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2013年5月 9日 (木)

加賀百万石を実現させた中興の英主…前田綱紀

 

享保九年(1724年)5月9日、加賀百万石を実現させた中興の英主=前田綱紀が82歳で死去しました。

・・・・・・・・・・・

前田綱紀(まえだつなのり)は、あの加賀藩の4代め藩主・・・

Maedatunanori120 戦国武将として有名な前田利家(としいえ)の息子=利長(としなが)が加賀藩の初代藩主で、その利長の弟=利常(としつね)が2代め、そして、その利常の息子=光高(みつたか)が3代めで、本日主役の綱紀さんは、その光高の息子という事になります。

しかし、その光高は正保二年(1645年)に31歳の若さで亡くなってしまい、綱紀はわずか3歳で前田家の家督を継ぐことになります。

当然ですが、3歳の幼児に藩政を行えるわけはないので、隠居したとは言え、未だ健在だった祖父の利常が後見人となって藩の運営に当たる事になります。

とは言え、このジッチャンの利常という方が・・・そう、以前に書かせていただいたように(10月12日参照>>)この方が見事なキレ者・・・

幼い綱紀にしっかりとした教育をほどこす一方で、戦国武将の武勇の気質も教え込むという養育方法で、彼を文武両道の見事な青年に育て上げます。

さらに、綱紀が年頃になったところで、徳川御三家にコレと言った人材いない事を見切った利常は、2代将軍=徳川秀忠(ひでただ)の実子なのに日蔭の身として育ちながらも、見事な名君に成長した会津藩主=保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の娘を、綱紀の妻に迎えさせます。

おかげで、万治元年(1658年)に、その利常が亡くなった後も、この会津の名君が若き綱紀を後見人としてサポートし、様々な藩政改革を成功に導いていく事になるのです。

新田開発農政制度の改革・・・飢饉の時には生活困窮者を助けるための公共施設を設置し、妊婦のための出産補助施設も設立しました。

この頃、世間では「一加賀、二土佐」と称され、加賀は、今で言うところの「住みたい町日本一」「幸福度No.1」の都市だったのですね。

逆に、あまりの繁栄ぶりに、下層の農民たちまでもが、都会の生活ぶりを真似て浪費に走ったために批判を受けた・・・なんて事も聞きますが、それこそ、それは、いかに綱紀の治世が順調で、加賀が繁栄していたかの証とも言えるもの・・・

また、上記の通り、しっかりとした教育を受けていた綱紀は、学問にも精通していて、京都の五山をはじめ、皇族の家々に残る貴重な蔵書を預かって整理したり、破損した物には修復を加えて、目録とともに桐箱に入れて、完璧な形にして返却したと言います。

代表的な物では、古刹=東寺に残っていた平安期から室町期までの荘園資料・・・綱紀のまとめた物は『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)と呼ばれます。
(*注:現在、国宝となっている百合文書のすべてが綱紀によるものでは無いとの見方もありますが…)

まぁ、これには、その預かってる間に、その内容をことごとく写し取ってから返却していた=「書籍盗人の疑いあり」(『土芥寇讎記』)なんていう話もありますが、そんなこんなで預かった文献の中での、「必要な物か」「必要で無いか」の判断を、綱紀自身が、しっかりと中身を読んで選定していたというのですから、その知識たるや、大したものです。

また、自身の著書も多く残していて、その種類は、木鳥獣の図鑑から、藩の制度に関する物、地元の出来事をまとめた風土記的な物や、地元名産品を網羅した工芸品ガイドブックのような物・・・と多種多様です。

他にも、学者や文化人などを招いては録を与えて長期滞在させ、更なる文化向上にも力を注ぎました。

おかげで、元禄二年(1689年)には、5代将軍=徳川綱吉(つなよし)から、御三家に準ずる待遇を与えられ、加賀藩は、100万石を誇る日本最大の藩として、その頂点に達します。

そう、ここに、いわゆる『加賀百万石』が実現したのです。

なので、その評判はすこぶる良く、加賀藩中興の英主と称される綱紀さん・・・

とは言え、そんな綱紀さんも人間ですから、おそらくは欠点もあっただろうとは思いますが、本日のとことは、ご命日故の主役獲得ページという事で、褒めて褒めて褒めまくって終わらせていただく事にします。
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コメント

今も前田家は続いているので、子孫に恵まれているんでしょうね。東大の赤門や旧前田邸も残っています。高島屋に前田家の能衣料もありました。

投稿: やぶひび | 2013年5月16日 (木) 10時50分

やぶひびさん、こんにちは~

加賀百万石は健在ですね。

投稿: 茶々 | 2013年5月16日 (木) 13時45分

茶々様、興味深い記事をありがとうございます。

色々黒い話があったとしても、やはり加賀を繁榮させたという事実はやはり名君と呼べるかもですね。
綱紀が作った用水を中心に私の生まれ故郷は開拓されました。その用水は現在も健在なので、小学校で綱紀について学んだり、用水探索に行ったりと貴重な経験をさせてくれた殿様でした(笑)

投稿: ryo | 2013年5月18日 (土) 16時34分

ryoさん、こんにちは~

やはり、地元の英雄を下敷きに歴史の探索をするのですね~

時代が違うからなのか?
大阪だからなのか?
私の場合、そういう授業は、ほとんど無かったです~

今思えば、毎日、遺跡&史跡の上で遊んでた状態でしたが…残念!!

投稿: 茶々 | 2013年5月18日 (土) 17時42分

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