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2013年5月16日 (木)

函館戦争に散ったサムライ…中島三郎助

 

明治二年(1869年)5月16日、幕末に活躍した幕臣で、あの函館戦争で徹底抗戦の主張した中島三郎助が、49歳で戦死しました。

・・・・・・・・・・・・

現在の函館市には、中島町という地名があります。

そこは、幕末維新の動乱の中で、最後の戦いとなった函館戦争の時に『千代ヶ岡陣屋(後に津軽藩陣屋)が置かれていた場所で、最後まで徹底抗戦を訴え、この地で戦死した中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)にちなんで命名された町名なのだとか・・・

Nakazimasaburousuke600 浦賀奉行所与力であった中島清司の息子として生まれた三郎助は、嘉永二年(1849年)の20歳の時に、父の後を受け継いで、彼もまた浦賀奉行所与力として召し抱えられました。

浦賀と言えば・・・そう、嘉永六年(1853年)6月の、あのペリー来航です(6月3日参照>>)
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この時、三郎助は、(与力だと身分が低いので…)副奉行とウソついて、通訳の堀達之助(ほりたつのすけ)を伴って、たった二人で旗艦=サスケハナ号に乗り込み、使者との対応に当たったと言います。

しかも、この時、その船体の構造や搭載された大砲や蒸気機関の仕組みを入念にチェックし、アメリカ人乗組員たちは、彼を、交渉人ではなく、スパイだと思ったくらいだったとか・・・

おかげで、ペリーの帰国後に提出した『国産の軍艦建造に関する意見書』が老中の阿部正弘(あべまさひろ)に認められ、日本初の洋式軍艦として建造される事になった『鳳凰丸』製造の中心人物として活躍・・・完成後には、その副将にも任命されました。

その後、江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所の第一期生として、造船学や機関学・航海術を学んだ後、安政五年(1858年)頃からは、逆に築地軍艦操練所で教授として教える立場となって活躍する一方で、浦賀には、日本初の船舶の修理&整備場(ドライドック)を建設し、あの咸臨丸(1月13日参照>>)の修理をしたりしています。

しかし、30歳を越えたばかりの 元治元年(1864年)頃から体調を崩して病気がちになり、様々な出仕を依頼されるも、それをこなす事が出来ず・・・普通の与力に戻って、さらにその後は、その与力の職も息子に譲って、しばし、おとなしくしているしかありませんでした。

しかし、そんなこんなの慶応四年(1868年)・・・あの鳥羽伏見の戦いが勃発します(1月3日参照>>)

ご存じのように、この時、京都での敗戦を悟った15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)が速やかに大坂城を退去して江戸に戻り(1月6日参照>>)、その後は恭順姿勢を貫いた(1月23日参照>>)事により、新政府軍は、ほぼ無傷のまま東上・・・さらに、西郷隆盛(さいごうたかもり)勝海舟(かつかいしゅう)の会見によって、江戸城無血開城が決まります(3月13日参照>>)

これに反発したのが、幕府海軍副総裁だった榎本武揚(えのもとたけあき)・・・江戸城開け渡しの4ヶ月後の8月19日、幕府戦艦・開陽丸(かいようまる)ほか、艦隊をごっそり引き連れて、品川沖を脱出したのです(8月19日参照>>)

そう、三郎助は、この榎本とともに、北を目指すのです。

この榎本の艦隊は、途中、未だ交戦中の東北へ立ちよりながらも、もはや風前の灯となっている会津若松城(8月23日参照>>)を目の当たりにして東北での抗戦をあきらめ、大鳥圭介(おおとりけいすけ)や新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)箱根戦争(5月27日参照>>)で奮戦した遊撃隊人見勝太郎ひとみかつたろう)などなど、東北の緒戦で生き残ったの精鋭たちを加えて、さらに北=蝦夷(えぞ・北海道)を目指して北上・・・10月20日に、警備の厳しい函館湾を避けて、噴火湾に面した鷲ノ木から上陸を開始し、函館を奪取して独立を計ったのです(10月20日参照>>)

こうして誕生した蝦夷共和国(12月15日参照>>)政権下では、箱館奉行並&砲兵頭並となった三郎助ですが、翌年3月の宮古湾海戦(3月25日参照>>)の敗戦を皮切りに、攻撃しどきの春を待っていた新政府軍が蝦夷へと押し寄せ、ご存じの函館戦争へと突入します(4月29日参照>>)

この時、かの千代ヶ岡陣屋を任され、隊長として奮戦する三郎助でしたが、勢いを増す新政府軍は5月11日に、函館への総攻撃を開始(5月11日参照>>)・・・土方をはじめとする多数の幹部クラスの死者がでるとともに、四稜郭権現台場が陥落した事で、榎本軍の基地は、本営の五稜郭千代ヶ岡陣屋弁天岬台場の3箇所のみとなってしまいました。

そして、翌12日から、新政府軍・参謀の黒田清隆(くろだきよたか)(8月23日参照>>)による榎本への降伏勧告が開始され、蝦夷共和国の軍議でも降伏が決定されますが、未だ陥落していない千代ヶ岡陣屋を守る三郎助は、徹底抗戦を訴えて、五稜郭への撤退も降伏勧告も拒否・・・「千代ヶ岡陣屋にて討死する」事を表明するのです。

かくして明治二年(1869年)5月16日午前3時、仕掛けられた新政府軍からの攻撃に、砲兵隊50名とともに立ち向かいますが、予想通りの多勢に無勢・・・

「もはや、これまで!」
と悟って、近づいて来た敵もろとも自爆しようとしますが、雨のために爆弾に点火できず、やむなく、22歳の長男、19歳の次男とともに、刀を振り上げて敵に突入・・・壮絶な最期を遂げたのでした。

かつて榎本艦隊と合流する時、三郎助は
『北軍同盟ノ諸侯公会ヲ助テ義兵ヲ起シ 実ニ天下騒乱 戦国ノ世トナル
因テ三郎助 恒太郎 英次郎三人 主家報恩ノ為ニ出陣スル也』

と、まさに戦国武将のような決意で挑んだ事を記しています。

おそらく、その時から徹底抗戦・・・何かあれば死ぬ覚悟ができていたのでしょう。

その辞世の句と言われる物も、
♪郭公(ほととぎす) 我も血を吐く 思ひかな♪
と、まるで戦国武将のようです。

この後、5月18日に、結局、榎本が降伏を受け入れて函館戦争は終結する(5月18日参照>>)のですが、かつて、三郎助の尽力によって謹慎処分を撤回してもらった恩のある福沢諭吉(ふくざわゆきち)は、後に、「父子ともども討死した人もいるのに…」と、この時の榎本の行動を批判しています。

同じく、かつて三郎助の家に下宿させてもらってまで兵術を教えてもらった事のある木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)も、後に政府高官として千代ヶ岡陣屋を訪れた際に、かなり取りみだして号泣していたと言います。

そう、三郎助は、敵味方の区別なく、ともに日本の未来を見つめる有能な若者を支援した温情あふれる人でもあるのです。

もちろん、潔く死ぬのがかっこよく、降伏する事がかっこ悪いとは限りません。

榎本が、この18日で降伏する事により、それ以上の死者を出さずに済んだ事も確かでしょう。

歴史においては、「どちらが正解」という事を決めかねる出来事が多々あります。

ただ、函館の地にその名を残したように、一方の浦賀でも毎年『中島三郎助祭』なるお祭りが行われているように、そのサムライとしての生き様に感銘を覚える中島三郎助ファンが多い事も確か・・・

幕末において外せない魅力的な人物なのです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんばんは。

この人、逆説の日本史で少しだけ、知ってます。
偉大な人だったんですね。
逆説の日本史も風雲児たちもそこまで、話が行かないので、あまり、知らないのです。
もちろん、他の資料で改めて調べてみます。
茶々様は歴史上の人物を皆好きと言うことが分かる語り口です。
本日も楽しませていただきました。

投稿: エアバスA381 | 2013年5月16日 (木) 20時44分

エアバスA381さん、こんばんは~

記事を書いてる間は、特に、その方の味方になってしまいます(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2013年5月17日 (金) 01時13分

こんにちわ、茶々様。

この人を初めて知ったのは『壬生義士伝(浅田次郎)』でした。実在の人物なのか、架空の人物なのかwikiで調べて実在の人物だったのでビックリでした。

小説の中の彼の発言などは当然 フィクションだとは思いますが、彼の生き方、交友関係などを見てみると まさに『ラスト・サムライ』だったような気がします゚(゚´Д`゚)゚

2人の息子と共に北の地で散った侍に合掌です

投稿: DAI | 2013年5月17日 (金) 11時12分

DAIさん、こんにちは~

>小説の中の彼の発言などは当然 フィクションだとは思いますが…

小説として描き甲斐のある人物でしょうね。
ドラマにしたらカッコイイと思います。

投稿: 茶々 | 2013年5月17日 (金) 13時25分

茶々様、今回も心にぐっとくるお話をありがとうございます。

私は幕末から明治初期にかけての写真が好きで、何冊か写真集を持っています。(ベアト、スチルフリード、下岡蓮丈、上野彦馬などです)
米国の古写真収集家である、クラーク・ワーズウィック氏のコレクションの中に、なぜが非常に強く引き付つけられる「武士」の写真が一葉ありました。
本日やっと「武士」のお名前が解りました!
三郎助さんだー!!!!

写真のタイトルには「Samurai」とあるだけで(撮影者は蓮丈らしいです)「この人、一体誰なんだろう…」と長年の謎だったのです。
茶々様が謎を解明してくださいました。
ありがとうございました!

三郎助さん、オーラ放ってますよね(笑)

投稿: あいこ | 2013年5月19日 (日) 05時54分

あいこさん、こんにちは~

そうだったのですか。。。
三郎助さんも、そうですが…幕末の写真は、なにか惹きつけられる物がありますね~

投稿: 茶々 | 2013年5月19日 (日) 12時49分

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