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2013年3月22日 (金)

新羅と日本…古代の関係

 

天平勝宝四年(752年)閏3月22日、新羅からの使いが筑紫に到着した事を知らせる大宰府からの報告がありました。

・・・・・・・・・・・・

『続日本紀』にある天平勝宝四年(752年)閏3月22日付けの大宰府からの報告によれば・・・

この時、来日したのは7隻の船に分乗した新羅王子金泰廉(王子ではないという説もあり)を含む700余名の新羅使で、香料・薬物・調度などの物品とともに大量の金を貢物として持参していたと言います。

天平勝宝四年(752年)と言えば・・・そう、あの大仏開眼です(4月9日参照>>)

その大仏開眼が4月9日ですから、使者の到着は、まさに、その10日余り前・・・という事になります。

なので、「今回の大量の金は、大仏への塗装を意識しての事」とも言われますが、一行はしばらく大宰府に留め置かれ、大仏開眼供養に出席する事はありませんでした。

結局、彼らが上京して、孝謙(こうけん)天皇に謁見したのは、3ヶ月後の6月14日・・・

「両国の国交は昔より絶え間なく続いていて、本来なら、国王自ら訪問して貢物を献上しようと思うのですが、君主が1日でも留守にすれば国政が乱れますよって、王子を以って王に代わる者として向かわせ、様々な貢物を献上させますよって、ヨロシクね」
との王の言葉とともに、貢物を献上しています。

その後、一行はしばらく都に滞在した後、7月24日、帰国のために難波の館へと移り、天皇主催の酒肴を行った後に帰国したとの事・・・

とは言え、新羅と言えば、天智称制二年(663年)に、あの白村江(はくすきのえ=はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)で敵対した相手・・・

もちろん、それから100年近く経っているのですから、当然、情勢も変わって来るわけで・・・って事で、本日は、複雑だった古代の朝鮮半島との関係について、ご紹介させていただきます。

ただし、それこそ、古代の出来事ですので、未だ論争中の不確かな事もあり・・・あくまで、一般的な通説通りの流れ」という感じで、ご理解いただければ幸いです。

・‥…━━━☆

日本と朝鮮半島との関係は、それこそ、記録に残らない時代にさかのぼります。

土器をはじめ、釣り針やら狩りの道具やらには、どう考えても交流があったとおぼしき類似性がありますから・・・

そんな中、最初に史書と呼ばれる物に日本が登場するのが、ご存じ、中国の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)邪馬台国(やまたいこく)・・・

この時、邪馬台国の使者が、当時は中国の一部だった楽浪郡(らくろうぐん)帯方郡(たいほうぐん)を通じて、中国に貢物をした事などが記録されています。

Tyousenhantouzyousei120 やがて、後漢(ごかん=中国の王朝)が滅亡した事で、朝鮮半島情勢が活発になり、4世紀に入った313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡を滅ぼして半島北部に勢力を拡大します。

同時期に、徐々に誕生していた小国家が連合を組んで新羅(しらぎ)百済(くだら)が誕生しますが、最南端に誕生した弁韓という小国連合は、大和朝廷(日本)の支配を受けて加羅(から)任那(みまな・にんな)となります。

高句麗好太王碑(こうたいおうひ=414年に建立されたとされる好太王の業績を称えた石碑)によれば、その後、拡大する高句麗に対して、391年に大和政権が新羅と百済を従えて高句麗に攻め込むも、高句麗の勢力を阻止する事はできなかったとされます。

 .
『日本書紀』
には、その後、高句麗が百済へと浸食し、やむなく百済が都を南に遷した時、大和朝廷に対して加羅4県の割譲を要請・・・これに、日本側の大伴金村(おおとものかなむら)が、(一説には賄賂を受け取って)応じた事から、勢力を弱めた加羅は562年に滅亡してしまいます。

せっかくの半島での拠点を失ってしまった日本・・・

やがて660年に、新羅に攻め込まれた百済が滅亡・・・この時、百済が日本に助けを求めた事から、日本は、その要請に応じて大軍を派遣しています。

これが、先に書いた白村江の戦いですが、ここで、(中国)と新羅の連合軍に日本は破れてしまいます。

その後668年、新羅はついに高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一しました。

そうなると・・・すわ!唐と組んで、新羅は日本に攻め込むか??と緊張が高まるわけですが、これが、逆の展開を見せます。

半島を統一した事で、唐と国境が接するようになった新羅は、いつしか唐と敵対関係になってしまい、むしろ、唐と対抗するために、日本と協力する事を選び、日本に貢物を贈って来るように・・・

利害関係が一致した日本も、それを快く受け入れ、遣新羅使(けんしらぎし)を派遣して、しばらくの間、両国は友好関係を結ぶ事になります。

もちろん、当時の日本は、遣唐使の派遣も行っていて、唐との関係も良好だったわけですが・・・

ただ、今回の天平勝宝四年(752年)の翌年には、遣唐使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)が、唐にて行われた儀式の席で、新羅からの出席者と、会場での座席を巡って争ったり、天平宝字八年(764年)には、時の権力者=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ=恵美押勝)が、「新羅を攻める」と言って大量の兵を集めてみたり・・・

まぁ、仲麻呂の場合は、その兵の徴収を「謀反」と判断した朝廷によって討たれる(9月11日参照>>)ので、実際に半島へ出兵する事は無かったわけですが・・・

・・・そうこうしているうちに・・・
宝亀十年(779年)の遣新羅使の派遣を最後に、新羅に正式な使者が送られる事はなくなり、その交流は途絶えました。

以来、正式なルートでの国交が復活するのは、江戸時代になってから・・・という事になります。
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コメント

茶々様

本日も,見事な授業,ありがとうございます。

う~ん,そうだったのか。新羅が半島を統一して唐と連合して日本に来襲するかと思いきや!

こんなのを「人間万事 塞翁が馬」とでも言うのでしょうか。

やっぱり「緩衝地帯」が必要なんでしょうね。島国日本には,いまいち,その感覚がなかったかもしれませんが…。(対馬海峡が緩衝地帯になっていた。)

現在でも,北朝鮮は中国から見たら「西側世界」との緩衝地帯でしょうし,緩衝地帯がなく,直接“敵対勢力(仮想敵国)”と接していたら,どうしても「緊張感」は生じますもの~。

日露戦争から先の大戦の過程でも,日本自身も緩衝地帯が欲しかったのかもしれませんね。

(話がずれたかもしれません。すみません。)

投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月23日 (土) 19時13分

鹿児島のタクさん、こんばんは~

そうですね。
日本は島国なので、直接、隣国と国境が接してる感覚がどんなのか?
理解し難いです。

投稿: 茶々 | 2013年3月24日 (日) 02時51分

遣新羅使、初めて知りましたー。

投稿: sipponasi | 2013年3月30日 (土) 19時02分

sipponasさん、こんばんは~

恥ずかしながら…私も、学校で習った記憶がありません。。。
教科書では、どんな感じの扱いだったんでしょうね??

投稿: 茶々 | 2013年3月31日 (日) 03時17分

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