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2013年4月26日 (金)

DVに自殺未遂?…暴れまくりの後円融天皇

 

明徳四年(1393年)4月26日、南北朝時代の北朝第5代天皇・後円融天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

南北朝時代の北朝・第4代・後光厳(ごこうごん)天皇の第2子として誕生した後円融(ごえんゆう=後圓融)天皇は、
(諱は緒仁=おひとですが、ややこしいので、今回は後円融天皇という呼び名で統一させていただきます)
建徳二年=応安四年(1371年)の3月21日に親王宣下を受けて立太子し、わずか2日後に北朝第5代天皇として即位しました。

南北朝時代の天皇様は、その動乱の渦に巻き込まれ数奇な人生を歩まれる方が多いですが、この後円融天皇も例外ではなく、このスピード即位には理由がありました。

そう、北朝内で、その後継者を巡っての対立が起こっていたのです。

実は・・・
すでにブログにも書かせていただいていますが、この後円融天皇の父である後光厳天皇・・・神器なし指名なしの前代未聞の即位をしたあの天皇です。

そもそも、南北朝でモメてるさ中に、室町幕府初代将軍である足利尊氏(あしかがたかうじ)と、その右腕として活躍した弟の足利直義(ただよし)が起こした大いなる兄弟ゲンカ=観応の擾乱(かんおうのじょうらん)10月26日参照>>)の時、この足利兄弟が相次いで南朝に降った事で、擾乱が終結した後に、いち時は正平一統(しょうへいのいっとう)という南北朝統一が成されていたのですが、その講和を結んだ第97代後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)が、完全武装で京都へやって来て、留守を預かっていた義詮(よしあきら=尊氏の息子)を都から追い出して制圧・・・(3月24日参照>>)

その後、巻き返した足利勢によって、再び南朝の本拠地へと撤退するものの、その時に、天皇経験者である光厳上皇・光明上皇・崇光上皇そして、皇太子に決まっていた直仁親王までを、南朝の本拠地である賀名生(あのう)へと連れ去ってしまったのです。

仰ぐ天皇がいなくなってしまった北朝では、急きょ、北朝第3代の崇光上皇の弟で、すでに仏門に入る準備をしていた弥仁(いやひと・みつひと)を呼んで、前代未聞の即位をさせたわけですね(1月29日参照>>)

こうして北朝に天皇が誕生した事で、拉致している意味がなくなった先の天皇経験者の方々は、まもなく、北朝側に戻されるわけですが、南朝とかりそめの講和を結ぶ際に拉致の状態にあった崇光上皇にとっては、その後のゴタゴタで異例の即位をした後光厳天皇は、急きょ即位しただけの1代限りの天皇だとの考えがあり、当然、その次に即位するのは、自分の系統の皇子であると思っていたわけです。

ところが、急きょとは言え天皇になった後光厳天皇だって、皇位は自分の皇子に譲りたいと思うわけで・・・

Goenyutennou600 で、結局、幕府管領細川頼之(よりゆき)の決定により、後光厳天皇の皇子が後円融天皇として即位し、崇光上皇の皇子は、新たに創立した伏見宮(ふしみのみや)家の初代当主という事になりました(1月13日参照>>)

 

この時、後円融天皇は14歳・・・この後円融天皇の時代に将軍職を務めていたのは、あの金閣寺で有名な第3代の足利義満(よしみつ)なのですが、実は、二人は3ヶ月違いの同年齢で、しかも、お母さん同志が姉妹・・・つまり従兄弟(いとこ)同志だったのですね。

以前書かせていただいたように、父の死を受けて、わずか11歳で将軍となった義満ですから(12月20日参照>>)、この時に同い年という事は、将軍とは言え、彼も、まだ14歳なわけで、その実権は、管領の細川家がほぼ握っていたわけですが、当然、その成長とともに頼之から離れて実力を発揮しはじめ、皆さまご存じのように、室町幕府の全盛期を築きあげて行く大将軍に、彼はなっていく・・・

と、そうなるとお察しの通り・・・

もともと、幕府にとっての天皇家は「錦の御旗」でしかない中で、ここに来て、もはや南朝は虫の息・・・おおむね北朝有利な展開に南北朝の動乱も沈静化して来れば、そのぶん、幕府の力は増大していくわけで・・・

関白を務めた事もある近衛道嗣(このえみちつぐ)などは、その日記『後深心院記』
「近日左相之礼(義満の事)、諸家の崇敬君の如し」
と書き残していて、まるで義満がこの国の王かと思えるほどの威勢だった事がうかがえます。

で、結局、あのスピード即位から11年後の弘和二年=永徳二年(1382年)4月、義満は後円融天皇に退位を迫り、拒否する天皇を尻目に、摂政の二条良基(にじょうよしもと)と結託して、後円融天皇の第1皇子である後小松天皇の即位式を強行するのです。

こうして、形としては上皇となって院政を開始する事になる後円融上皇ですが、それは、まさに形だけ・・・あらゆる事に義満が介入し、もはや朝廷には実権無し・・・

当然ですが、鬱憤が溜まりまくる後円融上皇・・・

翌・弘和三年=永徳三年(1383年)2月には、出産を終えて宮中に戻って来たばかりの正室の通陽門院厳子(つうようもんいんいつし=三条公忠の娘で後小松天皇の母)を、義満と浮気してるんじゃないか?と疑って、刀の峰(みね)で殴打しまくり、あやうく出血多量で命が無いかと思われるほどの重傷を負わせるという事件を起こします。

さらに、その10日後には、後円融上皇の愛人だった按察局(あぜちのつぼね)が、これまた義満と浮気してるんじゃないか?と疑い、彼女を出家に追い込みます。

身に覚えの無い義満が困り果て、弁明しようと使者を派遣すると、今度は
(義満が)自分を流罪にしようとしているのではないか?」
と、疑い、恐怖のあまり持仏堂に籠って切腹・・・自殺未遂を計りました

結局、自殺はできなかったものの、もはや後円融上皇に対する周囲の信頼度は失墜しまくり・・・その後は表だって抵抗する事も無くなりました。

やがて、元中九年・明徳三年(1392年)10月5日、南朝の第99代・後亀山天皇(後村上天皇の皇子)が北朝の後小松天皇に譲位する形で、ようやく南北朝が合一(10月5日参照>>)・・・

その世紀の瞬間を見届けるかのように、翌・明徳四年(1393年)4月26日後円融上皇は仙洞御所にて36歳の生涯を閉じました。

書に優れた才能を持ち、勉強が大好きで『後円融院御記』『後円融御百首』などの著作も残した後円融天皇・・・

その腕を奮いたい気持ちが強いからこそ、傀儡(かいらい=あやつり人形)としての自分自身に、我慢が出来なかったのかも知れませんね。
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コメント

南北朝時代のことは、さっぱりわからないので勉強になります。

投稿: ジラルデリ | 2013年4月27日 (土) 17時52分

ジラルデリさん、こんばんは~

南北朝はややこしいですから…(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2013年4月28日 (日) 03時35分

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