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2013年3月19日 (火)

「君は船」…毛利元就&隆元を支えた執権・志道広良

 

永正十年(1513年)3月19日、毛利元就が志道広良宛ての起請文を作成しました。

・・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、西国の覇者毛利元就(もうりもとなり)・・・ですが、このブログでも度々ご紹介させていただいている通り、その西国の雄や中国の覇者といった冠は、元就が1代で築きあげた物・・・

Mourimotonari600 確かに、ご先祖は、あの大江広元(6月10日参照>>)という由緒正しき血筋ではありますが、元就の父・毛利広元(ひろもと)は、あくまで安芸(広島県西部)を本拠とした小規模な国人領主にすぎなかったわけで・・・

・・・と、毛利が小規模な国人領主って事は、その近所には、同じような国人領主がワンサカいたわけで、要は、そんな国人たちが連合を組んで、国人一揆をやったり、大名に物申したりしていた状況で・・・やがては覇者となる毛利も、そんな中の一つだったわけです。

そこから、元就の代になって1歩抜け出す事になるわけですが、上記の通り、もともとは同クラスの国人衆の連合軍だったわけですから、毛利の重臣となった有力な国人たちは、主君と同等の発言権を持ったまま家臣団に組み込まれて行くという、元就独特の家臣団が形成されていくのです(12月2日参照>>)

そんな毛利を、広元・興元(おきもと)幸松丸(こうまつまる)の3代に渡って、執権として支えていたのが志道広良(しじひろよし)・・・彼も、毛利の一族の出身でした。

ちなみに、これまでも何度か書かせていただいているように、元就は、広元の次男で、広元亡き後に毛利を継いだのは兄=興元・・・しかし、この兄も早くして亡くなり、その嫡男でわずか2歳の幸松丸が家督を継ぐ事となり、元就は、その後見人として世に出て来る事になります。

なので、この頃は、未だ、元就は家督を相続していなかったわけですが・・・

・・・で、そんなこんなの永正十年(1513年)3月19日、その元就から広良宛てに起請文(きしょうもん=誓約書)を作成するのです。

その内容は、この先、元就は広良の指示に従って毛利家に忠誠を尽くす事、お互いに逆心を抱かぬ事、などを約束する物でした。

元就が広良に???

そう、上記の通り、国人同志で連合を組んで生き抜いていかねばならない毛利の、しかも後継ぎでも無い元就にとっての広良は、執権と言えど、気をつかわねばならない相手・・・逆に、広良は主君に物申す事の出来る力を持っていたという事になります。

そんなこんなの永正十四年(1517年)、次男と言う立場上、未だ合戦すらした事もなかった元就に初陣の時がやって来ます。

もともと、この安芸一帯は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていた場所・・・そこを、毛利をはじめとする小豪族の国人領主たちが事実上治めてしまっている事に不満を抱いていた武田元繁(もとしげ)が、毛利の家督を、幼い幸松丸が継いだ事をチャンスとみて、領地奪回をもくろんで有田城(広島県山県郡)を攻めたのです。

これに対抗すべく、出陣を決意する元就は、例の約束通り、まずは広良に出兵の許しを得ようとしますが、広良は、「未だ、時が早い!少し様子を見ろ」と猛反対します。

ところが、元就は、自らの手勢のみの少なさで出陣を決行・・・驚いた広良は、慌てて郡山城の軍勢を率いて駆けつけて合流しますが、これが、後に西国の桶狭間とも呼ばれるほどの大勝利となったのです(10月22日参照>>)

確かに、元就の行為は約束破りと言えば約束破りなわけですが、おそらく、広良にとって、それを上回った?・・・元就の武将としてのスゴさを垣間見た驚きの方が勝っていたのかも知れません。

なんせ、この後の大永三年(1523年)、かの幸松丸が、わずか9歳で亡くなってしまった事を受けて、毛利の後継者を決める時、反対意見もある中で、最も強く元就を推したのが広良だったのですから・・・

その時には、国人たちへの根回しや中央幕府への相続許可の願い出などにも奔走し、もちろん、元就と後継者を争った異母弟=相合元綱(あいおうもとつな)側の抑え込みも・・・

こうして元就が、無事に家督相続をした後には、その信頼を一身に受ける事となった広良・・・元就が隠居して、嫡男=隆元(たかもと)(8月4日参照>>)が家督を継ぐと、その後見役として活躍し、91歳の長寿を全うしたと言いますが・・・

そうそう、今日この日=永正十年(1513年)3月19日の元就との約束は、その隆元の代になっても活きていたようです。

ある時、自らのやり方を推し進めようとする隆元に向かって
『君は船、臣は水』
という言葉を言って、それを退けたと言います。

「主君は船で、家臣は水…水があるからこそ、船は船でいられるし、船の役目を果たせるんや」
と・・・

しかも
「水が暴れたら、船は簡単にひっくり返るんやで~」

家臣団や軍団にも目を光らせ、さらに主君の行動にまで・・・広良の歯に衣着せぬ苦言は、毛利が西国の雄を称される事になるまでに、大いに貢献した事でしょう。

その遺志は、広良の弟である口羽通良(くちばみちよし)に受け継がれ、通良は元就の孫=毛利輝元(てるもと)を支える屈指の名家老となっています。
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コメント

最近,この「君ハ船ナリ 臣ハ水ナリ」という言葉によくぶち当たります。TVなどで…。

これは,封建的な社会はもとより,現在の例えば,いろいろな組織にも当てはまる部分がありますよね。(私が古いのでしょうか。)

この言葉の語源などちょっとネットで調べてみようかな?
何か,中国故事のような気がしますが,内容からして,「儒教的な感じ」もありますか!?

投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月19日 (火) 20時03分

鹿児島のタクさん、こんばんは~

最近よく聞くんですか??
まぁ、現代にも応用できそうな言葉なので…

出どころは、お察しの通り、中国の「荀子」のようです。
どんな背景で出た言葉なのか、くわしくは知りませんが…

投稿: 茶々 | 2013年3月19日 (火) 20時25分

初めてコメント致します。
歴史についての知識は素人同然ですが、ちょくちょくと拝見させて、楽しんでます。
歴史に名を残す人物の下には、こういう人間が家臣をまとめ、時に主を諫めたり、影で奔走してサポートしてくれたからなんでしょうねぇ・・・

投稿: キスケ | 2013年3月20日 (水) 12時21分

キスケさん、こんにちは~

コメントありがとうございます。

おっしゃる通り、参謀というか軍師というか…サポートする名将がいるかいないかの差は大きいでしょうね。

武田勝頼や今川氏真なんかは、世間で言われているほど愚将ではないと個人的には思っていますが、結局は、すぐに思いつく名参謀がいない事が滅亡に結びついているような気がします。

投稿: 茶々 | 2013年3月20日 (水) 14時12分

キスケ様
茶々様

「ナンバー2」の役割が重要なんでしょうね。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月21日 (木) 18時42分

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