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2013年3月28日 (木)

家康×秀頼~二条城の会見と軍師・白井龍伯

 

慶長十六年(1611年)3月28日、豊臣家の軍師=白井龍伯の出した結果を無視して、二条城での会見が行われました。

・・・・・・・・・・・

「軍師」と聞くと、合戦の際に主君の相談を受けて、様々な作戦を指示する兵法に長けた人・・・みたいなイメージが強いですが、このブログでも度々お話させて」いただいているように、その種類は様々です(10月7日の真ん中あたり参照>>)

武将として軍議に参加して、兵法に基づいた作戦を提案する人もいれば、陰陽師や修験者として風水や占い、あるいは気象予報士の役目から、作戦を提案する人も、全部「軍師」と呼ばれます。

本日ご紹介する軍師=白井龍伯(しらいりょうはく)は、先のページで言うと『軍配者(ぐんばいしゃ・軍配師)と呼ばれる軍師で、風水や占いや気象予報のうえに兵法も熟知していて、すべての方面から考えて最も良い提案をする人・・・まさに、軍事のエキスパートです。

そんな龍伯が、豊臣秀頼(とよとみひでより)の軍師として登場するのは、あの関ヶ原の合戦を過ぎたあたり・・・慶長十六年(1611年)頃からです。

・・・で、まさにその頃、冒頭に書いた二条城での会見の話が持ち上がるわけですが・・・

一般的には、
慶長五年(1600年)9月に関ヶ原で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)(9月15日参照>>)、慶長八年(1603年)2月に征夷大将軍に任命されて(2月12日参照>>)江戸に幕府を開き、さらに、慶長十年(1605年)4月には、その将軍職を二代目の秀忠に譲っ(4月16日参照>>)、まさに天下を掌握した事を知らしめるべく、一大名に成下がった秀頼に対して、完成した二条城に挨拶に来るよう呼びつけた・・・みたいに言われます。

ドラマでもそのように描かれる事が多く、私も以前はそう思っていましたが(教科書にも書いてあるし…)、このブログを始めてイロイロ勉強するうち、現在では、「それは、後世の徳川家の言い分」で、実際には違っていたと考えておりますが、そのお話は、また、後半でさせていただく事として、

この慶長十六年(1611年)3月28日という日に、家康の呼びかけに応じた秀頼が二条城へやって来て、両者が会見をした(3月28日参照>>)というのは、おそらく事実なわけで、まずは、それに関わった白井龍伯の話・・・

『武家砕玉話脱漏(さいぎょくわだつろう)によれば・・・
そう、実は、彼は軍師として、この会見に反対していたのですね。

お察しの通り、この二条城での会見に、最も嫌悪感を感じてしたのが、秀頼の生母=淀殿(浅井茶々)・・・もちろん、敵地に乗り込む事になる可愛い息子を心配する母としては当然ですし、まして、相手は老獪(ろうかい=経験豊富で悪賢い)な家康であるわけですから・・・

そこで、殿の要請を受けた龍伯が、その吉凶を占う事に・・・早速、龍伯は、7日間の潔斎(けっさい=身を清めたり食を絶ったりして占いの準備をする)を行い、その後に香を焚いて、占いモードに入ります。

・・・で、立ち上る煙によって出た結果は・・・大凶!!

さらに、追加で占ってみますが、やはり結果は同じ・・・
3回連続で「大凶」となりました。

早速、その結果を秀頼の側近の茨木城主・片桐且元(かつもと)に報告・・・「二条城に行けば、必ず災難が降りかかるので、絶対に止めるように…」と・・・

ところがドッコイ・・・
なんと、且元は、
「その占いの結果、吉にする事はできひんか?」
と龍伯に相談・・・

もちろん、龍伯は、
「そんな事、できるわけおまへんがな」
と・・・

「けどな~~
俺、占いの事はようワカランけど、ここで秀頼さんが二条城に行けへんかったら、合戦になる気がするんやけど…
何とか、その占いの結果を書いた紙、吉に書きなおしてくれへんかな?」

「どうしても、って言うんやったら、ワシの預かり知らんところでやってくれ!
けど、それでもし何かあったら、どないするんや?」

と龍伯が言い放つと、且元は
「その時は、俺も秀頼さんといっしょに死ぬがな」
と、キッパリと言ったのだとか・・・

結局、龍伯は、占いの結果を書いた書面を「吉」と改ざんして淀殿に提出するのです。

もちろん、且元とて、悪意はありません。

占いの結果は重視しつつも、武将としての判断の方が勝ったという事で、あくまで豊臣家のためを思ってのウソの報告です。

現に、この時、関ヶ原では東軍についた加藤清正(かとうきよまさ)池田輝政(いけだてるまさ)前田利長(まえだとしなが)といった面々も、会見の実現に向けて奔走していましたから、武将の判断は、そうだったのでしょう。

で、ご存じのように、秀頼は会見を終え、無事に帰ってきますので、結果的には、ホンマモンの龍伯の占いははずれた事になります(今回の占いは、あくまで「会見の場」での占いで長期の情勢は含まれませんので…)「龍伯の占いの結果が吉だった」と信じていた秀頼は大いに喜んで、龍伯に、余りあるほどの褒美を与えたとの事・・・

で、当の龍伯も、
「いやぁ、今回は且元さんのおかげで、エライぎょーさんの褒美をもらいましたわ~」
と、彼の自宅にまで行って感謝し、以来、占いをやめてしまって、その後は静かに暮らしたとの事・・・

まぁ、丸く収まって良かったんじゃないでしょうか?

Dscf2319a1000 二条城の梅林

ところで(少々以前の記事とかぶってしまい恐縮ですが…)
その二条城の会見・・・

『当代記』「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」によれば・・・

「…廿八日辰刻、秀頼公入洛、則家康公の御所二條江御越、家康公庭上迄出給…」と、二条城に到着した秀頼に対して、家康が、わざわざ庭へ出て出迎えたと書かれています。

これは、もし、家康が秀頼の事を、一大名として見ていたのであれば、極めて異例な事です。

さらに・・・(漢字がしんどいので原文省略お許しをm(_ _)m)
続いて、
家康は、秀頼を、二条城で最高の座敷である『御成の間』に通し、お互いに同等の立場にて席につこうとしたのを、秀頼自らが
「家康さんは僕より年上ですし、朝廷から賜ってる官位も上ですよって、どうぞ上座に座ってください」
と、うながしたとの事・・・

その後、ご機嫌で会見を終えた秀頼は、豊国神社に参拝し大仏再建中の方広寺を見物して、伏見から船で大坂に戻ったと・・・

一方、会見を終えた家康は、この日、二条城に来ていた諸大名に対して、将軍の命に背いた者、謀反人、殺人犯などを匿う事を禁止する事など、三カ条の条例に対して、それを守る事を明記した誓紙を提出させていますが、当然、すでに帰っている秀頼の名前は、その誓紙に連署されていません。

つまり、秀頼は他の諸大名とは別格の存在だったという事ですね。。。
(*そんな感じのあれやこれやは8月9日のページで>>

もちろん、その時の家康の心の中までは、わかりませんが・・・

*以前の記事ではありますが、二条城で出された毒饅頭?の噂話2008年3月28日のページでどうぞ>>
 .

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コメント

本当かどうか分かりませんが・・・
この会見で家康が、自分が思ってたより秀頼が聡明な人物と見た事で「一人前の当主になる前に(未熟な内に)叩くべき」と考え、豊臣を追い込む事に決めたとか何とか・・・

投稿: | 2013年3月29日 (金) 21時44分

そうですね。

このブログでも、本文でもリンクした以前の「毒饅頭」のくだり>>でそんな感じの事を書かせていただきましたが、出どころがお芝居か歌舞伎の可能性が高い逸話かも知れませんね。

ただ、「大阪城大好き」な私としては、秀頼公は堂々とした若武者であったと思いたいです。

投稿: 茶々 | 2013年3月30日 (土) 03時59分

茶々様

NHKがやっていた歴史某番組では,秀頼は身長が190㎝もあり,また聡明な人物だったということを言っていました。

別の書籍では…秀頼はサザエが大好きでそればかり食べ健康に悪いということで,それを食膳に出さなくしたところ,「(片桐)且元はサザエのなる木まで引っこ抜いてしまったのか…」などと秀頼の途方もないあほぶりを紹介していました。
大阪城落城の後の薩摩の国での生き残った秀頼の話も…あほぶり。(このような情報を流したのがどういう立場だったのかで,全然違ってくるのでしょうが…。)

そう言えば,会社などで女性に対して「あの人は『淀君』だ。」というと,これは悪口ですよね。(実際には『淀君』という言い方自体が無かったらしい…?)淀君については,徹底的に徳川幕府が悪口を流布した(宣伝)という話も何かの本で読みました。

豊臣家と徳川家の立場がどの時点で逆転したのかについても,諸説あるようですね。
関ヶ原の戦い…早いでしょうね。
二条城での家康と秀頼の会見…?
分かりませんね~。私には…。

小学生の頃読んだ子供向けの本で,二条城で秀頼が家康に会見するときに,加藤清正が同席し,秀頼に何かあったときのために懐に刀を隠していたという話があったなあ~。無事に会見が終わったときに清正は「太閤殿下のご恩に報いることができた。」と言って涙する場面があったと記憶しています。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月31日 (日) 09時00分

茶々様、こんにちは~
秀頼さんが聡明か坊ちゃまかは分かりませんが・・・
オッサン二人が占いの結果の紙を前に「大事を前に何凶なんかだしちゃってんの!! 吉にしろ(且元)!!」、「凶だから無理だっつてんだろ!! てーか何、俺の占いにケチ付ける気!?(龍伯)」と言い合う姿はなんというか・・・
大の大人が占いの結果で揉めるって、現代なら周りから「いい大人が何下らない事してんの!?」ってなるけど、昔とは神仏とかの信仰やその意味合いが違いますから・・・
まあ、龍伯さんは持っている知識や現状の分析に、さらに加えて占いの結果も引き出した(且元さんも現在の豊家と周辺の状況を鑑みて家康との会見に行かせた方がいいと思っての行動でしょうし)と思いますが
・・・どちらも豊臣家を思っての行動なんでしょうね・・・

投稿: キスケ | 2013年3月31日 (日) 13時12分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

淀殿のそんなこんなのお話はご命日の5月8日のページ>>で書かせていただいてますが、江戸時代になればなるほど(秀頼とともに)悪口がひどくなる一方なので、庶民からの政治批判をかわすための、いわゆる仮想敵国のように扱われたのでしょうね。

度々書かせていただいておりますが、私は、大阪の陣で家康が勝つまで、豊臣の立場の方が上だったと考えております。

公家の日記でもそうなってますし、近隣の庶民様子にも、それをうかがわせるくだりがあります。

淀殿と秀頼の噂の醜さは、ひとえに、どれだけ豊臣政権が強かったかの裏返しではないかと思っております。

二条城での清正の逸話は歌舞伎やお芝居になって、ものすごくかっこよく描かれてますね~
これも、庶民の徳川政治不信へのささやかな抵抗かも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年3月31日 (日) 15時26分

キスケさん、こんにちは~

そうですね…
二人とも豊臣のために…ですね。
この頃に、占いの結果を捏造する事は、それこそ決死の覚悟だったと思います。

投稿: 茶々 | 2013年3月31日 (日) 15時27分

秀頼の正室は千姫ですし、家康の正室は秀吉の妹。親藩大名みたいな感じだったのでは?本によっては、家康と淀君が結婚して、政権安泰なんていうのも。

投稿: やぶひび | 2013年4月 4日 (木) 06時06分

やぶひびさん、こんにちは~

以前の冬の陣の時のページ>>にも書かせていただきましたが、家康と淀君の結婚は秀吉の遺言だし、日取りも決定してましたからね。
イロイロ勘ぐってしまうのは、この後の歴史を知っている後世の人間の勇み足…って事もあるかも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年4月 4日 (木) 13時33分

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