてしまいます。

その後668年、新羅はついに高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。

そうなると・・・すわ!唐と組んで、新羅は日本に攻め込むか??と緊張が高まるわけですが、これが、逆の展開を見せます。

半島を統一した事で、唐と国境が接するようになった新羅は、いつしか唐と敵対関係になってしまい、むしろ、唐と対抗するために、日本と協力する事を選び、日本に貢物を贈って来るように・・・

利害関係が一致した日本も、それを快く受け入れ、遣新羅使(けんしらぎし)を派遣して、しばらくの間、両国は友好関係を結ぶ事になります。

もちろん、当時の日本は、遣唐使の派遣も行っていて、唐との関係も良好だったわけですが・・・

ただ、今回の天平勝宝四年(752年)の翌年には、遣唐使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)が、唐にて行われた儀式の席で、新羅からの出席者と、会場での座席を巡って争ったり、天平宝字八年(764年)には、時の権力者=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)が、「新羅を攻める」と言って大量の兵を集めてみたり・・・

まぁ、仲麻呂の場合は、その兵の徴収を「謀反」と判断した朝廷によって討たれる(9月11日参照>>)ので、実際に半島へ出兵する事は無かったわけですが・・・

・・・そうこうしているうちに・・・
宝亀十年(779年)の遣新羅使の派遣を最後に、新羅に正式な使者が送られる事はなくなり、その交流は途絶えました。

以来、正式なルートでの国交が復活するのは、江戸時代になってから・・・という事になります。
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2013年3月21日 (木)

春の陽気に浮気がバレた??…「今昔物語」より

 

今日は、ちょうど今の季節に似合った『今昔物語集』のお話を、一つ、ご紹介しましょう。

Konzyakumonogatari600 『今昔物語集』は平安末期に成立したとおぼしき、全31巻からなる説話集で、因果応報を説く仏教説話が多いのですが、基本、大人の読み物ですので、シッポリ系の恋の話もたくさん・・・

特に21巻からあとの本朝=日本の世俗の部分には、恋に悩んだり、不倫発覚にアタフタしたり・・・今と変わらぬ人々の生活が垣間見え、とてもオモシロイです。

てな事で、本日は28巻第12にある『或る殿上人の家に忍びて名僧の通ひし語』をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・

ある殿上人が、3月20日を過ぎたある日、いつものように内裏へと出勤・・・いつもと変わりない1日が始まります。

しかし、実は、この夫の知らないところで、ちょと前から、奥さんは浮気をしていたのです。

とは言え、以前、結婚の歴史(1月27日参照>>)でチョコッと書かせていただいたように、この頃の結婚は通い婚なので、旦那も浮気相手も、女性の家に通って来てる状態ですから、現代人の感覚で言えば、「どっちが浮気なんだ?」て悩んだりもしますが・・・

一応、周囲からも夫婦と認められている旦那のほうは、ほどんど女性の家に入り浸ってて、自分の服や生活用具なんかも、そこに置いてあるわけで・・・・現代感覚で言えば、そんな中で、奥さんは、その旦那の留守中に浮気相手を引っ張り込んでるって感じですかね?

とにかく、こうして、いつもと変わらぬ1日が始まると同時に、彼女の密かな行動も始まるわけで・・・

しかも、その浮気相手は、けっこう名の知れた高僧・・・

いつものように、彼女の家にやって来ては、まるで自分ちのようにくつろいで法衣を脱ぎ、リラックスモードに突入・・・

彼女は、いそいそとカレシの法衣を受け取って、夫の衣類をしまってあるウォークインクローゼットの中に、シワが寄らないようにハンガー掛け・・・

と、しばらくすると、夫からのメール・・・否・使者がやって来て、彼女に伝えます。

「今日、仕事終りで、蹴鞠(けまり)に行く事になってん。
家に帰らんと、会社から直接行く事になったよって、略服の狩衣
(かりぎぬ)と烏帽子(えぼし)を使者に持たしてくれへんか」
と・・・

彼女は、再び、クローゼットに行って、烏帽子と狩衣を取りだし、袋に入れて使者に持たせます。

「ヤッター!!
これで、いつもよりゆっくり出来るやんヽ(´▽`)/」

と、ちょっぴりほくそ笑む彼女・・・

果たして、蹴鞠会場に到着した使者が、主人の前で、渡された袋を開けてみると・・・

烏帽子はあるけど狩衣が無い・・・

烏帽子の横にあるのは、キレイに畳んである黒い法衣・・・

「なんや?コレ・・・?」

そう、この頃は、電気なんてものはありませんから、当然ですが、ウォークインクローゼットの中は、昼間と言えど薄暗い・・・

はっきり言って、彼女は、その布の手触りで、着物を識別していたわけですが、その手触りが夫が希望した狩衣と、浮気相手の法衣とが、メッチャ似ていたのです。

薄暗い中で衣類を探した彼女は、スッカリ勘違いして、そのまま畳んで袋に入れちゃったわけ・・・

最初は驚いて、その後、しばし考え込む夫ですが・・・やはり、そこはピ~~ンとキターー

「アイツ…坊さんと浮気しとるな!!(-_-X)」
と・・・

ムカムカ!!っとしながら、ふと、周囲を見ると、同僚たちが、その様子をチラチラ・・・思いっきり、皆にバレてます。

恥ずかしさと腹立たしさに爆発しそうになりながらも、同僚の手前、ここでアタフタしたり、怒りをあらわにするのもカッコ悪い・・・

冷静を装いながら、その法衣を袋へと戻し、使者に再び、家に届けるように言い渡すのですが、そこに、1通の手紙を添えました。

♪時はいかに 今日は四月(しつき)の一日(ひとひ)かは
 まだ来
(き)もしつる 衣更(ろこもが)へかな ♪
「え~~と、今日って何日やったっけ??
まだ4月1日ちゃうよな?
せやのに、もう、衣替えしはったんでっか?」

そう、この頃の衣替えは旧暦の4月1日と10月1日に行うのが普通・・・

古くに宮中から始まって、通常は民間レベルでも、この日に行われており、衣類に限らず、調度品なども冬物から夏物へと交換する習わしとなっていたのです。

よく、クイズ番組などで登場する難読苗字の『四月一日さん』・・・「四月一日」と書いて「わたぬき」と読むのは、1説には、その4月1日に、着物や布団などを、綿入りの物から綿を抜いた春夏物に変えるからなんて言われてますね。
(綿の収穫時期に由来する説もあり)

しかし、冒頭に書いた通り、この日は、まだ3月の20日過ぎ・・・

もちろん、この後、この夫が彼女のもとへ通う事は、2度とありませんでした。

それを知った彼女は気も狂わんばかりに絶叫したと言いますが、もはや、後の祭り・・・

・‥…━━━☆

旦那さんの、怒りを抑えたイヤミたっぷりな言い回しがイイわぁヽ(´▽`)/

・・・って、その高僧は、その後どうしたんだろ?
気になるなぁ・・・

Dscf1071pp1000 写真は平安神宮…『今昔物語』のイメージで…

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2013年3月19日 (火)

「君は船」…毛利元就&隆元を支えた執権・志道広良

 

永正十年(1513年)3月19日、毛利元就が志道広良宛ての起請文を作成しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、西国の覇者毛利元就(もうりもとなり)・・・ですが、このブログでも度々ご紹介させていただいている通り、その西国の雄や中国の覇者といった冠は、元就が1代で築きあげた物・・・

Mourimotonari600 確かに、ご先祖は、あの大江広元(6月10日参照>>)という由緒正しき血筋ではありますが、元就の父・毛利広元(ひろもと)は、あくまで安芸(広島県西部)を本拠とした小規模な国人領主にすぎなかったわけで・・・

・・・と、毛利が小規模な国人領主って事は、その近所には、同じような国人領主がワンサカいたわけで、要は、そんな国人たちが連合を組んで、国人一揆をやったり、大名に物申したりしていた状況で・・・やがては覇者となる毛利も、そんな中の一つだったわけです。

そこから、元就の代になって1歩抜け出す事になるわけですが、上記の通り、もともとは同クラスの国人衆の連合軍だったわけですから、毛利の重臣となった有力な国人たちは、主君と同等の発言権を持ったまま家臣団に組み込まれて行くという、元就独特の家臣団が形成されていくのです(12月2日参照>>)

そんな毛利を、広元・興元(おきもと)幸松丸(こうまつまる)の3代に渡って、執権として支えていたのが志道広良(しじひろよし)・・・彼も、毛利の一族の出身でした。

ちなみに、これまでも何度か書かせていただいているように、元就は、広元の次男で、広元亡き後に毛利を継いだのは兄=興元・・・しかし、この兄も早くして亡くなり、その嫡男でわずか2歳の幸松丸が家督を継ぐ事となり、元就は、その後見人として世に出て来る事になります。

なので、この頃は、未だ、元就は家督を相続していなかったわけですが・・・

・・・で、そんなこんなの永正十年(1513年)3月19日、その元就から広良宛てに起請文(きしょうもん=誓約書)を作成するのです。

その内容は、この先、元就は広良の指示に従って毛利家に忠誠を尽くす事、お互いに逆心を抱かぬ事、などを約束する物でした。

元就が広良に???

そう、上記の通り、国人同志で連合を組んで生き抜いていかねばならない毛利の、しかも後継ぎでも無い元就にとっての広良は、執権と言えど、気をつかわねばならない相手・・・逆に、広良は主君に物申す事の出来る力を持っていたという事になります。

そんなこんなの永正十四年(1517年)、次男と言う立場上、未だ合戦すらした事もなかった元就に初陣の時がやって来ます。

もともと、この安芸一帯は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていた場所・・・そこを、毛利をはじめとする小豪族の国人領主たちが事実上治めてしまっている事に不満を抱いていた武田元繁(もとしげ)が、毛利の家督を、幼い幸松丸が継いだ事をチャンスとみて、領地奪回をもくろんで有田城(広島県山県郡)を攻めたのです。

これに対抗すべく、出陣を決意する元就は、例の約束通り、まずは広良に出兵の許しを得ようとしますが、広良は、「未だ、時が早い!少し様子を見ろ」と猛反対します。

ところが、元就は、自らの手勢のみの少なさで出陣を決行・・・驚いた広良は、慌てて郡山城の軍勢を率いて駆けつけて合流しますが、これが、後に西国の桶狭間とも呼ばれるほどの大勝利となったのです(10月22日参照>>)

確かに、元就の行為は約束破りと言えば約束破りなわけですが、おそらく、広良にとって、それを上回った?・・・元就の武将としてのスゴさを垣間見た驚きの方が勝っていたのかも知れません。

なんせ、この後の大永三年(1523年)、かの幸松丸が、わずか9歳で亡くなってしまった事を受けて、毛利の後継者を決める時、反対意見もある中で、最も強く元就を推したのが広良だったのですから・・・

その時には、国人たちへの根回しや中央幕府への相続許可の願い出などにも奔走し、もちろん、元就と後継者を争った異母弟=相合元綱(あいおうもとつな)側の抑え込みも・・・

こうして元就が、無事に家督相続をした後には、その信頼を一身に受ける事となった広良・・・元就が隠居して、嫡男=隆元(たかもと)(8月4日参照>>)が家督を継ぐと、その後見役として活躍し、91歳の長寿を全うしたと言いますが・・・

そうそう、今日この日=永正十年(1513年)3月19日の元就との約束は、その隆元の代になっても活きていたようです。

ある時、自らのやり方を推し進めようとする隆元に向かって
『君は船、臣は水』
という言葉を言って、それを退けたと言います。

「主君は船で、家臣は水…水があるからこそ、船は船でいられるし、船の役目を果たせるんや」
と・・・

しかも
「水が暴れたら、船は簡単にひっくり返るんやで~」

家臣団や軍団にも目を光らせ、さらに主君の行動にまで・・・広良の歯に衣着せぬ苦言は、毛利が西国の雄を称される事になるまでに、大いに貢献した事でしょう。

その遺志は、広良の弟である口羽通良(くちばみちよし)に受け継がれ、通良は元就の孫=毛利輝元(てるもと)を支える屈指の名家老となっています。
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2013年3月18日 (月)

美人の代表…小野小町、伝説の後半生

 

今日、3月18日は『小野忌』・・・あの小野小町の忌日とされています。

・・・て事で、昨年は、その小野小町(おののこまち)について書かせていただいたのですが、あれやこれやの都合上、前半生の部分だけになってしまっていましたので、本日は、それこそ伝説に彩られた後半生をご紹介させていただきます。

まだの方は、まずは、昨年のページから>>ご覧いただくとありがたいですm(_ _)m

・・・・・・・・・・

・・・と、あの紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)に、「衣通姫のようだ」「なまめかしいイイ女だ」と絶賛された美貌のもと、数々の浮き名を流した恋多き女であった小野小町も、生きている人間である以上、歳はとっていくもので・・・

『百人一首』にもある、あの有名な
♪花の色は うつりにけりな いたずらに
 わが身世にふる ながめせし間に ♪

の歌でもわかるように、歳とともに、その美貌の衰えを、ご本人自身が感じるようになるのです。

Dscn7876a1000 小野小町の邸宅跡とされる京都・隋心院
隋心院へのくわしい行き方は本家HP:
京都歴史散歩「六地蔵から日野・醍醐・小野へ…」でどうぞ>>(別窓で開きます)

♪今はとて わが身時雨(しぐれ)に ふりぬれば
 事のはさへに うつろひにけり ♪

「私が歳をとってしもたよって、アンタがかけてくれる言葉も、なんや、昔と違うみたに思うわ」
と、小町が言えば、

♪人を思ふ こころこの葉に あらばこそ
 風のまにまに ちりもみだれめ ♪

「俺の心が葉っぱやったら、風に散らされるかも知れんけど…俺の気持ちは、そんなモンやないねんで」
と、やさしく答えたのは小野貞樹(おののさだき)という人・・・それこそ、生没年もわからず、貞観二年(860年)に肥後守(ひごのかみ)に任じられたとかのわずかな記録が残るだけの人ですが、おそらく、この時、小町の恋人だったのでしょうね。

さらに・・・
たぶん、上記の歌より晩年とおぼしき歌には、六歌仙の一人・文屋康秀(ぶんやのやすひで)からの「あがたみ(田舎見物?旅行?)のお誘いに
♪わびぬれば 身をうき草の ねをたえて
 さそふ水あらば いなんとぞ思ふ ♪

「わびしい暮らしやよって、誘てくれんねやったら、どこでも行くわよ」
と返答・・・かなり、切羽詰まった感じ???

・・・と、ここらあたりで、彼女の本当の姿に迫る事のできる史料は、ほぼ、終了です。

昨年のページにも書かせていただいたように、小野小町の実像がわかるような史料はほとんど無い中で、彼女が作ったとされる歌の数々を読み解きながら、その人となりを推測して行かねばならない・・・しかも、その歌も本当に彼女が作ったのかどうかも危うい場合もありで、結局は、伝説の域を越えないわけですが、

そんな中、彼女の伝説は人から人へと伝えられ、さらに室町時代頃になって、『謡曲』や『御伽草子』の題材となり、文章の形として残されるようになります。

・・・で、それらの題材となったとされるのが『玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)という平安後期に成立したとおぼしき作者不詳の詩文で、その中の、老いて町を徘徊する老婆が、
「昔、ウチは大金持ちのお嬢様で、来る日も来る日も、あんな贅沢やら、こんな贅沢やらして暮らしてたんやけど、親兄弟も死んで家も没落してしもて…」
と、往時の贅沢三昧を自慢しつつ、現在の悲惨さを綿々と語るという物語・・・

つまり、実際に登場するのは小野小町では無いのですが、昔から、小野小町がモデルとされ、小町の物語として読み継がれて来ています。

また、その内容が、「類い稀なる美貌を武器に贅沢三昧をして他を顧みなかった浅はかな前半生の裏返しとして、老後は、家も無くなり、夫も子もなく、路頭に迷う生活になってしまった」=「最後に人にさげすまれるほど醜く老いて朽ち果てるのも、因果応報…報いである」という教えっぽい感じになっている事から、おそらく、どこかの僧侶が著した書物と思われ、一説には弘法大師空海の作とも言われます。

ただし、あの吉田兼好(よしだけんこう)『徒然草』(2月15日参照>>) の中で、
「小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは『玉造』といふ文に見えたり…」
と、その内容を疑うとともに、
「小野小町が登場してくんのは、弘法大師が亡くなってからやろ」
と、すでに、この時代に指摘しています。

なので、この『玉造小町』の時点で、早くも伝説なのですから、さらにそれを題材にした謡曲や御伽草子となると、もっと伝説という事になるわけですが、やはり、興味をそそられるのは、その伝説がどこまで事実に近いか?という事よりも、なぜに、そのような伝説となったか?の方ですね~

Sotobakomati600 観阿弥(かんあみ)作の謡曲『卒都婆小町(そとばこまち)では、
高野山を出て都に来た僧が、倒れた卒塔婆(そとば=供養のために経文などを書いてお墓の後ろに立てる縦長の木片)に腰掛けて休憩している乞食の老婆に、
「それは、仏体そのもやねんから、そんなとこに座ったらアカン」
と注意をすると、
「そんなん…もう、字も見えへんようになってるし、こんなんただの朽木やん」
と、老婆が反論・・・

さらに僧が、
「朽木の中にも花を咲かすもんもある…まして、仏体を刻んでる木やねんから…」
と続けると
「ワテも見た目は朽木やけど、心には花を持ってる…むしろ、手向けになってええんちゃうん?」
と、ああ言えばこう言うの問答をくり返し、結局、僧を説き伏せてしまうのです。

老婆の説法のスゴさに驚いた僧が、その名を聞くと、それは100歳になった小野小町であったと・・・

しかも、現在の小町は、若き日に愛を告白され、「百日通ってくれたらつき合ってア・ゲ・ル❤」と約束しながらも、99日通った後の100日目に亡くなってしまった深草少将(ふかくさのしょうしょう)怨霊にとりつかれているという設定になってます。

とは言え、さすがに能楽を大成した観阿弥の作だけあって、落ちぶれた老後を描いてはいるものの、その教養の高さも垣間見え、学識が高いが故に悩まされる哀れさなどもあって、そこに悪意はありませんが、

逆に、悪意に満ちた伝説が『あなめ伝説』です。

これは、もともとは『日本霊異記(にほんりょういき)にあるお話で、

ある男が、深草の市に向かう途中に原っぱを通りかかると
「あなめ、あなめ…(あぁ、眼が痛い)という苦痛にうめく声が聞こえる・・・

ふと見ると、そこには野ざらしのドクロがあり、その空洞の眼のくぼみから1本のススキが生えているのに気づき、それを抜いてやると、ドクロからお礼を言われた・・・というもの・・・

と、このように、大もとの話は、小町とは関係ないのですが、なぜか、またぞろ、この話が小町と結びつけられ、このドクロは小町のドクロという伝説になるのです。

絶世の美女が老婆となり、最後にはドクロ・・・

おそらく、実際の小野小町は、年齢とともに、その美貌に衰えを感じ始めた頃で、その消息を絶ち、その先はわからない・・・にも関わらず、その後伝説が付け加えられる・・・

それって・・・
ひょっとして、平安の世の男性は、よほど美人に翻弄され、その美人のために人生を棒に振った経験があるのでは?

だから・・・
そんな美人に惑わされて道を踏み外さないよう
「こんな美人もいつか老婆になって、いつか亡くなるのだ」という事を、日頃から肝に銘じ・・・そういう戒めのために生まれた伝説なのではないでしょうか?

美人の代名詞としてターゲットにされた小野小町さんは、それこそ、お気の毒としか言いようがありませんが・・・

と同時に、今も昔も、あいも変わらず美人に弱い男性諸君よ!!
どないかならんのかいな??(^-^;
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2013年3月16日 (土)

「信長のシェフ」最終回の感想

 

「いざ参らん!戦国のキュイジーヌ! 」

・・・て、このクールにテレビ朝日系列で、金曜の深夜に放送されていたドラマ「信長のシェフ」が、とうとう終わりましたね~

個人の感想としては・・・
「いやぁ、オモシロかった~ヽ(´▽`)/」です。

以前、番組が始まって何回目かの頃に、歴史上に登場する、おそらく史実の本物・信長のシェフ坪内某(つぼうちなにがし)のお話を紹介させていただいた時に、「なかなかオモシロイですよ」と、その感想をチョコッと書かせていただきましたが・・・(2月3日参照>>)

歴史好きですが、ドラマは創作物と思っている茶々としては、
もともと、平成に生きる現代のシェフが戦国時代にタイムスリップ・・・という時点で、荒唐無稽なのですから、姉川の合戦で焼肉パーティをしようが、帝の目の前で包丁を振り回そうが、調理中に上がった炎を見て将軍様が「ファイヤー!」とつぶやこうが、ぜんぜん気になりません。

むしろ、「よきにはからえ~~」と歌うようにおっしゃる帝役の森本レオさんのエエ声に、久々にウットリなんかして・・・

とは言え、そんな細かな描写にはツッコミ所が多々あるものの、意外に歴史の流れそのものを逸脱する事が無いうえに、あまり他のドラマで扱われる事の無いツウ好みの歴史人物がイイところで登場し、うまく絡んでくれたりするのが、歴史好きの私もハマってしまう、このドラマの良きところ・・・

ちなみに、私は、原作の漫画は読んでいませんので、あくまで、ドラマの話としてお聞きくださいo(_ _)oペコッ

・・・で、深夜枠でもありますので、このドラマを1度もご覧になった事が無い方のために、大まかに、最終回への流れをご紹介させていただきますと、

平成に生きる現代のシェフ=「ケン」が、戦国時代にタイムスリップして、「ケン」という自分の名前と料理の事以外の記憶を失くしまっていたところに、家族を亡くしてたった一人で生きて行くため、男のフリをしている「夏」という女性と知り合い、彼女に助けられながら、ひょんな事で知り合った木下藤吉郎(秀吉)を通じて、織田信長の料理人となる・・・

・・・で、今回の最終回の前には、途中、窮地に立たされた場面で、何度もケンを助けてくれた、心やさしき森可成(もりよしなり)宇佐山城の戦いで失いつつも(9月20日参照>>)、勃発した石山本願寺との合戦(9月12日参照>>)を休戦に持ちこみたい信長の命を受けて、石山本願寺の料理人と料理(今回はスイーツです)対決をする事になる・・・

つまり、「お互いに条件を出し合って、料理対決で勝った方の条件を呑んで休戦する」という展開になるわけですが、この石山本願寺側の料理人というのが、ケンが平成の世で婚約をしていた女性=「瑤子(ようこ)・・・最終回に来て、ケンはその事を思い出す・・・てな感じです。
(最終回をまだご覧になってない方にはネタバレすんませんm(_ _)mですので、ここから先は最終回を見た後に読んでください)

結局は、帝が「どっちもウマイ!甲乙つけがたい」という事で、どちらの条件も無しに休戦する事となり、結果的に、「なにがなんでも休戦したい」信長の思い通りとなって、石山本願寺の顕如(けんにょ)は不満プンプン・・・

そんな中、「日食の夜に行くと人が消える」という謎の『黄泉の祠(よみのほこら)の存在を、明智光秀(あけちみつひで)に教えてもらったケンは「そこに行けば平成に戻れるかも…」と、夏にうながされ、瑤子と手に手を取って向うのですが、結局、瑤子に別れを告げ、この時代でカノジョとなった夏のもとに戻って来る・・・

しかし、その瑤子も、結局は平成には戻っていないもよう(←ここは謎っぽくなってます)

・・・て事で、完全に続編アリアリ丸出しの最終回だったわけですが・・・

まぁ、前回に放送した宇佐山城の戦いが元亀元年(1570年)9月、今回の石山本願寺との停戦は・・・

と、実は私・・・石山本願寺との停戦と聞いて、最初は天正三年(1575年)10月の事を考えていたんですが、そのワリには、その間にある、義昭追放となる槇島城の戦い(7月18日参照>>)も、浅井滅亡の小谷落城(8月27日参照>>)も・・・果ては、長篠・設楽ヶ原の戦い(5月21日参照>>)まで描かれていない・・・

これまでの雰囲気でみると、さすがに、こんな重要事項をすっ飛ばすはずは無いと思いますので、ひょっとしたら、今回の停戦は、武田信玄が仲介した元亀三年(1572年)7月の停戦の事???

信玄がまったく出て来てないので、勘違いしそうになってましたが、たぶんそうですね・・・

だとしたら、天正十年(1582年)6月に起こる本能寺の変(6月2日参照>>)までは、まだまだ先は長い・・・って事で、ここで終わるわきゃ無いですね。

いや、むしろ、是非とも「続編作ってください」とお願いしたい!

なんせ、今回の最終回でも、石山本願寺側の瑤子の作ったスイーツの毒味をするのが本願寺坊官(ぼうかん・世話係の僧侶)下間頼廉(しもつまらいれん)、ケンの作ったスイーツの毒味をするのが秀吉だったのですが、

実は、この頼廉という人・・・信長亡き後に起こる織田家家臣のトップ争い=秀吉があの柴田勝家とあいまみえる賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)の時に、「なんなら、この本願寺がお味方しまっせ」と、秀吉に囁く人・・・(1月19日参照>>)

ね!!
このように、歴史好きが、クスッとほくそえむような複線が、このドラマには張られているのですよ!

なのでオモシロイ!(゚▽゚*)

深夜枠にしては高視聴率だったこのドラマ・・・ネット上では、早くも続編、しかも、「ゴールデンタイムに進出」なんて噂もありますが、深夜枠の少ない予算で頑張ってはるスタッフさんの雰囲気も大好きだったので、私としては、あの「トリック」のように、堂々の深夜枠で貫いていただきたい気もしないではないです。

ただし、続編があるならば、深夜であろうとゴールデンであろうと、亡くなってしまった可成さんを演じていた宇梶さんに代わるステキな役者さんを、何らかの役でキャスティングしていただきたい・・・

もちろん、秀吉のゴリさんも、家康の竹山さんも頑張っておられましたし、ミッチーはこれまでの誰よりも信長っぽいし、顕如の市川猿之助さんに至っては、空気も引き締まる怪演でしたが、やはり、ワキを固める宇梶さんがいなくなったのが寂しいので・・・

一ファンとして、期待して待っておりますデスm(_ _)m

ちなみに、信長の生きた時代の京都周辺では、天文二十一年(1552年)12月20日の皆既日食と、天正三年(1575年)3月20日の部分日食・・・と、2回の日食があったらしいですが、果たして信長さんは見たのかな??
 .

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2013年3月15日 (金)

鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦

 

元弘三年(1333年)3月15日、播磨にて討幕の兵を挙げた赤松則村と、それを迎え撃つ鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった山崎の合戦がありました。

・・・・・・・・・

3日前にご紹介した三月十二日合戦(くわしくは3月12日参照>>)の、まさに、その続きですが、一応、ここまでの経緯を書かせていただくと・・・

元弘元年(1331年)、河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)を味方に、笠置山にて、鎌倉幕府・討幕ののろしを挙げた後醍醐(ごだいご)天皇(9月28日参照>>)、この元弘の変に敗れ、隠岐へ流されてしまいます(3月7日参照>>)が、その後、行方不明になっていた息子の護良(もりよし・もりなが)親王や正成が相次いで挙兵した(2月1日参照>>)事を受けて、後醍醐天皇は隠岐から脱出(2月24日参照>>)・・・伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に陣取って幕府軍に対抗します。

それを受けて、各地の天皇方の武将も動きます。

その中の一人・播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松則村(あかまつのりむら・円心)は、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して京に迫り、元弘三年(1333年)3月12日の合戦では、一旦、京都市内になだれ込むも、六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)の激しい抵抗に合い、一旦撤退しました。

・‥…━━━☆

このように、毎日どこかで合戦が行われている状態となった都周辺・・・

時の天皇・光厳(こうごん)天皇の皇居も、ひとところには定まらず、その心が休まる事もありませんでした。

そのため、朝廷&幕府の総力をあげて、社寺にて、国家安泰の祈願&祈祷をするのですが、一向に効果はありません。

やがて、先の合戦で、やむなく撤退した赤松軍が態勢を立て直して、再び迫ったのです。

則村は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)八幡(京都府八幡市)の2ヶ所に陣を構えます。

Yamazakidougatougecc (←クリックして大きく見れます)

ご存じのように、ここは、この約250年後の戦国時代に、本能寺にて、主君=織田信長を討った明智光秀(あけちみつひで)が、脅威の中国大返しで戻ってきた羽柴(後の豊臣)秀吉を、京都に入れまいとして抑えた場所・・・(6月13日参照>>)

さらに下った慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの頃でも、幕府が砲台場を設置して、京都の守りとしていた場所です(1月5日参照>>)

地図を見ていただいたなら一目瞭然ですが、現在でも、JRは在来線も新幹線もここを通り、阪急電車や京阪電車もここを通り、少し離れてはいますが国道1号線も近くを通ります。

淀川を挟んで、西岸が山崎、東岸が八幡・・・しかも、両側に山が迫っていて、平地は川沿いの、ごくわずか・・・大阪方面から京都に入る時は、必ず、この狭い場所を通らねばならないので、合戦の際は、最重要の場所という事になります。

ただし、今回の赤松軍の場合は、敵は大阪方面からやって来るわけではなく、すでに京都にいますので、敵を迎え撃つために抑えたのではなく、「封鎖して、物資の補給路を絶った」という事ですね。

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地・・・物流の要である大阪からの補給路を断たれては困りますから、六波羅探題は大軍を率いて、その排除に向かいます。

元弘三年(1333年)3月15日朝・・・五条河原に集結した六波羅軍は、はじめ、軍を2手に分けて南へと進みますが、久我縄手(こがなわて・久我畷=京都市伏見区久我森の宮付近)付近は道が細くぬかるみ状態で、馬の引く手もままならなかったため、やがて1手に合流して、桂川を渡り物集女(もずめ=京都府向日市)に到着します。

この敵軍の進路を伝え聞いた則村・・・自軍の3000騎を3手に分け、矢の名手を中心にした1手を小塩山(おしおやま=京都府京都市西京区)へと回し、次の1手となる野伏(のぶせ=地侍や農民の武装集団)をを狐河(きつねがわ=京都府京田辺市)付近に配置・・・残りの1手を向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の松林の中に潜ませて、敵の侵入を待ちます。

しかし、六波羅勢とて戦いのプロ・・・あまりの静けさに警戒し、ゆっくりと一歩一歩進軍して行きます。

Dscf1975a800 向日神社(京都府向日市)…くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>(別窓で開きます)

そんな中、六波羅勢の先陣が向日神社を前を通過するや否や、木陰や岩陰に潜んでいた赤松勢が、一気に矢を射かけました。

警戒していたとは言え、こういう場合、仕掛けられた側が完全に不利・・・なんせ、馬が言う事聞かなくなりますから・・・しかも、その周辺は、いたって細くて険しい道・・・(てか、それを狙って、そこに潜んでますからね)

「こんな野伏らにかもてる場合や無いゾ!」
「こんなん無視して、さっさと山崎に抜けろ!」

六波羅勢は、とにかく、南に向ってひた走ります。

しかし、打って出た先にも新手の兵・・・しかも、六波羅勢は、「相手の赤松勢は少数」と侮っていたため、またたく間に四方を囲まれそうになってしまいます。

やむなく退く六波羅勢・・・それを追撃する野伏・・・

さすがに、1人前の武将が野伏に追われる姿を恥ずかしく思い、六波羅勢は、一旦、引き返しますが、もはや、一度崩れた態勢を戻す事は不可能・・・やむなく、京へと撤退します。

この合戦・・・上記の通り、結果は、赤松軍のちょっとした勝利という事になるわけですが、それ以上に、六波羅に打撃を与えました。

それは・・・
この戦いで討死をした兵の数は、負けた六波羅側でも、さほど多くは無かったのですが、久我縄手というぬかるみでの戦いであった事、向日神社の麓という細く険しい道での戦いであった事から、堀や溝に落ちたり、沼に足を取られたりして、馬具や甲冑や武器などを、そのまま、打ち捨てて帰って来た武将が多数いて、その不細工な格好のまま、白昼の京都市内へ逃げ帰って来た姿が多くの京都市民に目撃される事になり、どエラい恥をかいてしまったのだとか・・・

もちろん、勝利した則村の名声は、逆に高まる事となります。

が、しかし・・・ご存じの通り、一連の戦いは、まだまだ終わりません。

続きのお話は、また、「その日」の日づけにて・・・【足利尊氏と南北朝の年表】もどうぞ>>
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2013年3月14日 (木)

女戦国大名・寿桂尼…「死んでも今川を守ります!」

 

永禄十一年(1568年)3月14日、女戦国大名と称される今川寿桂尼が、この世を去りました。

・・・・・・・・・

つい先日、亡き夫に代わって、男顔負けの領国経営をやってのけた女戦国大名=「鬼瓦」こと赤松洞松院(とうしょういん)さんをご紹介させていただきましたが・・・(3月11日参照>>)

今回の寿桂尼(じゅけいに)さんも・・・

と言うより、洞松院さんの場合は、未だ応仁の乱(2008年5月20日参照>>)の雰囲気も冷めやらぬ頃であり、幕府権力も失墜とまではいかない戦国も初頭で、群雄割拠というほどでもない時代・・・しかも、当時の最高権力者であった管領=細川政元(まさもと)(6月23日参照>>)の妹であり、応仁の乱をけん引した細川勝元の娘であったわけで、言わば武家の頂点とも言える家柄だった・・・

しかし、寿桂尼さんの場合は、時代は、まさに群雄割拠の真っただ中で、しかも、ご本人は、京都の公家=中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘・・・おそらくは、雅なお姫様としての教育は受けていても、領国経営など、武家としての教育は受けて来てはいないはず・・・

そんな中で、(失礼ながら)どこの馬の骨ともわからぬ、武力第一の戦国武将を相手に女当主をこなしたのですから大した物です。

そんな彼女は、その生まれた年もわからず、駿河(静岡県東部)の守護=今川氏親(うじちか)に嫁いで来た年も、はっきりとはわかっていません。

様々な文献に残る出来事や、亡くなった頃の雰囲気から、おそらくは永正二年(1505年)頃に、15歳前後で結婚したと考えられていますが・・・

その頃のお公家さんは、それこそ「生きるか死ぬかの瀬戸際」に立たされていたわけで・・・

というのも、今回、寿桂尼さんが正室となった氏親の今川氏は、いわゆる守護大名・・・つまり、室町幕府から正式にその場所を治めるよう言い渡された由緒正しき領主なわけですが、この頃は、その守護大名から戦国大名への転換期とも言える時期なのです。

それまでの守護大名は、領地経営など、現地の事はほとんど守護代に任せて、自らは京都にいる事が多かったわけですが、そうやって留守にしている間に、守護代やら、配下の者に、武力で以って領地を奪われて・・・いわゆる戦国の定番=下剋上ですね。

ご存じのように、公家の収入源は荘園なわけですが、実力でその領地を奪った戦国大名から、それまで通りの年貢を納めてもらうなんて事は期待でき無いわけで、奪われたぶん、即座に収入が減ってしまう事になるわけです。

なので、お公家さんとしては、何とか有力武将とイイ関係になって、荘園を守ってもらい生活の安定を計らねばならなくなって来る・・・

そんな中、中流公家の中御門宣胤は、由緒正しき守護大名の家柄である今川家の中でも、特に文化的にも貴族たちとの交流が深かった氏親の曽祖父=範政(のりまさ)から、若き日に『万葉集』の口伝を受けた事もあるほどの親しさ・・・ここは一つ、「家柄&武力ともに1級品の今川家との縁を強めなければ!」と相なったのです。

Zyukeini400 こうして、都から駿河へと嫁ぎ、氏親の正室となった寿桂尼・・・(もちろん寿桂尼は夫を亡くして出家してからのお名前ですが、それ以前のお名前がわからないので、本日は寿桂尼さんと呼ばせていただきます)

・・・で、文献によって様々なので諸説ありますが、一応、氏親さんの子供とされる人物が男子:6人、女子:7人、合計13人いると言われている中で、寿桂尼さんが産んだとされているのが、長男の氏輝(うじてる)と、五男の義元(よしもと)と、後に北条氏康(うじやす)に嫁ぐ瑞桂院(ずいけいいん)という女の子の3人と言われます。

とは言え、当然ですが、夫の氏親が元気な間は、寿桂尼さんも、ごくごく普通の守護大名の嫁として奥さんに徹していたわけで、いわゆる表舞台に登場する事は無かったわけですが・・・

そんな中、その氏親が、大永六年(1526年)に病死し、後を継ぐべき長男の氏輝が、未だ14歳で、前年に元服を済ませたばかりの若さであった事から、生母である寿桂尼が、その後見人として補佐する事となり、彼女が表舞台に登場して来るのです。

いや、しかし・・・これは、いきなり登場では、おそらくありません。

・・・というのも、由緒正しき今川家には、それこそ、由緒正しき譜代の家臣も大勢いて、実力のある武将も多く、若き氏輝の補佐役には事欠かなかったはず・・・そんな中で、寿桂尼が後見人となるのは、生母だからという理由だけではなく、やはり、それまでに、その実力を、皆が知っていたという事でしょう。

そう、実は、もともと体が弱かった夫の氏親さんは、けっこう前から病床についており、思うように政務をこなせなかった事が伺える記録が多く残ります。

そんな中、今川家では、氏親の名で、当時としてはめずらしい『今川仮名目録』という法律を発布していますが、これは、検地を実施してこれまでの土地所有制度から脱皮し、分国法を制定して室町幕府からのしばりからも脱皮するという・・・それこそ、幕府政権下の守護大名から、今ハヤリの戦国大名へ、今川家が脱皮した事を物語る物ですが、

この法律の発布が、氏親が亡くなる、わずか2か月前の事・・・もはや、その頃の氏親は寝たきりになっていたと言われていますから、おそらく、その制定に寿桂尼が大きく関わり、晩年の氏親の政治を支えていた物と思われ、彼女自身も、自らの手腕に自信を持っていたし、周囲も大いに認めていたという事ではないでしょうか。

こうして、当主交代から2~3ヶ月後の頃から、今川家が発給する文書に彼女の名前が見えるようになります。

おもしろいのは、この時の寿桂尼さんの文書・・・一般的には、戦国大名が発給する文書には、自身の書である事を証明する(直筆でなく右筆が書いた物であっても、自らの意図示す場合)「花押」というサインというか直筆マークというか・・・そんなのを本人が書くわけですが、

彼女の場合は、そこにハンコが押されています。

もちろん、花押も作れなくは無かったでしょうが、当時の正式文書には書札令というなんやかんやと制約される決まりのような物があったので、女の身の彼女では作るのが難しかったのかも知れませね。

・・・で、これが『歸(とつぐ)という「帰」の旧字で、男性の使用するハンコに比べると少し小ぶりな物・・・研究者の間では、これは、中国の古い詩にある
♪之子(このこ)(ここ)ニ歸グ、其ノ室家ニ宣シ♪
からとった「歸」では無いか?とされ、おそらくは、父=宣胤が、お嫁入り道具の一つとして彼女に持たせたのではないか?と言われています。

とにかく、こうして2年間、息子に代わって政務をとった後、大永八年(1528年)、16歳に成長したわが息子=氏輝に、速やかににバトンタッチ・・・と行きたいところですが、どうやら、未だ氏輝は、少々頼りなかったようで、わずか半年で、またまた寿桂尼さんの発給文書が見られます。

結局、享禄五年(1532年)頃になって、やっと氏輝が常に文書を発給する状況となっている事から、おそらくは、そのあたりまで、彼女がサポートしていたのでしょう

その後は、しばし、静かになり・・・いわゆる、夫を亡くした妻の一般的な過ごし方=夫の菩提を弔う日々を過ごしていたようです。

しかし、それから、わずか4年後の天文五年(1536年)3月17日に、またまた急展開・・・その氏輝が24歳の若さで亡くなってしまうのです。

もともと身体が弱かった事から、病死と言われますが、「水死」とする文献もあり・・・さらに、同じ日に彦五郎なる次男も亡くなったとの話もあります。

ただ、この彦五郎なる人物は、寿桂尼の産んだ子との見方もありますが、そうでない可能性も高く、さらに、実在の人物では無い可能性があるほど史料が少なく、もちろん、死因を記した記録も残ってはいません。

ただ、もし、この二人が、同じ日に亡くなったのが事実だとするならば、6人いたとされる氏親の息子のうち、この二人を除けば、六男の氏豊(うじとよ)尾張(愛知県西部)の今川家に養子に入った以外の三男・四男・五男は、すべて僧になっていた・・・つまり、今川を継ぐ武将として今川館にいた二人が、二人とも同時に亡くなった事になるわけで・・・

故に・・・ドラマなどでは、その領国経営ぶりに「この後の今川家を氏輝に任せられない」と判断した寿桂尼が、自らの策略で、わが息子を死に追いやった風に描かれます(ドラマだと、その方がオモシロイ)、当然、真相は薮の中です。

・・・で、上記の通り、後継者がいなくなった中、四男の象耳泉奘(しょうじせんじょう )最初から後継者争いに参加しなかった(この方は後に奈良の唐招提寺にて高僧となっていますが、氏親の四男以外にも義元の息子とする説もあり、正史としては今川家出身という以外の事はよくわかっていませんので息子に数えない場合もあります)ので、今川の後継者は、三男の玄広恵探(げんこうえんたん)と五男の梅岳承芳(ばいがくしょうほう)の間で争われる事になりますが、

先に書いた通り、この五男が、寿桂尼の実子で後の今川義元・・・三男は、側室の子供という事ですので、当然、寿桂尼は実子の味方として、即座に、時の将軍=足利義晴(よしはる)に、義元への相続を願い出ています。

この素早さもあって、上記のような疑惑が生まれて来るのも、致し方無いところです。

が、しかし、その将軍家からの許可書類が出されるのは、氏輝の死から2ヶ月後の5月2日・・・そのため、この間に両者の武力的な衝突=花倉の乱(6月10日参照>>)が勃発し、敗色が濃くなった玄広恵探は、その許可書類の存在を知ってか知らずか、自ら命を発ち、名実ともに、今川の後継者は義元という事になりました。

ちなみに、このドサクサの中で、「寿桂尼が玄広恵探側に寝返った」と、武田家家臣の駒井高白斎(こまいこうはくさい)『高白記』に書かれている事から、そのような見方をする研究者もおられるようですが、一方では、先の将軍家の許可書を得た寿桂尼が、乱を早く終わらせようと、その書類を持って玄広恵探側についている福島氏のもとを訪れたものの、福島氏がそれを保留にしてしまったという経緯があり、その事が、部外者である武田の家臣から見て、寿桂尼が福島氏に走ったと勘違いをしたのではないか?との見方から、寿桂尼は、一貫して義元の味方であったとの意見もあります。

私としては、やはり後者・・・寿桂尼は、一貫して義元推しだったと思います。

なんせ、この後は、義元の教育係でもあった太原崇孚(たいげんすうふ・雪斎)という心強い参謀がいた事で、彼女は、孫を連れて温泉旅行に出かけたりなんぞして、ゆっくりとした平穏な日々を過ごしていた事がうかかえますから、やはり、夫の死後、ずっと抱え続けていた重荷を、やっと下ろしたという感じだったのではないでしょうか。

しかし・・・
ご存じのように、それから24年後の永禄三年(1560年)5月19日、義元はあの桶狭間で織田信長に討たれてしまいます(5月19日参照>>)

その8年後の永禄十一年(1568年)3月14日寿桂尼は、おそらく80歳前後で亡くなりますので、この先、孫の氏真(うじざね)が継いだ後の、今川の転落ぶりを、見る事なくこの世を去るのですが、

その死の寸前に残した遺言は・・・
「我が墓を、今川館の艮(うしとら)の方角に建てよ」

艮の方角とは、ご存じ東北=鬼門・・・

そう、彼女は、死んでもなお、今川家を守りたかったのです。

残念ながら、その思い空しく・・・義元時代に結んだ同盟を破棄した武田信玄駿河への進攻を開始するのは、彼女の死から、わずか9ヶ月後、その年の12月の事でした・・・【武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】参照>>
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2013年3月12日 (火)

鎌倉幕府・討幕!…赤松則村の三月十二日合戦

 

元弘三年(1333年)3月12日、討幕方の赤松則村と、鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった三月十二日合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)、楠木正成(くすのきまさしげ)との運命の出会い(8月27日参照>>)を果たして笠置山にて討幕ののろしを挙げ元弘の変を勃発させた後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、あえなく敗退(9月28日参照>>)・・・

息子の護良(もりよし・もりなが)親王は行方不明になり、赤坂城で頑張っていた正成も、自ら城に火をかけて討死し(10月21日参照>>)、 捕えられた後醍醐天皇も隠岐に流罪となりました(3月7日参照>>)

しかし、その後、行方をくらまして奈良や和歌山を転々としていた護良親王が、各地の半幕府勢力をまとめる事に成功して吉野山に立て籠り、元弘三年(1333年)1月には天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)、死んだと思われていた正成も、再び千早城にて奮戦します(2月5日参照>>)

これに触発されて動きだす、各地の武将たち・・・

彼らの手引きに寄り、閏2月の下旬には、後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事を受けて、元幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)は、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを畿内へと派遣します。

Akamatunorimura600 そんな中、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵・・・

山陰・山陽の道を封鎖して、六波羅探題の要請で上京しようとしていた周防(すおう=山口県)安芸(あき=広島県)幕府勢力を通せんぼ・・・さらに、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して、京に迫ります。

さらに六波羅探題には、四国の諸将の中でも天皇側につく者が結託して、「上京の兆しあり」との一報も入って来ます。

慌てに慌てる六波羅探題・・・しかし、そこは落ち着いて、「まずは、目の前の敵を潰さなければ」とばかりに、佐々木時信(ささきときのぶ=六角時信)らに在京の兵をつけ、さらに、そこに三井寺の僧兵を加えた5000余騎で以って、摩耶城を囲み攻撃を開始します。

これを見た則村は、わざと敵兵を険しい山道に誘いこみ、見事勝利・・・これを聞いた六波羅探題が、さらに1万騎の兵を送り込んで増強しますが、これもまた智略で以って勝利し、その勢いのまま、追撃を開始して、もはや、そのまま上京する勢いです。

元弘三年(1333年)3月12日、「もはや摩耶城の落城も時間の問題」と構えていた六波羅探題に「赤松軍迫る」の一報が届き、六波羅だけでなく、都中が大騒ぎになる中、慌てて六波羅探題は新たに在京の将兵を召集し、防戦体制にはいりました。

かくして、桂川を挟んで睨みあう両者・・・

とは言え、則村ら赤松軍が桂川の西岸から見る限り、敵の数はなかなかに多い・・・すぐに攻め立てるわけに行かず、しばらくは、お互いに矢を射かけながらの矢戦とあいなりますが、これでは、いつまでたっても、らちがあきません。

なんせ、もはや午後4時を過ぎ・・・グズグズしていたら、このまま夜を迎える事に・・・

血気にはやる則村の息子=則祐(そくゆう・のりすけ)は、
「このままではアカン!馬で川を渡りましょ!」
と提案しますが、

父・則村は
「無謀すぎる!」
と却下・・・ここでの渡河がいかに危険かを説いてみせますが、

「お父ちゃん、兵の数見てみぃな!
どう考えたって、俺ら不利やんけ。。。
こんだけの大差があったら、敵にこっちの数を見透かされんうちに奇襲をかけて、敵陣を乱すしか、方法は無い!
俺は行くで!」

と言うがはやいか、則祐は馬に鞭を当てて、即座に、川の早瀬へと入り、波を逆立てながら前へ進みます。

これを見ていた飽間光泰(あくまみつやす・あきまみつやす=斎藤光泰とも)5騎が後へと続き、やがて対岸へとたどりつきました。

これに驚いたのが六波羅探題勢・・・

父=則村が「無謀」と言った作戦が、逆に、ヤル気満々の勇猛な姿に見え、六波羅方の兵が怖気づいて、戦意を喪失してしまったのです。

それを見て取った則村・・・
「先駆けの勇者を見殺しにするな~!」
と、声を挙げれば、この光景に高揚も頂点に達した赤松軍が、一斉に、怒涛のごとく川を渡りはじめ、一気に攻めかかります。

もはや六波羅方は総崩れとなって、戦う前に槍を捨て、旗を捨て、逃げる者が続出・・・こうして桂川を渡った赤松軍は、京都市中へなだれ込み、あたりは一帯は火の海と化します。

「このままでは御所も危険!」
となり、時の光厳(こうごん)天皇は、三種の神器を手にとって、わずか20人ほどの公卿を伴って御所を脱出し、六波羅へと身を寄せました。

これに続いて、後伏見院花園法皇らが、皇太子や奥さんを引き連れて、皆で六波羅へ・・・にわかに騒がしくなる六波羅探題ですが、ここは一つ、落ちついて赤松軍に対処しなければ・・・

さすがに、その頃には、赤松軍の兵の数が、大して多く無い事に六波羅も気づいております。

ここで態勢を立て直し、七条河原にて赤松勢を迎え撃つ作戦の六波羅・・・

この戦いで活躍したのが河野九郎(こうのくろう)陶山次郎(すやまじろう)・・・彼らのすばらしい活躍に、さすがの赤松軍も、ここまで・・・

則村らは、散り散りになって退却し、なんとか、六波羅探題は京都を死守しました。

さらに追撃をかけようとする河野らでしたが、「深追い無用」との命が出て、合戦は終了・・・

二人には、喜んだ光厳天皇から、臨時の恩賞が授けられたと言いますが、一方では「大将を討ち捕ったり!!」の報告に、喜んで確認しているうち、陣所には、赤松則村の首が5つも並ぶという珍事も・・・

もちろん、ご存じのように則村は、まだ死んでませんから、その5つの首はすべてニセモノという事・・・何とか死守したとは言え、六波羅探題側も、なかなかの混乱ぶりであった事がうかがえます。

・・・が、ご存じのように、六波羅探題&鎌倉幕府は、この後、さらにトンデモなく混乱する事になるのですが、今日の戦いに続いて行われる山崎合戦については、3月15日【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】のページでどうぞ>>

さらに一連の流れについては【足利尊氏と南北朝の年表】で>>・・・
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2013年3月11日 (月)

「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院

 

明応二年(1493年)3月11日、細川勝元の娘・洞松院と赤松政則の婚儀が整いました。

・・・・・・・・・・・

彼女が表舞台に出て活躍するようになるのが、今回、結婚した夫=赤松政則(あかまつまさのり)が亡くなってからですので、一般的には赤松洞松院(とうしょういん)と呼ばれますが、結婚当時は「めし殿」と呼ばれていたようです。

ややこしいので、本日は洞松院さんと呼ばせていただきますが・・・

・・・で、冒頭に書かせていただいた通り、彼女は、この国を真っ二つに分けた、あの応仁の乱(2008年5月20日参照>>)での東軍の大将である管領=細川勝元(ほそかわかつもと)の娘です。

って事は乱世の梟雄と言われる細川政元(まさもと)(姉という説もあり)・・・という事になるわけですが、

これが・・・
実は、未だ若いミソラで兄=政元の意向により、洞松院は、父の勝元が建立した京都の龍安寺(6月25日参照>>)に入り尼僧となっていたという事なのですが、その意向というのが「あまりにブサイク」という理由だとか・・・

「ブサイクやから、嫁のもらい手が無いよって、尼さんになりぃな」
って事なのかしら??

ホンマかいな?兄貴ならフォローしたれよ!と思うような理由ですが、そんな彼女に降って沸く縁談話・・・

実はこの時の政元には、大いなる計画がありました。

時の将軍は、あの応仁の乱の火種となった足利義視(よしみ=足利義政の弟)(1月7日参照>>)の息子の義材(よしき)でしたが、その義材を第10代室町幕府将軍に推しあげたのは、応仁の乱の口火を切る御霊合戦(1月17日参照>>)をやった元管領の畠山政長(はたけやままさなが)・・・

しかし、政元は、この結果にいたって不満・・・なんたって、かの義視が将軍の父として、政長が片腕として、幕府内での勢力を高めますから、政元としては、自らの意のままに動いてくれる人物を将軍に推したいわけで・・・

そこで、政元は、すでに夫を亡くして未亡人となっている8代将軍=足利義政(よしまさ)の妻=日野富子(ひのとみこ)(2012年5月20日参照>>)を抱き込み、さらに、政長についている播磨(兵庫県南西部)守護の赤松政則を味方に引き入れようとしたのです。

かくして、明応二年(1493年)3月11日(4月20日とも)還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)した洞松院と赤松政則の結婚とあいなったわけです。

この、わずか1ヵ月後に、政元は、義材と政長が敵対勢力討伐のために河内(大阪府南部)へ向かったスキを狙って、第11代将軍=足利義高(後の義澄)を擁立するというクーデター・・・世に言う明応の政変をやってのけるのです。

と、まぁ、結局は洞松院の結婚は、完全なる政略結婚なわけですが・・・

Akamatumasanori600 しかも、二人の結婚生活は、わずか3年・・・明応五年(1496年)4月20日、夫=政則が42歳で、この世を去ってしまいます。

二人の間には小めしという女の子がいるだけで、男子がいなかったため、一族の赤松義村(よしむら)を、小めしの婿養子として迎え、赤松家の家督を継がせる事になりますが、これに反発する家中の者が、別人を擁立して挙兵・・・

事は合戦にまで発展しますが、何とか、「義村が成人するまで、洞松院が後見人として実権を握る」という事で、話は収まります。

そう、ここから、父=勝元のDNAを引き継ぐ、彼女の実力が発揮されるのです。

このブログでも、過去、何人か登場していますね~
戦国の世に、夫や息子に代わって、男顔負けの領地経営をやってのける女当主・・・

彼女も、その一人なのです。

『赤松盛衰記』は言います、
「国中の政事(まつりごと)は洞松院と同室家(どうしつか=小めしの事)と、二人の女性の取り扱ふ事と成り来たれり」と・・・

特に、永正三年(1506年)頃からしばらくは、赤松家が発給する重要書類には、もう、洞松院の名前ばかり・・・

「そりゃ、兄貴が大物やから、周囲も気ぃ使ってんちゃうん?」
と、お思いかも知れませんが、その政元が永正四年(1507年)に暗殺されて(6月23日参照>>)しまった後でも、彼女の力が衰える事はありませんでした。

むしろ、政元の養子同志の間で起こった後継者争いにも一役かっているくらいです。

政元さん暗殺のページにも書かせていただきましたが、生前の政元が、男色1本で女性を寄せつけなかったため実子はおらず、3人の養子を迎え・・・てか、そもそも、その暗殺自体が、政元が先に養子に迎えていた関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)を後継者に据えておきながら、その後、阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)にチェンジした事で、危機感を抱いた澄之側の家臣の仕業なのですから・・・(8月1日参照>>)

そこに、3人目の養子である備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)が絡んで、三つ巴の後継者争い・・・

はじめ、澄元と協力してともに澄之を討った高国が、周防(山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)の支援を受けて澄元と敵対すると、洞松院は澄元側につき、養子の義村を澄元側として参戦させます。

これが、永正八年(1511年)8月に起こった船岡山の戦い(8月24日参照>>)なのですが、残念ながら、澄元らは高国に惨敗してしまいます。

さらに泥沼化するかに見えたこの戦いでしたが、この時、洞松院が、単身で敵陣に乗り込んで、直接、高国と和平交渉を行い、見事、和睦に持ちこんだとの事・・・

このような猛々しい姿と、噂の器量が相まってか、なんと彼女は、「鬼瓦」なるニックネームで呼ばれたとか・・・

ただ・・・
確かに、女性に「鬼瓦」は失礼なれど、戦国当主のニックネームとなれば、それだけスゴイという名誉なニックネームでもあるわけで・・・それを表すかのごとく、彼女が表舞台から消え去る頃から、赤松家は坂道を転げ落ちるように衰退していくのです。

洞松院の死が不明なので、何とも言えませんが、おそらく、「表舞台から消える=亡くなった」と予想できる中、大永元年(1521年)には、義村が、家臣の浦上村宗(うらかみむらむね)によって追放&暗殺され、守護の赤松家が守護代の浦上家に、その座を奪われてしまうという事態となり、赤松家は事実上滅亡に・・・

その後、庶流の赤松広秀(ひろひで=斎村政広)(10月28日参照>>)を頼ったり、羽柴(後の豊臣)秀吉に従って1万石を安堵してもらうなどして細々とつないでいた血脈も、義村の曾孫にあたる則房(のりふさ)が、あの関ヶ原石田三成(いしだみつなり)について三成の居城の佐和山城で籠城しているところを東軍に攻められ(9月17日参照>>)、一旦は逃亡するも、結局、自殺に追い込まれて、赤松家は断絶・・・という事になってしまいました。

そもそもは、政則の叔父の赤松満祐(あかまつみつすけ)がしでかした将軍暗殺=嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)で、事実上滅亡していた赤松家を、政則自身の手腕で回復させ(9月4日参照>>)、さらに、時の管領の妹を娶る事でステップアップ・・・・

それが、政略結婚のうえにわずか3年間の夫婦生活であったにも関わらず、嫁いだ洞松院も、精一杯、夫の遺志を継いで、力の限り赤松家を盛り上げようとした・・・

そこには、
「愛の無い結婚なんて考えられない!」
「戦はイヤじゃ!」

てな事は言ってられない、厳しい戦国時代に生きた女性の強さとしたたかさと・・・そして、現代とは違う愛の形を貫く信念を感じずにはいられません。
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2013年3月 9日 (土)

1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

 

和銅四年(711年)3月9日、現在の群馬県高崎市多胡郡が設置されました。

・・・・・・・・・・・・・

Tagotakuhon600 弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

この文章は、上記の群馬県高崎市吉井町にある『多胡碑(たごひ)と呼ばれる石碑に書かれてある碑文です。

この石碑は、おそらくは、その碑文に書かれてある奈良時代に、この地に設置された物なのでしょうが、その後、当時の国家が目指した律令制の崩壊とともに、すっかり忘れ去られた存在となっていました。

いや実際に、その地方の人々にもすっかり忘れ去られていたかどうかは微妙ですが、とにかく、文献等にはまったく出て来ません。

その後、室町時代の連歌師=宗長(そうちょう)が、建久六年(1509年)に書いた『東路の津登(あづまじのつと)という書物に『多胡碑』の名と所在が書かれていますが、本格的に認知されはじめるのは、それから200年後の江戸時代中期・・・

儒学者の東江源麟(とうこうげんりん)拓本を取り、自身の著書で紹介したのを皮切りに、当時の研究者や文化人が頻繁に石碑のある場所へ訪れるようになり、やがて、全国的に知られるようになるのです。

なので、歴史の彼方に埋もれていた何百年間という間、この石碑がいったいどのような状態だったのか?・・・

建っていたのか?埋もれていたのか?
その状況は、まったくわかっていないのですが、「奈良時代の石碑」で、しかもほったらかしだったワリには、かなり保存状態が良いようですね。

で、その後、明治の時代になって、初代の群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ=吉田松陰の妹婿)によって、周辺が整備され、地元の人たちの協力によって、その場所(土地)ごと国に寄付され、現在は、敷地内に多胡碑記念館がある吉井いしぶみの里公園として整備され、国の特別史跡に指定されています。

で、気になるには、その碑文の内容ですが・・・

『「上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せて、郡の名は多胡郡としなさい」という朝廷の弁官局からの命令がありました。

それは、和銅四年三月九日甲寅の事で、左中弁正五位下の多治比真人、太政官の二品穂積親王、左太臣正二位の石上尊、右太臣正二位の藤原尊の通達です』
てな感じ??

上野国が、今で言えば県という事になりますから、その下の郡は市・・・つまりは「市町村合併で、多胡という新たな市ができたよ!バンザ~イ」という記念碑なわけですね。

で、その記念すべき日づけが「和銅四年(711年)3月9日」で、その日づけの後に出て来る後半部分は、命令を通達した人の名前ですね。

多治比真人(たじひのまひと)の真人は、以前、お話させていただいた八色の姓(やくさのかばね)(7月6日参照>>)の真人なので、個人名ではなく、この時に左中弁(さちゅうべん=弁官局の次官)で正五位下だった多治比氏の誰かという意味ですね。

太政官(中央機関)二品穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇(2月25日参照>>)の第5皇子で、あの高松塚の被葬者じゃないか?って噂のある人・・・

左太臣正二位石上尊は、壬申の乱(7月23日参照>>)大友皇子側について敗れるも、後に政界に復帰した石上麻呂(いそのかみのまろ)の事・・・この人は、あの竹取物語に、かぐや姫争奪戦を行ううちの一人として実名で登場してますね(9月25日参照>>)

で、最後の右太臣正二位藤原尊とは、ご存じ藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>) ・・・いずれも、そうそうたるメンバーです。

もちろん、この碑文の解釈も様々あり、当然ですが、謎もあります。

『続日本紀』には、
「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」という、碑文の内容と一致する記述がありますが、日づけは「和銅四年三月辛亥」と、碑文とは6日のズレがあります。

また『給羊』の解釈も、「羊(ひつじ)という人物名と解釈するのが一般的ですが、「人の名前にヒツジて…(^-^;」てのは、誰しも思うところで、やはり、「個人名ではないのでは?」という説もあり、また、最後の二人を「尊」にした理由は何か?などなども・・・

さらに
「多胡郡」に命名した理由も、イロイロ想像できます。

「多」は文字通り「多い」という意味で、「胡」は、外国から来たウリですよという意味で「胡瓜=きゅうり」と呼んだ事でもお解りのように、外国の事・・・つまり、「多胡」と命名するこの地には外国人が多かったという事だと・・・

この時代ですから、おそらくは、大陸からの渡来人たちが数多く住んで、様々な大陸の技術を伝えた事でしょうね。

かの『続日本紀』などによれば、この同じ時期に約30の新しい郡ができたと言いますが、その中で、たった一つ・・・その記念碑が21世紀に残された多胡郡の『多胡碑』・・・

まるで
タイムカプセルのような歴史の女神からプレゼント・・・

その研究は、未だ現在進行形・・・

一歴史ファンとして、この先、はるか昔に新天地を求めてやって来た人々と、それを迎えた多胡の人々との美しい交流物語が発掘される事を願っておりますデス。
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2013年3月 8日 (金)

山姥はサバが好き?~「さばの日」にちなんで…

 

3月8日「3(さ)8(ば)の語呂合わせから、青森県八戸市が制定した『さばの日』という記念日だそうで、本日は、そのさばにまつわるお話を・・・

・・・・・・・・・・

もはや、日本人には身近過ぎるくらい身近な魚=(サバ)

語源は、その歯が小さい事から「小歯」と書いてサバと呼んだ事にはじまると言われますが、古くは、奈良の終わりか平安の始め頃から献上品や食べ物として文献の中に登場し、都では、鯖売りの行商も行われていたとか・・・

Sabakaidou 日本海に面した小浜から京都の大原口まで、♪京は遠ても十八里♪と唄い、励まし合いながら、行商人が行き来した道は、現在は『鯖街道』→と呼ばれて、古道ファンに親しまれています。
(京都の終着点=大原口の場所は本家HP:京都歴史散歩「御所周辺」でどうぞ>>別窓で開きます)

ちなみに、皆さまもご存じだとは思いますが、年齢や数をゴマかす時に使う「サバを読む」という言葉は、一説には、魚を取引する時に、サバは腐りやすいため、キッチリと数を数えず、大急ぎで大雑把に数を読んで取引したから・・・なんて事も言われてますよね。

ところで、そんなサバが大好物なのが、ちょっと前に渋谷あたりに出没(もとい!)山の奥深くに棲む老女の姿をした妖怪山姥(やまんば)です。

・‥…━━━☆

昔々、ある牛飼い(牛方)が、サバを積んで、ある峠道を越えようとすると、いきなり山姥が追いかけて来ます。

驚いた牛飼いが、あわてて、荷物のサバを1匹放り投げると、山姥は、そのサバをムシャムシャ・・・

すぐに食べ終わって、また追いかけて来るので、牛飼いは、また1匹、サバを投げ・・・とやってるうちに、とうとうサバはなくなり、しかたなく、最後に牛を置いて逃げました。

すると山姥は、その牛もガリガリ・・・

そのスキに、やっとの思いで山へと逃げ込んだ牛飼いは、1軒の家を見つけ、中に逃げ込んで、囲炉裏の上の棚に身を隠します。

しかし、実は、その家は山姥の家だったのです。

しばらくして、お腹いっぱいになった山姥が家へと戻って来ます。

山姥とは言え・・・
満腹になったら一眠り・・・となるのは誰しも同じ・・・

山姥が、釜の中で寝ようと(なぜ?釜の中で寝る?)釜へと入ったところで
「チャンス!」
とばかりに、飼いは、その釜に蓋をしてデッカイ石を重石として乗せ、下から火をつけて、山姥を焼き殺しましたとさ。

・‥…━━━☆

・・・て、なんだか、最後がかわいそうな終わり方ですね~
まぁ、昔話は、意外に残酷な物ですが・・・

これは、『牛方と山姥』という、けっこう全国ネットなお話なので、ご存じの方も多いかと思いますが、

まぁ、これ以外にも、ほとんどの場合、昔話の山姥は、人間を食べる恐ろしい妖怪として登場し、このお話のようにやっつけられて終わるのですが、中には、福をもたらしてくれる福の神や、山の女神として登場する昔話もあり、

おそらくは、迷って抜け出せなったり滑落したりする怖さと、山の幸などの母なる恵みをもらたらしてくれるという、山の持つ二面性を象徴したのが山姥という事なのでしょう。

もちろん、丸々の空想ではなく、山の神に仕えていた巫女、あるいは、人との関わりがイヤで山奥にひっそりと住んでいた老人など、実際に、山に住んでいてモデルとなったような人物がいた可能性もありますしね。

・・・で、この山姥のサバ好きですが・・・

全国に分布する、この「牛方と山姥」の話の中には、牛で運んでいる積荷が、ブリだったりタイだったり、昆布だったりする事もあるそうですが、数の上では、サバというのが圧倒的に多い・・・なので、「山姥はサバ好き」という事になるのですが、

実は、これは、魚のサバの事ではなく、仏教で言うところの「散飯(さば)の事ではないか?という説もあります。

この仏教の散飯というのは、僧が食事をとる際に、ご飯を少しだけ取って庭先などにまいて、「餓鬼(死んで餓鬼道に落ちた者)にほどこす」事なのですが・・・

古来より、漁村から山村へと物を運ぶ行商人は、山を通る時に山の神に供物を捧げるという習慣があったらしいのですが、それが、生米や炊いたご飯などを通る道にまいて、お供えとしていたらしい事から「散飯を捧げる」と言われていたのだとか・・・

で、いつしか、その「散飯」が、魚の「鯖」と変化したのではないか?との事・・・

って事は、
山姥はご飯好き?って事なのかしら?(←普通やん)

おもしろいのは、山の神にしろ、山姥にしろ、日頃は山に棲む神様や妖怪が、人と接したり、山から下りてきたりという昔話は、ほとんど農作民の間で語られる昔話だそうで、逆に、山仕事に従事している人たちの間では、このような昔話は語り継がれていないのだとか・・・

一説には、山の神は田の神で、農耕を守護するために、春先になると山から下りて来るなんて言い伝えもありますので、意外に山姥も良い神様なのかも知れませんね。
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2013年3月 7日 (木)

秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割

 

文禄三年(1594年)3月7日、豊臣秀吉が伏見に築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉の城と言えば・・・

まぁ、最初に、一国一城の主となったのは長浜城だし(3月19日参照>>)山崎の合戦明智光秀(あきちみつひで)を倒した時(6月13日参照>>)には天王山にも城を建ててるし、もはや伝説の墨俣一夜城(9月12日参照>>)石垣山一夜城(6月26日参照>>)・・・

と、それこそいっぱいあるわけですが、やはり、天下を治める拠点としての城・・・となると、

天正十一年(1585年)の大坂城
天正十四年(1586年)の聚楽第(じゅらくだい)
そして
文禄三年(1594年)3月7日に築城を開始した伏見城・・・
という事になります。

大坂城を築城した頃の秀吉と言えば、それこそ、亡き主君=織田信長の弔い合戦で光秀を倒した翌年に、織田家内の最大のライバルであった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳に破って(4月23日参照>>)神戸信孝(かんべのぶたか・織田信孝=信長の三男)を葬り去り(5月2日参照>>)、さらに、その翌年には小牧長久手の戦いにて、織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸めこんで同盟者の大物=徳川家康を抑え(11月16日参照>>)

そしてその翌年・・・つまり、大坂城の築城を開始した天正十一年(1585年)には、紀州征伐(3月21日参照>>)四国を平定(7月26日参照>>)と、まさに天下掌握の年・・・

その場所は、かつては石山本願寺のあった場所(8月2日参照>>)、あの信長が、おそらくは安土城を凌駕するほどの城を建てたかったであろう好立地・・・そこに、まさに天下の城を建てたわけです。

次の聚楽第は・・・
この前年=天正十三年(1585年)に秀吉は関白に就任しています。

就任当初は、京都の妙顕寺(みょうけんじ=京都市上京区)の敷地内に、自分用の屋敷を構築して政務をこなしていましたが、やはり、朝廷と交渉するにしても、関白としての仕事をするにしても、その拠点となる場所がいるという事で・・・

そう、おそらくは、武家のトップとしての「天下統一の城」が大坂城で、「関白の政庁」が聚楽第という位置づけだったと思われます。

なので、天正十九年(1591年)に甥の豊臣秀次(ひでつぐ=三好秀次)に関白の座を譲った後は、秀次がこの聚楽第に入って政務をこなしています。

しかし、文禄四年(1595年)、ご存じのように秀次が、謀反の疑いをかけられて切腹(7月15日参照>>)した事で、この聚楽第は、わずか10年に満たない年数で破壊されてしまいます。

・・・で、それと前後して、言わば秀吉の隠居所として構築されたのが、今回の伏見城だったわけですが、今回構築された最初の伏見城は、完成間もなく、大地震によって崩壊してしまい、慶長二年(1597年)に、少し離れた場所に、2代めの伏見城が築城され、後に、家康が将軍宣下を受けたりするのは、コチラの伏見城で、前者を指月城と呼び、後者を木幡山伏見城と呼んで区別します。

Dscn3719a900 明治天皇伏見桃山陵…秀吉の伏見城・本丸跡地とされます

・・・とは言え、伏見城のそのへんについては、その豪華絢爛さも含めて、6年も前の記事ではありますが、少し書かせていただいておりますので、2007年8月31日【幻の伏見城~徳川幕府は何を恐れたのか?】>>でご覧いただくとして、

今日ご紹介させていただきたいのは、その2代め伏見城が完成して、ほどなく、かの秀吉が亡くなり、いよいよ、家康が動き始める・・・頃のお話・・・

そのページにも書かせていただいたように、秀吉亡き後に、息子の秀頼(ひでより)が入城しますが、翌年には家康が入城し・・・となりますが、

すでに、いくつか書かせていただいているように、それらは、秀吉の遺言通り・・・

ドラマ等では、死期を悟って気弱になった秀吉が、ただただ、涙ながらに五大老らに「秀頼を頼む」と言ってるみたいな雰囲気で描かれますが、残された文献を見る限り、けっこうしっかりとした遺言を残し、なんとか秀頼を盛りたてるよう頑張ってます。

たとえば、「残された淀殿と家康が結婚して秀頼を補佐してほしい」(12月16日参照>>)とか、「西は毛利輝元(5月10日参照>>)、東は家康に、北陸は前田利家に任せる」(8月9日参照>>)とか、「公家にならった家格システム(7月15日参照>>)とか・・・

もちろん、「自分が亡くなったら、秀頼と淀殿が大坂城に入って政務してね」というのも、秀吉の遺言です。

実は、そこにも、秀吉の思惑がありました。

その思惑がわかる物を一つ・・・
『日記雑録』という文献に、慶長五年卯月八日付けで、島津義弘(しまづよしひろ)島津家久(いえひさ)宛てた手紙が載っているのですが、ちょっと関連する部分だけ・・・

「(略)…伏見へハ西國衆可爲御番よし、御掟被仰出候処ニ、何程之儀候哉、諸大名悉大坂へ家居以下被引越候、我等事とかく不承候間、ふしミへ致御番候…(以下略)」

慶長五年と言えば西暦1600年・・・あの関ヶ原が9月に起こる(関ヶ原の合戦の年表参照>>)、その突破口となるのが、石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守にした伏見城を攻撃する、7月19日~8月1日にかけての伏見城攻防戦(7月19日参照>>)なわけですが、上記の手紙は、その3ヶ月前という事になります。

内容は
「西国の大名が、皆、大坂へ引っ越して、僕だけ伏見に残ってるよ」
と、義弘が国許に報告してる感じ・・・

実は、秀吉亡き後は、秀頼が大坂城に入り、前田利家(まえだとしいえ)が、同じく大坂城で、その補佐に当たっていて、先に書いた通り、家康は伏見城に入るわけですが、

その時、家康と親しい関係にある東国の大名の屋敷は大坂にあり、豊臣恩顧の西国の大名の屋敷が伏見にあった事がわかっています。

つまり、秀吉亡き後は、最もアブナそうな家康を他の東国大名から引き離し、家康の回りを西国大名で固めて監視させるという体制になっていたわけです。

ところが、かの利家が亡くなった事を受けて、やがて家康が大坂城に入城・・・

そのために、監視役だった西国の大名たちが、皆、大坂に移転してしまった・・・しかし、その中で、島津だけは伏見に留まっていたという事なのですね。

果たして、この行動が、後の関ヶ原の本チャンでの「島津の背進」(9月16日参照>>)につながっていくのかどうか?というところは、まだまだ考えねばならぬところですが、

天下人の城として建てられた大坂城と、隠居しながら2元政治を行うための伏見城・・・しかし、その秀吉亡き後には、それぞれの役目が違ってきていたという事が、実にオモシロイです。
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2013年3月 6日 (水)

流浪となっても次世代へつないだ家康の父・松平広忠

 

天文十八年(1549年)3月6日、三河岡崎城主松平広忠が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

松平広忠(まつだいらひろただ)・・・ご存じ、あの徳川家康のお父さんですが、「超有名な家康のお父さんが?w(゚o゚)w」って驚くほど、その人生に諸説ある人です。

これ、ひとえに、最終的に戦国の勝者となった家康の経歴詐称による物と考えておりますが・・・(←あくまで個人的な感想です(*´v゚*)ゞ)

なんせ家康は、江戸時代という250年の長きに渡る長期政権を実現した事で、その江戸時代に、徳川家の『公式記録』となる物が複数書かれるわけですが、

現在でこそ、『公式記録』と聞くと、「冷静で公平な第三者的な目線から見た記録」的なイメージを抱きますが、この時代の『公式記録』は、あくまで、徳川家のための記録なわけで、

今で言えば、アイドルを売りだす時のプロモーションビデオみたいな物?・・・プロのメイクにプロのスタイリストがついて、光と影を駆使したプロのカメラマンに何時間も撮影してもらった物から、ええとこどりして編集し、さらにCG処理してシミとシワを消す・・・とまでは行かないまでも、実際に直で見たら「こんな人やったっけ?」てな事にもなるわけで・・・

まぁ、『公式記録』を書いてる人も徳川家に雇われてるので、上の人に、より気に入ってもらうためには、神君家康公は子供の頃に苦労して我慢して、やがては天下を取った的な感じで「徳川バンザイ」「家康さんカッコイイ!」的に、なるべく良く書こうとするのは致し方ないところです。

そんなこんなで、公式記録に多少の違いはあるものの、とりあえずは、このブログ初登場の松平広忠さんですので、まずは、一般的な感じをご紹介させていただきます。

大永六年(1526年)頃、三河岡崎城の城主・松平清康(きよやす)の息子として生まれた広忠・・・

この清康という人は、西郷氏から岡崎城を奪取した後、三河(愛知県東部)の国人たちを制していったツワモノで、東は駿河(静岡県東部)今川氏親(うじちか=義元の父)、西は尾張(愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)とも互角に戦った、松平の戦国初代と言える人物・・・

ところが、この清康が、天文四年(1535年)に尾張森山(守山=愛知県名古屋市守山区)まで進攻した時、なぜか(織田の関与があったとも)、その森山の陣中で、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)に斬りつけられて亡くなってしまいます。

未だ25歳という若さ・・・世に『森山崩れ』と呼ばれる事件ですが、これによって、わずか10歳の広忠が家督を継ぐ事になったのです。

と、「継ぐ事になったのです」って言っても、この状況で何事も起こらないわけは無く・・・

当然、これをチャンスと見た一族の松平信定(のぶさだ)に謀反を起こされて岡崎城(愛知県岡崎市)を失い、この後、しばらくは、伊勢やら遠江を流浪する亡命生活を送る事になります。

そんな中、叔母(父の妹)の嫁ぎ先という縁で、吉良持広(きらもちひろ)の庇護を受けるうち、やがて今川義元の支援を受ける事となり、その後押しで、岡崎城の奪還に成功し、天文十一年(1542年)ようやく帰城・・・

やっと落ち着いて、三河刈谷城(愛知県刈谷市)の城主・水野忠政(ただまさ)の娘・於大(おだい)正室に迎え、まもなく、二人の間に長男の竹千代が生まれます・・・これが、後の家康ですね。

ところが、天文十二年(1543年)に、忠政が亡くなると、その後を継いていた於大の方の兄・信元(のぶもと)が、今川家と絶縁し、織田へと寝返ってしまったのです。

これまで支援してくれた今川家との関係を重視した広忠は、於大と離縁・・・彼女は水野家へ返されてしまいます。

しかし、そんな中でも激しくなる一方の織田勢との抗争・・・なんせ、この頃は、尾張だって統一されてませんから、敵となるその織田勢も信秀一人では無いわけですから・・・

やがて天文十四年(1545年)、信秀の三河進攻に際して、今川に支援を求める広忠ですが、その交換条件として、息子・竹千代を人質に差し出す事に・・・

が、しかし・・・
これが、以前書かせていただいたように、広忠が後妻として迎えた女性の父である田原城主・戸田康光(とだやすみつ)の裏切りによって、事もあろうに、途中で織田に奪われてしまうのです(8月2日参照>>)

もちろん、今川に行くはずの竹千代を奪った信秀としては、
「息子の命を助けたいねやったら、コッチの味方になれや」
って事なわけですが、

広忠の答えは、NO!
「我が子への愛に迷う事はできぬ!」
とキッパリと断わります。

てか、広忠にとって、もはや今川の援助失くしては松平家を維持していけない状況で、それこそ、戦国武将たる者、今川に人質に出す時点で、「我が子の命は相手次第」という覚悟を決めているわけで・・・

こうして、父・広忠がキッパリ断わってしまった事で、人質としての価値もなくなった竹千代君ですが、
とにもかくにも、価値が無くなったからとして殺されなくて良かった良かった(*^-^)

・・・で、この後も、今川と一致団結して織田との戦いに挑む広忠でしたが、そんなこんなの天文十八年(1549年)3月6日、家臣の岩松八弥(いわまつはちや)によって斬られ、その傷がもとで、24歳の生涯を終えたとされます。

とは言え、それこそ、死因についても諸説あります。

病死とする文献もあれば、国内で一揆が起こって、その混乱で殺害されたという物も・・・

ただ、この頃に亡くなったであろう事は確かで、そうなると、その後の動向に悩むのが、広忠の家臣たち・・・

なんせ、当主が亡くなって、その後継ぎは、現時点では敵対する織田にいるわけですから・・・

しかし、どんな状況でも、揺るぐ事無く今川について来てくれる松平は、弱小とは言え、今川にとって大事な相手なわけで・・・(松平には三河という領地もついて来ますしね)

そこで、一役かうのが今川の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)・・・竹千代を奪還すべく、信秀の息子・織田信広(のぶひろ)が守る安祥城へと攻め込むのですが・・・その安祥城の戦いについては11月6日のページで>>

とは言え、三河統一を果たした父・清康と、最終的に戦国時代の勝利者となる家康に挟まれて、何かと愚将扱いされる広忠さんですが、それこそ、戦いには相手という者があり、その相手は、自分の計算通りには動いてくれないもの・・・

結果的に、家康が最終的な勝者となれたのも、ここに広忠という人がいてくれたおかげ・・・

奥さんと離縁しようが、息子が拉致されようが、その意志を貫いて、今川に踏みとどまってくれたおかげで、松平家を潰す事無く次世代へつないでいけたわけで・・・

「終わり良ければすべてヨシ!」・・・その点では大いに評価できるかも知れませんね。
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2013年3月 4日 (月)

藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ

 

永承八年(天喜元年・1053年)3月4日、藤原頼通阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂…いわゆる宇治の平等院鳳凰堂を完成させました。

・・・・・・・・・・

平安時代に、それこそ、欠ける事を知らぬ満月のごとき栄華を極めた藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)・・・その息子として生まれた藤原頼通(よりみち)は、父が亡くなった後、関白として名実ともに中央政界のトップに立ち後一条後朱雀後冷泉の3代の天皇の時代に君臨しました。

とは言え、それほどの権力を持てばこそ・・・それを失う恐怖も倍増するわけで・・・

以前に、頼通さんのご命日のページ(2月2日参照>>)にも書かせていただきましたが、そんな時に大流行したのが、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう…1052年がその『末法の世』の第一年である。」という浄土教「末法思想」・・・

頼通が、自らの別荘であった土地で、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂の建立に着手するのは、まさに、その末法第1年の年だったのです。

そして、翌・永承八年(天喜元年・1053年)3月4日、見事、阿弥陀堂が完成・・・これが、現在、平等院鳳凰堂と呼ばれる建物で、左右の翼楼と後方に伸びた尾楼が、鳳凰が羽根を広げた姿に見える事から、その名がつきました。

Hououdoua21000b1000a 平等院鳳凰堂

それはまさに、頼通が夢見た極楽浄土をこの世に再現したもの・・・前方の阿字池越しに見るその姿は、平安時代の名残りを今に伝えていて、実に美しいです。

Byoudouinkeidai 平等院・境内の図
(クリックすると大きく見られます)

とは言え・・・
ご存じの方も多いと思いますが、現在、この鳳凰堂は修理中で、外観は工事用の足場が組まれた状態で、中の阿弥陀様も拝観できません。

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工事は、来年=平成二十六年(2014年)3月31日までの予定ですが、それこそ、大事な文化財を守るためには、修復作業は無くてはならぬもの・・・むしろ、修復に頑張っておられる皆様の安全と、その腕を大いに奮っていただく事を願っております。

・・・で、修理中のさ中にブログ上でご案内するのも???
とも思ったのですが、鳳凰堂は修理中ですが、庭園には入れますし、平等院の国宝のほとんどを納めた「鳳翔館ミュージアム」も見学でき、しかも、この間の拝観料が通常の半額の300円・・・
(↑また、「信心が無い」と怒られるゾ(A;´・ω・)アセアセ)

遠方からお越しの方にとっては、「やっぱり100%の平等院が見たい!」とお思いになるのは無理もありませんが、鳳凰堂以外にも、けっこう見どころはあるのです。

まずは、そのミュージアム・・・これが、お寺の博物館とは思えない、めちゃめちゃハイテクなミュージアムなのです。

ただ単に宝物を並べてあるのと違って、配置から照明から・・・とにかく、見せ方が凝っていて、宝物の魅力を最大限に引き出す演出がしてあるのです。

しばし、ウットリする事間違い無し!

Dscn1871b600 また、庭園は庭園で、春には、ツツジ藤→の共演が見られ、初夏には池に咲くハスが・・・

このハスは、平等院蓮で、なんと、1999年に行われた阿字池の発掘調査で見つかった江戸時代の種から、現代に蘇った物・・・まるで、タイムカプセルを開けたような高揚感がありますね。

また、昨年の大河ドラマ「平清盛」宇梶さんの好演が光った源頼政(みなもとのよりまさ)(4月10日参照>>)・・・ご存じのように、ここ平等院は、その頼政最期の地でもあります。

後白河法皇(ごしらかわほうおう)の第3皇子=以仁王(もちひとおう)を担いで平清盛(たいらのきよもり)反旗をひるがえした頼政(4月9日参照>>)、宇治橋での合戦に敗れて(2007年5月29日参照>>)、以仁王を逃がした(2009年5月29日参照>>)後、自ら命を絶った場所が、観音堂に北側にある扇の芝・・・そして、その頼政のお墓も、この平等院の敷地内にあるのです。

春はもう近い・・・「来年まで待てない」とばかりに、この機会に、庭園やミュージアムをじっくり見るって手もありますよ。

時の権力者が最大限にビビッてくれたおかげで、最大限の匠のワザで、目に見える浄土として完成した平等院は、21世紀の現代人にも、その夢を見させてくれています。

平等院周辺の史跡巡りについては、本家HP:京都歴史散歩の「源氏物語の宇治を行く」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2013年3月 2日 (土)

黒田騒動を起こした栗山大膳

 

承応元年(1652年)3月2日、江戸三大お家騒動の一つ、黒田騒動で知られる栗山大膳が配流先の盛岡で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉の名軍師として活躍した黒田如水(じょすい=官兵衛孝高)(3月20日参照>>)と、その息子=長政(ながまさ)の、父子2代に渡って仕えた重臣=栗山利安(善助)の息子=栗山利章(くりやまとしあきら)・・・ですが、一般的には栗山大膳(だいぜん)の名前で知られていますので、本日は大膳さんで・・・

元和九年(1623年)に、その長政が没し(8月4日参照>>)筑前(福岡県西部)福岡藩の2代め藩主となったのは、長政の長男=忠之(ただゆき)・・・

Kuriyamadaizen500 この忠之に禄高1万5000石という大身で、家老として仕えていたのが大膳・・・

ところが・・・
寛永九年(1632年)6月、重臣の中の重臣であるはずの大膳が・・・
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実は、生前の長政は、この長男の忠之の器の小さい性格を嫌い、後に秋月藩の初代藩主となる弟(三男)長興(ながおき)に家督を譲ろうと考えていたらしいのですが、それに真っ向から反対し、体を張って阻止したのが大膳だったという逸話も残っているくらいの忠臣ぶりだったのですが・・・

その大膳が、突如として、「わが藩主に謀反の疑いがある!」と言いだして幕府に訴えたのです。

確かに・・・
その少し前に忠之は、豪華絢爛な船=鳳凰丸(ほうおうまる)を建造してみたり、何のためなのか?新たに200人ほどの足軽を召し抱えるなど、いわゆる『武家諸法度』(7月7日参照>>) に違反する行為を行っていたようで、幕府からも目をつけられていたのです。

で、そうなると、当然の事ながら、両者は公儀のもとで全面対決する事となり、幕府の幹部による尋問等が開始されます。

これが世に言う「黒田騒動」・・・大膳が起こした事から「栗山大膳事件」とも言われる騒動です。

寛文十一年(1671年)の「伊達騒動」(3月27日参照>>) 、寛延元年(1748年)頃からはじめる「加賀騒動」(6月26日参照>>)と並んで、江戸の三大お家騒動の一つに数えられています。(三大騒動の中に仙石騒動(12月9日参照>>)が入る場合もあります)

しかし、他の二つの騒動が、実際に死者が出て血生臭さ満載のドロドロなのに対し、コチラはなんとなくスッキリ!!

なんと、幕府の調べにより、「忠之の幕府転覆計画は事実無根」という結果が出されたのです。

つまり、今回の「謀反の疑い」は大膳のでっち上げ、まったく、その形跡が無かったと・・・

なので、当然、黒田家はお咎め無しで、所領も何もかも安堵・・・訴えた大膳が、陸奥盛岡(岩手県盛岡市)に配流で、盛岡藩の預かりとなる事で、すべての事が決着したのです。

さらに・・・
大膳を受け入れた盛岡藩は、かなり好意的で、配流の身ながら150人扶持(1人=1日当たり米5合:女性は3合)が与えられていたとか・・・

おかげで、流人暮らしの晩年も、なんだかんで平穏無事で、趣味の世界に生き、盛岡の文化の向上に尽力したと言われます。

承応元年(1652年)3月2日大膳は配流の地で62歳の生涯を終えますが、その子孫も家臣も、そのまま盛岡に定着したとの事・・・

こうして、お家騒動を起こしたにも関わらず、黒田家は安堵され、張本人の大膳も流罪にこそなれ、配流先で優遇された事から、この黒田騒動は、大膳がわざと起こした騒動・・・つまり、大膳=忠臣説が囁かれます。

幕府転覆なんて大それた考えが無いものの、父=長政が予想した通りのチョイとボンボンだった藩主=忠之が、安易に暴走しちゃった事で幕府に目をつけられたため、幕府から咎められる前に、大膳が先手を打って、自ら幕府に訴え、藩主の行為はちょっとした見栄で、謀反の気持ちが無い事を明白にして、黒田家を守る・・・という一か八かの賭けだったのではないか?という事・・・

幕府の幹部たちは、取り調べの途中で、その事に気づき、大膳の忠臣ぶりに感激し、黒田家をお咎め無しとし、大膳を形ばかりの流罪にしたと・・・

あの森鴎外(もりおうがい)の小説『栗山大膳』は、この説を取って、大膳を忠臣として描いていますし、ドラマなどでも、大抵、そのような感じ・・・まぁ、小説&ドラマになるなら大膳が主役でしょうから、そういう描き方のほうがオモシロイです。

ただし、歴史家の方の中には、「そんな美談では無い」とお考えの方も・・・

なんせ、実際に福岡藩の記録には、藩主=忠之と大膳が度々ぶつかり、この騒動以前から反目し合ってた事を臭わせる記述が複数あるとか・・・

なので、度重なるトラブルの末、最終的に、藩主から知行を召し上げられそうになった大膳が、自らの保身のために幕府に訴えたとの見方もできるのです。

まぁ、その藩の記録だって、後世の私たちをミスリードするためのトラップかも知れませんし、逆に・・・と、これはまだまだ、謎が解けそうにありませんな(゚▽゚*)・・・
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2013年3月 1日 (金)

穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世

 

天正十年(1582年)3月1日、武田方の駿河江尻城主・穴山梅雪が徳川家康に降りました

・・・・・・・・・・

穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)は、あの武田信玄(たけだしんげん)と同族で、梅雪の母が信玄の姉・南松院で、梅雪自身の奥さんも、信玄の娘・見性院(けんしょういん)というメチャメチャ濃い関係・・・

そのぶん武田家内でも重用され・・・てか、その信玄と嫡男・義信(よしのぶ)亡き後、一旦、諏訪家を継いでいた三男の勝頼(かつより)が武田家の采配を奮う事に、むしろ、梅雪・見性院夫婦は、「我が子=勝千代が継いだほうがえぇんちゃうん?」と思っていた可能性も大なわけで・・・

Anayamabaisetu400 ・・・で、梅雪は、あの長篠の戦いの時、鳶ヶ巣山砦が陥落したと見るや本格的な戦いを開始する前に、いち早く撤退し、江尻城へと戻ってしまい(5月21日参照>>)

 .
結局、その長篠の敗戦から7年後の天正十年(1582年)3月1日・・・穴山&河内の旧領の安堵とともに、勝頼亡き後は、梅雪の息子・勝千代が武田家宗家を継ぐことを条件に、梅雪は、徳川方に降ったのです。

と、ここらあたりの背景と流れ&その後については、実は、昨年のこの日に書かせていただいているので、くわしくは2012年3月1日のページを参照>>していただくとして、本日は、『老士記録』にある、その時の逸話をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

上記の通り、長篠の戦いで、攻撃が始まる前に勝手に戦線離脱してしまった事は、やはり、戦後に問題となり、家臣の中には「切腹させるべき!」なんて意見も出たわけですが、それこそ、なんだかんだで、夢雪は親族の中でも筆頭だったわけで、何とか切腹は免れます。

しかし、当然の事ながら、勝頼だって、梅雪を、丸々信頼しているわけではありませんでしたから、彼が裏切らないように、妻子を人質にとって、厳しく監視したのです。

ちょうどその頃・・・
梅雪に声をかけて来たのが、徳川家康の家臣・大久保忠世(ただよ)・・・密かに梅雪に密書を送ります。

「もう、近々、勝頼は滅亡しまっせ…こっち、おいなはれ~」
と・・・

早速、梅雪は、
「その気は、充分ありますねんけど…」
と、寝返る気満々の返事を出しますが、気がかりなのは、人質にとられている妻子・・・

かなり厳重な監視下にあり、現段階では、とてもじゃないが、救いだせる状況では無かったのです。

そこで忠世・・・
「ほな、ウチの者の中で、死刑になる予定の人間を、『任務を遂行したら罪を許したる』てな事言うて、手紙を持たしてソチラに向かわせまっさかい、ソイツの首を取って手柄にしなはれ」
と・・・

かくして、梅雪のもとへやって来た使者・・・

梅雪は忠世の進言通りに、その首を取って、持参した手紙を添えて勝頼に検分させます。

手紙の内容は、それこそ、これまで同様の「寝返りを促すもの」で、忠世の名もしっかりと入っています。

つまり、
「徳川家の大物から寝返りのお誘いを受けましたが、僕は、こうして、キッパリ断わりましたんやで!」
って事
です。

明らかに本物の手紙と使者の首・・・これで、勝頼はすっかり梅雪の事を信用するようになり、妻子の監視が少し和らいだ・・・

その隙をみて、妻子を奪い返す事に成功した梅雪・・・

その後は、すでに昨年書かせていただいた通り・・・この2日後の3月3日には甲斐(かい=山梨県)に侵入する家康の先導役をかって出る事になります。
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