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2013年3月 9日 (土)

1300年のタイムカプセル…誕生記念「多胡碑」

 

和銅四年(711年)3月9日、現在の群馬県高崎市多胡郡が設置されました。

・・・・・・・・・・・・・

Tagotakuhon600 弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

この文章は、上記の群馬県高崎市吉井町にある『多胡碑(たごひ)と呼ばれる石碑に書かれてある碑文です。

この石碑は、おそらくは、その碑文に書かれてある奈良時代に、この地に設置された物なのでしょうが、その後、当時の国家が目指した律令制の崩壊とともに、すっかり忘れ去られた存在となっていました。

いや実際に、その地方の人々にもすっかり忘れ去られていたかどうかは微妙ですが、とにかく、文献等にはまったく出て来ません。

その後、室町時代の連歌師=宗長(そうちょう)が、建久六年(1509年)に書いた『東路の津登(あづまじのつと)という書物に『多胡碑』の名と所在が書かれていますが、本格的に認知されはじめるのは、それから200年後の江戸時代中期・・・

儒学者の東江源麟(とうこうげんりん)拓本を取り、自身の著書で紹介したのを皮切りに、当時の研究者や文化人が頻繁に石碑のある場所へ訪れるようになり、やがて、全国的に知られるようになるのです。

なので、歴史の彼方に埋もれていた何百年間という間、この石碑がいったいどのような状態だったのか?・・・

建っていたのか?埋もれていたのか?
その状況は、まったくわかっていないのですが、「奈良時代の石碑」で、しかもほったらかしだったワリには、かなり保存状態が良いようですね。

で、その後、明治の時代になって、初代の群馬県令となった楫取素彦(かとりもとひこ=吉田松陰の妹婿)によって、周辺が整備され、地元の人たちの協力によって、その場所(土地)ごと国に寄付され、現在は、敷地内に多胡碑記念館がある吉井いしぶみの里公園として整備され、国の特別史跡に指定されています。

で、気になるには、その碑文の内容ですが・・・

『「上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せて、郡の名は多胡郡としなさい」という朝廷の弁官局からの命令がありました。

それは、和銅四年三月九日甲寅の事で、左中弁正五位下の多治比真人、太政官の二品穂積親王、左太臣正二位の石上尊、右太臣正二位の藤原尊の通達です』
てな感じ??

上野国が、今で言えば県という事になりますから、その下の郡は市・・・つまりは「市町村合併で、多胡という新たな市ができたよ!バンザ~イ」という記念碑なわけですね。

で、その記念すべき日づけが「和銅四年(711年)3月9日」で、その日づけの後に出て来る後半部分は、命令を通達した人の名前ですね。

多治比真人(たじひのまひと)の真人は、以前、お話させていただいた八色の姓(やくさのかばね)(7月6日参照>>)の真人なので、個人名ではなく、この時に左中弁(さちゅうべん=弁官局の次官)で正五位下だった多治比氏の誰かという意味ですね。

太政官(中央機関)二品穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇(2月25日参照>>)の第5皇子で、あの高松塚の被葬者じゃないか?って噂のある人・・・

左太臣正二位石上尊は、壬申の乱(7月23日参照>>)大友皇子側について敗れるも、後に政界に復帰した石上麻呂(いそのかみのまろ)の事・・・この人は、あの竹取物語に、かぐや姫争奪戦を行ううちの一人として実名で登場してますね(9月25日参照>>)

で、最後の右太臣正二位藤原尊とは、ご存じ藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>) ・・・いずれも、そうそうたるメンバーです。

もちろん、この碑文の解釈も様々あり、当然ですが、謎もあります。

『続日本紀』には、
「割上野国甘良郡織裳、韓級、矢田、大家緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡」という、碑文の内容と一致する記述がありますが、日づけは「和銅四年三月辛亥」と、碑文とは6日のズレがあります。

また『給羊』の解釈も、「羊(ひつじ)という人物名と解釈するのが一般的ですが、「人の名前にヒツジて…(^-^;」てのは、誰しも思うところで、やはり、「個人名ではないのでは?」という説もあり、また、最後の二人を「尊」にした理由は何か?などなども・・・

さらに
「多胡郡」に命名した理由も、イロイロ想像できます。

「多」は文字通り「多い」という意味で、「胡」は、外国から来たウリですよという意味で「胡瓜=きゅうり」と呼んだ事でもお解りのように、外国の事・・・つまり、「多胡」と命名するこの地には外国人が多かったという事だと・・・

この時代ですから、おそらくは、大陸からの渡来人たちが数多く住んで、様々な大陸の技術を伝えた事でしょうね。

かの『続日本紀』などによれば、この同じ時期に約30の新しい郡ができたと言いますが、その中で、たった一つ・・・その記念碑が21世紀に残された多胡郡の『多胡碑』・・・

まるで
タイムカプセルのような歴史の女神からプレゼント・・・

その研究は、未だ現在進行形・・・

一歴史ファンとして、この先、はるか昔に新天地を求めてやって来た人々と、それを迎えた多胡の人々との美しい交流物語が発掘される事を願っておりますデス。
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コメント

いつも楽しんで読んで、相変らずネタとして使わせていただいています。

多胡碑は「八重の桜」放送前までは上信越道で信長の弟の話と一緒にすることが多かったので、ここで取り上げられてひとりで「おお~」と喜んじゃいました。

いつもながら勉強になります^^。
これからもよろしくお願いいたします^^。

投稿: さとな。 | 2013年3月18日 (月) 18時33分

さとなさん、こんばんは~

やはり、今年は「八重の桜」に関連するお話が多くなるのでしょうか?

>信長の弟の話一緒に…

そのお話がどんなお話なのか興味津々です(*^-^)

投稿: 茶々 | 2013年3月18日 (月) 20時04分

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