筒井順慶から羽柴秀長…大和郡山城
天正十一年(1583年)4月22日、筒井順慶の居城=大和郡山城の天守閣が完成しました。
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この大和(奈良)の地に最初に郡山城を構築したのは、郡山衆と呼ばれる地元の土豪(どごう=特定の地にに根をはる小豪族)たちで、古くは平安時代頃から集団を形成して、何かしら城的な物を建てていたと言われています。
場所的には、あの平城京の都の西南端に位置する部分で、現在の郡山市内には、平城京の羅城門跡も確認されています。
そんな群雄割拠する土豪たちに対抗して来たのが、興福寺の僧兵だった筒井順昭(じゅんしょう)・・・
天文年間(1532年~54年)に周辺の土豪たちを次々と倒して傘下に組みこみ、大和一国をほぼ掌握ます。
その順昭の息子が筒井順慶(つついじゅんけい)で、郡山衆を配下にした後に、居城である筒井城の支城として郡山城を構築しました。
しかし、父の死を受けてのわずか2歳での家督相続・・・その後、長きに渡って、大和へと進攻して来る松永久秀(ひさひで)の攻撃に悩まされ、防戦一方の順慶は、度々、その筒井城を奪われたりなんぞしてました(11月18日参照>>)。
そんな中、その久秀が織田信長に反旗をひるがえしてくれたおかげで・・・
と、実は、それ以前・・・信長が、あの足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した際、いち早くすり寄って傘下に入った久秀に対して、順慶は遅れをとってしまったために傘下に入る事を断られ、当初は、その信長配下となった久秀に苦戦していたわけですが、そんな久秀が裏切ったとなると、逆に、信長からのお誘いは、順慶の方に向いて来るわけで・・・
もともと望んでいた信長からのお誘いを快く(←個人の心の中は見えないのであくまで想像ですが…)受けた順慶は、その後、信長の配下として一向一揆の鎮圧などに参加して、天正四年(1577年)には信長から大和の守護を命じられました。
やがて久秀は、最終的に信貴山城に籠って爆死(10月3日参照>>)・・・その後は、信長の力を借りながらも、順慶は名実ともに大和の支配者となるわけですが・・・
そんな中で、信長が行ったのが例の城割です。
戦国時代には居城となる城の周囲に網の目のように張り巡らされていた支城・・・それを廃止して、一国一城と決め、その主となる城にて領主は領国を経営する・・・と、戦う城から統治する城への転換を計ったのが城割・・・(8月19日参照>>)
で、その城割のページでも書かせていただきましたが、この時、順慶が大和を治めるための城としたのが、自らの名がついた筒井城ではなく、この郡山城・・・
そこは、純粋に大和を治めるに良い点、また、防御に優れている点などを考慮しての選択だった事でしょう。
その城割から2年後に起きた、あの本能寺の変での順慶の動向は皆さまもご存じの事と思いますが(6月11日参照>>)、ここで、勝利した羽柴(後の豊臣)秀吉の配下となった順慶は、その翌年の天正十一年(1583年)4月22日、その郡山城に天守閣を完成させたのです。
しかし、そんな順慶は、これまた、その翌年の天正十二年(1584年)に若くして病死(8月11日参照>>)・・・後を継いだ養子の定次は、まもなくの天正十三年(1585年)に伊賀上野へ転封となり、さらに、関ヶ原の後に突如として改易され、戦国大名としての筒井氏は幕を閉じる事になるのですが・・・
一方、定次が転封となった後の郡山城に入ったのは、ご存じ、秀吉の弟の羽柴秀長(ひでなが)ですね(1月22日参照>>)。
豊臣政権下でNo.2の役どころである秀長が、その官位も大納言に出世し、郡山城を大きく拡張・・・現在に残る城の様子や城下町も、この秀長の時代の物と言われています。
ただ・・・
その権勢ゆえ築城に関わる人材は豊富であったものの、石の少ない大和では、築城のための石をめぐって争いが起きたとも言われ、現在残る天守閣の石垣を見ると、知らずに行った方は、一瞬、ドキッとされるかも知れません。
↑は、天守台の石垣ですが、ご覧の通り、おびただしい数の石仏が使用されているのです。
これらは、道端にあった野仏や、城下町の都市開発工事で掘り出された物を、誰とはなしに、ここに運んできた物だそうです。
ちなみに、石垣には、かの平城京の羅城門の礎石も使用されているのだとか・・・
*郡山城址への行き方は、城下町の散策を含め、本家HP:奈良歴史散歩「大和郡山・散策」>>でご紹介していますので、よろしければご覧くださいm(_ _)m
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