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2013年4月10日 (水)

逃げの小五郎を捕まえた…幾松・生涯の恋

 

明治十九年(1886年)4月10日、維新三傑の一人・桂小五郎=木戸孝允を支えた幾松こと木戸松子が43歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・・

後に桂小五郎(かつらこごろう=木戸孝允)の奥さんとなる幾松(いくまつ)こと木戸松子(きどまつこ)の生い立ちは、若狭(わかさ)小浜出身という事以外は諸説あってよくわかっていません。

8歳か9歳の頃に京都へ出て来ますが、それも、小浜藩士だった父が出奔して京都にいると聞いて母や兄弟とともに後を追ったとも言われますし、一説には、小浜での暮らしに見切りをつけ、自らたった一人で上京したとも言われます。

とにもかくにも、京都にやって来た松子は、難波常二郎恒次郎)という人物の養女となり、その人の妻が、以前に三本木(さんぼんぎ=京都市上京区)の芸妓で幾松と名乗っていた事から、安政三年(1856年)の14歳の時に、三本木の料亭「吉田屋」から舞妓としてデビューし、2代目・幾松を名乗る事になります。

Ikumatu500 姿形が美しく、聡明で笛の名手だったと言われる幾松は、またたく間に人気の芸妓に成長していきますが、そんな彼女に目をつけたのが小五郎・・・

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二人が出会ったのは、小五郎:30歳バツ1、幾松:20歳の文久二年(1862年)頃と言われますが、その頃は、未だ、そこまで動乱は激しく無く、御所に近い「吉田屋」は、各藩士たちが接待や酒宴に利用する事も多く、そんな中で小五郎が幾松を・・・というよくある流れなわけですが、

人気芸妓の幾松には、すでに山科の富豪というご贔屓(ひいき)がいたのを、小五郎が、その富豪と張り合って大金を継ぎ込んだあげく、それでも退かない富豪を、伊藤博文(いとうひろぶみ)が最後に刀で脅してあきらめさせ、やっとこさ幾松をモノにしたと言います。

こうして、周囲も認めた恋人同士となった二人ですが、まもなく、小五郎の長州藩(山口県)は、幕末動乱の渦中に呑みこまれる事になります(3月12日参照>>)

文久三年(1863年)の3月に江戸幕府将軍としては230年ぶりとなる上洛を果たした第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が、時の孝明(こうめい)天皇に謁見した際に攘夷(じょうい=外国を排除)の決行を約束しますが、その約束の日が文久三年(1863年)5月10日・・・

この日に、長州藩は瀬戸内海の海運の要所である下関(馬関)海峡を封鎖し、そこを通りかかったアメリカ商船・ペンブローク号に向けて砲撃したのを皮切りに、続く23日には、フランス通報艦、さらに26日にはオランダ東洋艦隊と次々に砲撃して、攘夷運動の牽引者である事を見せつけたのです(5月10日参照>>)

しかし、そんな過激な攘夷を嫌う朝廷内の保守派が、長州藩とともに朝廷内の攘夷派を一掃・・・これが、八月十八日の政変(8月18日参照>>)です。

政変で中央政界から追われた長州藩士は、何とか復権しようと京都に潜伏し、あれやこれやと計画を練る・・・そこを新撰組が襲撃したのが、翌・元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件(6月5日参照>>)

たまたま、その日、池田屋に行っていなかった小五郎は難を逃れましたが、そのひと月半後に、先の八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛・・・これが禁門(きんもん=蛤御門)の変(7月19日参照>>)ですが、ここで、長州の発砲した砲弾が御所に命中した事で、長州は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となり、当然、長州藩士は追われる身・・・小五郎も、身を隠しての逃亡生活を送る事になります。

この頃、「二条大橋の橋の下で身を隠していた小五郎に、毎朝、ご来光を拝むフリをした幾松が、橋の上からおにぎりを投げていた」なんて逸話が語られていますが、実際には、小五郎が二条大橋の下にいたのは1週間足らずだったとか、幾松以外にも食べ物を持ってくる女が2~3人いたとか、てな話も・・・

また、「吉田屋」に探索に訪れ、そばにあった大きな長持(ながもち=衣類を入れる箱)の中に小五郎が隠れているのではないか?と疑って「見せろ!」と迫る新撰組の近藤勇(こんどういさみ)に、
「中には、ウチの下着が入ってますのや…
もし、よその男はんに見られたら、ウチ、死ぬほど恥ずかしおす。
見たいて言わはんねやったら、見はってもよろしおすけど、もし、何も無かった時は、近藤はんにも、切腹してもらわんと…」

と、ズゴんで追い返したなんてエピソードも・・・

どこまで信憑性があるのかは疑問ですが、ここは一つ、二人の純愛と幾松のキップの良さを信じましょう。

やがて、危ない京都を離れて身を隠す小五郎・・・さすがに、この時は幾松も小五郎の居場所を知らず、長州藩邸とは御池通を挟んで向かい側にあった対馬藩邸にてお世話になりつつ・・・

しかし、そのうち、幾松自身に危険が及ぶようになった事、また、「小五郎は萩にいるのでは?」と考えた事もあり、幾松は長州へと向かいます。

その後、小五郎の京都脱出を手伝った広戸甚助 (ひろとじんすけ=対馬藩士とも対馬藩邸出入りの出石の商人とも) から、小五郎が出石(いずし=兵庫県豊岡市)に潜伏中であるとの情報を得た幾松は、甚助とともに一路、出石へ・・・

ところが、この旅の途中で、その甚助が、旅費全額をバクチですってしまい「会わせる顔がない」とトンズラ・・・やむなく、幾松は、ただ一人、かんざしを売り、着物を売りしながら出石へと向かい、ようやく出石に到着した時には、もはや襦袢1枚の姿だったのだとか・・・

ここで幾松は、小五郎と250日ぶりの再会を果たします。

とは言え、この時、二人が出石で過ごした期間は、たった20日間・・・実は元治元年(1864年)12月16日に、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)功山寺で挙兵して(12月16日参照>>)勝利した事で、長州藩の上層部は攘夷派が牛耳る事になり、小五郎を呼び戻そうと長州藩も彼を探していたわけですが、幾松が小五郎の居所を知ったように、藩も同時期にその居所を知る事となり、長州へ戻る事となったわけです。

しかし、ご安心を・・・今度は、ちゃんと、二人一緒に・・・しかも、この出石滞在中の間には、二人で城崎温泉に旅行したとの事・・・

小五郎ファンの皆様にとっては、
「これは、あの坂本龍馬より早い、日本初の新婚旅行!」と、ご自慢のエピソードです。

二人の正式な結婚時期に関しては諸説あるものの、その後の明治元年(1868年)に京都に戻る時には、小五郎の親戚一同に妻として紹介されていますから、それまでには正式に結婚をしていたのでしょう。

一旦、長州藩士・岡部富太郎(おかべとみたろう)の養女となってから婚姻・・・その後は、木戸松子と名乗ります。

その翌年には東京へと移り住んで、新政府の要人として多忙な夫を影で支えますが、料理が得意だった彼女が、邸宅に遊びに来た同僚たちに手料理をふるまう事もあったようです。

しかし・・・
明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)・・・その鎮圧のために京都へ出張していた孝允(小五郎から改名)が病に倒れたのです。

5月6日に「木戸孝允・危篤」の一報を聞いた松子は、取るものもとしあえず京都へ・・・京都の別邸にて寝ずの看病を続けましたが、明治十年(1877年)5月26日、夫・孝允は45歳で、この世を去りました(5月26日参照>>)

夫を亡くしてからの彼女は翠香院(すいこういん)と号し、京都の木屋町に移り住みますが、これは出家して尼さんになったというよりは、「夫亡き後に再婚する事なく、夫の墓を護り続ける」という決意の意味で号したようで、朝な夕なに夫の眠る霊山を眺め、時に参拝しながら邸宅で静かに暮らしていたようです。

追われる恋人を体を張って守った若き日々・・・
死と背中合わせの中で身分を越えて結ばれた恋・・・

Dscn0946a900 木戸孝允&松子の墓(京都霊山護国神社)

夫の死から9年後の明治十九年(1886年)4月10日松子は病に倒れ、43歳の生涯を閉じますが、その身は今現在も、霊山墓地に眠る夫のそばに・・・

●霊山護国神社への行き方は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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コメント

じーんと来るお話ですね、ちょっと感動しました。
追われる恋人を体を張って守った若き日々・・・
死と背中合わせの中で身分を越えて結ばれた恋・・・
ここの所、何度読んでも好きです。ロミオとジュリエッットみたいな(小五郎と幾松はちゃんと結ばれてますけど)ドラマチックですね。

投稿: poem | 2013年4月10日 (水) 16時07分

茶々様こんばんは。

愛妻家としてよく名の挙がる、直江兼継と木戸公ですが、西南戦争などのため多忙な晩年を過ごした木戸公には、妻に愛情を注ぐこともかなわず、松子夫人は夫の気を引くためか、二度浮気をしたものの、公に離縁すらしてもらえず、生殺しの生活を耐え忍ばされた、ともききます。

それはともかく、やはり若かりし頃の純愛エピソードは素晴らしいですね~。
昔の傑物達の人生を懸けた純情物語は、いくら聞いても飽きません。

これからもお願いします。

投稿: ダルタ湾 | 2013年4月10日 (水) 18時51分

今日は松子さんの命日だったんですね~。
二人の関係については、ある事無い事、事実のように書かれてたりもしますが、晩年の木戸さんの、
松子さんと一緒に海外行きたい~。
と政府にお願いしてるのが愛妻家らしくって好きです♥
あの険しい霊山の、木戸さんの墓の横に、松子さんのお墓が作れたものだなといつも感心します。

投稿: 花曜 | 2013年4月10日 (水) 22時10分

>一旦、長州藩士・岡部富太郎(おかべとみたろう)の養女となってから婚姻・・・その後は、木戸松子と名乗ります。

正確には岡部松子なんじゃないでしょうか? 当時は夫婦別姓が当たり前だった筈。実際自署ではどう記しているのでしょうね。

投稿: 野良猫 | 2013年4月11日 (木) 01時57分

poemさん、こんばんは~

苦労時代を支えてくれた恋人を奥さんに…
イイですよね~
ホントに、ロマンチックです。

投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 02時37分

ダルタ湾さん、こんばんは~

小五郎さんは、忙しい人ですからね~
それこそ、現在進行形の時は気苦労も多かったでしょうが、「最後に、夫のお墓のある側に住んで…」という幾松さんの行動が、結局は良い夫婦だったという事を物語っているような気がするのです。

振り返ってみれば…
♪あんな時代もあったねと、いつか笑える日が来るわ♪
みたいな感じで…

投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 02時41分

花曜さん、こんばんは~

>晩年の木戸さんの、
松子さんと一緒に海外行きたい~。

そうそう、その話もありましたね~
結局は、海外旅行は実現しませんでしたし、どこまで事実化は微妙ですが、小五郎が「松子さんが洋装が似合うかどうか」と心配していたなんて話もありますね。
そんなのを聞くと、ほほえましいです。

投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 02時46分

野良猫さん。こんばんは~

戸籍上の事まではよくわかりませんが、小五郎が改名をするのは、出石に潜伏していたのを長州藩に呼び戻された時に、一応、未だ、小五郎がおたずね者だった事をはばかって藩命で木戸に改名するように命じられての改名です。
なので、木戸という名は藩主から賜った事になるわけですが、結婚と重なるこの時期に、なぜ「木戸」だったかは、幾松の名字が「木戸」(出身地の名?)だったからと言われています。

あくまで、その説が有力という程度の情報ですが、とにかく、幾松は、結婚をキッカケに「木戸松子」と名乗り、一般的にそのように呼ばれていますので、そのように書かせていただきました。

投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 02時59分

茶々さん、お久しぶりです。
体調不良で休んでいました。
ところで幾松は武士の出ですが芸者になりましたが、結構武士が落ちぶれるとそう言う身に落ちる女性が多いですね。
木戸は神経質なのですがよくついていきましたねと言うよりも長州系で豪快な来島ぐらいですね。何故好きになったのかよく分かりません。
ところで出家したそうですが、高杉の愛人みたいに頭を剃ったのでしょうか?

投稿: non | 2015年11月15日 (日) 16時21分

それにしても明治ぐらいまで出家する女性が多いですね。
おうのさんもそうですけど・・・
ところで幾松を主役にした方が面白かったと思います。
どう見ても井上真央は主役に似合わないです。ちらっと見ますけどあそこまでひねくれたドラマは見たことが無いです。
幾松役の雛形の方が良かったです。
でも野村望東尼は高杉の死の時に出てこないし、見ていて腹が立ちます。
いっその事朝ドラの朝さんを大河にした方が良かった感じがします。豪快だしきっぷも良いし・・・
朝さんの影響で相撲は九州でも人気が戻りましたね。

投稿: non | 2015年11月15日 (日) 19時07分

nonさん、こんばんは~

一般的に武士の奥さんは、旦那さんが死ねば「尼となって亡き夫の菩提を弔う」というのが武家の常識だったんでしょうね。

平清盛の奥さんも、源義朝の奥さんもそうですから、けっこう早い段階からそうなんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2015年11月16日 (月) 02時41分

茶々さん、こんばんは。
高杉の愛人のおうのさんも出家しましたが剃りました。
となると幾松はおうのさん、野村望東尼みたいに頭を剃ったのかもしれません。
でも武家の妻と言う認識が幾松にもあったのはやはり元来武家の出だったからかなと思いました。
ところで加賀の千代にしても出家した人は武家に問わずに商家でもありましたが、武士道と言うのを商家でも教えられたのかなと思いました。
欧州では騎士道がありますが、中世では貴族の妻は夫の死後修道院に行った人が多く、ハプスブルグの最後の皇后のティッタ皇后もスイスの修道院にはいっていました。そういう所は日本も欧州も似ているなと思いました。

投稿: non | 2015年11月16日 (月) 19時22分

nonさん、こんにちは~

皇女が歴代の住職を務めたというお寺もいくつかあるので、皇室からもお寺に入る方もおられたでしょうね。

投稿: 茶々 | 2015年11月17日 (火) 16時33分

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