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2013年4月20日 (土)

会津戦争の呼び水…世良修蔵の暗殺

 

慶応四年(1868年)閏4月20日、長州藩出身で奇兵隊の総督を務めた事もある世良修蔵が、仙台・福島藩士の急襲を受けて斬首されました。

・・・・・・・・・・・・

周防国大島(山口県大島郡)の大地主で庄屋も務める名家に生まれた世良修蔵(せらしゅうぞう)は、その裕福さゆえ、幼い頃から有名な漢学者や儒学者の教えを受け、さらに17歳の時には藩校=明倫館(めいりんかん)に学んで高い教養を身につけ、自他ともに認める秀才に成長します。

さらに、同じ周防大島出身の僧=月性(げっしょう)の影響で海防論(海岸線における国防に関する論議)に目覚めた彼は、熱心な攘夷論者(外国を排除したい派)となり、20歳を過ぎた安政二年(1855年)の頃からは、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)梅田雲浜(うめだうんびん)(9月14日参照>>)らとも交流し、長州藩内でも有名な存在となっていきます。

Serasyuuzou500 やがて江戸に出て、さらに学問を磨き、文久三年(1863年)には、長州藩の重臣である浦靱負(うらゆきえ・元襄)の養子となり、後に、その浦家から世良姓を賜って、世良氏を継いだ事で、その後は世良修蔵と名乗ります。

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同時期に、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)が結成した奇兵隊(12月16日参照>>)に入隊して書記を務めますが、やがて、その活躍から、その奇兵隊の軍監にまで上り詰め、慶応二年(1866年)に勃発した第二次長州征伐=四境戦争では地元=大島口(6月13日参照>>)で奮戦します。

結局、この第二次長州征伐は、江戸幕府第14代将軍=徳川家茂(いえもち)の病死(7月20日参照>>)を受けて終結する事になりますが(7月27日参照>>)、ここで、長州というたった一つの藩を相手に、幕府が大いに手間取ったのを諸藩が目の当たりにした事、さらに、この年の暮れに孝明天皇が崩御された(12月25日参照>>)事などを受けて、時代が倒幕へと大きく動いて行く事になります。

翌・慶応三年(1867年)10月14日に第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による「大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)・・・と前後して下った「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)

さらに12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・そして、その翌年の正月3日には、あの鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)が勃発するわけです。

修蔵は、この鳥羽伏見の戦いでも奇兵隊や遊撃隊の兵士たちを率いて最前線で活躍・・・やがて、1月6日の将軍・慶喜の敵前逃亡(1月6日参照>>)を受け、戦いは1月9日の大坂城開城を以って終了しますが(1月9日参照>>)、ご存じのように、この戦いは、ここから戊辰戦争と名を変えて、官軍となった薩長(薩摩と長州)軍によって、さらに東へと移動していく事になります。

この時、東海道や中山道を進んだ官軍は、3月の勝沼戦争(3月6日参照>>)を経て江戸に到着し、ご存じの江戸城無血開城へと進んで行く(3月9日参照>>)わけですが、一方で、その矛先は、北陸や東北へも向けられる事になり、奥羽鎮撫(おううちんぶ)総督となった九条道孝(くじょうみちたか)参謀として、修蔵は奥羽の征討に派遣される事になったのです。

一説には、この修蔵の参謀就任を京都にて聞いた同郷の品川弥二郎(しながわやじろう)(4月14日の後半部分参照>>)が、
「えらいヒドイやつを任命したもんや」
と、ポツリと言ったとか・・・

実はこの修蔵さん・・・ご命日に悪口っぽい事を書くのは心苦しいのですが、あまり評判がよろしくない・・・

今回の東北への出兵の際にも、事前に味方となる事を表明している仙台藩主・伊達慶邦(だてよしくに)や重役などに対して、官軍を笠に着た横柄な態度で接してみたり、

あるいは、行く先々の宿でも、やはり官軍の名を出して朝から芸者をあげての酒宴三昧で大騒ぎしてみたり・・・

そんな中、この頃の東北の諸藩では、トカゲのしっぽ切りのごとく慶喜から見捨てられ、征討の対象となってしまった会津藩(2月10日の前半部分参照>>)を、近隣のよしみで何とか救おうと、官軍側に立っている仙台藩や米沢藩が中心となってイロイロと方法を模索していたのです。

閏4月11日には、東北の14藩の重臣が仙台藩領の白石城(宮城県白石市)に集結し、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)も同意しての『会津藩救済の嘆願書』が作成され、仙台・米沢両藩から奥羽鎮撫総督府へと提出されました

ところが、その嘆願書を受け取った修蔵は、それを握りつぶして徹底抗戦を主張し、逆に、それらの東北諸藩へ、会津討伐の催促をしたのです。

それでも、東北での戦争を回避したい諸藩・・・当然、修蔵の存在が、その大きな障害として認識され「アイツさえいなければ…」といった感情が徐々にこみあげて来るわけですが・・・

そんなこんなの閏4月19日・・・修蔵は、同じく奥羽鎮撫総督府の参謀となっている薩摩の大山綱良(つなよし)宛てに密書を送るのですが、それが、送付を依頼された福島藩を通じて、仙台藩の重役の手元に渡ってきます。

しかも、その手紙の中には『奥羽皆敵』の文字・・・「特に仙台藩や米沢藩には油断するなよ」と・・・

当然、この内容を知った仙台藩士たちは激怒します。

かくして慶応四年(1868年)閏4月20日未明・・・福島城下の金沢屋なる宿で遊女とシッポリやっていた修蔵を、仙台藩士の姉歯武之進(あねはたけのしん)十数名が襲撃します。

彼らの襲撃を知った修蔵はピストルで反撃しますが不発・・・ボコボコにされながら裏口に引きずりだされた際には、震えながら命乞いをしたと言いますが、当然、もはや時遅し・・・

阿武隈川の河原にて斬首されました。

これをキッカケに田中左内(たなかさない)率いる会津部隊と、それに賛同した旧幕府軍生き残りが、奥州街道の要所・白河城を包囲して、会津戦争の幕明けとなる白河口攻防戦(5月1日参照>>)が開始されるです。

一説には、その家族まで悲惨な末路となったと言われる世良修蔵・・・最終的に勝利者となった官軍の人でありながら維新の立役者にはなれなかった・・・

自業自得と言えばそれまでですが、本日の主役なので、あえて一つ弁解をさせていただくならば、おそらく、彼は、裕福な庄屋の家に育った事で、高い教養は身につけていたかも知れませんが、武士のたしなみといった感じの教育を、ほとんど受けていなかったのではないかな?なんて思います。

幕末という猛スピードで進む時代の中で、何も身につけないまま、いきなり出世して、いきなりサムライの・・・それも上層部の人たちを相手にせねばならない立場に立ったわけで・・・

もし、彼が、もっと幼い頃に武士の養子となり、それなりの教育を受けていたら、その態度も変わっていて、こんな悲惨な末路にはならなかったのかも知れません。

あくまで、もし・・・ですが
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

正直、世良の言動を見ていると、奇兵隊上がりなどにロクなものはいない、という気持ちになりますね。

高杉晋作が率いた革命軍としてのイメージも、この程度の人物が軍監をしているようでは、ガラガラガラ…。後に奇兵隊が粛正されるのもむべなるかな。

茶々様の仰せの通り、侍としての素養が余りに浅いものですからね。官軍参謀としての権威を笠に着て、伊達の殿様にも極めて高圧的に振る舞ったようですよ。仙台藩では長州の足軽上りが殿様を土下座させたと激昂するものが現れ、そこに追い討ちをかけるようにあの文書漏洩事件でしょう。それはたたっ斬られても当然かと。

いや、むしろ当時の長州藩が、(蛤御門の戦い以来、死にすぎて)かくも人材が枯渇していたことに注目するべきかもしれませんね。

投稿: レッドバロン | 2013年4月21日 (日) 04時04分

レッドバロンさん、こんにちは~

>当時の長州藩が、(蛤御門の戦い以来、死にすぎて)かくも人材が枯渇していた…

確かに…人材不足で適材適所に配置する事ができなかったのかも知れませんね。
少々の歯車の狂いが重なって、悲しい現実を生んでしまったような気がします。

投稿: 茶々 | 2013年4月21日 (日) 08時34分

修蔵も修蔵ですが派遣した方も派遣した方だと思います。長州に人材がいないわけないでしょう。こんなのしかいなかったら新政府がどうなるか心配です。
長岡への岩村精一郎派遣も同じ匂いがします。どちらも挑発が目的でしょう。
勝ち戦は人をかくも驕らせるものなのか。
目的は果たしたといえるかもしれませんが、修蔵には不幸な結末でした。

投稿: りくにす | 2013年4月22日 (月) 21時04分

りくにすさん、こんばんは~

>岩村精一郎派遣も同じ匂いが…
>どちらも挑発が目的

確かに…
そう聞けば、そんな気もします。
精一郎は、河井継之助の話にも聞く耳持たずでしたからね~

投稿: 茶々 | 2013年4月23日 (火) 02時42分

茶々様、こんにちは・・・
昔観た年末時代劇「白虎隊」のまんまな感じですね・・・
戦闘での活躍はともかく、平素での立ち振る舞いは身内ですら困ってたのかも知れませんね・・・
ただ、旧幕府勢力の武力制圧・降伏という形での「維新」を目指したい官軍にとってはある意味ではうってつけの人材だったのかも知れません・・・世良のその性格や立ち振る舞いを知ってたからこそ、相手を怒らせて攻撃させ、大義名分を得るという・・・
ただ、もし世良が相手の言い分もちゃんと聞く人だった場合(或いは別の人だった場合)、東北諸藩はどういう結末を迎えたのか・・・

投稿: キスケ | 2013年4月23日 (火) 11時22分

キスケさん、こんにちは~

そうですね~
やはり、どうしても、東北を潰しておきたかったんですかね~

>もし…東北諸藩はどういう結末を…

ホントですね。
歴史に「もし」はアレですが、いろいろと妄想してしまいますね。

投稿: 茶々 | 2013年4月23日 (火) 13時34分

4月25日の「BS歴史館」が奇兵隊の話でした。ここで登場した奇兵隊指導者が代わりにやってきた場合を想像してみました。
高杉晋作…礼儀は心得ていると思うが、わざと相手を怒らせるのは得意かも。
赤禰武人…吉田松陰の愛弟子で奇兵隊「民衆の軍隊」にした人。平和を望んでいても、いつもの調子でお偉方に対応して怒りを買いそうです。
山縣有朋…どんな任務でもこなして生還しそう。番組では「松下村塾では劣等生」と言ってましたが、そのぶん「常識人」ということかもしれません。
奇兵隊はすごく楽しそうなところですが、長州藩首脳部はここのメンバーを京都に派遣したりはしないでしょう。価値観が先を行きすぎているんですね。
それにつけても…
東北はどうなってもいいのかよ。
(感情的ですみません)

投稿: りくにす | 2013年4月28日 (日) 21時42分

りくにすさん、こんばんは~

奇兵隊も末路は悲惨ですからね~
価値観の変化も時代の変化も速すぎたのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年4月29日 (月) 01時45分

素晴らしい!
八重の桜の通!
どちらも尊敬します(*^^*)

投稿: | 2013年6月10日 (月) 02時32分

こんにちは~

八重の桜…これからが見どころですね。

投稿: 茶々 | 2013年6月10日 (月) 19時02分

今、早乙女貢の「世良惨殺」を読んだところです。
「――たった十歳の女の子を。何も知らない無垢の女の子を、泣いて逃げるのを摑えて、着物を引き裂いて・・・血だらけになったあの子は、半月も動けなかったんですよ。漸く起き上れるようになったとき、もう気がふれていました」

事実なら世良は惨殺されて当然でしょう。
官軍の正義というものを、一度は見直した方がいいでしょうね。

投稿: 斉喜広一 | 2016年11月18日 (金) 23時43分

斉喜広一さん、こんばんは~

そうですね。
早乙女貢氏の「世良惨殺」は小説なので、どこまで本当かどうかは微妙なところですが、新政府軍の指揮官には身分の低い武士が多くいたからなのか?少々武士らしくない行動もあるように思いますね。

ただ、会津は会津で、「北海道を植民地として差し出すので協力してくれ」と外国に援助を頼んでいた…なんて事も言われているので、どちらが?誰が?悪いのか?というのは簡単に言いきれない部分もありますね。
それが「戦争をする」という事なのだと思います。

あの大坂の陣でも、多くの無関係の市民や子女が犠牲になっています。

投稿: 茶々 | 2016年11月19日 (土) 04時34分

大坂の陣での市民への暴行・略奪については、大阪城で、東洋のゲルニカとも称される「大坂の陣図屏風」(レプリカだったかも知れませんが)で私も見たことがあります。
市民への暴行・略奪は近代も含めて(日露戦争は例外として)、戦争につきものであったとは思います。
ただ、薩長の蛮行は錦旗の下で行われ、咎める者には「天子さまの軍隊に文句をつけるのか」と開き直ったといいます。このようなかたちで、天皇の名が汚されたことをはがゆく思います。
それに、会津は元々が尊皇であったことは、今日すでに知られるところでありますし。加えて、最近は明治維新を負の側面から再評価しようという動きが一部にあるようですし・・・。

投稿: 斉喜広一 | 2016年11月20日 (日) 22時17分

斉喜広一さん、こんばんは~

彼らの愚行で「天皇の名が汚された」というは同感ですね。
会津も東武皇帝を担ぎ出してますが、果たして天皇家の皆さまのお心はいかに?と思います。

時代の変わりめに現在進行形で生きていた当時の人々は、勤王も佐幕も、どちらもがより良い日本を目指して命がけで模索していたわけで、私としては、どちらが善でどちらが悪なのかは、よくわかりません。
当然、どちらに対しても、その行動のすべてが正しかったとも思いません。

ドラマや小説のようにハッキリ決められないのが現実の歴史です。
きっと一生答えは出無いし、死ぬ間際まで「あーだ」「こーだ」と言ってる事こそが歴史の楽しさだと思っています。

投稿: 茶々 | 2016年11月21日 (月) 03時36分

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