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2013年4月15日 (月)

将軍・家光に苦言を呈した傅役・青山忠俊

 

寛永二十年(1643年)4月15日、徳川家に仕えた譜代の家臣・青山忠俊が66歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・

後に、常陸国江戸崎藩(茨城県稲敷市江戸崎)の初代藩主となる青山忠成(ただなり)の次男として生まれた青山忠俊(あおやまただとし)・・・

以前、弟の青山幸成(よしなり・ゆきなり)のページ(2月16日参照>>)で、同じような話が残るお兄さんの話としてチョコッと紹介させていただいたのですが、本日は、そのご命日という事で忠俊さんのお話を・・・

忠俊の青山氏は、もともと三河国額田郡百々村(愛知県岡崎市)出身の国人で、祖父=忠門の時代から、三河岡崎城主松平清康(きよやす)(12月5日参照>>)、その息子の松平広忠(ひろただ)(3月6日参照>>)、そして、さらにその息子=徳川家康に仕えていた事から、忠俊も家康に仕え、その後、第2代江戸幕府将軍となった家康の3男=徳川秀忠(ひでただ)に仕えるようになります。

やがて慶長八年(1603年)には5000石を与えられ、慶長十二年(1607年)には、後に第3代将軍となる徳川家光(いえみつ)傅役(もりやく=後見人)を務めるようになるのですが、

とにかく、この方・・・気性が強く、信念を曲げないところがある・・・

もちろん、それには、その自信に伴う実力もあったわけですが、幕末の館林藩士=岡谷繁実(おかのやしげざね)がまとめた『名将言行録(めいしょうげんこうろく)によれば・・・

1度会った人物の名は、そのたった1度で覚え、2度と忘れる事は無く、次に会う時には、必ず名前を呼んで挨拶するという驚異の記憶力の持ち主だった彼に、ある人が、「どうやったらそんな事が出来るのか?」と聞いたところ、

「意地の奇麗と黒(きたな)きにて、覚らるゝと覚られざるあり」
と答えたと・・・

つまり、誰だって気を使わねばならない上司や、仕事の取引先の相手など、大切だと思う人の名前は1発で覚えるはず・・・しかし、相手が取るに足らない人間だとバカにしているから、その相手の名前を覚えられない・・・自分は、どんな下っ端の人物に対しても、大切な人物と平等に考えられるので、1回でバッチリ覚えるのだ・・・
というような事を、笑いながらあっさりと言ってのけたのだとか・・・

とは言え、それを言いかえれば、上司にだって、下の者と同じように接するという事なわけで・・・

そう、実は、傅をしてる家光に対しても、思うところがあれば、歯に衣着せぬ言いまわしで叱咤していたのだとか・・・

Tokugawaiemitu600 『徳川太平志』によれば・・・
家光に苦言を投げかける時には、まず、両刀を投げ捨て、もろ肌脱いで、家光のもとにすり寄り、
「この事を聞いてくれはれへんねやったら、僕を斬り刻んでください!」
と、迫ったのだそうで・・・

ただ、そこには上記の通り、私利私欲はなく、その苦言は、それこそ「家光のため…」なわけで、そこは家光自身も感じとっていたのか?
元和六年(1620年)には5万5000石に封じられて岩槻城主となり、家光政権下では老中まで務めました。

ところが・・・です。

いきなり、元和九年(1623年)10月19日に、家光の命によって老中を免職され、上総国大多喜藩:2万石に減転封・・・さらにその後、寛永二年(1625年)には除封され、下総国千葉県北部)網戸から相模国(神奈川県)溝郷、さらに遠江国(静岡県西部)小林を経て、最後には、相模国今泉村にて隠居の身となりました。

この理由については、徳川の公式記録には「ゆえあって…」としか書かれておらず、本当のところは藪の中なのですが、

先ほどの『名将言行録』によれば・・・

ある時・・・
家光が、ハヤリの短い羽織を着て、髪を、やはりハヤリの「白紙の引裂」で結んで外出しようとしたところ、それを見つけた忠俊が駆け寄って来て、その「白紙の引裂」取ってしまった・・・とか、

また、ある時・・・
踊りが大好きで、伊達男(オシャレ男子)に憧れる家光が、派手派手な着物に身を包み、丁寧に髷を結い、前後に鏡を置いて、その合わせ鏡に自身を映して、ウットリしながらお化粧していたところ、その鏡を取りあげて庭に投げつけてひと言・・・
「天下を治めよかという人が、そんなはしたない事して!世が乱れまっせ!」
と・・・

それこそ、『名将言行録』は後世に書かれた物なので、どこまで信憑性があるかは定かではありませんが、細かな事は別として、左遷の原因と思われる物は、やはり、忠俊の家光に対する苦言の数々であったのだろうと言われています。

しかし、最終的に、あのような結果になった後も、忠俊は、家光の事を恨む事も、悪く言う事も無く、
「今は、若気の至りで遊んではるだけやと思いますわ。
いずれは、堂々たる将軍になりはる器やと、常々思てますよって、心配はしてません」

と言っていたのだそうです。

やがて、秀忠も亡くなり、大人になって一皮むけた家光は、おそらく、大いに反省・・・処分が厳し過ぎたと感じ、忠俊に再出仕を要請しますが、

忠俊は、
「過ちを悔い改める事はええ事です。
よう、間違いに気付きはりました。
もう、僕が側におらんでも大丈夫ですやん」

と言って、その出仕要請を断ったのだとか・・・

寛永二十年(1643年)4月15日忠俊は要職には戻らないまま、この世を去りますが、その5年後の慶安元年(1648年)、父の代わりに・・・とばかりに、家光は、忠俊の息子の宗俊(むねとし)信州小諸(長野県小諸市)4万2000石を与えて大名に取りたて、その時、彼に、こう言ったと言います。

「君のお父さんが僕に仕えてくれたように、君も竹千代(後の4代将軍・家綱)に仕えたってな…頼むで」
と・・・

後に、この宗俊は、大坂城代にまで出世します。

冒頭にリンクした、以前の弟=幸成さんのページでも書かせていただきましたが、ちょうどこの頃は、2代将軍=秀忠から3代将軍=家光へ権力が移行する時期でもあり、どこまで・・・と疑い出したらキリがない話ではありますが、とりあえずはイイ話なので、ヨシとしましょう。
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コメント

いいお話ですね。
一度会った人の名前をちゃんと言えるなんてすごいです。
取り急ぎ訂正。
私も他でやらかしてると思いますけど。
「脅威」→「驚異」
それと冒頭は「嘉永二十年」→「寛永」ですよね。

投稿: りくにす | 2013年4月30日 (火) 21時57分

りくにすさん、ありがとうございます。
訂正させていただきました。

投稿: 茶々 | 2013年5月 1日 (水) 01時32分

いい話ですね、相手の名前を覚えるなんて、本当に見習わされます。なかなかできない~。でも、徳川の大阪弁は無いで~とか心大阪出身は思ったりします(茶々様のことを知っているので嫌味や悪口でないですよ)。;:゙;`(゚∀゚)`;:゙

投稿: minoru | 2013年5月11日 (土) 05時49分

minoruさん、こんにちは~

>相手の名前を覚える…

ホントです。。。
私なんか、大事な人の名前でも、なかなか覚えられ無くて…頑張らないといけませんデス(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2013年5月11日 (土) 13時40分

minoru様へ
横ですが…テレビなどを見ていて、「ここは関西弁でないとまずいだろ」と思うこともありますね。
吉永小百合が出てる『北の零年』では淡路島の武士たちが標準語しゃべるんです。あの辺はほとんど大阪弁だと思うんですが…
あの映画はわざと標準語なのかもしれませんが…

投稿: りくにす | 2013年5月11日 (土) 23時11分

りくにすさん、こんばんは~

時代劇は標準語の事が多いですね。。。
「昔の方言」というのが、なかなかに難しいのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年5月12日 (日) 02時08分

ネタバレするので言えませんが、『北の零年』は、あえて標準語にしてる感じがします。
淡路島の方々はどう思っているのでしょう。

投稿: りくにす | 2013年5月12日 (日) 13時17分

りくにすさん、こんにちは~

>あえて標準語にしてる感じ…

そうなんですか?
今度、視聴する機会がありましたら、チェックしときますね。

投稿: 茶々 | 2013年5月12日 (日) 14時17分

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